2017年12月20日
京阪神旅行記(前編):『響け!ユーフォニアム』聖地巡礼・宇治陵
京阪神に諸々の聖地巡礼の旅に出たので,要点だけまとめて報告。今回は旅行中に撮った写真のほとんどは事前に自分または同行者がTwitterにあげていたので,それを転用する。
初日:宇治(・木幡)
言うまでもなく『響け!ユーフォニアム』の聖地巡礼。というわけで何はなくとも
通称“上手くなりたい橋”。ここから「上手くなりたい」と叫んでから練習すると,楽器やスポーツの上達が早まるという(嘘)。ところでこの時川辺で重機が工事をしていたのだが,何か新しく作るのだろうか。次に向かったのが平等院鳳凰堂。塗り直した後のものを見たかったのもあり,訪ねた。塗り直しにより新品同然になったことについて世論は賛否両論であったが,個人的には賛成で,別に侘びを売りにしている建物ではないのだから,当時のままの方がよいだろう。というよりも,外面だけ塗り直しても中途半端で,どうせなら内側も完全復元して雲中菩薩52体も全部再配置して,藤原頼通が見たままのものを見せてほしいと思う。平等院鳳凰堂から出たら門前の商店街は抹茶一色で,歩いているだけで抹茶の匂いが充満しているのがわかるのだからすごい。抹茶ソフトを食べながら移動して向かった次の目的地は,
橋姫神社。今回の旅行の写真で一番反応が悪かったのがこのtweetなのだが,おそらく東方ファンすら何のことだかわからなかったのだと思う。ググってもらうのも何なので東方ファン以外にもわかるように解説しておくと,ここは『東方地霊殿』の聖地の1つである。『東方地霊殿』の2面ボスの名前を水橋パルスィといい,嫉妬心を操る程度の能力を持った妖怪である。元ネタの宇治の橋姫伝説は,夫の浮気に嫉妬した女が生きながらに鬼と化し,復讐を果たしたというもの。「パルスィ」はパールシー,すなわちペルシア人の意味であるが,これを唐代の中国ではペルシアを「波斯」と書いた。さらにこれを日本語で読めば「はし」となる,つまりダジャレである。水橋パルスィの立ち絵を見ると「緑眼」になっており,彼女のテーマ曲も「緑眼のジェラシー」だが,英語でGreen-eyedは「嫉妬深い」の意味である。出典はシェイクスピアの『オセロ』だそうだ。なお,現地の橋姫神社は宇治の橋姫伝説の知名度から考えれば極めて寂れており,後述するように,それ以外の観光地を見ても,宇治の方々は平等院鳳凰堂と『源氏物語』宇治十帖という二大観光資源が大きすぎて,他の観光名所を持て余している印象を受けた。少なくとも橋姫神社くらいは,橋姫の嫉妬を受けて大変なことにならないうちに整備してあげてほしい。ついでに言うと,橋姫も一応「橋姫ちゃん」というゆるキャラ化・グッズ化されており,この子は赤眼であった。
続いて宇治から北に2駅,木幡に移動。真っ先に行ったのは京アニショップだったが,16時閉店で入れなかった。平日だから仕方がない。これをスルーしてもう3分ほど歩くと,見えてくるのは許波多神社である。藤原基経の墓があると聞いていたし,なにせ木幡駅から歩いて5分,京アニショップから歩いて3分の立地であるから,小さくはあれどそれなりに整った神社なのだろうと思っていったら,ここもこの上なく寂れていた。行った時には地元の小学生がダンスの練習をしており,神社に入ってきた我々は明らかに不審者であった。これはこれで神社のあり方としては正しいとは思うものの。おかげで藤原基経の墓を探すのにも一苦労であった。鳥居をくぐれば全景が見渡せてしまうような規模であるにもかかわらず,5分は探した。というわけで,
これが,かの日本史上初の関白に就任した藤原基経の墓である。橋姫神社以上に,知名度に比して何もない。今から『応天の門』が大ヒットして歴女の皆さんが聖地巡礼してここが整備されるという未来はあるのだろうか……。
さて,あえてここまで説明せずに書いてきたのだが,この極小規模の墳丘,正確には「宇治陵36号」と呼ぶ。そう,36号なのである。実は宇治には「藤原北家一族の墳丘墓が無数にある」ということだけわかっていて,宮内庁により一応番号付けがされて管理されているが,今ひとつどれが誰の墓なのか確定していない墓が多い。あまりにも被葬者が確定できないがために,最も大規模で被葬者も確定している1号が代表とされ,総遥拝所(ここに参拝したら全部回ったことにしてよい)となった。ただし,その1号の被葬者は嬉子や威子等の皇女等であり,摂関を継いだ人物は一人として埋まっていない。つまり,藤原基経は36号と推定がついていてしかも神社の境内で静かに眠れているだけマシ,というよりも大いに恵まれている。
