2018年06月10日
日馬富士引退に寄せて
基本的に大関・横綱が引退した際には普段の場所評とは別に記事を立てて感想・論評を書いているが,日馬富士は引退が曖昧であったのでタイミングを逃してしまっていた。かなり時間が経ってしまったが,いよいよ踏ん切りをつけようと思う。実はその他,関取の引退もその場所の評の末尾につけているのだが,これも翔天狼・阿夢露・北太樹と書かないままさぼっているので,彼は名古屋場所の時に書ける範囲で書いておきたい。
日馬富士,本名ビャンバドルジは安馬の四股名でデビューした。2001年に16歳で初土俵,以後は2004年に新入幕であるから出世は早かったが,そこから三役までの道のりがやや長かった。当時の印象は軽量の割に攻撃力があるが,軽量の弱点そのままに脆く,立ち合いが汚く変化も多いというくらいであった。後に横綱・大関となる力士の場合,三役までは早々に到達するが,上位定着から3場所33勝までが長いということの方が多いので(近年だと稀勢の里も豪栄道も琴奨菊も鶴竜もこのパターンである),逆に入幕から三役定着までの方が長かった安馬は珍しい部類に入る。2007年頃にやっと三役に定着し,そこからは約2年間,7勝から10勝の間を行き来して,大関になれそうでなれない状態が続くが,2008年11月にとうとう大関に昇進し,日馬富士に改名した。安馬の昇進により2横綱5大関となるため協会はかなりしぶっていたが,3場所35勝で後ろ2回は優勝次点とあっては上げざるを得ない成績である。この頃の日馬富士はとにかく上昇志向が強くストイックで,練習量が異常に多く,とにかく最強の力士になるため闘志を燃やしていた。闘志が余り余っていたために前述のような汚い立ち合いや変化に加えてダメ押しもあり,素行は早くから不安視されていた。
大関時代の日馬富士は,昇進直後に右膝を負傷したこともあってぱっとしない成績が続いた。大関3場所目の2009年5月場所で優勝したがその後は長く低迷し,彼もそういうパターンかと思われたところ,2011年頃になって成績が安定し,優勝戦線に絡むようになる。そして2012年の7月・9月で怒涛の30連勝,無傷の連続優勝で横綱に昇進した。日馬富士の力士人生を語る上で外せないのが,彼の品格の豹変である。大関時代までの日馬富士は随分と品格の問題が懸念されていたが,横綱に昇進してからの日馬富士は人が変わったかのように落ち着いていった。彼の原動力は強い上昇志向であったところ,横綱になって頂点を極めたからか,はたまた単純に地位が人を作ったか,加齢によるものか。そのいずれもあったのだろう。2015年頃になると,白鵬の素行が問題視されていったため,かえって日馬富士の品格が褒められるまでに至った。
取り口はスタミナと守備力を捨ててスピード・テクニック・瞬間の攻撃力の3つに全振りしたかのようなステータスで,とにかく立ち合いから猛烈に攻め立てて勝負を決めてしまう。特に大関時代後半から横綱時代の半ばにかけてよく見られた「突き刺さるような鋭い立ち合い」と称される,低く入って片手で深く差すか両手で前まわしをとる立ち合いは大相撲史上でも例を見ないほどの破壊力を持ち,勢いのままに相手の腰が砕けるか,二の矢で飛んでくる寄りや投げが綺麗に決まるかで,優勝したような場所ではほとんどこの立ち合いだけで勝負が決まっていた。
一方で,立ち合いで失敗するとどうしようもなく,守勢に回っても弱く,長い相撲にも弱いし,大型力士とパワー勝負になっても苦しかった。この辺りは守勢に回っても抜群の相撲勘で逆転し,スタミナ勝負やパワー勝負はむしろ得意な朝青龍や白鵬とは大きく異なる。また,自らのスピードが早すぎて思考が追いつかずに自滅するという特異な負けパターンもあった。この立ち合いの失敗とスピード自滅が原因となって格下相手に取りこぼすことが頻発し,横綱・大関には全勝しているのに終わってみると11勝で優勝ならず,というような事態が多々発生した。二日目・三日目に負けることが非常に多く,「三日目のジンクス」はNHKの放送でもしばしば取り上げられるほどであった。金星配給数も在位31場所で40個と異様に多い。これをもって日馬富士を「横綱としては弱い部類」と見なす評価もあるが,横綱在位時勝率.727,通算優勝9回の横綱にそれはないだろう。いずれも横綱としては平均的なレベルの数値で,同時代に朝青龍と白鵬がいることを踏まえると,むしろ金星が多いことくらいしか弱い横綱とする論拠がない。
