2024年09月15日
書評:『唐』(森部豊著,中公新書)
・『唐』(森部豊著,中公新書,2023年)
中公新書の拓跋国家シリーズの最後。2010年以降の中公新書にはその他に『殷』『周』『漢帝国』『三国志』もあるから,春秋戦国時代・秦が出てくれれば唐宋変革前は概ねコンプリートになる。ぜひとも企画してほしい。
閑話休題。唐は南北朝時代の諸王朝や隋に比べると300年近く続いた長い王朝であり,その中で様々な変化が起きている。王朝交代による変化ではなく,王朝の中での変化を描いた点で,本書は前二書と大きく様相が異なっている。とりわけ拓跋国家としてスタートした唐が次第に漢民族の国家に変容していく様子は唐代の醍醐味であろう。本書はまえがきで「それを「漢化」という,中国人中心主義のような,ありきたりな言葉でくくるのはどうかと思う」と牽制しつつも,拓跋国家の経験を踏まえた漢民族が,古代の漢とは異なる漢民族王朝をつくっていった様子が丹念に描かれている。
初唐の拓跋国家性については,李淵や初期の首脳陣が鮮卑語に堪能だったという点からも明白である。李淵が生まれたのが566年頃,西魏の滅亡が556年であるから,李淵の誕生時すでに拓跋氏の国家は存在していない。どころか李淵の妻は匈奴に連なる人物だったようで,遊牧国家が滅んだからといってそれを構成していた部族の血が絶えたとは限らないのは当然なのであるが,それにしても命脈の保ち方がしぶとい。さらに東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建てたのは『隋』の書評で書いた通りで,遊牧民とのつながりが非常に強い。しかし,ここで本書が特徴的なのは,唐が建国当初からソグド人と強い提携関係にあったことを指摘している点だ。李淵の本拠地の太原には大きなソグド人のコロニーがあり,商業上の都合から強い統一王朝を求めていた彼らは,李淵に兵士を供出したのみならず,商業ネットワークを用いて李淵を強く支援した。また東突厥との和議の突厥側の使者を務めたのもソグド人なら,なんと玄武門の変の際の李世民の直臣にもソグド人がいる。こうした指摘は新しい。唐代のソグド人を専門とする著者らしい指摘といえる。
李世民から高宗に続く最盛期の後,東突厥が復活して唐はその対処に苦慮することになる。この頃,オルドス地方にいたソグド人が騎馬遊牧民化しており,歴史家は彼らを「ソグド系突厥」と呼ぶ。このソグド系突厥から登場したのが,かの安禄山である。本書はここで安史の乱に言及する前に,玄宗代に生じた諸制度の変化に言及していて,そのため『隋』と同様に均田制・租調庸(租調役)制・府兵制に関する世間の誤解について丁寧に説明しているから,興味がある人はぜひ読んでほしい。玄宗代の制度変化,特に府兵制から募兵制へ,「役」から「庸」への変化についても,本書は律令国家から「財政国家」への転換とまとめており,面白い。中世後半の西欧の荘園でも賦役が貢納に変えられていったように,タダ働きは非効率的なのである。「役」から「庸」への変化は,逃戸が多すぎて大運河の漕運に支障をきたしたのが直接的な原因であるから,長い目で見れば隋代からの負債をここで解消したとも言えそうである。財政国家化は安史の乱後,塩の専売と両税法によって完成する。
玄宗代の後期の744年,東突厥がウイグルに敗れて崩壊すると,その遺民が大量に河北に流入し,ソグド系突厥に合流した。彼らを糾合したのが節度使の安禄山その人である(安禄山の母は突厥の名家出身であった)。ここに安史の乱の下地が完成する。ウイグル帝国の成立と安史の乱は直結した現象だったのだ。本書は,安史の乱は「乱」というよりも突厥帝国の復興・独立運動だったのではないかと指摘しており,これも説得力がある。この観点に立つなら,安史の乱後に自立した藩鎮の河朔三鎮は安史の乱の残党であり,目的は半ば達成されている。
