2019年07月27日
『天気の子』感想・批評
ネタバレで思いついたままにだらだらと。
〈セカイ系としての『天気の子』〉
自分としては本作がセカイ系であるかどうかとか,セカイ系の定義にはあまり興味がない。むしろ本作の場合,人類が滅びるような障害を乗り越えられる程度の障害に縮小したところを評価したい。人類を滅ぼさんでもセカイ系はできるし,やってよいのだという意味合いでなら本作をセカイ系の文脈で語るのは面白いと思う。もう,ヒロインとセカイのどちらかしか選べないという結末しかないのに我慢する必要はないのである。東京は部分的に水没したし,陽菜は晴れ女の能力を失った。それでも都民はたくましく生きている。
そもそも須賀の言う通り,陽菜が帰ってきたから雨が降り続いているなんて因果関係がはっきり証明されているわけではない。2人は降り続く雨を気に病まなくていい。まさに「大丈夫」なのだ。実は選択でさえないかもしれないという読み方を残している。読み方の選択の余地があり,選択を迫られているのはむしろ鑑賞者の我々かもしれない。
〈エロゲっぽいと言われてしまうのはなぜか〉
別名「ある種のオタクが集団幻覚を見ているのは一体何なのか」。概ね例の怪文書(褒め言葉)で語られている通りではあるのだけど,あえてちゃんと言葉で語ると,
・両親の不在:エロゲの主人公は往々にして両親が何らかの事情で不在
・疑似家族の構図:これはエロゲが好きというよりは日本人が好きな構図という気も
・奇跡には代償が伴う:00年頃のエロゲによくあったやつ
・分岐できそうなポイントが多い:選択肢の幻覚が見えるやつ。しかも本作は陽菜ルートなので,主人公が全部それに入れる選択肢を選んでいるようにさえ見える(他ルートに入るための選択肢の幻覚が見えてる)
・何気ない日常シーンと個別ルートに入った後の切り替わりが明瞭。しかも本作は名作エロゲの条件としてよくある「日常シーンに重要な情報が紛れ込んでる」までちゃんと満たしている。
・当然ながら,別に全年齢版にしてしまっても成り立つ:00年頃の”そういう”エロゲはけっこうコンシューマに移植されてた
等々。しかし,一番大きいのは登場人物がそれぞれ何かしらの困難を抱えているという点である。ある種のエロゲによくある物語の流れとして(ここで「ある種の」ってつけとかないと主語が大きすぎて怒られてしまう),
・ヒロインと出会う → 日常シーンの中でルートを選んでいく → ルートに入る → 仲を深めていくうちに困難(ヒロインの抱えるトラウマ)が見つかる → 困難解決 → エンディング
というものが多かった。そして”評価の高い”トゥルーエンドやグランドエンドがある作品の場合,それぞれのルートで固有の困難を解決しているうちに手に入る情報が鍵になって,選択肢が増えたりしてそのルートに入れるようになり,また作品の根幹にかかわるような最後に残った困難を解決することでエンディングに入るという構成になっている。そうして『天気の子』を見ると,実にこの構図にそのままであることがわかると思う。
しかし,この構図自体は実は『君の名は。』にもある。あれもヒロインと出会って,そのヒロインの抱える問題を解決して……という話だ。それと『天気の子』の違いは,困難を抱える登場人物が複数存在しているという点と,主人公がその中の一人を選び取ったという点にある。このルートの選択性と,捨象された他ルートの情報こそがエロゲっぽさの正体だ。言うまでもなく,映画『天気の子』は陽菜ルート(またはトゥルーエンドルート)である。ゆえに,夏美さんの就活,須加家の事情,天野家の事情等は全て解決しないまま放置されて映画自体は終わってしまう。しかし,それぞれの困難に多少なりともかかわったことは,間違いなく帆高の背中を押していて,彼が陽菜を助けに行くことにつながった。
