2020年02月01日

『物語 オーストリアの歴史』のまずい点について簡潔に




山之内克子先生は『ハプスブルクの文化革命』が大変な名著で,『物語 オーストリアの歴史』も面白く読んだ。ドイツの美術史をやっていた人間としては,アンゲリカ・カウフマンに触れてくれたのは,本書がオーストリア各州の地方史の集成であることを考えると当然であるとはいえ,大変に嬉しかった。

・SNSの時代に本を書くということ・・・新書「ヒトラーの時代」に思う(yoshiko Yamanouchi|note)
→ その上で言うと,この説明はちょっと受け入れがたい。そのTwitter上で指摘されていたように,「一次史料との兼ね合い等の事情から,本書では「オスマン・トルコ」で統一する」と冒頭に注意書きを入れておけば解決した話であり,そうしなかった以上は著者・編集者側の落ち度であろう。どちらかというと,そうした注意は編集者が払うべきであるので編集者の過失の方が大きい。なので,このnoteで「校閲のレベルが高かった」と言われても,「オスマン・トルコには注釈が必要ないですか?」という指摘を入れられなかったという推測が成り立つために説得力が薄い。あるいは校閲からそういう指摘があっても先生ご自身が無視したかいずれかになるのだから,その場合は余計にまずい。

……というのが実はちゃんと読了する前までの感想で,本書はそれ以外にも用語の使い方等でまずい点が見られ,このnoteの記事の言い分はかなり苦しいと思う。オスマン・トルコ以外にも言い方が古いor勘違いしていると思われる箇所が散見される。用語の不統一もある。むしろオスマン・トルコ以外にあまり指摘されていないのが意外なくらい。自分では確証が無いものと,単なる校正ミスも含めると,自分が気づいたのは以下の通り。

p.19,73他 アウスブルク → アウスブルク
p.36 ヤン・ソビエキ → ヤン・ソビエ
p.72-73 マジャールとマジャールが混在。
p.72 遊牧民”族”という言い方はとがめるほどじゃないがやや気になる
p.79 サポヤイ・ヤノーシュ → サポヤイ・ヤーノシュ
   ※ 私はハンガリー語に詳しくないので,ヤノーシュでも問題ない可能性もある。発音記号やforvoで聞いた限りで,少なくとも現代ハンガリー語ではヤーノシュ。
p.152 オットカール・プシェミスル
   → このままでもいいが,オットカールがドイツ語なのにプシェミスルがチェコ語なのはやや違和感ある。オットカールはオタカルの方がいいのでは。
p.185 皇太子フランツ・フェルディナント → 帝位継承者フランツ・フェルディナント
   ※ ドイツ語で皇太子(Kronprinz)と帝位継承者(Thronfolger)は別の単語であるから,専門家はきっちり訳し分ける傾向が強いように思う。私自身はさしてこだわりが無いが。


アウクスブルク等は先生ご自身が指摘されて直さないということが絶対に無いものであるから,校閲から漏れてしまったのだろう。それだけに,中公新書の校閲は本当に機能していたの? という疑念はどうしてもわいてしまう。そして一点だけ,こうした用語の古さが認識に影響を与えていると思われる点がある。p.408。

>「トルコ軍がふたたびウィーン盆地に宿営を貼るのは,それからおよそ一世紀半後,1683年になってからのことだった。このとき,第19代皇帝メフメト4世の治世下,すでにオスマントルコ帝国は斜陽の時代を迎えようとしていた。国勢回復の最後のチャンスを宿敵ハプスブルク家との戦争に見出そうとした大宰相カラ・ムスタファは,同年3月,15万人の兵を擁してアドリアノープルから西進を開始したのだった」

解説するまでもない気もするが念のため,「斜陽の時代を迎えつつあった」のは当時の帝国の内実やその後の展開を知っている現代人の認識としてまだ誤りとは言い切れないが,当時の人間の認識として第二次ウィーン包囲が国勢回復の最後のチャンスだったというのは誤りと言っていいだろう。なにせ第二次ウィーン包囲の直前がオスマン帝国の最大領域で,まだ押せ押せで各地に侵攻していた時期なのである。詳しくは同じく中公新書から出ている『オスマン帝国』(小笠原弘幸,2018年)を参照のこと。





内容が大変に面白いだけにこうした細々とした指摘をしなければならないのは残念である(そう,これらの指摘のほとんどは細々としている!)。言うまでもないが人間に校正ミスはつきもので,どんなに注意しても大人数をかけてもなくならないものはなくならない。私も単著を出しているのでそれは重々知っているから,よほどのもの以外は気にしないようにしている。だからこそ,そういうのを”多くの人に気にさせてしまう”,着火点としての「オスマン・トルコ」の表記は対処すべきものであった。改めてそう思ったのでこの記事を書いた次第である。