これがその1号墳。確かにここはそれなりに大きかったが,それでも全く観光地化されておらず,管理所っぽいものもない。それでも他に比べると整っている。
そしてこれらが,どちらかが藤原道長の墓とされている32号・33号墳。こんなにも無常を感じる光景はそうそうない。完全に住宅地に埋もれていた。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだあの藤原道長の墓が,現在こうなっていようとは,日本人の99.9%は思っていまい。今回の旅行で最も感情が揺れ動いたのは間違いなくこの場所で,自分で予期していた以上に,自分の中の無常観に訴えかけてくるものがあった。探すのはかなりの困難を伴うが,皆も探そう32号・33号墳。なお,3枚目の画像は,往時にはこれらの墳墓を管理していた藤原北家の菩提寺,浄妙寺の跡地であったことを示す看板である。浄妙寺跡は現在小学校となっており,この小学校建設の際の発掘調査で実在が確認された。1970年頃のことだそうなので今から40年以上前のことではあるが,それまであの藤原北家の菩提寺の所在地も正確にはわかっていなかったというのも,また無常の極みである。後世の摂関家はどうしていたのかと思い調べてみると,平安末に五摂家に分裂した段階で宇治の墳丘墓は放置されるようになり,浄妙寺も鎌倉時代に衰退して15世紀後半に焼失したとのこと。
初日はこの後,完全に日がとっぷり暮れてしまった後ながら伏見稲荷を訪れ,千本鳥居を四の辻まで登山。夜の伏見稲荷は,夏場は肝試しスポットとして賑わうそうだが,この冬場では閑散としており,これはこれで趣深い。途中,やたらと人間に慣れた野良猫と,空を自由に闊歩するムササビを見かけるという僥倖も得た。さらにその後は大阪に移動し,すっかりミナミの人間になっていた友人と旧交を温めて就寝。翌日,午前中に軽く大阪観光(真田丸と心斎橋・なんば)をした後,午後から京都の洛中に移動して,再びアニメと歴史の聖地巡礼の旅に戻った。(続く)
初日:宇治(・木幡)
言うまでもなく『響け!ユーフォニアム』の聖地巡礼。というわけで何はなくとも
ユーフォニアム上手くなりたい橋。 pic.twitter.com/tMtAkc4A4O
— DG-Law/稲田義智 (@nix_in_desertis) 2017年12月15日
通称“上手くなりたい橋”。ここから「上手くなりたい」と叫んでから練習すると,楽器やスポーツの上達が早まるという(嘘)。ところでこの時川辺で重機が工事をしていたのだが,何か新しく作るのだろうか。次に向かったのが平等院鳳凰堂。塗り直した後のものを見たかったのもあり,訪ねた。塗り直しにより新品同然になったことについて世論は賛否両論であったが,個人的には賛成で,別に侘びを売りにしている建物ではないのだから,当時のままの方がよいだろう。というよりも,外面だけ塗り直しても中途半端で,どうせなら内側も完全復元して雲中菩薩52体も全部再配置して,藤原頼通が見たままのものを見せてほしいと思う。平等院鳳凰堂から出たら門前の商店街は抹茶一色で,歩いているだけで抹茶の匂いが充満しているのがわかるのだからすごい。抹茶ソフトを食べながら移動して向かった次の目的地は,
緑眼のペルシア人はいなかった。 pic.twitter.com/c77xgROqMc
— DG-Law/稲田義智 (@nix_in_desertis) 2017年12月15日
橋姫神社。今回の旅行の写真で一番反応が悪かったのがこのtweetなのだが,おそらく東方ファンすら何のことだかわからなかったのだと思う。ググってもらうのも何なので東方ファン以外にもわかるように解説しておくと,ここは『東方地霊殿』の聖地の1つである。『東方地霊殿』の2面ボスの名前を水橋パルスィといい,嫉妬心を操る程度の能力を持った妖怪である。元ネタの宇治の橋姫伝説は,夫の浮気に嫉妬した女が生きながらに鬼と化し,復讐を果たしたというもの。「パルスィ」はパールシー,すなわちペルシア人の意味であるが,これを唐代の中国ではペルシアを「波斯」と書いた。さらにこれを日本語で読めば「はし」となる,つまりダジャレである。水橋パルスィの立ち絵を見ると「緑眼」になっており,彼女のテーマ曲も「緑眼のジェラシー」だが,英語でGreen-eyedは「嫉妬深い」の意味である。出典はシェイクスピアの『オセロ』だそうだ。なお,現地の橋姫神社は宇治の橋姫伝説の知名度から考えれば極めて寂れており,後述するように,それ以外の観光地を見ても,宇治の方々は平等院鳳凰堂と『源氏物語』宇治十帖という二大観光資源が大きすぎて,他の観光名所を持て余している印象を受けた。少なくとも橋姫神社くらいは,橋姫の嫉妬を受けて大変なことにならないうちに整備してあげてほしい。ついでに言うと,橋姫も一応「橋姫ちゃん」というゆるキャラ化・グッズ化されており,この子は赤眼であった。
