2023年12月24日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(中国・四国編)

92.大山
 伯耆大山。「伝説的に言えば,大山はわが国で最も古い山の一つである」からいつもの歴史語りが始まり,大山寺が僧兵を擁して暴れていたことや,『暗夜行路』の最後の場面であることまできっちり言及している。山容について言及する部分では,「だいたい中国地方には目立った山が少ない。その中でひとり大山が図抜けて高く,秀麗な容を持っている」から始まり,けっこうな紙幅を費やして中国地方から選出した百名山がこの一座しかない理由を説明するかのごとく中国山地をけなしている。もっとも本人があとがきで氷ノ山が候補に入っていたことを書いているし,二百名山ではその氷ノ山・蒜山・三瓶山が入っているから,中国山地も惜しいところで一座だけになった。そう考えると,大山のページではちょっと中国山地をけなしすぎている印象である。
 大山の山容について言及するなら外せないのが,見る角度によって山容が大きく異なるという点である。深田もこれには驚いていて,西からは出雲富士と呼ばれるほどに整っているのに,別角度から見ると山頂が深く崩落していてむしろ鋭く切れ落ちている。深田も書いている通り,その壁面の美しさが伯耆大山の持ち味の一つだと思う。
  
93.剣山
 四国剣山。「わが国の山名で駒についで多いのは剣である」,そしてそのほとんどは山の形から来た名前であるが「四国の剣山だけは違う」。私もこれは以前から疑問であったし,登ったけど結局わからなかった。深田は調べて「安徳天皇の御剣を山頂に埋め,これを御神体としたから」という理由を挙げている。もちろん壇ノ浦で沈んだことと矛盾するが,地元の寺(円福寺)に残る言い伝えでは,平国盛(教経)が我が子と偽って壇ノ浦から安徳天皇を連れ出し,その際に草薙の剣も持ち出した。しかし平家再興ならぬまま安徳天皇が夭折したため,ご遺言に従って宝剣を奉納した……という矛盾を解消するための伝承が追加されているらしい。四国剣山は公式サイトの電波がかなり飛んでいるのだが,その原因の一端をここに見た気がした。深田も「日本歴史で平家没落ほどロマンティックな色彩を帯びたものはない」と書いているが,ついでに日ユ同祖論まで呼び寄せることはなかっただろうに。
 四国剣山は山容が丸みを帯びている上に現在ではリフトが運行しているから,百名山ではトップクラスに登りやすい山である。一方で麓までのアクセス性があまり良くないのだが,深田が登った当時は輪をかけてそうだったようで,祖谷川沿いを延々と歩かされて「あまりに長い」と愚痴をこぼしている。歴史と風格ある百名山としては珍しく,深田が「人里から剣山を仰ぐ事は出来ないのであろう。それほど奥深い山と言える」と書いている通り,標高もさしてあるわけでもないのに,よく古くからの信仰の山となったものだ。一歩間違えれば大台ケ原や美ヶ原のような扱いだったのではないか。そうならなかったのはやはり平家の落ち武者伝説の影響はありそうで,この際胡散臭いのは仕方がないと割り切らなければいけないのかもしれない。
 

94.石鎚山
 歴史・文学語りは,山部赤人や西行法師が「伊予の高嶺」と詠んでいて和歌の題材となっていたことや,『日本霊異記』には早くも名前が挙がっていること,役行者が登ったらしいことを語っている。なお,山部赤人は道後温泉でその歌を詠ったのだが,実際には松山から石鎚山が見えないので別の山の可能性もあるとのこと。
 石鎚山といえば長大な四本の鎖が有名であるが,深田の記述は意外にもあっさりしていて,ほぼ「上に行くほど鎖は長くなり,急峻さも増してくる」と書いているのみである。そういえば試しの鎖は言及がなかった。一の鎖以降の三本は少なくとも1779年に掛け替えた記録が残っており,江戸時代中期頃からあったようだ(現地の看板には江戸時代初期に最初に掛けられたと説明がある)。試しの鎖については調べてみたところ昭和7年に掛け替えた記録があるようなので,少なくともそれ以前からあったのだろう。深田が登った当時にはまだ存在していなかったわけではなさそうであるが,記述から漏れた理由はなぜか。
 深田は天狗岳まで登った後に下山してバスで帰ったそうで,バスの車中から石鎚山を仰ぎ見て「今日,あの頂上に立ったとは思えない,遥かな崇高な姿であった」と述懐している。これは登山が好きな人なら大いに同意できる感慨で,下山した後の帰路で山を仰ぎ見るたびに,さっきまであそこにいたとは信じられないと思ってしまう。人は半日で意外と歩けるものなのだとか,人類文明の領域である麓と自然の只中である山頂との対比等で感情が湧き出てくるのである。