2020年10月19日
高校世界史でいかにリシュリューと三部会停止を記述するか
高校世界史深掘りシリーズの小ネタ。ルイ13世の宰相といえばリシュリューであるが,ルイ13世の在位年1610〜43年,リシュリューの宰相就任は1624年である(1642年に在任のまま死去)。つまり,ルイ13世とリシュリューのコンビが組まれたのは,ルイ13世の治世33年の後半,約18年ほどであった。ルイ13世は即位時点で9歳であり,母后マリー・ド・メディシスが実権を握っていた。そのマリー・ド・メディシスが,1614-15年の(全国)三部会に聖職者代表として出席・活躍したリシュリューに目をつけて登用した。その後,ルイ13世は長じて母の専横を嫌って親政を開始したが,それでも母の寵臣だったリシュリューは追放せず,どころか宰相に引き上げた。リシュリューはマリー・ド・メディシスの寵愛ではなく,その才覚によって宮廷に留まったと言えよう。
リシュリューの事績は多岐にわたるが,高校世界史上,その一つとして挙げられるのが三部会の停止である(以後,本稿で扱い三部会は全て全国三部会のみを指す)。三部会は国内諸身分の代表を招集して,国王の課す新税について協議させ,承認を得る機関であった。諸身分の同意を得たという形で新税を課すことで国民の不満を減らすという意図があったが,王権が強化されたことで有無を言わせない徴税が可能になれば,三部会の招集は必要がなくなる。リシュリューは王権を強化する目的で1614-15年の三部会を最後として開催を停止し,次に三部会が開かれたのはその約174年後の,フランス革命勃発時のことであった……と簡単にまとめようとすると,実はちょっとした史実の誤りが紛れ込むことになる。実は,リシュリューは(全国)三部会を停止・廃止する具体的な法令を出しておらず,三部会という制度そのものに手を付けたことはない。制度としては残っていたからこそ,約174年後に再開する機運が巡ってきたということである。
リシュリューは王権の強化政策を進めて,三部会の開催を認めなかった。そう,リシュリューは三部会の開催を停止したというよりは,開催させなかったのだ。ルイ14世の治世でも同じように後継の宰相マザランが強権で貴族勢力を押さえ込み,三部会が必要そうな場面であっても開催しなかったため,それがフランスの伝統として定着していった。その意味で,リシュリューが三部会を開催しない伝統を形成したと言いうるだろう。しかしながら,「開催しない伝統を形成した」という回りくどい言い回しでは,高校生は理解しづらい。そこで高校世界史では,誤解含みになることはあきらめて「リシュリューが三部会の開催を停止した」とまとめてしまうことになる。私もこのまとめ方はある程度しょうがないと思う。
一方,入試問題の正誤判定でそういう文が出てきたら審議の対象になる。入試問題に求められる厳密さは高校世界史の標準よりも厳しい。これは教科書も同様である。教科書は誤った史実を記述できない。しょうがないからという理屈で高校世界史的な嘘が許されるのは参考書であって,そこが教科書と参考書の身分による大きな違いであると思う。
そういうわけで教科書は,
・リシュリューが王権強化の政策をとったことを必ず盛り込む。
・三部会の不開催は,歴代の君主・宰相の王権強化の過程で生じたというニュアンスを出す。
・ただし,リシュリューが三部会停止の主語になってはいけない。
の3つの制約を全て守って,かつできるだけ簡略に記述しなければならない。これは非常に厳しい。こういう制約が厳しい部分は,教科書執筆者・編集者の腕の見せどころになると考えられる。というわけで,実際の記述を確認してみたのが以下の通り。対象はいつもの5冊+山川用語集・『詳説世界史研究』。
《リシュリューが”開かなかった”とそのまま書く》
・山川『詳説世界史』:「ルイ13世の宰相リシュリューは,王権に抵抗する貴族やユグノーをおさえて三部会を開かず,国際政治では……」
