2020年11月24日
琴奨菊引退に寄せて
稀勢の里・琴奨菊・豪栄道・栃煌山というと,2010年代前半の「次代の日本人大関・横綱」と呼ばれて期待を集めていた力士たちである。これでその全員が引退したことになり,「白鵬の全盛期に挑んだ日本人たち」というテーマでは一つの画期が終わりを告げたと言っていい。白鵬の全盛期の終わりとともに感慨がある。
琴奨菊は2002年初場所に前相撲で初土俵,2004年7月に新十両,2005年初場所に新入幕で,2007年3月に関脇に昇進していたから,ここまでの出世は早かった。しかし,そこからが長く,エレベーターからの脱出に時間がかかった。ともかく三役で二桁勝てないのである。特に上位陣には得意のがぶり寄りが対策されて全く勝てず,同格以下からなんとか白星を稼いで定着しているという状況であった。稀勢の里も豪栄道も2007-8年頃には同様の状況であったから,やはり彼らはよく似ている。しかしながら,この3人で言えばいち早く抜け出たのは琴奨菊であった。これは当時として意外なことで,琴奨菊のがぶり寄りはすでにやり方が固まってしまっていて伸び代が短いと思われていたためである。しかし,後段で詳述するが,得意のがぶり寄りに右からの突き落としを加える改良によってこれを打破し,2011年の5・7・9月で計33勝,大関取りに成功する。この2011年は年間5場所で計55勝,平均11勝と好成績で年間最多勝が白鵬の次点であった(白鵬は66勝だから大差がついているが,この頃の白鵬は全盛期なので)。また,この頃から立ち合い前に大きく背をそらす,本人命名「琴バウアー」のルーティンも取り入れられ,メンタル面も強化された。
大関になってからはケガに苦しみ,肝心のがぶり寄りの馬力が落ちる場所が見られた。特に右肩のケガが重く,新戦法の右からの突き落としに響いた。2012-15年はなんとか8・9勝で勝ち越すか負け越してカド番という成績が繰り返され,周囲の期待もしぼんでいった。とはいえ往時の大関互助会が存在せず,実力で延命していたのだから偉い。その矢先の2016年の初場所,誰も期待していなかった場所で琴奨菊が民族的日本人として10年ぶりの優勝を果たすのだから,相撲はわからない(2006年初場所の栃東以来)。この場所の琴奨菊の相撲は彼の相撲の完成形で,がぶり寄りからの右突き落としが光り,左四つでの奇襲もあった。元が満身創痍の身体であるので綱取りはあまり期待されておらず,実際に達成されなかった。しかしながら,白鵬・日馬富士・鶴竜でなければ優勝できないという空気が打破される契機にはなり,同年9月の豪栄道,翌年初場所の稀勢の里の優勝につながり,ひいては白鵬の衰えとともに現在の戦国時代の呼び水となった。その意味で,歴史的意義は高い優勝であった。もう一つ,こちらは偶然性が高いが,2016年から20年まで5年連続で初優勝の力士の優勝が続いていて(琴奨菊・稀勢の里・栃ノ心・玉鷲・徳勝龍),この起点にもなっている。
綱取り失敗後は元のぎりぎり勝ち越すか負け越すかという成績に戻っていき,2017年初場所でとうとう陥落する。翌3月場所では8ー5での14日目,照ノ富士に変化されて6敗目を喫して琴奨菊の1場所特例復帰の可能性が潰えた,という取組があった。照ノ富士が普段は全く変化をしない力士だっただけに琴奨菊は全く予想していなかったようだ。しかし,照ノ富士は14日目で自分が変化という切り札を使ってしまったために,千秋楽に稀勢の里の変化を食らって優勝を逃す。そしてここから照ノ富士の膝が限界となって番付の転落が始まり,稀勢の里も優勝はしたが大ケガを負って短命横綱となる……とこの一番はとんでもない三者の運命の分岐点となった。
琴奨菊は大関陥落後もがぶり寄りの一芸により若手の門番となり,番付運もあって長く幕内上位に残った。加齢による衰えでどうにもならなくなったのは2020年に入ってからで,11月に十両で勝ち越す見込みが無くなって引退となった。実働はまるっと18年と非常に長く,21世紀になってから伸びた力士寿命の典型例と言えよう。長かっただけに幕内在位92場所で歴代7位,幕内勝利718勝で歴代6位という記録も残した。
