2023年12月10日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(東北地方編)

書籍全体の書評を書いたので,個別の山の記事についての感想はこちらに書いていく。主には勉強になったメモと,深田の感想と自分の感想の違い,時代の違いによる差分について。数字は深田自身によるナンバリングである。


10.岩木山
 深田は1930年頃に,嶽温泉から登って岩木山神社の方向に下った。私が登った時は霧が出ていて山頂からの眺望が死んでいたのだが,深田が登った時も雨混じりの曇天で眺望は全く得られなかったとのこと。さらに,私も岩木山神社の方向に下ったのだが,大きめの石が転がる沢筋で,斜度の割には疲れる道であった。これは約95年前の深田も同様であったらしく,ほとんど弱音を書かない深田にしては珍しく「ガクンガクン膝こぶしの痛くなるような下りが続いて」と書いている。岩木山神社への下山路はほぼ100年間そのままらしい。山頂でも下山路でもほぼ同じ体験と感想で,読んでいて笑ってしまった。これもまた『日本百名山』を読む楽しみであろう。最後に深田は下山の最後の方を「スキーで飛ばしたらさぞいいだろうと思いながら」下りていったそうだが,さすがに先見の明がある。こうなると,私は旅行計画を立てるのがぎりぎりだったために嶽温泉に入りそびれたのだが,入って深田の追体験をしておくべきだったと後悔している。


11.八甲田山
 山の名前の由来は,八つの峰と多くの湿地(田)を有することからとのこと。続いて八甲田雪中行軍遭難事件について言及しているが,これは短く終わった。深田が訪れた当時はまだ国立公園に指定される前で,閑散としていたらしい。十和田八幡平国立公園の指定はかなり古く,1936年のことであるから,深田が登ったのは岩木山と同じタイミングか。眺望や湿原の素晴らしさについては同意しかない。この山も深田にしては珍しく登山の難易度に触れており,「酸ヶ湯から女子供でも楽に登ることができる」とある。私も八甲田山の大岳から酸ヶ湯に下ったが,意外と斜度があってそこまで楽な登山道ではなかったように思われた。というよりも落石防止を中心にかなり整備して歩きやすくしていたのが見てとれたので,深田が登った当時はもっと登りにくかったのではないかと思う。上記の岩木山の通りで,他の紀行文を見ても深田の難易度の感覚は現代人とそれほど違わないことが多いので,この八甲田山の評価はよくわからない。
 深田は登山中に偶然,八甲田の主と呼ぶべき登山者に遭遇していて,「この名物男は,いつも軍装をして……右肩にラッパ……頂上では陸軍のラッパ曲を吹く」とあるから,相当な面白じいさんだったらしい。1930年頃で八十歳とのことだから,1850年頃の生まれか。実は私も八甲田山に登った際,何百回と八甲田山に登っているという地元の方に話しかけられて,山頂で少し話を聞いた。八甲田山にはそういう名物男が存在する伝統でもあるのだろうか。
 深田は「大岳に登ったら,帰りはぜひ反対側の井戸岳を経て毛無岱に下ることをお勧めしたい。これほど美しい高原は滅多にない」と書いている。私はむしろ井戸岳を経て大岳に登り,その後は酸ヶ湯に下りたので毛無岱は経由しなかった。深田の時代は酸ヶ湯から登っていくから井戸岳や毛無岱はむしろ下山で寄る場所であったのだろうが,現代ではロープウェー山頂駅から井戸岳を経て大岳に向かうのが一般的であるから,向きが逆になっている影響はありそうだ。なお,深田はここでも「スキー場としての八甲田山は今後栄える一途であろう」と書いているが,スキー場のためにロープウェーができ,ロープウェーのために登山路が逆向きになることまでは想像がつかなかったか。


12.八幡平
 冒頭で「十和田湖へ行く人数に比べて,八幡平はずっと少ない」と書かれている。八幡平については先行する紀行文が少ない,とも。そこから八幡平は随分とメジャーな観光地になった。というよりも深田久弥レベルの人がその印象だったのに,八甲田山や十和田湖とくくられて突然1936年に国立公園になったのだから,そちらの方が不思議である。名称の伝承については,八幡太郎義家が由来であることに触れつつ「もちろん信ずるに足りない」とばっさりである(もちろん坂上田村麻呂説も否定している)。深田は割りとドライで,伝承を調べるのが好きな一方,割りと正直にばっさり行く傾向が強い。八幡平が開かれた理由として温泉が挙げられており,地図中には藤七温泉も記載されていた。私は泊まったことがあるが,あの温泉は昭和の初期からあったのか……調べてみると開業が昭和5年とのことで,深田が八幡平を訪れた当時は開業してすぐのことだったのだろう。もっとも深田自身は蒸ノ湯と後生掛に入っていったようだ。
 深田はこの山でもスキーについて触れていて,最初に八幡平を訪れた理由がスキーだったと述べている。このまま整備が続けば「今後スキーのパラダイスになりそうである」とまで述べており,深田はスキー百名山も書こうと思えば書けたのではないか。なお,当然ドラゴンアイについての言及はない。ドラゴンアイは10年ほど前に私が行った時にもまだ話題になっていなかったので,本当に極最近観光名所に変わったのではないか。


