2024年08月25日

「ありがたみ」の美学とでも言うべきか

・美的なものと芸術的なもの(obakeweb)
→ 定義の良い整理で,自分の知らない美学史の潮流もあって勉強になった。西洋美術史の流れから言えば美学と芸術学は分離せざるを得なかったのだろう。
→ 脚注3について,確かに美学美術史になっている研究室は多い印象。現在の東大は「美術史」と「美学芸術学」という研究室の分け方だが,昔はやはり美学美術史だったらしい。美術史学と美学を分けた時に,後者を美学芸術学と名付けたのは良い判断だったのかもしれない。


・仏像の研究者が講座でコンクリート製の仏像の話をしたところ「国立博物館で本物を見て学んだほうが良い」と言われる→「本物の仏像とは何か?」という問い(Togetter)
→ これも美学の話題だが,あまりそう指摘している人はないようであった。青銅製や木製でなければ仏像としてのありがたみが薄いと考える人が出てくるのは,言われてみると想像の範囲内である。しかし,このなんとなくわかるところを言語化するのは意外と難しい。芸術家や職人の手作りでなければ魂が入っていないということだろうか。画竜点睛の類義語として仏造って魂入れずと言うではないか。おそらくこれが最も正解に近いと思われるが,となるとこれは素材の問題ではなく,実は労力の問題ということになる。それを言うならコンクリート製の大仏はどうか。多額の資金と労働者の汗で建てられているものになるが,魂が入っていないと見なされるか。逆に20世紀末に建てられた青銅製の大仏はどう判断されるか。たとえば牛久大仏は青銅製である。近代技術を用いて建てたという展ではコンクリート製の大仏と同じであるが,素材は古代と同じである。これは魂が入っていないということになるか。さらに言えば青銅製の小像を機械に鋳造させ,古代の模造を作ったならどうか。全く人間の手を経ていないが,人間が作ったものと見分けはつかないはずである。
→ ここで「全部本物の仏像ってことでいいのでは」と思える人は別にそれでよく,私もどちらかと言えばそちら側の意見の人間である。しかし,「理屈じゃないが,どこかで線引が必要ではないかという感覚がある」と思う人がいて,その感覚の淵源を探っていく,言語化していく上で,本件は格好の題材であると思う。


・工場建設きっかけ、地中から埋蔵銭10万枚超 戦乱で急きょ埋めたか(朝日新聞)
→ このニュースのポイントは「紀元前の中国初の統一通貨「半両銭」や、7世紀から13世紀にかけて造られた渡来銭など10万枚を超す大量の埋蔵銭」というところで,鎌倉時代の遺構だから宋銭がほとんどを占めるのはわかるが,開元通宝や半両銭が混ざっているのは珍しい。半両銭については他の遺跡での事例がほぼ無いのではないか。発掘された約10万枚のうち調査して文字が判読できたもの334枚のうちの1枚が半両銭であったそうなので,10万枚の中にはまだ他の貨幣もありそうだ。読めない状態なのが悔やまれる。
→ 半両銭が鎌倉時代の遺跡から出土した理由が気になる。一番しっくり来るのは,半両銭や開元通宝も宋銭と同様の普通の貨幣として流通していたということ。銅銭はほぼ銅地金のような扱いであったから,貯蓄していた当人からするとその銅銭が半両銭であるか宋銭であるかは特にこだわりがなかった。また,それに近い推測として,どうせ鋳潰すつもりだったのかもしれない。宋銭と一緒に雑多に発掘されたことから言って貨幣コレクションだったとは思われない。
→ なお,新聞記事にある通り,同遺跡からは古墳時代のものも発掘されており,長く使われていた土地だったようだ。発掘調査報告書も公開されているので,ご興味があればこちらも参照してほしい。読んでみると,古墳時代どころか縄文時代のものも見つかっている。
・総社村東03遺跡(全国遺跡報告総覧ー奈良文化財研究所)