妄想としてのエロゲ版『天気の子』では,陽菜ルートに入る条件としてまず間違いなく,他の全てのルートクリアが課されているはずである。ゆえに,陽菜ルートのクライマックスでは,プレイヤーは須加家や天野家の事情に深入りした日々や(最後は幸せそうな家族写真で終わったりするやつ),夏美さんの就活を手助けして楽しく過ぎ去った日々が脳裏に残っている状態のまま,陽菜を助けに行く帆高を支える登場人物たちの姿を見ることになる。それぞれの個別ルートのイベントCGが頭にフラッシュバックする(しかも本ルートではそれらを投げ捨てているのである!)。凪先輩の「全部お前のせいじゃねぇか」もより重みを増す。そういう隠れた思いを全て背中に乗せて,帆高=主人公=プレイヤーは非常階段を駆け上がるのだ……というところから逆算して,エロゲオタは映画『天気の子』のクライマックスを見ながら,頭の中で勝手に夏美ルート・須加家ルート・天野家ルートを”復元”してしまった。その分岐する選択肢とともに。これが集団幻想の実態であると私は考えている。
なお,ここで陽菜ルートに入らなかった場合,東京の雨はいつの間にか止んでいて,陽菜さんの姿を見かけなくなった描写が他のルートのエンディングにあるのではないかとか考え出すと「誰かを助けると誰かが犠牲になる問題」につっこんでいくの,最高に00年頃のエロゲっぽい。(前述の通り,陽菜の能力と東京の天候が実は無関係という読み方も可能やから……)
以下は補足として。個別ルートと言っても「困難」と「解決」で話を作れればそれでよいので,ヒロイン不在でも問題ない。実際にそういうルートが用意されているエロゲはたくさんあるし,00年代当時に「俺たちはヒロインを攻略しているのか,トラウマ解消をやっているのか区別がつかない」的なことはよく言われていた。妄想エロゲ『天気の子』でも,私の感触では攻略ヒロインは陽菜一人で,残りのルートはヒロイン不在で進みそうな気はしているが,ここは個々人で意見が分かれそう。そういう意味では無理にエロゲに擬せず,ノベルゲーと言ったほうがいいのかもしれないが,個人的にはそこの区別をつける必要性を感じないので本稿はエロゲで通した。また,なんとなく00年頃のエロゲと書いてしまいがちであるが,ここで示したような特徴はけっこう普遍的に後代まで刷新されつつ続くし,実際のところ一番近いと思ったエロゲが2011年発売の『穢翼のユースティア』なので(拙文の感想),あまり年代で区切る価値も無いのかなぁと思う。
〈東京を描いた作品としての『天気の子』〉
東京の天候が狂ってしまったとして,前述の通り,狂ったのは全地球ではなく東京だけである。ここでいうセカイは東京でしかない。本作は徹底的に東京という都市の話として閉じている。新海誠は『言の葉の庭』で,徹底した閉じたセカイとして新宿御苑を描いていた。本作はそれが東京全域に広がった。では東京とは一体何なのか。
東京という都市はあまり景観が美しないと言われる。『ロスト・イン・トランスレーション』を見るまでもなく,本作でもさして美化されているわけではない。美化するつもりで美しく描いているわけではないというのは,帆高が東京に来た直後のアレコレの描写ではっきりと意志が示されている。そう言われてしまうのは,東京が乱開発の歴史だからであろう。江戸時代初期の造成に始まって,江戸時代は幾度となく大火に見舞われ,近代に入ってからは関東大震災に東京大空襲と,これでもかというほど「リセット」させられてきた。しかもそのたびに綺麗に立て直すことはできず(しいて言えば関東大震災の後くらいか),結局なるがままに再建されてきた。歴史的な建築物は残っていても,点々としている。そして今の雑然とした東京がある。私はそれでも丸の内の風景なんかは整っていてけっこう好きなのだけれども,歴史ある町並みというわけでもない東京のイメージはやはり「雑然」としたというところだろうし,本作から受ける印象も概ねこれである。
しかし,これは変化をいとわず,たくましく作り変わっていく,都市が生命力を持っているとも言える。水没後に冨美さんが「人間と天気が少しずつ変えてきたんだ」「元に戻っただけ」というのはなかなか重い。そうそう,本作の最重要舞台,代々木会館はこの8月から取り壊し予定だ。風景は水没せずとも,一つの姿でとどまってくれないのである。
