2025年08月10日
C.D.フリードリヒがニュースになっているのは珍しい
・全部ア段にすると古典インドっぽくなる言葉(増田)
・パカマーンを捕まえることのできる唯一の道具マンサターバーラを(増田)
→ 久々に増田で大笑いした。完全にインドの叙事詩のノリなんだけど,言われてみると『マハーバーラタ』も『ラーマーヤナ』も全部ア段だもんな。サンスクリット語はア段が多いという明確な研究はあるんじゃろうか。
・最新の分析調査で「本人作ではない」と判明。フリードリヒの画風とは「似ても似つかない」下絵を発見(ARTnews JAPAN)
→ カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは1774年生まれなので確かに去年が生誕250周年であったし,ドレスデンは彼の人生の大半の活動拠点であったから記念企画展を実施したのは当然のことだろう。そこでドレスデン国立美術館のサイトを見てみたところ,確かに「作者不詳」「歴史的にはフリードリヒに帰属」となっていた。この画像を見ると確かに彼の初期の作品に似ていて,フリードリヒの初期の作品とみなされていたのはわかる。もっともドレスデン国立美術館の研究者は「『フリードリヒに見えないのは初期の作品だからだ』という論法がずっとまかり通っていたのですが、それは危険な判断だといつも思っていました」と言っているので,本物の専門家からすると似ていないという判断になり,前から疑われていたのかもしれない。とはいえ完成作品がそれなりにフリードリヒっぽいのに下絵は「似ても似つかない」というのは面白い。どんな下絵が発見されたのかは気になる。
・見たこともない絵画を「美しい」と言ってなにがまずいのか(obakeweb)
→ 主張はなんとなく理解できた気がするが,自分の関心としては「らしい」は「らしい」のままでよくないか? と思ってしまった。記事中の表現を借りるのなら,「鋭くて良い包丁です」というレビューを読んだとして,それはあくまで単に〈鋭くて良い包丁らしい〉であって,「私」はそれを超えて〈鋭くて良い包丁である〉と判断してよいわけではないと思う。したがって美的判断だけが「らしい」が許されないということにはならない。どの判断でも「らしい」は許される。同様に,「グランド・キャニオンは壮大らしい」はあくまで「らしい」という知識であって自らによる美的判断ではない(価値判断としてはフラットな状態)と思う。「単にそう評価している人がいるという判断は、私を実際の訪問に動機づけるようなものではない」というのは私にはよくわからない。とはいえ,私は参考文献で挙げられているジェームズ・シェリーの論文も読んでいないので(それを読むだけの美学の基礎知識が不足している),的外れな考えかもしれない。
→ 倍速鑑賞批判への反論については,程度問題へのぶん投げがすぎるように思われるが,理解と納得はできた。とはいえ傲慢と思われるのは一般的に言って「まずい」のは,という野暮な感想だけ残しておく。
・パカマーンを捕まえることのできる唯一の道具マンサターバーラを(増田)
→ 久々に増田で大笑いした。完全にインドの叙事詩のノリなんだけど,言われてみると『マハーバーラタ』も『ラーマーヤナ』も全部ア段だもんな。サンスクリット語はア段が多いという明確な研究はあるんじゃろうか。
・最新の分析調査で「本人作ではない」と判明。フリードリヒの画風とは「似ても似つかない」下絵を発見(ARTnews JAPAN)
→ カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは1774年生まれなので確かに去年が生誕250周年であったし,ドレスデンは彼の人生の大半の活動拠点であったから記念企画展を実施したのは当然のことだろう。そこでドレスデン国立美術館のサイトを見てみたところ,確かに「作者不詳」「歴史的にはフリードリヒに帰属」となっていた。この画像を見ると確かに彼の初期の作品に似ていて,フリードリヒの初期の作品とみなされていたのはわかる。もっともドレスデン国立美術館の研究者は「『フリードリヒに見えないのは初期の作品だからだ』という論法がずっとまかり通っていたのですが、それは危険な判断だといつも思っていました」と言っているので,本物の専門家からすると似ていないという判断になり,前から疑われていたのかもしれない。とはいえ完成作品がそれなりにフリードリヒっぽいのに下絵は「似ても似つかない」というのは面白い。どんな下絵が発見されたのかは気になる。
