2024年07月15日
ガーナ王国はいつ滅亡したか
受験世界史深掘りシリーズ。ガーナ王国はニジェール川上流域北方に存在した王国である。現在のガーナ共和国とは全く領域が重なっておらず,歴史的なつながりもない。ガーナ王国はサハラ砂漠を縦断する貿易,サハラ砂漠で採掘される岩塩とニジェール川の南側で採掘される黄金を交換する塩金貿易を管理して繁栄した。金は地中海沿岸から来たムスリム商人によって持ち帰られ,イスラーム圏の金貨鋳造に用いられた。このため11世紀半ばのムスリムによる記録では,ガーナ王国の首都クンビ=サレーは二つの居住区域に分かれ,片方にはムスリムが,もう片方には伝統的宗教を維持する住民が居住した。宮廷があったのは伝統的な宗教の住民区の方であり,森の中であったとされるが,現在の発掘調査ではまだムスリム居住区しか見つかっていない。
このガーナ王国に異変が起きたのは1076/77年のことである。マグリブを征服したモロッコのムラービト朝は宗教的情熱に篤いベルベル人の一派が建てた王朝であり,ガーナ王国の王が異教徒であることに我慢ならなかった。また,当時の塩金貿易を担っていたムスリム商人にイバード派が多かったため,ムラービト朝が奉じるスンナ派とは折り合いが悪かったという北アフリカ側の事情も絡んでいた。イバード派は布教に熱心でないため異教徒との交易を独占しやすかった。このためムラービト朝は塩金貿易路に乗って遠征軍を派遣し,クンビ=サレーを占領して,強引にガーナ王をスンナ派ムスリムの人物にすげ替えてしまった。以降,北アフリカのムスリム及び西アフリカの異教徒のスンナ派ムスリムへの改宗が急速に進むことになり,特に北・西アフリカにおけるイバード派は壊滅して,21世紀現在のイバード派がオマーンに限られる要因となった。
しかし,ムラービト朝はこの直後からイベリア半島情勢に介入し,レコンキスタへの対抗に情熱を燃やすようになって,西アフリカへの関心を急速に失っていく。その挙げ句に1130年頃に内紛で解体し,1147年には新たに興隆したベルベル系王朝ムワッヒド朝により滅ぼされる。困ったのはスンナ派ムスリムのガーナ王で,ガーナ王国はムラービト朝の遠征時にクンビ=サレーを破壊されて壊滅的な打撃を受けていた上に,塩金貿易の庇護をムラービト朝の軍事力に依拠していたから,ムラービト朝の崩壊は死活問題であった。歴史上でも稀に見るはしごの外し方では。以後のガーナ王国は衰退著しく,ガーナ王国の南方に成立していたマリ王国が,1235年頃にガーナ王国を属国化してニジェール川上中流域の覇権を築いた。以降のガーナ王国は史料から消え,詳細がわかっていない。
なお,今回の記事の典拠の一つ,坂井信三「トランスサハラ国家と西アフリカ諸国家」『岩波講座 世界歴史18』(pp.107-129)はもう一つ興味深い指摘をしている。サハラ縦断貿易は岩塩と金の交換以外に,馬と奴隷の交換も行われていた。すなわち,異教徒を奴隷の供給源と見なすムスリム,とりわけ先行して改宗した黒人部族が,地中海世界から輸入した馬を用いて奴隷狩りを行っていたのに対し,ガーナ王国はその防衛を担っていた。しかし,ガーナ王国が崩壊したことで防衛力を失い,またこの地域のイスラーム化が進展したことで,時代を経るごとに奴隷獲得ラインが南下していった。この奴隷獲得ラインの南下がギニア湾岸に達したちょうどその頃,ヨーロッパでは大航海時代が始まり,ポルトガル商人が西アフリカ沿岸に出現した。「そのため西アフリカでは,国家的支配の拡大に奴隷狩りと長距離貿易が連動する動きが,このあと大西洋三角貿易の時代を経て19世紀まで続いていくことになるのである。」奴隷の買い手がムスリム商人から白人に変わり,馬が銃火器に変わって。
閑話休題。このような歴史であるため,王国に存続年代を明記しがちな高校世界史にとってガーナ王国は難物である。読者諸氏はガーナ王国の滅亡年または滅亡年代をいつとするだろうか。まず思いつくのは1235年あるいは13世紀前半や半ばとするものであるが,注意すべきことに,これは属国化して史料が途絶えた年代であって,王統が断絶した年や国家が消滅した年ではない。すなわち,この年代をとった場合は属国化をもって独立国としてのガーナ王国は終焉に至った歴史観を採用しつつ,史料の途絶で追えなくなったことを以て“歴史学上は”消滅したと見なすことになる。次に思いつくのは1076/77年で,これはガーナ王国を伝統宗教の王朝と見なす歴史観をとる。あるいはこの時点でムラービト朝の属国となったのであるから一度滅んでいると考えることもできるだろう。もう一つ,歴史家が書いた文章で見える年号としては1150年がある。これはムラービト朝の滅亡により宗主権が消滅し,ガーナ王国が自立した一方で,地域の政治的安定が失われて部族間抗争が激化した年であるようだ。これはガーナ王国の宗教や宗主国の存在にはこだわらないが,西アフリカの覇権にこだわった年号ということになるだろう。ただし,近年の専門書,前出の『岩波講座 世界史18』も『新書アフリカ史 改訂版』(講談社現代新書)も山川の各国史も,いずれも年号を明確に示していないものの,文脈上は13世紀初めや前半としていたから,専門領域では13世紀前半で固まりつつあると思われる。
