2024年09月14日
書評:『南北朝時代』『隋』(中公新書)
・『南北朝時代』(会田大輔,中公新書,2021年)
中国の南北朝時代の概説書。講談社選書メチエの『中華を生んだ遊牧民』との違いは,あちらは鮮卑に焦点を当てつつ後漢代から北魏までの華北を扱っているのに対し,こちらは時代が南北朝時代のみで短い代わりに南朝も扱っている。北魏についての話題は似通っているが,当然あちらの方が濃い。両方読むのを勧める。北魏については主張が違うところもある。あちらの本では,魏の国号を採用し土徳をを採用したことについて,北魏が三国魏を継承する形をとったためと説明していたが,こちらは鮮卑は三国魏をも否定していて,火徳の後漢の後継王朝であることを示すため土徳の魏としたという説を採っている。
かたや南朝宋は東晋の時代にあった再統一への野望が薄れ,江南を本拠地とする諦めに沿った改革が進んでいく様子が描写される。西晋の滅亡によって伝統が失われたため,宮中祭祀等で”それっぽい新たな伝統”の創出が必要とされた。そう聞くと近代に各地でナショナリズムのために新たな伝統が創出されたことに重なるようだが,そうでもしないと漢民族王朝としてのアイデンティティが保てなかったのだから,話としては近いのかもしれない。この南朝宋で生まれた”それっぽい新たな伝統”が隋唐に継承され,新たな中華王朝のスタンダードになっていく。また,北朝の悩みが遊牧民と漢民族の統合であったのに対し(六鎮の乱により頓挫した),南朝の悩みは門閥貴族層の存在であった。寒門出身者を積極的に登用することで中央集権化を図ることはできたものの,最終的に強固な身分制度を打破することがかなわないまま南朝自体が滅亡してしまった。北朝にも門閥貴族は存在し,この問題の解決は隋唐に委ねられることになる。
ちょっと面白かったのは,南北朝ともに自国が正統な王朝と主張すべく文化に力を入れており,外交使節を通じて互いの水準を測っていた。筆者によると南北朝の使節たちによる討論では,儒学は北朝が優れ,仏教は互角,玄学・文学は南朝が優位であったとのこと。必ずしも全て南朝が優位だったわけではない。特に儒学が北朝優位であったのは驚きである。
・『隋』(平田陽一郎著,中公新書,2023年)
副題「『流星王朝』の光芒」。40年足らずで滅亡したにしては中国史へのインパクトが大きいから,流星の名はふさわしい。本書はその40年足らずに加えて西魏・北周も扱っているからもう少し長いが,『南北朝時代』や『唐』に比べれると短いことには違いない。その分,記述は濃密であった。
華北を二分していた北斉と北周は,互いに北方で大勢力を築いていた突厥との連携を試みる。突厥としては北斉と北周が半永久的に争っていてくれれば懐柔のため貢物が山程届くため,両者のパワーバランスを見ながら介入すればよかったのである。しかし,北斉は暗君と権臣により国勢が傾く一方,北周は名君武帝を輩出し,突厥が介入する隙を与えず一気に北斉を滅ぼしてしまった。ところが武帝が夭折し,後継者も夭折して北周に幼君が立つ。そこで乾坤一擲の賭けを打ち,簒奪を成功させたのが外戚の楊堅であった。もちろん楊堅自身に野望があったことが前提であるが,このまま北周宮廷の混乱を放置すれば突厥の侵略を受けて華北が五胡の時代まで逆戻りしてしまう。本書では簒奪劇自体に公主降嫁を伴う対突厥外交が深くかかわっていることが詳述されており,北周宮廷の激しい権力争いもあいまって,楊堅の賭けがいかに危険な綱渡りだったかがわかる。周隋交代は単なる宮廷クーデタでは無かった。
このため即位した楊堅が注力したのも突厥対策である。楊堅が簒奪劇で突厥の可汗から恨みを買っていたことに加え,突厥の可汗も北斉・北周からの貢物を威信財として諸部族に分配していたのに隋がこれを停止したため,両国ともに開戦の気運が高まっていた。隋は建国早々に全面戦争を余儀なくされたが,これをモンゴル高原での自然災害による突厥の自滅という幸運で乗り切ったのだから,楊堅という人物の豪運は続く。さらに楊堅は離間策を用いて突厥を東西に分裂させ,東突厥を服属させた。北方の憂いを除いた楊堅は南朝陳を滅ぼし,とうとう中国統一を達成した。
楊堅は隋の国制を次第に整えていくが,本書では近年よく話題になる「租調庸制」改め「租調役制」についても唐代後半に至るまでの説明がある。なお,隋代では「役」を「庸」に代えられたのは50歳以上に限定されたとされており,唐代よりも厳しい。「府兵制」についても,従来の全国的に徴兵された兵農一致の政策という説明が誤っていることがちゃんと説明されている。統一戦争や対突厥戦争により職業軍人化した者が多かったこと,北周の出身者が多かったため帰農させると関中がパンクしてしまうこと等から,結局は地方の軍府を解散して関中出身者を実質的な常備軍として残さざるを得なかった。つまり全国的な徴兵ではないし,兵農一致どころか分離的な制度である。その他,科挙や律令も整備したけれど,現実とのギャップは大きかった。ただし,本書の「現実との乖離は楊堅自身も織り込み済で,平和な統一王朝が成立したことの天下と後世へのアピールとしての諸制度の整備だったのではないか」という指摘は面白い。実際にそのアピールに乗せられて,長らく諸制度は名目通り実施されていたと勘違いされ,こうして21世紀の日本の高校世界史にまで影響を及ぼしていたのだから。