・見たこともない絵画を「美しい」と言ってなにがまずいのか(obakeweb)
→ 主張はなんとなく理解できた気がするが,自分の関心としては「らしい」は「らしい」のままでよくないか? と思ってしまった。記事中の表現を借りるのなら,「鋭くて良い包丁です」というレビューを読んだとして,それはあくまで単に〈鋭くて良い包丁らしい〉であって,「私」はそれを超えて〈鋭くて良い包丁である〉と判断してよいわけではないと思う。したがって美的判断だけが「らしい」が許されないということにはならない。どの判断でも「らしい」は許される。同様に,「グランド・キャニオンは壮大らしい」はあくまで「らしい」という知識であって自らによる美的判断ではない(価値判断としてはフラットな状態)と思う。「単にそう評価している人がいるという判断は、私を実際の訪問に動機づけるようなものではない」というのは私にはよくわからない。とはいえ,私は参考文献で挙げられているジェームズ・シェリーの論文も読んでいないので(それを読むだけの美学の基礎知識が不足している),的外れな考えかもしれない。
→ 倍速鑑賞批判への反論については,程度問題へのぶん投げがすぎるように思われるが,理解と納得はできた。とはいえ傲慢と思われるのは一般的に言って「まずい」のは,という野暮な感想だけ残しておく。
Posted by dg_law at 12:00│Comments(7)
この記事へのコメント
>「らしい」は「らしい」のままでよくないか?
包丁のレビューとかだと「らしい」でもいいじゃないかとはなるかと思うのですが
これは「我々は直接的に見たり聞いたりしたことのないものについて知ることができる」かという話がまずあります。
当然のことながら、我々は、自分が直接経験していないことについても、人からの話を聞いたり、本を読んだりするなどして、知識を得ることができます。
包丁の話は、まず「その包丁は鋭い」かどうかは、自分がその包丁を直接触れなくても知ることができる。であるならば、「その包丁は良い」と判断することもできる、という2段階の話になってますね。
例えば、ガザとかに置き換えてみると、ガザでは飢餓が起きている、ということを我々はガザに直接赴かなかったとしても知ることができます(本当にそうなのかという検証だったり、情報ソースの信頼性だったり、そういったことを考える必要はありますが、「直接ガザに行って自分の目で見ない限りガザについて知ることはできない」とまでは言えないと思います。現地の人の証言などを通じて、その知識が事後更新されることはあるかもしれないにせよ、「ガザについて知ることはできる」)。
そして、それに対して「ガザでは非道いことが行われている」という倫理的判断をすることもできます。
もちろん、色々慎重になって、「非道いことが行われている、らしい」と自分の判断を保留することはあると思います。
しかし、「お前は実際にガザに行ってきたわけじゃないんだから、非道いかどうかなんて言えないだろ」と言われたら、いや、実際に行ったことなくても非道いかどうかは分かる、と言いたくなるのではないでしょうか。
ところで、美学における直面原理はまさしく、「お前は実際にその絵を見たわけじゃないんだから、美しいかどうかなんて言えないだろ」という主張なわけです。
(続く)
包丁のレビューとかだと「らしい」でもいいじゃないかとはなるかと思うのですが
これは「我々は直接的に見たり聞いたりしたことのないものについて知ることができる」かという話がまずあります。
当然のことながら、我々は、自分が直接経験していないことについても、人からの話を聞いたり、本を読んだりするなどして、知識を得ることができます。
包丁の話は、まず「その包丁は鋭い」かどうかは、自分がその包丁を直接触れなくても知ることができる。であるならば、「その包丁は良い」と判断することもできる、という2段階の話になってますね。
