2025年02月02日

照ノ富士引退に寄せて

 照ノ富士の相撲人生は波乱万丈であり,劇的な転落と復活の一言にまとめられる。高校3年生時に鳥取城北高校に留学し,そのまま日本にいて大相撲に入った。高校生から来日していたため,これまでのモンゴル人横綱たちと比べると日本の相撲への習熟が早く,怪力の巨漢でもあったから当初から期待は大きかった。しかし,2011年5月に若三勝のしこ名で初土俵となり,幕下上位までは駆け上がったがそこで成長が止まってしまった。当時の間垣部屋の環境があまり良くなかったとされている。2013年の3月場所後に間垣部屋が閉鎖して伊勢ヶ濱部屋に移籍すると猛稽古が始まり,2013年9月に十両昇進,その9月に十両優勝して2014年3月に新入幕と再びスピード出世していった。さらに2015年3月に関脇で13勝優勝次点,5月は12勝優勝となり,1月が前頭で8勝ながら3場所計33勝とみなされて大関に昇進した。一応平成生まれとしては初の大関であるが,モンゴル生まれなので日本の元号を当てはめるのは不自然か。
 ただし,この頃の相撲は怪力に頼り切っており,極め出しや小手投げといった振り回す相撲が多く,膝への負担はすでに不安視されていた。また,あまりのスピード出世に土俵経験が追いつかないままで,スピード記録への期待が本人への重圧になっていた側面もあった。今振り返るともう一場所見た方が良かったのではないかと思う(おそらく貴景勝がこのとばっちりで1場所見送られている)。この不安は早くも9月場所で現実となる。それも優勝争いがかかった13日目に右膝を負傷し,優勝のため出場を続行したが,準優勝に終わった。その後は右膝をかばいながらもまだ振り回す相撲が続き,左膝に負担がかかってこちらも負傷。2016年には早くも1・5・9月は休場か負け越し,3・7・11月は8勝勝ち越しという大関として最低限の勝ち星という状況になった。この頃からさすがに無理のある相撲からの脱却を目指し,遅ればせながらまともな四つ相撲をとろうとしていた様子があった。
 最後の気力を振り絞った形になったのが2017年の3・5月で,ここは13勝優勝同点と12勝優勝次点である。2017年3月といえば稀勢の里が新横綱として出場し,大ケガを負いながら優勝した場所でもある。この時は双方満身創痍で立ち合いの変化もやむなしという状況,14日目に照ノ富士が琴奨菊相手に変化して勝つと,千秋楽の本割では稀勢の里が照ノ富士相手に変化して相星となった。優勝決定戦となれば腕のケガの稀勢の里よりも膝のケガの照ノ富士が不利で,やはり膝が持たずに敗れて優勝を逃した。この時に優勝していたら翌場所の優勝次点と合わせて横綱昇進となっていた可能性はあり,そうすると短命横綱で終わっていただろうから,運命とは数奇なものである。
 その後は再び低迷して2017年9月に大関失陥,2018年5月には十両からも下がり,その後4場所連続の全休に入り,番付は序二段まで下がった。さらにこの頃,思うように稽古ができていないことから運動不足となり糖尿病が発症,体調不良に拍車がかかっていく。さすがに引退を考えたが,伊勢ヶ濱親方の強い慰留があって序二段からの再出発となった。2019年3月,平成最後の場所で復帰し,怒涛の勢いで番付を再度駆け上がった。2020年7月,新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が明けた直後で名古屋ではなく東京開催だった場所で再入幕,幕尻で二度目の優勝を飾り,鮮烈な復活劇を印象付けた。2020年11月から2021年3月の三場所は計36勝,優勝同点・次点・三度目の優勝という成績で再大関,そのまま5月で13勝優勝・7月で14勝優勝同点で横綱昇進を決めた。2021年7月場所は白鵬が最後の優勝を果たし,そのまま引退した場所である。
 この頃にはほとんど踏ん張りが効かない両膝に比して上半身の筋肉と四つ相撲の技術が完成しており,相手のまわしを切る技術,差し手を殺す上手の使い方が巧みで,左でも右でも四つに組めば全く負けない強さであった。反面,下がった際の脆さは覆い隠せず,押し相撲にせよ四つ相撲にせよ一度敗勢になるとまともな引き技を打てないから立ち直れない。また,立ち合いの差し手争いは苦手で,どうしても中に入られて外四つになりがちであり,振り回す力は流石に大ケガ以前のようにはいかなかった。一方で復活以降は立ち合いで突き放しさえすれば,常に前傾姿勢を保って鍛え上げられた上半身を前に出すことで下半身を相手から遠ざけるという戦い方になり,差し手をうかがいながら押すか組めれば相撲になった。あの極端な前傾姿勢でも前に倒れなかったバランス感覚の巧みさも照ノ富士の強みであった。
 これだけのケガと病気のハンデを抱えていながら綱を張り続けたことが驚異的で,休場も多いが出場すれば優勝するという,大横綱の晩年を見ているようであった。というよりも最初の大関の時に大ケガをしなければ,照ノ富士は大横綱になっていたのだろう……言っても詮ない仮定であるが,そう思わせられるこの4年ほどであった。彼自身が「自分の相撲人生は長くない」と悲壮感を漂わせながら常々言っていたことを思えば,むしろ4年は長くもったと言えるのかもしれない。そして当人が掲げていた目標の「優勝10回」を2024年7月に達成すると,さすがに両膝をかばいながらの相撲が限界を迎え,2025年1月の場所中に引退となった。7月の場所後に「自分の目指していた相撲がちょっとでも完成できた」と語っていたから,理想の相撲が達成できたことも引退理由にあるかもしれない。
 取り口についてはすでに書いている通りなので省略したい。おそらく伊勢ヶ濱親方の定年と同時に部屋を継ぐと思われるが,その四つ相撲の技術を後世に伝えていってほしい。お疲れ様でした。

