2023年12月21日
自分が登った山の『日本百名山』を読む(北陸・関西編)
88.荒島岳
深田は石川県大聖寺(現在は加賀市)の出身だが,「母が福井市の出だった関係から,中学(旧制)は隣県の福井中学へ入った」。そのため,荒島岳は深田が中学生の頃から知っていた山だが,実は長らく登っておらず,初めて登ったのは『日本百名山』の執筆から数年前とのことであるから1950年代のことだろう。荒島岳は深田が故郷の山だから選出されたのだと言われがちだが,実は大して登っていない山だったりする。とはいえ,実は深田自身が「もし一つの県から一つの代表的な山を選ぶとしたら,という考えが前から私にあった」として,そこから荒島岳と能郷白山で悩み,荒島岳を県代表とした……と全く隠す気が無く書いている。直接明言した文ではないが,福井県から一つも百名山を選出しないわけにはいかなかったと解釈しうる。
ちょっと面白いのは,中学の頃から麓から立派な山容だと眺めていたことが長々と述べられた後,しかしながら「千五百米程度の山へ登るために,わざわざ越前の奥まで出かける余裕はなかった」などと最近まで登らなかった言い訳を述べ,然る後に突然,上述の県代表論を語り始める。それで4ページ中のほぼ3ページを使っていて,いつもの山名や歴史・信仰についての語りが全くない。例によって山行記録は最後の半ページのみで,眺望では白山が神々しいほど美しかったと述べている。私が登った感想としてもその点には同意するが,深田がしきりに言う麓から見た山容の良さや品格はあまり感じられなかった。『日本百名山』の本項を読んだ結果,やはり故郷びいきで県代表として選出したという疑念は晴れなかったどころか,深まってしまった。
89.伊吹山
伊吹山の章は東海道線の車窓から見えることから始まり,いつもの文学・歴史語りが始まる。当然ヤマトタケルの伝説に触れているが,「その伝えから頂上に日本武尊の石像が立っているが,尊にお気の毒なくらいみっともない作りなのは残念である」と書かれている。私もその石像を頂上で見ているが,確かにあれは残念なヤマトタケルの像で,深田が登った頃からいて直されていないことに少し驚いた。いつから立っているのか気になるが,1分で調べた範囲ではわからなかった。大体のことは褒める深田が「みっともない作り」と言うレベルの石像,さすがに作り直したほうがいいのではと思うが,少なくとも60年以上は経っているわけで,残念な姿のまま文化財になってしまった感もある。(追記)調べてくれた人がいた。大正元年11月21日に開眼供養が執り行われたとのこと。立って110年以上も立っているようだ。
当然,スキー場にもセメント工場にも言及がある。もちろん伊吹山を騒がしくするものとして文句を言っている。深田は「頂上に密集しているたくさんの小屋を見ただけでも,夏期の繁盛ぶりが察しられる」と書いているが,現在の伊吹山山頂で経営している小屋は5軒で,当時はこれより多かったのか同じなのかが気になるところ。なお,伊吹山ドライブウェイが通って誰でも山頂まで行けるようになったのは1965年のこと,『日本百名山』発刊の翌年のことで,執筆当時にはまだ計画すら無かったか,全く触れていない。さらに騒がしくなってしまうので,深田には厭わしい出来事か。
山頂からは「元亀天正の世」の古戦場として姉川・賤ヶ岳・関ケ原が見える他,鈴鹿山脈,琵琶湖と比叡山等も見えるが,深田が第一に見たのは白山だったようだ。伊吹山から白山はけっこう見えにくかったような覚えがあるが,それでも白山を探してしまう辺りに深田の白山への愛がある。ひょっとして荒島岳を選出したのは白山が一番綺麗に見えるという一点だけで他は後付なのでは……
90.大台ケ原
大台ケ原は大峰山と違い,明治になってから開かれた山である。人が踏み入ってからの歴史が浅い山なので深田は何を書くのかと思ったら,享保六年に蘭学者の野呂元丈が薬草採取のために登った記録があるというのを引いていた。探してみれば登った人がいるものだ。