以上を踏まえた上で,高校世界史の主要教科書5冊(+用語集・詳説世界史研究)を参照する。なお,新旧両課程でいずれも同じ記述であったので,以下は新課程のみで分類した。『詳説世界史研究』のみ新課程のものが出版されていないので旧課程である。
山川『詳説』: 13世紀半ば頃
山川『新世界史』:13世紀半ば頃
東京書籍:年代不記載
帝国書院:11世紀
※ ただし「ガーナ王国はムラービト朝の攻撃で衰退」としているのでやや混乱している。
実教出版:1076年 「ムラービト朝の侵入でガーナ王国が征服された」と明記。
山川用語集:13世紀半ば
山川『詳説世界史研究』:13世紀半ば
ということで,山川系の書籍は13世紀半ばで統一されているが,帝国書院と実教出版は1076/77年説を採用しており,真っ向から意見が割れている。賢いのは東京書籍で,わからないものは不記載にするというのは誠実である。また,専門領域では13世紀前半に固まりつつあるらしいことを踏まえると,研究をちゃんと追っているのは保守的な山川で,新説好きではあるが東南アジア以外の周辺史で手を抜きがちな帝国書院は今回もその性質が現れている。実教出版は独自路線が強いので,更新をさぼっているというよりも,本文の「征服」という強いニュアンスを見ても,ガーナ王国は伝統宗教が滅びた時点で滅びたとする強い意志で1076年を維持しているように思われた。いずれにせよガーナ王国の滅亡年を用いた入試問題は出題ミスの温床になるので,避けた方がよいだろう。
ここで調査を終えてもよかったのだが,世界史の窓に気になる記述があったため,古い山川の『詳説世界史』を発掘して確認してみた。すると,
2008年以前の課程:1076年
2008〜12年の課程:1150年
2012年以降の課程:13世紀半ば
と短期間で二度の変化を経ていたのである。これは山川が学説の更新に努力した痕跡であると言えるが,一度1150年を挟んでいるのが面白い。この時の編集会議の様子が非常に気になる。
なお,この調査をしている過程で,全ての教科書でマリ王国の成立年が1240年となっていた。この年号,実は大して意味がないようで,マリ王国の成立を1240年としてしまうとガーナ王国の滅亡1235年説と矛盾が生じる。前述のような専門書はいずれも13世紀初頭・前半としているからこの矛盾は生じていなかった。何が起きているのだろうか。
このガーナ王国に異変が起きたのは1076/77年のことである。マグリブを征服したモロッコのムラービト朝は宗教的情熱に篤いベルベル人の一派が建てた王朝であり,ガーナ王国の王が異教徒であることに我慢ならなかった。また,当時の塩金貿易を担っていたムスリム商人にイバード派が多かったため,ムラービト朝が奉じるスンナ派とは折り合いが悪かったという北アフリカ側の事情も絡んでいた。イバード派は布教に熱心でないため異教徒との交易を独占しやすかった。このためムラービト朝は塩金貿易路に乗って遠征軍を派遣し,クンビ=サレーを占領して,強引にガーナ王をスンナ派ムスリムの人物にすげ替えてしまった。以降,北アフリカのムスリム及び西アフリカの異教徒のスンナ派ムスリムへの改宗が急速に進むことになり,特に北・西アフリカにおけるイバード派は壊滅して,21世紀現在のイバード派がオマーンに限られる要因となった。
しかし,ムラービト朝はこの直後からイベリア半島情勢に介入し,レコンキスタへの対抗に情熱を燃やすようになって,西アフリカへの関心を急速に失っていく。その挙げ句に1130年頃に内紛で解体し,1147年には新たに興隆したベルベル系王朝ムワッヒド朝により滅ぼされる。困ったのはスンナ派ムスリムのガーナ王で,ガーナ王国はムラービト朝の遠征時にクンビ=サレーを破壊されて壊滅的な打撃を受けていた上に,塩金貿易の庇護をムラービト朝の軍事力に依拠していたから,ムラービト朝の崩壊は死活問題であった。