この記事へのコメント
* 「怪我がなければ大横綱」とあるが、今でも大横綱である
 * 前にも書いたけれど、心技体の体は2016頃が、技は2020頃が、心は2023頃で、
 * もし同時に心技体が完成していたらまあ優勝回数は20回は優に越し、
  大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花、朝青龍、白鵬
  の系譜に名を連ねていただろう
  * が、怪我がなければ技と心は違ったものになっていたのではないか
 * でも、
  (「心」が全く完成していない、)
  スピード出世時代のイキった照ノ富士も俺は好きだったんだ
* 極端な対戦成績で、
 * 琴櫻、朝乃山、霧島、御嶽海、宝生流、若隆景、若元春にほぼ負けなし
  * 後世、琴櫻や霧島や宝生流が出世したあと、この記録は擦られてしまうのではないか
 * 一方で玉鷲、大栄翔、隆の勝、正代あたりにめっぽう弱く、いつも不安だった
* ベストバウトは(うろ覚えで書くと)
 * 初対戦の朝乃山を完封した相撲
 * 貴景勝を浴びせ倒した相撲
 * 貴景勝を押し出して優勝した相撲
 * 優勝決定戦だったか、大関取りの霧馬山に勝った相撲
 * 優勝決定戦で隆の勝に耐えきった相撲
 * ベストバウトではないが、印象に残っている相撲として、
  * 翔猿を引っこ抜いて決めつり出した相撲
  * 優勝争いしている霧島を吹っ飛ばした相撲
* 後期照ノ富士の最大のライバルは貴景勝で、
 * 貴景勝が照ノ富士引退時に寄せたコメント
  「一緒に並び立とうと頑張ったができなかった」
  「横綱一人大関一人の時代は横綱に恥をかかせないように頑張った」
 は熱い
* (どの力士もそうだけれど)引退した今は健康にいきてほしい
Posted by acsusk at 2025年02月02日 23:59
>* 「怪我がなければ大横綱」とあるが、今でも大横綱である
それはそう。一応,20回以上優勝した横綱で線を引いた表現ということでご寛恕いただけると……

>* が、怪我がなければ技と心は違ったものになっていたのではないか
>* でも、
> (「心」が全く完成していない、)
> スピード出世時代のイキった照ノ富士も俺は好きだったんだ
これは同意する人も多そうな印象です。あのやんちゃな感じのまま横綱になった姿も見てみたかった。

>* 一方で玉鷲、大栄翔、隆の勝、正代あたりにめっぽう弱く、いつも不安だった
他はわかるとして,不思議なのが正代なんですよね。正代の側に理由を聞いてみたいですね。

>* (どの力士もそうだけれど)引退した今は健康にいきてほしい
本当にそうです。
ケガが理由ではないですが,元気にやっている日馬富士を見るとけっこう嬉しいです。
Posted by DG-Law at 2025年02月04日 23:48