20.吾妻山
 吾妻山といえば山域が広く,かつ中心が存在しないであるが,深田も「これほど茫洋としてつかみどころがない山もあるまい」と冒頭で書いている。例によって早々にスキーの話を始めるが,ここではアクセスの良い東吾妻にばかりスキーヤーが集まって,広い山域に目が向けられていないことを批判的に取り上げている。深田にとってのスキーとはバックカントリーだったのだろう。ついでに磐梯吾妻スカイラインが通ってにわかが増え,「我々はいよいよ山奥深く逃げ込むよりほかはない」と嘆いている。
 山名の由来について,珍しくも深田をもってして調べがつかず,山域に家形山があるからそれが変じて「東屋」となり現在の字が当てられた……という自説を唱えている。それでは現代視点で答え合わせをするかとインターネットの力を借りたところ,山と溪谷オンラインに同じ説が載っていた。これとは別に『角川日本地名大辞典』も深田と同じ説を採っているというページも見つけたので,深田の説はかなり強そうである。なお,吾妻山という名前の山は日本全国に点在していて,広島・島根県境の吾妻山は「イザナギがイザナミを偲んで『我が妻』と呼びかけた」説を採っていた。さすがは島根県の山である。群馬県の四阿山もヤマトタケルがやはり妻を偲んだことを由来としていて,ここから類推するなら福島の吾妻山も誰かしらが妻を偲んでいても不思議ではない。深田自身は,少なくともヤマトタケル説について「それは附会であって,やはり東屋からきたと見る方が適切」と退けている。
 最後に,西吾妻山については「稜線というより広大な高原」としつつ,いたく感動していた。また「一人の登山者とも出会わなかった」「まだリフトなど全くなかった頃である」としているが,リフトができたところで,西吾妻山はメジャーにはならなかった。喧騒を嫌う深田にとっては良かったことかもしれない。

 
21.安達太良山
 当然引用される『智恵子抄』。引用と論評のため,この安達太良山は定形を破って6ページに渡っている。山行の記録もやや長い。岳温泉から登っているが,冬場は岳温泉がスキーで混雑することに言及している。隙あらばスキー。途中でくろがね小屋に言及があり,岳温泉の源泉であることが示される。私はくろがね小屋に寄らなかったのだが(老朽化による建替工事で休止中),深田久弥が言及するほど歴史の古い山小屋だったとは。しかし調べてみると開業が1953年とのことなので,深田が訪れたのはそれ以降ということになる。深田が東北の山々に頻繁に登っていたのは1930年代のことのようなので,安達太良山だけ新しいのは意外である。
 深田は山頂付近で「鉄梯子のかかった岩場を登ると」と書いているが,言うほど大きな梯子がかかっていた覚えがない。迂回可能な小さな梯子ならかかっていたと思うが……。あの岩場の登山道が当時と大きく変わっているのだろうか。事前に読んでから登っていたら写真を撮っていたのだが,惜しい。なお,この山頂の岩場について,平らな山頂付近からぽこっと飛び出ているように見えることから深田は「乳首山」と呼ぶとも紹介していた。ググると乳首山という通称が残っていることが確認できるものの(たとえばこのページで梯子も確認できる),自分が安達太良山に行ったときには現地でそういう呼称を全く見かけなかった。ちょっとセンシティブなこの呼び名は滅んでいっているのだろうと思う。


22.磐梯山
 1888年の大爆発から紀行文は始まっている。その上で磐梯山の山容は裏磐梯よりも表磐梯の方が美しいという。その山容の紹介が含まれていることから,磐梯山もまた例外的に6ページに渡っている。深田にとって磐梯山の山容はそれだけ重要であった。山名は「岩」と「梯(はし)」から,噴火口の岩壁に由来しているのではないかとしている。登山記録も表から登っていて,とすると当然のようにスキーにも言及がある。弘法清水で裏磐梯からの登山道と合流して人が増え,登山者のゴミが散らばっていることに苦言を呈していた。当時の登山者のマナーよ……。帰りはその裏磐梯に下っていているが,やはり観光客の多さが気に食わないらしい。最後は「シムメトリーよりもデフォルメを好む傾向を近代的とすれば,たしかに磐梯の(磐梯山と猪苗代湖しかない)表よりも(変化に富む)裏にそれがある」と詩的な表現で締めている。この評価は当たっていて,裏磐梯の方が栄えているのだから,現代人の好みは60年経っても変わっていない。