しかし,軽量で異様な攻撃力を誇るその取り口は次第に身体へ深刻なダメージを蓄積させるようになり,まず右膝,次に右肘,左肘,左足首と負傷箇所が増えていった。2014年9月には5日目に右眼窩底を骨折し,失明・引退の危機にもなった。2015年頃になると突き刺さるような立ち合いは鳴りを潜め,むしろそれをテクニックでカバーする取組が増えていった。特に左右の出し投げは強烈で,立ち合いの威力減少を十分に補った。元々テクニックがあった力士であるから出来た取り口の変化であり,前述の品格の変化もあって,この頃には玄人好みの力士になっていた。大関昇進前には考えられない話である。結果的に普段は10〜11勝して横綱としての責務をそれなりに果たしつつ,10場所に1回くらいに思い出したかのように優勝するというのが横綱後期であった。
このままもう3年ほど実働して,優勝回数が12回くらいになったタイミングで円満に引退かなと思っていたところ,丸くなったと言われていた素行のうち,酒乱だけはどうしても治らなかったようで,酔った勢いで同じ関取の貴ノ岩に暴行を働いた。これが2017年九州場所中に発覚して引退となった。最後の金星配給は2日目,奇しくも同じ貴乃花部屋の貴景勝であった。その場所評に書いた通り,「朝青龍が一般人を殴り,半強制的に引退となった事例を引けば,やはり最低限でも自主的な引退は避けられない。相手が一般人か力士かは罪の軽重に無関係であろう」というのが自分の判断で,概ねそのように事態は推移していった。日本への帰化申請をしていたが間に合わず,引退は日本相撲協会からの退職を意味することになってしまった。しかし,伊勢ヶ濱部屋の親方ではなく「コーチ」という立場に就任し,後進の指導をすることになった。また,横綱在位中から法政大学大学院に通っており,史上初の大学院生横綱であったから,今後は学究の道に進むのかもしれない。土俵外では趣味の油彩画で知られ,腕前はかなり上手く,個展を開いたこともある。お疲れ様でした。コーチとしての活躍に期待します。
日馬富士,本名ビャンバドルジは安馬の四股名でデビューした。2001年に16歳で初土俵,以後は2004年に新入幕であるから出世は早かったが,そこから三役までの道のりがやや長かった。当時の印象は軽量の割に攻撃力があるが,軽量の弱点そのままに脆く,立ち合いが汚く変化も多いというくらいであった。後に横綱・大関となる力士の場合,三役までは早々に到達するが,上位定着から3場所33勝までが長いということの方が多いので(近年だと稀勢の里も豪栄道も琴奨菊も鶴竜もこのパターンである),逆に入幕から三役定着までの方が長かった安馬は珍しい部類に入る。2007年頃にやっと三役に定着し,そこからは約2年間,7勝から10勝の間を行き来して,大関になれそうでなれない状態が続くが,2008年11月にとうとう大関に昇進し,日馬富士に改名した。安馬の昇進により2横綱5大関となるため協会はかなりしぶっていたが,3場所35勝で後ろ2回は優勝次点とあっては上げざるを得ない成績である。この頃の日馬富士はとにかく上昇志向が強くストイックで,練習量が異常に多く,とにかく最強の力士になるため闘志を燃やしていた。闘志が余り余っていたために前述のような汚い立ち合いや変化に加えてダメ押しもあり,素行は早くから不安視されていた。
大関時代の日馬富士は,昇進直後に右膝を負傷したこともあってぱっとしない成績が続いた。大関3場所目の2009年5月場所で優勝したがその後は長く低迷し,彼もそういうパターンかと思われたところ,2011年頃になって成績が安定し,優勝戦線に絡むようになる。そして2012年の7月・9月で怒涛の30連勝,無傷の連続優勝で横綱に昇進した。日馬富士の力士人生を語る上で外せないのが,彼の品格の豹変である。大関時代までの日馬富士は随分と品格の問題が懸念されていたが,横綱に昇進してからの日馬富士は人が変わったかのように落ち着いていった。彼の原動力は強い上昇志向であったところ,横綱になって頂点を極めたからか,はたまた単純に地位が人を作ったか,加齢によるものか。そのいずれもあったのだろう。2015年頃になると,白鵬の素行が問題視されていったため,かえって日馬富士の品格が褒められるまでに至った。
