2024年07月05日

登山記録26(白砂山,男体山)

No.69 白砂山
〔標高〕2139m
〔標高差〕約630m(野反湖の堂岩山への登山口から)
〔百名山認定〕二百名山
〔ヤマノススメ〕ー
〔県のグレーディング〕3B
〔私的な難易度と感想〕4B
 深田久弥が百名山に入れるか最後まで迷って落選になり,二百名山に拾われた山。長野県・新潟県・群馬県の(ほぼ)3県県境でもある。落選になったこと自体は関越県境の百名山が他にも多く入っているから競争に勝てなかったのは仕方がない。では,二百名山の頂点の山の実力はいかほどかということで登ってみた。結論を言えば,非常に良い山ながら百名山の当落線上というのもわかるという評価になった。このため,百名山への門番で,この登山後に百名山を登ると,百名山に入っているなら少なくとも白砂山の登山体験を超えてほしいと思うようになった。
 白砂山の美点は稜線の美しさにある。あまりにも美しいので,この一点突破で百名山への当落線上まで来ていると思う。稜線の両側で植生が大きく異なり,見るからに豪雪地帯と相対的に雪が少ない側がわかる。私が行った10月初旬には,その豪雪地帯の北側が綺麗に紅葉していた。この紅葉と南斜面の常緑樹とのコントラストが稜線の美しさを際立たせている。これを見に行くためだけに登っていい。
 逆に難点は,道が非常に長いことに尽きる。美しい稜線に出会えるまで,眺望のない樹林帯の登山を延々と耐える必要がある。落ちたら死ぬような岩場や痩せ尾根は無いが,逆に言えば緊張感もなく,登っていて楽しみは薄い。それもこれも白砂山とスタート地点の野反湖の間に八間山または堂岩山という山が挟まっていて,そのどちらかを乗り越えなければたどり着かないためである。なお,堂岩山は急登の直登,八間山は回り道だが多少は眺望があるので,時間を見て選ぶとよい。我々は起床が少し遅くて出遅れたので堂岩山を登ったが,結果的に早起きして八間山から登るのが正解だった。
 白砂山は群馬県の中でも秘境と言うべき山奥で,登る人が非常に少ない。二百名山とは思えないほど少なく,私が登った時には紅葉真っ盛りに登ったのに,すれ違った人は10人かそこらであった。YAMAPのデータを見ても全然登山者がおらず,インターネットで検索してもろくな観光案内や登山案内が無い。完全に見捨てられている。当然『ヤマノススメ』にも未登場。今度『ゆるキャン△』が野反湖でキャンプをするようなので,それで少しでも注目されると嬉しい。
 なお,白砂山という名前に反して地表がさして白くない(むしろ周りの山に白っぽいのがある)。名前の由来はここから流れる白砂川に由来し,白砂川も「須川(酸川)」からの改名で,名前の通り強酸性の死の川である。白砂山自身は火山ではないが,周囲に火山が多く,白砂山から少し南に行くとph2.0の草津温泉もあるから,名前には納得が行く。




白砂山・堂岩山 / 稲田義智さんの堂岩山地蔵山(長野県)白砂山(長野県)の活動データ | YAMAP / ヤマップ



No.70 男体山
〔標高〕2484m
〔標高差〕約1210m(二荒山神社中宮祠から)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕ー
〔県のグレーディング〕3B
〔私的な難易度と感想〕3B
 男体山の特性はその登山道の性質のバリエーションである。麓〜三合目は土の急坂,三〜四合目は舗装された車道,四〜六合目は普通の登山道,六〜八合目は急峻な岩場,八〜九合目は階段に戻り,九合〜山頂は火山性軽石の上を歩く……と、目まぐるしく登山道の性質が変わるため,登っていて全く飽きない。難易度は六〜八合目の岩場がちょうどBの基準点という感じで,鎖場やハシゴは無いが,四つ足になる岩場ではあり,三点確保の練習には大変良い。その岩場も含めて,山頂付近の軽石ゾーンを除けばよく整備されていて歩きやすい。霧ヶ峰や筑波山から本格的な百名山のステップアップにもちょうど良さそうである。入山料(二荒山神社奥宮拝観料)を500円とられるが,この整備具合なら納得である。樹林帯が長く,道中の眺望は微妙である。反面,山頂付近からの眺望は非常によく,麓の中禅寺湖や戦場ヶ原,お隣の日光白根山等がよく見える。
 なお,男体山は二荒山神社の御神体でもあり,二荒山神社と言えば祭神の一柱に摩多羅神がいる。ということは東方天空璋の聖地とみなすことができなくもない……と思っているのだが,東方の聖地として摩多羅神信仰を目的に男体山を登頂した人は,現在のところ私以外に見たことがない。摩多羅隠岐奈が好きな諸氏は是非とも登ってほしい。
 『日本百名山』では,深田は縁起に紙幅を割いている。胡乱なものが多い日本の山の開山記録において,「一番実証性のあるのは,日光の男体山である」という書き出しで始め,4ページ中の丸2ページを費やしている。782年,勝道という修行僧が登頂に成功したことが空海により『性霊集』に書かれており,その記述がかなり詳しいので,深田も紹介したくなったのだろう。日本に近代登山の概念が導入されたのは明治になってからであるが,空海によれば勝道は登頂に成功して「一たびは喜び,一たびは悲しみ,心魂持し難し。」と感じたようである。深田が指摘するように,これは近代登山的な精神だろう。
 元の名前は二荒山であり,補陀落が由来であろうことを紹介した後,短く自らの山行を書いているが,登ったのは1942年のことらしい。思い切り戦時中である。「非常に急峻で,湖畔から頂上までひたすら登りづくめ」との評である。確かに登りづくめなのだが,他の百名山と比べて相対的に急峻かというとそこまでではないと思われ,また当時と今で登山道が変わっていないとも思われるので,ここは深田久弥の感覚がわからない。



男体山 / 稲田義智さんの男体山の活動データ | YAMAP / ヤマップ