2023年12月25日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(九州編)

97.阿蘇山
 いつもの歴史・文学語りは頼山陽から。頼山陽は1818年から1年間をかけて九州を周遊していて,阿蘇山も訪れたようだ。私事になるが,この間に長崎に旅行して訪れた料亭花月(当時は遊郭)に頼山陽は三ヶ月ほど滞在していたらしい。九州周遊の約四分の一をかけて滞在していたということになり,やはり長崎は学ぶものも遊ぶものも多かったのだろう。調べてみると大分(当時は豊後)の耶馬溪を命名したのも頼山陽と伝わっているそうで,豊後では広瀬淡窓とも会っており,わずか1年で吸収に残した足跡は多い。閑話休題,その他に『日本書紀』に早くも記述があることや,夏目漱石の『二百十日』の舞台であることが語られている。後者は存在自体を知らなかったのだが,夏目漱石は本作品に先立って阿蘇山に登っているらしい。作中の人物は登山に失敗しているのだが。
 実に深田はいざ阿蘇山に登ろうとしたが,「駅前に騒々しく群がる観光客を見ただけで,私はあやうく登山意欲を喪失しそうになった」となったのはいかにも彼らしい。観光客を避けて登ったのが大観峰だったとのことだが,面白いのは結局翌日「雑鬧に我慢して,観光バスで坦々とした舗装道路を登り,世界一と称するロープウェイに乗って労せずして噴火口の上縁へ到着した」と書いていることで,深田に雑踏を我慢しても見たいと思わせた阿蘇山の貫禄勝ちという趣がある。次に阿蘇山に行った際には「ここが深田に雑踏を我慢させた風景か」という感慨を持って眺望を確認したい。なお,そこからさらに山深くに入るとさすがに観光客が消え,中岳から見た稜線は霧氷に覆われていたそうだ(登ったのは早春)。なお,現在はロープウェイは運行を停止しており,バスが代行輸送を行っている。


98.霧島山
 1行目は,令和の御代からするとさすがに隔世の感がある「紀元節を復活するかどうか,二月十一日が近づく毎に問題になっている。」である。戦後直後の雰囲気が漂う。そこからしばらく高千穂峰の話題となり,「頂上には,有名な天の逆鉾が立っていた。」私はここにまだ登山を本格的に始めたばかりの頃に行ったが,装備が足りずに挫折した。いつか再挑戦したい。なお,深田は「もっともその逆鉾の史的価値についてはいろいろな論があった」「古代のものでないことだけは事実である」としているが,深田の執筆当時にはレプリカであることが確実ではなかったのだろうか。ついでに言うと坂本龍馬が引き抜いたという逸話を書いていないのは少し意外であった。深田が高千穂峰に登ったのは昭和14年,つまり皇紀2599年のことで,記念事業的に立派な登山道が整備されつつあったそうだ。1939年はまだ登山道を整備する余裕があった。
 深田は高千穂峰の前に韓国岳や獅子戸岳,中岳,新燃岳を登ってきたそうだが,現在では入山規制がかかっていてその半数は登れない。特に新燃岳は21世紀に入ってから断続的に噴火していて,向こう数十年は登れそうにない。興味深いことに,これら韓国岳などについての深田の記述は「それぞれの山頂から倦くほど高千穂の美しい峰を眺めた」の1行で終わっている。その後は再び高千穂峰の記述に戻り,なんとそのまま霧島山の章が終わるのだ。つまり,霧島山についての記述の9割は高千穂峰に費やされていると言ってよい。これは百名山としての大峰山の主峰が八経ヶ岳ではなく山上ヶ岳であるのと同じ理屈で,百名山としての霧島山の主峰は韓国岳ではなく高千穂峰ということになりそうだ。これに則るなら私はまだ霧島山を制覇していないことになる。困ったな……
 その高千穂峰についてだが,「日本の右傾時代には,不敬の心を抱いて高千穂峰に登ることも許されなかったが,今はそういう強制的な精神の束縛もなく」登れるようになったことを言祝いで山行記録を締めくくっていた。最後まで昭和の戦後直後の雰囲気が漂う章であった。


99.開聞岳
 日中戦争に出征していた深田が1946年に上海から復員した時,船から最初に見えた日本の風景が開聞岳だったそうだ。それは印象に残ったことだろう。開聞岳の名前の由来や歴史については,以前は「ひらきき」であったことや『延喜式』や『日本三代実録』に記録があること,9世紀の二度の噴火等,一通り触れている。
 深田は登ったのは戦前のことだったそうだが,すでに登山道は螺旋状に山を巻いていたようで,深田もこの工夫を褒めている。中腹ぐらいまでは密林で,上の方は灌木地帯で眺望がある点や,四周の風景に接することができる点も戦前と現在で変わらないようだ。山頂からの眺めは抜群であるが,南方の遠い島々だけは天候の加減で見えなかったことを嘆いている。奇しくも私が登ったのも12月で,やはり南方だけは見通しが悪かった。そういうものなのかもしれない。  

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2023年12月24日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(中国・四国編)

92.大山
 伯耆大山。「伝説的に言えば,大山はわが国で最も古い山の一つである」からいつもの歴史語りが始まり,大山寺が僧兵を擁して暴れていたことや,『暗夜行路』の最後の場面であることまできっちり言及している。山容について言及する部分では,「だいたい中国地方には目立った山が少ない。その中でひとり大山が図抜けて高く,秀麗な容を持っている」から始まり,けっこうな紙幅を費やして中国地方から選出した百名山がこの一座しかない理由を説明するかのごとく中国山地をけなしている。もっとも本人があとがきで氷ノ山が候補に入っていたことを書いているし,二百名山ではその氷ノ山・蒜山・三瓶山が入っているから,中国山地も惜しいところで一座だけになった。そう考えると,大山のページではちょっと中国山地をけなしすぎている印象である。
 大山の山容について言及するなら外せないのが,見る角度によって山容が大きく異なるという点である。深田もこれには驚いていて,西からは出雲富士と呼ばれるほどに整っているのに,別角度から見ると山頂が深く崩落していてむしろ鋭く切れ落ちている。深田も書いている通り,その壁面の美しさが伯耆大山の持ち味の一つだと思う。
  
93.剣山
 四国剣山。「わが国の山名で駒についで多いのは剣である」,そしてそのほとんどは山の形から来た名前であるが「四国の剣山だけは違う」。私もこれは以前から疑問であったし,登ったけど結局わからなかった。深田は調べて「安徳天皇の御剣を山頂に埋め,これを御神体としたから」という理由を挙げている。もちろん壇ノ浦で沈んだことと矛盾するが,地元の寺(円福寺)に残る言い伝えでは,平国盛(教経)が我が子と偽って壇ノ浦から安徳天皇を連れ出し,その際に草薙の剣も持ち出した。しかし平家再興ならぬまま安徳天皇が夭折したため,ご遺言に従って宝剣を奉納した……という矛盾を解消するための伝承が追加されているらしい。四国剣山は公式サイトの電波がかなり飛んでいるのだが,その原因の一端をここに見た気がした。深田も「日本歴史で平家没落ほどロマンティックな色彩を帯びたものはない」と書いているが,ついでに日ユ同祖論まで呼び寄せることはなかっただろうに。
 四国剣山は山容が丸みを帯びている上に現在ではリフトが運行しているから,百名山ではトップクラスに登りやすい山である。一方で麓までのアクセス性があまり良くないのだが,深田が登った当時は輪をかけてそうだったようで,祖谷川沿いを延々と歩かされて「あまりに長い」と愚痴をこぼしている。歴史と風格ある百名山としては珍しく,深田が「人里から剣山を仰ぐ事は出来ないのであろう。それほど奥深い山と言える」と書いている通り,標高もさしてあるわけでもないのに,よく古くからの信仰の山となったものだ。一歩間違えれば大台ケ原や美ヶ原のような扱いだったのではないか。そうならなかったのはやはり平家の落ち武者伝説の影響はありそうで,この際胡散臭いのは仕方がないと割り切らなければいけないのかもしれない。
 

94.石鎚山
 歴史・文学語りは,山部赤人や西行法師が「伊予の高嶺」と詠んでいて和歌の題材となっていたことや,『日本霊異記』には早くも名前が挙がっていること,役行者が登ったらしいことを語っている。なお,山部赤人は道後温泉でその歌を詠ったのだが,実際には松山から石鎚山が見えないので別の山の可能性もあるとのこと。
 石鎚山といえば長大な四本の鎖が有名であるが,深田の記述は意外にもあっさりしていて,ほぼ「上に行くほど鎖は長くなり,急峻さも増してくる」と書いているのみである。そういえば試しの鎖は言及がなかった。一の鎖以降の三本は少なくとも1779年に掛け替えた記録が残っており,江戸時代中期頃からあったようだ(現地の看板には江戸時代初期に最初に掛けられたと説明がある)。試しの鎖については調べてみたところ昭和7年に掛け替えた記録があるようなので,少なくともそれ以前からあったのだろう。深田が登った当時にはまだ存在していなかったわけではなさそうであるが,記述から漏れた理由はなぜか。
 深田は天狗岳まで登った後に下山してバスで帰ったそうで,バスの車中から石鎚山を仰ぎ見て「今日,あの頂上に立ったとは思えない,遥かな崇高な姿であった」と述懐している。これは登山が好きな人なら大いに同意できる感慨で,下山した後の帰路で山を仰ぎ見るたびに,さっきまであそこにいたとは信じられないと思ってしまう。人は半日で意外と歩けるものなのだとか,人類文明の領域である麓と自然の只中である山頂との対比等で感情が湧き出てくるのである。  
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2023年12月21日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(北陸・関西編)

88.荒島岳
 深田は石川県大聖寺(現在は加賀市)の出身だが,「母が福井市の出だった関係から,中学(旧制)は隣県の福井中学へ入った」。そのため,荒島岳は深田が中学生の頃から知っていた山だが,実は長らく登っておらず,初めて登ったのは『日本百名山』の執筆から数年前とのことであるから1950年代のことだろう。荒島岳は深田が故郷の山だから選出されたのだと言われがちだが,実は大して登っていない山だったりする。とはいえ,実は深田自身が「もし一つの県から一つの代表的な山を選ぶとしたら,という考えが前から私にあった」として,そこから荒島岳と能郷白山で悩み,荒島岳を県代表とした……と全く隠す気が無く書いている。直接明言した文ではないが,福井県から一つも百名山を選出しないわけにはいかなかったと解釈しうる。
 ちょっと面白いのは,中学の頃から麓から立派な山容だと眺めていたことが長々と述べられた後,しかしながら「千五百米程度の山へ登るために,わざわざ越前の奥まで出かける余裕はなかった」などと最近まで登らなかった言い訳を述べ,然る後に突然,上述の県代表論を語り始める。それで4ページ中のほぼ3ページを使っていて,いつもの山名や歴史・信仰についての語りが全くない。例によって山行記録は最後の半ページのみで,眺望では白山が神々しいほど美しかったと述べている。私が登った感想としてもその点には同意するが,深田がしきりに言う麓から見た山容の良さや品格はあまり感じられなかった。『日本百名山』の本項を読んだ結果,やはり故郷びいきで県代表として選出したという疑念は晴れなかったどころか,深まってしまった。


89.伊吹山
 伊吹山の章は東海道線の車窓から見えることから始まり,いつもの文学・歴史語りが始まる。当然ヤマトタケルの伝説に触れているが,「その伝えから頂上に日本武尊の石像が立っているが,尊にお気の毒なくらいみっともない作りなのは残念である」と書かれている。私もその石像を頂上で見ているが,確かにあれは残念なヤマトタケルの像で,深田が登った頃からいて直されていないことに少し驚いた。いつから立っているのか気になるが,1分で調べた範囲ではわからなかった。大体のことは褒める深田が「みっともない作り」と言うレベルの石像,さすがに作り直したほうがいいのではと思うが,少なくとも60年以上は経っているわけで,残念な姿のまま文化財になってしまった感もある。(追記)調べてくれた人がいた。大正元年11月21日に開眼供養が執り行われたとのこと。立って110年以上も立っているようだ。
 当然,スキー場にもセメント工場にも言及がある。もちろん伊吹山を騒がしくするものとして文句を言っている。深田は「頂上に密集しているたくさんの小屋を見ただけでも,夏期の繁盛ぶりが察しられる」と書いているが,現在の伊吹山山頂で経営している小屋は5軒で,当時はこれより多かったのか同じなのかが気になるところ。なお,伊吹山ドライブウェイが通って誰でも山頂まで行けるようになったのは1965年のこと,『日本百名山』発刊の翌年のことで,執筆当時にはまだ計画すら無かったか,全く触れていない。さらに騒がしくなってしまうので,深田には厭わしい出来事か。
 山頂からは「元亀天正の世」の古戦場として姉川・賤ヶ岳・関ケ原が見える他,鈴鹿山脈,琵琶湖と比叡山等も見えるが,深田が第一に見たのは白山だったようだ。伊吹山から白山はけっこう見えにくかったような覚えがあるが,それでも白山を探してしまう辺りに深田の白山への愛がある。ひょっとして荒島岳を選出したのは白山が一番綺麗に見えるという一点だけで他は後付なのでは……


90.大台ケ原
 大台ケ原は大峰山と違い,明治になってから開かれた山である。人が踏み入ってからの歴史が浅い山なので深田は何を書くのかと思ったら,享保六年に蘭学者の野呂元丈が薬草採取のために登った記録があるというのを引いていた。探してみれば登った人がいるものだ。
 大台ケ原の特徴といえば年間4,000mm超の降水量であるが,深田も「大台ケ原に登って雨に遇わなかったら,よほど精進のよい人と言われる。」と書いている。その後,深田自身は「素晴らしい天気に恵まれた」と書いているのだが,深田さんはそんなに精進のよい人でしたっけ……? 深田自身も自覚があって「精進がよかったからではなく,選んだ季節が雨期を外れていたからであろう」と書いている。私自身が登った時も快晴に恵まれたので,どうも精進がよいかどうかは関係がなさそうだ。なお,「精進の(が)よい」でググるとほぼ大台ケ原についてのページしか出てこなかった(いずれも『日本百名山』からの引用)。現在では「精進のよい」という語はほぼ大台ケ原の天気についてしか使われない言葉と言っていい。
 深田は大台ケ原の山頂について「秀ヶ岳」と書いているのだが,現在の呼び名は「日出ヶ岳」である。ググるとこれまた『日本百名山』からの引用記事ばかりが見つかり,旧名なのか別称なのか,深田の誤記なのか調べはつかなかった。あまり誤記には思えないので旧名のような気はする。
 大台ケ原の牛石ヶ原には神武天皇の銅像が立っていて,これが雰囲気に合わず異常に浮いているのだが,1928年設置と古く,当然深田も見ていて一応存在に触れているが,感想は特に書いていなかった。伊吹山のヤマトタケルもそうだが,少なくとも私は神話の由来があるからと言って雰囲気に合わない像を立てるべきではないと思う。しかもこの神武天皇は記紀で大台ケ原に登ったとされているわけではなく,伝説・神話としてさえも信憑性が薄い。まあ立てたのが神道系の新興宗教の開祖なので突拍子のなさについては仕方がないのかもしれない。
 深田は大台ケ原に二度登っていて,二度目は大台ヶ原ドライブウェイが通っていたから1961年以降の登山である。行きはこれを利用したそうだが,帰りは(おそらく喧騒を嫌って)大杉谷から下山したそうだ。美しい渓谷で知られる長い登山道であるが,深田に「渓谷の美しさは日本中で屈指といっていい」とまで言わせている。興味はあったが,やはり計画を立てるべきか。


91.大峰山
 私が深田久弥の『日本百名山』に本格的な興味を抱いたのは,大峰山に登った時である。下山後に宿泊した洞川温泉のあたらしや旅館で,廊下に深田久弥の色紙が飾ってあり,同行者と「何か縁があるのかな」と話していたところ,仲居さんに「深田さんはここに泊まって山上ヶ岳に登られたのですよ」と返された。その後,夕飯の牡丹鍋に舌鼓を打っていると,古株の従業員が話しかけてきて,深田久弥の思い出話を聞かせてもらい,なんと深田の宿帳まで見せてもらい,「深田は山上ヶ岳こそ大峰山だと考えていた。八経ヶ岳はただの最高峰でしかない」と熱弁を聞いた。これが非常に印象に残ったのであった。あたらしや旅館は深田が泊まった宿であることを全然アピールしていないのだが,もったいないのでもっと宣伝すべきだと思う。
 
 閑話休題。日本人の登山としては最古の山なだけあって書けることが多すぎるためか,歴史パートは役行者が開山したことから書き始めて存外すぐに終わる。その中で確かに「(山上ヶ岳が)大峰山の代表と見なしていいだろう」と書いている。ただし,修験道の道場としての大峰山は山脈全域であって,特定のピークではないことも強調していた。
 山行記録について,深田は「泉州山岳会の仲西政一郎さんの案内で大峰山を訪れた」と書き始める。あたらしや旅館の宿帳にはこの仲西政一郎氏の署名もあり,確かに二人で泊まっていたのが確認できる。私は宿帳を見てから『日本百名山』を読んだので順番が逆になってしまったが,『日本百名山』を読んでから宿帳を見た方が感動するだろうと思う。なお,この仲西政一郎氏は父親も当人も修験者(山伏)であった筋金入りの登山家であり,関西の登山ガイドを多数執筆したことでも知られる。
 そうして深田は洞川温泉を出発して山上ヶ岳に登り,「女人不許入」の石標から入って洞辻茶屋,「西の覗き」と見て山頂の宿坊に泊まった。翌日に山頂を踏んだ後に南下し,大普賢岳・行者還岳・弥山と縦走して,八経ヶ岳の山頂から下山している。確かに山上ヶ岳以外の記述は淡白であった。なお,修験道としての縦走路はまだ南に続いていたが,「私はその最高峰を踏んだことに満足して山を下った」そうなので,深田の本質は登山家であって修験者ではないのである。  
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2023年12月15日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(金峰・瑞牆・木曽駒・北岳)

68.金峰山
 荻生徂徠が金峰山に言及して「最も険しく」「天を刺すもの,金峰山なり」と述べていると引用しつつ,「漢文口調の誇張であって,甲府盆地から仰ぐ金峰山は決して嶮峻といった感じではなく,むしろ柔和で優美である」と評している。これは深田の意見に賛成で,金峰山は2599mの高峰ながら周囲の山も高く(『日本百名山』では2595m),山塊の中心にいるどっしりとした山である。荻生徂徠は誇張したというより,何を見てそう述べたのか,そちらの方が気になってしまう。著書の『峡中紀行』は一応甲斐国を巡って書かれたものらしいので,実地に踏み入れているはずである。
 荻生徂徠への指摘はまだ続く。彼は金峰山の名前の由来について「頂上はみな黄金の地であって」「登山者は下山に際してワラジを脱いではだしで帰らねばならない」としているそうなのだが,金峰山は大峰山の別称からとられた名前であって蔵王権現信仰に由来するというのが正しく,深田久弥も当然このことを指摘している。なんというか,荻生徂徠,『峡中紀行』については相当に雑なことしか書いておらず全く信憑性が無い。江戸中期の知識人なら金峰山の名前の由来くらいは日本仏教史の基礎知識として知っていて然るべきはずで,荻生徂徠の教養に疑問を持ってしまった。他の本でも適当こいてない? 大丈夫?
 例によって深田自身の山行記録は短いが,関東大震災の翌年に登ったというから1924年,一高の生徒だったとのことである。若くて経験が浅い上に一人旅であったから,長距離登山を散々迷いながらこなしたのがわかる記録になっている。それにしても当時は昇仙峡から登ったそうで(そもそも甲府から昇仙峡も歩いている),地図で確認してもらえばわかるが,尋常じゃなく遠い。当然,富士見平にも大弛峠にも言及はない。


69.瑞牆山
 特徴的な山名であるので,山名蘊蓄が長い。昔の人の命名は笊や槍などシンプルであるから「昔の人はこんな凝った名前をつけない」。そこで深田は瑞牆山の由来を熱心に調べたが,結局わからなかったため,深田にしては珍しく憶測で書いている。山が三つ連なっていることから三繋ぎ(みつなぎ),そこから転じて「みずがき」の音となり,最後に風流な漢字が当てられたのではないかという。それに対し北杜市のホームページは瑞牆山の岩峰群が神社の周囲の垣根(つまり玉垣)に見立てられ,そこから転じたものではないかとする説を唱えている。その他にも説がいくつかあり,真相はわからない。ともあれ深田は「由来はどうあれ,瑞牆という名は私は大へん好きである」と気に入っている。
 瑞牆山は金峰山に比べると記録に乏しいが,深田は金峰山を見つけた修験者が瑞牆山を見逃すはずがないとして,実際には瑞牆山も古くから知られていたのではないかとも推測している。これは私も同感で,深田や私でなくとも巨岩があったら大体修験者がいる印象は登山者なら誰しも持っているのではないだろうか。言われてみると記録に乏しい方が不思議である。また,深田は瑞牆山の美点として「岩峰が樹林帯と混合しているところ」を挙げており,これにも強く同意する。樹林帯から突き出るように岩峰が伸びているのが美しいのである。
 なお,瑞牆山の登山道は当時と現在でほぼ変わらない経路であったようだが,それでも富士見平の名前は出てこなかった。深田が書き落としているだけか,『日本百名山』出版後に命名された比較的新しい地名ということか,どちらか。


74.木曽駒ヶ岳
 とりあえず山名の由来から入るいつもの構成。駒ケ岳という単純な名前ではあるが,意外と様々な説があるらしい。深田が言う通り,「それらよりも,岩や残雪によって山肌に駒の形が現れるという説」が最もそれっぽい。深田はそれ以外に,日本は古来山脈を竜に見立ててきたが,「竜は駒に通じる」ので,それを由来とするのではないかという説も押している。木曽駒ヶ岳は雨乞い祈祷が盛んであった山であるから,あながち外れてもいないのかもしれない。
 木曽駒ヶ岳はロープウェーが無かった時代でも比較的登りやすい3000m級だったようで,江戸時代から高遠藩による調査登山の記録が残っており,庶民にも集団登山の文化が及んでいた。このため1913年には麓の小学校が教職員と小学生合わせて37名の集団登山を行い,暴風雨に遭って遭難し,8月であったにもかかわらず校長以下11名が凍死するという事件まで起きたことを紹介している。長野県の義務教育課程には学校行事で集団登山の風習があることは聞いていたが,1913年からあることにも,こんな事件があっても続いたことにも驚きである。いや,小学生に3000m級の山を麓から登らすな。例によって山行は短く,4ページ目の半ページも使っていないが,四方の眺望の絶景を褒め称えている。


80.北岳
 「日本で一番高い山は富士山であることは誰でも知っているが,第二の高峰はと訊くと,知らない人が多い」という書き出しで始まる。深田もこのネタが現在まで擦られ続け,むしろ北岳が有名になってしまったとは思うまい。なお,『日本百名山』では北岳が3192mとなっているが,現在では3193mである。北岳は現在でも隆起が続いていて,年間約4mmずつ標高が高くなっている。100年で40cmとするとなかなかのペースであり,西暦4000年頃には3200mの大台に乗っているかもしれない。
 深田は北岳も白峰三山として意外と歴史があることに触れた上で,にもかかわらず「あまり人に知られていないのは,一つにはこの山が謙虚だからである」と擬人化して説明している。確かに「奇矯な形態で,その存在を誇ろうとするところもない」。高潔な気品があるとして,「富士山の大通俗に対して,こちらは哲人的である」と褒めちぎっている。深田は本音では富士山よりも北岳の方が好きなのだろう。
 それだけに,夜叉神峠から広河原までの車道が完成し,難易度が大きく下がって簡単に登れるようになったことについて,「喜ぶべきか,悲しむべきか,私は後者である」と率直に述べている。その広河原から登った身として言えば,いや広河原からでも十分に険しかったし,北岳まで来てしまうような人はもう深田の言うところの大衆とは言えまい。富士山や天城山などに比べれば,まだまだ全然神秘性が剥ぎ取られていないのが北岳だと思うのだが,どうだろうか。  
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2023年12月14日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(雲取・大菩薩・富士山・天城)

66.雲取山
 深田久弥は都会の喧騒が嫌いすぎて,「煤煙とコンクリートの壁とネオンサインのみがいたずらにふえて行く東京都に,原生林に覆われた雲取山のあることは誇っていい」とよくわからない褒め方をしている。また「雲取山は東京から一番近く,一番深山らしい気分のある二千米峰だけあって,高尾山や箱根などのハイキング的登山では物足りなくなった一が,次に目ざす恰好な山になっている」とする。これは現代でも変わっていない。かく言う私も初めて山小屋に泊まったのはこの雲取山だった。一方で,「一番やさしい普通のコースは,三峰神社までケーブルカーであがって,それから尾根伝いに,白岩山を経て達するものであろう」としている。現在では鴨沢から登っていくのが一番楽だと思われるので,当時は鴨沢ルートが荒れていたものと思われる。奥多摩を手に入れた東京都が,過保護気味に登山道を整備するとは,深田も予想していなかっただろう。それでハイキング気分の登山客が増えるのは深田の望むところでは無かっただろうが,雲取山については難易度の問題で現代でも深山の雰囲気を保っているように思う。なにせ登山道でクトゥルフ神話が打ち捨てられている程度には深山である。
 ついでにどうでもいいことに気づいたが,深田久弥は竈門炭治郎とほぼ同時代人で,約4歳差で炭治郎が年上と推定される。炭治郎が鬼殺隊解散後に故郷に戻ったとしたら,学生時代の深田久弥とすれ違っているかもしれない。創作物と現実を混同するのはやめよう。
 深田は三条の湯に前泊し,そこから登り始めて「山の家」(後の雲取山荘)で一泊,それから富田新道(「山の家」の主人富田氏が開いた新道)で下山したとのこと。富田新道は知らなかったので調べてみたら,現在では登る人がほとんどいない道のようで,スタートから2時間も林道歩きが続く。それは絶えるわけだ……それが使われていたということは,前出の三峰からのルートが一番易しいと言われていることも合わせるに,当時はよほど鴨沢ルートが勧められない状態だったということか。非常に意外であるが,どの程度荒れていたのか気になる。


70.大菩薩嶺
 小説『大菩薩峠』は1913年から1941年にかけて連載された。大菩薩嶺もその影響で人気が高まっていくことになるが,深田曰く1923年に登った際には他の登山者に全く出会わなかったという。『大菩薩峠』で大菩薩峠が舞台だったのは最序盤のみであるが,1925年に作者の中里介山が大菩薩峠を訪れているそうなので,そこから人気が出たということだろうか。深田自身は喧騒が嫌いなので,この件はあまり紙幅を割いていない。比較的有名な話であるが,深田は今の大菩薩峠は『大菩薩峠』が舞台とする幕末当時の場所から少し南にずれていることにちゃんと触れている。一点補足すると,真の大菩薩峠は現在「賽の河原」と呼ばれていて,大菩薩峠から大菩薩嶺に向かうと自然と通る。また,樋口一葉が『ゆく雲』で大菩薩嶺の名を挙げていて,文学史上,中里介山よりもかなり早いことを指摘しているのは文人としての深田久弥の面目躍如だろう。
 大菩薩嶺は非常に難易度が低い山であるが,昭和の初期からそうだったようで,深田は「初心者にとってまことに恰好な山」「東京から日帰りができる」「安全なコースが開かれている」と記している。元は青梅街道が通っていたわけであるから,街道の中では難所だったとはいえ,ハイキングコースとして見れば自然と易しいという話になるか。
 深田は登山道入り口に雲峰寺という国宝の寺院があると記しているが,残念ながら現在はさらに近くに登山道入り口ができたため,わざわざ雲峰寺に寄る登山客は少なかろう。実は私は図らずも下山時に雲峰寺に立ち寄っているのだが,がんばって寄るほどの価値があるかと問われると微妙であると思う。また,雲峰寺の建物群は重要文化財である。国宝ではない。これには少し事情があり,戦前は国宝と重文の区別がなかったので全て国が指定する文化財は全て国宝だったのだが,戦後に文化財保護法が制定されて,旧国宝は改めて国宝と重文に分けて指定された。これは1949年のことなので,深田が『日本百名山』を執筆するよりも前の出来事なのだが……調べずに戦前の記憶に頼って書いたか。『日本百名山』では珍しい明らかなミスだ。


72.富士山
 饒舌で4ページに文章を収めるのに苦労していそうな深田にしては珍しく,冒頭「この日本一の山について今さら何を言う必要があるだろう」から始まっている。と言いつつも,役行者小角に都良香に山部赤人,松尾芭蕉に池大雅に葛飾北斎を引いて歴史を語り,紀行文『日本百名山』としての役割を果たしている。「一夏に数万の登山者のあることも世界一だろう」と書いているが,コロナ前は約20万人に達していた。まさに「これほど民衆的な山も稀である。というよりも国民的な山なのである」。
 深田は富士山の特殊性を「富士山ほど一国を代表し,国民の精神的資産となった山はほかにないだろう」「おそらくこれほど多く語られ,歌われ,描かれた山は,世界にもないだろう」として,もっぱら日本人の精神的土壌になったことについて紙幅を費やしている。実際に富士山はその価値が認められて文化遺産として世界遺産となったのだった。それだけ卑俗的な山ということになるが,深田は「結局その偉大な通俗姓に甲(かぶと)を脱がざるを得ない」と降伏している。俗世を嫌う深田にここまで言わせる富士山はやはり別格である。ただし,深田はとうとう富士山のページでは自らの山行について一言も言及がなかった。歴史や文学を語って紙幅を消費しきっただけかもしれないが,深読みするなら,実はやはり世俗にまみれすぎていて富士山のことはそれほど好きではないのかもしれない。


