2021年06月06日

「甲申政変」と「甲申事変」は,歴史総合ではどちらが主流か

1884年に朝鮮王朝で起きた開化派によるクーデタ未遂事件を,甲申政変または甲申事変と呼ぶ。この呼称の揺らぎはどちらの方が正しいとかではない。ではないのだが,なぜだか高校世界史では「甲申政変」,高校日本史では「甲申事変」と呼ぶのがデファクトスタンダードになっている。それとは少し話がずれるのだが,以下のそれぞれのGoogle検索結果数も面白い。(全て2021年6月5日現在)
「"甲申政変"」 約360,000 件
「"甲申事変"」 約41,500 件
「"甲申政変" "世界史"」 約 11,300 件
「"甲申政変" "日本史"」 約 4,830 件
「"甲申事変" "世界史"」 約 4,000 件
「"甲申事変" "日本史"」 約 6,270 件
つまり,一般的には「甲申政変」 の方がメジャーであるが,「日本史」と組み合わせた時に限って「甲申事変」の方が多く使われているということだ。なぜこのような違いが生じたのかはそれ自体興味深いが,私には調べる手段を思いつかないので,どなたか興味関心と時間と気力がある方にお願いしたいところ。

それはそれとして,これまで分かれていてもさしたる問題はなかった。なぜなら世界史の入試問題を作る人も世界史の受験生も当然「甲申政変」で覚えているし,逆もまた然りで,2つの用法が交錯することが無かったためである。しかし,来年度の2022年度から話が変わる。世界史と日本史の近現代史部分だけを融合させた「歴史総合」なる新科目が高校の地歴課程に登場するからである。では,歴史総合ではどちらの表記にあわせることになるのか。どちらの表記も積極的に採用する理由もなければ不採用にする理由もないだけに,難しい。しいて言えばGoogle検索結果の示す通り,甲申政変の方が一般に定着した言い方であるのでこちらを優先すべきという消極的な理由か,執筆者が日本史畑なので甲申政変を選ぶかくらいしか思いつかない。各教科書執筆者・編集者の皆さんもさぞかし……さして悩まずに適当にどちらか選んだに違いない。まさかこんな非生産的なことで会議はしていないだろう。私だってその立場なら深く考えずに甲申政変にする。

そういうどうでもいい状況だからこそ,かえって歴史総合の各教科書がどちらを採用したのかが気になって,調べてきてしまった。現在は教科書展示会をやっているので(たとえば文京区),歴史総合の教科書は自由に閲覧が可能である。以下,各教科書をざっと読んだ簡潔な感想とともに紹介する。ちゃんと読むのは来年4月でいいやと思っているので,本当にざっとしか読んでいないのでご注意を。歴史総合の教科書一覧は,文科省が発表している次の資料の13ページめから(ノンブルは4)。
・高等学校用教科書目録(令和4年度使用)
ついでに各教科書会社のHPにリンクを張っておいたので,参照してほしい。いずれの教科書も資料集と見まがうくらい資料・図版が掲載されていて,これからの時代はそういう区別が無意味になるかもしれない。そうそう,多くの教科書でQRコードが貼られていて,NHK 等の動画に即座に飛べるようになっていたのも新しいなと思った。あとは地理総合・公共も含めて多くの教科書がSDGsに強く言及していたのも特筆すべき点だろう。

【東京書籍】
・『新選歴史総合』:甲申事変
・『詳解歴史総合』:甲申事変

→ 『新選』は非受験用,『詳解』は受験用で,厚み以外にはあまり差がない。2冊以上出しているメーカーはいずれも同様の構成。日:世の割合はやや世界史が厚めな印象だが,「甲申事変」だった。『新選』の方はざっと見ただけでもハム語族どころかスーダン語族が載っていたり,モンテネグロの主要宗教がスンナ派になっていたりしたので検定をやり直した方がいいと思う。『詳解』は流石にしっかりとしていた。普通に使える良いものだと思う。他のメーカーの教科書が世界史と日本史のページをくっきり分ける傾向が強かったのに対して,ここは混ぜ込んでいたのが特徴的。たとえばミドハト憲法と大日本帝国憲法を同一ページに記述するなど,歴史総合という科目の特性を考えればこれは効果的だろう。