取り口について。琴奨菊の代名詞とも言うべき左四つがぶり寄りであるが,平幕にいた頃は単純ながぶり寄りで攻めが直線的であった。それゆえにまわしのとり方が不十分だったりするとかえって横の動きに弱くなり,振られたり引かれたりして前のめりに落ちる弱点があった。しかし,2011年の大関取りの年に,右上手の使い方に大きな技術的進歩が見られた。左四つであるから以前の琴奨菊は左下手にこだわっていて,右は雑であった。しかしこの改良により,右で前まわしをとって相手の左を殺す,がぶり寄りと見せかけて左に動いて突き落とす・極めて小手投げを放つ等,攻守に左が活きてくるようになり,見違えて相撲が改善された。特にがぶり寄りで相手の腰を浮かせてからの右突き落とし・右小手投げは強烈で,また右突き落としでフェイントを入れてからの左すくい投げというパターンもあった。これにより,がぶり寄りだけだと土俵際で粘られたり横に動かれたりすると自分が落ちていたところ,この突き落としのためにこれらの弱点が消えた。また,左右逆の右四つでも相撲がとれる稽古を積んでいて,これもかなりの効果があった。特に白鵬は一時期,琴奨菊の浅い左上手で右の差し手を殺されて苦戦するというパターンが目立つようになり,琴奨菊の戦術は全盛期の白鵬の数少ない攻略法にもなった。あわせて,攻め手のバリエーションの重要性を知らしめる進化であったと言えよう。
しかしながら,得意のがぶり寄りの突進力を高めるため,また本人の性格的にも立ち合いの変化をほとんど見せず,逆に変化にはめっぽう弱かった。加えて四つ相撲でしか相撲がとれないので突き押しの間合いになるとどうしようもなくなる他,まわしを中途半端にしか取れていないのに焦って攻勢を始めてしまうという悪癖があり,せっかくのがぶり寄りの突進力が半減してしまって押しきれず,逆転負けを喫するという場面も多かった。
それでも,一芸に特化し,その一芸の上にバリエーションを構築するというやり方で,がぶり寄りという古典的な戦法に新たな戦法を打ち立て,自らの伸び代を増やして大関まで勝ち取ったスタイルは異形であり偉業である。「琴バウアー」のルーティンも,相撲界にルーティンを取り入れてメンタルを安定させる手法を取り入れた点で先駆者だった。本人の温厚な性格やどっしりとした体型,がぶり寄りの直線的な印象とは裏腹に,むしろ革新的な創意工夫があった力士だったと言えよう。後進の育成にも期待したい。
琴奨菊は2002年初場所に前相撲で初土俵,2004年7月に新十両,2005年初場所に新入幕で,2007年3月に関脇に昇進していたから,ここまでの出世は早かった。しかし,そこからが長く,エレベーターからの脱出に時間がかかった。ともかく三役で二桁勝てないのである。特に上位陣には得意のがぶり寄りが対策されて全く勝てず,同格以下からなんとか白星を稼いで定着しているという状況であった。稀勢の里も豪栄道も2007-8年頃には同様の状況であったから,やはり彼らはよく似ている。しかしながら,この3人で言えばいち早く抜け出たのは琴奨菊であった。これは当時として意外なことで,琴奨菊のがぶり寄りはすでにやり方が固まってしまっていて伸び代が短いと思われていたためである。しかし,後段で詳述するが,得意のがぶり寄りに右からの突き落としを加える改良によってこれを打破し,2011年の5・7・9月で計33勝,大関取りに成功する。この2011年は年間5場所で計55勝,平均11勝と好成績で年間最多勝が白鵬の次点であった(白鵬は66勝だから大差がついているが,この頃の白鵬は全盛期なので)。また,この頃から立ち合い前に大きく背をそらす,本人命名「琴バウアー」のルーティンも取り入れられ,メンタル面も強化された。
大関になってからはケガに苦しみ,肝心のがぶり寄りの馬力が落ちる場所が見られた。特に右肩のケガが重く,新戦法の右からの突き落としに響いた。2012-15年はなんとか8・9勝で勝ち越すか負け越してカド番という成績が繰り返され,周囲の期待もしぼんでいった。とはいえ往時の大関互助会が存在せず,実力で延命していたのだから偉い。その矢先の2016年の初場所,誰も期待していなかった場所で琴奨菊が民族的日本人として10年ぶりの優勝を果たすのだから,相撲はわからない(2006年初場所の栃東以来)。この場所の琴奨菊の相撲は彼の相撲の完成形で,がぶり寄りからの右突き落としが光り,左四つでの奇襲もあった。元が満身創痍の身体であるので綱取りはあまり期待されておらず,実際に達成されなかった。しかしながら,白鵬・日馬富士・鶴竜でなければ優勝できないという空気が打破される契機にはなり,同年9月の豪栄道,翌年初場所の稀勢の里の優勝につながり,ひいては白鵬の衰えとともに現在の戦国時代の呼び水となった。その意味で,歴史的意義は高い優勝であった。もう一つ,こちらは偶然性が高いが,2016年から20年まで5年連続で初優勝の力士の優勝が続いていて(琴奨菊・稀勢の里・栃ノ心・玉鷲・徳勝龍),この起点にもなっている。