・山川『詳説世界史研究』:「彼(編註:ルイ13世)のもとで宰相となったリシュリュー枢機卿は,王権に抵抗する貴族やユグノーをおさえて王権の強化を進めた。リシュリューは地方当地のために王直任の役人(アンタンダン)を派遣し,王権を制約する身分制議会の全国三部会は,14年に招集されたものを最後に開かれなくなった。」
→ どちらもリシュリューが”開かなかった”とは言ったが,”停止した”とは言っていない。事実そのままの記述ではあり,あまり工夫があるとは言いがたい。そこは授業中の教師の説明で補足してもらうということなのかもしれない。ともあれ,3つの制約は全て守られているし,『詳説世界史』の記述は非常に短くまとまっている。
→ 逆に,珍しくも『詳説世界史研究』の書き方はスマートでなく,文の途中で主語が変わっていてちょっとわかりにくいし,1614年の開催が最後と言われると1789年の三部会は? ってなるし,記述がやや危うい気も。
《順当に主語をルイ13世にしてしまう》
・山川『新世界史』:「17世紀初頭,フランス最大の課題は,ユグノー戦争期以来の宗教対立を解消し,国王の政府の権威を確立することにあったが,これに取り組んだのがルイ13世と宰相リシュリューであった。ルイは貴族の私的軍事力を解体し,さらに一部貴族の反乱を鎮圧する一方で,官僚である地方長官を全国に派遣した。また王権を制約していた全国三部会を1614年を最後に停止した。」
・帝国書院:「ついで即位したルイ13世は,1615年以降は三部会の招集を停止し,1624年,リシュリューを宰相にして財政の改革をはかった。」
→ 山川『新世界史』は全てルイ13世を主語として処理してしまい,リシュリューはその補助としている。帝国書院の方はルイ13世とリシュリューの事績を明確に分けて記述し,三部会の招集停止はルイ13世を主語にしている。これらは史実の記述としては正確であり,しかも王権強化の過程で不開催になったというニュアンスもちゃんと出ている。しかしながら,リシュリューの事績が矮小化されていて,かえって全体像が見えづらくなっているという欠点もある。リシュリュー抜きのルイ13世自身がそこまで有能で王権強化に熱心だったかというと疑問で,やはり三部会停止を除けば主語がリシュリューであるべきだ。3つの制約の1つめが完全に守られているとは言いがたい。
《三部会は脚注で処理する》
・東京書籍:本文は「ルイ13世の時代になると,宰相リシュリューが大貴族やユグノーをおさえて王権の強化に努め……」として,高等法院につけた脚注で「三部会は1615年の解散以後開かれなくなると,王令審査権をよりどころに王権の強化に抵抗した」と言及。
・実教出版:本文は「ルイ13世の時代には,宰相リシュリューが王権に反抗する大貴族やユグノーをおさえ……」として,高等法院につけた脚注で「三部会が1615年からひらかれなくなると,王令登録権をよりどころに,王権に対する貴族の抵抗の拠点となった」と言及。また,リシュリューでコラムを作っていて「1614年の三部会で聖職者身分の代表となったのを機に,政界入りした」と言及。
→ どちらも三部会の招集停止を高等法院に付した脚注に飛ばして処理している。これは私にはできない発想で,異なる2つの出版社が共通してこの処理にしているのは面白い。山川の『詳説世界史』以外は古い版を収集していないのでわからないのだが,どちらが先にこの処理を思いついたのか(どちらがこれを真似たのか)はちょっと気になる。情報を持っている人がいたらください。
→ 閑話休題。リシュリューが王権強化の主役だったことが伝わる本文になっていて,かつ三部会停止が王権強化の過程のニュアンスに乗っていて,三部会停止がリシュリューの事績になっていないから,3つの制約が守られている。意外とこれが最適解の処理かも。
【まとめと感想】
山川『詳説世界史』の記述は簡素すぎる気はするが,逆に言えば最小限の字数でよくまとまっていると思う。逆に『詳説世界史研究』は饒舌すぎてかえってわかりにくい。ルイ13世を主語にした2冊は,リシュリューの立場があやふやでちょっと彼がかわいそう。脚注に飛ばしている2冊は見事な工夫と言えよう。そう,こういう面倒なものの説明は本文に入れなくてよいのだ。
