2023年12月15日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(金峰・瑞牆・木曽駒・北岳)

68.金峰山
 荻生徂徠が金峰山に言及して「最も険しく」「天を刺すもの,金峰山なり」と述べていると引用しつつ,「漢文口調の誇張であって,甲府盆地から仰ぐ金峰山は決して嶮峻といった感じではなく,むしろ柔和で優美である」と評している。これは深田の意見に賛成で,金峰山は2599mの高峰ながら周囲の山も高く(『日本百名山』では2595m),山塊の中心にいるどっしりとした山である。荻生徂徠は誇張したというより,何を見てそう述べたのか,そちらの方が気になってしまう。著書の『峡中紀行』は一応甲斐国を巡って書かれたものらしいので,実地に踏み入れているはずである。
 荻生徂徠への指摘はまだ続く。彼は金峰山の名前の由来について「頂上はみな黄金の地であって」「登山者は下山に際してワラジを脱いではだしで帰らねばならない」としているそうなのだが,金峰山は大峰山の別称からとられた名前であって蔵王権現信仰に由来するというのが正しく,深田久弥も当然このことを指摘している。なんというか,荻生徂徠,『峡中紀行』については相当に雑なことしか書いておらず全く信憑性が無い。江戸中期の知識人なら金峰山の名前の由来くらいは日本仏教史の基礎知識として知っていて然るべきはずで,荻生徂徠の教養に疑問を持ってしまった。他の本でも適当こいてない? 大丈夫?
 例によって深田自身の山行記録は短いが,関東大震災の翌年に登ったというから1924年,一高の生徒だったとのことである。若くて経験が浅い上に一人旅であったから,長距離登山を散々迷いながらこなしたのがわかる記録になっている。それにしても当時は昇仙峡から登ったそうで(そもそも甲府から昇仙峡も歩いている),地図で確認してもらえばわかるが,尋常じゃなく遠い。当然,富士見平にも大弛峠にも言及はない。


69.瑞牆山
 特徴的な山名であるので,山名蘊蓄が長い。昔の人の命名は笊や槍などシンプルであるから「昔の人はこんな凝った名前をつけない」。そこで深田は瑞牆山の由来を熱心に調べたが,結局わからなかったため,深田にしては珍しく憶測で書いている。山が三つ連なっていることから三繋ぎ(みつなぎ),そこから転じて「みずがき」の音となり,最後に風流な漢字が当てられたのではないかという。それに対し北杜市のホームページは瑞牆山の岩峰群が神社の周囲の垣根(つまり玉垣)に見立てられ,そこから転じたものではないかとする説を唱えている。その他にも説がいくつかあり,真相はわからない。ともあれ深田は「由来はどうあれ,瑞牆という名は私は大へん好きである」と気に入っている。
 瑞牆山は金峰山に比べると記録に乏しいが,深田は金峰山を見つけた修験者が瑞牆山を見逃すはずがないとして,実際には瑞牆山も古くから知られていたのではないかとも推測している。これは私も同感で,深田や私でなくとも巨岩があったら大体修験者がいる印象は登山者なら誰しも持っているのではないだろうか。言われてみると記録に乏しい方が不思議である。また,深田は瑞牆山の美点として「岩峰が樹林帯と混合しているところ」を挙げており,これにも強く同意する。樹林帯から突き出るように岩峰が伸びているのが美しいのである。
 なお,瑞牆山の登山道は当時と現在でほぼ変わらない経路であったようだが,それでも富士見平の名前は出てこなかった。深田が書き落としているだけか,『日本百名山』出版後に命名された比較的新しい地名ということか,どちらか。


74.木曽駒ヶ岳
 とりあえず山名の由来から入るいつもの構成。駒ケ岳という単純な名前ではあるが,意外と様々な説があるらしい。深田が言う通り,「それらよりも,岩や残雪によって山肌に駒の形が現れるという説」が最もそれっぽい。深田はそれ以外に,日本は古来山脈を竜に見立ててきたが,「竜は駒に通じる」ので,それを由来とするのではないかという説も押している。木曽駒ヶ岳は雨乞い祈祷が盛んであった山であるから,あながち外れてもいないのかもしれない。
 木曽駒ヶ岳はロープウェーが無かった時代でも比較的登りやすい3000m級だったようで,江戸時代から高遠藩による調査登山の記録が残っており,庶民にも集団登山の文化が及んでいた。このため1913年には麓の小学校が教職員と小学生合わせて37名の集団登山を行い,暴風雨に遭って遭難し,8月であったにもかかわらず校長以下11名が凍死するという事件まで起きたことを紹介している。長野県の義務教育課程には学校行事で集団登山の風習があることは聞いていたが,1913年からあることにも,こんな事件があっても続いたことにも驚きである。いや,小学生に3000m級の山を麓から登らすな。例によって山行は短く,4ページ目の半ページも使っていないが,四方の眺望の絶景を褒め称えている。


80.北岳
 「日本で一番高い山は富士山であることは誰でも知っているが,第二の高峰はと訊くと,知らない人が多い」という書き出しで始まる。深田もこのネタが現在まで擦られ続け,むしろ北岳が有名になってしまったとは思うまい。なお,『日本百名山』では北岳が3192mとなっているが,現在では3193mである。北岳は現在でも隆起が続いていて,年間約4mmずつ標高が高くなっている。100年で40cmとするとなかなかのペースであり,西暦4000年頃には3200mの大台に乗っているかもしれない。
 深田は北岳も白峰三山として意外と歴史があることに触れた上で,にもかかわらず「あまり人に知られていないのは,一つにはこの山が謙虚だからである」と擬人化して説明している。確かに「奇矯な形態で,その存在を誇ろうとするところもない」。高潔な気品があるとして,「富士山の大通俗に対して,こちらは哲人的である」と褒めちぎっている。深田は本音では富士山よりも北岳の方が好きなのだろう。
 それだけに,夜叉神峠から広河原までの車道が完成し,難易度が大きく下がって簡単に登れるようになったことについて,「喜ぶべきか,悲しむべきか,私は後者である」と率直に述べている。その広河原から登った身として言えば,いや広河原からでも十分に険しかったし,北岳まで来てしまうような人はもう深田の言うところの大衆とは言えまい。富士山や天城山などに比べれば,まだまだ全然神秘性が剥ぎ取られていないのが北岳だと思うのだが,どうだろうか。