続く煬帝はよく知られるように膨大な資材を用いて大運河を建設し,高句麗への遠征でも国力を費やして,国勢を傾けていった。大運河の開削は関中への食料供給と発展する海上交易の利便性のためであるから目的が明白であるとして,高句麗遠征はどうだったか。西晋以前に中国の領土であった遼東半島等の奪還のため……というのは名目にすぎず,高句麗が東突厥と隋に楔を打つような位置であったという地政学的な事情,統一戦争の終結と突厥の臣従で軍隊が手持ち無沙汰になったため(前近代の暇な常備軍ほど治安に悪影響を及ぼすものはない),「武帝」の諱を手に入れたいという煬帝の野望等があったようだ。この高句麗が異常なまでにしぶとかったのは,楊堅の豪運の反動か。高句麗遠征の惨敗を見て東突厥が反旗を翻す。これを契機に反乱が続発し,東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建国,再統一をなした。突厥によって生まれた王朝は,突厥によって滅んだのである。このような綺麗なオチがつく隋の興亡であるが,にもかかわらず今まではあまり突厥視点で語られてこなかったように思われ,目新しい。
中国の南北朝時代の概説書。講談社選書メチエの『中華を生んだ遊牧民』との違いは,あちらは鮮卑に焦点を当てつつ後漢代から北魏までの華北を扱っているのに対し,こちらは時代が南北朝時代のみで短い代わりに南朝も扱っている。北魏についての話題は似通っているが,当然あちらの方が濃い。両方読むのを勧める。北魏については主張が違うところもある。あちらの本では,魏の国号を採用し土徳をを採用したことについて,北魏が三国魏を継承する形をとったためと説明していたが,こちらは鮮卑は三国魏をも否定していて,火徳の後漢の後継王朝であることを示すため土徳の魏としたという説を採っている。
かたや南朝宋は東晋の時代にあった再統一への野望が薄れ,江南を本拠地とする諦めに沿った改革が進んでいく様子が描写される。西晋の滅亡によって伝統が失われたため,宮中祭祀等で”それっぽい新たな伝統”の創出が必要とされた。そう聞くと近代に各地でナショナリズムのために新たな伝統が創出されたことに重なるようだが,そうでもしないと漢民族王朝としてのアイデンティティが保てなかったのだから,話としては近いのかもしれない。この南朝宋で生まれた”それっぽい新たな伝統”が隋唐に継承され,新たな中華王朝のスタンダードになっていく。また,北朝の悩みが遊牧民と漢民族の統合であったのに対し(六鎮の乱により頓挫した),南朝の悩みは門閥貴族層の存在であった。寒門出身者を積極的に登用することで中央集権化を図ることはできたものの,最終的に強固な身分制度を打破することがかなわないまま南朝自体が滅亡してしまった。北朝にも門閥貴族は存在し,この問題の解決は隋唐に委ねられることになる。
ちょっと面白かったのは,南北朝ともに自国が正統な王朝と主張すべく文化に力を入れており,外交使節を通じて互いの水準を測っていた。筆者によると南北朝の使節たちによる討論では,儒学は北朝が優れ,仏教は互角,玄学・文学は南朝が優位であったとのこと。必ずしも全て南朝が優位だったわけではない。特に儒学が北朝優位であったのは驚きである。
・『隋』(平田陽一郎著,中公新書,2023年)
副題「『流星王朝』の光芒」。40年足らずで滅亡したにしては中国史へのインパクトが大きいから,流星の名はふさわしい。本書はその40年足らずに加えて西魏・北周も扱っているからもう少し長いが,『南北朝時代』や『唐』に比べれると短いことには違いない。その分,記述は濃密であった。
華北を二分していた北斉と北周は,互いに北方で大勢力を築いていた突厥との連携を試みる。突厥としては北斉と北周が半永久的に争っていてくれれば懐柔のため貢物が山程届くため,両者のパワーバランスを見ながら介入すればよかったのである。しかし,北斉は暗君と権臣により国勢が傾く一方,北周は名君武帝を輩出し,突厥が介入する隙を与えず一気に北斉を滅ぼしてしまった。ところが武帝が夭折し,後継者も夭折して北周に幼君が立つ。そこで乾坤一擲の賭けを打ち,簒奪を成功させたのが外戚の楊堅であった。もちろん楊堅自身に野望があったことが前提であるが,このまま北周宮廷の混乱を放置すれば突厥の侵略を受けて華北が五胡の時代まで逆戻りしてしまう。本書では簒奪劇自体に公主降嫁を伴う対突厥外交が深くかかわっていることが詳述されており,北周宮廷の激しい権力争いもあいまって,楊堅の賭けがいかに危険な綱渡りだったかがわかる。周隋交代は単なる宮廷クーデタでは無かった。