なお,山川『用語集』はリシュリューの項目の説明で,三部会停止を彼の事績として挙げていない。そして別に「三部会招集停止」の項目を立てていて,そちらでもリシュリューには触れておらず,相互に言及しない形をとっている。これは用語集が辞書だからこそできることであり,辞書には辞書の記述上のアドバンテージがあるということだろう。
リシュリューの事績は多岐にわたるが,高校世界史上,その一つとして挙げられるのが三部会の停止である(以後,本稿で扱い三部会は全て全国三部会のみを指す)。三部会は国内諸身分の代表を招集して,国王の課す新税について協議させ,承認を得る機関であった。諸身分の同意を得たという形で新税を課すことで国民の不満を減らすという意図があったが,王権が強化されたことで有無を言わせない徴税が可能になれば,三部会の招集は必要がなくなる。リシュリューは王権を強化する目的で1614-15年の三部会を最後として開催を停止し,次に三部会が開かれたのはその約174年後の,フランス革命勃発時のことであった……と簡単にまとめようとすると,実はちょっとした史実の誤りが紛れ込むことになる。実は,リシュリューは(全国)三部会を停止・廃止する具体的な法令を出しておらず,三部会という制度そのものに手を付けたことはない。制度としては残っていたからこそ,約174年後に再開する機運が巡ってきたということである。
リシュリューは王権の強化政策を進めて,三部会の開催を認めなかった。そう,リシュリューは三部会の開催を停止したというよりは,開催させなかったのだ。ルイ14世の治世でも同じように後継の宰相マザランが強権で貴族勢力を押さえ込み,三部会が必要そうな場面であっても開催しなかったため,それがフランスの伝統として定着していった。その意味で,リシュリューが三部会を開催しない伝統を形成したと言いうるだろう。しかしながら,「開催しない伝統を形成した」という回りくどい言い回しでは,高校生は理解しづらい。そこで高校世界史では,誤解含みになることはあきらめて「リシュリューが三部会の開催を停止した」とまとめてしまうことになる。私もこのまとめ方はある程度しょうがないと思う。
一方,入試問題の正誤判定でそういう文が出てきたら審議の対象になる。入試問題に求められる厳密さは高校世界史の標準よりも厳しい。これは教科書も同様である。教科書は誤った史実を記述できない。しょうがないからという理屈で高校世界史的な嘘が許されるのは参考書であって,そこが教科書と参考書の身分による大きな違いであると思う。
そういうわけで教科書は,
・リシュリューが王権強化の政策をとったことを必ず盛り込む。
・三部会の不開催は,歴代の君主・宰相の王権強化の過程で生じたというニュアンスを出す。
・ただし,リシュリューが三部会停止の主語になってはいけない。
の3つの制約を全て守って,かつできるだけ簡略に記述しなければならない。これは非常に厳しい。こういう制約が厳しい部分は,教科書執筆者・編集者の腕の見せどころになると考えられる。というわけで,実際の記述を確認してみたのが以下の通り。対象はいつもの5冊+山川用語集・『詳説世界史研究』。
《リシュリューが”開かなかった”とそのまま書く》
・山川『詳説世界史』:「ルイ13世の宰相リシュリューは,王権に抵抗する貴族やユグノーをおさえて三部会を開かず,国際政治では……」
・山川『詳説世界史研究』:「彼(編註:ルイ13世)のもとで宰相となったリシュリュー枢機卿は,王権に抵抗する貴族やユグノーをおさえて王権の強化を進めた。リシュリューは地方当地のために王直任の役人(アンタンダン)を派遣し,王権を制約する身分制議会の全国三部会は,14年に招集されたものを最後に開かれなくなった。」
→ どちらもリシュリューが”開かなかった”とは言ったが,”停止した”とは言っていない。事実そのままの記述ではあり,あまり工夫があるとは言いがたい。そこは授業中の教師の説明で補足してもらうということなのかもしれない。ともあれ,3つの制約は全て守られているし,『詳説世界史』の記述は非常に短くまとまっている。