なお,今回の記事の典拠の一つ,坂井信三「トランスサハラ国家と西アフリカ諸国家」『岩波講座 世界歴史18』(pp.107-129)はもう一つ興味深い指摘をしている。サハラ縦断貿易は岩塩と金の交換以外に,馬と奴隷の交換も行われていた。すなわち,異教徒を奴隷の供給源と見なすムスリム,とりわけ先行して改宗した黒人部族が,地中海世界から輸入した馬を用いて奴隷狩りを行っていたのに対し,ガーナ王国はその防衛を担っていた。しかし,ガーナ王国が崩壊したことで防衛力を失い,またこの地域のイスラーム化が進展したことで,時代を経るごとに奴隷獲得ラインが南下していった。この奴隷獲得ラインの南下がギニア湾岸に達したちょうどその頃,ヨーロッパでは大航海時代が始まり,ポルトガル商人が西アフリカ沿岸に出現した。「そのため西アフリカでは,国家的支配の拡大に奴隷狩りと長距離貿易が連動する動きが,このあと大西洋三角貿易の時代を経て19世紀まで続いていくことになるのである。」奴隷の買い手がムスリム商人から白人に変わり,馬が銃火器に変わって。
閑話休題。このような歴史であるため,王国に存続年代を明記しがちな高校世界史にとってガーナ王国は難物である。読者諸氏はガーナ王国の滅亡年または滅亡年代をいつとするだろうか。まず思いつくのは1235年あるいは13世紀前半や半ばとするものであるが,注意すべきことに,これは属国化して史料が途絶えた年代であって,王統が断絶した年や国家が消滅した年ではない。すなわち,この年代をとった場合は属国化をもって独立国としてのガーナ王国は終焉に至った歴史観を採用しつつ,史料の途絶で追えなくなったことを以て“歴史学上は”消滅したと見なすことになる。次に思いつくのは1076/77年で,これはガーナ王国を伝統宗教の王朝と見なす歴史観をとる。あるいはこの時点でムラービト朝の属国となったのであるから一度滅んでいると考えることもできるだろう。もう一つ,歴史家が書いた文章で見える年号としては1150年がある。これはムラービト朝の滅亡により宗主権が消滅し,ガーナ王国が自立した一方で,地域の政治的安定が失われて部族間抗争が激化した年であるようだ。これはガーナ王国の宗教や宗主国の存在にはこだわらないが,西アフリカの覇権にこだわった年号ということになるだろう。ただし,近年の専門書,前出の『岩波講座 世界史18』も『新書アフリカ史 改訂版』(講談社現代新書)も山川の各国史も,いずれも年号を明確に示していないものの,文脈上は13世紀初めや前半としていたから,専門領域では13世紀前半で固まりつつあると思われる。
以上を踏まえた上で,高校世界史の主要教科書5冊(+用語集・詳説世界史研究)を参照する。なお,新旧両課程でいずれも同じ記述であったので,以下は新課程のみで分類した。『詳説世界史研究』のみ新課程のものが出版されていないので旧課程である。
山川『詳説』: 13世紀半ば頃
山川『新世界史』:13世紀半ば頃
東京書籍:年代不記載
帝国書院:11世紀
※ ただし「ガーナ王国はムラービト朝の攻撃で衰退」としているのでやや混乱している。
実教出版:1076年 「ムラービト朝の侵入でガーナ王国が征服された」と明記。
山川用語集:13世紀半ば
山川『詳説世界史研究』:13世紀半ば
ということで,山川系の書籍は13世紀半ばで統一されているが,帝国書院と実教出版は1076/77年説を採用しており,真っ向から意見が割れている。賢いのは東京書籍で,わからないものは不記載にするというのは誠実である。また,専門領域では13世紀前半に固まりつつあるらしいことを踏まえると,研究をちゃんと追っているのは保守的な山川で,新説好きではあるが東南アジア以外の周辺史で手を抜きがちな帝国書院は今回もその性質が現れている。実教出版は独自路線が強いので,更新をさぼっているというよりも,本文の「征服」という強いニュアンスを見ても,ガーナ王国は伝統宗教が滅びた時点で滅びたとする強い意志で1076年を維持しているように思われた。いずれにせよガーナ王国の滅亡年を用いた入試問題は出題ミスの温床になるので,避けた方がよいだろう。
ここで調査を終えてもよかったのだが,世界史の窓に気になる記述があったため,古い山川の『詳説世界史』を発掘して確認してみた。すると,
2008年以前の課程:1076年
2008〜12年の課程:1150年
2012年以降の課程:13世紀半ば
と短期間で二度の変化を経ていたのである。これは山川が学説の更新に努力した痕跡であると言えるが,一度1150年を挟んでいるのが面白い。この時の編集会議の様子が非常に気になる。
なお,この調査をしている過程で,全ての教科書でマリ王国の成立年が1240年となっていた。この年号,実は大して意味がないようで,マリ王国の成立を1240年としてしまうとガーナ王国の滅亡1235年説と矛盾が生じる。前述のような専門書はいずれも13世紀初頭・前半としているからこの矛盾は生じていなかった。何が起きているのだろうか。
Posted by dg_law at 07:00│Comments(0)