綱取り失敗後は元のぎりぎり勝ち越すか負け越すかという成績に戻っていき,2017年初場所でとうとう陥落する。翌3月場所では8ー5での14日目,照ノ富士に変化されて6敗目を喫して琴奨菊の1場所特例復帰の可能性が潰えた,という取組があった。照ノ富士が普段は全く変化をしない力士だっただけに琴奨菊は全く予想していなかったようだ。しかし,照ノ富士は14日目で自分が変化という切り札を使ってしまったために,千秋楽に稀勢の里の変化を食らって優勝を逃す。そしてここから照ノ富士の膝が限界となって番付の転落が始まり,稀勢の里も優勝はしたが大ケガを負って短命横綱となる……とこの一番はとんでもない三者の運命の分岐点となった。
琴奨菊は大関陥落後もがぶり寄りの一芸により若手の門番となり,番付運もあって長く幕内上位に残った。加齢による衰えでどうにもならなくなったのは2020年に入ってからで,11月に十両で勝ち越す見込みが無くなって引退となった。実働はまるっと18年と非常に長く,21世紀になってから伸びた力士寿命の典型例と言えよう。長かっただけに幕内在位92場所で歴代7位,幕内勝利718勝で歴代6位という記録も残した。
取り口について。琴奨菊の代名詞とも言うべき左四つがぶり寄りであるが,平幕にいた頃は単純ながぶり寄りで攻めが直線的であった。それゆえにまわしのとり方が不十分だったりするとかえって横の動きに弱くなり,振られたり引かれたりして前のめりに落ちる弱点があった。しかし,2011年の大関取りの年に,右上手の使い方に大きな技術的進歩が見られた。左四つであるから以前の琴奨菊は左下手にこだわっていて,右は雑であった。しかしこの改良により,右で前まわしをとって相手の左を殺す,がぶり寄りと見せかけて左に動いて突き落とす・極めて小手投げを放つ等,攻守に左が活きてくるようになり,見違えて相撲が改善された。特にがぶり寄りで相手の腰を浮かせてからの右突き落とし・右小手投げは強烈で,また右突き落としでフェイントを入れてからの左すくい投げというパターンもあった。これにより,がぶり寄りだけだと土俵際で粘られたり横に動かれたりすると自分が落ちていたところ,この突き落としのためにこれらの弱点が消えた。また,左右逆の右四つでも相撲がとれる稽古を積んでいて,これもかなりの効果があった。特に白鵬は一時期,琴奨菊の浅い左上手で右の差し手を殺されて苦戦するというパターンが目立つようになり,琴奨菊の戦術は全盛期の白鵬の数少ない攻略法にもなった。あわせて,攻め手のバリエーションの重要性を知らしめる進化であったと言えよう。
しかしながら,得意のがぶり寄りの突進力を高めるため,また本人の性格的にも立ち合いの変化をほとんど見せず,逆に変化にはめっぽう弱かった。加えて四つ相撲でしか相撲がとれないので突き押しの間合いになるとどうしようもなくなる他,まわしを中途半端にしか取れていないのに焦って攻勢を始めてしまうという悪癖があり,せっかくのがぶり寄りの突進力が半減してしまって押しきれず,逆転負けを喫するという場面も多かった。
それでも,一芸に特化し,その一芸の上にバリエーションを構築するというやり方で,がぶり寄りという古典的な戦法に新たな戦法を打ち立て,自らの伸び代を増やして大関まで勝ち取ったスタイルは異形であり偉業である。「琴バウアー」のルーティンも,相撲界にルーティンを取り入れてメンタルを安定させる手法を取り入れた点で先駆者だった。本人の温厚な性格やどっしりとした体型,がぶり寄りの直線的な印象とは裏腹に,むしろ革新的な創意工夫があった力士だったと言えよう。後進の育成にも期待したい。
Posted by dg_law at 20:00│Comments(0)