→ 逆に,珍しくも『詳説世界史研究』の書き方はスマートでなく,文の途中で主語が変わっていてちょっとわかりにくいし,1614年の開催が最後と言われると1789年の三部会は? ってなるし,記述がやや危うい気も。
《順当に主語をルイ13世にしてしまう》
・山川『新世界史』:「17世紀初頭,フランス最大の課題は,ユグノー戦争期以来の宗教対立を解消し,国王の政府の権威を確立することにあったが,これに取り組んだのがルイ13世と宰相リシュリューであった。ルイは貴族の私的軍事力を解体し,さらに一部貴族の反乱を鎮圧する一方で,官僚である地方長官を全国に派遣した。また王権を制約していた全国三部会を1614年を最後に停止した。」
・帝国書院:「ついで即位したルイ13世は,1615年以降は三部会の招集を停止し,1624年,リシュリューを宰相にして財政の改革をはかった。」
→ 山川『新世界史』は全てルイ13世を主語として処理してしまい,リシュリューはその補助としている。帝国書院の方はルイ13世とリシュリューの事績を明確に分けて記述し,三部会の招集停止はルイ13世を主語にしている。これらは史実の記述としては正確であり,しかも王権強化の過程で不開催になったというニュアンスもちゃんと出ている。しかしながら,リシュリューの事績が矮小化されていて,かえって全体像が見えづらくなっているという欠点もある。リシュリュー抜きのルイ13世自身がそこまで有能で王権強化に熱心だったかというと疑問で,やはり三部会停止を除けば主語がリシュリューであるべきだ。3つの制約の1つめが完全に守られているとは言いがたい。
《三部会は脚注で処理する》
・東京書籍:本文は「ルイ13世の時代になると,宰相リシュリューが大貴族やユグノーをおさえて王権の強化に努め……」として,高等法院につけた脚注で「三部会は1615年の解散以後開かれなくなると,王令審査権をよりどころに王権の強化に抵抗した」と言及。
・実教出版:本文は「ルイ13世の時代には,宰相リシュリューが王権に反抗する大貴族やユグノーをおさえ……」として,高等法院につけた脚注で「三部会が1615年からひらかれなくなると,王令登録権をよりどころに,王権に対する貴族の抵抗の拠点となった」と言及。また,リシュリューでコラムを作っていて「1614年の三部会で聖職者身分の代表となったのを機に,政界入りした」と言及。
→ どちらも三部会の招集停止を高等法院に付した脚注に飛ばして処理している。これは私にはできない発想で,異なる2つの出版社が共通してこの処理にしているのは面白い。山川の『詳説世界史』以外は古い版を収集していないのでわからないのだが,どちらが先にこの処理を思いついたのか(どちらがこれを真似たのか)はちょっと気になる。情報を持っている人がいたらください。
→ 閑話休題。リシュリューが王権強化の主役だったことが伝わる本文になっていて,かつ三部会停止が王権強化の過程のニュアンスに乗っていて,三部会停止がリシュリューの事績になっていないから,3つの制約が守られている。意外とこれが最適解の処理かも。
【まとめと感想】
山川『詳説世界史』の記述は簡素すぎる気はするが,逆に言えば最小限の字数でよくまとまっていると思う。逆に『詳説世界史研究』は饒舌すぎてかえってわかりにくい。ルイ13世を主語にした2冊は,リシュリューの立場があやふやでちょっと彼がかわいそう。脚注に飛ばしている2冊は見事な工夫と言えよう。そう,こういう面倒なものの説明は本文に入れなくてよいのだ。
なお,山川『用語集』はリシュリューの項目の説明で,三部会停止を彼の事績として挙げていない。そして別に「三部会招集停止」の項目を立てていて,そちらでもリシュリューには触れておらず,相互に言及しない形をとっている。これは用語集が辞書だからこそできることであり,辞書には辞書の記述上のアドバンテージがあるということだろう。
Posted by dg_law at 00:52│Comments(2)
この記事へのコメント
『新世界史』が四冊あるので、
『新世界史』1991年改訂検定(柴田説?)
