2019年09月30日
「表現の不自由展 その後」について
なんとなく思ったことを書いておく。言うまでもなく私自身は「表現の不自由展 その後」はちゃんと公金が支出されて妨害無く展示されるべきだったと思う,というのを前置きした上で。
「表現の不自由展 その後」はあいちトリエンナーレの(国際現代美術展の)一部であり,つまりは現代アートの祭典である。したがって当然「表現の不自由展 その後」も現代アートの文脈で理解する必要がある。そもそもそのHPに行けば説明されているので読めばわかるのだが,要するに何らかの理由で展示を拒否された作品が集められ,排除された理由を説明するキャプションが付されたことで,これは「表現の自由について考える」文脈に改めて載せられた作品群ということになる。
すなわち,この時点で個々の作品が持つ芸術性については後退していて,少なくとも前面には出てきていない。一番わかりやすい例で言えば,ここに展示された「平和の少女像」は東京都美術館での企画展で排除された経験を持つ。いかなる政治力学でその排除に至ったのか,排除は表現の自由という観点から言って適切であったのかを鑑賞者に考えさせるために展示されたのであって,少女像が持つ本来の意味ーーすなわち従軍慰安婦や戦時性暴力について鑑賞者に考えさせるという企図は副次的なもの,あるいは鑑賞者の自由の範囲でしかない。無論のことながら,作家は鑑賞者に本来の意味も伝わってほしいと考えて出展しているだろうし,企画展の趣旨である排除の持つ政治力学が問題にしているのは従軍慰安婦に関する曲解であるからどうしても関連はしてしまうのだが,重要なのは作品固有の芸術性の側が後退しているということであって,これはこの展覧会の問題を考える上で欠くべからざる要点である。
本件はキュレーションがまずかったのが最大の原因とは散々指摘されているところであるが,より具体的に言えば個々の作品が持つ芸術性が後退していて,展覧会名の通りに表現の自由について再考するのが趣旨であるというのが伝わりづらい,個々の作品のインパクト重視の構成になっていた点がまずかったとされている。だから本展は税金を投入して従軍慰安婦を喧伝している展覧会はけしからんという抗議が入ってしまった時点である種の敗北を喫している。世の中には困ったことに何をどう説明してもわからない人たちはいるので全員が説得できるとは全く思わないが,堅牢な説明のある展覧会になっていれば,あるいはもう少し排除の理由のバリエーションが豊富なラインナップの作品群になっていればこれほどには問題化しなかったというのがキュレーション批判をしている人たちの総意であろう。また,それはそれとして,そういう全く意図が通じない理解する気もない困った人たち対策は厳重にしておく必要があった。それこそ一度は何かしらの理由でリジェクトされている作品群なのである。案の定「荒れる内容の展示が含まれることが事前に申告されていなかった」等と文化庁が公金を支出しない口実にされてしまったのは大失態と言って差し支えない。
一方で,抗議者もお門違いの批判をしてしまっている。河村たかし市長からしてそのお門違いの批判を繰り返しているので頭が痛い。本展に反感を持つ鑑賞者の”正しい”感想は「それでも平和の少女像を東京都美術館の企画展から排除したのは正しい判断によるものだった」というものであるべきだった。その人たちはこの判断の材料になった本展には感謝すべきであって,本来は抗議による閉鎖などもってのほかなはずである。これとは別に「税金を使って『表現の自由』を考えること自体が税金の無駄遣いである」という方向の批判も正当に成り立つが,ここまで来ると完全に全体主義者の発想だろう。いやまあ,本件で抗議した人の中にはそこまで染まっている人もいるかもしれないけど。(私自身は従軍慰安婦や戦時性暴力について鑑賞者に考えさせるという企図の展示であっても公金を投入する展覧会から排除してはならないと考えているのは冒頭と重なるものの念のため改めて書いておく。)
「表現の不自由展 その後」はあいちトリエンナーレの(国際現代美術展の)一部であり,つまりは現代アートの祭典である。したがって当然「表現の不自由展 その後」も現代アートの文脈で理解する必要がある。そもそもそのHPに行けば説明されているので読めばわかるのだが,要するに何らかの理由で展示を拒否された作品が集められ,排除された理由を説明するキャプションが付されたことで,これは「表現の自由について考える」文脈に改めて載せられた作品群ということになる。
すなわち,この時点で個々の作品が持つ芸術性については後退していて,少なくとも前面には出てきていない。一番わかりやすい例で言えば,ここに展示された「平和の少女像」は東京都美術館での企画展で排除された経験を持つ。いかなる政治力学でその排除に至ったのか,排除は表現の自由という観点から言って適切であったのかを鑑賞者に考えさせるために展示されたのであって,少女像が持つ本来の意味ーーすなわち従軍慰安婦や戦時性暴力について鑑賞者に考えさせるという企図は副次的なもの,あるいは鑑賞者の自由の範囲でしかない。無論のことながら,作家は鑑賞者に本来の意味も伝わってほしいと考えて出展しているだろうし,企画展の趣旨である排除の持つ政治力学が問題にしているのは従軍慰安婦に関する曲解であるからどうしても関連はしてしまうのだが,重要なのは作品固有の芸術性の側が後退しているということであって,これはこの展覧会の問題を考える上で欠くべからざる要点である。
