2023年12月25日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(九州編)

97.阿蘇山
 いつもの歴史・文学語りは頼山陽から。頼山陽は1818年から1年間をかけて九州を周遊していて,阿蘇山も訪れたようだ。私事になるが,この間に長崎に旅行して訪れた料亭花月(当時は遊郭)に頼山陽は三ヶ月ほど滞在していたらしい。九州周遊の約四分の一をかけて滞在していたということになり,やはり長崎は学ぶものも遊ぶものも多かったのだろう。調べてみると大分(当時は豊後)の耶馬溪を命名したのも頼山陽と伝わっているそうで,豊後では広瀬淡窓とも会っており,わずか1年で吸収に残した足跡は多い。閑話休題,その他に『日本書紀』に早くも記述があることや,夏目漱石の『二百十日』の舞台であることが語られている。後者は存在自体を知らなかったのだが,夏目漱石は本作品に先立って阿蘇山に登っているらしい。作中の人物は登山に失敗しているのだが。
 実に深田はいざ阿蘇山に登ろうとしたが,「駅前に騒々しく群がる観光客を見ただけで,私はあやうく登山意欲を喪失しそうになった」となったのはいかにも彼らしい。観光客を避けて登ったのが大観峰だったとのことだが,面白いのは結局翌日「雑鬧に我慢して,観光バスで坦々とした舗装道路を登り,世界一と称するロープウェイに乗って労せずして噴火口の上縁へ到着した」と書いていることで,深田に雑踏を我慢しても見たいと思わせた阿蘇山の貫禄勝ちという趣がある。次に阿蘇山に行った際には「ここが深田に雑踏を我慢させた風景か」という感慨を持って眺望を確認したい。なお,そこからさらに山深くに入るとさすがに観光客が消え,中岳から見た稜線は霧氷に覆われていたそうだ(登ったのは早春)。なお,現在はロープウェイは運行を停止しており,バスが代行輸送を行っている。


98.霧島山
 1行目は,令和の御代からするとさすがに隔世の感がある「紀元節を復活するかどうか,二月十一日が近づく毎に問題になっている。」である。戦後直後の雰囲気が漂う。そこからしばらく高千穂峰の話題となり,「頂上には,有名な天の逆鉾が立っていた。」私はここにまだ登山を本格的に始めたばかりの頃に行ったが,装備が足りずに挫折した。いつか再挑戦したい。なお,深田は「もっともその逆鉾の史的価値についてはいろいろな論があった」「古代のものでないことだけは事実である」としているが,深田の執筆当時にはレプリカであることが確実ではなかったのだろうか。ついでに言うと坂本龍馬が引き抜いたという逸話を書いていないのは少し意外であった。深田が高千穂峰に登ったのは昭和14年,つまり皇紀2599年のことで,記念事業的に立派な登山道が整備されつつあったそうだ。1939年はまだ登山道を整備する余裕があった。
 深田は高千穂峰の前に韓国岳や獅子戸岳,中岳,新燃岳を登ってきたそうだが,現在では入山規制がかかっていてその半数は登れない。特に新燃岳は21世紀に入ってから断続的に噴火していて,向こう数十年は登れそうにない。興味深いことに,これら韓国岳などについての深田の記述は「それぞれの山頂から倦くほど高千穂の美しい峰を眺めた」の1行で終わっている。その後は再び高千穂峰の記述に戻り,なんとそのまま霧島山の章が終わるのだ。つまり,霧島山についての記述の9割は高千穂峰に費やされていると言ってよい。これは百名山としての大峰山の主峰が八経ヶ岳ではなく山上ヶ岳であるのと同じ理屈で,百名山としての霧島山の主峰は韓国岳ではなく高千穂峰ということになりそうだ。これに則るなら私はまだ霧島山を制覇していないことになる。困ったな……
 その高千穂峰についてだが,「日本の右傾時代には,不敬の心を抱いて高千穂峰に登ることも許されなかったが,今はそういう強制的な精神の束縛もなく」登れるようになったことを言祝いで山行記録を締めくくっていた。最後まで昭和の戦後直後の雰囲気が漂う章であった。


99.開聞岳
 日中戦争に出征していた深田が1946年に上海から復員した時,船から最初に見えた日本の風景が開聞岳だったそうだ。それは印象に残ったことだろう。開聞岳の名前の由来や歴史については,以前は「ひらきき」であったことや『延喜式』や『日本三代実録』に記録があること,9世紀の二度の噴火等,一通り触れている。
 深田は登ったのは戦前のことだったそうだが,すでに登山道は螺旋状に山を巻いていたようで,深田もこの工夫を褒めている。中腹ぐらいまでは密林で,上の方は灌木地帯で眺望がある点や,四周の風景に接することができる点も戦前と現在で変わらないようだ。山頂からの眺めは抜群であるが,南方の遠い島々だけは天候の加減で見えなかったことを嘆いている。奇しくも私が登ったのも12月で,やはり南方だけは見通しが悪かった。そういうものなのかもしれない。