2021年02月28日
都美術館・吉田博展:登山家の見る風景
東京都美術館の吉田博展に行ってきた。登山に行きにくいご時世になってしまったが,登山の絵を見ることはできる。ありがたいことである。
吉田博は黒田清輝の10歳年下になる,1876年生まれであるから明治の後期,日本に西洋美術が定着し始めた頃から活動を始めている。貧しい家の出身だったが秀才で知られて福岡の修猷館中学に入学,そこで今度は画才を認められ,そこで図画の教師をしていた吉田嘉三郎の養子となった。吉田嘉三郎は中津藩の御用絵師出身で,娘が4人いたが,そのうちの一人が後に吉田博の妻となる。この妻の「ふじを」も当時としては珍しい女性画家として有名になる。ところが嘉三郎が33歳で急死,吉田博は18歳にして家長となり,画家として稼がなくてはならない立場となった。この状況で5年後の明治32年,23歳のときに急遽アメリカ旅行を敢行,これが何と大きな成功を収めた。エキゾチックな日本の風景画が受けたのである。吉田博はそれを織り込み済みだったのだろう。この日本より先にアメリカで名を上げて帰国したから,後の藤田嗣治等の先駆けと言えるかもしれない。また当時の画家たちは洋行といえばフランスであったから,アメリカを選んだところも主流から外れている。
国内では白馬会とは折り合いが悪く対立していた。しかし,全くの反骨精神の塊で反権威主義だったかというとそうではなく,国家主催の文展や万博の日本出品等には積極的に参加していて表彰されているし,文展は審査員にもなっている。何よりも晩年のことになるが,日中戦争では従軍画家として中国に長く滞在している。ただし,戦争画は全然描いておらず,もっぱらに中国の風景画を描いているのだが,当時すでに国際的に有名な画家だっただけに画題に縛られなかったのだろう。それを考えると,むしろ積極的に戦闘場面を描いた藤田嗣治は”それ”を描きたかったのだろう。戦後にはアメリカで名声を博していたことが功を奏して占領軍からも厚遇を受けたが,日本が主権を回復する前の1950年に亡くなった。
彼の画業の最大の特徴は風景画を得意としたことで,特に吉田博は日本の戦前では著名な登山家であって高山の作品が多い。彼は次男に「穂高」と命名してしまうくらいの登山好きで(なお長男には「白山」と付けようとしたが反対されて断念したとのこと),日本アルプスは22歳から晩年にかけてまで何度も旅行している。作品も展示にあっただけで穂高・槍ヶ岳・剱岳・立山・白馬山・大天井岳・鷲羽岳・針ノ木岳・乗鞍岳・烏帽子岳・鳳凰三山・甲斐駒ヶ岳・北岳・間ノ岳・雲仙岳,そして富士山とバリエーションに富む……いや,半分以上が北アルプス(の後の日本百名山)じゃな。本人がスケッチしたであろう角度まで再現しようとするなら恐ろしく聖地巡礼難度が高くなりそう。なお,大天井岳があるところでピンときた人もいるだろうが,吉田博が表銀座に赴く時の案内役が喜作新道に名を残した小林喜作とのこと。吉田博は前述の反骨心あふれるエピソードに反して登山では案内人の指示に極めて従順だったとのことが説明されていた。まあ,ここで反骨しても死ぬだけなので。本家のアルプスも好んだようで,ユングフラウ・ヴェッターホルン・マッターホルンとこちらの作品も多い。作品は少ないがヒマラヤにも登っている。ところでちょっと気になったのは,本展のキャプション及び図録の説明では一部作品が単に「駒ヶ岳」と説明されていたのだが,説明不足では。日本に駒ケ岳が何個あると思っているのかという話で,それとも眺望に富士山が入るのだから皆わかるだろうという投げっぱなしだろうか。普通に登山に詳しくないとわからんと思うのだが……。もう一つ,「温泉岳」に何も説明がないのも不親切だろう(雲仙岳のこと)。
もう一つの特徴は西洋美術ながら油彩画に偏らず,特に木版画の活動が多かったこと。日本には浮世絵があったので多色摺りの木版画の伝統はあったが,なぜか木版画で油彩画並の豊かな色彩を再現しようとしたため,何十回と摺る摺師いじめのような作業工程となったそうだ。その苦労の甲斐あって,彼の木版画はグラデーションが美しく,高山の雪渓や渓流,朝焼けが見事に表現されている。山岳風景以外でも,海景画や田園風景・都市風景でもその効力はいかんなく発揮され,木版でもここまでできるのだということを誇示している。海景画では同じ場面を違う色で摺ることで朝・午前・霧・午後・夕・夜の6つの場面を描いた「帆船」の作品があり,これはまさに多色摺りの版画だからできた技だろう。浮世絵は10〜20回程度のところ,吉田博の作品は平均が30〜40回,最大で96度摺ったとのこと。しかし,その96度摺りの作品「(日光東照宮)陽明門」を見た感想で言わせてもらうと,技術的挑戦心は買うけどもう普通に油彩か水彩で描けよと思ってしまった程度には微妙だった。表現手法による向き不向きはあると思う。向き不向きで言えば吉田博はとにかく風景画に特化していて,自然風景だけではなくて建物も上手く,動植物もまあ苦手じゃないくらいだが,人物ははっきりと苦手だったようだ。実際の作品でも偶像はともかく肖像画は上手くなく,作品数も少ない。