73.天城山
 深田は天城山について,戦前は要塞地帯だったために地図が無かったことや,信州や甲州の山に比べて惹かれなかったことから,長らく興味が持てなかったことを吐露している。しかも,終戦後に地図が出るや否や世俗に染まっていきそうなことを危惧している。それで最初の1ページが終わり,2ページ目で伊豆半島が活発な火山活動で形成されたことに触れ,3ページで早々に山行記録に入ってしまう。……あれ,『伊豆の踊り子』や『天城越え』(松本清張)は? 下田街道は? 歴史や文学にほとんど触れていない点で他の山と一線を画している。
 山行記録も山に入るまでが長く,3ページ目は概ね伊豆半島や大室山の感想であるから,実質的に4ページ目だけである。しかも深田が登ったのは12月下旬,ひたすら寒かったようで,早々に下山して温泉に入ったことで終わっている。また,「天城のいいことの一つは,見晴らしである」としているが,現在の天城山は樹林帯に埋没していて,万二郎岳や万三郎岳はあまり眺望が良くない。
 実は私自身も天城山を登って百名山にたる良さが無いという感想を持ったのだが,読んでみると深田もそこまで思い入れがあって百名山に入れたようには全く思われず,いわゆる当落線上の三十座の一つに違いなかろう。百名山からクビでいいのでは。  
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2023年12月12日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(長野県編)

43.浅間山
 浅間山が常に煙を吐いていることが強調されているが,現在では言うほど煙を吐いていない。とりわけ私が登った時には全く煙が出ていなかった。もっとも,だから噴火警戒レベルが下がっていて前掛山まで登れたのではあるが,深田が登った当時はどれだけ煙が出ていようがきっちり登頂できたのだろう。おおらかというか人命が軽い。なお,深田が浅間山に登ったのは高校1年生の時だったとのことで,案の定「絶頂の火口壁で噴煙に襲われて逃げまどった」と述懐している。挿絵の登山地図には前掛山の表記が無い。浅間山に直接登れた当時は,前掛山に登る人はいなかったということか。
 また当時は峰の茶屋(軽井沢側)から登るのが一般的だったところ,深田は小諸から登ったとのことである。現在では峰の茶屋からの登山道は封鎖されていて,小諸側か嬬恋村からしか登ることができない。私が登ったのも小諸側からであるが,天狗温泉浅間山荘で一泊してからの登山であった。深田が登った当時はまだそこに旅館がなく,小諸市街から「夜をかけて」登ったようなので大変である。調べてみると,あそこに浅間山荘が建ったのは1957年のことで,深田が高校1年生の時には存在していない。


60.御嶽
 他の霊山が一般登山に飲み込まれたのに対して,御嶽山だけは宗教登山の風俗を濃厚に保っていることを強調しているのは,いかにも深田らしい記述である。これは数十年後の現在では評価が難しい。御嶽も随分と一般登山者が増えていて,深田が言う一般登山者が「疎外感のような感じ」ということは完全に無くなっている。それでも他の山に比べると信仰篤く,宗教色が残っているようにも思われる。深田は御嶽の宗教的モニュメントの多さを指摘していて,これは2014年の噴火も乗り越えて,今なお残っている。というよりも石碑の多さが御嶽山をまだ信仰の山たらしめている最後の砦と言えるかもしれない。あるいは逆に,そうした膨大な石碑が生み出す一種異様な雰囲気自体か観光の対象と化していて,やはり信仰は観光に飲み込まれているとも言えよう。
 深田が登った当時と現在の最大の違いはやはり2014年の噴火である。浅間山や磐梯山など他の火山では噴火に言及があるが,御嶽山のページでは一切言及がない。どころか御嶽が火山であること自体に言及がない。なにせその頃の御嶽山は死火山と思われていて(死火山という概念自体が21世紀には滅んでいる),御嶽山の小規模な活動が見られたのは1979年のことであった。2014年の大噴火は当時の登山家にとって青天の霹靂であり,だからこそ大きな被害が出たのである。死後40年以上も経ってからの出来事であるから言及できるはずがないことはわかっていても,微妙な違和感がぬぐえない。もうこれほど牧歌的に御嶽を語ることができなくなったわけで,『日本百名山』で最も時の流れを感じるのはこの御嶽の部分かもしれない。


61.美ヶ原
 古来の日本で高原を愛する趣味はなく,もっぱら西洋趣味として導入されたが,それに最も適合するのが美ヶ原であるという。確かに修験にも向かず酪農の生業もなかった日本人は高原を扱いにくかったのかもしれない。深田はここで西洋趣味としての高原の事例としてセガンティーニの絵を引いており,ここは昭和の文人らしい。実際に美ヶ原は名前負けしない高原としての美しさを持ち,私も行ってみて驚いた。命名の勝利である。当然このような名前が古くからあったわけではなく,昭和になってからとのことで,深田が訪れたのは命名されてからさほど時間が経っていない時期であった。何しろ美しの塔が建つ(1954年)よりも前のことであり,それだけに深田は全く他の登山者と会わずに高原を独占したそうだ。その後すぐさま世俗化してしまったため,『日本百名山』執筆当時の美ヶ原の様子を嘆いている。私は深田と違って世俗化にこだわりはないが,人っ子一人いない美ヶ原を歩く気持ち良さについては羨ましくなった。


62.霧ヶ峰
 深田は戦前に一夏を霧ヶ峰の山小屋に逗留して過ごしており,隣の部屋に小林秀雄がいたことを述懐している。天気が良ければ二人で歩き回ったそうだ。小林秀雄の登場は谷川岳に続いて二度目である。深田は霧ヶ峰について,登る山ではないが「遊ぶ山」としては最高だと評している。それだけに霧ヶ峰は蘊蓄よりも山行記録が長い珍しいページになっている。車山や八島湿原はもちろんのこと,霧ヶ峰の山行記録は細かな地名にも触れていて詳細である。
 霧ヶ峰は美ヶ原と違って歴史が古く,旧御射山で源頼朝が狩猟を催した記録があることに触れている。深田はそこで「大昔の土器のかけらを拾うことができた」そうなのだが,実際に旧御射山は鎌倉時代の遺跡が発見された。発掘調査が進む前だったので簡単に拾うことができたのだろう。また旧御射山を散策中に諏訪明神を祀った小さな祠を見つけたと述べているが,その小さな祠は現存している。まさかあんな小さな社で深田の追体験をしていたとは思わなかった。


63.蓼科山
 『日本三代実録』にも登場する古い山であり,文人,特に『アララギ』の詩人に好まれ,斎藤茂吉らに詠まれていたことが紹介されている。立科,諏訪富士,飯盛山,高井山,女の神山と様々な呼び名があるが,富士山に似た円錐形の形に由来しているものが多いとのこと。深田は直接触れていないが,蓼科という名前自体,蓼(立)は切り立っていること,科は階段の意味でやはり円錐形に由来している。
 個人的には蓼科というとビジンサマの印象が強いのだが,何にでも言及する深田ながらこれには言及が無かった。怪異には興味が薄かったか。ついでに言うと蓼科や八ヶ岳の長野県側は縄文時代の遺跡が多数見つかっているが,八ヶ岳のページを含めてそれにも言及がない。調べてみると,戦前から発掘が進んでいたのは尖石遺跡のみで,他の遺跡は1950年代以降が多かった。とすると,深田には蓼科や八ヶ岳に縄文のイメージが無かったと思われる。
 例によって当人の山行記録は短く,最後の1ページのみ。北側斜面の蓼科牧場から登っている。現在の蓼科山登山は南側斜面が主流であるが,偶然にも私も北側から登った。やはり「頂上は一風変わっている」として,「大きな石がゴロゴロころがっているだけの円形の台地で,中央に石の祠が一つ有り」とのことなので,あの独特の景観は60年以上前から変わっていないようである。ここでも小さな祠は私が見たものと同一と思われ,ああいうタイプの小さな祠は意外と耐久力があり,数十年単位で残るものらしい。小さな祠に一々言及する深田のおかげで検証できている。  
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2023年12月11日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(北関東編)

30.谷川岳
 最初の話題は当然,遭難死者である。『日本百名山』が書かれた昭和30年代ではまだ二百数十人だったようだが,2023年現在は800人を優に超えている。調べみると,ちょうど昭和30〜40年代に最も死者が出ており,しかもその多くが一ノ倉沢の登攀と積雪期での凍死である。21世紀に入ってからは危機意識の高まり,装備の改良等により死者が大きく減っている(それでも年に2,3人ずつの死者が出ている)。百名山ブームが死者を増やしたとあっては深田もやりきれない。
 深田が紹介していて面白かったのは,山名に関するエピソードである。実は真の谷川岳はトマの耳でもオキの耳でもなく俎瑤噺討个譴觧海任△辰が,国土地理院の前身にあたる機関が5万分の1地図を作った際に,それまで谷川富士・薬師岳と呼ばれていた両耳を指して谷川岳と記載し,それが定着してしまったのだという。その俎瑤呂匹海砲△襪里とYAMAPの地図で調べてみると,トマの耳からかなり西に位置し,現在では登山道が点線(バリエーションルート扱い)になっていた。訪れる人もほとんどいないのだろう,山行記録を探して読んでみると藪こぎの痩せ尾根であった。なかなか後世への影響が大きいミスであるが,俎瑤鷲弦發1886mとオキの耳より約90m低く,天神峠から一ノ倉岳に続く谷川連峰からは少し外れた場所に位置しているから,こちらが主峰と言われても納得しがたい。国家機関が勘違いしたのもやむを得ないように思われた。仮にミスが無かったとしても将来的に両耳が主峰扱いされるようになっていったのではないか。
 自らの山行記録として,深田は1933年に小林秀雄を連れて谷川岳に登った思い出を書いている。二人の関係を全く知らなかったので調べてみると,東京帝大の一学年違いで深田は1926年に文学部哲学科,小林は1925年に仏文科に入学している。雑誌『文學界』を小林が立ち上げると深田は編集委員に誘われているし,谷川岳以外に八甲田山・霧ヶ峰・鳳凰三山・鹿島槍ヶ岳・八ヶ岳も二人で登っているから相当に親しい。なお,登山中の小林秀雄は深田の指示に従順だったそうで,小林秀雄は中学生時代に雲取山に登って遭難しており,それがトラウマになっているのが理由だろうと論じたブログも見つかった。まあそうでなくとも登山中に先達の指示に従わないと普通に死ぬから,小林も従順になるだろうが,従順な小林秀雄の姿はどうも想像できない。


36.男体山
 深田は男体山について,縁起に紙幅を割いている。胡乱なものが多い日本の山の開山記録において,「一番実証性のあるのは,日光の男体山である」という書き出しで始め,4ページ中の丸2ページを費やしている。782年,勝道という修行僧が登頂に成功したことが空海により『性霊集』に書かれており,その記述がかなり詳しいので,深田も紹介したくなったのだろう。日本に近代登山の概念が導入されたのは明治になってからであるが,空海によれば勝道は登頂に成功して「一たびは喜び,一たびは悲しみ,心魂持し難し。」と感じたようである。深田が指摘するように,これは近代登山的な精神だろう。
 元の名前は二荒山であり,補陀落が由来であろうことを紹介した後,短く自らの山行を書いているが,登ったのは1942年のことらしい。思い切り戦時中である。「非常に急峻で,湖畔から頂上までひたすら登りづくめ」との評である。確かに登りづくめなのだが,他の百名山と比べて相対的に急峻かというとそこまでではないと思われ,また当時と今で登山道が変わっていないとも思われるので,ここは深田久弥の感覚がわからない。


37.奥白根山(日光白根山)
 まず驚いたのは,深田が日光白根山について「注目する人は極めて少ない」と書いていることである。当時は人気が無かったのか。また「日光側から登る人が大部分であるが」と書いているのも現代とは異なる。深田は上野(群馬)側に史跡が多いことに注目して,こちらが表口だったのだろうが,現在では廃れてしまったと指摘している。それがスキー場ができてロープウェーができて,すっかり群馬側から登るのが主流になろうとは,深田も想像していなかった。
 深田自身は日光側から登っていて,珍しくも山行記録が4ページ中2ページと長い。山頂付近について「どこを最高点とすべきか判じ難い」とし,火口跡が多く,「岩石の小丘が複雑に錯綜している」。「その丘の一つに貧弱な小祠があって,白根権現が祀ってある」とあり,山頂の様相もこの小祠も,私も見覚えがある。下山は群馬側に進み,「七味平という気持ちのいい小草原まで下ると」という記述があるが,七味平は現在では七色平と呼ばれている。名前が変わったのか誤植か判断がつかないが,なんとなく誤植ではないかと思う。しかも現在は言うほど平でもなくほぼ樹林帯になっているから,日光白根山の群馬側は深田が登った時とは相当景色が違うのではないか。
 余談になるが,自分が初めて『日本百名山』を読んだのは日光白根山登山の際に泊まった丸沼高原のペンションの蔵書であった。ワインで酔った頭でも意外と気楽に読めたことで,日光白根山登山とともに印象に残った。


44.筑波山
 深田久弥が標高1500m以上という縛りを破って入れた山の一つ。しかも深田が嫌った世俗化した観光地の山である。それを押してでも百名山に入れたのは,深田曰く「歴史の古いこと」であるという。なにせ『常陸風土記』に記録がある。そこには富士山をディスりつつ筑波山は雪が降らないことを称揚するエピソードが書かれているらしいのがちょっと面白い。筑波山は登りやすすぎるためか,古くから宗教登山ではなく庶民による遊楽登山の対象であり,女性は筑波山で男性から結婚を申し込まれる風習まであったようだ。だから世俗的なのは当たり前……というのが深田の立てている理路である。なるほど,であれば現在の筑波山が格好のデートスポットになっているのは歴史的に正しい。
 また,深田は東京から筑波山が見えたことを挙げ,関東平野という単位で考えれば筑波山は案外高い独立峰であると指摘している。しかし,現在の東京から筑波山を見るのは難しい。深田が大学生だった頃とは何か条件が変わっているのだろうか。高層ビルは間違いなく増えているが,空気が汚れているかどうかは少し疑わしい。  
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2023年12月10日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(東北地方編)

書籍全体の書評を書いたので,個別の山の記事についての感想はこちらに書いていく。主には勉強になったメモと,深田の感想と自分の感想の違い,時代の違いによる差分について。数字は深田自身によるナンバリングである。


10.岩木山
 深田は1930年頃に,嶽温泉から登って岩木山神社の方向に下った。私が登った時は霧が出ていて山頂からの眺望が死んでいたのだが,深田が登った時も雨混じりの曇天で眺望は全く得られなかったとのこと。さらに,私も岩木山神社の方向に下ったのだが,大きめの石が転がる沢筋で,斜度の割には疲れる道であった。これは約95年前の深田も同様であったらしく,ほとんど弱音を書かない深田にしては珍しく「ガクンガクン膝こぶしの痛くなるような下りが続いて」と書いている。岩木山神社への下山路はほぼ100年間そのままらしい。山頂でも下山路でもほぼ同じ体験と感想で,読んでいて笑ってしまった。これもまた『日本百名山』を読む楽しみであろう。最後に深田は下山の最後の方を「スキーで飛ばしたらさぞいいだろうと思いながら」下りていったそうだが,さすがに先見の明がある。こうなると,私は旅行計画を立てるのがぎりぎりだったために嶽温泉に入りそびれたのだが,入って深田の追体験をしておくべきだったと後悔している。


11.八甲田山
 山の名前の由来は,八つの峰と多くの湿地(田)を有することからとのこと。続いて八甲田雪中行軍遭難事件について言及しているが,これは短く終わった。深田が訪れた当時はまだ国立公園に指定される前で,閑散としていたらしい。十和田八幡平国立公園の指定はかなり古く,1936年のことであるから,深田が登ったのは岩木山と同じタイミングか。眺望や湿原の素晴らしさについては同意しかない。この山も深田にしては珍しく登山の難易度に触れており,「酸ヶ湯から女子供でも楽に登ることができる」とある。私も八甲田山の大岳から酸ヶ湯に下ったが,意外と斜度があってそこまで楽な登山道ではなかったように思われた。というよりも落石防止を中心にかなり整備して歩きやすくしていたのが見てとれたので,深田が登った当時はもっと登りにくかったのではないかと思う。上記の岩木山の通りで,他の紀行文を見ても深田の難易度の感覚は現代人とそれほど違わないことが多いので,この八甲田山の評価はよくわからない。
 深田は登山中に偶然,八甲田の主と呼ぶべき登山者に遭遇していて,「この名物男は,いつも軍装をして……右肩にラッパ……頂上では陸軍のラッパ曲を吹く」とあるから,相当な面白じいさんだったらしい。1930年頃で八十歳とのことだから,1850年頃の生まれか。実は私も八甲田山に登った際,何百回と八甲田山に登っているという地元の方に話しかけられて,山頂で少し話を聞いた。八甲田山にはそういう名物男が存在する伝統でもあるのだろうか。
 深田は「大岳に登ったら,帰りはぜひ反対側の井戸岳を経て毛無岱に下ることをお勧めしたい。これほど美しい高原は滅多にない」と書いている。私はむしろ井戸岳を経て大岳に登り,その後は酸ヶ湯に下りたので毛無岱は経由しなかった。深田の時代は酸ヶ湯から登っていくから井戸岳や毛無岱はむしろ下山で寄る場所であったのだろうが,現代ではロープウェー山頂駅から井戸岳を経て大岳に向かうのが一般的であるから,向きが逆になっている影響はありそうだ。なお,深田はここでも「スキー場としての八甲田山は今後栄える一途であろう」と書いているが,スキー場のためにロープウェーができ,ロープウェーのために登山路が逆向きになることまでは想像がつかなかったか。


12.八幡平
 冒頭で「十和田湖へ行く人数に比べて,八幡平はずっと少ない」と書かれている。八幡平については先行する紀行文が少ない,とも。そこから八幡平は随分とメジャーな観光地になった。というよりも深田久弥レベルの人がその印象だったのに,八甲田山や十和田湖とくくられて突然1936年に国立公園になったのだから,そちらの方が不思議である。名称の伝承については,八幡太郎義家が由来であることに触れつつ「もちろん信ずるに足りない」とばっさりである(もちろん坂上田村麻呂説も否定している)。深田は割りとドライで,伝承を調べるのが好きな一方,割りと正直にばっさり行く傾向が強い。八幡平が開かれた理由として温泉が挙げられており,地図中には藤七温泉も記載されていた。私は泊まったことがあるが,あの温泉は昭和の初期からあったのか……調べてみると開業が昭和5年とのことで,深田が八幡平を訪れた当時は開業してすぐのことだったのだろう。もっとも深田自身は蒸ノ湯と後生掛に入っていったようだ。
 深田はこの山でもスキーについて触れていて,最初に八幡平を訪れた理由がスキーだったと述べている。このまま整備が続けば「今後スキーのパラダイスになりそうである」とまで述べており,深田はスキー百名山も書こうと思えば書けたのではないか。なお,当然ドラゴンアイについての言及はない。ドラゴンアイは10年ほど前に私が行った時にもまだ話題になっていなかったので,本当に極最近観光名所に変わったのではないか。


20.吾妻山
 吾妻山といえば山域が広く,かつ中心が存在しないであるが,深田も「これほど茫洋としてつかみどころがない山もあるまい」と冒頭で書いている。例によって早々にスキーの話を始めるが,ここではアクセスの良い東吾妻にばかりスキーヤーが集まって,広い山域に目が向けられていないことを批判的に取り上げている。深田にとってのスキーとはバックカントリーだったのだろう。ついでに磐梯吾妻スカイラインが通ってにわかが増え,「我々はいよいよ山奥深く逃げ込むよりほかはない」と嘆いている。
 山名の由来について,珍しくも深田をもってして調べがつかず,山域に家形山があるからそれが変じて「東屋」となり現在の字が当てられた……という自説を唱えている。それでは現代視点で答え合わせをするかとインターネットの力を借りたところ,山と溪谷オンラインに同じ説が載っていた。これとは別に『角川日本地名大辞典』も深田と同じ説を採っているというページも見つけたので,深田の説はかなり強そうである。なお,吾妻山という名前の山は日本全国に点在していて,広島・島根県境の吾妻山は「イザナギがイザナミを偲んで『我が妻』と呼びかけた」説を採っていた。さすがは島根県の山である。群馬県の四阿山もヤマトタケルがやはり妻を偲んだことを由来としていて,ここから類推するなら福島の吾妻山も誰かしらが妻を偲んでいても不思議ではない。深田自身は,少なくともヤマトタケル説について「それは附会であって,やはり東屋からきたと見る方が適切」と退けている。
 最後に,西吾妻山については「稜線というより広大な高原」としつつ,いたく感動していた。また「一人の登山者とも出会わなかった」「まだリフトなど全くなかった頃である」としているが,リフトができたところで,西吾妻山はメジャーにはならなかった。喧騒を嫌う深田にとっては良かったことかもしれない。

 
21.安達太良山
 当然引用される『智恵子抄』。引用と論評のため,この安達太良山は定形を破って6ページに渡っている。山行の記録もやや長い。岳温泉から登っているが,冬場は岳温泉がスキーで混雑することに言及している。隙あらばスキー。途中でくろがね小屋に言及があり,岳温泉の源泉であることが示される。私はくろがね小屋に寄らなかったのだが(老朽化による建替工事で休止中),深田久弥が言及するほど歴史の古い山小屋だったとは。しかし調べてみると開業が1953年とのことなので,深田が訪れたのはそれ以降ということになる。深田が東北の山々に頻繁に登っていたのは1930年代のことのようなので,安達太良山だけ新しいのは意外である。
 深田は山頂付近で「鉄梯子のかかった岩場を登ると」と書いているが,言うほど大きな梯子がかかっていた覚えがない。迂回可能な小さな梯子ならかかっていたと思うが……。あの岩場の登山道が当時と大きく変わっているのだろうか。事前に読んでから登っていたら写真を撮っていたのだが,惜しい。なお,この山頂の岩場について,平らな山頂付近からぽこっと飛び出ているように見えることから深田は「乳首山」と呼ぶとも紹介していた。ググると乳首山という通称が残っていることが確認できるものの(たとえばこのページで梯子も確認できる),自分が安達太良山に行ったときには現地でそういう呼称を全く見かけなかった。ちょっとセンシティブなこの呼び名は滅んでいっているのだろうと思う。


22.磐梯山
 1888年の大爆発から紀行文は始まっている。その上で磐梯山の山容は裏磐梯よりも表磐梯の方が美しいという。その山容の紹介が含まれていることから,磐梯山もまた例外的に6ページに渡っている。深田にとって磐梯山の山容はそれだけ重要であった。山名は「岩」と「梯(はし)」から,噴火口の岩壁に由来しているのではないかとしている。登山記録も表から登っていて,とすると当然のようにスキーにも言及がある。弘法清水で裏磐梯からの登山道と合流して人が増え,登山者のゴミが散らばっていることに苦言を呈していた。当時の登山者のマナーよ……。帰りはその裏磐梯に下っていているが,やはり観光客の多さが気に食わないらしい。最後は「シムメトリーよりもデフォルメを好む傾向を近代的とすれば,たしかに磐梯の(磐梯山と猪苗代湖しかない)表よりも(変化に富む)裏にそれがある」と詩的な表現で締めている。この評価は当たっていて,裏磐梯の方が栄えているのだから,現代人の好みは60年経っても変わっていない。  
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2023年12月09日

書評:深田久弥『日本百名山』

 『日本百名山』について,深田久弥自身はあくまで自分が登ったことがある山から選んだこと,深田久弥の選定であって日本の登山家の決定版的に選んだわけではないことを強調しているが,結果として日本百名山は神聖視されている。日本百名山の選定に対する不満としては,
・深田久弥が喧騒を嫌ったために過度に観光地化した山は外された(御在所岳など)
・深田久弥が登っていないために選ばれなかった(石狩岳など)
・標高が1500mよりも低い山は,筑波山・天城山・伊吹山・開聞岳の例外を除いて一律外された(比叡山など)
・選定が東日本,特に北アルプスと北関東に偏っていて西日本からの選出が少ない(蒜山・氷ノ山など)
辺りがよく聞かれるところで,これらの批判自体は当てはまっている。私自身,低山が外されたことについては疑問に思う。しかし,刊行から60年を経て,結局深田の百名山に代わる権威は出現しなかった。深田自身は神聖視を拒否し,困惑していたのだから皮肉なものだ。これらの批判はあっても,結局のところ選定が多くの登山好きにとって妥当性の高いものであったのだろう。

 私自身は元々散歩・散策は好きで,また寺社仏閣巡りも好きであったから,その延長線上で登山を始めた。なにせ登山の最初の大きな目標は投入堂であったし,二番目の目標は富士山の浅間大社奥宮であった。これらを達成してもなお登山を続けているのは,結局のところ登山自体の魅力に惚れ込んだからである。どこに登るかを決める上で日本百名山は指標として大きな役割を果たしていて,私と深田の好みは少しずれているが,それでも結果的に大当たりの山であることが多い。選定されるような山は多様な魅力を持っているということだろう。また,因果が逆転しているが,自治体や観光業者が日本百名山の選定に沿って整備を進めたため,選ばれた山の魅力が増したことも理由として挙げられよう。これもまた喧騒を嫌った深田には申し訳ない事態であるが。
 これらを踏まえて『日本百名山』を読んでみると,確かに本人はこれを神聖視されても困るだろうなと思う。元が雑誌での連載であったため,ほとんどの山は1座に4ページ(一部は6ページ)という紙幅であり,非常に短い。さらに山の名前の由来や信仰の歴史,麓までの紀行文がほとんどを占め,自らの山行記録は4ページのうちの最後の1ページまたは半ページに過ぎない。山の名前の由来や信仰の歴史はよく調べてあって勉強になるが,自らの山行記録は短すぎて物足りない。また,難易度への言及はほぼ全く無く,登山ガイドとしては片手落ちである。深田としては難易度を気にするような層が読むことを想定していなかったのであろう。代わって意外と紙幅を費やしているのがアクセス性や世俗さで,これは喧騒を嫌った深田の好みをよく示している。

 刊行から60年経った今,あえて原著を読む意味はどこにあるか。原著から離れて日本百名山の選定だけが独り歩きしがちな現状,その選定基準に疑問を持たれることも増えているのだから,疑問を解消するなら原著を読むのが最も適している。特に登ったことのある山について読むと,確かに深田の基準ならこれを百名山に入れるのだろうと納得することがほとんどである。深田は読者に自身の百名山を選んでみることを勧めているから,原著の記述はその参考にもなるだろう。また,刊行が60年も前であり,前述の通り百名山に選定されたことで開発が進んだ山も多いため,それぞれの山の状況は大きく変わっている。その差分を探しながら読むのも面白い。現代でも読まれるべき古典的名著である。
 なお,本書で一番面白いのは後書きである。まず,幕末の画家の谷文晁が日本の名山を選抜して『日本名山図会』を描いているが低山が多く,しかも日本アルプスから選ばれているのは立山・御嶽・木曽駒ヶ岳の三座だけであるが,これは時代の制約から言って無理もないと指摘している。その上で,昭和の自分にはその制約が無いというのを百名山執筆の最初の動機として挙げており,これは割りと意外であった。選定の基準として山の品格・山の歴史性・山の個性の3つを重視したことや,七十座くらいまではすぱっと決まったが残りは断腸の思いで選別したことが語られ,そのぎりぎり落選にした山々も挙げられている。どれが当落線上の三十座に当たるのか,考えながら読むのも面白いだろう。そしてこれだけ悩んで選定したにもかかわらず,あとがきの最後に「一番好きな山は最近に行ってきた山」とか書いてしまうあたりに,深田の本書に対する良い意味での適当さが読み取れよう。

日本百名山(新潮文庫)
深田 久弥
新潮社
2016-07-29

  
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2022年06月25日

書評:『グローバルヒストリーと戦争』(秋田茂・桃木至朗編著,大阪大学出版会,2016年)

本書は並びが現代史から古代史にさかのぼっていくスタイルであるが,後ろの章ほど面白い。20世紀史はグローバルさが自明すぎて,グローバルヒストリーが面白さを発揮できないということだろうかとか考えてしまった。いくつか面白かった章を挙げておく。まず第6章,近世の東部ユーラシアではヨーロッパから伝来した火器を用いた「火薬帝国」が立ち並んだが,18世紀に入ると平和が訪れて火器の地位が低下していった。この17-18世紀に,銃火器を減らす周囲とは対照的に周囲からありったけのマスケット銃を吸収し,庶民にまで普及していった特異な地域がある。ベトナム北部の山岳地帯である。ベトナムの歴代王朝はその地形と武力に苦慮し,なんとか体制に取り込もうとしたが,それに成功したのは最終走者のベトミンだけであった。この山岳の戦闘集団の存在が最終的にディエンビエンフーの戦いに帰結するのだから,長期的な歴史の展開は予測がつかず面白い。現代でさえ,ベトナム政府が山岳民から銃火器を押収したというニュースがたまに流れてくるらしい。