次のルイ13世の時期、宰相リシュリューは大貴族やユグノーを押さえて絶対主義の成立に努力し、三十年戦争に介入してハプスブルク家に対抗した。ついで、ルイ14世が即位すると、宰相マザランは幼少の王を助けて王権の強化に努め、そのため貴族や高等法院⋆の犯行を招いて再び内乱となったが(フロンドの乱)、それを鎮圧した。
⋆中世末にできた最高裁判所であるが、三部会が1615年から開催されなくなったので、それに代わって王権の集権化に抵抗する機関になった。
(高等法院の註として。)
『新世界史』2003年検定(中野説?)
1610年に即位したブルボン家のルイ13世は宰相リシュリューをもちい、内政においてはユグノーをおさえ、貴族の既得権益をとりあげ、徴税制度を改め、勅任官僚の地方長官を全国に派遣し、中央集権を進めた。王権を制約していた全国三部会は、1614年を最後に停止された。
『新世界史』2007年検定
同上
『新世界史』2013年検定(小田中説?)
御引用の通り。
実教は平成18年検定版では
「次のルイ13世の下で宰相になったリシュリューは王権に反抗する大貴族やユグノーの勢力を押さえて三部会を停止するいっぽう、国家利益を掲げて三十年戦争で新教側を支持し、ハプスブルク家に対抗した。」
東書は、24年の検定版で御引用の通りです。
『新世界史』1991年改訂検定(柴田説?)
次のルイ13世の時期、宰相リシュリューは大貴族やユグノーを押さえて絶対主義の成立に努力し、三十年戦争に介入してハプスブルク家に対抗した。ついで、ルイ14世が即位すると、宰相マザランは幼少の王を助けて王権の強化に努め、そのため貴族や高等法院⋆の犯行を招いて再び内乱となったが(フロンドの乱)、それを鎮圧した。
⋆中世末にできた最高裁判所であるが、三部会が1615年から開催されなくなったので、それに代わって王権の集権化に抵抗する機関になった。
(高等法院の註として。)
『新世界史』2003年検定(中野説?)
1610年に即位したブルボン家のルイ13世は宰相リシュリューをもちい、内政においてはユグノーをおさえ、貴族の既得権益をとりあげ、徴税制度を改め、勅任官僚の地方長官を全国に派遣し、中央集権を進めた。王権を制約していた全国三部会は、1614年を最後に停止された。
『新世界史』2007年検定
同上
『新世界史』2013年検定(小田中説?)
御引用の通り。
実教は平成18年検定版では
「次のルイ13世の下で宰相になったリシュリューは王権に反抗する大貴族やユグノーの勢力を押さえて三部会を停止するいっぽう、国家利益を掲げて三十年戦争で新教側を支持し、ハプスブルク家に対抗した。」
東書は、24年の検定版で御引用の通りです。
Posted by aigle_bicephale at 2020年10月26日 21:39
この企画も何度目かになるので使用教科書の年度表記を省略していますが,使っているのは基本的にいずれも最新の版ですね。
さかのぼるとけっこう記述が違うのは面白いですね。1991年の『新世界史』が「高等法院への脚注で処理する」派だったのは興味深いところで,なんでやめてしまったのか不思議です。
2003年の「人を主語にしない」のも新パターンです。
そして2013年から現行のスタイルなのですね。東書もそうですし,これは課程の切り替えの影響ですね。小田中直樹氏が書いたというご推察は多分正しかろうと思います。
そして2006年の実教は堂々と「リシュリューが三部会を停止した」と書いてしまっているのですね……まずいのに気づいて現行の記述になったのでしょうね。
さかのぼるとけっこう記述が違うのは面白いですね。1991年の『新世界史』が「高等法院への脚注で処理する」派だったのは興味深いところで,なんでやめてしまったのか不思議です。
2003年の「人を主語にしない」のも新パターンです。
そして2013年から現行のスタイルなのですね。東書もそうですし,これは課程の切り替えの影響ですね。小田中直樹氏が書いたというご推察は多分正しかろうと思います。
そして2006年の実教は堂々と「リシュリューが三部会を停止した」と書いてしまっているのですね……まずいのに気づいて現行の記述になったのでしょうね。
Posted by DG-Law at 2020年11月01日 21:58