2020年07月01日
「なんとなく」の裸体像への違和感とか
・3国立博物館が4月から値上げ(共同通信)
→ いつも企画展のついでに見ているから個人的には関係ないな,と思っていたら企画展も値上げする説もあるので様子見。直近のKIMONO展は1700円だったので特に変わった様子はない。
→ いつ行っても外国人観光客,特に欧米から来た観光客が多いので,それを考えると1000円は高くないと思う。東博の常設展は日本美術史が上手くパッケージングされていてわかりやすい。東洋館も同じチケットで入れる。日本美術に比べると貧弱さを感じなくはないが,中国からインド・イスラームまで一通りそろっている。あわせて東洋の美をお楽しみいただければ半日は簡単に潰れるから,展示品のほとんどを初見と仮定するなら,娯楽としての費用対効果・時間あたりの効用は非常に高い。ルーヴル美術館の15ユーロ(約1800円),ウフィッツィ美術館の20ユーロと比べても遜色はないと思う(大英博物館は無料と言われると何も反論できないが)。無論,ルーヴル美術館の方が数倍広いが,どうせ1日では見切れない。どうせ国内観光客は企画展も見ていくだろう,リピーターは年間パスを買うだろう,近隣の大学生は大体全部キャンパスメンバーズで無料で入れる……という発想で焦点を絞ったと考えると,今回の値上げは納得できる(年パスも2021年4月に値上げ予定らしいが)。
→ 余談だが,キャンパスメンバーズの無料は本当にありがたかった。東博と西美はあわせて隔週か毎週くらいの頻度で,授業の隙間等を使って通って常設展を眺めていたので。あれは贅沢な時間の使い方だった。
・落第生を再試験で救済しようとした大学教授が懲戒処分を受けた事件(弁護士 師子角允彬のブログ)
→ 牧歌的な時代にはよく聞いた話だが,もうそんな時代ではないわな。これに限らず,大学生を取り巻く環境は21世紀以降の20年で大きく変化しているように感じられ,世代的な断絶は大きい。ちゃんと学生を育てる大学が評価されるようになったのは良いことであり,人情が無くなったのは悪いこととは思われない。大学はレジャー施設と言われていた世代は,現在の日本社会においてまだマジョリティだとは思うが,思われているほどのボリュームを占めないようになってきているのではないか。
・事故死した少女を悼む「本人がモデルの裸体像」を作られたら、当人は嫌じゃなかろうか〜(これが『裸体像』か、や裸体像の意義自体をめぐる議論にも)(Togetter)
→ この銅像が作られたのは1989年であるので,もう当時と現在では社会の価値観がずれてしまっているのだろう。「裸体こそが真の人間美であって,何かしらの抽象的な象徴を負うものとしてふさわしい」という考え自体がそもそも古典的に過ぎる。1989年当時の日本社会では,その価値観が共有されていなかったにせよ,街に立つ像といえばなんとなく裸体(かそれに近いもの)と思われていたのだろう。なお,モデルというのには本人に似ていないので,それを考えてもこれは抽象化された裸体と解すべきである。しかし,それから30年も経つと日本社会でその「なんとなく」が薄れてしまった。皆が違和感に気づいてしまったのだ。裸体であることに今ひとつ意味を感じられない銅像が町中(今回の場合は校門のそば)に立っていれば,一般市民が不自然に思うのは理解できる感覚だ。しかも本作の場合,事故の追悼なのに何かしらの象徴を追う必要あるの? という疑問もつきまとう。そう,問題の焦点は裸体が不自然であることだ。これに,似てないにせよ一応モデルではあり,死後に作られたから本人の遺志は確認されていないことも加味すると,ますます「裸体の意味はどこにあるの?」という疑問は大きくなる。
→ その意味で,今回の批判に大して明治日本のあれやこれやの事件や対抗宗教改革期の事件を引用して反論するのはあまり適切と思われない。今回の批判には裸体が社会の風俗を壊乱させるというような思想が背景にあるわけではないだろう。と同時に,こういう銅像への批判が性的なものを公共の場から追放する保守的な風潮への加担になるとか,性の解放に反対することになるとも思われないが,どうだろうか。
→ あまり注目されていないが,本件においてTogetter途中にこの記事をつぶやいたものが貼られている意味は大きいと思う。この記事中にある以下の指摘はなかなか重く,まさに本件に直撃していると言えよう。
>「ただし《平和の群像》以後、街頭に乱立した裸体彫刻群にそのようなコンセプトが継承され、裸体が衆目にさらされることの意味づけが個別になされたかといえば、そのようなことはなかったと思われる。そればかりか、公共空間における女性裸体像のはじまりは忘れられ、街頭に裸体を置くという形式のみが踏襲されて現在に至っている。」