一人の都民としては,わが町をこんなに忠実に描いてくれてありがとう,という思いしかないし,自分の東京への愛着を試されたというのが,本作を見終わった後の私の最初の感想であった。
自分としては本作がセカイ系であるかどうかとか,セカイ系の定義にはあまり興味がない。むしろ本作の場合,人類が滅びるような障害を乗り越えられる程度の障害に縮小したところを評価したい。人類を滅ぼさんでもセカイ系はできるし,やってよいのだという意味合いでなら本作をセカイ系の文脈で語るのは面白いと思う。もう,ヒロインとセカイのどちらかしか選べないという結末しかないのに我慢する必要はないのである。東京は部分的に水没したし,陽菜は晴れ女の能力を失った。それでも都民はたくましく生きている。
そもそも須賀の言う通り,陽菜が帰ってきたから雨が降り続いているなんて因果関係がはっきり証明されているわけではない。2人は降り続く雨を気に病まなくていい。まさに「大丈夫」なのだ。実は選択でさえないかもしれないという読み方を残している。読み方の選択の余地があり,選択を迫られているのはむしろ鑑賞者の我々かもしれない。
〈エロゲっぽいと言われてしまうのはなぜか〉
別名「ある種のオタクが集団幻覚を見ているのは一体何なのか」。概ね例の怪文書(褒め言葉)で語られている通りではあるのだけど,あえてちゃんと言葉で語ると,
・両親の不在:エロゲの主人公は往々にして両親が何らかの事情で不在
・疑似家族の構図:これはエロゲが好きというよりは日本人が好きな構図という気も
・奇跡には代償が伴う:00年頃のエロゲによくあったやつ
・分岐できそうなポイントが多い:選択肢の幻覚が見えるやつ。しかも本作は陽菜ルートなので,主人公が全部それに入れる選択肢を選んでいるようにさえ見える(他ルートに入るための選択肢の幻覚が見えてる)
・何気ない日常シーンと個別ルートに入った後の切り替わりが明瞭。しかも本作は名作エロゲの条件としてよくある「日常シーンに重要な情報が紛れ込んでる」までちゃんと満たしている。
・当然ながら,別に全年齢版にしてしまっても成り立つ:00年頃の”そういう”エロゲはけっこうコンシューマに移植されてた
等々。しかし,一番大きいのは登場人物がそれぞれ何かしらの困難を抱えているという点である。ある種のエロゲによくある物語の流れとして(ここで「ある種の」ってつけとかないと主語が大きすぎて怒られてしまう),
・ヒロインと出会う → 日常シーンの中でルートを選んでいく → ルートに入る → 仲を深めていくうちに困難(ヒロインの抱えるトラウマ)が見つかる → 困難解決 → エンディング
というものが多かった。そして”評価の高い”トゥルーエンドやグランドエンドがある作品の場合,それぞれのルートで固有の困難を解決しているうちに手に入る情報が鍵になって,選択肢が増えたりしてそのルートに入れるようになり,また作品の根幹にかかわるような最後に残った困難を解決することでエンディングに入るという構成になっている。そうして『天気の子』を見ると,実にこの構図にそのままであることがわかると思う。
しかし,この構図自体は実は『君の名は。』にもある。あれもヒロインと出会って,そのヒロインの抱える問題を解決して……という話だ。それと『天気の子』の違いは,困難を抱える登場人物が複数存在しているという点と,主人公がその中の一人を選び取ったという点にある。このルートの選択性と,捨象された他ルートの情報こそがエロゲっぽさの正体だ。言うまでもなく,映画『天気の子』は陽菜ルート(またはトゥルーエンドルート)である。ゆえに,夏美さんの就活,須加家の事情,天野家の事情等は全て解決しないまま放置されて映画自体は終わってしまう。しかし,それぞれの困難に多少なりともかかわったことは,間違いなく帆高の背中を押していて,彼が陽菜を助けに行くことにつながった。