個人的にはやはり高山の風景画が心に残った。私は北アルプスは全然登っていないが,他の高山に登った経験から言ってこの風景は割とわかる。彼はこの風景がまた見たくて,何度も北アルプスに登ってしまうのだろう。また南北アルプスに目を奪われたがちだが,富士山は作品数が圧倒的に多く,これまた抜群に上手い。富士山を描いた著名な画家は数多けれど,自分で登って剣ヶ峰やご来光まで絵に収めた人はそう多くないだろう。そうであるからこそ遠景からの富士山も解像度が高い。今回の画像は彼の代表作として剱岳のものにしたが,単にベストを選ぶなら「河口湖」を挙げたいところ。直接的な山岳風景ではないが,「渓流」も好きな作品だ。
吉田博は黒田清輝の10歳年下になる,1876年生まれであるから明治の後期,日本に西洋美術が定着し始めた頃から活動を始めている。貧しい家の出身だったが秀才で知られて福岡の修猷館中学に入学,そこで今度は画才を認められ,そこで図画の教師をしていた吉田嘉三郎の養子となった。吉田嘉三郎は中津藩の御用絵師出身で,娘が4人いたが,そのうちの一人が後に吉田博の妻となる。この妻の「ふじを」も当時としては珍しい女性画家として有名になる。ところが嘉三郎が33歳で急死,吉田博は18歳にして家長となり,画家として稼がなくてはならない立場となった。この状況で5年後の明治32年,23歳のときに急遽アメリカ旅行を敢行,これが何と大きな成功を収めた。エキゾチックな日本の風景画が受けたのである。吉田博はそれを織り込み済みだったのだろう。この日本より先にアメリカで名を上げて帰国したから,後の藤田嗣治等の先駆けと言えるかもしれない。また当時の画家たちは洋行といえばフランスであったから,アメリカを選んだところも主流から外れている。
国内では白馬会とは折り合いが悪く対立していた。しかし,全くの反骨精神の塊で反権威主義だったかというとそうではなく,国家主催の文展や万博の日本出品等には積極的に参加していて表彰されているし,文展は審査員にもなっている。何よりも晩年のことになるが,日中戦争では従軍画家として中国に長く滞在している。ただし,戦争画は全然描いておらず,もっぱらに中国の風景画を描いているのだが,当時すでに国際的に有名な画家だっただけに画題に縛られなかったのだろう。それを考えると,むしろ積極的に戦闘場面を描いた藤田嗣治は”それ”を描きたかったのだろう。戦後にはアメリカで名声を博していたことが功を奏して占領軍からも厚遇を受けたが,日本が主権を回復する前の1950年に亡くなった。
彼の画業の最大の特徴は風景画を得意としたことで,特に吉田博は日本の戦前では著名な登山家であって高山の作品が多い。彼は次男に「穂高」と命名してしまうくらいの登山好きで(なお長男には「白山」と付けようとしたが反対されて断念したとのこと),日本アルプスは22歳から晩年にかけてまで何度も旅行している。作品も展示にあっただけで穂高・槍ヶ岳・剱岳・立山・白馬山・大天井岳・鷲羽岳・針ノ木岳・乗鞍岳・烏帽子岳・鳳凰三山・甲斐駒ヶ岳・北岳・間ノ岳・雲仙岳,そして富士山とバリエーションに富む……いや,半分以上が北アルプス(の後の日本百名山)じゃな。本人がスケッチしたであろう角度まで再現しようとするなら恐ろしく聖地巡礼難度が高くなりそう。なお,大天井岳があるところでピンときた人もいるだろうが,吉田博が表銀座に赴く時の案内役が喜作新道に名を残した小林喜作とのこと。吉田博は前述の反骨心あふれるエピソードに反して登山では案内人の指示に極めて従順だったとのことが説明されていた。まあ,ここで反骨しても死ぬだけなので。本家のアルプスも好んだようで,ユングフラウ・ヴェッターホルン・マッターホルンとこちらの作品も多い。作品は少ないがヒマラヤにも登っている。ところでちょっと気になったのは,本展のキャプション及び図録の説明では一部作品が単に「駒ヶ岳」と説明されていたのだが,説明不足では。日本に駒ケ岳が何個あると思っているのかという話で,それとも眺望に富士山が入るのだから皆わかるだろうという投げっぱなしだろうか。普通に登山に詳しくないとわからんと思うのだが……。もう一つ,「温泉岳」に何も説明がないのも不親切だろう(雲仙岳のこと)。
