2020年10月12日

『ホーキーベカコン』全3巻(原案:『春琴抄』,漫画:笹倉綾人)

原案は谷崎潤一郎の『春琴抄』。ただし,よく見ると原作ではなく「原案:『春琴抄』」になっているように,大きくアレンジが入っている。あえて断言してしまうが,これは最高のリメイクである。『春琴抄』と『ホーキーベカコン』はどちらを先に読んでもいい。しかし,被虐嗜好を持つ主人公の佐助はともかく,春琴の描き方がかなり違うので,個人の好き嫌いはあれ,どちらを先に読むかで印象が変わってくると思われる。

そう,最も大きく異なるのがもう一人の主人公,春琴である。『春琴抄』の春琴は20世紀末以降の目線で言ってしまえば割とよくあるタイプの暴力系高飛車お嬢様ツンデレであって,そこに目新しさはない。昭和8年の作品に現代の目線から目新しいも何もなかろうとは思うが,『春琴抄』は加虐趣味・被虐趣味を前近代的な主従関係と重ね合わせ,文字通りの盲目的な愛に昇華させたことに焦点が当たっていて,春琴のキャラクターが作品の焦点というわけではない。その盲目的な愛は谷崎文学らしさがあり,またこれに谷崎の仕掛けた可能な限り句読点を用いないというねっとりした実験的文体も合わさって,『春琴抄』は文学的名作の地位を得たといえる。

しかしながら,それをそのまま漫画にしたのでは面白くない。前述の通り,現代にあっては春琴のキャラは目新しさに欠け,漫画にすれば実験的文体はなくなる。それでも忠実再現しただけでも,「古典的名作の忠実再現」という売り文句でそれなりの評価を得るものにはなっただろう。しかし,『ホーキーベカコン』はそうはしなかった。行った最大のアレンジは春琴の神格化である。『春琴抄』にある「春琴は37歳でも十は若く見えた」という原作の描写をさらに極端に「二十は若く見えた」と変え,つまりロリババアとでも言った方がいいほど年を取らない容姿に変えた。箏曲の腕も原案よりさらに極端な天才に変わり,性格も高飛車というよりは超然としているものに変わった。『春琴抄』の春琴は終盤にデレたが,『ホーキーベカコン』では最後まで折れない……というよりも超然としていてツンデレという尺度で捉えるのが不可能になっている。

同時に佐助の立ち位置も変わっている。『春琴抄』で終盤に春琴が佐助に心を許したのは,こんなにも暴虐を振るっていたのに,その報いとなる大事件が起きた後でも,まだ自分に盲目的に尽くしてくれている佐助を認めたからであった。他方で『ホーキーベカコン』では,佐助は春琴の特殊な理解者であり,春琴の神格化の協力者であり,暴力の共犯者であった。それゆえに春琴は原案よりもかなり早い段階で佐助に強い信頼を置いている。春琴と佐助の関係が明確に原案から離れたと言えるのが『ホーキーベカコン』第8・9話なので,『春琴抄』と『ホーキーベカコン』を読み比べる際に注目してほしい。

こうなると春琴の「盲目」も,持つ意味合いが変わってくる。単なるハンデではなく,超人的な人格を支える要素に読み替えられる。彼女の過剰な暴力性と佐助の献身も一種の聖性を帯びる。春琴の神格化を起点にして『春琴抄』の構成物の多くが読み替えられたもの,それが『ホーキーベカコン』である。そんな神の如き春琴は,佐助という最大の理解者を得て,何を目指したのか。これが『ホーキーベカコン』という物語の駆動力になる。

なお,タイトルの「ホーキーベカコン」という聞き慣れない言葉は,『春琴抄』で最上級の鶯の鳴き声として登場する。私は『ホーキーベカコン』の後に『春琴抄』を読んだのだが,『春琴抄』でこの言葉が出てきたときに,なるほど春琴を神格化したアレンジ作ならこのタイトルしかないとあまりの的確さに身震いした。このホーキーベカコンという鳴き声は『春琴抄』では取るに足らない小さなエピソードに過ぎないのであるが,『ホーキーベカコン』の描く春琴にとってはとてつもなく大きな意味を持つ。

総じて,矮小化して言えば20世紀末以降のオタク文化の粋が,逆に大仰に言えば約100年の日本文化の蓄積が,この改変を生んだと言える。少なくともロリババアという発見と経験がなければ本作は無かっただろう。見事という他ない。

最後に,谷崎は『春琴抄』を書く2年前の昭和6年に『グリーブ家のバーバラ』という短編を翻訳している。貴族の娘バーバラは絶世の美男子エドモンド・ウィローズと恋人の関係であったが,エドモンドは旅先の火事で美貌を失った。バーバラは結局別の男性アップランドタワーズと結婚し,エドモンドは失踪する。その後,エドモンドが旅行前に作っていた自らに似せた彫像がバーバラの元に送られてくる。彫像に執心するバーバラに対し,業を煮やした夫は彫像を破壊し,バーバラは発狂してしまう……というあらすじで,明らかに『春琴抄』の下敷きになっているが,男女が逆になっていたり,美貌が失われた後の反応も異なっている。『グリーブ家のバーバラ』は『ホーキーベカコン』でも言及されるので,両者を読む上であらすじを頭の中に入れておくとより楽しめるだろう。

春琴抄 (新潮文庫)
潤一郎, 谷崎
新潮社
1951-02-02