妄想としてのエロゲ版『天気の子』では,陽菜ルートに入る条件としてまず間違いなく,他の全てのルートクリアが課されているはずである。ゆえに,陽菜ルートのクライマックスでは,プレイヤーは須加家や天野家の事情に深入りした日々や(最後は幸せそうな家族写真で終わったりするやつ),夏美さんの就活を手助けして楽しく過ぎ去った日々が脳裏に残っている状態のまま,陽菜を助けに行く帆高を支える登場人物たちの姿を見ることになる。それぞれの個別ルートのイベントCGが頭にフラッシュバックする(しかも本ルートではそれらを投げ捨てているのである!)。凪先輩の「全部お前のせいじゃねぇか」もより重みを増す。そういう隠れた思いを全て背中に乗せて,帆高=主人公=プレイヤーは非常階段を駆け上がるのだ……というところから逆算して,エロゲオタは映画『天気の子』のクライマックスを見ながら,頭の中で勝手に夏美ルート・須加家ルート・天野家ルートを”復元”してしまった。その分岐する選択肢とともに。これが集団幻想の実態であると私は考えている。
なお,ここで陽菜ルートに入らなかった場合,東京の雨はいつの間にか止んでいて,陽菜さんの姿を見かけなくなった描写が他のルートのエンディングにあるのではないかとか考え出すと「誰かを助けると誰かが犠牲になる問題」につっこんでいくの,最高に00年頃のエロゲっぽい。(前述の通り,陽菜の能力と東京の天候が実は無関係という読み方も可能やから……)
以下は補足として。個別ルートと言っても「困難」と「解決」で話を作れればそれでよいので,ヒロイン不在でも問題ない。実際にそういうルートが用意されているエロゲはたくさんあるし,00年代当時に「俺たちはヒロインを攻略しているのか,トラウマ解消をやっているのか区別がつかない」的なことはよく言われていた。妄想エロゲ『天気の子』でも,私の感触では攻略ヒロインは陽菜一人で,残りのルートはヒロイン不在で進みそうな気はしているが,ここは個々人で意見が分かれそう。そういう意味では無理にエロゲに擬せず,ノベルゲーと言ったほうがいいのかもしれないが,個人的にはそこの区別をつける必要性を感じないので本稿はエロゲで通した。また,なんとなく00年頃のエロゲと書いてしまいがちであるが,ここで示したような特徴はけっこう普遍的に後代まで刷新されつつ続くし,実際のところ一番近いと思ったエロゲが2011年発売の『穢翼のユースティア』なので(拙文の感想),あまり年代で区切る価値も無いのかなぁと思う。
〈東京を描いた作品としての『天気の子』〉
東京の天候が狂ってしまったとして,前述の通り,狂ったのは全地球ではなく東京だけである。ここでいうセカイは東京でしかない。本作は徹底的に東京という都市の話として閉じている。新海誠は『言の葉の庭』で,徹底した閉じたセカイとして新宿御苑を描いていた。本作はそれが東京全域に広がった。では東京とは一体何なのか。
東京という都市はあまり景観が美しないと言われる。『ロスト・イン・トランスレーション』を見るまでもなく,本作でもさして美化されているわけではない。美化するつもりで美しく描いているわけではないというのは,帆高が東京に来た直後のアレコレの描写ではっきりと意志が示されている。そう言われてしまうのは,東京が乱開発の歴史だからであろう。江戸時代初期の造成に始まって,江戸時代は幾度となく大火に見舞われ,近代に入ってからは関東大震災に東京大空襲と,これでもかというほど「リセット」させられてきた。しかもそのたびに綺麗に立て直すことはできず(しいて言えば関東大震災の後くらいか),結局なるがままに再建されてきた。歴史的な建築物は残っていても,点々としている。そして今の雑然とした東京がある。私はそれでも丸の内の風景なんかは整っていてけっこう好きなのだけれども,歴史ある町並みというわけでもない東京のイメージはやはり「雑然」としたというところだろうし,本作から受ける印象も概ねこれである。