第7章では,クリミア戦争の勃発が日露の開国交渉に影響を与え,さらにそれが江戸幕府による大阪湾の海防政策に影響を与え,ひいては摂津のとある村の庄屋の人生に影響を及ぼしたということが論じられる。グローバルな出来事が,日本海沿岸部というリージョンに,日本という一国史に,そして大阪の村というローカルに,最終的には庄屋という一個人史(ミクロストリア)にまで段階を踏んでつながっていく手際は鮮やかであり,グローバルヒストリーは地域の出来事を軽視するという批判に応えた見事な一作である。

第8章も,ゼーランディア城攻防戦というオランダ東インド会社の負け戦から,その城の司令官がスウェーデン人であったことを挙げて,近世国家オランダやスウェーデンの人材の多国籍性を論じている。高等教育が整備された近代国家ならいざ知らず,近世においては何かしらの技能に優れた人材が貴重であり,だからこそ各国は引き抜きあった。その中でスウェーデンは大陸から冶金・商工業に優れた人材を取り入れて財政軍事国家を確立し,逆に1650年代の北方戦争に至るまで繰り返された戦争の経験を活かして軍人を他国に輩出している。その一人がゼーランディア城の司令官として鄭成功と戦っていたというのは17世紀のグローバルに違いない。

第9章は日本の鉄砲伝来についての論文。ポルトガル人がなぜ種子島に来航したのか,また1513年にマカオに到達しておきながら日本到達にはそこから約30年もかかってしまったのかという点について,様々な論考を重ねて,中国の海禁に類するものが日本にあると推測されて強く警戒されていた,また中国ではマカオがそうであるように沿岸の島嶼への上陸は海禁が緩かったため日本でも沿岸の島嶼が探されていたためではないかという一定の説得力がある結論を出している。なお,本稿では1542年説を否定していて,その理由もきっちりと説明されている。

第11章はクビライの外交政策についてで,モンゴル帝国の分裂が彼に「敵か味方(形式的服属)か」という二元思考をとらせ,南宋に硫黄という戦略物資を大量に輸出していた日本が「敵」と見なされて元寇につながったという説は知らなかったので驚いた。クビライの遠征は通商関係構築のための服属要求であったとはよく言われているが(そして東南アジアでも概ね敗退している),中でも文永・弘安の役が大規模であった理由としては説得的である。また,東南アジア諸国は戦争後に結局朝貢した国が多いが,日本は国交断絶を続けた。このために日本の商船は元に警戒され,貿易量の増大に反してしばしば締め出しにあったという。これが元の衰退とともに倭寇となっていくというのは自然な流れであり,また倭寇がマージナルな集団だったことはもはや常識であるが,にもかかわらず当時の中国人がそうした集団を「倭」寇とレッテルを貼った背景には,そうした中国に決して朝貢してこない「不臣之国」に対する恐怖感があったという指摘も面白い。本書が「近年の研究では国家間の戦争と民間の貿易とを次元の異なる問題としたり,戦争にもかかわらず交流は盛んだったとして,それらを現代との違いとして強調する上述が目立つが,そのことを過度に強調するのもまた問題である」と指摘しているのは重い。


  
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2022年06月24日

一般向け世界史概説書の書評(『市民のための世界史』・『歴史学者と読む高校世界史』・『東大連続講義 歴史学の思考法』)

数年単位で蓄積されてしまったので,ここらでまとめて放出。

『市民のための世界史』(大阪大学歴史教育研究会編,大阪大学出版会,2014年)
大阪大学の歴史家たちが,
・既存の世界史の概説書は文系,特に文学部の学生や卒業生を主眼としていて「教養課程」の教科書として難しすぎるものが多い
・既存の高校世界史は用語の分量が多すぎることを問題意識として,可能な限り固有名詞を排した教科書を作成したらどうなるかを試したい
という目的で制作した世界史の教科書である。そのため,序章でやや長めに歴史学を学ぶ意味や効用について語られている。加えて概念的な歴史用語や基礎的な地理の説明が詳しいのも目的に沿っている。しかし,固有名詞は確かに数が少なくなっているが,マイソール王国のティプ・スルタンやジェニー紡績機のようなものが登場しており,その後の高大連携歴史教育研究会の「歴史系用語精選案」の動きなどを考えるとまだまだ多くて無駄がある。また,概念語の説明をコラム等を駆使して文字数を費やして行っているため,文体はともかく読みやすい分量とは言いがたく,その意味で高校世界史未履修者に通読可能かはかなり疑問が残る。これを読みこなすのには基礎的な世界史理解が必要だろう。大阪大学の学部生が,単位を目的として読むなら通読できるかもしれないが……

また,本書は「歴史学は常に学説が書き換わっていく」「ここから入試問題を作るわけではない」ということを大義名分として新説を豊富に載せている。そのため,歴史に詳しい読者でもそうした新説を拾うことや,固有名詞を出さないための大胆な省略に注目すると楽しんで読むことができよう。加えて2014年刊行なのですでに8年経ってしまってはいるから,今から読むなら「これ8年前からあった説なんだな」とか「これはいまだに定着してないか,否定されてるな……」と確認しながら読むと尚更よいかもしれない。たとえば参考文献にジャレド・ダイヤモンドや與那覇潤の著作が入っているのは,現在だと勇み足の感もある。それでも意欲作には違いなく,『もういちど読む 山川世界史』からさらにワンランク上の世界史通史を読みたいなら勧めたい。

市民のための世界史
坂尻 彰宏
大阪大学出版会
2014-04-01




『歴史学者と読む高校世界史』(小澤実・長谷川修一編著,勁草書房,2018年)
本書の問題意識は,高校世界史の教科書は大学の教員が書いているはずなのに,旧説がいつまでも残り続け,知識偏重の入試が悪いことは皆わかっているのに是正させることもないのはなぜか,という点である。その実態を明らかにしつつ,原因を探りつつ,教員として反省するのがねらいになっている。論文集の体裁で,12章の著者が章ごとに全て異なる。類書と比較すると「高校世界史の歴史」についての調査や「教科書検定制度」についての解説といった制度史に焦点が当てられた章が厚く,まさにこの辺が面白い。教科書調査官だった新保良明氏の章を読むと,そりゃ教科書に旧説が残り続けるよなと思うことしきりである。検定制度にも教科書会社にも問題が大きく,これを赤裸々に書いてくれたことに感謝したい。また,一橋大学にお勤めのある方が「入試問題作成において,新課程の教科書や山川の用語集すらチェックすることなく,受験生泣かせの難解な出題を繰り返す大学教員には,高校の歴史教育の現状を知らない,学界という隔絶された世界の住人が多い」「一橋の世界史はとりわけ予備校界隈では奇問・難問が多いことで知られており反省しきりである」と書いていたのには笑ってしまった。前出の新保氏のものも合わせて,これはもはやちょっとした暴露本ですよ。なお,おそらくこの方が作ったと思われる2017年の第2問や2020年の第2問は良問であるという擁護はしておきたい。

無論,高校世界史の記述が最新の研究から見てどう間違っているか検証した章も楽しい。第1章からして,長谷川修一氏が高校世界史の古代パレスチナ描写は『旧約聖書』の記述を無批判に採用していて最新の学説どうこう以前の問題であるとばっさり切り捨てられている。返す刀でその原因を「高校教員は一般に記述が大きく書き換わるのを嫌うから」「教科書検定が機能していないから」「教科書執筆者も古代イスラエル史の知識がないから」と,もうばっさばさである(教科書検定が機能していないという指摘は前出の通り新保氏の指摘と重ねると尚更しっくり来る)。と同時に,その批判はそのような状況を変えられない自身にも反省として向けられている。

一方で,それは無理と思われる批判もある。たとえば第2章で小澤実氏が「近現代でしか通用しない東欧という地域区分を中世に投射し,スラヴ人という言語文化集団によるまとまりで教えるのは問題が大きい」と指摘していて,さらに第3章では中澤達哉氏が同観点から「中世初期には存在しないスロヴェニア人・スロヴァキア人が確固たる存在として登場するのは,歴史の事実と乖離しており,現地の歴史学界においてさえ民族主義的な把握である」と疑問視している。これらはもちろん一理あるものの,現実の高校生は現在のどの民族がスラヴ系なのか,現在のスラヴ系の諸民族の主要な宗教は何かを覚えるところまでで手一杯であって,(世界史が好きで得意な子を除けば)その先を意識する余裕は無い。また,他に置き場所がないから便宜的に中世初期のスラヴ人の大移動の節でスラヴ系諸民族を羅列して紹介しているだけであって深い意味は全く無い。こういった事情を無視して現状の中世東欧の教え方が解体されれば,東欧はさらに教えにくくなり,不人気になるだろう。ましてや近代史にスロヴェニア人やスロヴァキア人の民族意識が芽生えていく過程を盛り込むなら,それは世界史の教科書が分厚くなっていった悪しき歴史を繰り返すことになる。また別のとある章では,この期に及んで「〇〇の分野では人物名が足りないので,××と△△と▲▲と□□と■■を増やすべき」と提言していた。5人も足してほしいなら,せめて減らす人名も5人書いておいてほしい。

そういった衒学的な空気も含めて,2018年の段階での「大学教員から見た高校世界史」の様相をよく表している。2018年といえば高大連携歴史教育研究会の「歴史系用語精選案」が発表された年でもあって,歴史教育改革に向けた動きが活発になり始めた時期である。






『東大連続講義 歴史学の思考法』(東京大学教養学部歴史学部会編,岩波書店,2020年)
東大教養学部で実施されたオムニバス講義が書籍化されたもの。1〜3章は「歴史に法則はあるのか」というテーマを軸にした史学史や,「史料」についての説明,歴史記述についての説明というように,歴史学の特質を説明する章になっている。4〜6章は杉山清彦氏が「国家」や「帝国」の概念について説明していたり,岡田泰平氏が植民地主義について説明していたりと,少し深く,歴史学で頻出する概念について説明する章となり,7〜9章は社会史・感性史・ミクロストリアといった比較的新しい分野の紹介が続く。10〜12章はサバルタンの問題や東アジアの歴史に認識問題といったやや特殊な歴史学の問題に触れている。

通読すると確かに歴史家が大学生に最低限押さえておいてほしい歴史学の基礎がわかる形になっていて,各章が相互に言及していて連動しており非常に収まりがいい。その意味で,文学部の歴史学科に進む学生はもちろん,他の学部学科や理系の大学生にも勧めやすく,本書の内容だけで「市民的教養としての歴史“学”(歴史ではない)」として十分に高度な理解になろうと思われる。歴史学とはこういう世界なのだなという印象が残ってくれれば大変にすばらしい講義(読書)体験だろう。文章が平易で読みやすく,さすがは日頃学部1・2年生に触れている教員たちであるなと思った。本書の白眉は渡辺美季氏が書く第2章で,よくもこれだけ短い文章に「史料」についてのエッセンスを詰め込んだものだ。

本書について文句を言うなら,せっかく駒場での講義なのに美術史学の章が1つもなかったこと,そこだけである。美術史学の先生,誰も歴史部会に直接所属していないからね……



  
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2021年09月21日

『だもんで豊橋が好きって言っとるじゃん!』3巻の細かい感想

続いて3巻。2巻の感想はこちら。





以下,本文からの引用は青字。

〔22話〕
>豊橋には海が2つあるようです
半島の先端以外で湾の内と外の両方に接している市町村は珍しいかも。豊橋以外だとぱっと思いついたのは横須賀市。ざっと調べてみた感じだと,あとは青森県むつ市,下関市,北九州市,八幡浜市,諫早市あたりは同じような感じ。なお,我が家は普通に「太平洋の方」「三河湾の方」で呼び分けていた。

>表浜の海は穏やかな自然のエコ・トーンが形成された自然豊かな海
天伯原台地は逆ケスタというウルトラレア地形だったりするので,どこかで取り上げてほしい。

>実は日本初の駅ビルって豊橋の駅ビルなんじゃんねっ
駅ビルの定義によるらしい。確かに1950年の国鉄による豊橋駅ビルが日本初という説もある。別の定義だと1920年の梅田駅に阪急電鉄による駅ビルが日本初という説も。

>(三河港は)輸入自動車の取り扱いは27年連続日本一なんじゃんね
>(輸出自動車は)……2位

はい,ここ地理のテストで出ます(マジ)。地理の受験生の皆さんは(27年連続以外は)覚えておこう。

>豊橋には砂浜も堤防も干潟もあるじゃんね
>だけど海水浴場はない……と

潮干狩りは蒲郡まで行ってしまう感覚。豊川の河口付近でやっている人を見ることはあるかな。海水浴場は言われてみると無い。それもあってか高校卒業してから水泳にとんと触れていない。最後に泳いだのは大学時代に友達と行った豊橋の市民プールで,めちゃくちゃ空いていたのをいいことに足ヒレを持ち込んだ友達が即座に監視員の人にやんわりと注意されていたという思い出がある。そりゃそうだ。


〔23話〕
>(奈々)名古屋の中学はスクールランチっていって自分でお昼選べたんだよね
>(ほのか)私のところは学校に給食室があった気がする
>豊橋は給食センターでまとめて作ってるよね
>(ほのか)私…ソフトめん食べたことない…

私は小学校を複数経験しているが,学校に給食室があるところもあれば,豊橋同様に配送されてくるところもあった。小学校時代のことなので味は覚えていないが,給食室はかなり大規模で,これを各小学校に置いて運営するのは大変だっただろうなと今なら思う。
ソフトめんはどこの都道府県でもあった気がする……のだが,今ググってみたら,豊橋以外の私の旧居住地域ではそれほどメジャーではないそうで,自分の記憶が疑わしくなってきた。こわい。


〔24話〕
>竹島水族館
まず竹島という島の名前をネタにすべきではw。「竹島? 日帰りで行けるよ」という鉄板の東三河民ジョークがある。なお,竹島水族館は竹島にはなく,対岸の本土にある。本題,私も幼少期に行ったことがあるはずだが,話題になってからは一度も行っていない。姪っ子が小学生のうちに行っておくべきだったか。


〔25話〕
>まぁ浜松って言っても広いからねぇ
今度天竜区の方に転職なされる友達が初めて行った時に「本当にここも浜松なんですか?」と言っていたそうで。浜松市は合併してさすがに大きくなりすぎたと思う。遠江の面積の約6割を占めているのはちょっと……

>浜松といえば井伊直虎もいるじゃないっちょーだいよ家康公っ
>(ちぎり)歴史の話には立ち入らんのが吉 特に戦国時代は発言権なし (潤)豊橋は傍観しておくのみ

2巻にもあったなこの話w。実際に豊橋市民は関心がないと思われる。

>(佐野妙先生)とある店舗が二川湖西店となっていて笑ってしまいました。
ググった。モ◯バー◯ーか。この理屈が通るなら,二川湖西店ってことでさ◯やかも二川に出店してくれないかな……


〔26話〕
手筒花火回。打つ人は常に募集中で,私の周囲にも何人か打ち揚げ経験者がいる。地元に住んでいれば揚げる機会はある模様。「思われているほどは熱くない」とのこと。

>豊橋伝統の傘立て
昨年,埼玉県出身の友達を豊橋に招待した際に説明したらけっこう驚かれた。他の地方の人からすると,まあ傘立てにしか見えんよね。本当に軒先に置いてあるし。
私自身も小学生時代に他県から引っ越してきた身なので,初めて手筒花火を見た時は「この人達は熱さの感覚が麻痺しているか頭がおかしいのでは」と思った。

>イベントに呼ばれて揚げることも増えたでね
約16年前に,東大の駒場祭に手筒花火打ち揚げイベントを企画した人がいまして……当時は東大の駒場生だったので見に行った(宣伝だけ手伝った)けども,当時としてはけっこう斬新な対外進出だったのかな。


〔27話〕
市役所回。そういえば最後に入ったのはいつだろう……中学生の時か高校生の時か……13階に「手筒花火体験パーク」なるものがあるのはこの漫画で初めて知った。

>豊橋市公会堂
存外さらっと流されたが,今後再登場することはあるのだろうか。一応補足するとこういう建物で,登録有形文化財であり,1931年竣工,おそらく豊橋市内で最も格調高い建築物ではないかと思う。私は好き。


〔28話〕
手筒花火回その2。

>「べっとー」「ドベ」
これ方言なのマジで? 「べっとー」は言われてみるとそうかもと思うけど,「ドベ」もそうか……なお,ググったらこういう調査は出てきた。これでいくと国元ほのかさんは関東か東北からの引っ越しか。
「べっとー」は語呂がいいせいか,確かにちぎり先輩と同じで「べっとー賞」という言い方をしていたような気がする。


〔29話〕
「大葉」回。生産量は愛知県が1位で,例によって豊橋が主要産地になっている。母親は好きでよく食べていたが私はさして。


〔30話〕
「うなぎ」回。一色産と浜名湖産のイメージが強く,豊橋でも生産してるのは知らなかった。ブランド化が途上なのだなぁ。両側に挟まれていて豊橋だけ縁が無い徳川家康パターンかと思っていた。個人的には絶滅阻止のため毎年極力食べないようにしているので,ここ数年まともに食べていない。

>「背開き」「腹開き」
>豊橋には両方お店があるよ

あまり気にして食べたことが無かったが,両方あるのだなぁ。


〔31話〕
>その野菜(サニーレタス)実は豊橋発祥って知っとった?
知りませんでした。豊橋最大の発明品なのでは。

>(ラディッシュ(ハツカダイコン)は豊橋が)生産量が日本一なんだよね
また微妙にマイナーな野菜で1位なことよw。調べてみたらラディッシュの生産量の約6割が愛知県で,その大半が豊橋市とのことだった。じゃあサニーレタスは1位ではないのかと思って追加で調べてみると,1位は長野県にとられていて,愛知県は7位であった。まあ本家の玉レタスも長野県が1位だしな。キャベツなら勝っているのだが。


〔32話〕
体育祭回。

>ナベ募金
全然知らなかったのだが,調べてみたら母校の高校も参加していた。当時の自分が募金に関心がなさすぎただけかもしれない。

>峠の国盗り綱引き合戦
>行司が豊橋じゃんね

綱引きの存在は知っていたが,行司が豊橋だったとは。調べてみたら2010年からの巻き込まれ参加で,三遠南信連携の一環とのことで,結構まじめな理由だった。2020年・21年はCOVID-19により中止。新型コロナウイルスの影響がこんなところにも。  
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2021年09月12日

『だもんで豊橋が好きって言っとるじゃん!』2巻の細かい感想

2巻の感想を書きあぐねているうちに3巻が出てしまったのでまとめて書こう……と思ったらネタが豊富すぎて分けた。1巻の感想はこちら。なお,1巻は2冊買って1冊は実家に送ったところ母親にバカウケしていて,2・3巻は自主的に買っていたので宣伝に成功した。うずら卵カッターで爆笑していたらしいので,親子だなと思った。




以下,本文からの引用は青字。

〔12話〕
市電回。
>(駅前に)人が少ない
マジでそれ。けっこういろいろな店・施設があるのに,なぜか人通りが少ない。35万人くらい住んでてこれはなぜか。旅行で見かける他の同規模の人口の都市はもうちょっと人通りがある気がするのだが……過度な車社会なので駅前に行かないし,駐車場に停めて目的の施設に一直線だから表に現れない説を提唱しておきたい。

>(市電の)日本一の急カーブ
井原の電停を通りがかるとたまに撮り鉄らしき人を見かけるのでマジでレアなんだなとそれで実感する。極個人的な話をすると,そのすぐ目の前にあるサイゼで高校生なら誰でも一度はやる,友人たちとドリンクバーで無茶苦茶に混ぜる遊びをした記憶。ちゃんと全部飲んだ……というよりもあれはまずくするのが意外と難しいのだよな。


〔13話〕
はい来たのんほいパーク回。私が最後に行ったのは10年くらい前だろうか。動物園・植物園・遊園地・自然史博物館が融合していてかなり広大なので,普通に1日遊べるのだよな。この13話はほぼ動物園と展望台だけで終わってしまったので,再訪して他の施設も紹介してほしい。


〔14話〕
>「さばくる」
三河弁だと思われていないけど実は三河弁シリーズ。前に聞かれて「鞄や袋の中に腕を突っ込んで物を探す」と答えたことがあり,マジで三河弁なのだなと実感したことがある。冷蔵庫はさばくるもの。うちの母親もよくさばくっていた。

>東海漬物の本社は豊橋
そもそもきゅうりのキューちゃんの知名度は全国区なのだろうかという一抹の不安が。

>「スガキヤラーメン」
尾張民と共有するソウルフード。実家にいた時は向山のアピタの2階でたまに食ってた記憶があるが,東京に移住してからは全然食べていない。帰省した時に,限られた食事回数の中の1回にこれを入れるかというと微妙ではあるのよな。

>ポンポコラーメン
これは知らなかった。実家にあまりインスタントラーメンの文化が無かったのがその理由だと思う。


〔15話〕
>「校区」「校区破り」「出校日」
「校区」は使っていた。「校区破り」は無い。そんなルールうちの校区にもあったんじゃろか……「出校日」も「登校日」と言っていた気がするので,豊橋市内でも校区によって違う説ある。

>ポテトフライは東豊製菓の人気商品
『だがしかし』のほたるさんも大好きなポテトフライをよろしくお願いします。重ねてまとめて食べる禁忌。
  ※ 重ね食いは東豊製菓から「口の中を傷つける可能性がある」等の理由により推奨されていない。


〔16話〕
>吉田城
吉田城は確かに「続・日本百名城」だが,現存する城郭(鉄櫓)に行くとあまりのしょぼさに逆に驚く。吉田城が入っている辺りに「続」の微妙さがわかってしまう。なお,「続」の中でも史跡未指定なものは7個しかなく,吉田城はそのうちの1つ。現存のものは1954年築城,石垣だけは16世紀末の池田輝政が城主だった頃に積まれたものが残っているそうで。ついでに調べていて知ったのだが,吉田藩最後の藩主は大河内松平家で,明治に入って子爵としては3代目に当たる大河内正敏は大戦中の理研所長・理研コンツェルンの創業者としてA級戦犯に指名されていた(不起訴)。意外なところに有名人の子孫がいる。

>長篠城
長篠城も確かに「日本百名城」だが,他の百名城に比してあまりにも何もないので,合戦場跡としては面白いけど日本百名城かと言われるとちょっと外してほしさがある。鳥居強右衛門のエピソードのために入れられている感じも。ちぎりの母が触れている火縄銃演武は,私も見に行ったことがある。あれは地元民なら一度は見に行く価値があろう。
>鳥居強右衛門……の看板
幼少期にはトラウマになるところまで含めて東三河民の鉄板ネタ。

道端でいきなりこの看板は怖すぎるでしょ。これ国道151号上だよ? 案内されている長篠城址史跡保存館はなかなか見応えがあるので,上述の火縄銃演武のタイミングで行くとよい。

>戦国三大合戦の一つ
「三大◯◯」あるあるで,関ヶ原だけが概ね確定しており,残りは(第四次)川中島・桶狭間・長篠・筑後川・大坂の陣・厳島・川越夜戦あたりで割れに割れている模様。三大を作るのは土台無理なテーマかなと思う。

>中央構造線長篠露頭
これは知らなかった。理系の友人なら知っていただろうか?


〔17話〕
>豊橋カレーうどん
作中で「豊橋カレーうどんは誕生10周年」と触れられている通りであり,15年以上前に豊橋を離れた身としては(カレーが好きではないことを差し引いても)思い入れが無い。すでに愛知県内では若鯱家のカレーうどんが強い中でよく新規にカレーうどんで対抗しようと考えたなとは思った。今度実家に帰った時にでも食ってみるかな……

>にかけうどん
こっちは全然知らなかったのだが,言われてみると実家の近所のうどん屋,やたらと鰹節が散らしてあったなとは読んでて気づいた。あれだったのか……

>(ほのかのアホ毛)について「この一本がどうしても縛れんのだけど!」
全然豊橋ネタではないのだが,アホ毛が硬すぎることに作中のキャラがツッコむのはけっこう珍しい気がする。その意味で笑ってしまった。


〔18話〕
>「名古屋には三英傑が揃ってますからね」
>「徳川家康は岡崎生まれだって何回言えばわかるのーっ」
>「有名な武将が一人もいない豊橋市は黙ってなさいっ」

この愛知県なのに三英傑と全くかかわりが無い疎外感,豊橋市民には共感されると思う。というか尾張・西三河・東三河で見ても東三河は三英傑とかかわりが無く,有名な武将がいない。まあ徳川家康は浜松の人ってことでいいのでは(三遠南信統一主義者による危険発言)

>近代図書館の先駆け的存在の羽田八幡宮文庫
これも知らなかった。羽田の出身者だったりすると知っているのだろうか。「近代図書館の先駆け」ってどういう意味なのかと思って調べると,創設が幕末で,公開閲覧室があり,貸し出し制度もあったらしい。創設者は羽田八幡宮の神主・平田篤胤の門人だったそうで,国学の書籍が多かったようだが,その他に『解体新書』『蘭学階梯』『和漢三才図会』『大日本史』『十三経注疏』『四書大全』『類聚国史』等も含む約2,500部・約1万巻が所蔵されてそうなので,かなり充実していたのではないか。残念なことに後継者が現れず1907年に閉鎖し所蔵品が散逸したそうなので,継続性に乏しかったのが有名ではない理由なのだろう。非常に惜しい。

>「ええじゃないか」の発祥の地
東三河でなく豊橋に限れば,教科書に必ず載っているレベルの歴史ネタというとこれしかない。

>「家康が腰掛けて祭りを見た松もあったんだよ」
>「徳川家康公腰掛松旧阯が豊橋公園にあるよ」

そんなしょぼい史跡本当にあるんかと思われるかもしれないがマジである。私も数年前に公園を散歩していて偶然発見して驚いた。市民プールと野球場の間の通路というか駐車場というかにぽつんとある。存在を知らない豊橋市民がめちゃくちゃ多そう。
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〔19話〕
>「「三河」の発音が違っとるでやり直し」
大丈夫だ,豊橋に長年住んでいた私でも「み」に強勢を置いてしまうから。

>まけんグミ
見覚えはあるけど,ほとんど食べたことがない。このグミも豊橋のメーカーなのね。


〔20話〕
>「ほんとえらかったわ」
>「ああそれはねぇ こんきいって意味じゃんね」

三河弁の鉄板ネタその3。どちらも「疲れた」の意味。状況は覚えていないが,これは素で「何が偉いんだ」と素でツッコまれたことがある。

>「コロコロって超便利だら? 実はそれ豊橋生まれ豊橋育ちなんじゃんねっ」(ドヤッ
これはうちの母親も言っていた記憶がある。実はブラックサンダーよりもこちらが豊橋が生んだ最大のヒット商品なのでは。


〔21話〕
>ヤマサのちくわ
>「昔も今も変わらぬ旨さ…」

ノ  ル  マ  達  成


〔EX〕
>大正軒の全自動団子焼き機
全く知らない人からするとなんだそれってなると思うのだが,これもマジで存在する。『だもとよ』作者ご本人のツイートを貼っておこう。

かく言う私も幼少期に連れて行かれてずっと眺めていたことがある。実際に動いているところを見るとけっこう面白いのでお勧め。大正軒,実は豊橋最大の観光名所なのでは。  
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2021年05月01日

書評:『世界哲学史』別巻(ちくま新書)

7・8巻の感想はこちら。前半は編者のうち3人による振り返り座談会とそれを受けての短い論考。不在だったのが近現代の西洋哲学が専門の伊藤邦武氏だったのが手痛い座談会だった様子がうかがえる。また,それぞれの巻全体を振り返るというよりも,その巻の自分が気になった箇所やテーマに言及するという形で話が進んでいき,それに関連するように各巻のコンセプトを扱っていたので,本シリーズの欠陥である巻のコンセプトと各章の内容の乖離はここでも如実に顕在化している。


3〜5巻の振り返りでは「デカルトを超えてカントまでを中世の射程に入れたことで,ルネサンス史観を乗り越えた」と自負しているが,どうも問題意識が古いというか,すでに近世という概念が置かれて16〜18世紀は近代から切り離されて久しく,ルネサンス史観は乗り越えるべき対象では無くなっているのが2020年頃の日本の人文学であると思う。ただ,本書の編者によらず50〜60歳くらいの教養ある人と話すとルネサンスからが近代という認識が抜けない人はまだまだいて,若い頃に身についた歴史観は抜けないし,克服には学界の流行からの学びではなく自身による超克が必要なのだろうな,と最近は思うようになった。この編者たちも,こういう会話をしていながら「近世」という語は普通に使っていることからもそれは感じ取れる。またこれは2巻の振り返りの部分であるp.50で「ローマ法王」の表記が残っていることからも読み取れてしまう。この方たちが学生だった30年ほど前まではまだローマ法王の表記が強くて癖が残っており,文章だと気づいて直すタイミングがあるところ,座談会形式だったためにそのまま載ってしまったのだろう。筑摩書房の編集者の側で指摘すべきだっただろう。