例えば、ガザとかに置き換えてみると、ガザでは飢餓が起きている、ということを我々はガザに直接赴かなかったとしても知ることができます(本当にそうなのかという検証だったり、情報ソースの信頼性だったり、そういったことを考える必要はありますが、「直接ガザに行って自分の目で見ない限りガザについて知ることはできない」とまでは言えないと思います。現地の人の証言などを通じて、その知識が事後更新されることはあるかもしれないにせよ、「ガザについて知ることはできる」)。
そして、それに対して「ガザでは非道いことが行われている」という倫理的判断をすることもできます。
もちろん、色々慎重になって、「非道いことが行われている、らしい」と自分の判断を保留することはあると思います。
しかし、「お前は実際にガザに行ってきたわけじゃないんだから、非道いかどうかなんて言えないだろ」と言われたら、いや、実際に行ったことなくても非道いかどうかは分かる、と言いたくなるのではないでしょうか。
ところで、美学における直面原理はまさしく、「お前は実際にその絵を見たわけじゃないんだから、美しいかどうかなんて言えないだろ」という主張なわけです。
(続く)
Posted by シノハラユウキ at 2025年08月12日 12:55
(続き)
倫理的判断について直面原理が言われることってあんまりないように思えます。
例えば、AさんがBさんとのトラブルについて相談してきた際に、「Bさん(またはAさん)が悪い」と判断することは当然ありえます。「Aさんは時々話を盛るからな」と思って判断保留することはあるかもしれませんが、AさんとBさんとのトラブルの現場を直接見ない限りは、どっちが悪いか判断できない、ということはないでしょう(もしそうだとすると、そもそも裁判は不可能になってしまう)。
ところが美的判断についてはしばしば、直接見てない人には美しいかどうかは判断できない、と言われがち、思われがちです。
なので、この記事で主張されているのは「らしい」を許容しない、というのではなく、判断できないということはない、ということになると思います。
「グランドキャニオンは壮大らしい」と美的判断を保留する人がいるのは別に構わないかと思います。
ここでは、グランドキャニオンを直接見たことない人であっても「グランドキャニオンは壮大だ」と判断することはできる、ということを擁護しようとしています。
先ほど挙げた、Aさんの相談のように、Aさんの話が信用できない場合に判断を保留する(「らしい」のままにしておく)ということはあると思いますが、Aさんのことが十分信用できる場合、判断を下すことはあるだろうし、証言のみで倫理的な判断でがきないということはない。
ならば、美的判断も同様ではないか、という話です。
(続く)
倫理的判断について直面原理が言われることってあんまりないように思えます。
例えば、AさんがBさんとのトラブルについて相談してきた際に、「Bさん(またはAさん)が悪い」と判断することは当然ありえます。「Aさんは時々話を盛るからな」と思って判断保留することはあるかもしれませんが、AさんとBさんとのトラブルの現場を直接見ない限りは、どっちが悪いか判断できない、ということはないでしょう(もしそうだとすると、そもそも裁判は不可能になってしまう)。
ところが美的判断についてはしばしば、直接見てない人には美しいかどうかは判断できない、と言われがち、思われがちです。
なので、この記事で主張されているのは「らしい」を許容しない、というのではなく、判断できないということはない、ということになると思います。
「グランドキャニオンは壮大らしい」と美的判断を保留する人がいるのは別に構わないかと思います。
ここでは、グランドキャニオンを直接見たことない人であっても「グランドキャニオンは壮大だ」と判断することはできる、ということを擁護しようとしています。
先ほど挙げた、Aさんの相談のように、Aさんの話が信用できない場合に判断を保留する(「らしい」のままにしておく)ということはあると思いますが、Aさんのことが十分信用できる場合、判断を下すことはあるだろうし、証言のみで倫理的な判断でがきないということはない。
ならば、美的判断も同様ではないか、という話です。
(続く)
Posted by シノハラユウキ at 2025年08月12日 12:55
(続き)
