2022年08月27日
『「センター試験」を振り返る』を読む(1)論考編
・『「センター試験」を振り返る』(大学入試センター,2020年)
気づいていなかったのだが,令和2年(2020年)12月,翌月に最初の共通テスト本試験を控えたタイミングで,大学入試センターが『センター試験を振り返る』という本を発行していたことに先日気がついた。インターネット上で公開されているので,誰でも閲覧可能である。これがけっこう面白い。以下,気になった点を羅列しておく。長くなったので記事を2つに分け,(2)は明日更新する。
p.45から始まる論考1「ボーダレス化する高大接続」。高大接続の難しさは高校教育と大学教育の大きな違いに起因し,欧米諸国ではその接続期間として予備教育期間がとられる(ただし欧州では進学予備課程として中等教育の末期に,アメリカでは大学学部教育に置かれていてタイミングが異なる)。日本の場合はアメリカの制度に近いものの,実際には学部学科がおおよそ決まった状態で入学するために学部教育が予備教育として機能していない(進学振り分けがある東大はまだしもアメリカ型に近い)。そのために高大接続改革がより困難になっている……という指摘は的を射たものだろう。そういう事情から入試が実質的な高大接続を一身に背負うことになってしまった。そう言われると,本来数年かけるべき接続のその重荷を入試という極めて短期間のものに背負わせようとしたこと自体が無理筋であったという筆者の主張には同意する。
そのような情勢の中で1970年代に共通一次が構想され,高校教育課程の達成度を図るのが一次試験,学部教育の適性を図るのが二次試験と切り離された。このために一次試験に対する大学側の関心が薄まり,一次試験は高校が実施主体であって大学ではないという意識が醸成された。筆者の「『共通一次試験』は高校の試験だと誤解する人々がいるが,共通一次は高大接続を意識した‘大学の試験’である」という指摘は重い。このために,2010年代に始まった改革では,センター試験に代わる共通試験では高校教育課程の達成度を測る「基礎」と,大学入学者を選抜する目的の発展の二段階に変えようという構想があったところ,基礎レベルのものは実質的に実装されなかった。受験生に二種類の一次試験を課すのは負担が大きすぎた。結果的に発展段階のものだけが残り,これが現在の大学入学共通テスト,いわゆる共通テストである。私は共通試験の二段階構想が当初にあって,早々に企画倒れになったことまでは知っていたが,その背景にこのような問題意識があったことは知らなかったので勉強になった。であれば確かに,共通テストの構想段階において「共通テストの発展レベルに大学入学者選抜機能を持たせるのであるから,国公立大の二次試験は小論文や面接のみでよい」という暴論がまかり通っていたのも多少は理解できる(この共通テスト導入に関する諸問題は拙著の3巻でもコラム2で詳述しているので,ご興味ある方は参照してほしい)。実際に共通テストがセンター試験よりも少し難しいことも,この頃の議論を引きずっているところがあるだろう。
高校教育課程の達成度を図るのが一次試験,学部教育の適性を図るのが二次試験という切り分け自体は私には誤った発想と思われず,便宜的ではあれども,結果的によく棲み分けていると思う。それよりも「一次試験」に対するというよりも「高校教育」に対する大学側の無関心こそが問題の中核にあるのではないか。これは,日頃に世界史の私大や国公立二次試験を解いているからこそ実感する。結局,大学側が高校教育への無関心を改めない限り,高大接続は上手くいかない。
p.77からの論考2「センター試験問題の作成と課題」。p.100からの4節では,センター試験の過去問からピックアップして,寄せられたクレームとそれへの対処・反論が述べられている。ここで注目すべきはやはり,弊ブログでも扱ったpp.107-108の「ムーミン事件」(2018年・本試験・地理B)の顛末である。
・センター試験「ムーミン事件」雑感
この顛末は端的に言ってひどい。「舞台ということで,「関わりが深い」といった意味を表したかったのであろうが,それをマスコミなどが杓子定規にとって」等と述べているが,「舞台」を「関わりが深い」という意味で解釈する方が読解力に問題があるとは思わなかったのだろうか。百歩譲っても,「問題文の文言が『舞台』では,杓子定規にとられる可能性がある」という指摘が検討段階で確実に出ていたはずであり(出ていないなら検討部会が機能していない),それを無視して強行した時点で大学入試センターにはマスコミなどに「杓子定規」という批判をする資格がない。何よりまずいのは「なお,この問題は,五分位図を見るとかなり適正と言える形と正答率を示しており,特に問題を外すといった措置を取ることはなかった」という部分である。上掲の通り,当時に私が批判的に総括した通りであり,選抜機能があれば事実誤認があっても出題ミスではないという独自の論理が大学入試センターにはあることが露見している。ついでに言うと当時の報道で「作問者,検討者の確保に苦労している状況なので,彼らの負担を増やしたくない」という理由が本問を出題ミスと認めない大きな理由として挙げられていたが,本論考はこの点に触れていないのは少し不誠実である。