5巻の振り返りの途中で「イエズス会は,特に初期の内的理論はフレキシブルだった」という話題が出ていて首肯したのだけど,それで本シリーズでは典礼問題が扱われなかったことに気がついた。これはちょっともったいなかったかも。6巻の振り返りでは「理性ではなく感情を重視した」「これだけ感情についての論考が並ぶのは珍しいのでは」と言っていて,これは同意する。実際に珍しいテーマであったし,巻のコンセプトと各章の論考が噛み合っていて良かった。

7巻の振り返りでは「西洋批判を強く打ち出した」としていて,それはよく伝わってきたのだが,であればなぜコンセプトを「自由と歴史的発展」にしたのかが疑問に残る。しかも,書評に書いた通り西洋批判というよりも18世紀までの西洋哲学,観念論と啓蒙思想に対する批判というのが7巻であって,必ずしも西洋全体に対する批判にはなっていなかったように思う。それはそれとして,近代とは先祖探しのイデオロギーが強まった時代という指摘はその通りで,歴史とはなべて先祖探しである。非西洋の思想史もまた西洋の学問的枠組みで,先祖探し的に組み上げられてしまったのではないかという問題意識は確かに必要だろう。8巻の振り返りは,今ひとつ振り返りになっておらず,むしろ新たに論点を打ち立ててしまっている感じが。ただ,そのオチが「魂への配慮を今一度」というのは,そもそも魂論に興味を持てない身としてはいただけなかった。

また,全巻の振り返りとして「網羅的なマッピング的なものは最初から目指していなかった」と言っていて,それは読者としても了解していて抜けがあるのは別に気にしていないのだが,言うほど西洋中心主義を脱却できていたシリーズかと言われると……ついでに言うと第二極としての東アジア史や,ギリシア哲学の系譜としてのイスラーム哲学も強くて,網羅的なマッピングは目指していなかったにせよ「世界」と銘打つだけのことはしてほしかったと思う。


後半半分は,本編の補遺として,本編に入りきらなかった論考が並んでいる。たとえば第1章はデカルトの情念論で,振り返りで「感情を強調した」としつつも「デカルトにはあまり触れられなかった」としているので,これは良い補完だろう。第2章も中国哲学情報のヨーロッパへの流入で,東西交渉史として面白い。というように本巻の後半は補遺として優秀であったように感じた。それでも全13章中で東洋史と言えるのは5章で,8章は西洋史寄りであるから偏りはある。また7〜13章,すなわち13章中7章はいずれも20世紀以降であり,やはり8巻1冊だけだと20世紀の多様性は捉えきれていなかったという反省がここにも現れている。第8章は現代イタリア哲学を扱った章だが,著者が岡田温司氏で,ちょっと驚いた。美術史家のイメージしかなかったが,思想史も専門なのだなぁ。守備範囲が広い。10章はナチスの農業思想で,ナチズムも意外と良かった論でしばしば禁煙などの健康・医療政策が取り上げられる昨今にあっては時宜を得たテーマだろう。ナチズムに基づくエコロジーは確かにこういうものだろうなと推測から外れないものが読めて参考になった。



  
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2021年02月12日

書評:『世界哲学史』7・8巻(ちくま新書)

5・6巻の書評はこちら。

7巻「近代供ー由と歴史的発展」
19世紀を扱った巻。よく19世紀が1冊に入りきったなというのが読む前の印象で,やっぱり無理があったかなというのが読後の印象である。サブタイトルの通り,大テーマはほぼヘーゲルとマルクスであって,その通りに論じているのはテーマ紹介の第1章の他,2〜4章まで。それもヘーゲルとマルクスを直接扱っているのは4章のみだった。後述するが,本巻のサブタイトルは「啓蒙思想・観念論からの跳躍」とした方が実態に即していた。なぜこのサブタイトルになったのか,第1章を読んでも理解できない。

個々の章で面白かったのは第3・4章。3章はショーペンハウアーとニーチェについて。ショーペンハウアーの思想は全然詳しくなかったのだが,本章で得た理解だけで言えば,本章自身でそう触れられている通り,ものすごく仏教思想に近くて驚いた。ショーペンハウアーがどの程度インドに触れていたのかは研究途上だそうだが,こういうものが西洋哲学の文脈から出てきたというのはちょっと面白い。同じく3章,ニーチェの「永遠回帰」の概念について,初めてはっきりとした解説を読んだ気がする。なるほど,人生や世界が何度繰り返されようとも,その生は肯定されなければならない――そこにどんな悲劇が含まれていようとも。広島に原爆が落ちようが,2011年3月11日に大規模な地震が起きようが,世界線は固定されて(つまりニーチェ的世界観では並行世界などあり得ないしループで別の行動はとれないのである),人間は何度でもそれを繰り返して観賞し,耐えて耐えて,世界のあり方全てを肯定するに至らなければならない。なるほど,そこまで達観できれば確かに「超人」だろう。ショーペンハウアーが「人生とは苦である」と見なし,ニーチェはその否定から哲学を始めたが,ニーチェはさすがにかっ飛んでいる。

第4章は,マルクスと「マルクス主義」のズレ・違いについて論じたもの。なるほど,マルクス主義とはマルクスとエンゲルスの合作であって,必ずしもマルクス本人の思想とは合致しない。マルクスは自らの思想の普遍化を拒否し,その意味で哲学や経済学という学問そのものを批判・否定していた。しかし,エンゲルスや後世の「マルクス主義」信奉者によってマルクスの思想の普遍化が目指されて,マルクス主義は経済学となっていく。エンゲルスひどいやつだな。

以降,第5章は功利主義の一般的な説明で,特徴的な説明ではなかったが,簡明でわかりやすかった。ミルの正確な警句は「満足な豚よりも不満を抱えた人間の方がよく,満足な愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。(中略)比較されている相手方は両方の側を知っている」であって,豚とソクラテスは直接比較されていない。また,ソクラテスは豚や愚か者の快楽も知っているからこそ質の高い快楽を選ぶことができるという指摘であることは,もっと知られてよさそう。第6章は19世紀の数学史と哲学の関連について述べているが,内容が高度すぎて全く理解できなかった。想定読者層を間違えてないだろうか。この章の内容,他の章の著者は理解できたのか。第7章はプラグマティズムについての,これまた簡明でわかりやすい説明。第8章はフランスで勃興したスピリチュアリスムについて(これはいわゆるスピリチュアリズムではなく,最終的にベルクソンに行き着く思想潮流とのこと)で,第6章ほどではないが私的にはこれもよくわからなかった。というように,3〜8章は既存の西洋哲学の伝統から何かしらの形で逸脱しており,こちらの方がサブタイトルに値する大テーマとして統一性があったように思われる。

最後の第9・10章が本シリーズの中世以降でないがしろにされている東洋史のパートであるが,この第7巻も2章分しかなく扱いが悪い。第9章は近代インドの神秘思想についてで,「神秘の国インド」というオリエンタリズム的に与えられたイメージを逆手にとった「肯定的(アファーマティブ)オリエンタリズム」として近代インドの神秘思想を捉え,スピリチュアリズムという英単語自体も積極的に使い出したのはインド人の側だったという説明は面白かった。第10章は「文明開化」という語を切り口にした近代日本の思想について。個人的にはいまいちで,思想史というよりも言葉の歴史に終始してしまったように読めた。

最後に,pp.224-225の「19世紀後半のアジア」の地図は誤りが多くてあまりにひどいので,注意喚起しておく。決定的な誤りは次の通り。
・英領マレー全体が(ボルネオ島北部含めて)「マレー連合州」になっている
・香港が汕頭(スワトウ)の位置に示されている
・インドの西海岸(スーラト・ボンベイ付近)が不思議な形をしている。このカッチ湾でもカンバート湾でもない湾は一体何。カチャワール半島が2つある……?

また,「19世紀後半」となっているものの,台湾が日本領になっていて,かつ朝鮮が「朝鮮」になっているので1895〜96年と限定できる。とすると誤りと見なせるのは次の通り。ただし,本地図は「いわゆる長い19世紀」の後半にあたる時期の,列強の侵略過程を大雑把に示していると考えるなら,気にしないことにできなくはない。
・イリ地方がロシア帝国領になっている(イリ条約により1881年に返還済)
・シベリア鉄道&東清鉄道が完成している(シベリア鉄道は1897年時点でイルクーツク・ハバロフスク間が未開通,東進鉄道はそもそも敷設権を得たのが1896年・開通が1903年)
・仏領インドシナが完成している(ラオスの保護国化は1899年)
他にもまだありそうな気がするが,そこまで細かく見る気力はない。pp.68-69のウィーン体制のヨーロッパの地図やpp.174-175のアメリカ合衆国の地図は正確なことに比べると,どうしても「本書の東洋史は手抜き」という本書そのものの印象と重なってしまい,非常に印象が悪い。


8巻「現代 グローバル時代の知」
20〜21世紀を扱った巻。本編は大きく二分されて,第1〜5章は西洋史,19世紀の近代哲学を乗り越えようとする動き。とりわけ二元論から脱却すべくあれこれ手を尽くしてみる様相が描かれる。第1章の分析哲学は,私は分析美学を含めて全く知らないところなので勉強しながら読んでいったが,こういう反応もあるようで。



一連のツリーの最後の「事実・価値の二元論が正確にされないまま進んでいくというのが問題なのだけど、その二元論の崩壊の進行を分析哲学史と重なり合うものとして描くという発想にも無理があるのだと思う。」という指摘はこの8巻の前半全体に効く批判になりかねず,かなり手厳しい。第2章はオルテガ・ベンヤミン・フッサール・ハイデガーを取り上げての大衆論・技術論。第3章はフランス中心のポスト構造主義・ポストモダンで,教科書的な説明ながら東浩紀まで拾うので射程は広い。第4章はフェミニズムについてだが,哲学史というよりも運動史な感じはした。確かに本質主義論争は哲学的であるし,多様な性という結論は二元論からの脱却ではあるのだけれども。第5章は「哲学と批評」というテーマだったのだが,何を言っているのかよくわからなかった。私の知っている批評の話ではないようだ。「批評とは解釈学であり,解釈とは聖典の読解である」というのは飛躍であろう。しかも紙幅の大半は井筒俊彦の思想についてであって,批評の話はどこかに飛んでいっている。

後半6〜10章は東洋史で,ここに来て今まで雑な扱いだった東洋史に半分割かれることになり,挽回にしては遅い。ともあれ,地域が散っていて,それぞれの地域で西洋の哲学と伝統の衝突・融合の様相が描かれていて面白かった。第6章では中田考が現代イスラーム哲学を論じているが,中田考の立ち位置の独自性を考えると,別にもう1章設けて別の論者を用意すべきだった気はする。実際に第6章は中田考節がすごいので,文章として一読の価値がある。

第7章は中国の現代哲学で,本書の白眉だと思う。20世紀初頭から現代までの中国(清末・中華民国・中華人民共和国)の西洋哲学受容の流行を追いつつ,その背景となる政治状況や重要な中国人哲学者を紹介していく。醒めた現代の先進国に比べると中国はまだ近代の熱気が残っていて,しかも改革開放の1980年代以後は上手く中国の伝統思想とも向き合えているように感じた。本土以外の中華圏にも触れて,代表的な哲学者として牟宗三を挙げている。第8章は19世紀末〜20世紀前半の日本哲学で,西周・井上哲次郎・西田幾多郎を中心とする。やはり一足早く東西の思想融合を目指した本邦の20世紀前半までの思想状況は独特で面白い。第9章は,第7・8章の背景にクローズアップしたもの。儒学があまり省みられなかった(というよりもキリスト教の立ち位置に置かれてしまった)のに対し,西田幾多郎や牟宗三が仏教と西洋哲学を結びつけている。また,東アジアにおいては大陸系・分析系という区分は意味がないという指摘もあった。ここでは東西という二元論も,西洋の内側の二元論も解消されている。最後に,そういう思想状況に対して「近代はまだ達成されていない」と主張して水を指した丸山眞男がぼこぼこに批判されていたので笑ってしまった。しかしまあ,実態の日本社会の未成熟に対する指摘としての評価はともかく,思想状況への指摘としては本章の筆者の反論の通りだろう。ただし,返す刀でそもそも丸山の批判が意味を失うほどに東アジアの伝統思想から遠ざかってしまった21世紀現在の日本社会も,筆者は戒めている。

最後の第10章は現代アフリカ哲学について。これも非常に面白かった章で,伝統的な思想をどうやって取り出して現代の哲学の俎上に乗せるのかという,アジア諸地域であれば19世紀後半から20世紀前半に経験したことを20世紀後半から現在にかけてやっている苦労が忍ばれる。一点だけ批判しておくと,p.254の地図は2020年現在になっているのに南スーダンが独立していない・エスワティニではなくスワジランドになっているというさすがにまずい部類に近い校正ミスがある。ついでに言うと「カーボナルデ」「チヤド」「ジプチ」になっている。7巻の地図といい,スケジュールがよほど厳しかったのか,筑摩書房の校閲が行き届いていない。またしても非欧米地域だし。中公新書でもそうだけど,大御所・固いところだからと言っても信頼できんのだな……

最後の終章は「世界哲学史の展望」として,サブタイトル通りのグローバル時代の哲学のあり方について論じている。




「別巻」は未入手なので,読んだら別にまた書きます。

  
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2021年02月11日

書評:『世界哲学史』5・6巻(ちくま新書)

1〜4巻の書評はこちら。

5巻「中世掘.丱蹈奪の世紀」
サブタイトルの意味が一番わからない巻。扱う時代が14〜17世紀と4巻に比して広く,第1章で「ルネサンスには重要な哲学者がいなかったと見なされているが,そうでもない」という弁明が書かれているが,この扱う時代の範囲の違いでは説得力がない。そしてどうにも共時性を見いだせるテーマ設定が作れなかったので,仕方なくつけたサブタイトルがこれだった……という雰囲気だが,バロックとは17世紀,拡張するとしてもその手前50年ほどが限界であろう。14〜16世紀の西洋は圧倒的にルネサンスの時代であって,こちらをサブタイトルに持ってこなかったのはルネサンスという語自体が持つ強い意味合いを避けるという意図は理解できるものの,バロックも大概恣意的であるという点はどうしても気にかかる。どうも中世と近世の間に断絶は無かったという意図があったようだが,それを「バロック」の語に仮託するのは無理がある。「中世掘廚盖い砲かるところで,これで本文中に「世界哲学史は概念として近世を置かない」と説明が入るならよかったのだが,そういうわけでもなく,むしろ近世という語を便利に使っている。つまり,「近世」を避けた意味は全く説明されていないし,理解もできないし推測もできない。

とはいえ,本巻の各章は中世でも近代でもないという近世の雰囲気はよく出ていて,第2章「西洋近世の神秘主義」は主にアビラのテレサを扱った章だが,確かに中世でも近代でもありえない特有の現象だろう。第4章「近世のスコラ哲学」でスコラ哲学が中世で死んだわけではないことを示しつつ,第6章「西洋における神学と哲学」や第7章「ポスト・デカルトの科学論と方法論」で近世西洋の哲学者たちがスコラ哲学的なアリストテレスの概念を引きずりつつもそこから離陸していく様子が描かれる。

大きくバランスが変わったのが東洋史で,「イエズス会とキリシタン」の第5章をカウントするなら8・9・10章も東アジア史なので,東アジア史は計4章分あってかなり扱いが良い。その中で第8章「近代朝鮮思想と日本」は珍しい内容で非常に面白かったのだが,8章冒頭でいきなり「世界哲学に対して朝鮮哲学はいかなるインパクトを与えたのか。残念ながらこれまでのところは,インパクトはほとんど無かったといってよいだろう。」という強烈な自虐から入り,内容の7割は政治思想史であったので,本巻の収録内容としては疑問が残る。一方,第9章「明時代の中国哲学」はイエズス会宣教師が士大夫に与えた思想的なインパクトが論じられ,第10章「朱子学と反朱子学」は日本の江戸時代の儒学と清朝儒学(ほぼ考証学)の関連性・交流が語られていて,なるほどこれは世界哲学史にふさわしい。

さて,お気づきの方もおられると思うが,なんと本巻は東洋史に割り当てられた4章が全て東アジア史で占められていて,インドやイスラーム圏の話題が一切無かった。確かに近世のこれらの地域は保守化が進んで,科学革命を起こした西欧との水をあけられていく時期ではあるのだが,それに反旗を翻して「いやいや,近世イスラームにはこんな思想家がいたんだよ」とやるのが本シリーズの真骨頂ではなかったか。3巻に空海を入れた勇気が本巻にはない。





6巻「近代機〃写悗反祐峇蕎靉澄
18世紀を取り扱った巻なので,必然的に話題の中心は啓蒙思想となる。啓蒙思想は理性主義を突き詰めた思想・学問と思われがちだが,理性を突き詰めるというためには必然的に理性と感情の境界を定める必要が出てくる。そうして啓蒙思想家たちの研究活動を振り返ると,思いのほか感情についての研究も分厚いことがわかってくる……というコンセプトを持った巻。しかしながら例によって,コンセプト通りに啓蒙思想家の感情論を追った章(第1・2・6・7章)と,純粋に啓蒙思想を追った章(第3・4章),「啓蒙と宗教」という独自のテーマを立てた第5章というようにやっぱりまとまりがない。とはいえ,コンセプト通りの4つの章は上手くかみ合っていて,道徳は感情に由来するのか理性に由来するのかという啓蒙思想家たちを悩ませた一大テーマがリレー形式で進み,最後にカントの『実践理性批判』に行き着く流れは,他の章同士のかみあわなさと比較すると圧倒的に美しかった。そのカントによる「道徳を司るのは(実践)理性である」とする論証は必ずしも説得力を持たず,バトンは現代思想に受け継がれているという終わりからも,本巻のコンセプトは世界哲学史という大上段に上手く応えたと言えよう。

しかし,例によって東洋史が3章分しかなく,しかもこの8〜10章は大問題を抱えている。まず,第8章は「イスラームの啓蒙思想」という章題の通り扱っている時代が完全に19世紀である。これは6巻が「世界の啓蒙思想」という単純なくくりであるなら問題なかったのだが,本巻は第一に18世紀を扱うことを銘打っていて,イスラームの啓蒙思想をここに置くのはルール違反である上に,この並びだとどうしても進歩史観を意識せざるを得ない。しかも本筋の西洋史のテーマ設定は一ひねり加えた「啓蒙思想と感情論」になっているのに対し,この第8章はイスラーム側の啓蒙思想の受容史に終始しているため,尚更「受容する側」という視点が強調されてしまっている。この章は7巻に置いた上で,受容する側の100年の遅れが中東の思想史にどのような影響を与えたのか,またそれはたとえば東アジアの受容とはどこに共通点と相違点があるのか,という論じ方にしておけば意義深かったと思う。あるいは逆に第9・10章をその東アジアにおける啓蒙思想の受容史とするのも良かっただろう。実際に7巻に近代日本の「文明」概念の受容史をやっているので余計にイスラームだけ6巻に入れた理由がわからない。

第9章・10章は第8章とは逆で,感情論を論じてはいるが啓蒙思想とのつながりが全く無い。8章までとの断絶が深く,6巻の中では宙に浮いてしまっている。加えて,この第9・10章は5巻の第10章と関連性が深く,しかしなぜか相互に言及が無いという不自然な現象も起きている。伊藤仁斎と荻生徂徠,清朝考証学にそれぞれ面白い言及をしているのにもったいないことだ。前置きの説明も重複していたし,これらを同じ巻にすればもう少し別の話題に紙幅が裂けたのではないか。第8章はともかく,第9・10章は内容がすばらしかったので惜しい。


長くなったので7・8巻は別に。  
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2021年01月02日

書評:『世界哲学史』1〜4巻(ちくま新書)

ちくま新書の全8巻の哲学史の解説書。編者は4人だが,著者は章ごとに異なり,1巻あたり10章で構成されているから10人以上の著者が参加している(これにコラムも3〜4つずつ入っていて,これも著者が異なる)。こうした著者が章ごとに異なる書籍にはありがちなことだが,コンセプトや想定読者の理解力における統一感が巻ごとで大きく異なり,それがそのまま巻ごとの読みやすさに直結している印象。「世界哲学史」という大上段なコンセプトに挑み,自らの専門分野の持つ共時性や歴史的意義にアプローチしている著者もいれば,自分の最近の論文そのままで手を加えてないじゃろという著者もいた。著者の責任なのか編者の責任なのかはわからないが,せっかくコンセプトが面白いのにもったいない不統一であると思う。

1巻「古代機|侶辰ら愛知へ」
人類文明が成立してから「枢軸の時代」を通じて,紀元前1世紀頃まで。サブタイトルの通り,そもそも人類文明が哲学を発見したのは枢軸の時代であるので,哲学未満の時代の思想を追う,古代文明の素朴な「魂」についての思想を追うのが主題となっており,その意味で統一はとれている……と言いたいところなのだが,どうにも比較の観点は薄く,やはり各々が専門分野の「魂」概念について滔々と説明している感じで,もう一工夫ほしかった。私自身が「魂」のありか論に興味がないのもあって,1巻が一番苦しかった。その中で本書の最後10章のテーマが『ミリンダ王の問い』におけるギリシア哲学とインド哲学の“かみあわなさ”であったのは救いであった。中世以降ならもうちょっとかみ合っただろう議論のかみあわなさは,まさに古代における世界哲学の顕現だろう。

あとは言うまでもなく,「哲学の始まり」を問うことは「哲学」の定義を問うことそのものである,という定番の問いも含まれていて,第6章で「初期ギリシアの哲学者たちの思想が哲学たりえたのは,神から与えられた知恵を排除して,人間が自らの言葉で探究をした点にある(むしろ他に共通点がない)」と一旦の結論を出している。これはシンプルでよい定義かなと思う。ただし,2巻以降でも神学と哲学の切れ目が論じられているのにこの1巻第6章に立ち戻っていることは少なく,やはり接続が悪い。あるいはこの1巻での定義を無視して思想史をやっている章もあり,『ミリンダ王の問い』以上に本書の執筆者同士がかみ合っていない感も。





2巻「古代供\こε学の成立と展開」
紀元前1世紀から紀元後7世紀頃まで。サブタイトルの意味は第1章で論じられているところからすると,要するに学校という制度の成立と翻訳作業の開始が世界的に見られたことで,哲学が他地域や後世とのつながりをはっきりと持ち始めた,ということらしい。実際には第1章通りの内容を論じているかは,やはり章ごとにかなり濃淡が違い,第2章のギリシアからローマへの伝播,第5章の「古典中国の成立」,第6章の「仏教と儒教の論争」あたりは適合しているのかなと。なお,第5章の執筆者は三国志研究者として著名な渡邊義浩氏で,内容は概ねご本人が参考文献に挙げている自著『漢帝国 −四〇〇年の興亡』(中央公論新社)を先に読んでいるなら,読まなくてもいい感じ。その第5章の次の第6章は「第5章でそう書いてあったけど,実際には仏教が到来して儒学は動揺したよね」という導入から,仏教が既存の儒学には無かった議論を持ち込んでかなり刺激を受けたことを述べているのはちょっと熱い展開だった。

あとは,本ブログの読者に知られていそうなところでは,第7章は「ゾロアスター教とマニ教」で著者は青木健氏。この内容が哲学または哲学史かというと……なんとなく「世界哲学」のためマイナーな思想も入れとこう的に入っているように思われ,この章はあまり前後とのつながりがない。そして東洋史を扱った4〜7以外の章はいずれもキリスト教とギリシア哲学の融合というテーマに沿っていて,「世界哲学」とは言いつつもどうしても西洋史が根幹になってしまうよねというところ。もっとも,3巻以降もこの問題点は本シリーズにつきまとうことになるのだが。





3巻「超越と普遍に向けて」
7〜12世紀を扱う巻。バイト=アル=ヒクマと12世紀ルネサンスが登場するので,学校と翻訳による世界哲学の成立をうたうならこの巻だったのでは……という気はする。実際に第1章でも「中世とは翻訳と註解の時代であった」と書いちゃってるし。ともあれイスラーム教が成立して,前述の現象によって本格的に一神教文明とギリシア哲学の衝突・融合が進む巻で,サブタイトルの通り,中世の神学者たちが神の超越性・普遍性を持て余してなんとか理屈づけようとする悪戦苦闘し,結局はギリシア哲学に大きく依拠する様子が描かれた巻ともいう。聖霊は偉大な発明であったし,フィリオクェ問題が妥協できないポイントになるのも理解できるところ。その中では第7章「ギリシア哲学の伝統と継承」は,中世哲学の基本スタイルが註解書であったことの説明で,中世哲学のスタイルがよくわかって面白かった。「我々は巨人の肩に乗った小人のようなものだ」という警句を産んだのがシャルトルのベルナルドゥスだったことは必然だったように思う。

そのような巻であるので「世界哲学とは結局のところギリシア哲学起源なのでは」という雰囲気は他の巻よりも強く,一神教文明ではない哲学は8・9・10章のみ。8章は「仏教・道教・儒教」という章題の通り,2巻第6章とネタが重複していたし,第9章は5〜13世紀のインド思想史というニッチ極まるテーマで,面白かったけどニッチすぎて紹介で終わった感がある。第10章は空海で,ここも特異性はあったが深みがあったかと言われると,紙幅が足りなかったのかなというところ終わっている。東西の比率はもうちょっと考えた方がよかっただろう。





4巻「中世供仝朕佑粒仞叩
ここまででは一番面白かった巻……にこういうことを言うのは悪いのだが,トマス=アクィナス,トマス=アクィナス,トマス=アクィナスからのウィリアム=オッカムという巻ではあって,まあそれだけ哲学史におけるトマス=アクィナスの重要性が高いのだから仕方がないのだろう。挙げられた人名からもわかる通り,4巻が扱う時代は13世紀(と14世紀前半)のみで,他の巻に比べると著しく狭い。5巻が14〜17世紀であるのに比べると半分以下である。面白かった章を1つ挙げると第7章で,やっと普遍論争がなんとなく理解できた感じ。概念が個体に宿るのが実在論であり,それを否定するのが唯名論であるから,「人間の個体」が議論の中心になるのは素直な展開である。朱子学も鎌倉新仏教も個人の修身や魂の救済を強調した思想ではあった。一応,東西通してサブタイトルのテーマは回収できている。

前述の通りトマス=アクィナスに偏った結果として,インド以東はやはり8・9章に押し込められた。わずかに2章とここまでで最小であり,しかも中国・日本なのでかえって偏りがひどい。第8章の「朱子学」はかなり面白く読めた章で,朱子学の印象がちょっと変わった。朱熹本人は宋学の持つ主知主義が暴走しかねないことを危惧していて,心の外にある根拠が必要と考えて儒学の経書に依拠することを後世に求めた,という視点は興味深い。一方,第9章の鎌倉新仏教は2巻のゾロアスター教や3巻の空海と同じで,世界哲学史を掲げているので日本も入れたという雰囲気が強い。





5巻以降は読み終わったらまた。  
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2020年10月12日

『ホーキーベカコン』全3巻(原案:『春琴抄』,漫画:笹倉綾人)

原案は谷崎潤一郎の『春琴抄』。ただし,よく見ると原作ではなく「原案:『春琴抄』」になっているように,大きくアレンジが入っている。あえて断言してしまうが,これは最高のリメイクである。『春琴抄』と『ホーキーベカコン』はどちらを先に読んでもいい。しかし,被虐嗜好を持つ主人公の佐助はともかく,春琴の描き方がかなり違うので,個人の好き嫌いはあれ,どちらを先に読むかで印象が変わってくると思われる。

そう,最も大きく異なるのがもう一人の主人公,春琴である。『春琴抄』の春琴は20世紀末以降の目線で言ってしまえば割とよくあるタイプの暴力系高飛車お嬢様ツンデレであって,そこに目新しさはない。昭和8年の作品に現代の目線から目新しいも何もなかろうとは思うが,『春琴抄』は加虐趣味・被虐趣味を前近代的な主従関係と重ね合わせ,文字通りの盲目的な愛に昇華させたことに焦点が当たっていて,春琴のキャラクターが作品の焦点というわけではない。その盲目的な愛は谷崎文学らしさがあり,またこれに谷崎の仕掛けた可能な限り句読点を用いないというねっとりした実験的文体も合わさって,『春琴抄』は文学的名作の地位を得たといえる。

しかしながら,それをそのまま漫画にしたのでは面白くない。前述の通り,現代にあっては春琴のキャラは目新しさに欠け,漫画にすれば実験的文体はなくなる。それでも忠実再現しただけでも,「古典的名作の忠実再現」という売り文句でそれなりの評価を得るものにはなっただろう。しかし,『ホーキーベカコン』はそうはしなかった。行った最大のアレンジは春琴の神格化である。『春琴抄』にある「春琴は37歳でも十は若く見えた」という原作の描写をさらに極端に「二十は若く見えた」と変え,つまりロリババアとでも言った方がいいほど年を取らない容姿に変えた。箏曲の腕も原案よりさらに極端な天才に変わり,性格も高飛車というよりは超然としているものに変わった。『春琴抄』の春琴は終盤にデレたが,『ホーキーベカコン』では最後まで折れない……というよりも超然としていてツンデレという尺度で捉えるのが不可能になっている。

