2023年12月14日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(雲取・大菩薩・富士山・天城)

66.雲取山
 深田久弥は都会の喧騒が嫌いすぎて,「煤煙とコンクリートの壁とネオンサインのみがいたずらにふえて行く東京都に,原生林に覆われた雲取山のあることは誇っていい」とよくわからない褒め方をしている。また「雲取山は東京から一番近く,一番深山らしい気分のある二千米峰だけあって,高尾山や箱根などのハイキング的登山では物足りなくなった一が,次に目ざす恰好な山になっている」とする。これは現代でも変わっていない。かく言う私も初めて山小屋に泊まったのはこの雲取山だった。一方で,「一番やさしい普通のコースは,三峰神社までケーブルカーであがって,それから尾根伝いに,白岩山を経て達するものであろう」としている。現在では鴨沢から登っていくのが一番楽だと思われるので,当時は鴨沢ルートが荒れていたものと思われる。奥多摩を手に入れた東京都が,過保護気味に登山道を整備するとは,深田も予想していなかっただろう。それでハイキング気分の登山客が増えるのは深田の望むところでは無かっただろうが,雲取山については難易度の問題で現代でも深山の雰囲気を保っているように思う。なにせ登山道でクトゥルフ神話が打ち捨てられている程度には深山である。
 ついでにどうでもいいことに気づいたが,深田久弥は竈門炭治郎とほぼ同時代人で,約4歳差で炭治郎が年上と推定される。炭治郎が鬼殺隊解散後に故郷に戻ったとしたら,学生時代の深田久弥とすれ違っているかもしれない。創作物と現実を混同するのはやめよう。
 深田は三条の湯に前泊し,そこから登り始めて「山の家」(後の雲取山荘)で一泊,それから富田新道(「山の家」の主人富田氏が開いた新道)で下山したとのこと。富田新道は知らなかったので調べてみたら,現在では登る人がほとんどいない道のようで,スタートから2時間も林道歩きが続く。それは絶えるわけだ……それが使われていたということは,前出の三峰からのルートが一番易しいと言われていることも合わせるに,当時はよほど鴨沢ルートが勧められない状態だったということか。非常に意外であるが,どの程度荒れていたのか気になる。


70.大菩薩嶺
 小説『大菩薩峠』は1913年から1941年にかけて連載された。大菩薩嶺もその影響で人気が高まっていくことになるが,深田曰く1923年に登った際には他の登山者に全く出会わなかったという。『大菩薩峠』で大菩薩峠が舞台だったのは最序盤のみであるが,1925年に作者の中里介山が大菩薩峠を訪れているそうなので,そこから人気が出たということだろうか。深田自身は喧騒が嫌いなので,この件はあまり紙幅を割いていない。比較的有名な話であるが,深田は今の大菩薩峠は『大菩薩峠』が舞台とする幕末当時の場所から少し南にずれていることにちゃんと触れている。一点補足すると,真の大菩薩峠は現在「賽の河原」と呼ばれていて,大菩薩峠から大菩薩嶺に向かうと自然と通る。また,樋口一葉が『ゆく雲』で大菩薩嶺の名を挙げていて,文学史上,中里介山よりもかなり早いことを指摘しているのは文人としての深田久弥の面目躍如だろう。
 大菩薩嶺は非常に難易度が低い山であるが,昭和の初期からそうだったようで,深田は「初心者にとってまことに恰好な山」「東京から日帰りができる」「安全なコースが開かれている」と記している。元は青梅街道が通っていたわけであるから,街道の中では難所だったとはいえ,ハイキングコースとして見れば自然と易しいという話になるか。
 深田は登山道入り口に雲峰寺という国宝の寺院があると記しているが,残念ながら現在はさらに近くに登山道入り口ができたため,わざわざ雲峰寺に寄る登山客は少なかろう。実は私は図らずも下山時に雲峰寺に立ち寄っているのだが,がんばって寄るほどの価値があるかと問われると微妙であると思う。また,雲峰寺の建物群は重要文化財である。国宝ではない。これには少し事情があり,戦前は国宝と重文の区別がなかったので全て国が指定する文化財は全て国宝だったのだが,戦後に文化財保護法が制定されて,旧国宝は改めて国宝と重文に分けて指定された。これは1949年のことなので,深田が『日本百名山』を執筆するよりも前の出来事なのだが……調べずに戦前の記憶に頼って書いたか。『日本百名山』では珍しい明らかなミスだ。


72.富士山
 饒舌で4ページに文章を収めるのに苦労していそうな深田にしては珍しく,冒頭「この日本一の山について今さら何を言う必要があるだろう」から始まっている。と言いつつも,役行者小角に都良香に山部赤人,松尾芭蕉に池大雅に葛飾北斎を引いて歴史を語り,紀行文『日本百名山』としての役割を果たしている。「一夏に数万の登山者のあることも世界一だろう」と書いているが,コロナ前は約20万人に達していた。まさに「これほど民衆的な山も稀である。というよりも国民的な山なのである」。
 深田は富士山の特殊性を「富士山ほど一国を代表し,国民の精神的資産となった山はほかにないだろう」「おそらくこれほど多く語られ,歌われ,描かれた山は,世界にもないだろう」として,もっぱら日本人の精神的土壌になったことについて紙幅を費やしている。実際に富士山はその価値が認められて文化遺産として世界遺産となったのだった。それだけ卑俗的な山ということになるが,深田は「結局その偉大な通俗姓に甲(かぶと)を脱がざるを得ない」と降伏している。俗世を嫌う深田にここまで言わせる富士山はやはり別格である。ただし,深田はとうとう富士山のページでは自らの山行について一言も言及がなかった。歴史や文学を語って紙幅を消費しきっただけかもしれないが,深読みするなら,実はやはり世俗にまみれすぎていて富士山のことはそれほど好きではないのかもしれない。


73.天城山
 深田は天城山について,戦前は要塞地帯だったために地図が無かったことや,信州や甲州の山に比べて惹かれなかったことから,長らく興味が持てなかったことを吐露している。しかも,終戦後に地図が出るや否や世俗に染まっていきそうなことを危惧している。それで最初の1ページが終わり,2ページ目で伊豆半島が活発な火山活動で形成されたことに触れ,3ページで早々に山行記録に入ってしまう。……あれ,『伊豆の踊り子』や『天城越え』(松本清張)は? 下田街道は? 歴史や文学にほとんど触れていない点で他の山と一線を画している。
 山行記録も山に入るまでが長く,3ページ目は概ね伊豆半島や大室山の感想であるから,実質的に4ページ目だけである。しかも深田が登ったのは12月下旬,ひたすら寒かったようで,早々に下山して温泉に入ったことで終わっている。また,「天城のいいことの一つは,見晴らしである」としているが,現在の天城山は樹林帯に埋没していて,万二郎岳や万三郎岳はあまり眺望が良くない。
 実は私自身も天城山を登って百名山にたる良さが無いという感想を持ったのだが,読んでみると深田もそこまで思い入れがあって百名山に入れたようには全く思われず,いわゆる当落線上の三十座の一つに違いなかろう。百名山からクビでいいのでは。