>「単にそう評価している人がいるという判断は、私を実際の訪問に動機づけるようなものではない」というのは私にはよくわからない。
これまた、ガザで喩えてみると、
「ガザで非道いことが起きたと言っている人がいることは知っている(けど、自分としてはガザで起きていることについての価値判断は全くの中立。非道いとも非道くないとも判断しない)状態で、ガザへの募金を行う」かどうか、ということだと思います。
もしかしたら、自分で価値判断はしてないけど募金をする人もいるかもしれないですが、しかし一般的に、何らかの募金活動を行った場合、その動機として、本人による何らかの価値判断があったからだと思われます。
訪問についても、旅行の行き先をAに決めるとき、Aが美しい場所だと思ったから行くことにした、ということがあると思います。これは、自分自身の美的判断が訪問の動機付けになっているケースだと思いますし、一般的なケースだと思います
もっとも、訪問の動機付けについては、その証言が本当かどうか確かめるため、という場合も考えられるので「単にそう評価している人がいるという判断は、私を実際の訪問に動機づけるようなものではない」に関して言えば、やや言い過ぎの感はあるかもしれません。
長文失礼しました。
(終わり)
>「単にそう評価している人がいるという判断は、私を実際の訪問に動機づけるようなものではない」というのは私にはよくわからない。
これまた、ガザで喩えてみると、
「ガザで非道いことが起きたと言っている人がいることは知っている(けど、自分としてはガザで起きていることについての価値判断は全くの中立。非道いとも非道くないとも判断しない)状態で、ガザへの募金を行う」かどうか、ということだと思います。
もしかしたら、自分で価値判断はしてないけど募金をする人もいるかもしれないですが、しかし一般的に、何らかの募金活動を行った場合、その動機として、本人による何らかの価値判断があったからだと思われます。
訪問についても、旅行の行き先をAに決めるとき、Aが美しい場所だと思ったから行くことにした、ということがあると思います。これは、自分自身の美的判断が訪問の動機付けになっているケースだと思いますし、一般的なケースだと思います
もっとも、訪問の動機付けについては、その証言が本当かどうか確かめるため、という場合も考えられるので「単にそう評価している人がいるという判断は、私を実際の訪問に動機づけるようなものではない」に関して言えば、やや言い過ぎの感はあるかもしれません。
長文失礼しました。
(終わり)
Posted by シノハラユウキ at 2025年08月12日 12:56
ありがとうございます! ガザのたとえは非常にしっくり来ました。
私の中では,
>この記事で主張されているのは「らしい」を許容しない、というのではなく、判断できないということはない、ということになると思います。
という点がしっくり来なくて,記事の主張がなんとなく理解できても,それが何を意味しているのかまで理解が及ばなかったものと思われます。
可能かどうかだけを突き詰めるなら,確かに倍速鑑賞と同様に「見たことない絵画を美しいといってもよい(まずくない)」ということになりますね。
なのでこれは完全に好き嫌いの話ですが,やっぱり美的判断における「らしい」は「らしい」のまま扱う方が自分の内面的な考え方としてはしっくりくるなと思いました。
私の中では,
>この記事で主張されているのは「らしい」を許容しない、というのではなく、判断できないということはない、ということになると思います。
という点がしっくり来なくて,記事の主張がなんとなく理解できても,それが何を意味しているのかまで理解が及ばなかったものと思われます。
可能かどうかだけを突き詰めるなら,確かに倍速鑑賞と同様に「見たことない絵画を美しいといってもよい(まずくない)」ということになりますね。
なのでこれは完全に好き嫌いの話ですが,やっぱり美的判断における「らしい」は「らしい」のまま扱う方が自分の内面的な考え方としてはしっくりくるなと思いました。
Posted by DG-Law at 2025年08月14日 00:52
美学的な面なのか、あるいは倫理学的な面なのか、詳しくないのでそれすらわからないんですが、
「○○をしていいのか、よくないのか」