同時に佐助の立ち位置も変わっている。『春琴抄』で終盤に春琴が佐助に心を許したのは,こんなにも暴虐を振るっていたのに,その報いとなる大事件が起きた後でも,まだ自分に盲目的に尽くしてくれている佐助を認めたからであった。他方で『ホーキーベカコン』では,佐助は春琴の特殊な理解者であり,春琴の神格化の協力者であり,暴力の共犯者であった。それゆえに春琴は原案よりもかなり早い段階で佐助に強い信頼を置いている。春琴と佐助の関係が明確に原案から離れたと言えるのが『ホーキーベカコン』第8・9話なので,『春琴抄』と『ホーキーベカコン』を読み比べる際に注目してほしい。

こうなると春琴の「盲目」も,持つ意味合いが変わってくる。単なるハンデではなく,超人的な人格を支える要素に読み替えられる。彼女の過剰な暴力性と佐助の献身も一種の聖性を帯びる。春琴の神格化を起点にして『春琴抄』の構成物の多くが読み替えられたもの,それが『ホーキーベカコン』である。そんな神の如き春琴は,佐助という最大の理解者を得て,何を目指したのか。これが『ホーキーベカコン』という物語の駆動力になる。

なお,タイトルの「ホーキーベカコン」という聞き慣れない言葉は,『春琴抄』で最上級の鶯の鳴き声として登場する。私は『ホーキーベカコン』の後に『春琴抄』を読んだのだが,『春琴抄』でこの言葉が出てきたときに,なるほど春琴を神格化したアレンジ作ならこのタイトルしかないとあまりの的確さに身震いした。このホーキーベカコンという鳴き声は『春琴抄』では取るに足らない小さなエピソードに過ぎないのであるが,『ホーキーベカコン』の描く春琴にとってはとてつもなく大きな意味を持つ。

総じて,矮小化して言えば20世紀末以降のオタク文化の粋が,逆に大仰に言えば約100年の日本文化の蓄積が,この改変を生んだと言える。少なくともロリババアという発見と経験がなければ本作は無かっただろう。見事という他ない。

最後に,谷崎は『春琴抄』を書く2年前の昭和6年に『グリーブ家のバーバラ』という短編を翻訳している。貴族の娘バーバラは絶世の美男子エドモンド・ウィローズと恋人の関係であったが,エドモンドは旅先の火事で美貌を失った。バーバラは結局別の男性アップランドタワーズと結婚し,エドモンドは失踪する。その後,エドモンドが旅行前に作っていた自らに似せた彫像がバーバラの元に送られてくる。彫像に執心するバーバラに対し,業を煮やした夫は彫像を破壊し,バーバラは発狂してしまう……というあらすじで,明らかに『春琴抄』の下敷きになっているが,男女が逆になっていたり,美貌が失われた後の反応も異なっている。『グリーブ家のバーバラ』は『ホーキーベカコン』でも言及されるので,両者を読む上であらすじを頭の中に入れておくとより楽しめるだろう。

春琴抄 (新潮文庫)
潤一郎, 谷崎
新潮社
1951-02-02



  
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2020年09月11日

パブリブ出版物・献本物の書評(『ピエ・ノワール列伝』・『亡命ハンガリー人列伝』・『重慶マニア』)

パブリブから献本された書籍の書評その2。『ドイツ植民地研究』は分厚すぎて今読んでいるところ。『旧ドイツ領全史』は受け取ったばかりでまだ開いてないので,この2冊はしばらくお待ち下さい。つながりが深い2冊でもあるし。


・『ピエ・ノワール列伝』
初見時にワインの話かな? と思ったのは内緒だ。ピエ・ノワールはアルジェリアを中心とするマグレブがフランスから独立する前後の時期に,フランスに移住した植民地生まれ・育ちのフランス人の総称である。ピエ・ノワール自体は「黒い靴」の意味だが,それがこの人々を差すようになった経緯は不詳とのこと(本書の冒頭で説明がある)。本書はピエ・ノワールの中から有名人をピックアップして紹介している。代表例を挙げていくと,アルチュセール,ジャック・アタリ,アルベール・カミュ,ジャック・デリダ,イヴ・サン=ローラン,ジュスト・フォンテーヌ,メランション,ジャン・レノなど。ジュスト・フォンテーヌは全くそんなイメージが無かったのでちょっと驚いた。サッカーといえばジダンが入ってないと思った人もいそうだが,彼はベルベル人の家系でかつ2世なのでピエ・ノワールの定義に入っていない。とはいえピエ・ノワールの指す範囲は曖昧かつ複雑なようで,本書でも紙幅をとって説明されている。

本書は286ページあるが一人あたりはおおよそ1〜2ページ,つまり膨大な数の人物が紹介されている。特に芸能人はカバー率が高い。正直に言って私には全く興味がわかない人の紹介も多かったが,逆に言えばそれだけ広くピエ・ノワールがフランス社会に入り込んで活躍していると言えるだろう。その意味で,欲を言えばもうちょっと人数を絞って一人一人を深く紹介してもらえると,ピエ・ノワール初心者にはありがたかったかも。人物紹介以外だと本書はコラムが充実していて,本書を読むような人なら誰でも気になる「アルジェリア(独立)戦争」「フランスの核実験」「ピエ・ノワールの投票行動」等は面白かった。ド・ゴールに裏切られたという”記憶”から国民戦線への投票する人が多いとは,まさに歴史が現代政治を動かしている。






・『亡命ハンガリー人列伝』
こちらはハンガリー人の亡命者を紹介したもの。ピエ・ノワールと違って亡命者を輩出してきた歴史が長いため,18世紀のラーコーツィ・フェレンツ2世に始まり,1956年ハンガリー反ソ暴動による亡命者まで続く。ただし,本書では「なんらかの事情で国外に出ることを余儀なくされた者,または自発的意志で外国に移住した者」を列伝としてまとめているので,厳密に言えば亡命者以外の収録も多い。亡命の波は大きく五度あり,1848年革命・19世紀末の経済的移民・一次大戦敗戦後の混乱・戦間期(主にユダヤ系)・1956年である。本書はこれに沿って紹介が進む。

これもざっと有名人を挙げていくとコッシュート,ヘルツル・テオドール,クン・ベーラ,ホルティ,カール・ポランニー,カール・マンハイム,バルトーク,ロバート・キャパ,フォン・ノイマン,プシュカーシュ(マジック・マジャール),ジョージ・ソロス,ピーター・フランクルといった面々。時代が広く,亡命・移住しているという事情からかさすがに有名人が多く,業績をあまり把握していなくとも名前くらいは聞いたことがある,という人々が多いのではないか。ただし本書もやはり人物一人に長くても6ページ,短いと1ページで,人物紹介としてはやや短い印象があった。カール・ポランニーやプシュカーシュが4ページというのはちょっと寂しく,やはり人物数を絞ってもよかったのではないかとはちょっと思った。とはいえ,これだけボリューミーであるので,亡命者の列伝から自然と近現代ハンガリー史を追うことができる構成となっており,これまたこれだけ多くの著名人が国外に出ていかざるをえなかった歴史をよくよく噛みしめることができよう。





・『重慶マニア』
重い本2冊からいきなり軽めの本に飛ぶのだが(とはいえ本書もネタが軽いだけで219ページもある),中国は重慶市に絞った,非常にマニアックな紹介本である。『ウクライナファンブック』等と同様に地理・観光・料理・文化・歴史など様々な観点から重慶を紹介していくのだが,これまでのパブリブの本とは異なって,圧倒的に観光に重点が置かれている。これは筆者が学者ではないという属性の違いによるところが大きいと思われるが,重慶という都市ピンポイントであって広がりのある国家ではないだけに,この方針は当たっている。というか,とことん無駄にマニアックを突き詰めるのはパブリブの出版方針に一番マッチしているかもしれない。

やはり目を引くのは重慶という都市の広大さ,激しい高低差,異様に生えている高層ビル群が生んだ奇景の数々であり,フルカラーで書籍の冒頭でふんだんに紹介されている。あとはやはり四川料理で,紹介される数々の火鍋に,重慶に行ったらスイーツだけ食って過ごす覚悟を決めた(私は唐辛子をこの世から滅ぼしたいくらい辛いものが食べられない)。このページ赤すぎないですかね……

重慶市といえば一つの市としては異様に広く,北海道よりも広い。三国志で有名な白帝城も重慶市に含まれる。その他に歴史ネタといえば,日中戦争期の中華民国首都であったり,改革開放政策前の重工業都市であったりとやはり近現代史の話が多い。本書では「民国時代の史跡は,国共内戦の影響で大体廃墟になっている」とあったが,写真で紹介されているものを見る限りむしろよく残っている印象を受けた。わずか8年間の首都時代に使われていたソ連大使館の建物が別の施設に転用されて残っているのはなかなか大したものだ。日本とのつながりでは,重慶爆撃の他に,私も知らなかったのだが租界(それも列強唯一の)があったらしい。まあ,日中戦争開戦で閉鎖になり,史跡は現在立ち入り禁止らしいのだが。本書は最後に重慶渡航のためのアドバイスがまとめられているのだが,まさか出版直後に世界がこんなことになろうとは,全く予想だにしないところであった。


  
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2020年09月10日

パブリブ出版物・献本物の書評(『第二帝国』・『タタールスタンファンブック』・『ウクライナ・ファンブック』)

パブリブから歴史系・地域紹介系の書籍が出版されると献本が来るのだが,長らく積ん読にしてしまっていた。さすがに不義理だなと思って重い腰を上げ,巣ごもり期間にまとめて読んだので,紹介しておく。まず以下の3冊。


・『第二帝国』(上・下)
タイトルの通り,ドイツ帝国のあらゆる側面を著述した本。政治・経済だけではなく食生活やスポーツ・衣服にも切り込んでいくのはいかにも伸井太一著・パブリブの出版物という感じ。ニベアが生まれたのも,アスピリンが生まれてバイエル製薬が躍進したのも,黄禍論がはやる一方で柔道が入ったのも第二帝国の時代である。アフリカ植民地もちらっと触れられているが,この2年後にそれ単体の書籍が出ることになろうとは誰も考えていなかったのであった。

個人的な話をすると,下巻の少なくない紙幅が記念碑に割かれているのが嬉しかった。ドイツ帝国は記念碑の帝国でやたらめったら記念碑・記念堂を建てている。それというのも無理やり武力統一したので国民意識を醸成していく必要があり,何かに付けて記念碑が建てられるようになった。ドイツ美術とナショナリズムの関連性は学生時代によく読んでいたところなので,いろいろと思い出しながら読んでいた(なお,純美術史的に言えば記念碑の大半は国家事業で様々な思惑が絡むがゆえに平凡になりやすい,というのが一般的な評価)。本書内ではドイツ帝国と後の第三帝国や現在のドイツとのつながりについて触れられているが,下巻最後のページがドイツ帝国におけるハーケンクロイツの扱いとなっているのはいかにも収まりが良い。






・『タタールスタンファンブック』
ロシア連邦内にあるタタールスタン共和国をクローズアップし,これまたありとあらゆる観点を取り上げて紹介している本。「それどこだよ」という人も多かろうと思うが,そういう人でもわかるような紹介から入って,地理・観光・言語・歴史・文化・社会・生活と進んでいく。受験世界史をやった人なら,イヴァン4世によって滅ぼされたカザン=ハン国のあったところ,と言えば意外とわかるかもしれない。あとは日本とのつながりで言えば,代々木ジャーミーの前身を建てた人物がタタール人だったりする。

私自身全然知らない場所だったので,目新しい情報が多かった。極私的に言えばまたしても美術の話になるが,シーシキンの出身地でシーシキン博物館もあるというのがちょっと驚いた。タタールスタンの主要な言語といえば当然タタール語……と言いたいところだが,実際にはやはりロシア語にかなり押されていて,「当局にタタール語の間違いを指摘したら賞金」という制度があるほど,というのを読んで思わず笑ってしまった。少数言語の苦悩が忍ばれる。なお,タタール語オリンピックというものも開催されていて,本書の著者たちも優勝している。大統領は二言語話者(ロシア語とタタール語)という条件があるのもユニークで,他に言語能力が国家元首や行政府の長の条件になっている国ってあるのだろうかと気になったりした。

タタールスタン共和国はロシア連邦内ではかなり強い自治権を有している国ではあるが,プーチン強権体制にはかなり苦労している様子で,またやはりタタール人とロシア人の間に亀裂もあるようで,それらをオブラートに包んで解説している現代政治の章もなかなかおもしろい。あんな立地でよくがんばってるなと思ったら,石油がわんさか出ていてロシア経済を支えていた。なるほど。






・『ウクライナ・ファンブック』
タタールスタンの次はウクライナである。こちらの方が国としては随分メジャーであるが,じゃあロシアとの違いが言えますか? と言われると難しい。本書もつくりは同じで,地理・観光・生活・料理・文化・言語・宗教・歴史・政治・経済と様々な観点からウクライナに切り込んでいく。地理・観光の章がかなり凝っていて,キーウ(キエフ)やリヴィウ・オデーサ(オデッサ)・ハルキウ(ハリコフ)以外の地域が詳しく紹介されているのが大変に良かった。オデッサと聞いても3機のドムしか頭に浮かんでこない(私のような)人でもしっかり学べるので安心してほしい。

ウクライナ縁の日本人といえばやはり大鵬で,本書でもきっちり触れられていた。他にもスポーツ選手と言えばシェウチェンコ,セルヒー・ブブカあたりは懐かしいと思う人が多かろう。料理もボルシチ,キエフ風カツレツことチキン・キーウは有名で,歴史もコサックに負うところは多い(ちなみに海燕のキエフ風カツレツはめちゃくちゃ美味い)。ウクライナ語もイメージと違ってロシア語とかなり違う。また,ロシア語話者であっても2014年以降のロシアの侵略が全く支持されていないという世論調査の結果もあり,言語・文化と国家の相違の事例として興味深い。そう説明されていくとロシアとの違いがわかってきて,疑問もほぐれてくる。

歴史といえば,本書の帯にもあるように「う,暗いな」と思わざるをえないものがウクライナにはあるが,それもしっかりと説明されている。ウクライナの民族性として被害者意識が強すぎて鼻につくとか言われたりもするが,まあこんだけボコボコにされ続ければそうもなるよな,と。そうそう,あとがきに「編集の濱崎さんから『ウクライナ,明るいな』という書名を提案されて議論が紛糾した」とあって笑ってしまった。私としても大恩ある濱崎さんではあるが,私も「明るいな! う,暗いな……」は帯に回して正解だったと思います。


  
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2020年05月17日

『だもんで豊橋が好きって言っとるじゃん!』1巻の細かい感想




他県から豊橋に引っ越し・転校してきた女子高生の主人公と,異常なまでに豊橋と東三河を愛している高校の先輩たちを中心とした日常ものである。三刷まで増刷され,AmazonやTwitterで感想を探しても地元民に大好評,誤りの指摘等を全く見ない。コロナ禍のせいで本書が出版されてからまだ一度も帰省していないのだが,駅前の精文館でめちゃくちゃ押されていたらしい。その様子は見たかった。


さて,本書を元豊橋市民が「あるあるwwwwww」と言いながら読んだので,以下に感想をネタの逐次的に書いておく。本書を手元に置いて参照し,一緒に「あるある」しながら読んでくれてもいいし,この感想を読んで購入の判断をしてくれてもかまわない。このブログを読んだ東三河民は,買って読んだなら自分のブログやTwitterで私の拾いきれていないネタを拾うことをお願いしたい。

以下,本文からの引用は青字。
たとえば,

〔1話〕
>「ら? らだけで確認言葉になるの?」
三河弁の鉄板ネタその1。なるんだな,これが。ただまあ方言とはそういうものであって,関西弁の「ええやん」が異様なまでに多義語になるのと同じ現象ではある。三河弁だと,元は語尾に「ら」「だら」をつけるのだが,しばしば手前の文が全て省略されて「だら?」「だらー」だけで返事がなされる。ここからさらに「だ」が欠落すると「ら」になるが,さすがに「だら」くらいは言う人の多いと思うw。東三河の女子高生は1分に5回は「だらー」と言っている説,割と信憑性が高い。


こんな感じで。

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2020年02月01日

『物語 オーストリアの歴史』のまずい点について簡潔に




山之内克子先生は『ハプスブルクの文化革命』が大変な名著で,『物語 オーストリアの歴史』も面白く読んだ。ドイツの美術史をやっていた人間としては,アンゲリカ・カウフマンに触れてくれたのは,本書がオーストリア各州の地方史の集成であることを考えると当然であるとはいえ,大変に嬉しかった。

・SNSの時代に本を書くということ・・・新書「ヒトラーの時代」に思う(yoshiko Yamanouchi|note)
→ その上で言うと,この説明はちょっと受け入れがたい。そのTwitter上で指摘されていたように,「一次史料との兼ね合い等の事情から,本書では「オスマン・トルコ」で統一する」と冒頭に注意書きを入れておけば解決した話であり,そうしなかった以上は著者・編集者側の落ち度であろう。どちらかというと,そうした注意は編集者が払うべきであるので編集者の過失の方が大きい。なので,このnoteで「校閲のレベルが高かった」と言われても,「オスマン・トルコには注釈が必要ないですか?」という指摘を入れられなかったという推測が成り立つために説得力が薄い。あるいは校閲からそういう指摘があっても先生ご自身が無視したかいずれかになるのだから,その場合は余計にまずい。

……というのが実はちゃんと読了する前までの感想で,本書はそれ以外にも用語の使い方等でまずい点が見られ,このnoteの記事の言い分はかなり苦しいと思う。オスマン・トルコ以外にも言い方が古いor勘違いしていると思われる箇所が散見される。用語の不統一もある。むしろオスマン・トルコ以外にあまり指摘されていないのが意外なくらい。自分では確証が無いものと,単なる校正ミスも含めると,自分が気づいたのは以下の通り。

p.19,73他 アウスブルク → アウスブルク
p.36 ヤン・ソビエキ → ヤン・ソビエ
p.72-73 マジャールとマジャールが混在。
p.72 遊牧民”族”という言い方はとがめるほどじゃないがやや気になる
p.79 サポヤイ・ヤノーシュ → サポヤイ・ヤーノシュ
   ※ 私はハンガリー語に詳しくないので,ヤノーシュでも問題ない可能性もある。発音記号やforvoで聞いた限りで,少なくとも現代ハンガリー語ではヤーノシュ。
p.152 オットカール・プシェミスル
   → このままでもいいが,オットカールがドイツ語なのにプシェミスルがチェコ語なのはやや違和感ある。オットカールはオタカルの方がいいのでは。
p.185 皇太子フランツ・フェルディナント → 帝位継承者フランツ・フェルディナント
   ※ ドイツ語で皇太子(Kronprinz)と帝位継承者(Thronfolger)は別の単語であるから,専門家はきっちり訳し分ける傾向が強いように思う。私自身はさしてこだわりが無いが。


アウクスブルク等は先生ご自身が指摘されて直さないということが絶対に無いものであるから,校閲から漏れてしまったのだろう。それだけに,中公新書の校閲は本当に機能していたの? という疑念はどうしてもわいてしまう。そして一点だけ,こうした用語の古さが認識に影響を与えていると思われる点がある。p.408。

>「トルコ軍がふたたびウィーン盆地に宿営を貼るのは,それからおよそ一世紀半後,1683年になってからのことだった。このとき,第19代皇帝メフメト4世の治世下,すでにオスマントルコ帝国は斜陽の時代を迎えようとしていた。国勢回復の最後のチャンスを宿敵ハプスブルク家との戦争に見出そうとした大宰相カラ・ムスタファは,同年3月,15万人の兵を擁してアドリアノープルから西進を開始したのだった」

解説するまでもない気もするが念のため,「斜陽の時代を迎えつつあった」のは当時の帝国の内実やその後の展開を知っている現代人の認識としてまだ誤りとは言い切れないが,当時の人間の認識として第二次ウィーン包囲が国勢回復の最後のチャンスだったというのは誤りと言っていいだろう。なにせ第二次ウィーン包囲の直前がオスマン帝国の最大領域で,まだ押せ押せで各地に侵攻していた時期なのである。詳しくは同じく中公新書から出ている『オスマン帝国』(小笠原弘幸,2018年)を参照のこと。





内容が大変に面白いだけにこうした細々とした指摘をしなければならないのは残念である(そう,これらの指摘のほとんどは細々としている!)。言うまでもないが人間に校正ミスはつきもので,どんなに注意しても大人数をかけてもなくならないものはなくならない。私も単著を出しているのでそれは重々知っているから,よほどのもの以外は気にしないようにしている。だからこそ,そういうのを”多くの人に気にさせてしまう”,着火点としての「オスマン・トルコ」の表記は対処すべきものであった。改めてそう思ったのでこの記事を書いた次第である。  
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2018年08月06日

『りゅうおうのおしごと!』1〜5巻

私は将棋は駒の動かし方しか知らないレベルであり(よく意外と言われる),結局ほとんどそこから向上しないまま読み続けているので,完璧には楽しめていないと思われる。ついでに言うと囲碁もわからないしチェスもわからない。そうしたパワーは幼少期から大体全部麻雀といただきストリートに吸い込まれてしまったので,今になって若干後悔している。

それでも本作が面白いのはきらめく才能のぶつかり合いとして極上の表現であるからだ。本作2巻に「才能とは輝きだ。その輝きが強ければ強いほど,激しければ激しいほど,人は引きつけられる。」とある通りで,本作の面白さは究極のところこのフレーズに尽きる。磨かれて残った玉同士がぶつかって,真の玉として残るのはいずれか。残れず「石」になってしまった側はどう振る舞うか。本作はそのどちらも面白い。そしてまた,本作の主要人物は勝負師として皆優しすぎるのが良い。象徴的なエピソードが3巻の,あいが桂香さん相手に中盤まで全力を出せなかったシーンと,4巻の勝っているはずの桂香さんが号泣しているシーン。特に後者は強烈で,5巻の竜王防衛戦4戦目を除けばこれがベストバウトかもしれない。桂香さんが名勝負製造機と言われる所以である。

とはいえやはり5巻までの本作の白眉は言わずもがなその竜王防衛戦4戦目で,こういう作品で一番熱い勝負を扱うなら,その競技の本質に迫るものを使うのが最善手になるし,その王道を丁寧に仕上げきった。意外にも私が一番胸打たれたのはゴッドコルドレンさんがニコ生の解説でめちゃくちゃなエールを叫んでいるところ。なんででしょうね。前後の天衣も鵠さんも清滝師匠も姉弟子も良いシーンであるが,一番は横に並ぶライバルというのは,少年漫画を読んで育ってきたからか。


さて,言うまでもなくアニメ組です。アニメの出来については,アニメから入った身としてはあまりdisりたくないところで,加えて原作で言うと2巻まではそこまで削った部分が大きくないと思う(当然ながら個人の感想であって人によっては耐え難い部分が削られたかもしれないが)。一方でその後,3・4巻についてはちょっとスリムになりすぎた感がぬぐえず。アニメはどうしたって12話か13話にまとめる必要があるし,1話ごとに区切る必要もあるから計算して削り落としているのは理解している。加えて1クールのアニメをやるなら終わりは5巻の竜王防衛戦までやりきるしかないのも理解しているが,削ぎ落とされたもののもったいなさを考えると承服しかねるかな。最大の犠牲者はたまよんか山刀伐さんか。

りゅうおうのおしごと! (GA文庫)
白鳥 士郎
SBクリエイティブ
2015-09-12


  
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2017年08月07日

書評:『文学としてのドラゴンクエスト』さやわか著,コア新書

2巻の作業の完全終了からの『ドラクエ11』発売で,(本業と)ドラクエしかやらない日々を送った結果,ブログの更新を約10日止めてしまった。ぼちぼち再開させようと思うので,とりあえずドラクエの話題から行こう。

『文学としてのドラゴンクエスト』は,堀井雄二の作家性,及びドラクエシリーズに通底する文学性について掘り下げることを試みた本である。また,ドラゴンクエストが「日本では大ヒットするが,海外では大してヒットしていない」という点を指摘し,堀井雄二の作家性は日本人の琴線に特化して触れるものなのではないか,という論点を提示し,サブテーマとして論を進めている。なお,実際にはドラゴンクエストの物語面の制作にはシリーズが新しくなればなるほど膨大な人数がかかわっていくことになるが,本書では堀井雄二に代表させている。現在の11に至るまで総監督は堀井雄二で一貫している点,そして映画であっても語られるのは結局のところ監督の作家性であることを鑑みると,ゲームの場合も総監督者の名前で代表させても問題ないだろうという点がその理由である。合理的な理由なので,問題ないと思う。

結論から言えば,おもしろい点が半分,論の組み立てや結論が強引で疑問点が多いというのが半分という本であると思う。

本題のうち,堀井雄二の作家性の分析については,ドラクエを作る前の堀井雄二の経歴について触れた後(学生時代や漫画家時代,当然『ラブマッチテニス』や『ポートピア殺人事件』にも触れている),「意外にも村上春樹と経歴がよく似ている」として,村上春樹との共通点を見出す方向で論を進めている。これについては私が村上春樹を大して読んでいないというのを差し引いても,単純に堀井雄二と村上春樹の経歴が似ているという点は新鮮な視点だったものの,論自体が強引に感じた。この点は村上春樹とドラクエを両方知っている人,あるいは村上春樹の大ファンだけどドラクエは全くプレイしていない人の意見が気になるところ。一応事実関係だけ本書から抜書きしておくと,
・二人とも兵庫県の育ち。ただし堀井は淡路島,村上は西宮・芦屋・神戸。
・二人とも早稲田大学第一文学部出身,堀井は1972年入学で78年卒業,村上は1968年入学,75年卒業。
・二人とも学生運動には冷笑的な態度を取っており,また学生時代から様々な活動を始めている。ただし,直接の接点はない。
・『ドラクエ1』の発売が1986年,『ノルウェイの森』発売が1987年。

次に堀井が『指輪物語』といった文学作品ではなく,『ウルティマ』と『ウィザードリィ』といった海外RPGに範を取ってドラクエを作り始めたという,古参ファンには知られている話にも触れていた。だからドラクエは地中海や北欧の神話や『指輪物語』から“切断”されている。西洋人からすると確かに違和感はあろう。ベースは西洋のハイファンタジーであるのに,接ぎ木されたものは全く別の文脈から形成された,堀井の頭の中にあるストーリーである。この堀井のストーリーは「超人的な能力を持った勇者を主人公として,『全く違った自分』をプレイヤーに追体験させる」ものである。要するに「なりきり」の文化である。

ここまでは私も賛同するのだが,次の本書の主張は疑問符がつく。「なりきり」の文化は海外のRPGの文脈には無いため,海外では受け入れられていない,海外のRPGは多くは主人公が平凡でプレイヤーの視点の役割しか果たしていない,というのである。そんなに海外に「なりきり」の文化って無いか? RPGに限ればそうなのかもしれないが,残念ながら私に海外のRPGの知識はない。しかし,国内のRPGで比較するだけでも,FFの主人公に比べるとドラクエシリーズの主人公はむしろ至って無色透明な視点に過ぎない。「なりきり」の文化の理屈で言えば,本書の理屈で言えばFFの方が受けないはずだが,FFは普通に海外で受けている。FFシリーズのプレイヤーは主人公視点じゃなくて神の視点だから,という反論はありうるが,他はともかく7・8・10あたりは完全に「なりきり」では。10に至ってはそもそも「これは俺(お前)の物語だ」というフレーズがメインテーマである。

だから,ドラクエが海外で受けないのをストーリー面から考察するのであれば,要点は主人公ではなくストーリーそのものになるのではないかと思う。問題を主人公の性格に矮小化したのは残念である。

物語自体におけるドラクエらしさとは何か。実はこの後の本書が作品ごとに批評しているところで出てくる「不意に現れる暗い文学性」という点が強いのではないかと思う。ドラクエ3で最後に勇者一行がアレフガルドから帰れなくなるのは「セリフを考えるのが面倒だったから」と堀井が語っているが,真相がどうであれ,あれなんかは非常にドラクエらしさ漂うエンディングである。さすがに暗すぎるだろってくらい暗かったのがドラクエ7で,レブレサックなんかはある種の真骨頂だと思う(やり過ぎで嫌いな人も多いエピソードだけど)。この暗い文学性は堀井が学生時代から持っていたもので,彼が当時『ガロ』を愛読していたエピソードを引いているところは,本書の秀逸な点である。(ただしそれが海外で受けない理由なのかどうかは私には判断がつかないので,ここで論じるのは差し控えたい。そもそもドラクエが海外で受けない理由,ストーリー以外にもあるのでは。)

その他,この個別作品批評の部分は前半に比べると面白い指摘が見られる。結局のところ物語性を強くするには,無色透明な主人公は邪魔になる(主人公にも強い個性が必要になる)というジレンマが生じた。しかしドラクエはむしろ主人公の無個性さを強化する方向に動き,5以降10に至るまでどんどん主人公が凡人化していった点。それでも「主人公=プレイヤーによる物語の追体験」という構図を維持するために,戦闘中の主人公以外の行動をAIにしてみたり(4),主人公に人生の一大決断をさせてみたり(5),本当の自分を取り戻させてみたり(6)という工夫がなされていった点などは,なるほど確かに。