本件はキュレーションがまずかったのが最大の原因とは散々指摘されているところであるが,より具体的に言えば個々の作品が持つ芸術性が後退していて,展覧会名の通りに表現の自由について再考するのが趣旨であるというのが伝わりづらい,個々の作品のインパクト重視の構成になっていた点がまずかったとされている。だから本展は税金を投入して従軍慰安婦を喧伝している展覧会はけしからんという抗議が入ってしまった時点である種の敗北を喫している。世の中には困ったことに何をどう説明してもわからない人たちはいるので全員が説得できるとは全く思わないが,堅牢な説明のある展覧会になっていれば,あるいはもう少し排除の理由のバリエーションが豊富なラインナップの作品群になっていればこれほどには問題化しなかったというのがキュレーション批判をしている人たちの総意であろう。また,それはそれとして,そういう全く意図が通じない理解する気もない困った人たち対策は厳重にしておく必要があった。それこそ一度は何かしらの理由でリジェクトされている作品群なのである。案の定「荒れる内容の展示が含まれることが事前に申告されていなかった」等と文化庁が公金を支出しない口実にされてしまったのは大失態と言って差し支えない。
一方で,抗議者もお門違いの批判をしてしまっている。河村たかし市長からしてそのお門違いの批判を繰り返しているので頭が痛い。本展に反感を持つ鑑賞者の”正しい”感想は「それでも平和の少女像を東京都美術館の企画展から排除したのは正しい判断によるものだった」というものであるべきだった。その人たちはこの判断の材料になった本展には感謝すべきであって,本来は抗議による閉鎖などもってのほかなはずである。これとは別に「税金を使って『表現の自由』を考えること自体が税金の無駄遣いである」という方向の批判も正当に成り立つが,ここまで来ると完全に全体主義者の発想だろう。いやまあ,本件で抗議した人の中にはそこまで染まっている人もいるかもしれないけど。(私自身は従軍慰安婦や戦時性暴力について鑑賞者に考えさせるという企図の展示であっても公金を投入する展覧会から排除してはならないと考えているのは冒頭と重なるものの念のため改めて書いておく。)
Posted by dg_law at 18:32│Comments(4)
この記事へのコメント
表現の不自由について議論するというテーマはすごく良かったのに、他の政治的主張が強く出過ぎて(出過ぎているように感じる人がいて)、本質的に議論すべきテーマを覆い隠してしまったのは勿体なかった。
しかし津田氏は、本気で表現の不自由について議論する気があったのだろうか
しかし津田氏は、本気で表現の不自由について議論する気があったのだろうか
Posted by 名無しの人 at 2019年10月02日 01:13
そこなんですよね。
他の政治的主張も混ざってること自体は別にいいんですが,「強く出過ぎて」いて,「出過ぎているように感じる人がい」たら,表現の不自由というテーマがどこかにいってしまうことは予測可能だったと思うんですが,芸術監督らが表現の不自由に対してあまりにもナイーブでしたね。
>しかし津田氏は、本気で表現の不自由について議論する気があったのだろうか
そう疑う人がネット上に多数おり,実際に疑われるだけの振る舞いであったのは間違いないですね。
個人的にはほとんど興味ないですが(上手くいってさえくれれば動機は別に……いかなかったんですが)。
他の政治的主張も混ざってること自体は別にいいんですが,「強く出過ぎて」いて,「出過ぎているように感じる人がい」たら,表現の不自由というテーマがどこかにいってしまうことは予測可能だったと思うんですが,芸術監督らが表現の不自由に対してあまりにもナイーブでしたね。
>しかし津田氏は、本気で表現の不自由について議論する気があったのだろうか
そう疑う人がネット上に多数おり,実際に疑われるだけの振る舞いであったのは間違いないですね。
個人的にはほとんど興味ないですが(上手くいってさえくれれば動機は別に……いかなかったんですが)。
Posted by DG-Law at 2019年10月02日 19:38
津田氏に関しては「逃げた」件についてリベラル系のメディアからも
かなり厳しくおかしいと指摘されていましたからね
ある意味「自分はこういう政治的表現ができないことが表現の不自由だと考えてるんだ」という
立場を徹底していればそれはそれで一つの考え方であり立場であると言えたのが
逃げたことで言い方は悪いけど釣りか炎上マーケティングになってしまった
という印象です
かなり厳しくおかしいと指摘されていましたからね
ある意味「自分はこういう政治的表現ができないことが表現の不自由だと考えてるんだ」という
立場を徹底していればそれはそれで一つの考え方であり立場であると言えたのが
逃げたことで言い方は悪いけど釣りか炎上マーケティングになってしまった
という印象です
Posted by 通りすがり at 2019年10月06日 14:15
そうですね。すでに散々言われていますが,そこで立場・意見を表明できるほどの理屈が自分の中で整理できていなかったのでしょうが,であればやはり監督という立場を引き受けてはいけなかったなと。
Posted by DG-Law at 2019年10月07日 02:25