2019年12月07日
「『宇崎ちゃん』バッシング騒動の雑感」に対する反応への雑感
はてブ等でいろいろ反応をいただいたので,コメントする価値のあるものだけ追加でコメントしたい。なお,これは1.コメント者に応答を求めるものではなく,あくまで第三者の読者にむけた追加のコメントである。2.はてブは基本的に記事主からの応答を求めるものではないと自分では解している。私自身,そのつもりでないブコメに大して記事主に応答されるとビビる。3.興味深いコメントの内容が必要なのであって,今回は誰が発言したかは考慮するつもりが全く無い。4.そもそもlivedoorブログからはてブにコールする直接的な手段がない。5.本編はあんなに伸びると思っていなかったのでかなり端折って書いたので,実は補足の口実としてはてブを使いたいだけ。という5つの理由から,idコール等はしない。また,この話題を長く続ける気はないので,本記事についたはてブやコメントには基本的に反応しません。
>宇崎花というキャラ自体に性的目線が多分に含まれていることは否定しようがないのでは
これはその通りで,私はキズナアイバッシング騒動の際に「「かわいい」と表現するには性的なニュアンスが大きすぎるし(かわいいが多義的すぎるというのもある),エロいと表現するには言葉が強すぎる(そこまで直球に性的でない)表現のために「萌え」という言葉が生まれたのではないか」と主張したが,萌え絵全般とまでは言わないにしても,『宇崎ちゃん』の系統の萌え絵に性的な要素が全く無いとは,とてもじゃないが言えない。あくまで個々の絵で見た時にどこまで「薄まっているか」,または「主な焦点から外れているか」という主張しかできないのである。一例としてはてブに『宇崎ちゃん』のおっぱいマウスパッドを挙げていた人がいたが,同じ作品であっても,一枚絵としてのアピールポイントをずらせば当然そういう売り方もできる(ただし同時におっぱいマウスパッドだけを持って『宇崎ちゃん』を語るのも恣意的すぎる)。
だから,批判派の人の言う「性的な要素がそれなりにある作品とはコラボすべきではない/慎重にコラボせよ」という主張は,私は積極的な賛意を示さないにせよ,一つの意見として理解・納得する。また,この意見は当事者の日赤が一考する必要があるとも思っている。これは書こうか迷って本編には書かなかったのだが,日赤はある程度の確率で事故るという予測が立ったならば,冷徹な判断を下す立場にあった。3巻の発売を記念したコラボだったとしても別の絵を使うなり描き下ろしてもらうなりできたはずで(その他の工夫もありうる),適切な絵を用意できなかったのならば時期をずらすなり流すなりという判断は可能であったはずだ(無論のことながらこれは非情で冷徹な判断になる)。私はこのコラボ以前に『宇崎ちゃん』は読んでいなかったのだが,仮に読んでいたとして,コラボで3巻の表紙が出てこなかったら,「あー,あの表紙だと炎上しそうだよね」と納得していたと思う。この意味で「文脈を理解しなければ性的表現とみなされるものの扱いにも配慮が必要」と書いていたブコメの指摘は正しいし,そのままずばり「「そういう広告ではない」ならそういう広告には見えないような絵柄を選べばよかったのでは」と書いていたブコメもあった。
熱心な擁護派の方は「こちらに悪いところが無いのだからそんな譲歩なんて必要無いだろう」と思われるかもしれないが,こういうのは過失の有無にかかわらず事故ったら負けである。特に献血レベルの公共性だとハードルはどうしても高くなる。極力事故らないことを目指すなら,批判派の主張に耳を傾けても損はない。この点で,どう探してもキズナアイ本人にもNHKサイドにも落ち度が小さすぎたキズナアイバッシング騒動とはやや異なる。あんな事故は避けようがない。
>乳袋表現自体が(性的アピールを含んでいるのは否定できないので)どうしたって不快に思う人が出てくる表現では
これは上の変形で,意外かもしれないが私は異論はない。どんな文脈があろうが不快なものは不快という表現もあろうし,乳袋は特殊すぎるので合わない人はオタクにもいるくらいだから,何を言われてもドきつい性的アピールにしか見えない人もいるだろう。ただし,「不快」なだけで自主規制を求めるのは現代社会にそぐわないとも思う。だから現代社会では,自分の感じたその不快さの奥にある原因が,差別・偏見等の何らかの明らかな社会的悪に明確に起因したり影響したりするものではないかというのを見出して,そこを戦場にしているわけで。そこが戦場であるからこそ,私はあの記事で「『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品が”そういう作品”ではないので,女性の社会的地位を低めようとする風潮を強める効果があるとは言えない」という主張したのであって,そこは汲んでほしいところ。
なお,萌え絵の差別性については,やや話がずれるが,重度の萌えオタにして西洋美術史家の松下哲也氏はこんなことを言っている。
もう少し詳しい話はこの記事で,さらに詳しい話は本記事で紹介されている氏の著書を参照のこと。
・キャラクターデザインのルーツはロマン派の画家、ヘンリー・フューズリ?絵画研究者・松下哲也インタビュー(Zing!)