p.117からは問題の難易度の安定性についてが考察されている。注目すべきはp.118の図表15・16やp.119の図表17で,浪人生は少数精鋭化していると言われているが,それが長期的な傾向としてデータで示されている。00年代前半に受験生だった身としては,90年代にはそこまで差がなかったことに驚いている。ただし,後述するように現役生には分厚い記念受験層が含まれていて,彼らの得点が低いために現役生平均点は実態よりも相当に低い可能性がある。本論考ではできればそこまでデータを分析してほしかったところ。
p.129からの論考3「センター試験志願者の受験行動と学力特性」では,共通一次からセンター試験への切り替わりでアラカルト方式が採用された結果,私大専願層や未出願層(完全には一致しないがほぼ記念受験層)が急激に増加したことと,国公立大受験者層も含めた分析が示されている。p.147の表が面白い。男女比で見ると,国立専願で男性が突出して多いのは理系が多いためだろう。女性の方が多いのは未出願層のみで,こんなところでもジェンダーバイアスが垣間見えてしまう。地域で見ると,私立専願は都市圏で突出して多く,逆に未出願は地方に多い。未出願層が約13万人,全体の20%を超えているというのは予想以上に多くて驚いた。本論考でも示されている通り,高校はセンター試験を高校教育達成度テストとして使いがち,あるいは記念受験させがちという推測で当たっていると思う。確かにセンター試験(・後進の共通テスト)は論考1の通りに高校教育の達成度を図るものであるが,これまた論考1の末尾に書かれている通り,センター試験はあくまで大学入学者のための試験であって,高校3年生全般の達成度を測る試験ではないから,そのような使われ方は想定されていない。
論考4は特に感想がなかったのでパス。(2)では,第三部の全年度の実施概要に触れる。
気づいていなかったのだが,令和2年(2020年)12月,翌月に最初の共通テスト本試験を控えたタイミングで,大学入試センターが『センター試験を振り返る』という本を発行していたことに先日気がついた。インターネット上で公開されているので,誰でも閲覧可能である。これがけっこう面白い。以下,気になった点を羅列しておく。長くなったので記事を2つに分け,(2)は明日更新する。
p.45から始まる論考1「ボーダレス化する高大接続」。高大接続の難しさは高校教育と大学教育の大きな違いに起因し,欧米諸国ではその接続期間として予備教育期間がとられる(ただし欧州では進学予備課程として中等教育の末期に,アメリカでは大学学部教育に置かれていてタイミングが異なる)。日本の場合はアメリカの制度に近いものの,実際には学部学科がおおよそ決まった状態で入学するために学部教育が予備教育として機能していない(進学振り分けがある東大はまだしもアメリカ型に近い)。そのために高大接続改革がより困難になっている……という指摘は的を射たものだろう。そういう事情から入試が実質的な高大接続を一身に背負うことになってしまった。そう言われると,本来数年かけるべき接続のその重荷を入試という極めて短期間のものに背負わせようとしたこと自体が無理筋であったという筆者の主張には同意する。
そのような情勢の中で1970年代に共通一次が構想され,高校教育課程の達成度を図るのが一次試験,学部教育の適性を図るのが二次試験と切り離された。このために一次試験に対する大学側の関心が薄まり,一次試験は高校が実施主体であって大学ではないという意識が醸成された。筆者の「『共通一次試験』は高校の試験だと誤解する人々がいるが,共通一次は高大接続を意識した‘大学の試験’である」という指摘は重い。このために,2010年代に始まった改革では,センター試験に代わる共通試験では高校教育課程の達成度を測る「基礎」と,大学入学者を選抜する目的の発展の二段階に変えようという構想があったところ,基礎レベルのものは実質的に実装されなかった。受験生に二種類の一次試験を課すのは負担が大きすぎた。結果的に発展段階のものだけが残り,これが現在の大学入学共通テスト,いわゆる共通テストである。私は共通試験の二段階構想が当初にあって,早々に企画倒れになったことまでは知っていたが,その背景にこのような問題意識があったことは知らなかったので勉強になった。であれば確かに,共通テストの構想段階において「共通テストの発展レベルに大学入学者選抜機能を持たせるのであるから,国公立大の二次試験は小論文や面接のみでよい」という暴論がまかり通っていたのも多少は理解できる(この共通テスト導入に関する諸問題は拙著の3巻でもコラム2で詳述しているので,ご興味ある方は参照してほしい)。実際に共通テストがセンター試験よりも少し難しいことも,この頃の議論を引きずっているところがあるだろう。