【実教出版】
・『歴史総合』:甲申政変
・『詳述歴史総合』:甲申政変

→ 無印が非受験用,『詳述』が受験用。どちらも悪くないオーソドックスな作りで,逆に言って際立った特徴もなかった印象。日・世の割合が五分五分。


【清水書院】
・『私たちの歴史総合』:甲申政変
→ 既存の課程で日本史はA・Bともに出しているが世界史はAのみ,基本的に非受験用の教科書に特化したメーカーであるが,『私たち』もやはり非受験用。今回の12冊で最も薄い。というよりもペラい。でも歴史総合の履修内容として必要なものはちゃんと入っていて,制限の中でよくこれだけ破綻なく省略し得たなという意味で,今回の12冊が示す教科書の多様性の現れとして良いと思う。非受験用としてはこの厚さの方がむしろ適正なのかもしれない。また,てっきり日本史に偏った内容かと思いきや日・世のバランスはとれていて,表記も「甲申政変」だったのでちょっと驚いた。


【帝国書院】
・『明解歴史総合』:甲申政変
→ 既存の課程で世界史A・Bしか出版していないメーカーであり,予想通り世界史が厚めの記述。また,歴史総合は近現代のみを扱う科目であるところ,前近代の記述がかなり分厚く,続けて世界史探究の教科書もよろしくねというメッセージ性が強い。


【山川出版社】
・『歴史総合 近代から現代へ』:政変・事変を併記
・『現代の歴史総合』:甲申政変
・『わたしたちの歴史総合』:用語を出さず「親日派のクーデタ」と表記
→ 大正義山川出版社は強気の3冊。紹介pdfの3冊のフォントの違いが教科書の性格をそのまま示していて笑える。『近代から現代へ』が受験用で,これは帝国書院のもの同様に前近代が分厚く,本編の近現代も太字の用語が多い。受験用としては最適解だと思うが,分厚すぎてちょっと心配になる。甲申政変・事変については唯一の併記で,このバランス感覚よ。『現代の』はチャレンジングな1冊で,最も資料集との融合が激しいのがこれ。資料の量が異常に多く,私は割と好き。最後の『わたしたちの』が非受験用で,大変ポップなつくりになっている。甲申政変は未収録。しかし,これが山川さんの出した非受験用への解答とするとなかなか趣深い。用語はここまで削れるのだという決意と,これからの歴史教育は受験を考えないなら(あるいは受験を考えたとしても)かくあるべしという意見表明と受け取った。ともあれ,山川さんは3冊で甲申政変・事変への対応が異なり,思わぬ面白い結果が得られた。


【第一学習社】
・『歴史総合』:甲申政変
・『新歴史総合』:甲申政変

→ 既存の課程では日本史Aと世界史Aしか出していないので,今回もてっきり非受験用1冊だけかと思いきや,ここに来て受験用を1冊用意してその市場に参戦してきた。無印が受験用,『新』が非受験用。ただし,やはり経験不足なのか,無印はちょっと中途半端な印象を受けた。もうちょっと分厚くてもいいのでは。『新』の方は山川の『現代の』と同様に資料集にかなり寄っていて,悪くない。『新』はてっきり「言及なし」かと思いきや,本文ではなく欄外の年表に「甲申政変」と記述あり。


【明成社】
・『私たちの歴史総合』:甲申事変
→ なんというか,教科書執筆陣を見て察してください。既存の課程では日本史Bのみの出版で,歴史総合には興味がないかと思いきや参戦してきた。中身はやはり日本史が濃いめ。目次の右端のコラム一覧を見ると雰囲気がよくわかると思う。昔の日本人はすごかったアピールが非常に強い。あと,案の定だが南京事件に「実態や人数は様々な議論がある」と注釈を入れていたことはこの場で報告しておく。この流れからもわかる通り,表記はやはり「事変」を選択。


〔まとめと感想〕
12冊中,甲申政変が7冊,甲申事変が3冊,併記が1冊,言及なしが1冊。もうちょっと割れるかなと思っていたので,甲申政変がマジョリティという結果になったのは予想外であった。また,併記がもうちょっと多いかなと思っていたが,山川の1冊のみ。前述の通り,山川の3冊の対応の違いが見られただけでも今回の調査には収穫があったと思っていて,甲申政変・事変は割と良い目の付け所だったのかなと思う。他にも「この用語,世界史・日本史でデファクトスタンダードが異なってるのでは」というものがあれば,また調べに行くかもしれない(し,面倒になって来年4月の正式購入待ちにするかもしれない)。