続いて宇治から北に2駅,木幡に移動。真っ先に行ったのは京アニショップだったが,16時閉店で入れなかった。平日だから仕方がない。これをスルーしてもう3分ほど歩くと,見えてくるのは許波多神社である。藤原基経の墓があると聞いていたし,なにせ木幡駅から歩いて5分,京アニショップから歩いて3分の立地であるから,小さくはあれどそれなりに整った神社なのだろうと思っていったら,ここもこの上なく寂れていた。行った時には地元の小学生がダンスの練習をしており,神社に入ってきた我々は明らかに不審者であった。これはこれで神社のあり方としては正しいとは思うものの。おかげで藤原基経の墓を探すのにも一苦労であった。鳥居をくぐれば全景が見渡せてしまうような規模であるにもかかわらず,5分は探した。というわけで,
藤原基経の墓(推定)です。知名度に比してしょぼさがやばい。 pic.twitter.com/x35M3KMQha
— DG-Law/稲田義智 (@nix_in_desertis) 2017年12月15日
これが,かの日本史上初の関白に就任した藤原基経の墓である。橋姫神社以上に,知名度に比して何もない。今から『応天の門』が大ヒットして歴女の皆さんが聖地巡礼してここが整備されるという未来はあるのだろうか……。
さて,あえてここまで説明せずに書いてきたのだが,この極小規模の墳丘,正確には「宇治陵36号」と呼ぶ。そう,36号なのである。実は宇治には「藤原北家一族の墳丘墓が無数にある」ということだけわかっていて,宮内庁により一応番号付けがされて管理されているが,今ひとつどれが誰の墓なのか確定していない墓が多い。あまりにも被葬者が確定できないがために,最も大規模で被葬者も確定している1号が代表とされ,総遥拝所(ここに参拝したら全部回ったことにしてよい)となった。ただし,その1号の被葬者は嬉子や威子等の皇女等であり,摂関を継いだ人物は一人として埋まっていない。つまり,藤原基経は36号と推定がついていてしかも神社の境内で静かに眠れているだけマシ,というよりも大いに恵まれている。
これがその1号墳。確かにここはそれなりに大きかったが,それでも全く観光地化されておらず,管理所っぽいものもない。それでも他に比べると整っている。
藤原道長の墓(推定)候補2つと、菩提寺跡。菩提寺は現在小学校であった。 pic.twitter.com/6GJMvnlPum
— DG-Law/稲田義智 (@nix_in_desertis) 2017年12月15日
そしてこれらが,どちらかが藤原道長の墓とされている32号・33号墳。こんなにも無常を感じる光景はそうそうない。完全に住宅地に埋もれていた。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだあの藤原道長の墓が,現在こうなっていようとは,日本人の99.9%は思っていまい。今回の旅行で最も感情が揺れ動いたのは間違いなくこの場所で,自分で予期していた以上に,自分の中の無常観に訴えかけてくるものがあった。探すのはかなりの困難を伴うが,皆も探そう32号・33号墳。なお,3枚目の画像は,往時にはこれらの墳墓を管理していた藤原北家の菩提寺,浄妙寺の跡地であったことを示す看板である。浄妙寺跡は現在小学校となっており,この小学校建設の際の発掘調査で実在が確認された。1970年頃のことだそうなので今から40年以上前のことではあるが,それまであの藤原北家の菩提寺の所在地も正確にはわかっていなかったというのも,また無常の極みである。後世の摂関家はどうしていたのかと思い調べてみると,平安末に五摂家に分裂した段階で宇治の墳丘墓は放置されるようになり,浄妙寺も鎌倉時代に衰退して15世紀後半に焼失したとのこと。
初日はこの後,完全に日がとっぷり暮れてしまった後ながら伏見稲荷を訪れ,千本鳥居を四の辻まで登山。夜の伏見稲荷は,夏場は肝試しスポットとして賑わうそうだが,この冬場では閑散としており,これはこれで趣深い。途中,やたらと人間に慣れた野良猫と,空を自由に闊歩するムササビを見かけるという僥倖も得た。さらにその後は大阪に移動し,すっかりミナミの人間になっていた友人と旧交を温めて就寝。翌日,午前中に軽く大阪観光(真田丸と心斎橋・なんば)をした後,午後から京都の洛中に移動して,再びアニメと歴史の聖地巡礼の旅に戻った。(続く)
Posted by dg_law at 01:13│Comments(0)