という問いが私にはもう分からないんです。
この場合でいうと、
「見たこともない絵画を「美しい」と言っていいのか、悪いのか」
「映画を倍速で見るのは、いいのか、わるいのか」
という問いが私には分からないんです。
「言うことがよくても、悪くても、それに対してたかだか批判しかされないんだから、悪くないだろ」
っていう…。
それに対して
「いや、悪いと思ってるから批判する人がいるんでしょ?でも悪くないんだったら批判する方がよくないことだから批判もやめるべき」
っていう反論があるかもしれないけれど、
「別に批判が悪くても悪くなくても批判に対してたかだが批判しかされないんだから…」
と、無限ループになるのではないかと…。
この場合の「よい」「悪い」って何っていう…。
「○○をしていいのか、よくないのか」
という問いが私にはもう分からないんです。
この場合でいうと、
「見たこともない絵画を「美しい」と言っていいのか、悪いのか」
「映画を倍速で見るのは、いいのか、わるいのか」
という問いが私には分からないんです。
「言うことがよくても、悪くても、それに対してたかだか批判しかされないんだから、悪くないだろ」
っていう…。
それに対して
「いや、悪いと思ってるから批判する人がいるんでしょ?でも悪くないんだったら批判する方がよくないことだから批判もやめるべき」
っていう反論があるかもしれないけれど、
「別に批判が悪くても悪くなくても批判に対してたかだが批判しかされないんだから…」
と、無限ループになるのではないかと…。
この場合の「よい」「悪い」って何っていう…。
Posted by acsusk at 2025年08月21日 19:19
なんかとっ散らかってしまいましたが、
通常の議論
「○○の正当性はあるの?
○○の正当性がないなら○○批判に正当性がある。
○○に正当性があるなら○○批判には正当性がない。」
ぼく「○○に正当性があったら何なの?
○○に正当性がなくて○○批判に正当性があったとしてどうなるの?
○○に正当性があって○○批判に正当性がなかったとして、何かあるの?」
っていう…。
(今回の○○に入るのは
「見たこともない絵画を「美しい」と言うこと」
「映画を倍速で見るのは、いいのか、わるいのか」
だから特にそういう感想を持つし、ほんというと殺人とか詐欺とかも、最終的にはそうなんじゃね?っていう。
刑罰を決めるのですら「正当性」でなくて功利主義で決めればいいし、実際それで決まってきた部分もあるやろって)
通常の議論
「○○の正当性はあるの?
○○の正当性がないなら○○批判に正当性がある。
○○に正当性があるなら○○批判には正当性がない。」
ぼく「○○に正当性があったら何なの?
○○に正当性がなくて○○批判に正当性があったとしてどうなるの?
○○に正当性があって○○批判に正当性がなかったとして、何かあるの?」
っていう…。
(今回の○○に入るのは
「見たこともない絵画を「美しい」と言うこと」
「映画を倍速で見るのは、いいのか、わるいのか」
だから特にそういう感想を持つし、ほんというと殺人とか詐欺とかも、最終的にはそうなんじゃね?っていう。
刑罰を決めるのですら「正当性」でなくて功利主義で決めればいいし、実際それで決まってきた部分もあるやろって)
Posted by acsusk at 2025年08月22日 22:05
その良いか悪いかが倫理的な意味なのか美学的な意味なのかは,質問者に問うべきかなと思います。元記事は美学者の記事なので美学の意味ですね。鑑賞・批評をする上でよいかどうかという。
下のコメントについては,美学によらず哲学上の問いは「正当性があるからと言って何なのか」と言われてしまうと,割と死んでしまう気がします。
功利主義も「そこで定義される幸福って何? 定義次第でその最大も変わるよね」というところから切り込まれると割と同じところにたどり着くかと。
下のコメントについては,美学によらず哲学上の問いは「正当性があるからと言って何なのか」と言われてしまうと,割と死んでしまう気がします。
功利主義も「そこで定義される幸福って何? 定義次第でその最大も変わるよね」というところから切り込まれると割と同じところにたどり着くかと。
Posted by DG-Law at 2025年09月12日 17:51