このため即位した楊堅が注力したのも突厥対策である。楊堅が簒奪劇で突厥の可汗から恨みを買っていたことに加え,突厥の可汗も北斉・北周からの貢物を威信財として諸部族に分配していたのに隋がこれを停止したため,両国ともに開戦の気運が高まっていた。隋は建国早々に全面戦争を余儀なくされたが,これをモンゴル高原での自然災害による突厥の自滅という幸運で乗り切ったのだから,楊堅という人物の豪運は続く。さらに楊堅は離間策を用いて突厥を東西に分裂させ,東突厥を服属させた。北方の憂いを除いた楊堅は南朝陳を滅ぼし,とうとう中国統一を達成した。
楊堅は隋の国制を次第に整えていくが,本書では近年よく話題になる「租調庸制」改め「租調役制」についても唐代後半に至るまでの説明がある。なお,隋代では「役」を「庸」に代えられたのは50歳以上に限定されたとされており,唐代よりも厳しい。「府兵制」についても,従来の全国的に徴兵された兵農一致の政策という説明が誤っていることがちゃんと説明されている。統一戦争や対突厥戦争により職業軍人化した者が多かったこと,北周の出身者が多かったため帰農させると関中がパンクしてしまうこと等から,結局は地方の軍府を解散して関中出身者を実質的な常備軍として残さざるを得なかった。つまり全国的な徴兵ではないし,兵農一致どころか分離的な制度である。その他,科挙や律令も整備したけれど,現実とのギャップは大きかった。ただし,本書の「現実との乖離は楊堅自身も織り込み済で,平和な統一王朝が成立したことの天下と後世へのアピールとしての諸制度の整備だったのではないか」という指摘は面白い。実際にそのアピールに乗せられて,長らく諸制度は名目通り実施されていたと勘違いされ,こうして21世紀の日本の高校世界史にまで影響を及ぼしていたのだから。
続く煬帝はよく知られるように膨大な資材を用いて大運河を建設し,高句麗への遠征でも国力を費やして,国勢を傾けていった。大運河の開削は関中への食料供給と発展する海上交易の利便性のためであるから目的が明白であるとして,高句麗遠征はどうだったか。西晋以前に中国の領土であった遼東半島等の奪還のため……というのは名目にすぎず,高句麗が東突厥と隋に楔を打つような位置であったという地政学的な事情,統一戦争の終結と突厥の臣従で軍隊が手持ち無沙汰になったため(前近代の暇な常備軍ほど治安に悪影響を及ぼすものはない),「武帝」の諱を手に入れたいという煬帝の野望等があったようだ。この高句麗が異常なまでにしぶとかったのは,楊堅の豪運の反動か。高句麗遠征の惨敗を見て東突厥が反旗を翻す。これを契機に反乱が続発し,東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建国,再統一をなした。突厥によって生まれた王朝は,突厥によって滅んだのである。このような綺麗なオチがつく隋の興亡であるが,にもかかわらず今まではあまり突厥視点で語られてこなかったように思われ,目新しい。
Posted by dg_law at 23:56│Comments(4)
この記事へのコメント
中公新書は日本史の「○○の変」シリーズと、中国史の中華王朝シリーズを全部やってくれるのだろうか
Posted by acsusk at 2024年09月15日 21:03
『唐』までやったのだから,最後までやってくれると嬉しいですねぇ。まず『五代十国』と『遼』が難題になりそうですが。
Posted by DG-Law at 2024年09月28日 22:50
遼は杉山正明で行けるけど、新人もほしい。
宋は気賀澤が非常に良かったけど、たぶん若い人がいるはず。
…岩波の赤版(大変良かった)と講談社(大変良かった)あればいいのか?
宋は気賀澤が非常に良かったけど、たぶん若い人がいるはず。
…岩波の赤版(大変良かった)と講談社(大変良かった)あればいいのか?
Posted by acsusk at 2024年10月04日 22:11
杉山正明先生だと大物すぎるのと,専門の真ん中はやはり『元』だと思うので。契丹の専門家をやはり発掘してほしいところです。
氣賀澤先生も専門は唐ですかね。宋は,私は完全な門外漢なので事情を全く知らないのですが,若手でも人材が豊富にいそうなイメージです。
何にせよ続刊してほしいですが,拓跋国家が終わって一段落してそうな様子ですね。
氣賀澤先生も専門は唐ですかね。宋は,私は完全な門外漢なので事情を全く知らないのですが,若手でも人材が豊富にいそうなイメージです。
何にせよ続刊してほしいですが,拓跋国家が終わって一段落してそうな様子ですね。
Posted by DG-Law at 2024年10月04日 22:29