萌え絵どころかキャラクター絵は,美術史学のディシプリンに則って研究し,そこで出自にさかのぼって考えると割ととんでもない話になっていくというのは,以後も「萌え絵/キャラ絵論争」をやるなら擁護派も批判派も押さえておくべきであろう。
>宇崎花というキャラを愛でたいのなら,乳袋表現は不要だったのでは
これに対するコメントは3つあって,1.3巻発売のコラボだったのであの絵である必要があったのであって,乳袋表現だからあの絵が使われたわけではないから,指摘がちょっとお門違い。ただし,上述のように事故を避ける方策はあったのではないかという点では「不要」という意見に反対しない。しかし,2.作者の丈先生のカラー絵の宇崎花の描き方自体が乳袋寄りなので,これはもはや絵柄の問題であり,コラボ用の絵だけ乳袋ではないというのは不自然。したがって乳袋が目立たたない絵は用意できたかもしれないにせよ,「不要」とまで言い切るのは絵柄自体への批判に近く,ちゃんと指摘するにはもう少し繊細な議論が必要。3.少なくとも巨乳自体は,本論で書いたように宇崎花の「ウザさ」の象徴としてキャラに不可欠であり,切り離して考えることはできない。繰り返しになるが,3巻表紙絵の乳袋はその意味での巨乳の強調のための表現であって,性的アピールには直結していない。
>世間はオタクの文脈を理解しようなんて思ってないのでは
この種のコメントは複数あったが,さすがに時代・地域が変われば常識なんてすぐに変わるとかいう一般論から説き起こさないとダメとは思いたくない。また,多様性が尊重される社会を形成するならば,この文脈理解を世間に求めても許されるはずでは。加えて言えば,この種の萌え絵批判は前出の松下哲也氏により「暴論」と批判されているように,さすがに一つの文化をバカにしている水準であるので(引いては”文化”というもの概念をバカにしていると思う),バカにされない水準くらいの理解は求めても不当ではないと思う。なお,この話を徹底して詰めていくと,現状の世間が理解していない深さの文脈を求める文化は世間の表舞台から排除されてよいということになり,「現代アートとかいう深い文脈を読まないと理解できないジャンルに公金突っ込むのはバカバカしくない? それに『平和の少女像』は見ていて不快だから展示しないでほしい」という意見に限りなく近くなっていくのだが,それでいいのかは考えてもらいたいところ。あと,理解を強要しているのではなく,理解が浸透するのを待っている(あるいは擁護派に努力すべきと呼びかけている)のであって,「今すぐ理解してくれ! 理解しないお前らが悪い」とは全く言ってないし思ってもいない。
>仮に日赤のオリジナルキャラとしてこの絵が出てきたとしても批判されるのでは
さすがにこのレベルの誤読は悲しい。私は記事中で「1枚絵として作品から切り離されていて,かつこの種の絵を読む素養がない人には,性的なアピールをしている絵(=問題のある絵)に見えても不思議ではない」という趣旨の書いているので,そこからこの思考実験の答えは自明ではないだろうか。
というか全般として「『宇崎ちゃん』の文脈を読めずに誤解したやつが悪いわけではない。むしろ文脈を知らないのだから誤解して当然だし,誤解したならああいう批判になるのは理屈としておかしくない」というのを基調にして,そこは誤解されないように慎重に記事を書いたつもりなのだけれど……伝わらないもんだ。
>宇崎花というキャラ自体に性的目線が多分に含まれていることは否定しようがないのでは
これはその通りで,私はキズナアイバッシング騒動の際に「「かわいい」と表現するには性的なニュアンスが大きすぎるし(かわいいが多義的すぎるというのもある),エロいと表現するには言葉が強すぎる(そこまで直球に性的でない)表現のために「萌え」という言葉が生まれたのではないか」と主張したが,萌え絵全般とまでは言わないにしても,『宇崎ちゃん』の系統の萌え絵に性的な要素が全く無いとは,とてもじゃないが言えない。あくまで個々の絵で見た時にどこまで「薄まっているか」,または「主な焦点から外れているか」という主張しかできないのである。一例としてはてブに『宇崎ちゃん』のおっぱいマウスパッドを挙げていた人がいたが,同じ作品であっても,一枚絵としてのアピールポイントをずらせば当然そういう売り方もできる(ただし同時におっぱいマウスパッドだけを持って『宇崎ちゃん』を語るのも恣意的すぎる)。