〔余談〕
本記事執筆を並行して,Twitterでアンケートをとっていた。

前述の通りの法則であるので,これはちょっと予想外の結果である。てっきり50:0:0:50に近い数字になると思われたので。日本史だと甲申政変で習わないことは示されたが,世界史は甲申事変優位で別れている。私のTLの年齢層は私に近いと思われるので15〜25年前の世界史の教科書は「事変」だったのだろうか。TLで当時の教材を持っていた人が調べてくれたが,少なくとも山川は「政変」で,私の記憶も山川は「政変」であった。ありうるとしたら,当時の東京書籍あたりが「事変」だった可能性はある(現在の東京書籍の教科書を調べたら「政変」だったので,この仮定が正しいならどこかでデファクトスタンダードに寄せたということになる)。

この記事へのコメント
調査お疲れさまでした。
これはコメントせずにはいられませんね。文京区にはよく行くので今度行ってみようかしら。

閑話休題、文部科学省からの公開文書である、教科書編集趣意書をみてある程度は私も察してました。各教科書の傾向は稲田氏に全面同意いたします。
私がここでコメントしたいのは、あっ察しみたいな教科書が日本史濃いめなことにより、
そこにしか掲載されていない用語(太字でないものも含むかも)が早慶上智あたりの日本史入試で不用意に将来狙われないかという不安がすごくあります。

今回の検定では、前段の中学側でもいろいろとあったこと(詳述回避)から余計に心配であります。
書きすぎを承知であえて記しますが、詳述回避の部分が家永氏と同等扱いになることは天地がひっくりかえってもありえないでしょうから。。。
Posted by おおおんづけ at 2021年06月06日 20:35
教科書展示会は文京区によらず,けっこう多くの会場でやっているので,最寄りの展示会に行くといいかもしれません。
期間が会場ごとでけっこう違うっぽいので,そこは注意が必要かも。たとえば東京都。
https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/school/textbook/textbook_exibition_and_textbook_center/files/text_exibition2021/itiran_r3.pdf

>あっ察しみたいな教科書が日本史濃いめなことにより、〜〜
「歴史総合」が事実上の共通テスト限定の科目になるのか,国公立二次や私大でも世界史・日本史と並んで設置されることになるのかというのが次の大きな焦点ですね。
実のところ私も国公立二次や私大で設置された場合は全く同じ危惧を抱いていて,各教科書が拾っている用語に大きな多様性があるので,山川さんが用語集を作ったら意外と厚みが出てきそうで,そこから出題していいとなると,かなり厳しい入試問題が作れてしまうなと。
しかしながら,国公立二次や私大で歴史総合を置くところはそれほど多くないだろうと予想されるので杞憂に終わるだろうと予想しています。

「詳述回避の部分」については,既存のその出版社の日本史Bの教科書で騒がれていないので,歴史総合でも大した騒ぎにはならないでしょう。発行部数が他の教科書に比べて圧倒的に少ないので,発行されていること自体が知られずに終わりそうな……
Posted by DG-Law at 2021年06月08日 06:11
「学研マンガ 日本の偉人」やこれの種本と思われる「学研マンガ 伊藤博文」とかで甲申事変となっていた記憶があります。これの影響は結構大きいと思うのです。少なくとも私の歴史ネタ(というか雑学全般)はこれがベースですし、団塊ジュニアぐらいの歴史好きや雑学好きのオタクさんたちはこの辺の学研マンガシリーズが基礎教養だったはずです。今はこのシリーズでどうなっているかはわかりませんが。
Posted by 猟師服部 at 2021年06月27日 19:25
漫画日本の歴史や偉人伝は私も小学生の時によく読んでいて,意外とその後の中学・高校の学習で役に立っているので身に覚えはあります。
ただまあ,「政変」「事変」のレベルのものがどこまで影響を及ぼしているかは未知数ですかね。
Posted by DG-Law at 2021年06月27日 23:48