2025年04月14日

2025年1〜3月に行った展覧会

サントリー美術館の儒教展。日本の美術史では圧倒的に仏教が優位で,神道も儒教も道教も題材になりにくく,中でも儒教はその社会的地位に比べて描かれてこなかった。その儒教にあえて焦点を当てた展覧会。やろうと思えばできるもので,企画は立ててみるものだと思う。朱子学を官学化した江戸幕府の御用絵師集団だったという点でも出典の事情から漢画の画風が合いやすいという点でも狩野派無双になりがちなところ,たまに別の画風の作品があるのが面白い。普段は見ない相対的マイナーエピソードの作品が多かった点でも楽しめた。しかしまあ,現代の価値観からするとありえなかったり,荒唐無稽だったりする孝行エピソードが多く,この点ではやっぱり儒教も宗教だなぁと思う。「怪力乱神を語らず」との整合性については,教訓なのだから真偽を問わないことにしていたのかどうか。何だったかの本で,後漢辺りは教義の細かい部分が整備されるより早く官学化が進み,まだ儒教が社会に定着していく過程の時期だったので過剰適応的な曲解があって,世評を高めるために経典の定めよりかなり長く服喪する等の荒唐無稽エピソードが生み出されたというのを読んで,得心した覚えがある。それを外典化しなかった(できなかった?)のがキリスト教との差分かもしれない。イエスやブッダと違って孔子自身は奇跡も起こしていないから,後世の人々がエピソードを量産することになったのも他の宗教と異なる……なんてことを考えながら展示を見ていた。




東博の大覚寺展。高校日本史で登場する「大覚寺統」(後の南朝の皇統)という用語は知っていても,大覚寺自体について知っている人は少ないだろう。私自身もそうであった。大覚寺は真言宗に属し,嵯峨の北部にあり,大沢池という大きな池を持ち,この大沢池で行う重要な法事もある。以前に愛宕山を登った際に知らない大きな池が見えたのだが,あれは大沢池ではなく,隣の広沢池のようで,どうやら愛宕山からは見えないらしい(下記ツイートは間違い)。展覧会内でも池での法事の様子を映した映像が流されていたが,本当に池の縁でやっていて面白い。名前の通り大覚寺統に縁が深く,そもそも後宇多法皇がここで院政を行ったのが大覚寺統という名前の由来である。後嵯峨や後宇多の宸筆が残る一方,南北朝の戦乱の舞台だったので派手に焼けており,応仁の乱でも焼け,戦国時代には放置され,建物の復興は江戸初期以降となった。京都の寺にはよくあるパターンであるが,ケガの功名で襖絵を狩野山楽に描いてもらえたので,これが寺宝となる。ただし,展示品で最も人気が高かったのは名刀「膝丸」と「髭切」の二振りで,展示場内に列が出来ていた。まだまだ刀剣は人気である。個人的にはやはり,いかにも安土桃山時代の遺風を残した京狩野という狩野山楽の襖絵が一番良かった。




西美の「西洋絵画、どこから見るか?」展。所蔵品とサンディエゴ美術館からの借り物を並べる企画だが,企画としてよく出来ていて,これだけ比較材料のあるものをそろえるのは大変だったと思う。こういう展覧会では往々にして企画倒れで,比較になっていないことがあるので,ちゃんと比較になっていただけで感動してしまった。
 サンディエゴ側の出展で珍しいと思ったのはまず彩色の残る17世紀の木像。彩色が剥げてしまっていることが多いので,これだけ保存状態が良いのはすばらしい。次に“スルバランにしては”普通の聖母子。スルバランというと聖人の立ち絵の印象が強く,実際に西美側の展示は《聖ドミニクス》である。リベーラの《スザンヌと長老たち》は覗き見をしているジジイ二人の不快感しかない顔が実に良い。あとはセオドア・ロビンソンというアメリカの印象派の作品があった。アメリカの美術館は突然地元愛の顔を見せるところが好き。ちょうど1年前のウスター美術館展でも思ったが,アメリカの印象派は面白いのでもっと展覧会があってもよい。スペインの19世紀末の画家ホアキン・ソローリャの作品もあり,そこはサンディエゴの特徴らしい。 メキシコが近くヒスパニックが多い影響だろうか。全然知らない画家だったが,ホアキン・ソローリャもスペインの印象派で良い作品だった。
 常設展も額縁の修復特集や,エマイユ(七宝)のミニ企画展があったり,トロンプ・ルイユ(騙し絵)の新収蔵品があったりと楽しかった。エマイユはミニ企画展が終わっても何点かは常設展に常置しておいてほしい。