安史の乱の後の唐は宦官の跋扈,藩鎮の乱立,吐蕃の侵攻に苦しめられる。8世紀末,唐が強大化する吐蕃対策として,アッバース朝との同盟を構想していたのは知らなかったので驚いた(使者が派遣されたのは確かだが交渉が実行されたかは明らかではないそうだ)。安史の乱後も唐は意外と長く生き延びるが,唐の政府が藩鎮をある程度コントロールできていたためである。これが完全に崩壊して藩鎮の独立を止められなくなったのが黄巣の乱であるが,その黄巣の乱の鎮圧で台頭したのが突厥沙陀の李克用であった。突厥沙陀は西突厥にいた部族で,西突厥の滅亡後は唐と吐蕃の間を渡り歩き,唐の支配下でオルドスに移住した。李克用は黄巣の乱に乗じて突厥沙陀に加え,ソグド系突厥も糾合し,根拠地を太原に置いた。そう,唐の創業の地である。李克用自身は王朝を建てられなかったが,跡を継いだ突厥沙陀の人々が河朔三鎮の勢力も吸収し,五代十国の時代の主役になっていく。唐もまた隋と同様に,始まりから終わりまで突厥が並走し続けた。あえて付け加えるなら,そこにソグド人も加わっていたことが隋との違いなのだろう。本書はここで終わっているが,河北や山西が漢民族と遊牧民が入り混じる重要な農牧接壌地帯であったのは明代永楽帝の頃まで続く。
なお,唐を滅ぼした直接の張本人,朱全忠は汴州(開封)を押さえて大運河の利益により勢力を築いたと説明されるが,本書によると,唐末の大運河は浚渫が滞っていて機能不全だったらしい。別のいくつかの理由により河南を押さえた利益が大きかったようであるが,本書の記述もあまりしっくり来ない。
中公新書の拓跋国家シリーズの最後。2010年以降の中公新書にはその他に『殷』『周』『漢帝国』『三国志』もあるから,春秋戦国時代・秦が出てくれれば唐宋変革前は概ねコンプリートになる。ぜひとも企画してほしい。
閑話休題。唐は南北朝時代の諸王朝や隋に比べると300年近く続いた長い王朝であり,その中で様々な変化が起きている。王朝交代による変化ではなく,王朝の中での変化を描いた点で,本書は前二書と大きく様相が異なっている。とりわけ拓跋国家としてスタートした唐が次第に漢民族の国家に変容していく様子は唐代の醍醐味であろう。本書はまえがきで「それを「漢化」という,中国人中心主義のような,ありきたりな言葉でくくるのはどうかと思う」と牽制しつつも,拓跋国家の経験を踏まえた漢民族が,古代の漢とは異なる漢民族王朝をつくっていった様子が丹念に描かれている。
初唐の拓跋国家性については,李淵や初期の首脳陣が鮮卑語に堪能だったという点からも明白である。李淵が生まれたのが566年頃,西魏の滅亡が556年であるから,李淵の誕生時すでに拓跋氏の国家は存在していない。どころか李淵の妻は匈奴に連なる人物だったようで,遊牧国家が滅んだからといってそれを構成していた部族の血が絶えたとは限らないのは当然なのであるが,それにしても命脈の保ち方がしぶとい。さらに東突厥と和議を結んだ李淵が唐を建てたのは『隋』の書評で書いた通りで,遊牧民とのつながりが非常に強い。しかし,ここで本書が特徴的なのは,唐が建国当初からソグド人と強い提携関係にあったことを指摘している点だ。李淵の本拠地の太原には大きなソグド人のコロニーがあり,商業上の都合から強い統一王朝を求めていた彼らは,李淵に兵士を供出したのみならず,商業ネットワークを用いて李淵を強く支援した。また東突厥との和議の突厥側の使者を務めたのもソグド人なら,なんと玄武門の変の際の李世民の直臣にもソグド人がいる。こうした指摘は新しい。唐代のソグド人を専門とする著者らしい指摘といえる。
