2023年12月12日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(長野県編)

43.浅間山
 浅間山が常に煙を吐いていることが強調されているが,現在では言うほど煙を吐いていない。とりわけ私が登った時には全く煙が出ていなかった。もっとも,だから噴火警戒レベルが下がっていて前掛山まで登れたのではあるが,深田が登った当時はどれだけ煙が出ていようがきっちり登頂できたのだろう。おおらかというか人命が軽い。なお,深田が浅間山に登ったのは高校1年生の時だったとのことで,案の定「絶頂の火口壁で噴煙に襲われて逃げまどった」と述懐している。挿絵の登山地図には前掛山の表記が無い。浅間山に直接登れた当時は,前掛山に登る人はいなかったということか。
 また当時は峰の茶屋(軽井沢側)から登るのが一般的だったところ,深田は小諸から登ったとのことである。現在では峰の茶屋からの登山道は封鎖されていて,小諸側か嬬恋村からしか登ることができない。私が登ったのも小諸側からであるが,天狗温泉浅間山荘で一泊してからの登山であった。深田が登った当時はまだそこに旅館がなく,小諸市街から「夜をかけて」登ったようなので大変である。調べてみると,あそこに浅間山荘が建ったのは1957年のことで,深田が高校1年生の時には存在していない。


60.御嶽
 他の霊山が一般登山に飲み込まれたのに対して,御嶽山だけは宗教登山の風俗を濃厚に保っていることを強調しているのは,いかにも深田らしい記述である。これは数十年後の現在では評価が難しい。御嶽も随分と一般登山者が増えていて,深田が言う一般登山者が「疎外感のような感じ」ということは完全に無くなっている。それでも他の山に比べると信仰篤く,宗教色が残っているようにも思われる。深田は御嶽の宗教的モニュメントの多さを指摘していて,これは2014年の噴火も乗り越えて,今なお残っている。というよりも石碑の多さが御嶽山をまだ信仰の山たらしめている最後の砦と言えるかもしれない。あるいは逆に,そうした膨大な石碑が生み出す一種異様な雰囲気自体か観光の対象と化していて,やはり信仰は観光に飲み込まれているとも言えよう。
 深田が登った当時と現在の最大の違いはやはり2014年の噴火である。浅間山や磐梯山など他の火山では噴火に言及があるが,御嶽山のページでは一切言及がない。どころか御嶽が火山であること自体に言及がない。なにせその頃の御嶽山は死火山と思われていて(死火山という概念自体が21世紀には滅んでいる),御嶽山の小規模な活動が見られたのは1979年のことであった。2014年の大噴火は当時の登山家にとって青天の霹靂であり,だからこそ大きな被害が出たのである。死後40年以上も経ってからの出来事であるから言及できるはずがないことはわかっていても,微妙な違和感がぬぐえない。もうこれほど牧歌的に御嶽を語ることができなくなったわけで,『日本百名山』で最も時の流れを感じるのはこの御嶽の部分かもしれない。


61.美ヶ原
 古来の日本で高原を愛する趣味はなく,もっぱら西洋趣味として導入されたが,それに最も適合するのが美ヶ原であるという。確かに修験にも向かず酪農の生業もなかった日本人は高原を扱いにくかったのかもしれない。深田はここで西洋趣味としての高原の事例としてセガンティーニの絵を引いており,ここは昭和の文人らしい。実際に美ヶ原は名前負けしない高原としての美しさを持ち,私も行ってみて驚いた。命名の勝利である。当然このような名前が古くからあったわけではなく,昭和になってからとのことで,深田が訪れたのは命名されてからさほど時間が経っていない時期であった。何しろ美しの塔が建つ(1954年)よりも前のことであり,それだけに深田は全く他の登山者と会わずに高原を独占したそうだ。その後すぐさま世俗化してしまったため,『日本百名山』執筆当時の美ヶ原の様子を嘆いている。私は深田と違って世俗化にこだわりはないが,人っ子一人いない美ヶ原を歩く気持ち良さについては羨ましくなった。


62.霧ヶ峰
 深田は戦前に一夏を霧ヶ峰の山小屋に逗留して過ごしており,隣の部屋に小林秀雄がいたことを述懐している。天気が良ければ二人で歩き回ったそうだ。小林秀雄の登場は谷川岳に続いて二度目である。深田は霧ヶ峰について,登る山ではないが「遊ぶ山」としては最高だと評している。それだけに霧ヶ峰は蘊蓄よりも山行記録が長い珍しいページになっている。車山や八島湿原はもちろんのこと,霧ヶ峰の山行記録は細かな地名にも触れていて詳細である。
 霧ヶ峰は美ヶ原と違って歴史が古く,旧御射山で源頼朝が狩猟を催した記録があることに触れている。深田はそこで「大昔の土器のかけらを拾うことができた」そうなのだが,実際に旧御射山は鎌倉時代の遺跡が発見された。発掘調査が進む前だったので簡単に拾うことができたのだろう。また旧御射山を散策中に諏訪明神を祀った小さな祠を見つけたと述べているが,その小さな祠は現存している。まさかあんな小さな社で深田の追体験をしていたとは思わなかった。


63.蓼科山
 『日本三代実録』にも登場する古い山であり,文人,特に『アララギ』の詩人に好まれ,斎藤茂吉らに詠まれていたことが紹介されている。立科,諏訪富士,飯盛山,高井山,女の神山と様々な呼び名があるが,富士山に似た円錐形の形に由来しているものが多いとのこと。深田は直接触れていないが,蓼科という名前自体,蓼(立)は切り立っていること,科は階段の意味でやはり円錐形に由来している。
 個人的には蓼科というとビジンサマの印象が強いのだが,何にでも言及する深田ながらこれには言及が無かった。怪異には興味が薄かったか。ついでに言うと蓼科や八ヶ岳の長野県側は縄文時代の遺跡が多数見つかっているが,八ヶ岳のページを含めてそれにも言及がない。調べてみると,戦前から発掘が進んでいたのは尖石遺跡のみで,他の遺跡は1950年代以降が多かった。とすると,深田には蓼科や八ヶ岳に縄文のイメージが無かったと思われる。
 例によって当人の山行記録は短く,最後の1ページのみ。北側斜面の蓼科牧場から登っている。現在の蓼科山登山は南側斜面が主流であるが,偶然にも私も北側から登った。やはり「頂上は一風変わっている」として,「大きな石がゴロゴロころがっているだけの円形の台地で,中央に石の祠が一つ有り」とのことなので,あの独特の景観は60年以上前から変わっていないようである。ここでも小さな祠は私が見たものと同一と思われ,ああいうタイプの小さな祠は意外と耐久力があり,数十年単位で残るものらしい。小さな祠に一々言及する深田のおかげで検証できている。