取り口はスタミナと守備力を捨ててスピード・テクニック・瞬間の攻撃力の3つに全振りしたかのようなステータスで,とにかく立ち合いから猛烈に攻め立てて勝負を決めてしまう。特に大関時代後半から横綱時代の半ばにかけてよく見られた「突き刺さるような鋭い立ち合い」と称される,低く入って片手で深く差すか両手で前まわしをとる立ち合いは大相撲史上でも例を見ないほどの破壊力を持ち,勢いのままに相手の腰が砕けるか,二の矢で飛んでくる寄りや投げが綺麗に決まるかで,優勝したような場所ではほとんどこの立ち合いだけで勝負が決まっていた。
一方で,立ち合いで失敗するとどうしようもなく,守勢に回っても弱く,長い相撲にも弱いし,大型力士とパワー勝負になっても苦しかった。この辺りは守勢に回っても抜群の相撲勘で逆転し,スタミナ勝負やパワー勝負はむしろ得意な朝青龍や白鵬とは大きく異なる。また,自らのスピードが早すぎて思考が追いつかずに自滅するという特異な負けパターンもあった。この立ち合いの失敗とスピード自滅が原因となって格下相手に取りこぼすことが頻発し,横綱・大関には全勝しているのに終わってみると11勝で優勝ならず,というような事態が多々発生した。二日目・三日目に負けることが非常に多く,「三日目のジンクス」はNHKの放送でもしばしば取り上げられるほどであった。金星配給数も在位31場所で40個と異様に多い。これをもって日馬富士を「横綱としては弱い部類」と見なす評価もあるが,横綱在位時勝率.727,通算優勝9回の横綱にそれはないだろう。いずれも横綱としては平均的なレベルの数値で,同時代に朝青龍と白鵬がいることを踏まえると,むしろ金星が多いことくらいしか弱い横綱とする論拠がない。
しかし,軽量で異様な攻撃力を誇るその取り口は次第に身体へ深刻なダメージを蓄積させるようになり,まず右膝,次に右肘,左肘,左足首と負傷箇所が増えていった。2014年9月には5日目に右眼窩底を骨折し,失明・引退の危機にもなった。2015年頃になると突き刺さるような立ち合いは鳴りを潜め,むしろそれをテクニックでカバーする取組が増えていった。特に左右の出し投げは強烈で,立ち合いの威力減少を十分に補った。元々テクニックがあった力士であるから出来た取り口の変化であり,前述の品格の変化もあって,この頃には玄人好みの力士になっていた。大関昇進前には考えられない話である。結果的に普段は10〜11勝して横綱としての責務をそれなりに果たしつつ,10場所に1回くらいに思い出したかのように優勝するというのが横綱後期であった。
このままもう3年ほど実働して,優勝回数が12回くらいになったタイミングで円満に引退かなと思っていたところ,丸くなったと言われていた素行のうち,酒乱だけはどうしても治らなかったようで,酔った勢いで同じ関取の貴ノ岩に暴行を働いた。これが2017年九州場所中に発覚して引退となった。最後の金星配給は2日目,奇しくも同じ貴乃花部屋の貴景勝であった。その場所評に書いた通り,「朝青龍が一般人を殴り,半強制的に引退となった事例を引けば,やはり最低限でも自主的な引退は避けられない。相手が一般人か力士かは罪の軽重に無関係であろう」というのが自分の判断で,概ねそのように事態は推移していった。日本への帰化申請をしていたが間に合わず,引退は日本相撲協会からの退職を意味することになってしまった。しかし,伊勢ヶ濱部屋の親方ではなく「コーチ」という立場に就任し,後進の指導をすることになった。また,横綱在位中から法政大学大学院に通っており,史上初の大学院生横綱であったから,今後は学究の道に進むのかもしれない。土俵外では趣味の油彩画で知られ,腕前はかなり上手く,個展を開いたこともある。お疲れ様でした。コーチとしての活躍に期待します。
Posted by dg_law at 01:25│Comments(0)