李世民から高宗に続く最盛期の後,東突厥が復活して唐はその対処に苦慮することになる。この頃,オルドス地方にいたソグド人が騎馬遊牧民化しており,歴史家は彼らを「ソグド系突厥」と呼ぶ。このソグド系突厥から登場したのが,かの安禄山である。本書はここで安史の乱に言及する前に,玄宗代に生じた諸制度の変化に言及していて,そのため『隋』と同様に均田制・租調庸(租調役)制・府兵制に関する世間の誤解について丁寧に説明しているから,興味がある人はぜひ読んでほしい。玄宗代の制度変化,特に府兵制から募兵制へ,「役」から「庸」への変化についても,本書は律令国家から「財政国家」への転換とまとめており,面白い。中世後半の西欧の荘園でも賦役が貢納に変えられていったように,タダ働きは非効率的なのである。「役」から「庸」への変化は,逃戸が多すぎて大運河の漕運に支障をきたしたのが直接的な原因であるから,長い目で見れば隋代からの負債をここで解消したとも言えそうである。財政国家化は安史の乱後,塩の専売と両税法によって完成する。
玄宗代の後期の744年,東突厥がウイグルに敗れて崩壊すると,その遺民が大量に河北に流入し,ソグド系突厥に合流した。彼らを糾合したのが節度使の安禄山その人である(安禄山の母は突厥の名家出身であった)。ここに安史の乱の下地が完成する。ウイグル帝国の成立と安史の乱は直結した現象だったのだ。本書は,安史の乱は「乱」というよりも突厥帝国の復興・独立運動だったのではないかと指摘しており,これも説得力がある。この観点に立つなら,安史の乱後に自立した藩鎮の河朔三鎮は安史の乱の残党であり,目的は半ば達成されている。
安史の乱の後の唐は宦官の跋扈,藩鎮の乱立,吐蕃の侵攻に苦しめられる。8世紀末,唐が強大化する吐蕃対策として,アッバース朝との同盟を構想していたのは知らなかったので驚いた(使者が派遣されたのは確かだが交渉が実行されたかは明らかではないそうだ)。安史の乱後も唐は意外と長く生き延びるが,唐の政府が藩鎮をある程度コントロールできていたためである。これが完全に崩壊して藩鎮の独立を止められなくなったのが黄巣の乱であるが,その黄巣の乱の鎮圧で台頭したのが突厥沙陀の李克用であった。突厥沙陀は西突厥にいた部族で,西突厥の滅亡後は唐と吐蕃の間を渡り歩き,唐の支配下でオルドスに移住した。李克用は黄巣の乱に乗じて突厥沙陀に加え,ソグド系突厥も糾合し,根拠地を太原に置いた。そう,唐の創業の地である。李克用自身は王朝を建てられなかったが,跡を継いだ突厥沙陀の人々が河朔三鎮の勢力も吸収し,五代十国の時代の主役になっていく。唐もまた隋と同様に,始まりから終わりまで突厥が並走し続けた。あえて付け加えるなら,そこにソグド人も加わっていたことが隋との違いなのだろう。本書はここで終わっているが,河北や山西が漢民族と遊牧民が入り混じる重要な農牧接壌地帯であったのは明代永楽帝の頃まで続く。
なお,唐を滅ぼした直接の張本人,朱全忠は汴州(開封)を押さえて大運河の利益により勢力を築いたと説明されるが,本書によると,唐末の大運河は浚渫が滞っていて機能不全だったらしい。別のいくつかの理由により河南を押さえた利益が大きかったようであるが,本書の記述もあまりしっくり来ない。
Posted by dg_law at 23:57│Comments(0)