2018年11月11日

デュシャンの大回顧展と,それ以外の何か

東博のデュシャン展に行ってきた。デュシャンと言えば20世紀前半に登場した芸術家で,やりたい放題やった人という印象であるが,その大規模な回顧展である。主要な作品は概ね出展されており,実際に彼の画業が一通り追える展示構成になっていて,作品制作よりはチェスに打ち込んでプロプレイヤーになっていた時期(ローズ・セラヴィという別人格を作っていた時期)も含まれている。

1887年生まれのデュシャンであるが,最初はとりあえず伝統絵画の勉強から初めてキュビスムに一旦はまっている。展示されていたキュビスムの作品は名前を伏せられたらまず間違いなくブラックの作品と勘違いするような見事なもので,若かりし頃の彼の勉強の様子がうかがえた。10年ほど年下のマグリットや,さらに10年ほど年下のポロックも全く同じコースをたどっていて,若い頃の作品を見るとそれぞれフォーヴィスムやキュビスムの作品がある。そこから独自の芸術を切り開いていくのは19世紀末〜20世紀初頭に生まれた芸術家に共通する経験であるらしい。

もっとも,デュシャンはその見切りが他の人々に比べて異様なまでに早く,25歳頃には早くもまともな絵画制作から離脱していった。なにせレディメイドのスタート,《自転車の車輪》は1913年のことで,《泉》は1917年の出来事である(どちらも今回の出展にある)。代表作の陳列と言えば,少し日本人として,あるいは東大OBとして誇らしかったのは,多くの作品が海外から持ってこられている中で,《大ガラス》は駒場キャンパスからの出品となっていた。東大・駒場キャンパスにデュシャンの代表作の複製(原版含めて世界に4体のみで残り3体は全て欧米)があるというのはもっと知られていい……と方々で書いていたような気がしたが,今ブログ内検索をしてもTwilogを見ても意外と書いてなかったので,改めて言及しておく。

デュシャンの代表作の展示と言えば,今回一番嬉しかったのは《L.H.O.O.Q》を見れたことである。《大ガラス》は当然のこととして,《泉》も《自転車の車輪》も別の展覧会で見たことがあったが,《L.H.O.O.Q》は見たことがなかった。写真撮影OKだったので,あまりの喜びにその旨をTweetしてしまった。


が,TLの反響が薄かったのが少々寂しい。《L.H.O.O.Q》は意味を知っていると&《髭をそったL.H.O.O.Q》というオチまで知っていると最高に笑える作品なので是非広まってほしい。『レゴシティアンダーカバー』でもネタになっている。


最後のセクションは晩年・遺作のもので,デュシャンは代表作が1910〜20年代に固まっているが,制作意欲が衰えたわけでも傑作を生み出さなかったわけでもなく,終生制作活動を続けており,亡くなったのが1968年だから意外と長生きである。晩年や遺作の作品を見ても三つ子の魂百までというか,楽しそうにいろいろと物を作っていた様子がうかがえる。最後まで素晴らしい展覧会であった。


……ということで意図的に無視していたのだが,本展は実は第一部と第二部に分かれていて,第一部が上述のデュシャンの大回顧展,第二部が「日本美術の中に見えるデュシャンの要素」という展示になっている。が,この第二部の評判が非常に悪い。私自身ひどいと感じたし,鑑賞客も第一部に比べるとガラガラで,皆思ったことは同じなのだろうなと。並んでいるものは一級品なのにキャプションが意味不明で首をひねるという体験はなかなかできるものではなく,その意味では稀有である。たとえば「千利休の茶器はレディメイド」と言われても理解不能であるし,「日本には昔から異時同図法があるからすごい」とか言われても,いや中世ヨーロッパにだって異時同図法あったやろってツッコミを入れたくなるし,模倣とコピーの混同も意味不明であった。これ本当に東博の中の人が作った展示なんだろうか。無理やり日本すごい要素を入れて世の流れに迎合しようとしたのだとするなら非常に薄ら寒いし,評判を見れば結果的に迎合にも失敗している。この点,完全に無視しても良かったのだが,一応記事の末尾に書き添えておく。