最後は9・10のオンライン化への挑戦について触れた後,(本書が発刊した2016年11月当時では未発売の)11でも文学的な意味での「ドラクエらしさ」が維持された作品が出てくるのではないか,と延べている。つまりは,「主人公=プレイヤーというなりきり」という核や,無個性にして主人公=プレイヤーを意識させるための物語上の工夫,ふと見え隠れする暗い文学性といった要素である。さて,その答え合わせは……ということは,私がドラクエ11をクリアしてから,また別に語ろうと思う。



  
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2016年10月11日

『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!』入不二基義著,ちくま新書

本書は大学入試に使われた哲学の現代文を使って,哲学的な考察を行うというコンセプトの本である。そこには様々な「誤読」が介在する。すなわち,出題者自身が本文を読解できておらず,したがって全く頓珍漢な設問になっているもの(第1章)。出題自体は適切であったが,内容が高度すぎて予備校の解答速報や参考書でさえ適切な読みができていないもの(第2章)。本書の筆者である入不二氏自身がある種の誤読をしてしまい,文章の意味を今ひとつとれなかったもの(第3章)。そして本文自体に矛盾を抱えており,結果的に複数の読みが成立しうるもの(第4章)。この4章で構成されており,「入試の現代文には様々な誤読が介在されてしまう余地がある」からこその『哲学の誤読』という書名になっている。

私が本書を読もうと思った理由はほとんどの読者にはお察しの通り,本書のコンセプトの一部がまんま拙著の現代文版であり,事実,受験現代文をメッタ斬りにした解説であった。拙著と目的・方向性が完全に合致しているのは第1章だけで,これは私の分類でいうところの「悪問」ということになろう。起きている誤読の悲惨さとしてはやはりこの第1章が極まっていて,出題者が誤読して作題した時の“転倒”の大変さは,社会科の比ではないのかもしれないと思った。なにせ入不二氏が「私の答案は,きっと0点だろう」とまで書いている。第2章は私の分類で言うところの「難問」ではあるが,そこは現代文である。社会科と異なり「受験範囲」というものが存在していないため,これだけ超越的難易度であっても「範囲外」にはならないせいか,入不二氏はその鋭い舌鋒を誤った解説をしている予備校や参考書だけに向けている。しかし,私の目線から言えばこれを受験生に解答させるほうが無理筋であろうと思う。

第3章は誤読しているのが著者本人なだけあって問題自体は成立しているものの,引用元が早稲田大の現代文であり,本格的な論述問題を含んでいないことから,入不二氏は「本文が極めて興味深い考察を展開してくれているのに対して,設問のほうはそれに釣り合っていないと思われる。」とあり,これはこれで辛辣なコメントである。その意味で第4章はここまでの3つとやや毛色が異なり,本文の筆者自身がある種の誤解に基いて執筆したため,文章に複数の読みが成立しうる。しかし,奇跡的に設問は複数の読みが生じる部分を避けているので,出題ミスには当たっていないという事態が起きている。しかも設問自体は良問という,これはこれでおもしろい転倒であろう。作題者が意図して避けたのか,本当に奇跡が起きたのかは不明であるが。

全体として批判は実にまっとうで読み応えがあり,おもしろい。本書は名著である。出版が2007年であるので取り上げられている入試問題も2007年が最新というのが玉に瑕で,是非とも2016年版を読みたいところだ。

なお,本書の著者の入不二氏は,駿台の講師をしていたことがあり(追記:氏の担当は英語らしい),そこから大学教員に転職した人物であるから,受験的な現代文にも,大学教授の立場にも,もちろん哲学自体にも十分に知悉しており,どこかに偏った立場からの解説にはなっていないのが本書の美点である。この点,拙著はやはり受験生と予備校の立場から書いた雰囲気が強いなと思わせられた。また,本書で扱われている哲学は主に時間論と実在論であるが,これは著者の専門分野がその辺りだからである。なので,欲を言えば,別の分野の哲学だとか,美学・芸術学,文学あたりの文章も扱ってほしかったとは思うが,これは本当に過剰な要求であるだろう。


以下は余談として。本書で取り上げられた入試問題は,第1章のとんでもない悪問が北大,第2章の「超難問」が東大,第3章のつまらないながらも成立した問題が早稲田大,第4章の良問が名古屋大である。そう,世界史の悪問・難問ラインナップからは考えられない“転倒”がここでも起きている。やはり注目したいのは東大で,補足と私の思い出話も兼ねて少々語らせて欲しい。厳密に言えば,ここで取り上げられているのは東大の第4問,文系だけが解く大問で,昔から現在まで「超難問が多い」とされている部分である。私が受験生だった時にも過去問を解いて「こんなの絶対解けない」と早々に諦めた部分であり,本試験でも適当に字数は埋めたものの,開示点数を見るにおそらくほとんど0点だったのではないかと思う。

本書に取り上げられた2002年の第4問も,高校生当時に赤本で解いて「解説読んでも何言っているのかさっぱりわからねぇ!」と言って投げ捨てた問題だったと思うが,それから十数年も経った今になってその『赤本』の偉そうな解説が全く見当違いで間違っていたことが発覚し,湧き上がってきたものは下がる溜飲が半分・十数年越しの怒りが半分で,この複雑な内部の葛藤を一体どう処理すればいいのか,悩んでいる。と同時に,世界史や日本史では東大がきっちりとした良問を出すのは「範囲」を律儀に守っているからなのだなということの再確認にはなった。実は東大は,今回のような文系現代文や理系数学ではしばしば予備校に怒られるような(まさに早稲田大や一橋大の社会科のような)超難問を出す,というのは本書で指摘されるまでもなく有名な話だったりする。にもかかわらず問題化しないのは,現代文や数学には厳密な「範囲」が存在していないからである。なお,東大が公表している受験生のデータを分析するに,にもかかわらず数学は満点を取っている受験生が珍しくないものの,国語は最高点が8割付近(比較的満点を取りやすい古文・漢文が配点の半分を占める“国語”のくくりで,である!)にしかならない年がある,という違いは特筆に値するだろう。その意味で,理系数学はほっといてもよい。でも,東大はいい加減,あの無駄な第4問をやめよう(提案)。



  
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2016年09月23日

書評:『ヘンタイ美術館』山田五郎,ダイヤモンド社

山田五郎が12人の画家を取り上げて,それぞれの画家のエピソードをざっくばらんに語っている本である。タイトルの『ヘンタイ美術館』は,最初は山田五郎自身が反対したそうで,実際にそれぞれの画家の変態性には(一部を除いて)焦点が当たっていない。12人の画家は3人ずつに分けられており,以下の通り。

・ルネサンス:ダ=ヴィンチ・ミケランジェロ・ラファエロ
・バロック:カラヴァッジョ・ルーベンス・レンブラント
・古典,ロマン主義,自然主義:アングル・ドラクロワ・クールベ
・印象派:マネ・モネ・ドガ

語られているエピソードは大体有名なものばかりで,全部知っているという人も多かろうと思う。「ヘンタイ」という観点から見ても,ミケランジェロの筋肉フェチ,カラヴァッジョの人格破綻,ルーベンスのデブ専,クールベの「世界の起源」,マネにまつわる昼ドラとか,王道のエピソードである。ただし,山田五郎のまとめ方は上手く,その点で知っていても読み応えはあった。ゆえに,全く知らない状態でも,もちろんおもしろいと思う。逆にラファエロは「別に変態じゃない」で本書で言い切られている通りで,数合わせ感は否めない。一方で,本書の特徴は各画家の変態エピソード紹介だけでなく,意外とまっとうな西洋美術史の歴史をたどった解説になっているというのがある。ラファエロは,そちらのまっとうな意味合いで数えられていると言っても過言ではない。たとえば“ラファエロ前派”はなぜ“ラファエロ”なのか(ダ=ヴィンチでもミケランジェロでもないのか)という点にもきっちり触れられているし,カラヴァッジョのテネブリズムはなぜ偉大なのか,彼がなぜバロックの開祖と呼ばれているのかにも説明がなされている。これは変な「すぐわかる! 西洋美術史」的な概説書よりもよほどわかりやすかろう。

しかし,本書の魅力はやはり山田五郎の語る「ヘンタイ」へのこだわりである。本書のタイトルに「ヘンタイ」を冠するのは,山田五郎は当初反対だったそうだ。実際,ラファエロやレンブラントは別に変態でもなんでもない。しかし,山田五郎に言わせると本書に登場する唯一の真の変態はドガだけだそうで,だからこそタイトルに「ヘンタイ」とつけるのは反対だったそうなのである。最後まで読むとその理由は非常に納得の行くものが用意されており,逆説的に「変態とは一体何なのか」というある種哲学めいた論題に真正面から解答を出している。過去の普遍と変態の狭間にいた画家たちを並べておいて,最後にドガを輝かせるという構成自体が,この解答の論証になっており,その点大変見事で,結果的に「ヘンタイ美術館」というタイトルがしっくり来る。ある意味,本書ほどドガが輝いている美術史概説書は無い。ドガがダ=ヴィンチやモネを差し置いて画家の頂点に立つ美術史概説書は前代未聞ではなかろうか。


ヘンタイ美術館
山田 五郎
ダイヤモンド社
2015-11-28




ところで,私が本書を知ったのはこのアニラジの山田五郎登場回,本人による宣伝である。この回の中でドガの話をしているが,まだ「ドガはなぜ真の変態なのか」の話の核心はしていない。このアニラジ自体とてもおもしろいので是非。というか,これはアニラジじゃないです。アニメの話してるの,6回に1回くらいじゃないか。


  
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2016年06月24日

書評:『ルワンダ中央銀行総裁日記』服部正也著,中公新書

本書はインターネットで話題となり,再販された。私もご多分に漏れず,このTogetterがきっかけだ。

・「まるで異世界召喚」「内政チートや」…名著「ルワンダ中央銀行総裁日記」は「ライトノベル的に面白い」という切り口に反響(Togetter)

ここでの紹介はリアル世界で本当に起きてしまった内政チート,という雰囲気だ。確かに,第二次世界大戦後の主権国家というものを急に“押し付けられ”,知識も技術も経済力もないが対応していかなくてはいけないアフリカ内陸の小国という究極の状況である。主人公が異世界に飛ばされたのではなく,異世界の側が現代世界に接続してしまったという方が近い。そしてまた,服部正也氏が極めて内政チートの主人公にふさわしい人物であった。内政チート物の(とりわけ異世界物)で指摘される主人公の不自然さをことごとく否定できてしまう。

・ぽっと出の主人公(現代人)がいきなり内政を自由にできる高官に就任できるはずないだろ
→ 日銀を勤めて20年の実績,IMFの推薦で中央銀行総裁に就任。高度経済成長真っ最中の日本の権威はルワンダでも相当効いていた。
・現地の有力者や既得権益層に反対されて改革なんて進むはずがない
→ 服部氏自身が老獪かつ豪腕で,様々な手段で政敵に対抗していく。最終的にはルワンダ秘密警察も行使していたことが本書で語られている。
・現地の事情を知らずに現代の制度や技術を植え付けても上手く行くはずがない
→ 実際にそうした失敗例として他のアフリカ諸国を研究し,さらにルワンダでも慎重に実地調査をしてから改革を実行。

そもそも服部氏は中央銀行総裁として赴任したはずであった。それがなぜチートと呼ばれるほど内政にかかわることになってしまったのか。IMFの指示はあくまで「ルワンダ通貨の安定」であった。しかし,実際に赴任してみると,通貨の安定どころではなかったのである。通貨の安定のためにはどうしてもルワンダの国民経済・国家財政が安定している必要があり,その旨を大統領に告げると「全面的に信頼するから,経済再建計画の立案はお前が全部やれ」と言われた,という経緯である。「大仕事を引き受けてしまったが,不思議と気は軽かった」とは服部氏本人の言である。そして1965年から6年かけて,彼はこの大仕事をゆっくりとこなしていった。


さて,本書は確かに内政チート物として読むこともできる。無い無い尽くしの中,服部氏はルワンダ人の官僚を育成し,農民を啓蒙し,現代的な経済制度とルワンダの実情を着実に接続させ,ルワンダ経済の近代化を成し遂げていく。古代・中世から,近世・近代をすっ飛ばしていきなり現代に接続する直線的な歴史発展の無視っぷりは爽快感がある。しかし,本書を内政チート物として読めるのは4割程度で,読んでみると全く違う読後感の方が強かった。では残りの6割は何なのか。

現実のルワンダと,多くの内政チート物には,前提条件に決定的な違いがある。植民地経験である。ルワンダの経済成長の足を引っ張っていたのは,残存する旧宗主国のベルギーによる植民地主義であった。より具体的に言えば,殿様商売をしているヨーロッパ人経営の商社とそれを保護する制度,ひどく不公正な為替制度,無知なルワンダ人政治家につけこむ怠惰な外国人官僚等である。そしてその背景にあったのは,どうせアフリカ人は永久にヨーロッパから自立できないという根強い偏見であった。というように,服部氏の主要な敵は植民地主義とヨーロッパ人の偏見であって,ルワンダ人の無知よりもこちらの方がよほどやっかいな難敵であった。描写としては,ルワンダ人を啓蒙しているシーンよりも,ベルギー人と戦っているシーンの方が多いのだ。だから,読後感の6割は植民地主義との戦いになる。

服部氏の信念は「経済の安定のためには国民経済の自立が必要で,国民経済が自立するためには民族資本の成長が不可欠である」であった。だからこそルワンダ人農民や商人の資質を時間をかけて確かめ,少しずつ外国人の影響力をそいでいった。終盤,どうせ自立できないと言われ続けていたルワンダ人農民や商人が経済的に自立し始めるのは,なかなかのカタルシスがある。服部氏の改革は,前近代的な国家に現代的な制度を植え付けていくというよりも,ベルギー人に押し付けられた不公正を正していったものという雰囲気の方が強い。なお,具体的にはどういう政策であったのは次の記事で細かくまとめてあり,参考になる。
・服部正也氏の「ビッグ・プッシュ」(「ルワンダ中央銀行総裁日記」より)(himaginaryの日記)


ところで,ルワンダというとどうしても大虐殺については触れざるをえない。1994年に起きた時点で服部氏は存命であり,彼による大虐殺への言及も増補版には付いている。しかし,服部氏は虐殺の約25年前までしかルワンダに赴任していなかったとはいえ,本書は民族問題をほとんど扱っていない。本書だけ読めば,1970年頃にはフツ人とツチ人の対立は無視できる程度にしか存在していなかったかのような印象を受けるが,もちろんそんなことはないのである。少なくともカイバンダ大統領が民族対立の種を育てたのは事実であるが,本書での服部氏の評価は異常なまでに高い。上掲のhimaginaryの日記の記事内にもある通り,これは視点の違いとして非常に興味深い。

さらに言えば,彼が赴任していた当時のカイバンダ政権はフツ系であり,ルワンダ虐殺で虐殺されたのは主にツチ人で,1994年当時の欧米諸国があからさまにツチ人に肩入れしていたという国際情勢もあいまって,この増補部分はあからさまに「ヨーロッパ人にはアフリカ人への偏見が残っていて,フツ人が不当に貶められて報道されている」という決め付けが見られる。服部氏が言うような不当さは確かに存在していたのだろうが(ユーゴ紛争から現在に至るまでの西欧のセルビアへの態度とちょうど重なる気が),この増補は全体としてあまり本質的な指摘ではなかったように思う。

一方で,Togetter内での言及では「もとの中央公論の寄稿の方では大統領のツチ反乱軍に対する差別的な言辞や、親族の不正への関与を匂わせる記述がある」とあり,これがどういう経緯で削られたのかは少々気になる。残っていれば,本書の印象がまた違ったものになっていただろう。




  
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2016年06月17日

書評:『まなざしのレッスン2』三浦篤著,東京大学出版会

本書は大学の学部生向けに書かれた西洋美術史学入門書『まなざしのレッスン』の続編である。1巻は私の知りうる限り最優秀の美術史学入門書である。「西洋美術は一種のパズルである」ことを示し,なぜ絵画を見るためには知識が必要なのかを説き,絵画に関する基礎知識について概説している。そこに趣味としての美術鑑賞の,学問としての美術史学の入り口が用意されているのである。入門書であるので平易な語り口であり,また読む上で必要な知識を極力減らしてあり,大学入りたての文系大学生や,西洋美術というものに疑問を持つ社会人がいかにもいだきそうな疑問にちょうどよく答える名著であった。その意味では必ずしも美術史学を専攻する予定の学生の入門書というより,入門する気のない人たちにとっての方が好都合な本だったとさえ言えるかもしれない。知識を覚えるための本ではなくて,「なぜ知識を覚える必要があるのか」という説明の方に徹底しているからである。また,ちょうどグローバル・ヒストリーにおける『砂糖の世界史』のような立ち位置と言えば,本ブログの読者には伝わりやすいかもしれない。

とはいえ,1巻には欠点があった。前近代(新古典主義期)までの西洋美術しか扱っていないので,美術史全体の概要を示しているとは言いがたかった点である。しかし,これには事情もある。西洋美術を鑑賞する上で必要な知識,言い換えれば「パズルの解法」は,前近代と近現代でルールが異なる。それもがらっと変わるというよりは徐々に変わっていくのであり,言ってしまえば近現代の美術史はルールがぶっ壊れていく過程そのものである。だから1冊の本で「ルール自体の説明」と「ルールの崩壊過程」を著すのは,入門書として無理があった。『まなざしのレッスン』が美術史学の入門書として完成するには,どうしても2巻が必要だったのである。しかし,待てど暮らせど2巻は出ない。あまりにも出ない間に,私の方が大学を脱出して就職し,趣味としての美術鑑賞は続けていても,学問からはすっかり離れてしまった。

そして2015年,1巻が出てから約15年経ってようやく待望の2巻が発売された。言うまでもなく近現代美術史編である。著者の三浦篤は専門が近代フランス美術であるが,だからこそ時間がかかったのかもしれない。あるいは1巻を書いた当時よりも先生御自身が随分と多忙になってしまい,研究や授業に忙しく,入門書を書いている時間が取れなかったのかもしれないし,1巻の評判が良かったプレッシャーもあったかもしれない。

2巻もまた近現代西洋美術史の優れた入門書になっている。1巻を読んでいることが前提ではあるが,西洋美術のルールが崩壊していく過程が,やはり平易な説明で綴られている。単純な時代順で,つまりロマン派→自然主義→印象派→……と追っていく美術史ではなく,絵画ジャンルやルール別に「どう崩壊したか」という点に焦点を当てて,前近代のルールと比べながらその変容を述べていくスタイルをとっている。ゆえに,1巻同様に美術史の知識はおろか,西洋史の知識自体も常識的なものしか要求されず安心して読める。非常に基本に忠実で,わかる人に言えばティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》の前のページに《オランピア》が掲載されているレベルである(しかも口絵にマティスの《バラ色の裸婦》があり本文でそちらに誘導されている)。そして「どうしてこうなっちゃったの」かが説明されている。

おそらく「わからない美術」の筆頭たるカンディンスキーらの抽象絵画もかなり紙面を割いて解説されているので,気になる方は是非。楽しめるようになるかどうかや納得するかは別にして(私自身いまだに楽しくない),こういうものが出てきた経緯や画家の意図はなんとなく説得された“気分”になれるだろう。


なお,繰り返しになるが,本書はあくまで美術史学的な美術作品の鑑賞方法・楽しみ方を提供する意味での入門書であって,知識を提供するたぐいの入門書ではない。有名な作品を1作1作懇切丁寧に説明しているわけではないし,美術史の流れ(様式史)を説明した本でもない。また,1巻を読んでいることは前提として書かれているので,その点も注意を要する。




  
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2016年06月09日

書評:『三国志』宮城谷昌光著,文春文庫

実はとうの昔に読み終わっていたのだけれど,書評を書くタイミングを逃したままここまで来てしまった。なにせ7・8巻の書評が3年前である。このまま9〜12巻は書評無しでもいいかとも思ったが,しかし12巻通した総評くらいは書かないと踏ん切りがつかなかったので,短くまとめておく。

しかし,3年経ったからこそ書けることもある。本書の世評が落ち着いているということである。本書の世評は毀誉褒貶なのだけれども,宮城谷昌光らしさという点では及第点であるが,三国志ファンの視点からすると物足りない作品とも言えるかもしれない。以下の3つの記事・Togetterは,当時の三国志ファン界隈の雰囲気が非常によくわかるものになっている。あえて言えばTogetterだけでも十分かもしれない。

・三国文化のバトンを持たずに疾走した有能なランナー宮城谷氏について(Togetter)
・『三国志読本』の感想ツイート(いつか書きたい『三国志』)
・宮城谷昌光『三国志読本』への批判 「新しい三国志」について(三国与太噺)

要するに,三国志ファン視点から見た時の不満は「今更『正史』を大正義のように持ってこられても,その,困る」ということに端を発している。3つめの三国与太噺の記事にある通り,日本の三国志は演義・正史・それ以外の文献のいいとこ取りで形成された特殊さや多様性があってそこがおもしろいところというのは私自身100%同意する意見である。別に桃園の誓いがあってもなくても,魏延が粗忽者の裏切り者であってもなくてもかまわないのである。確かに,この日本の状況で今更『正史』第一主義を主張されても,それも中国歴史小説の大家がこれこそ新規性とうたって乗り込んできても,かえって陳腐さしかない。

ただし,Togetterの末尾にあるような擁護は可能かもしれない。宮城谷三国志の連載開始は2001年である。宮城谷氏が執筆を始める準備段階(90年代末)では,まだまだ日本版三国志=『演義』という時代だった,という可能性はある。調べてみるとちくま文庫の『三国志(正史)』の出版が1992〜93年,『蒼天航路』の連載開始が1994年であるから,90年代末はまだ『演義』以外の文献の普及期だったと言えるかもしれない。またTogetterの末尾のyunishioさんの指摘は重要で,ネットの住民でも実際に正史が広がり始めたのは2001〜03年頃とすると,宮城谷三国志連載はむしろ時宜を得ていたとすら考えうる。すると宮城谷氏にとっての悲劇は約13年間走り続けている間に日本の三国志ファンの側が大きく変わってしまった,ということになろう。

なお,自分が初めて三国志(横山光輝と吉川英治,そして三好徹の『興亡三国志』)を読んだのも中学生だから2000年頃だが,当時の“大人の”空気はさすがに知らない。『蒼天航路』はうちの高校ではそれなりにメジャーな漫画であったし,『真・三國無双』のプレイ人口も多かった。ただ,じゃあその原典となる『演義』や『正史』となると踏み込んでいる人は極少数であり,話題にはならなかった。この辺の事情は2000年代前半ならどこの高校でも同じだったのではないか。大学生になって,ネットのあれこれを読むようになった2005〜06年頃には,もう「正史派VS演義派」という議論自体が“懐かしい物”になっていて,上述のような風潮だったかと思う。


はてさて,ここまで自分の感想を一切書かずに世評の分析だけをまとめてきたのだが,Togetter内にある「宮城谷氏を読む前からの三国志ファンで、宮城谷氏のファンだと言う方に、宮城谷三国志の感想を聞いてみたいもの」にお応えして,その一人して,ここからは自分の感想を述べていくが,実のところ三国志としては十分に面白かったという高評価だったりする。確かに,一人の三国志ファンとして「日本の三国志ファンは『演義』しか知らない」という氏の発言はイラッとしたし,思うところはある。しかし,『正史』と『資治通鑑』にベタッとくっついた小説だったかというと,意外とそうでもなかったように思う。採用した出来事やクローズアップするマイナーな人物の描写から言えばその通りであるが,主役級の人物の解釈や評価については宮城谷氏のオリジナリティが強く,読みどころはそこであった。白眉は劉備の描写であるが,これは7・8巻の書評の時に書いているのでリンクを張るに留めたい。

その上で,まず,Togetter内で全く同じことを言っている人がいてちょっと安心したのだが,本作は良くも悪くも圧倒的に史書の翻訳であり年表であった。宮城谷氏の作品はもとよりその傾向はあるが,三国志は特にこの傾向が強く,特に曹操と劉備が全く話に絡まない部分ではこの傾向が強くなった。というよりも結局のところ小説として描きたかったのは劉備と曹操だけ(あと諸葛亮と司馬懿かな)であり,あとは「こんな隠れた好漢を史書から発掘したので紹介します」ということに徹していたような気もする。我々が読みたかったのは小説であって史書の翻訳ではないのである。正史の紹介という意識が強すぎて,こういうことになったのかもしれない。次に,その影響もあってか,本作は曹操の躍進が始まる4巻から劉備が死ぬ8巻までは無茶苦茶おもしろいが,その前後は史書の翻訳傾向が強くなるアンバランスさがある。それもあって9巻以降の書評は書くことがあまり見当たらず,放置してしまったというのは言い訳として挙げておきたい。

さらに,世評も踏まえた上で書くならば,十分におもしろい三国志ではあったが,三国志小説の新たな金字塔にはなりえなかったのもまた確かであるかなとも思う。極めて長く,しかもスタートが黄巾の乱の百年近く前であることもあってとっつきづらく,それを乗り越えて「00〜10年代の代表的な『三国志』はこれを外せない」という評価にも至らなかった。「(劉備が)おもしろい三国志」の枠は出ていないのである。ましてや宮城谷昌光の代表作に本作を挙げる人も出てこないだろう。これは完結して3年経ったからこそ,実際にいないのを見て確信できてしまったことである。つまるところ,“あの”宮城谷昌光が10年以上の歳月をかけておきながら,塩野七生にとっての『ローマ人の物語』にあたるものを書けなかったということではないか。世間がかの大作家に課したハードルはかくも高かったのである。



三国志 第十二巻 (文春文庫)
宮城谷 昌光
文藝春秋
2015-04-10

  
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2014年12月15日

書評:『グレート・ギャッツビー』フィッツジェラルド著,小川高義訳,光文社古典新訳文庫

映画の方を先に見ていて,最初はギャッツビーのイメージが完全にレオナルド・ディカプリオの状態で読んでいたのが,次第にずれが大きくなった。最後まで読みきった感想としては「原作と映画でイメージが違いすぎる」。このイメージのズレについては,直接映画に言及しているわけではないのだが,訳者による解説が非常に役に立った。なぜギャッツビーは「グレート」なのか。鍵はそこにある。

要するに,後世の,それも日本人の我々からすると,アメリカはいつだってアメリカン・ドリームの国なのだ。ところが同時代人である小説家からすると,これは正反対になる。1920年代とは社会が保守化した時代であり,好景気が持続していた裏で,すでに出来上がってしまった階層秩序をひっくり返せない社会になりつつあった時代であった。ギャッツビーは言うまでもなく成金である。つまり,時代遅れなのであるが,それでも成金には違いなく,遅れてやってきたにもかかわらず階層を飛び越えた。その時代に逆行する精神こそが「偉大」なのである。ここが,過去の恋愛を取り返せると信じ,一途な愛情を昔の恋人に捧げようするギャッツビーの恋愛劇と重なる。このギャッツビーの成金としての性質と恋愛劇の行く末は,物語の後半になって綺麗に合流する。ここがこの小説を“偉大”たらしめているところだろう。映画の方はともかく,原作の方はこの前提が頭に入っていないと楽しめないのではないかと思う。いや,自分のように訳者解説を読んで,全ての疑問が氷解してすっきりする,という読み方もそれはそれでありだと思うけども。

もう一つ映画との違いで気になったのは,映像のクリアさである。原作は読んですぐに気づくことだが,かなり茫洋とした文体で,いろいろな物事をはっきりさせないまま描写していく。これが正体不明のギャッツビーやウルフシャイムといった面々の雰囲気醸成や,終盤の事件が主人公のあずかり知らぬところで進行していく様にすごくよくマッチしており,加えて言えば事件の現場にある巨大な目(「全てを見ている」)の看板との対比にさえなっている。これに対して,映画の方はあらゆることをくっきりと描きすぎている。あれはあれで狂乱の二十年代の雰囲気が楽しめたのでよかったのだけれど,『グレート・ギャッツビー』としては,それはどうなのか。


グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)
F.スコット フィッツジェラルド
光文社
2009-09-08




以下は軽くネタバレ。訳者につっこまれていたけれども,あまり細かいところを気にして読んでなかった私でさえ,作中の矛盾が多くてかなり気になった。特にブキャナン夫妻の娘の年齢。結婚前に妊娠してないか? という点と,エアマットの上に寝転がっている人間を銃殺したら空気抜けるだろという点はかなり気になっていた。きっちりと訳者解説でつっこまれていて安心した。
  
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2014年12月14日

書評:『怪帝ナポレオン3世 第二帝政全史』鹿島茂著,講談社学術文庫

古典的名著だが,なぜこのタイミングで取り上げるかというと,とうとう本書の内容が高校世界史に降りてきたという喜ばしい事態が訪れたゆえである。そこで,本書の内容を簡潔に取りまとめておく。