もう一つの特徴は西洋美術ながら油彩画に偏らず,特に木版画の活動が多かったこと。日本には浮世絵があったので多色摺りの木版画の伝統はあったが,なぜか木版画で油彩画並の豊かな色彩を再現しようとしたため,何十回と摺る摺師いじめのような作業工程となったそうだ。その苦労の甲斐あって,彼の木版画はグラデーションが美しく,高山の雪渓や渓流,朝焼けが見事に表現されている。山岳風景以外でも,海景画や田園風景・都市風景でもその効力はいかんなく発揮され,木版でもここまでできるのだということを誇示している。海景画では同じ場面を違う色で摺ることで朝・午前・霧・午後・夕・夜の6つの場面を描いた「帆船」の作品があり,これはまさに多色摺りの版画だからできた技だろう。浮世絵は10〜20回程度のところ,吉田博の作品は平均が30〜40回,最大で96度摺ったとのこと。しかし,その96度摺りの作品「(日光東照宮)陽明門」を見た感想で言わせてもらうと,技術的挑戦心は買うけどもう普通に油彩か水彩で描けよと思ってしまった程度には微妙だった。表現手法による向き不向きはあると思う。向き不向きで言えば吉田博はとにかく風景画に特化していて,自然風景だけではなくて建物も上手く,動植物もまあ苦手じゃないくらいだが,人物ははっきりと苦手だったようだ。実際の作品でも偶像はともかく肖像画は上手くなく,作品数も少ない。
個人的にはやはり高山の風景画が心に残った。私は北アルプスは全然登っていないが,他の高山に登った経験から言ってこの風景は割とわかる。彼はこの風景がまた見たくて,何度も北アルプスに登ってしまうのだろう。また南北アルプスに目を奪われたがちだが,富士山は作品数が圧倒的に多く,これまた抜群に上手い。富士山を描いた著名な画家は数多けれど,自分で登って剣ヶ峰やご来光まで絵に収めた人はそう多くないだろう。そうであるからこそ遠景からの富士山も解像度が高い。今回の画像は彼の代表作として剱岳のものにしたが,単にベストを選ぶなら「河口湖」を挙げたいところ。直接的な山岳風景ではないが,「渓流」も好きな作品だ。
Posted by dg_law at 23:45│Comments(4)
この記事へのコメント
話題違いですが…一橋の世界史設問2がヤりに来てたみたいなので、いつもの企画お待ちしております。
レンブラントの絵画の美術史的意義まで絡めたご説明をぜひ(ハードル上げ)
レンブラントの絵画の美術史的意義まで絡めたご説明をぜひ(ハードル上げ)
Posted by 通りすがり at 2021年03月01日 15:57
ゲーテぐらいの時代から趣味としての登山や風景画の地位が向上してきたと考えると,意外と話題違いではないかもしれない。
当然その問題は取り上げるんですが,レンブラントの美術史的意義は問題で問われていないので解説に入らないですねというマジレス……は置いといて,レンブラントの方は受験生でも普通に書けるんですよ。ゲーテは無理ですね。
当然その問題は取り上げるんですが,レンブラントの美術史的意義は問題で問われていないので解説に入らないですねというマジレス……は置いといて,レンブラントの方は受験生でも普通に書けるんですよ。ゲーテは無理ですね。
Posted by DG-Law at 2021年03月01日 19:30
温泉岳は英名がMt. UnzenかUnzendakeと表記されていましたのでそこでわかるかもしれません。いずれにせよ不親切ですね。
それとは多少ずれますが、博物館のキャプションで日本語より英語の方が情報量が多い場合があるのはどうしてなんでしょう。
当展示でもそういった箇所がいくつか見当たりましたが……。
それとは多少ずれますが、博物館のキャプションで日本語より英語の方が情報量が多い場合があるのはどうしてなんでしょう。
当展示でもそういった箇所がいくつか見当たりましたが……。
Posted by とくめい at 2021年03月07日 00:41
なるほどそっちで気づけと。今見たら図録でも英語の方はUnzendakeになっていました。
おっしゃる通りで,企画展だとたまに英語の方が詳しいことがありますね。学芸員の方の考える「日本人の常識」ラインが高めになってしまっているということ,なんですかね。
おっしゃる通りで,企画展だとたまに英語の方が詳しいことがありますね。学芸員の方の考える「日本人の常識」ラインが高めになってしまっているということ,なんですかね。
Posted by DG-Law at 2021年03月08日 07:34