2024年09月09日

書評:『中華を生んだ遊牧民』(松下憲一,講談社選書メチエ)

『中華を生んだ遊牧民』(松下憲一,講談社選書メチエ,2023年)
 鮮卑と彼らが建てた北魏の歴史を追った本。同時期に発売された中公新書の『南北朝』とは北魏の部分は重なっているが,こちらは南朝の記述がほとんど無い代わりに,前史にあたる鮮卑の歴史が入っている。なお,著者は鮮卑についてモンゴル系かトルコ系かという質問に対して,厳密には解答できないとしている。遊牧国家は複数の部族の連合体であり,その各部族の言語や風習は多様であるというのがその理由であるが,これは質問と解答がずれている。著者自身「鮮卑のもととなった遊牧民はどのような人々ですかという質問であれば成立する」としているが,まさに読者の知りたかったのはここなのであり,国家としての鮮卑と諸部族名の鮮卑が別物であることだとか,民族という概念は近代的なものなのでここには容易に当てはまらないだとか,鮮卑がモンゴル高原を政治的に統合したとしても鮮卑語が公用語になるわけでもないとかいうことは,説明されるまでもなくわかっているのだから。結局,鮮卑(もっというと拓跋部)の言語は直接明言されることなく本書が終わってしまうのはやや残念であるが,随所随所の記述を読むに,著者はおそらく拓跋部をテュルク系と考えているようだ。
 鮮卑系部族の中でも勢力を伸ばして北魏を建てることになるのが拓跋部である。元はテュルク系の語彙のトゥグ(土地)ベグ(君主)を意味していたが,「拓」は同音の「托」から転じていて,托は「土」に通じ,黄帝の子孫を称するためにこの漢字が当てられたようだ。これは知らなかったので面白かった。鮮卑・北魏を追っていくと,こうした遊牧民のルールと中華のルールの帳尻を合わせるための工夫が多数見られる。
 拓跋部は鮮卑系の部族とまとめあげて「代」を建国する。代国は五胡十六国に含まれていない。五胡十六国は華北を破壊したというのが後世の歴史認識であり,最終的に華北を統一した北魏の前身にあたる代を含めるわけにはいかなかったということらしい。また,386年に道武帝が北「魏」を国号に変えたのも,春秋戦国時代の国に存在していない「代」では国号として格が落ちることと,代は西晋から封建された名前であること,拓跋部が歴史上初めて朝貢したのが三国魏であったから魏を継承するという意図があり,さらに魏は土徳であるから拓跋部として都合が良かったようだ。このあたりのことは前から不思議に思っていたところで,疑問が解消されて面白かった。ところが鮮卑人はこの「代」という国号に愛着があったようで,北魏成立後も拓跋部や諸部族の部族長クラスが構成した支配者集団は「代人」を自称し続け,この時代の重要な一次史料にあたる墓誌でも「代人」という記述が多数見つかっている。この代人のアイデンティティは洛陽遷都後はもちろん,なんと西魏まで続いたようだ。
 北魏は北方から遊牧民の風習を持ち込むと同時に漢民族の風習も受け入れ,結果として北魏独自の風習も生まれていたりする。この第三の風習の成立が北魏の面白いところで,とりわけ特徴的だったのが皇太子が確定した時点でその生母を殺害する「子貴母死」である。部族制からの中央集権化を図る過程で,母親の出身部族が中国王朝の外戚と化すのを避けるため,また部族制における部族長の合議で皇帝を選出するのを止めて父子相続を固定化させるために生まれた制度であるとのことだが,こういうものがあるから過渡期は面白い。中世と近代に挟まれた近世にはどちらにもない近世独自の制度があるのと同じかもしれない。
 北魏は暫くの間,胡漢二重統治体制を敷いていて,後世の征服王朝風であった。しかし,孝文帝が漢化政策を実施し,鮮卑に対して胡語・胡服の使用を禁止した。このため鮮卑は次第に漢民族に同化していった……と高校世界史では習う。しかし,実際には「宮廷内で」胡語・胡服の使用を禁止した命令だったというのが正しく,民族としての鮮卑が消滅したわけではない。この際に官制にも手を入れていて,祭祀も漢民族のものを残して廃止された。政府内に限れば漢化政策は実施されているし,それは中央集権化とニアリーイコールであった。目的が中央集権化であったから,始皇帝以来の中央集権体制がすでに馴染んでいる漢民族側の制度の方が寄せやすかったので,「漢化」が選ばれたにすぎない。また宮廷の外を漢化する必要は無かったし,事実として実施されなかったのも理屈が通っている。であるならば,高校世界史の教科書記述も変更を余儀なくされる。実はすでに記述の変更が始まっているのだが,より抜本的な変更を今後に期待したい。閑話休題,後世に元や清が二重統治体制で成功しているのを知っているので,現代人の目線からすると漢化政策は失敗だったように思えてしまうが,北魏は二重統治体制の限界を感じて漢化政策をとるに至ったというのは面白い。後世の征服王朝との違いはどこにあったのだろうか。
 孝文帝の改革の失敗は,中央集権化の結果,漢化政策に上手く適応できた拓跋部と,疎外された他の部族の鮮卑や遊牧民の間に亀裂を生んだことである。洛陽に遷都したことで,この違いがそのまま皇帝に付き従って南下した者たちと,平城に残った者たちという地理的な違いとなって表面化してしまった。出世コースだった柔然との前線,六鎮の将軍は閑職となり,北魏宮廷はあからさまに南朝との前線を重視した。六鎮の乱は漢化政策に反発した遊牧民による反乱と説明され,それは正しいが,より正確には中央集権化への反発,宮廷から疎外されたことへの反感と言った方が正しいようである。六鎮の乱を契機に北魏は西魏と東魏に分裂し,あっという間に北周・北斉に変わって拓跋氏の王朝は終わる。しかし書名の通り,鮮卑が北方から持ち込んだ新たな制度・文化は隋唐に継承され,新たな「中華」として定着していくのである。
 



この記事へのコメント
中国の南北朝時代を扱った本としては古川忠夫著『候景の乱始末記』も面白いですよ。
Posted by 歴史大好き at 2024年09月17日 00:00
ありがとうございます。初出が1974年なので古典の部類ですかね。侯景は本書や中公新書の『南北朝時代』でも目立った存在でしたね。
Posted by DG-Law at 2024年09月28日 22:52