大台ケ原の特徴といえば年間4,000mm超の降水量であるが,深田も「大台ケ原に登って雨に遇わなかったら,よほど精進のよい人と言われる。」と書いている。その後,深田自身は「素晴らしい天気に恵まれた」と書いているのだが,深田さんはそんなに精進のよい人でしたっけ……? 深田自身も自覚があって「精進がよかったからではなく,選んだ季節が雨期を外れていたからであろう」と書いている。私自身が登った時も快晴に恵まれたので,どうも精進がよいかどうかは関係がなさそうだ。なお,「精進の(が)よい」でググるとほぼ大台ケ原についてのページしか出てこなかった(いずれも『日本百名山』からの引用)。現在では「精進のよい」という語はほぼ大台ケ原の天気についてしか使われない言葉と言っていい。
深田は大台ケ原の山頂について「秀ヶ岳」と書いているのだが,現在の呼び名は「日出ヶ岳」である。ググるとこれまた『日本百名山』からの引用記事ばかりが見つかり,旧名なのか別称なのか,深田の誤記なのか調べはつかなかった。あまり誤記には思えないので旧名のような気はする。
大台ケ原の牛石ヶ原には神武天皇の銅像が立っていて,これが雰囲気に合わず異常に浮いているのだが,1928年設置と古く,当然深田も見ていて一応存在に触れているが,感想は特に書いていなかった。伊吹山のヤマトタケルもそうだが,少なくとも私は神話の由来があるからと言って雰囲気に合わない像を立てるべきではないと思う。しかもこの神武天皇は記紀で大台ケ原に登ったとされているわけではなく,伝説・神話としてさえも信憑性が薄い。まあ立てたのが神道系の新興宗教の開祖なので突拍子のなさについては仕方がないのかもしれない。
深田は大台ケ原に二度登っていて,二度目は大台ヶ原ドライブウェイが通っていたから1961年以降の登山である。行きはこれを利用したそうだが,帰りは(おそらく喧騒を嫌って)大杉谷から下山したそうだ。美しい渓谷で知られる長い登山道であるが,深田に「渓谷の美しさは日本中で屈指といっていい」とまで言わせている。興味はあったが,やはり計画を立てるべきか。
91.大峰山
私が深田久弥の『日本百名山』に本格的な興味を抱いたのは,大峰山に登った時である。下山後に宿泊した洞川温泉のあたらしや旅館で,廊下に深田久弥の色紙が飾ってあり,同行者と「何か縁があるのかな」と話していたところ,仲居さんに「深田さんはここに泊まって山上ヶ岳に登られたのですよ」と返された。その後,夕飯の牡丹鍋に舌鼓を打っていると,古株の従業員が話しかけてきて,深田久弥の思い出話を聞かせてもらい,なんと深田の宿帳まで見せてもらい,「深田は山上ヶ岳こそ大峰山だと考えていた。八経ヶ岳はただの最高峰でしかない」と熱弁を聞いた。これが非常に印象に残ったのであった。あたらしや旅館は深田が泊まった宿であることを全然アピールしていないのだが,もったいないのでもっと宣伝すべきだと思う。
閑話休題。日本人の登山としては最古の山なだけあって書けることが多すぎるためか,歴史パートは役行者が開山したことから書き始めて存外すぐに終わる。その中で確かに「(山上ヶ岳が)大峰山の代表と見なしていいだろう」と書いている。ただし,修験道の道場としての大峰山は山脈全域であって,特定のピークではないことも強調していた。
山行記録について,深田は「泉州山岳会の仲西政一郎さんの案内で大峰山を訪れた」と書き始める。あたらしや旅館の宿帳にはこの仲西政一郎氏の署名もあり,確かに二人で泊まっていたのが確認できる。私は宿帳を見てから『日本百名山』を読んだので順番が逆になってしまったが,『日本百名山』を読んでから宿帳を見た方が感動するだろうと思う。なお,この仲西政一郎氏は父親も当人も修験者(山伏)であった筋金入りの登山家であり,関西の登山ガイドを多数執筆したことでも知られる。
そうして深田は洞川温泉を出発して山上ヶ岳に登り,「女人不許入」の石標から入って洞辻茶屋,「西の覗き」と見て山頂の宿坊に泊まった。翌日に山頂を踏んだ後に南下し,大普賢岳・行者還岳・弥山と縦走して,八経ヶ岳の山頂から下山している。確かに山上ヶ岳以外の記述は淡白であった。なお,修験道としての縦走路はまだ南に続いていたが,「私はその最高峰を踏んだことに満足して山を下った」そうなので,深田の本質は登山家であって修験者ではないのである。