これまでのナポレオン3世の業績というと,以下のように説明されていた。

「ナポレオン3世は叔父の人気によりかかって政権を奪取した。前期は権威主義的に政権を運営し,労働者と資本家の対立を煽り,その勢力均衡を図って政権を維持した(いわゆるボナパルティズム)。しかし,1860年以降となると民主化の要求に耐えられなくなり,立憲帝政へ移行していった。外征を繰り返したのも,国民の人気を保とうとしたがゆえであった。ゆえに戦敗がかさむと政権が倒れた。」

このような説を唱えていたのはカール・マルクスとヴィクトル・ユゴーの二人であり,20世紀も末になって彼らの権威が崩れ,ようやく実証的な研究が進んできた。これらの説明はほとんどデタラメである。根本的なところで,彼らもその追随者も,空想的社会主義であるところのサン・シモン主義を理解できていなかったし,する気もなかった。また,それを本気で達成しようと考える夢想家の為政者が登場することも,それがある程度強権で成功してしまったということも,信じられなかったのだ。


ナポレオン3世の思想基盤はサン・シモン主義である。サン・シモン主義では階級対立は起こりえず,産業の発展が貧困を根絶する。彼は,そのためには政府の積極的な関与が必要であると考えていた。ルイ・ナポレオン時代に書いた著書に『貧困の根絶』があり,そこで彼は,労働者に必要なものは「協同と教育と規律」であると主張している。すなわち,彼の内政方針は人気取りのための産業育成・社会福祉拡充だったのではなく,産業育成と社会福祉拡充自体が政策の目的であり,それらは別方向を向いていないというのがナポレオン3世の思想であった。事実,フランスの産業革命は1830年頃に始まったが,七月王政下では行き詰まり,本格化したのは1850年代のことである。第二帝政下においてフランスは鉄道大国となり,イギリスに次いで成熟した工業国・資本主義国となっていく。金融改革も進み,次世代のフランス帝国主義を支えていくことになるが,なぜだかまとめて自然現象として処理され,ナポレオン3世の積極的な施策は無視されてきた。パリの大改造もこの一環で理解される。主には衛生向上と交通渋滞の解消が目的であった。都市の近代化は産業育成の上でも社会福祉拡充の上でも至上命題であった。

権威帝政から自由帝政の移行についても,体制の限界が訪れたゆえの仕方なく,ではなくナポレオン3世の希望であった。当初では既存の最大多数・穏健派(秩序派)が腐りきっており,社会主義者はまだまだ勢力が弱かったから,一時議会から権力を取り上げ,権威帝政に移さざるをえなかった。4月選挙・6月暴動といった第二共和政の失敗は彼にとって強い教訓であった。この辺の事情はムスタファ・ケマルやシャルル・ド・ゴールに近いかもしれない。大衆人気に支えられた独裁という点ではファシズムに近く,マルクス主義の歴史家は実際そうなぞらえていたが,内情は似て非なるものであった。

外征も人気取りが目的というより,それ自体が彼の目的であったか,彼の意図しない形での勃発が多々あった。クリミア戦争はパックス=ブリタニカ時代到来を見ぬいた上での参戦であったし,イタリア統一戦争はイタリア情勢の安定を図ったものであった。インドシナ侵略・アロー戦争に至っては,フランス東洋艦隊の暴走に過ぎない。従来言われてきたような帝国主義戦争の先取り,すなわち金融資本に突き動かされた侵略ではない。メキシコ出兵は将来的なパナマ運河建設の足がかりだったという説があるが,これも資本投下というより販路の拡大の意味合いが強い。普仏戦争に関してはすでに自由帝政の末期であり,議会の参戦決議を拒否しきれなかったという事情がある。戦争に反対したのは,後の第三共和政初代大統領ティエール一人であった。

彼の欠点は,自身の強すぎる性欲であった。美人ながら敬虔なカトリックであるウージェニーと結婚したことで,己の目標に反してカトリック勢力を政治や社会から排除しきれなくなり,保守勢力につけこまれる余地を残した。普仏戦争でもウージェニーは大きく足を引っ張り,あのような最悪の形での終戦を迎えることになる。また,荒淫が過ぎたことで膀胱炎にかかり,晩年は終始体調不良で,政治的決断力が大きく鈍っていたとされる。ナポレオン3世に冴えないイメージが漂うのは,この晩年のイメージが強すぎるからだ。なお,ナポレオン4世は虚弱体質で政務に耐えられず,いずれにせよ彼の一代政権で終わったと思われる。私見だが,この辺は終身かつ世襲という帝政というシステムの限界だったように思う。

もう一つの欠点は戦争に関する才能を絶望的に欠いていたことで,クリミア戦争・イタリア統一戦争と続けてようやく己の無能を悟った。普仏戦争は負けるとわかっていて出征したようだが,悲壮感余りある。




  
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2014年06月14日

第234回『菅野も笑った!変な日本史入試問題』菅野祐孝著,エール出版

毎年恒例でやっている世界史悪問集だが,「日本史版も欲しい」という声は毎年多数聞かれる。しかし,それは私に力がないのでできない。やれば日本史の方もすごいものがいろいろ出てきそうである。で,この本を発掘してきた。予備校講師の菅野氏がうちのブログのようなノリで日本史の難問・奇問・悪問をピックアップして解答とコメントをつけている。執筆上の問題意識はうちの記事とおおよそかぶっており,本書のまえがきとうちの記事の「序」は大体同じことが書いてある。難問や悪問が続出する理由として,曰く「―仟蠎圓良塋拔,体面を保つ(満点をとらせない),9舁的な開き直り(選抜にはなっている)」。この辺はすごく共感が持てた。

ピックアップしてある問題はやはりひどいものが多い。いくつか例を挙げつつ私なりにコメントをつけると,


【問題】新安沖沈没船は1323年ごろに元の貿易港を出航している。この港は,かつて明州とも呼ばれた貿易港であり,現在の寧波にあたる。宋元時代の名称を漢字二字で答えよ。
【正解】慶元
→ てっきり寧波か明州を聞くのかと思ったら……明州ならそれでも十分な難問なはずで,世界史でも難問の部類に入る。宋元時代限定の名称なんて世界史でも範囲外だよ。ふざんけんな。

【問題】「春日権現験記」について,次の問いに答えよ。
 ,海粒┐鯢舛い燭箸気譴覲┿佞話か。
◆ヾ一九の一段に描かれている春日大社のすぐ東にある山で,今も多くの人々に親しまれているのは何という山か。
 巻一五の四段ほか,いろいろな場面に登場する春日明神の使い,あるいは象徴とされる動物は何か。
【正解】々盂隆兼 ∋鯵淹魁´鹿
→ 日本美術のファンとして言わせてもらうと切腹級の愚問としか。こういう問題が人々を美術から遠ざけるのですよ。

【問題】幕末に一時低迷した綿紡績業は,その後,ジョン=ケイの発明した[   呂覆匹瞭各により回復しつつあったが,良質の輸入綿糸には対抗できなかった。
【正解】飛び杼
→ 菅野氏が指摘していないので私がこの場で指摘しておくが,この問題は完全なる出題ミス。なぜならジョン=ケイの発明した飛び杼は織布過程の器械であって紡績過程ではないから。飛び杼の発明によって綿糸不足が発生し,紡績過程の機械化を促し,産業革命が発生するのだから,飛び杼が紡績機であるはずがない。しかも飛び杼は世界史用語であって日本史用語ではない。範囲外な上に出題ミスとか本当に愚か極まりない。2004年の立命館の問題だが,タイムスリップして出題者を殴りに行きたい。


2,3点留意事項とケチをつけると,まず本書は2006年発刊であるため,そこまでの入試問題しか収録されていない。ゆえに,2014年視点で見るとやや傾向が古い。また,本書はうちの記事ほど砕けてはおらず,一応受験生向けに書かれた本ではあるため,それなりに受験に役に立つような作りになっており,社会人が読むと違和感のある文章がちらほらと出てくる(実際には早慶同志社立命館受験生以外には全く役に立たないと思うが)。それに関連して,【辛口コメント】と題してはいるものの,実際には辛口であることはあまりなく,多くは「これは覚えておこう」で処理されている。いや,本書に載っているようなのは覚えるだけ無駄なのでは。確かに,2014年視点で見て「これは基礎知識では」というのもいくつかあったので,全部が全部無駄というわけではないとも思うけど。

何より残念な点としては,本書に収録されているのはほぼ短答記述問題(一問一答)のみであり,死ぬほどややこしい正誤判定や,解答不能に見える論述問題などは収録されていない。世界史であれだけひどいことになっているのだから,日本史でも無いってことはないだろう。どうせならきっちり収録して欲しかったところである。



  
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2014年05月05日

第233回『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』塩野七生著,新潮社

塩野七生による神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の評伝である。同じ時代を何度も扱っている塩野七生なだけあって,彼もすでに何度も登場している。『十字軍物語』,『ローマ亡き後の地中海世界』,そして『ルネサンスとは何であったのか』。前二つはフリードリヒ2世というと第5(6)回十字軍がハイライトであるので当然だが,最後は意外かもしれない。これは塩野七生の定義するところでは,ダンテに先駆けるルネサンス人としてアッシジの聖フランチェスコとともに挙げられているからである。神ではなく,人間愛にあふれた人間として。

では,すでに何度も描いてきたフリードリヒ2世をわざわざ再度取り上げる意味はなんだったのか,というときちんと意味はある。本書はそのルネサンス人・近代人としてのフリードリヒ2世の姿を中心として描いており,特にフリードリヒ2世が両シチリア王国で法治国家・中央集権的な官僚制国家を作ろうとしていた点を際立って取り上げている。確かにこの方面でフリードリヒ2世を書いた評伝は珍しかろう。一方,彼の人生のハイライトである第5(6)回十字軍については,本書では驚くほど記述が少ない。塩野七生が大好きなエピソードであるにもかかわらず。それこそすでに何度も描いていることだから避けたのだろう。

そんなフリードリヒ2世が作ったメルフィ憲章が歴史にほとんど名を残しておらず,同時代のマグナ・カルタが歴史に名を残したことについて,塩野七生はいかにも苦々しい表情がにじみ出ている文体で「ホーエンシュタウフェン朝は滅んだが,イギリスは残ったから」と書いている。加えて,フリードリヒ2世は自分の死後も統治の安定する国家を志向して法治国家の建設に邁進していたのに,実際には行政の実行者としての自らの役割が大きくなってしまい,結果としてはむしろフリードリヒ2世個人に寄りかかった国家になってしまったから,彼の死後早々にシュタウフェン朝が滅んでしまったことも指摘している。このあたりの指摘は的確であろう。結局のところフリードリヒ2世は偉大ではあれど,時代の状況があまりも悪く,改革も性急に過ぎた。そしてそれらを排して押し通すほどの,つまりカエサルやアレクサンドロス大王級の力量となると,さすがに持ち合わせていなかったのである。その限界も含めて,評するにはおもしろい人物とは言える。

あとはまあ,いつもの塩野七生である。帯で「古代にカエサルがいたように,中世にはこの男がいた!」とあおっているように,彼女はフリードリヒ2世が本当に好きなんだなぁというのが強く伝わってくる。ただし,世評にも見られる通り,本書には重複した文章が目立つ。それは本作内だけでほとんど同じ文章が何度も出てくるということもあるし,過去の小説に見られた文章とほぼ同じ文章があるということでもある。これは上記のごとくフリードリヒ2世を扱うのがもはや4度目というのもあるし,そもそも同じ内容の文章を何度も繰り返して強調するのは塩野七生の文章の昔からの特徴でもあるから,ある程度は仕方がない。しかし,今回はそれにしても多い。amazonに「重複した文章をすべて削ったら上下巻じゃなくて1冊に収まったのでは」というレビューがあったが,私も同感である。ほとんど全文章を二回ずつ読まされたような感覚がある。


さて,いくつか見つけたミスを指摘しておく。まず上巻pp.124-125。現代の国境線が引かれた地中海地方の地図が掲載されているが,コソヴォが存在していない,パレスチナがない(イスラエルがパレスチナ地方全域を支配している)あたりは政治的な問題が絡むからまだいいとしても,セルビアとモンテネグロが分裂していないのは完全にアウトだ。これ,現代じゃなくて2006年以前の地図なんじゃないか。

次,これが一番致命的だと思うが,上巻pp.212-213。フリードリヒ2世が1230年代の両シチリア王国で,地方統治の一環として各都市に身分制議会を創設し,聖職者・封建諸侯・市民が三分の一ずつを占めた議会であったことを述べた後に「この三部会がわれわれの前に再び姿を現すのは,これより五百七十年が過ぎたフランス大革命を待たねばならない。」とある。これは二重におかしい。まず,1230年代に570年を足せば1800年代になるが,言うまでもなくフランス大革命は1789年であり10年の開きがある。単純に算数が間違っており,「560年」が正しい。次に,フランスの三部会が誕生したのは1302年のことであり,フランス大革命のものはむしろ最後の三部会である。こんな中世ヨーロッパ史のところで塩野七生がミスをするか? とかなりいぶかしんだが,よくよく考えてみると塩野七生はなぜだかカペー朝のフランスが大嫌いなので(フィリップ2世もルイ9世も本書や『十字軍物語』でかなりけなされている),フィリップ4世のこともすぱっと頭から抜けていたのかもしれない。

下巻p.95,イブン・ルシュドのことをアヴェロール,もしくは「ヨーロッパではアヴェローエ(Averroe)の名のほうで有名だが」と紹介しているが,正確にはラテン語名の「アヴェロエス(Averroes)」の名で有名であった。アヴェローエは現代イタリア語の表記であり,この表記が中世イタリアに存在していたか不明。また,イブン・ルシュドの著作の翻訳が進んだのはイベリア半島のトレドなので,いずれにせよイタリア語にする必要性は感じず,やはり一般的なラテン語が良かろう。なお,現代スペイン語でも英語でもAverroesのようだ。アヴェロールはどこの表記なのか不明。

下巻p.108,1180年と1223年のフランス王国の地図があるが,フランス王領の範囲がおかしい。どちらもフランス王国のうち,イングランド王領でない領域はすべてフランス王領になっているが,もちろんそんなことはない。当時のフランスにはイングランド王領でもフランス王領でもない,自立した封建諸侯の領土が存在していたのだから。こんなにフランス王の直轄領が広ければ,フィリップ2世は苦労していない。





  
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2014年05月02日

第232回『貧しき人々』ドストエフスキー著,安岡治子訳,光文社古典新訳文庫

ドストエフスキーの処女作である。1845年,24歳のときに書かれたものだから非常に若い。彼の他の代表作というと『死の家の記録』が15年後の1860年,『地下室の手記』が1864年で,5大長編は全てその後になるから,かなり間が開いている。その理由は政治活動をしていたりシベリア送りになっていたり軍隊にいたりとせわしなく,小説を書いている場合ではなかったからだ。このシベリア送りの間に大きな思想的転換があり,その思想性への評価が彼を大作家たらしめている評価の一部と言える。一方,若い頃の作品は本作を除くとあまりメジャーではない。この文庫についている年表や解説でも,二作目以降は当時の評価が高くなかったことが書かれている。そういう意味では,この処女作だけが浮いているのである。

それを頭の片隅に置きつつ読むと,やっぱり私のイメージにあるドストエフスキーらしさは感じられなかった。キリスト教オチはどこ? 足の悪い女はいないの? という。特に前者についてはそこがまさにシベリア送りによる思想的転換なので,無くて当然ではあり,後者はひょっとしたら出てくるのかというちょっとした期待はあったが出てこなかった。あっちもシベリア送りの結果身についたものなのか。

そういう観点は横に置いとくと,心理描写の巧みさ,話の持って行き方の巧みさはさすがはドストエフスキーだなぁと思わせられた。解説にある通り,当時の流行の写実主義的な貧しい人たちの緻密な描写が続く小説だが,登場人物の行動や言葉の言い回しなどから,直接には表現されていない細かな感情の機微が見えてくる。特に主人公のマカールは貧しく教養も無く,卑屈ながら妙なところでプライドがある偏屈な壮年の男性である。読んでいくとどこが彼のプライドを傷つけるポイントなのか,読者にも次第にわかってくるからおもしろい。また,マカールは作中の時間経過とともに読書をして洗練した文章が書けるようになっていくのだが,それが日本語訳からでもわかるほどの変化で,これもまたおもしろかった。最初の方の彼の言葉は急き立てられるような感じで話がなかなか前に進まないが,最後の方は幾分すっきりした文章になっている。これはロシア語読める人が原文で読んだらよりはっきりしておもしろいだろうなぁ,とは思った。

ところで,本書は50代手前の男性マカールと,10代後半の少女ワルワーラの往復書簡という形態をとっている。あまりの年の差カップルに「これ,おっさんいつ裏切られるんや」といぶかしんで読んだ私の魂は汚れていた。ネタバレにならない範囲で書いておくと,この二人はともに善良な市民であり,相手を裏切るようなことはしない。ただし善良なだけかというとそうでもなく,前述の通りそれぞれ譲れないプライドがあり,特にマカールは作中とんでもない愚行を犯す。その結果,本作は完全な悲劇とも言えないが決してグッドエンドとはいえない終わりを迎えることになる。ただ単純な「貧しいが善良な人々」にしなかったところが本作のおもしろさではある。しかし,本書の解説いわく「ゴーゴリの『外套』では風刺され笑いのめされた」貧しく愚かな壮年男性を,あえてセンチメンタルな物語の主人公に仕立てあげたのがドストエフスキーの狙いだそうなので,「貧しくて善良だが愚か」からもうひとひねり入っているということで,私の読みではまだ浅い。それを味わうにはゴーゴリの『外套』を読まねばなるまいが,とりあえず今のところ私の読書予定リストには入っていない。

そうして訳者あとがきを読むと,訳者の先輩にあたる文学者の浦雅春氏が「実はこれは主人公の妄想で,往復書簡と見せかけつつ全部一人で書いているのでは」という意見を出しており,なにそれホラーすぎるんですがこわい。


貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)
フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
光文社
2010-04-08

  
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2014年04月07日

第231回『ガルパンの秘密〜美少女戦車アニメのファンはなぜ大洗に集うのか〜』廣済堂出版

廣済堂出版から発売されたガルパン関連書籍の第三弾。第一弾はガルパンのアニメに関する情報をまとめた『アルティメット・ガイド』,第二弾は聖地巡礼用の『トラベル・ガイド』であり,両方とも別記事にて触れている。両方ともB5サイズの大判だが,本書のみ新書サイズである。内容として,藤津亮太氏による深夜アニメの歴史事情とガルパン前史として『ストライクウィッチーズ』・『けいおん!』・『らき☆すた』を簡潔に説明する序章,石井誠氏による大洗のルポに続き,21人のガルパン関係者へのインタビューが収録されている。

前掲記事で書いたように前二書は随所に不満が見られる本で,『アルティメット・ガイド』は悪い意味で普通,『トラベル・ガイド』は旅行ガイドとしてちょっと雑であった。しかし,本書は読み応えのあるもので,インタビュー集として優れているのでお勧めできる。インタビューされている面々は,
・バンダイビジュアルプロデューサー:湯川淳,杉山潔
・アニメ会社アクタス社長:丸山俊平
・主要製作陣:吉田玲子(脚本),杉本功(総作画監督),柳野啓一郎(3D監督),カトキハジメ(絵コンテ,ただしOVAから),関根陽一(音楽P),渕上舞(みほ役),水島努(監督)
・大洗関係者:常盤良彦(クックファン・まいわい市場),大里明(肴屋本店),島根隆幸(大洗ホテル),樫村裕章(茨城県庁広報課),有國清光(大洗高校マーチングバンド部監督)
・その他:防衛省広報室&自衛隊茨城地本の方々,アマゾンジャパン,TSUTAYA
といった感じ。

それぞれおもしろいところはあったが,私的にピックアップして。p.17,ガルパンのスタートが,バンダイからアクタスへの「有名なクリエーターを誰か一人連れて来いで,それが島田フミカネだったということが明かされている。結果から言えばその他のスタッフも豪華なメンバーが集まったわけで,さながら曹操軍の幕僚状態だが,その最初が島田フミカネというのはやや意外である。人がそれだけ集まった企画の勝利とは言えるかなぁ。

p.39,杉山Pがまちおこし有りきだったわけではないという発言をしている。2012年のあんこう祭までは誰しもが半信半疑だったという話はよく聞くし,町側の動きが意外と遅かったのも確かだ。ただ,遅かったからこそ長持ちしている感も,巡礼者としてはある。この辺は常磐さんの「こそこそ作戦」が功を奏したと思う。最初から派手にやっていたら,あれだけ住民の理解を得るのは難しかったのではないか。杉山Pは「『アニメで町おこし』のモデルケースみたいに取り上げられるのですが,あれはちょっと違います」と言っているものの,結果的にはモデルケースになっているのではないか。初動は派手にやりすぎない,地元自体の良さで売る,明確な巡礼路を作ってあげる等々。

これに関連してp.121にはキャラパネルの設置が商店街に人を呼んだことが書かれている。一方,自分が巡礼に行った時に聞いた話でもあるが,「当初は54体のパネルが(設置希望店舗が少なく)余ってしまっていた」ということも書いてあった。あのパネルは斬新で良い試みだったが,斬新だからこそそういうことにもなったのだろう。p.153,大洗ホテルの島根氏も「(後発のまちおこしにアドバイスをするとしたら,)まず自分たちが楽しむこと」とある。だが,これは意外と実践が難しい。そもそも,そのアニメが本当におもしろくなかったら詰んでるわけでもあり。アニメ自体が抜群におもしろく,かつ町自体にも魅力があった大洗は本当に幸運な例だな,と改めて。




  
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2014年04月02日

第230回『欲望の美術史』宮下規久朗著,光文社新書

宮下規久朗による美術史にまつわるエッセイ集。元は産経新聞に連載されていた記事で,それらを加筆修正し画像を追加したのが本書となる。タイトルの通り,下世話な観点から美術史の出来事や作品に焦点を当てたもの。カラヴァッジョを専門とし,過去に『食べる西洋美術史』・『刺青とヌードの美術史』などを執筆してきた宮下規久朗らしいエッセイ集であると言える。というよりも,本書でもカラヴァッジョは当然のこととして,大食の悪徳や刺青・ヌードにも触れており,実に自由な筆を振るっている。それだけに文章もノッていておもしろい。

その他のテーマや登場する題材としては,女性問題を取り上げてのカルロ・クリヴェッリやグイド・カニャッチ,ロセッティ,ピカソ等。ライバル意識からギベルティとブルネレスキ。写実志向からの生人形やトロンプ・ルイユ。鎮魂からのむかさり絵馬。権力者の肖像画としてスターリンや毛沢東など。信仰というテーマでさえも,出てきたのは黒い聖母とマリア観音だ。土佐の絵金や,時事ネタとしてヒメネスさんの修復キリスト像にも触れている。全体として普通の美術史では出てこない題材が多く,目新しさも強い。宮下規久朗を知っている人には「またあの先生はこんなものを」と読めるし,知らない人(というよりも美術史自体に親しみのない人)には親しみやすく,かつ珍妙な美術史紹介として読めるだろう。軽く読めるし,どちらにもお勧めできる本である。

本書はフルカラーである。これはすばらしい。やはり美術史を扱った本たるもの,可能な限りフルカラーであってほしい。特に本書はバロックのゴテゴテとした装飾や絵金を扱っているのだから,フルカラーでないと威力が激減である。その代わり,ものの1〜2時間ほどで読めてしまう180ページの新書なのにお値段920円という大変なことになっているが,フルカラーへの〈欲望〉には耐えかねるのである。



  
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2013年12月02日

第229回『エロゲー文化研究概論』宮本直毅著,総合科学出版

エロゲーの歴史をまとめた本。1980年頃からの30年以上の歴史をまとめている大著である。まじめに考えてみると,これだけまとまったエロゲー史の本はこれが初ではないかと思う。

本書の特徴を2点挙げると,まず1980年頃から書き起こしている点。「どこからがエロゲーか」・「どこを起点として歴史を書き起こすかというのは歴史書としてどうしてもつきまとう問題だが,本書は前述の通り,その起源の起源から書き起こしている。ともすれば1990年代半ばから書き起こしたくなるのがエロゲー史だが,本書はPC-88,少しだけではあるがさらにその前のエロゲーから書き始めている(つまり『ナイトライフ』の前)。この頃だと,『ナイトライフ』自体がそうだが現代のエロゲーとは似ても似つかぬものであり,すなわち「エロゲーとはなにか」という定議論に直結する。そこにも当然触れ,「この定義であれば○○が原初」としているところは親切と言えよう。そこから少しずつ時代が進んで,最後には2012年まで到達する。

二つ目の特徴として,歴史書として中庸的と言える。歴史書というと,代表的な事件や人物,文化史ならば作品や作家だけをピックアップして取り上げ,「大きな物語」を抽出してダイナミズムを読者に悟らせるのが一つ。このやり方はわかりやすいし,抽出の仕方がうまければおもしろくなるが,どうがんばっても落ちるものは出てくる。もう一つのやり方は逆に,細かな事項も逐一拾って,とにかく全部書き出す。このやり方はその時代の理解に立体感は出てくる。が,マイナー事項重視になりやすいので,事件別の重要性がつかみづらく,かえってその時代の空気は理解しづらくなる。文化史であれば名作選になってしまいがちで,「で,様式は?」という話にもなり,また紹介作家・作品数の多さから一つ一つは極めて短くなる。一長一短なのだ。

本書は,そのどちらかに偏ることを頑張って避けているところはある。なるべく大きな流れも追いつつ,やや脇道の作品紹介もそれなりにこなして……という。バランスをうまく取っていると思う。作品紹介だけではなく,当時の事件やPCや媒体の進化などにも触れている。宮崎勤の事件や沙織事件,横道への波及としてドラクエ2のあぶない水着や,赤松健の『ラブひな』等にも触れている。用語の解説も適切で,萌え起源論なんかは割と目から鱗だった。なるほど,土萠ほたる説は消える。これは重要な検証だ。あと,みさくら語の解説も傑作で,これほど的確にみさくら語の意味を解説したものはないと思う。

というように高評価を下した上で,あえていくつかケチをつけると,まずそれでも漏れているものがいくつかある。まず,ケロQ諸作品にほとんど触れられておらず,『終ノ空』はクトゥルー神話の特集項目で触れているものの,『二重影』と『素晴らしき日々』は出てこない。前者は伝奇物の傑作として『月姫』時代の象徴だし,後者は哲学系エロゲーの頂点の一つであり,そういうブームが過ぎ去った残滓だと思う。『顔のない月』は館ものとして触れるべきだったと思うし(見落としてたら申し訳ない),ういんどみるは『はぴねす』の準にゃんに触れてほぼ終わりだ。あとBlackcyc(というか和泉万夜・上田メタヲ)もほとんど記述がなかった気がした(例によって見落としてたら申し訳ない)。この辺は書き落としじゃなかろうかと思う。

もう一つは,ほぼ年号順にトピックを並べてはいるものの,あるメーカーやライターが出てきたら,その人の初出作品の年号で全作品を記述したがる傾向があり,部分部分ではぶつ切りで時系列が行ったり来たり,やや煩雑な章立てになっていた。せっかく年号順に章立てされているのだから,一々区切ったほうがむしろわかりやすかったのではないかと思う。それに関連して,ゲームやブランド・ライター名の索引が欲しかった。何分大著であるので,ある作品やライターが話題に出たかどうか,どこのページに書いてあったのか探してページを戻す機会が多かったのだが,索引が無いのでこの作業は困難を極めた。つけてくれれば便利であった。

(追記)
twitterのフォロワーの方が教えてくれたのだが,ネット上に索引があった。別ページをあわせるとゲームタイトル,作家名,ブランド名の索引となっている。これで検索してみたが,上記で漏れていると書いたものはやはり漏れていた模様。しいて言えば,ういんどみるは『ウィッチズガーデン』でもう一度触れられていた。



  
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2013年10月23日

第228回『アニメキャラが行列を作る法律相談所』ronnor(QB被害者対策弁護団)著,総合科学出版

名作同人誌「これから『契約』の話をしよう」で,魔法少女まどか☆マギカの法律的解説をしてきたronnor氏率いるQB被害者対策弁護団が,他のアニメにまで範囲を広げて商業デビューした本。つまり,諸アニメにおける諸事件が,現実の法律ではどうなるのかという,空想科学読本的なお遊びである。

中身は非常にしっかりしており,文章もおもしろい。法律的な考察がしっかりしているのみならず,アニメネタも豊富である。前述の同人誌でわかっていたことではあるが,著者がにわかなオタクではなく,ガチガチのアニメオタクであることは文章から伝わってくる。というのも,こうした本にはありがちなことで,実は作者がそう対して秋葉原系の文化に染まってないことが往々にしてあるのだ。本書はそうした心配は無用である。ネットスラングが過多ということもなく,いい塩梅である。扱っているアニメは比較的メジャーどころが多く,『あの花』,『狼と香辛料』,『ハヤテのごとく!』,『CLANNAD』,『コクリコ坂から』,『魔法少女まどか☆マギカ』,『名探偵コナン』,『GOSICK』,『咲-Saki-』,『涼宮ハルヒの憂鬱』。元ネタのアニメを知っていないと辛いわけだから,メジャーどころから引っ張ってきたのは正解だろう。というよりも,その観点で考えると『GOSICK』,『あの花』あたりは限界スレスレの知名度な気がするが。