だから,批判派の人の言う「性的な要素がそれなりにある作品とはコラボすべきではない/慎重にコラボせよ」という主張は,私は積極的な賛意を示さないにせよ,一つの意見として理解・納得する。また,この意見は当事者の日赤が一考する必要があるとも思っている。これは書こうか迷って本編には書かなかったのだが,日赤はある程度の確率で事故るという予測が立ったならば,冷徹な判断を下す立場にあった。3巻の発売を記念したコラボだったとしても別の絵を使うなり描き下ろしてもらうなりできたはずで(その他の工夫もありうる),適切な絵を用意できなかったのならば時期をずらすなり流すなりという判断は可能であったはずだ(無論のことながらこれは非情で冷徹な判断になる)。私はこのコラボ以前に『宇崎ちゃん』は読んでいなかったのだが,仮に読んでいたとして,コラボで3巻の表紙が出てこなかったら,「あー,あの表紙だと炎上しそうだよね」と納得していたと思う。この意味で「文脈を理解しなければ性的表現とみなされるものの扱いにも配慮が必要」と書いていたブコメの指摘は正しいし,そのままずばり「「そういう広告ではない」ならそういう広告には見えないような絵柄を選べばよかったのでは」と書いていたブコメもあった。
熱心な擁護派の方は「こちらに悪いところが無いのだからそんな譲歩なんて必要無いだろう」と思われるかもしれないが,こういうのは過失の有無にかかわらず事故ったら負けである。特に献血レベルの公共性だとハードルはどうしても高くなる。極力事故らないことを目指すなら,批判派の主張に耳を傾けても損はない。この点で,どう探してもキズナアイ本人にもNHKサイドにも落ち度が小さすぎたキズナアイバッシング騒動とはやや異なる。あんな事故は避けようがない。
>乳袋表現自体が(性的アピールを含んでいるのは否定できないので)どうしたって不快に思う人が出てくる表現では
これは上の変形で,意外かもしれないが私は異論はない。どんな文脈があろうが不快なものは不快という表現もあろうし,乳袋は特殊すぎるので合わない人はオタクにもいるくらいだから,何を言われてもドきつい性的アピールにしか見えない人もいるだろう。ただし,「不快」なだけで自主規制を求めるのは現代社会にそぐわないとも思う。だから現代社会では,自分の感じたその不快さの奥にある原因が,差別・偏見等の何らかの明らかな社会的悪に明確に起因したり影響したりするものではないかというのを見出して,そこを戦場にしているわけで。そこが戦場であるからこそ,私はあの記事で「『宇崎ちゃんは遊びたい!』という作品が”そういう作品”ではないので,女性の社会的地位を低めようとする風潮を強める効果があるとは言えない」という主張したのであって,そこは汲んでほしいところ。
なお,萌え絵の差別性については,やや話がずれるが,重度の萌えオタにして西洋美術史家の松下哲也氏はこんなことを言っている。
現代の美少女/美少年キャラにせよロマン主義以降の観相学や骨相学にせよ「キャラクター」の表象システムには原理的にえげつない差別がともなう(前者は性搾取、後者は人種差別と優生思想)という話は何度も書いたし喋ったけど、オタクたちはそういうの聞きたくないらしくオタクの外にしか届いてない感。
— 松下哲也 (@pinetree1981) September 3, 2019
もう少し詳しい話はこの記事で,さらに詳しい話は本記事で紹介されている氏の著書を参照のこと。
・キャラクターデザインのルーツはロマン派の画家、ヘンリー・フューズリ?絵画研究者・松下哲也インタビュー(Zing!)