深田は石川県大聖寺(現在は加賀市)の出身だが,「母が福井市の出だった関係から,中学(旧制)は隣県の福井中学へ入った」。そのため,荒島岳は深田が中学生の頃から知っていた山だが,実は長らく登っておらず,初めて登ったのは『日本百名山』の執筆から数年前とのことであるから1950年代のことだろう。荒島岳は深田が故郷の山だから選出されたのだと言われがちだが,実は大して登っていない山だったりする。とはいえ,実は深田自身が「もし一つの県から一つの代表的な山を選ぶとしたら,という考えが前から私にあった」として,そこから荒島岳と能郷白山で悩み,荒島岳を県代表とした……と全く隠す気が無く書いている。直接明言した文ではないが,福井県から一つも百名山を選出しないわけにはいかなかったと解釈しうる。
ちょっと面白いのは,中学の頃から麓から立派な山容だと眺めていたことが長々と述べられた後,しかしながら「千五百米程度の山へ登るために,わざわざ越前の奥まで出かける余裕はなかった」などと最近まで登らなかった言い訳を述べ,然る後に突然,上述の県代表論を語り始める。それで4ページ中のほぼ3ページを使っていて,いつもの山名や歴史・信仰についての語りが全くない。例によって山行記録は最後の半ページのみで,眺望では白山が神々しいほど美しかったと述べている。私が登った感想としてもその点には同意するが,深田がしきりに言う麓から見た山容の良さや品格はあまり感じられなかった。『日本百名山』の本項を読んだ結果,やはり故郷びいきで県代表として選出したという疑念は晴れなかったどころか,深まってしまった。
89.伊吹山
伊吹山の章は東海道線の車窓から見えることから始まり,いつもの文学・歴史語りが始まる。当然ヤマトタケルの伝説に触れているが,「その伝えから頂上に日本武尊の石像が立っているが,尊にお気の毒なくらいみっともない作りなのは残念である」と書かれている。私もその石像を頂上で見ているが,確かにあれは残念なヤマトタケルの像で,深田が登った頃からいて直されていないことに少し驚いた。いつから立っているのか気になるが,1分で調べた範囲ではわからなかった。大体のことは褒める深田が「みっともない作り」と言うレベルの石像,さすがに作り直したほうがいいのではと思うが,少なくとも60年以上は経っているわけで,残念な姿のまま文化財になってしまった感もある。(追記)調べてくれた人がいた。大正元年11月21日に開眼供養が執り行われたとのこと。立って110年以上も立っているようだ。
当然,スキー場にもセメント工場にも言及がある。もちろん伊吹山を騒がしくするものとして文句を言っている。深田は「頂上に密集しているたくさんの小屋を見ただけでも,夏期の繁盛ぶりが察しられる」と書いているが,現在の伊吹山山頂で経営している小屋は5軒で,当時はこれより多かったのか同じなのかが気になるところ。なお,伊吹山ドライブウェイが通って誰でも山頂まで行けるようになったのは1965年のこと,『日本百名山』発刊の翌年のことで,執筆当時にはまだ計画すら無かったか,全く触れていない。さらに騒がしくなってしまうので,深田には厭わしい出来事か。
山頂からは「元亀天正の世」の古戦場として姉川・賤ヶ岳・関ケ原が見える他,鈴鹿山脈,琵琶湖と比叡山等も見えるが,深田が第一に見たのは白山だったようだ。伊吹山から白山はけっこう見えにくかったような覚えがあるが,それでも白山を探してしまう辺りに深田の白山への愛がある。
90.大台ケ原
大台ケ原は大峰山と違い,明治になってから開かれた山である。人が踏み入ってからの歴史が浅い山なので深田は何を書くのかと思ったら,享保六年に蘭学者の野呂元丈が薬草採取のために登った記録があるというのを引いていた。探してみれば登った人がいるものだ。
大台ケ原の特徴といえば年間4,000mm超の降水量であるが,深田も「大台ケ原に登って雨に遇わなかったら,よほど精進のよい人と言われる。」と書いている。その後,深田自身は「素晴らしい天気に恵まれた」と書いているのだが,深田さんはそんなに精進のよい人でしたっけ……? 深田自身も自覚があって「精進がよかったからではなく,選んだ季節が雨期を外れていたからであろう」と書いている。私自身が登った時も快晴に恵まれたので,どうも精進がよいかどうかは関係がなさそうだ。なお,「精進の(が)よい」でググるとほぼ大台ケ原についてのページしか出てこなかった(いずれも『日本百名山』からの引用)。現在では「精進のよい」という語はほぼ大台ケ原の天気についてしか使われない言葉と言っていい。
