2019年01月30日

稀勢の里引退に寄せて

多くの好角家がそうだと思うが,稀勢の里については言いたいことがありすぎて全くまとまらない。一言で言えば,これほど好角家の気持ちを振り回し続けた力士は稀有,あるいは空前絶後ということである。かく言う私もその一人で,この記事を書くためにブログ内検索をかけたところ,「稀勢の里」というワードを使った回数は約300回にも上っていた。

まず,彼の力士人生を振り返ることにする。稀勢の里は出世が早い力士と言われるが,中卒の叩き上げとしては,という前提条件がつく。そのため,若くして出世したという方が正確になる。2004年,17歳9ヶ月での十両昇進は貴乃花(当時は貴花田)に次ぐ史上2位の記録。その後も前頭上位定着までは早かったのだが,その後が非常に長かった。上位には勝つのに下位に取りこぼす,肝心の大事なところで落とす,空気を読まないところではなぜかめっぽう強いとは散々に言われており,本人はガラスのハートなのに,ファンの精神は鍛えられていくとは早いうちから言われていた。なぜこれほど人をどきどきさせるのかと言えば,勝つ時の勝ち方が圧倒的に強く,大器の片鱗どころか大器しか見えなかったからである。2010年九州場所には白鵬の63連勝を止めて喝采を浴びた。

そうして我々はこの大器が開花するのはいつかいつかと辛抱強く待ち続け,待ち続け,待ち続け,とにかく待ち続けた。ハラハラドキドキに耐える精神とともに,忍耐力まで鍛えられていった我々は,2011年にやっと大関に昇進したことで報われた。入幕から7年,少なくとも2007年頃には大関候補と呼ばれていたから,そこから数えても4年である。しかし,大関に昇進してからもガラスのハートは治っておらず,相変わらず我々の精神を翻弄させてはいたが,安定して10勝はしたのでカド番の心配はしなくてもよかった。この安定はしているが大事なところで負ける性質は,2016年に上げた優勝ゼロのまま年間最多勝(69勝)という珍記録にもよく現れている。また,メンタルで言えば2016年に改善の兆しが見られ,同時に土俵下で不気味にニヤつく稀勢の里の姿がよく現れるようになり(稀勢の里アルカイックスマイルと呼ばれた),あれは彼なりの精神統一法だったらしいことが後からわかった。

そしてこの安定性が評価され,2017年初場所に初優勝を果たすと,実質的に連続優勝した実力があると見なされて横綱に昇進した。大関在位31場所,新入幕から所要73場所はどちらも史上2位のスロー昇進である。この昇進については,大関昇進も基準に満たない32勝であったことから甘すぎる「稀勢の里基準」と揶揄されたが,稀勢の里の実力に鑑みると特例ではあれ甘すぎるということもない。しかし,「待望の日本人横綱のために基準が緩められ続けた」というストーリーが欲しい人々にとっての良いサンドバックになってしまったのは,稀勢の里にとって不幸であった。

その甘い基準という印象を払拭するかのごとく,2017年の春場所は鬼神のような強さで優勝戦線の先頭を走っていたが,13日目の日馬富士戦で生命線の左腕の筋肉が断裂,14日目は全く勝負にならず,休場した方が良いのではと言われる中,千秋楽は出場,左腕を全く使わないクレバーな戦法で見事に優勝した。当時の私の興奮は当時の記事を読めば伝わると思う。稀勢の里はとうとう,精神の脆さも,不器用な相撲も克服したのだとファンは歓喜した。しかし,結果的にこれが最後の喜びとなってしまう。その後の稀勢の里はこの時のケガが克服できず,出場と休場を繰り返す中で次第に相撲勘を失っていき,2019年初場所になって引退となった。

改めて主張しておきたいのだが,稀勢の里のミスはケガ直後に優勝にこだわって出場したことではなく,翌場所全休せずに出場したことである。あの優勝自体はケガが極端に悪化する取組をしたわけではなく,取組は1番だけであり,価値あるものだった。しかし,翌場所は違う。15日間,左腕を使って戦い続ける必要があることがわかっていて出場したことで,取り返しのつかないケガの悪化を呼び起こしてしまった。初・春と連続優勝して口さがない外野も黙ったことだし,横綱の特権を生かして完全回復まで休めばよかったのである。これについて当時の横審が休ませてくれなかったのではないかと主張する向きがあるが,当時の横審もファンも休場を許容していた。裏で協会や横審に「出てくれ」と言われていた可能性もあることは否定しないが,少なくとも表向きは周囲のほとんどが休場を容認していたことはここで証言しておきたい。本人の性格を考えても,自己責任で出場を決めたのは稀勢の里本人と思われる。しかしこれも,「ケガを押して出場させる悪しき旧弊が残っている相撲界」というイメージに凝り固まった人々に悪用されることになってしまった。これに前述の「弱いのに無理やり横綱に上げられた」論が混ざって非常に醜悪なものを見ることになったのは,稀勢の里ファンにとって本当に不幸であった。あまり言いたくなかったが,ここでくらい言わせてほしい。


取り口は左四つ,最大の武器は左おっつけで,少なくとも平成の30年間では最強の左おっつけだった。左おっつけだけで天下を取ったと言っても過言ではなく,むしろ左おっつけだけで一時代を築いたと言えなかったのが惜しい。膂力があって角度もよく,当てられた側はまわしが切れるどころか土俵の外までぶっ飛んでいったという必殺の一撃であった。問題は中距離なら左おっつけ,近距離なら左四つ以外の取り口が全く無いという不器用さで,強引にでも左四つに持っていく力強さもまた武器ではあったが,多様な取り口がないというのはどうしたって弱点であった。この不器用さはガラスのハートに次ぐ弱点としてこれは終始つきまとうことになった。また,腰が重く,引きつけ合いの力比べになっても強かった。一方で腰高で脇が甘く,しかも前述のメンタルのせいでここぞという一番で脇ががら空きになる悪癖があったので,相手に良い形で組まれるといかに重い腰でも抵抗のしようがなかった。これが好取組であっさり負ける要因であった。「メンタルが鍛えられないなら,せめて腰高を直せ」とは特に大関時代に常々言われていたが,結局腰高が一向に治らず,意外にもメンタルの方が改善されて横綱に昇進するという形になった。

合口について。白鵬戦は16勝44敗で負け越しているものの,白鵬と10戦以上している力士で稀勢の里より分が良いのは朝青龍・日馬富士・琴光喜・照ノ富士くらいしかおらず(あとは白鵬が若い頃にしか当たっていない若の里),比較的白鵬戦を苦にしていなかった。苦手な力士としては日馬富士・把瑠都・琴奨菊・碧山がおり,要するに自分よりパワーがある相手には弱い。意外にも器用で動き回る相手には分が悪くなく,というよりもそもそも苦手力士が少ない。稀勢の里の場合,相手に負けるというよりも自分に負けるということが多かったので,合口は問題ではなかった。


書けば書くだけ何か出てくる人ではあるので,まだ書き足りない気はするが,キーボードに向かうと不思議と何も書けない。心のうちにあるものが言葉になって出てこず,手元で止まっているのかもしれないが,ここいらにしておこう。これからの好角家に訪れるのは,ハラハラドキドキしなくてもいい平穏な日々であるとともに,稀勢の里のいない土俵である。それがどんなに寂しいものであることか。稀勢の里関,お疲れ様でした。