高校教育課程の達成度を図るのが一次試験,学部教育の適性を図るのが二次試験という切り分け自体は私には誤った発想と思われず,便宜的ではあれども,結果的によく棲み分けていると思う。それよりも「一次試験」に対するというよりも「高校教育」に対する大学側の無関心こそが問題の中核にあるのではないか。これは,日頃に世界史の私大や国公立二次試験を解いているからこそ実感する。結局,大学側が高校教育への無関心を改めない限り,高大接続は上手くいかない。
p.77からの論考2「センター試験問題の作成と課題」。p.100からの4節では,センター試験の過去問からピックアップして,寄せられたクレームとそれへの対処・反論が述べられている。ここで注目すべきはやはり,弊ブログでも扱ったpp.107-108の「ムーミン事件」(2018年・本試験・地理B)の顛末である。
・センター試験「ムーミン事件」雑感
この顛末は端的に言ってひどい。「舞台ということで,「関わりが深い」といった意味を表したかったのであろうが,それをマスコミなどが杓子定規にとって」等と述べているが,「舞台」を「関わりが深い」という意味で解釈する方が読解力に問題があるとは思わなかったのだろうか。百歩譲っても,「問題文の文言が『舞台』では,杓子定規にとられる可能性がある」という指摘が検討段階で確実に出ていたはずであり(出ていないなら検討部会が機能していない),それを無視して強行した時点で大学入試センターにはマスコミなどに「杓子定規」という批判をする資格がない。何よりまずいのは「なお,この問題は,五分位図を見るとかなり適正と言える形と正答率を示しており,特に問題を外すといった措置を取ることはなかった」という部分である。上掲の通り,当時に私が批判的に総括した通りであり,選抜機能があれば事実誤認があっても出題ミスではないという独自の論理が大学入試センターにはあることが露見している。ついでに言うと当時の報道で「作問者,検討者の確保に苦労している状況なので,彼らの負担を増やしたくない」という理由が本問を出題ミスと認めない大きな理由として挙げられていたが,本論考はこの点に触れていないのは少し不誠実である。
p.117からは問題の難易度の安定性についてが考察されている。注目すべきはp.118の図表15・16やp.119の図表17で,浪人生は少数精鋭化していると言われているが,それが長期的な傾向としてデータで示されている。00年代前半に受験生だった身としては,90年代にはそこまで差がなかったことに驚いている。ただし,後述するように現役生には分厚い記念受験層が含まれていて,彼らの得点が低いために現役生平均点は実態よりも相当に低い可能性がある。本論考ではできればそこまでデータを分析してほしかったところ。
p.129からの論考3「センター試験志願者の受験行動と学力特性」では,共通一次からセンター試験への切り替わりでアラカルト方式が採用された結果,私大専願層や未出願層(完全には一致しないがほぼ記念受験層)が急激に増加したことと,国公立大受験者層も含めた分析が示されている。p.147の表が面白い。男女比で見ると,国立専願で男性が突出して多いのは理系が多いためだろう。女性の方が多いのは未出願層のみで,こんなところでもジェンダーバイアスが垣間見えてしまう。地域で見ると,私立専願は都市圏で突出して多く,逆に未出願は地方に多い。未出願層が約13万人,全体の20%を超えているというのは予想以上に多くて驚いた。本論考でも示されている通り,高校はセンター試験を高校教育達成度テストとして使いがち,あるいは記念受験させがちという推測で当たっていると思う。確かにセンター試験(・後進の共通テスト)は論考1の通りに高校教育の達成度を図るものであるが,これまた論考1の末尾に書かれている通り,センター試験はあくまで大学入学者のための試験であって,高校3年生全般の達成度を測る試験ではないから,そのような使われ方は想定されていない。
論考4は特に感想がなかったのでパス。(2)では,第三部の全年度の実施概要に触れる。
Posted by dg_law at 22:36│Comments(0)