深田は大台ケ原の山頂について「秀ヶ岳」と書いているのだが,現在の呼び名は「日出ヶ岳」である。ググるとこれまた『日本百名山』からの引用記事ばかりが見つかり,旧名なのか別称なのか,深田の誤記なのか調べはつかなかった。あまり誤記には思えないので旧名のような気はする。
大台ケ原の牛石ヶ原には神武天皇の銅像が立っていて,これが雰囲気に合わず異常に浮いているのだが,1928年設置と古く,当然深田も見ていて一応存在に触れているが,感想は特に書いていなかった。伊吹山のヤマトタケルもそうだが,少なくとも私は神話の由来があるからと言って雰囲気に合わない像を立てるべきではないと思う。しかもこの神武天皇は記紀で大台ケ原に登ったとされているわけではなく,伝説・神話としてさえも信憑性が薄い。まあ立てたのが神道系の新興宗教の開祖なので突拍子のなさについては仕方がないのかもしれない。
深田は大台ケ原に二度登っていて,二度目は大台ヶ原ドライブウェイが通っていたから1961年以降の登山である。行きはこれを利用したそうだが,帰りは(おそらく喧騒を嫌って)大杉谷から下山したそうだ。美しい渓谷で知られる長い登山道であるが,深田に「渓谷の美しさは日本中で屈指といっていい」とまで言わせている。興味はあったが,やはり計画を立てるべきか。
91.大峰山
私が深田久弥の『日本百名山』に本格的な興味を抱いたのは,大峰山に登った時である。下山後に宿泊した洞川温泉のあたらしや旅館で,廊下に深田久弥の色紙が飾ってあり,同行者と「何か縁があるのかな」と話していたところ,仲居さんに「深田さんはここに泊まって山上ヶ岳に登られたのですよ」と返された。その後,夕飯の牡丹鍋に舌鼓を打っていると,古株の従業員が話しかけてきて,深田久弥の思い出話を聞かせてもらい,なんと深田の宿帳まで見せてもらい,「深田は山上ヶ岳こそ大峰山だと考えていた。八経ヶ岳はただの最高峰でしかない」と熱弁を聞いた。これが非常に印象に残ったのであった。あたらしや旅館は深田が泊まった宿であることを全然アピールしていないのだが,もったいないのでもっと宣伝すべきだと思う。
深田久弥の泊まった宿ということに気づいたのはチェックインしたからであった。牡丹鍋の美味しい良い宿だった。 pic.twitter.com/IHbk6BJNuA
— DG-Law/稲田義智 (@nix_in_desertis) October 24, 2022
閑話休題。日本人の登山としては最古の山なだけあって書けることが多すぎるためか,歴史パートは役行者が開山したことから書き始めて存外すぐに終わる。その中で確かに「(山上ヶ岳が)大峰山の代表と見なしていいだろう」と書いている。ただし,修験道の道場としての大峰山は山脈全域であって,特定のピークではないことも強調していた。
山行記録について,深田は「泉州山岳会の仲西政一郎さんの案内で大峰山を訪れた」と書き始める。あたらしや旅館の宿帳にはこの仲西政一郎氏の署名もあり,確かに二人で泊まっていたのが確認できる。私は宿帳を見てから『日本百名山』を読んだので順番が逆になってしまったが,『日本百名山』を読んでから宿帳を見た方が感動するだろうと思う。なお,この仲西政一郎氏は父親も当人も修験者(山伏)であった筋金入りの登山家であり,関西の登山ガイドを多数執筆したことでも知られる。
そうして深田は洞川温泉を出発して山上ヶ岳に登り,「女人不許入」の石標から入って洞辻茶屋,「西の覗き」と見て山頂の宿坊に泊まった。翌日に山頂を踏んだ後に南下し,大普賢岳・行者還岳・弥山と縦走して,八経ヶ岳の山頂から下山している。確かに山上ヶ岳以外の記述は淡白であった。なお,修験道としての縦走路はまだ南に続いていたが,「私はその最高峰を踏んだことに満足して山を下った」そうなので,深田の本質は登山家であって修験者ではないのである。
Posted by dg_law at 08:00│Comments(0)