萌え絵どころかキャラクター絵は,美術史学のディシプリンに則って研究し,そこで出自にさかのぼって考えると割ととんでもない話になっていくというのは,以後も「萌え絵/キャラ絵論争」をやるなら擁護派も批判派も押さえておくべきであろう。
>宇崎花というキャラを愛でたいのなら,乳袋表現は不要だったのでは
これに対するコメントは3つあって,1.3巻発売のコラボだったのであの絵である必要があったのであって,乳袋表現だからあの絵が使われたわけではないから,指摘がちょっとお門違い。ただし,上述のように事故を避ける方策はあったのではないかという点では「不要」という意見に反対しない。しかし,2.作者の丈先生のカラー絵の宇崎花の描き方自体が乳袋寄りなので,これはもはや絵柄の問題であり,コラボ用の絵だけ乳袋ではないというのは不自然。したがって乳袋が目立たたない絵は用意できたかもしれないにせよ,「不要」とまで言い切るのは絵柄自体への批判に近く,ちゃんと指摘するにはもう少し繊細な議論が必要。3.少なくとも巨乳自体は,本論で書いたように宇崎花の「ウザさ」の象徴としてキャラに不可欠であり,切り離して考えることはできない。繰り返しになるが,3巻表紙絵の乳袋はその意味での巨乳の強調のための表現であって,性的アピールには直結していない。
>世間はオタクの文脈を理解しようなんて思ってないのでは
この種のコメントは複数あったが,さすがに時代・地域が変われば常識なんてすぐに変わるとかいう一般論から説き起こさないとダメとは思いたくない。また,多様性が尊重される社会を形成するならば,この文脈理解を世間に求めても許されるはずでは。加えて言えば,この種の萌え絵批判は前出の松下哲也氏により「暴論」と批判されているように,さすがに一つの文化をバカにしている水準であるので(引いては”文化”というもの概念をバカにしていると思う),バカにされない水準くらいの理解は求めても不当ではないと思う。なお,この話を徹底して詰めていくと,現状の世間が理解していない深さの文脈を求める文化は世間の表舞台から排除されてよいということになり,「現代アートとかいう深い文脈を読まないと理解できないジャンルに公金突っ込むのはバカバカしくない? それに『平和の少女像』は見ていて不快だから展示しないでほしい」という意見に限りなく近くなっていくのだが,それでいいのかは考えてもらいたいところ。あと,理解を強要しているのではなく,理解が浸透するのを待っている(あるいは擁護派に努力すべきと呼びかけている)のであって,「今すぐ理解してくれ! 理解しないお前らが悪い」とは全く言ってないし思ってもいない。
>仮に日赤のオリジナルキャラとしてこの絵が出てきたとしても批判されるのでは
さすがにこのレベルの誤読は悲しい。私は記事中で「1枚絵として作品から切り離されていて,かつこの種の絵を読む素養がない人には,性的なアピールをしている絵(=問題のある絵)に見えても不思議ではない」という趣旨の書いているので,そこからこの思考実験の答えは自明ではないだろうか。
というか全般として「『宇崎ちゃん』の文脈を読めずに誤解したやつが悪いわけではない。むしろ文脈を知らないのだから誤解して当然だし,誤解したならああいう批判になるのは理屈としておかしくない」というのを基調にして,そこは誤解されないように慎重に記事を書いたつもりなのだけれど……伝わらないもんだ。
Posted by dg_law at 13:00│Comments(0)