しかし,これは変化をいとわず,たくましく作り変わっていく,都市が生命力を持っているとも言える。水没後に冨美さんが「人間と天気が少しずつ変えてきたんだ」「元に戻っただけ」というのはなかなか重い。そうそう,本作の最重要舞台,代々木会館はこの8月から取り壊し予定だ。風景は水没せずとも,一つの姿でとどまってくれないのである。
一人の都民としては,わが町をこんなに忠実に描いてくれてありがとう,という思いしかないし,自分の東京への愛着を試されたというのが,本作を見終わった後の私の最初の感想であった。
Posted by dg_law at 20:40│Comments(3)
この記事へのコメント
〈エロゲっぽいと言われてしまうのはなぜか〉の理由について「実際に世界(ストーリー)が分岐した証拠が作品中にあるから」をあげたい。
ゲスト出演した瀧と三葉だ。瀧が学生であることから,二人はまだ再会していない時点だとわかる。しかし天気の子のラストは,君の名は。で描かれたこの二人のその後と根本的に矛盾する。
帆高が陽菜を助けた世界では,瀧と三葉が山手線と総武線の窓から互いを発見することはありえない。あの階段で再会することもできない。つまり「陽菜が助からなかった分岐」は確かに存在したのだ。
そう考えると,瀧が就職活動で語った「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」という言葉にも別の意味が見えてくる。あれは糸守がつぶれたことだけではなくて,数年前に夏の大雨・雪で東京が壊れかけたことを念頭に置いた言葉だったのかもしれない。
ゲスト出演した瀧と三葉だ。瀧が学生であることから,二人はまだ再会していない時点だとわかる。しかし天気の子のラストは,君の名は。で描かれたこの二人のその後と根本的に矛盾する。
帆高が陽菜を助けた世界では,瀧と三葉が山手線と総武線の窓から互いを発見することはありえない。あの階段で再会することもできない。つまり「陽菜が助からなかった分岐」は確かに存在したのだ。
そう考えると,瀧が就職活動で語った「東京だって、いつ消えてしまうか分からない」という言葉にも別の意味が見えてくる。あれは糸守がつぶれたことだけではなくて,数年前に夏の大雨・雪で東京が壊れかけたことを念頭に置いた言葉だったのかもしれない。
Posted by t-tanaka at 2019年07月28日 14:00
天気の子を見て思ったのは、「心が汚れると楽しめない作品だな」でした。
グダグダ検証すんじゃなくて、「少年は少女と出会い、そして選んだ」という、いつもの「boy mreats girl」でした、で十分なのでは?
グダグダ検証すんじゃなくて、「少年は少女と出会い、そして選んだ」という、いつもの「boy mreats girl」でした、で十分なのでは?
Posted by at 2019年07月29日 20:30
>t-tanakaさん
3年後に帆高が冨美さんに会いに行った時に,孫の結婚写真が飾ってあったので,あの2人は普通に結婚したのではないかと思いますし,『君の名は。』で起きたことはあの世界でも(細部変わりつつ)概ね発生したのではないかと。
> さん
この記事や他の皆さんがしているのは,作品を検証しているというよりも,自分が楽しんだポイントを細かく見ていっていると言ったほうが正しいかと。
そしてそれは良いことだと私は思います。
3年後に帆高が冨美さんに会いに行った時に,孫の結婚写真が飾ってあったので,あの2人は普通に結婚したのではないかと思いますし,『君の名は。』で起きたことはあの世界でも(細部変わりつつ)概ね発生したのではないかと。
> さん
この記事や他の皆さんがしているのは,作品を検証しているというよりも,自分が楽しんだポイントを細かく見ていっていると言ったほうが正しいかと。
そしてそれは良いことだと私は思います。
Posted by DG-Law at 2019年08月01日 22:27