→ いつも企画展のついでに見ているから個人的には関係ないな,と思っていたら企画展も値上げする説もあるので様子見。直近のKIMONO展は1700円だったので特に変わった様子はない。
→ いつ行っても外国人観光客,特に欧米から来た観光客が多いので,それを考えると1000円は高くないと思う。東博の常設展は日本美術史が上手くパッケージングされていてわかりやすい。東洋館も同じチケットで入れる。日本美術に比べると貧弱さを感じなくはないが,中国からインド・イスラームまで一通りそろっている。あわせて東洋の美をお楽しみいただければ半日は簡単に潰れるから,展示品のほとんどを初見と仮定するなら,娯楽としての費用対効果・時間あたりの効用は非常に高い。ルーヴル美術館の15ユーロ(約1800円),ウフィッツィ美術館の20ユーロと比べても遜色はないと思う(大英博物館は無料と言われると何も反論できないが)。無論,ルーヴル美術館の方が数倍広いが,どうせ1日では見切れない。どうせ国内観光客は企画展も見ていくだろう,リピーターは年間パスを買うだろう,近隣の大学生は大体全部キャンパスメンバーズで無料で入れる……という発想で焦点を絞ったと考えると,今回の値上げは納得できる(年パスも2021年4月に値上げ予定らしいが)。
→ 余談だが,キャンパスメンバーズの無料は本当にありがたかった。東博と西美はあわせて隔週か毎週くらいの頻度で,授業の隙間等を使って通って常設展を眺めていたので。あれは贅沢な時間の使い方だった。
・落第生を再試験で救済しようとした大学教授が懲戒処分を受けた事件(弁護士 師子角允彬のブログ)
→ 牧歌的な時代にはよく聞いた話だが,もうそんな時代ではないわな。これに限らず,大学生を取り巻く環境は21世紀以降の20年で大きく変化しているように感じられ,世代的な断絶は大きい。ちゃんと学生を育てる大学が評価されるようになったのは良いことであり,人情が無くなったのは悪いこととは思われない。大学はレジャー施設と言われていた世代は,現在の日本社会においてまだマジョリティだとは思うが,思われているほどのボリュームを占めないようになってきているのではないか。
・事故死した少女を悼む「本人がモデルの裸体像」を作られたら、当人は嫌じゃなかろうか〜(これが『裸体像』か、や裸体像の意義自体をめぐる議論にも)(Togetter)
→ この銅像が作られたのは1989年であるので,もう当時と現在では社会の価値観がずれてしまっているのだろう。「裸体こそが真の人間美であって,何かしらの抽象的な象徴を負うものとしてふさわしい」という考え自体がそもそも古典的に過ぎる。1989年当時の日本社会では,その価値観が共有されていなかったにせよ,街に立つ像といえばなんとなく裸体(かそれに近いもの)と思われていたのだろう。なお,モデルというのには本人に似ていないので,それを考えてもこれは抽象化された裸体と解すべきである。しかし,それから30年も経つと日本社会でその「なんとなく」が薄れてしまった。皆が違和感に気づいてしまったのだ。裸体であることに今ひとつ意味を感じられない銅像が町中(今回の場合は校門のそば)に立っていれば,一般市民が不自然に思うのは理解できる感覚だ。しかも本作の場合,事故の追悼なのに何かしらの象徴を追う必要あるの? という疑問もつきまとう。そう,問題の焦点は裸体が不自然であることだ。これに,似てないにせよ一応モデルではあり,死後に作られたから本人の遺志は確認されていないことも加味すると,ますます「裸体の意味はどこにあるの?」という疑問は大きくなる。
→ その意味で,今回の批判に大して明治日本のあれやこれやの事件や対抗宗教改革期の事件を引用して反論するのはあまり適切と思われない。今回の批判には裸体が社会の風俗を壊乱させるというような思想が背景にあるわけではないだろう。と同時に,こういう銅像への批判が性的なものを公共の場から追放する保守的な風潮への加担になるとか,性の解放に反対することになるとも思われないが,どうだろうか。
→ あまり注目されていないが,本件においてTogetter途中にこの記事をつぶやいたものが貼られている意味は大きいと思う。この記事中にある以下の指摘はなかなか重く,まさに本件に直撃していると言えよう。
>「ただし《平和の群像》以後、街頭に乱立した裸体彫刻群にそのようなコンセプトが継承され、裸体が衆目にさらされることの意味づけが個別になされたかといえば、そのようなことはなかったと思われる。そればかりか、公共空間における女性裸体像のはじまりは忘れられ、街頭に裸体を置くという形式のみが踏襲されて現在に至っている。」
Posted by dg_law at 08:00│Comments(0)