2018年12月25日

不安・死・性愛の画家

ムンク《叫び》1910年都美のムンク展に行ってきた。前にムンク展があったのは2007年のことであるから,約11年ぶりの東京でのムンク展ということになる。もっとも,図録には「回顧展というべき規模のムンク展は,日本では20年ぶり」というようなことが書いてあったので,11年前のものはカウントされていないらしい。確かに《叫び》が来ておらず,画業の全てを俯瞰するというよりも《生命のフリーズ》の装飾性についての展示になっており,正直よくわからなかったのが当時の感想である。まあ,よくわからなかったのはキュレーション半分,当時はまだあまり詳しくなかった自分の知識の足りなさ半分というところだろう。

そこへ行くと今回の展覧会は完璧で,約100点ながら,ムンクの画業をちゃんと追うことができる構成になっていた。代表作も《叫び》は当然のこととして,《不安》《マドンナ》《吸血鬼》と勢揃い。来ていなかったのは《思春期》くらいではないか。ムンクの場合,ムンク自信が自分の代表作を手放す際に最低でももう1作描いて手元に残しており,しかもそれを遺言でオスロ市に遺贈した関係で,ほぼ全ての代表作をオスロ市立のムンク美術館が所蔵している。それも複数。東京で大規模な展覧会があると,こんなに大量に借りてきてしまってと現地の人や観光客を慮って多少心が痛むのだが,今回に限ってはそういう心配は無い。ちなみに,《叫び》からして4作あり,今回持ってこられた1910年作のものが最後にしてよく見慣れた作品である。

ムンクは名家の生まれであるが,父親が軍属の外科医でその収入が意外にも少なく,幼少期はやや貧しかったらしい。その幼少期に母親と姉が結核で亡くなり,本人も病弱だったために死が身近に感じられる環境で育つ。そして人生で何度か恋に落ちているが一度も実っていない。そういうわけで画題は「性愛」と「死」と「不安」にまつわるものが多く……必然的に中二病の塊のような絵画作品になる。逆説的に,彼の絵からは精神的な童貞臭さがものすごく感じられ,私には共感しかなかった。たとえば《マドンナ》は妖艶な女性と新たな生命を宿す母親が同一であるという,男性には根源的に克服しがたい乖離を感じさせる絵になっている。《吸血鬼》もテーマとしては同一で,赤髪の女性が男性に食らいついて血を吸っているが,血を吸われている男性はどこか吸血鬼に身を委ねて死を受け入れているように見える。端的に言って気持ちが悪いと言われる系統のエロがある。端的に言って気持ちが悪いのに,漠然としたそのまますぎて端的に言わせない強さがある。そこが芸術性なのだろう。

《叫び》は「性愛」が絡まない分,気持ち悪さはない。だからこそムンクの良さが出ているとも言える。近代社会に漂う,ただならぬ,言葉にできない不安感を漠然とさせたそのままの状態で画中に封じ込めている。陰鬱な気分で厚い雲に覆われた空の下,都会の雑踏に孤独を感じながら歩いていると,夕暮れの強烈な西日が雲を焼き,世に対する不安感が増していく。こうした「言葉にしづらい」感覚をわかりやすく,漠然としたそのままの状態で一枚の絵に閉じ込めきってしまう点でムンクは最強に上手い。ムンクの作品は女性が出てきてとりあえず何か気持ち悪いことが多いが,《叫び》はそういう要素がなく,考えてみると珍しい。だからこそ代表作オブ代表作のような扱いになっているのかもしれない。《思春期》はまだしも,《吸血鬼》や《マドンナ》を載せて事細かに解説するのは気が引ける(やっている教科書があるかもしれないしそれを批判するつもりは全く無いが)。もっとも,私自身も《叫び》の主題が理解できたのはかなり長じてからであった。総じて中二病を消化した作品であるから,ムンクは子供には理解しがたいのかもしれない。そう考えると(今回来ていないけど)《思春期》はまさに思春期の少女の「不安」がテーマになっていて,例によってムンクらしいわかりやすさがあるのは面白い。

他の画家と比較するに,まず思いつくのはゴッホである。影響関係は明白だが,ゴッホは精神が病んでいて,それに自覚的でないままに狂った様子をキャンバスにたたきつけていった。なので作品は強烈なパワーを持つことになったが,生前には理解されなかったし,自らがその負荷に耐えられずに死んでしまった。そこへ行くとムンクは自分のこじれ方に自覚的で,しかもそれを世が受け入れてくれるラインまで加工して作品にする技術があったと言える。事実,ムンクは生前からかなり人気があった。また,ムンクは具象画にこだわりがあって,しかもわかりやすさを一作のタブローに詰め込んでしまう傾向があった。この点では同時代のシュルレアリスムや抽象表現主義とは完全に一線を画している。確かに,同じ中二病でもダリとは魅力の方向性が違う。

ムンクは作品が一作で完結しているのにもかかわらず,個展をしばしば開催して自らの作品を並べて鑑賞させることを好んだそうだ。また,ムンクは自らの作品が好きすぎて「我が子」と呼び,前述のように手放す際は手元に残すために同じものをもう一度描いているし,作品解説は多弁だったそうだ。それもこれも,この溢れ出る「言葉にしづらい」感覚を共感してもらいたい気持ちが強すぎたのだろうと思うと非常にしっくり来るし,感覚をうまく入れられた作品に自己愛に似た強すぎる思い入れが生じてしまうのも理解できる。わかりみが深すぎてムンクは友達だったような感覚がしてきたが,多分気のせいであろう。