『咲-Saki-』については本ブログの読者的に気になる方も多いであろうから書いておくと,賭博罪についての考察である。ronnor氏のブログに元となった記事があるが,本書はこの記事に加筆修正されたものだ。基本的な骨子は全く変わっていないが,より詳しい解説が読みたかったら本書を読むといいだろう。他,大体アニメのタイトルから扱われている法律は類推がつくのだが,『コクリコ坂から』が家族法(民法),『CLANNAD』が遺産問題,『ハヤテのごとく!』が債権法,『狼と香辛料』が詐欺といった感じ。『狼と香辛料』は,がんばればこれだけで法律読解本が一冊書けそうだが,今回は一例のみである。特に現代日本の法律と,中世欧州(ハンザ都市辺り?)で結論が全然違うだろうし,ronnor氏の今後に期待したいところだ。

何が一番おもしろかったか,個人的な感想であげると『CLANNAD』。渚が死んだ後の遺産処理めんどくさすぎるでしょう……遺書は大事だわ。あと,『コクリコ坂から』のところで,「スウェーデンでは兄妹でも結婚できる」という事例が紹介されており,最近どっかで聞いたことあるような(リンク先エロゲ注意),と思いながらこの項目で爆笑していた。この事例,法律家界隈ではひょっとして有名なんですかね。妹,気になります。




  
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2013年10月07日

第227回『マグダラのマリア』岡田温司著,中公新書

本書の構成は大きく2つである。1つはマグダラのマリア像の形成過程,もう1つはマグダラのマリア信仰の変遷である。

マグダラのマリアはキリスト教カトリックでは重要な聖女であるが,他の教派ではそうでもない。なぜなら,『聖書』における彼女の活躍は,実は描写が少ない。残りの「設定」,つまりマルタ・ラザロの妹であったり娼婦であったりするするのは後世のカトリック教会による後付に過ぎないからだ。確かにその数少ない描写は,イエスの復活に最初に気づいた人であり,いわゆるノリ・メ・タンゲレの場面であるから,重要には違いない。が,そこだけなのである。残りの設定は元々,「別のマリア」(ベタニアのマリア,罪深い女)のものであったが,カトリック教会はあえて同一視を進めた。この後付がなぜ,どのように行われたのかを見ていくのが第1章である。

残りのすべて,つまり第2章から第4章はマグダラのマリア信仰の変遷を扱っている。当初のマグダラのマリアは悔悛する姿が強調された。最も罪深い娼婦であっても,深く悔悛すれば救われる代表例などとして扱われた。ゆえに,彼女は地味な描かれ方であった。ところがルネサンスが到来した頃から,「元は娼婦なんだから着飾ってる美女で当然」,「いつかは悔悛すればいいのだから若い内は人生を楽しんで良いというのがマグダラのマリアの教訓」という論理の転倒が行われ,実在の高級娼婦や有力者の愛人をモデルに,きらびやかにも自慢の金髪をたなびかせるマグダラのマリアが量産されていった。その後,宗教改革・反宗教改革の流れで服装自体は地味になるが,一方で金髪美女の設定は残る。そしてバロック期に今度は「聖女だから,悔悛後・苦行後でも美しさは失われない」という理屈が加わり,さらにアビラのテレサに代表される「法悦」の概念も強調されていく。

結果としてさまざまな要素が合体し,「服はボロだけど金髪美女がなんか恍惚として香油の壺かドクロを持ってる」という,我々のよく見るマグダラのマリア像が完成した。金髪美女のエロティックな姿を描く良い口実になっていったのである。本書はこれらの流れを,中世から近世にかけての絵画作品や当時の知識人たちの文章を引用して,詳細に追っている。特に図版が多く,図版自体がマグダラのマリア像の変遷をよく示しているので,非常にわかりやすい。中世→ジョット→ボッティチェリ→ティツィアーノ→グイド・レーニと見ていくと,想像以上にイメージがころころと変わっているのがわかり,おもしろい。


ところで,本書のあとがきではマグダラのマリアが登場するフィクションが多く挙げられており,創作の良い種になっていることが説明される。しかし,『ダ・ヴィンチ・コード』について一切触れられていない。本書の初版が2005年で,『ダ・ヴィンチ・コード』は2003年に英語版,2004年に日本語版であるから,挙げようと思えば挙げられたはずである。加えて言えば,2004年の映画『PASSION』は挙げられていた。というよりも,マグダラのマリアをキリストの妻として扱った作品は一切挙げられていない。著者としては,その説だけはない,ということなのだろうか。



  
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2013年09月25日

第226回『チェーザレ・ボルジアを知っていますか?』モーニング編集部,講談社

漫画『チェーザレ』の副読本。内容はルネサンスに至るまでのヨーロッパ史・イタリア史概説,キリスト教カトリック・ローマ教皇庁の簡単な紹介,ルネサンス期のローマ・教皇庁の紹介,ルネサンス期の国々・都市・人名・名家の事典,最後にチェーザレ縁の地の観光案内と,なぜかワイン・関連書籍・ドラマの紹介が入って終わる。内容は,一つ一つ見ていくと薄いところもあるが,多岐にわたっているのは間違いなく,最後の宣伝も含めてがんばって全部網羅しているというところはある。軽くここまでのおさらいをするにはこれで良かろう。

ただし,多くのチェーザレファンが本当に「軽く」を求めていたかは疑問である。もっとがっつり深く掘り下げたものを,どちらかというと期待していた。また今後の展開のネタバレを不自然に避けていることによって一々中途半端に終わっているところも気になった。たとえばジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世に即位することは明記されているのに,ロドリーゴ・ボルジアの項目ではアレクサンデル6世に即位したことが書かれていない。どうもちぐはぐである。史実を追っているのだから,そうむきになってネタバレを回避しなくても良かったのではないか。

そうしたややこしい処理をしつつ,かつ膨大な情報を取り扱ったせいか,初版は多くの誤字・誤謬がある(2版以降があるのかどうかは知らない)。誤解というよりは誤字・誤謬と言ったほうがいいミスばかりだったので,そこは原基晶がちゃんと監修しているのだろう。一読して私の気がついた範囲で一覧に示しておくので(amazonの後段),買われた方は参考にしてほしい。



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2013年09月08日

第225回『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル著,鬼澤忍訳,早川書房(ハヤカワ文庫)

今更?そう今更である。一応読み終わったので書くだけ書いておく。説明不要の一世を風靡した本書だが,平易な哲学思想の紹介である。現代社会において普遍的に論点になりそうなポイントをピックアップし,それに対して解答を出せそうな哲学者の思想を説明していくスタイルで,先に論点が来るところに特徴がある。それゆえに主要な全哲学者の思想を紹介していない,というよりもベンサム,J・S・ミル,リバタリアン,カント,ロールズ,アリストテレス,そして自らの属する共同体主義の6種類しか,基本的には紹介していない。順番もこの順番で,要するに時代順には全くなっていない。取り上げられている諸問題は,「忠誠心は金で買えるか(外国人傭兵について)」「代理出産の是非」「自殺幇助」「アファーマティブ・アクション」等。

説明は本当に巧みで,紹介された思想については,論点からスタートして乖離せず,根本的な部分まで説明しつつちゃんと論点に戻ってくる,ということをやっている。このスタイルをとる概説書だと,これがなかなか難しい。論点から旅立って一度根本思想にたどり着くと,そのままどっかに飛んでいって論点に戻ってこないことがしばしばあるからだ。時代順になっておらず,思想史には一切触れていないのも,哲学思想の普遍性を強調する上ではむしろ効果的であった。哲学にある程度親しい人なら問題ないが,全く知らない人からすれば「なんで2300年前に生まれた思想が,現代社会の論点を考える上で役立つの?」ということにはなるだろう。また,そのくらいの初心者なら「哲学思想ってこんなにラディカルなんだ」と思わせられる点でも新鮮かもしれない。そして本書はそのラディカルさが,現代社会の諸問題の解決においていい切れ味を見せていることを紹介するのがとてもうまい。なるほど良書である。

トップに功利主義が来て,「功利主義は強いが人間性に欠く」という批判からリバタリアン,カントとロールズが出てきて,別の観点からの批判としてアリストテレスが呼ばれ,最後にちゃぶ台をひっくり返して自らの共同体主義が出てくる。こうして書くと共同体主義の売り込みのようにも見えるが,実際のところ共同体主義は最後の最後で少し紹介されるだけであまり出てこない。まさに自らの思想の売り込みと思われるのを避けたのではないか。また,基本的に功利主義に反論する形で他の哲学者を紹介して進んでいくので,功利主義は中盤以降サンドバック状態であった。これはアメリカで功利主義が根強いのが原因らしい。私個人としてはまず共同体主義,次点で功利主義に親和性が高いので,なんとも複雑な気分になる構成の本であった。(要するに私は保守主義なので,中立性・絶対的な正義の法則を否定する共同体主義は親和性が高い。相対主義やコミュニティの抑圧には反発しつつも,コミュニティの持つ道徳的重みも認めていく路線は賛同するし魅力的だが,バランスが難しい。むしろそのバランスをとるには熟慮・熟議をとるほかなく,それは保守主義なのではないかと。余談ですが。)

自分としては復習がてら読んだところが強いが,その上で改めてカントの思想とは絶望的にそりが合わないのが確認できたのが最大の収穫であった。人間の尊厳を認めること自体はいいのだが,カントの「理性は全ての人間に普遍的に同質=道徳法則も普遍的」にはまるで賛同できない,というところで。



  
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2013年06月09日

第224回『ロスト・シンボル』ダン・ブラウン著,越前敏弥訳,角川書店(文庫)

ダン・ブラウンによるロバート・ラングドンシリーズの第三作である。今回登場する秘密結社は超メジャーどころで,フリーメイソンであった。場所もヨーロッパではなく筆者と主人公の地元,アメリカ合衆国はワシントンDCである。

さて,読んだ感想をすぱっと言えば,つまらないとまでは言わないが,まあおもしろいかと言われると別に……というくらいであった。『ダ・ヴィンチ・コード』,『天使と悪魔』のずば抜けたおもしろさに比べると,格段に落ちると言わざるをえない。その理由を端的に言うと,2つある。まず,話のテンポが遅く,起こっている事件の大きさの割りには緊迫感に欠いた。『ダ・ヴィンチ・コード』は次々と解くパズルが変わり場面も変わる。パリからロンドンと移動距離も長く,常に公権力から追われる立場である。さらに,『天使と悪魔』は場面こそローマに集中しているが,序盤に謎が4つ提示されていて,しかもタイムリミット付で素早く話が進む。ラングドン本人の生命はかかっていないものの,4人の枢機卿の生命がかかっており,かつローマ教皇庁そのものも存亡の危機に立たされていた。4つの謎もそれぞれインパクトがありつつ,ラングドンがすいすいと解いては話が進んでいった。これは緊迫感に満ちていた。

一方,『ロスト・シンボル』は延々と同じパズルの解読が進む。それも解読方法がわからないからというよりも,ラングドン本人が解読に乗り気でなく,謎が提示されてから延々と謎が放置されていたからである。いいから早く答えをくれと。パズルの数は実際のところ少なくなく,今ざっと数えたら4つはある(ピラミッドの表の刻印の”暗号”,ある人物へのアナグラム,ある科学実験で現れる文字,最後の暗号)。にもかかわらず謎の数が少なく感じられたのは,前述のようにラングドンが解かずに躊躇していたからというのと,提示されてから解法がわかるまでのタイムラグの長さが理由であろう。いいから早くその謎を解いてほしいと,読んでて何度思ったことか。

そして,公権力や犯人に狙われて身体の自由や生命が危険に晒されていた点は『ダ・ヴィンチ・コード』と同様ながら,犯人はともかくCIAがラングドンの身をつけ狙っていた理由がなかなか明かされない。で,明かされてみるとCIAの打った手が非常に悪手であり,そりゃラングドン逃げたくなくても逃げるよなぁと思ってしまう。『ロスト・シンボル』は早々にCIAがうまいこと手を打っていれば,もっとすんなり解決した事件ではなかったか。事件が長引いた理由を誰かの愚かさ,とりわけCIAのような組織に押し付ける手法はうまくない。これも話のテンポが遅くなった理由であろう。

もう1つの理由は,今回出てくるトンデモ超科学「純粋知性科学」のせいではないかと思う。『ダ・ヴィンチ・コード』ではラングドンたちが追っていたもの(イエスの血筋)自体がトンデモではあったが,そもそもこれはそういう話というのが前提にあるので問題がなかったし,科学面でぶっ飛んだ話というわけではなかった。『天使と悪魔』はトンデモ超科学が生んだとある大量破壊兵器が出てきて話が進むものの,あれはローマをぶっ壊すための小道具というのが読者には十分わかる作りになっていて,科学的な理屈自体はどうでもよかった。また,そのトンデモ超科学自体が『天使と悪魔』のテーマである「宗教と科学の融和」に直接結びついてるので,この点から考えても自然に納得できるSF的な設定であった。

そこへ行くと,本作の「純粋知性科学」はだいぶ弱い。これ自体がラングドンに脅威を及ぼしていたわけではないし,フリーメイソンの暗号にも全くの無関係である。物語のテーマである「言葉の重み」には関連性があり,フリーメイソンの理想ともかかわりがあるので,全く無意味だったというわけではない。が,前作に比べると科学の絡め方が弱いとしか言えない。作劇の小道具としては全くの不要だったのがどうしても響いている。


そんな本作も映画化が進行中だそうだが,意外にもそれなりに楽しみである。なぜなら本作は「ワシントンDC観光名所を巡る旅」としては優秀で,場面のつなげ方と紹介の仕方という点ではよくできていたからだ。しかもこれだけ間延びした展開だから,映画にする上で脚本はおそらくばっさりとカットした部分が多くなり,逆に引き締まった展開になっていいかもしれない。『天使と悪魔』もローマの観光名所紹介ムービーとしては大変素晴らしかった一方,脚本がばっさりと切りすぎて原作の再構成という観点では落第であった。本作の映画がどうなるか,注目である。


ロスト・シンボル (上) (角川文庫)ロスト・シンボル (上) (角川文庫) [文庫]
著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-08-25)

ロスト・シンボル (中) (角川文庫)ロスト・シンボル (中) (角川文庫) [文庫]
著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-08-25)

ロスト・シンボル (下) (角川文庫)ロスト・シンボル (下) (角川文庫) [文庫]
著者:ダン・ブラウン
出版:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-08-25)

  
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2013年05月29日

『文明崩壊(ジャレド・ダイアモンド)』で気になったところ

書評自体はこちら。私の指摘が合っているという自信もあまりないので,正誤表というよりは「ひとまず私が気になったところ」を列挙しておいた。読者からのさらなる指摘を待ちたい。論がひっくり返りかねないものから定訳でないものの指摘まで,とりあえず並べておいた。ページ数は文庫版に準拠,第三刷で見ている。引用文中の強調は全てブログ主による。


上巻
p.39 「ギリシアのミュケナイ文明や青銅時代地中海沿岸社会の滅亡と”海の人”の侵入」
→ 定訳は”海の民”である。というよりも海の人という表記は初めて見た。この表記で,途端に本書の訳に対する信用が下がったのだが,上巻ではこの種の翻訳ミスが意外と少なかった。


p.358 「ヴァイキング自身の言語(古ノルド語)でも,呼び名の語源となった”ヴィーキンガー”という単語は”襲撃者”を意味する」
→ 自分の言語学は全くの専門外だが,ヴァイキングの語源は古ノルド語の「入り江」を意味するヴィーク(Vik)を語源とするのが一般的な学説のはず。

p.370 「一〇六六年は,ヴァイキングによる襲撃が終焉を迎えた年としても知られる」
→ 要するにノルマン朝イングランド成立をもってヴァイキング襲撃の終焉としているわけだが,両シチリア王国の建国(1130年)は……それは遠すぎるとしても,ロベール・ギスカールとその弟ルッジェーロによるシチリア征服が11世紀末なので,そこまではヴァイキングの征服活動に含めるのが一般的ではないか。
→ もっとも,本書はその数ページ前でヴァイキングのイタリア進出に極めて短いながら触れているので,この段落を書く際にすっぽ抜けただけではないかと思う。

p.401 「写真15 紀元1300年ごろ,ノルウェー人がグリーンランド東入植地のフヴァルセーに建築した石造りの教会」
→ どう考えても紀元後である。文庫版にこんなひどい誤植が残ってるとは思わなかった。

p.540 「シーグリズ・ビョルンドッター」
→ これも自分はアイスランド語に詳しくないという前提で。中世アイスランド人の名前だが,この表記はひどい。中世と現代に発音の差はあるだろうということを鑑みても,せめて現代の発音に近いものにしておくべきで。dottirと綴るんだから”ドッター”はなかろう。この場合は「ビョルンドッティル」や「ビョルンドゥフティル」あたりが適切ではないか。
→ あと,この女性人名のみならず本書全体で勘違いされているっぽいのだが,ビョルンドッティルは姓ではなく父称である。姓のように扱って書いてはいけない。



下巻
p.48〜70
→ 日本を扱った章だが,全体的にかなり苦しい。江戸幕府の日本が17世紀後半以降飢饉が多発するようになった理由を森林伐採による環境破壊に求めていながら,一方で崩壊せずに250年続いた理由を森林管理・人口調整をするようになったからとしている。これだけ読むと筋は通っているのだが,一通り日本史をやった人なら違和感を覚えるはずだ。
→ 一つずつやっていく。18世紀以降,森林管理をするようになってから飢饉の多発が止まったかというと,全くと言ってそうではない。むしろ18世紀後半になるほど多くなっていき,最大の被害が出たのは天明の大飢饉(1782〜84)。原因は気候の寒冷化と火山の噴火。まさに本書のテーマの一つ,非人為による環境変動に当てはまるはずだが,本書はこの点を全く指摘していない。意図的に無視しているのにせよ勘違いにせよ,これは大問題だ。幕府による森林管理自体はあった施策だと思うが,本書の指摘するような治水的意味合いは強くなかっただろう。
→ もう一つ,人口調整は確かにそうした面もなくはないもので,本書の「江戸時代の出生率の上昇と下降が,米価の上昇と下降に連動している」という指摘はまあそうだろうと思う。が,どちらかというと江戸時代の人口成長が2700万人付近で停滞した原因は経済統制と鎖国による社会矛盾の増大が原因であるはずだ。結果として農村人口が大量に都市に流入するも,劣悪な環境下で都市は平均寿命が極端に下がり,結果として人口が一定以上に増えなかったといういびつな構造である。鎖国と米本位の経済体制をやめれば状況は大きく変わっていただろう。

p.50 「平和と繁栄は,日本の人口と経済を一気に押し上げた。戦国時代の終わりから一世紀のうちに,以下に挙げるさまざまな要因がうまく重なり合って,人口が倍増した。平和な世が続いたこと,(中略)二種類の生産性の高い作物(ジャガイモとサツマイモ)の新たな伝来によって農業の生産力が向上したこと,(後略)」
→ サツマイモの伝来は確かに1600年頃ながら,普及は18世紀の享保の改革以降なので外れる。ジャガイモも同じで,伝来は1600年頃だが普及は18世紀に入ってから。サツマイモのほうは青木昆陽の有名なエピソードじゃないか?
→ ちなみに同様の勘違いはしばしば起こる。日本同様,中国も清朝の康煕帝から乾隆帝までの約150年間(1661〜1796)で急激に人口が増加し,その原因として新大陸産の救荒作物が挙げられる。これ自体は事実だが,そのジャガイモ,サツマイモが伝播したのは清代ではなく明末にあたる。そもそも,ヨーロッパでも16世紀に伝播してすぐには普及していない。結局伝播から普及までは時間がかかる,という話で。

p.59 「(森林を破壊する)農業への圧力を緩和するため,(食糧生産が多角化され)魚介類やアイヌとの貿易で得た食料への依存を増やしたことだ。」
→ これも勘違いではないかと思う。食料生産の多角化は幕府が望んだものではなく,単純に経済成長による産業発展の結果であるはずだ。そもそも幕府としては実質的な貨幣を果たす米の増産が第一であったはずで,一部有力な藩が藩政改革の一環で商品作物の専売はしていたものの,主導は商人や富農であった。これにより農村に貨幣経済が浸透して自作農の没落・貧富の差の拡大が発生し,江戸の農村社会が不安定になっていく。そりゃ耕す田畑の無い貧農の次男坊三男坊は都会へ出ますわな。で,その多くは若いうちに死んで,江戸時代の人口”安定”に寄与するわけだ。
→ さらに草木灰から金肥(魚粉)への肥料転換が指摘されており,これ自体は事実だ。しかし,これも森林破壊防止というよりは単純にそのほうがよく育ったからではなかったかと思う。金肥は高価だったので,綿花など高価で採算の取れるものにしか使われなかったはずだが,うろ覚えなので誰かに補足を頼みたい。なお,草木灰利用の普及は江戸初期ではなく鎌倉時代だったはずなので,いずれにせよ草木灰を江戸時代の森林破壊の要因と見なすのは苦しいのではないか。

p.60 「十七世紀末には,木の代替燃料として,石炭の利用が始まった」
→ 確かに石炭利用の開始はそのあたりだが,急激に普及したかというとそうでも……臭いで嫌われて地元の北九州以外では流通しなかったはずである。薪炭不足が原因なので,指摘自体は正しいものの,森林管理の一環といえるほど大規模ではなかったかと思う。

p.66 「(日本の)南西部は亜熱帯気候,北部は温帯気候に属するが」
→ これはひどい。すぐ確認できるんだから誰か指摘してやれよ。北海道のみ冷帯,本州他大部分は温帯,そして南西諸島・小笠原諸島のみ亜熱帯に属する。今ぐぐったら「北東北も冷帯とする」説も見つけてしまったが,いずれにせよ南西部が亜熱帯はありえない。


p.121 「フランス領サン・ドミング」
→ フランス語なんだからサン・ドマングが定訳では。


以下は「追記 アンコールの章」の記述。

p.472 「現カンボジアに位置する”扶南”という土地で」
→ 扶南は確かにクメール人の王朝だが,場所は現ベトナム南部のメコン川デルタ地帯を中心とするので,「現カンボジアに位置する」と言い切っていいかどうかは怪しい。私的には苦しいと思う。また,この場所に関する問題はp.475の項でも取り上げる。

p.475 「東隣りの南ベトナムのチャム族」
→ これは個人差があるので,人によっては誤解でもなんでもないと言うかもしれない。というか,「南ベトナムに位置したチャンパー」と書いてある歴史の本は多数あるので。ただ,厳密に言えばチャンパーが存在したのはベトナム中部(もしくは中南部)のはずである。(Wikipedia:チャンパーの版図
→ どういうことかと言えば前項にも書いた通り,現ベトナム南部は長らくクメール人の居住地で,これをベトナムの王朝が征服したのは黎朝の18世紀頃のことになる。この征服以前の現南ベトナムは”当時はベトナムではなかった”と見るなら,確かにチャンパーが南ベトナムで,ベトナム人の王朝(李朝・陳朝)があったのが北ベトナム,ということになる。
→ ただし,私はこの見方に同意できない。なぜなら,この観点で平等を期すならば,チャンパーが存在した地域は「チャンパー」としか表現できないはずで,現北ベトナムだけを指してベトナムと言うべきである。にもかかわらずチャンパーを”当時の南ベトナム”と言ってしまうのは「チャム人は将来的にベトナムに吸収されて少数民族に転落するのだから過去に遡及して無視しても良い。ただし,クメール人は現在カンボジアという独立国家を持っているのだから配慮すべき」という浅慮が透けて見えるからだ。
→ 話がややこしくなるので,現在の諸国の版図を基準にすべきで,少なくとも陳朝・黎朝によるチャンパー侵略が始まる以前のベトナムは「ハノイ王朝があるのが北部,チャンパーがあるのが中部,クメール人居住地域が南部」でよいのではないか。
→ もっとも,この著者,もしくは訳者がどういう意識でチャンパーを南ベトナムとしたのか,推測できないが。ただし,本書のp.484に「ベトナムは1700年代にメコン・デルタをクメール人から奪った」という記述があるので,史実は押さえているようだ。

p.476 「(前近代の人口高密度都市の代表例として)七世紀のバグダッド」
→ これもひどい。バグダードの建設はアッバース朝二代目カリフ:マンスールによるもので,アッバース朝の建国自体が750年なのだから七世紀は絶対にありえない。

p.477 「十三世紀ミャンマーのバガン
→ パガン朝の首都を指しているならパガンが正しい。BとPの見間違えはなさそうなので,パとバか。
  
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第223回『文明崩壊』ジャレド・ダイアモンド著,楡井浩一訳,草思社(文庫)

『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンドの著作である。あちらは「文明の発祥・発展とその条件」とポジティブな方向で文明を分析したものであったが,こちらは「すでに滅んでしまった文明,及び現代社会の環境破壊におけるその要因」が主なテーマとなる。ここで”現代社会”と入っているところが一つポイントで,前作のノリで読むと少々苦しい思いをすることになると思う。というのは,確かに本書は歴史上の諸文明の滅亡理由にも焦点を当てているものの,それは現代社会分析で応用するためであって,本書の主眼はあくまでも現代社会の環境破壊が現代文明崩壊を早めているのではないか,という極めて現代的なところにある。私は歴史物だと思って読み始めたから,現代社会の比重が大きく,少し拍子抜けしながら読むことになってしまった。読書をする上で読み始めの心構えは大事であるから,これはこれからの読者のために警告しておきたい。

また,前著はそうでもなかった気がしたが,本書はアメリカ国民向けへ向けられた視線が強い。環境問題を扱った本であり,現在の地球環境を破壊している最大派閥はアメリカ人であるから,著者がアメリカ人であることを差し引いてもその判断は正しかろう。しかし,それを日本人の私が読むという観点で見ると,勝手ながら少々ピントがずれた話をしていると思える箇所は何箇所かあった。それはあまりにも基礎知識すぎやしないか,と思える部分も。特に第1章のモンタナ州の話はこの欠点が強いので,読破に自信がないなら読み飛ばすことをお勧めする。この辺は,実はアル・ゴアの『不都合な真実』を6年ほど前の流行った時にも全く同じ感想を抱いたので,アメリカ人の意識・知識なんてそんなものかもしれない。少なくとも2005年頃は。本書も英語で最初に出版されたのは2005年のことだったか。

あと書いておくべきこととして,若干の用語の不適切ないし誤解が見られる。章によってはかなり多い。自分が指摘できるくらいなのだから,世の中でもっと騒がれているだろうと思って検索したが,意外にも指摘がほとんど無かった。どういうことなんだよと首を傾げながら,以下自分が気づいたものをささいな点から重大な点まで列挙しておく。著者が悪いのか翻訳が悪いのか……。本当はこの記事の最下部につけておく予定であったが,あまりにも多くなってきたので別記事を立てることにした。→ 『文明崩壊(ジャレド・ダイアモンド)』で気になったところ


とはいえ,本書には美点もある。本書は文明が崩壊する理由を5つの要因に分類して分析している。すなわち,「(人為・非人為によらず)環境の変動」,「(短期・長期によらず)気候の変動」,「近隣の敵対集団の存在」,逆に「友好的な集団の存在」,そして「変化に対する社会の対応」の5つである。この分析項目は的確で,過去の崩壊した文明,崩壊しなかった文明の説明は整然となされていたように思えた。特に力が入っていたと見えて,大きく取り上げているノルウェー領グリーンランドの事例はとてもおもしろく読めた。ただし,比較すると現代社会に対する分析は前述の事情もあってやや新鮮味を欠くものが多い。

本書の特質は,訳者あとがきにもある通り安易な古代社会賛美に走らず,極めて公平な目で古代社会を評価している点だと思う。そう,人間は古代だろうと現代だろうと,環境を破壊し続けており,そのコントロールがうまく行かなければ崩壊するのだ。また安易な人類批判に走ってもいない。環境の変化は人類自身が引き起こしたものもあれば,地球自体の長期的な変化が及ぼしたものもある。これに対する社会の対応も様々なで,一概に崩壊した社会の成員だけが原因だとは決め付けることができない。原因は大体複合的なのだ。この視点が貫かれているのは美点であった。

総じて,前書『銃・病原菌・鉄』ほどのおもしろさはなく,お勧めしづらい。


文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫) [文庫]
著者:ジャレド ダイアモンド
出版:草思社
(2012-12-04)

文明崩壊 下: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)文明崩壊 下: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫) [文庫]
著者:ジャレド ダイアモンド
出版:草思社
(2012-12-04)



  
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2013年04月11日

『三国志 7・8巻』宮城谷昌光著,文春文庫

実は最も書くべきことは前回の書評に書いてしまっている。8巻でとうとう劉備が死ぬことになるが,これによって本書の頂上は過ぎてしまったように思う。

劉備は捨てに捨てて曹操の対極を行った。彼の徳はそれゆえに高まったものであるが,これは次の当たり前ことをも意味する。持たぬゆえに,物理的な意味では曹操に勝てぬのだ。劉備が彼自身の正義を貫きつつも野望を達成するには,自らの徳の源泉自体を捨てて物理的な所領と軍事力を手に入れる必要があった。この指針を示したのが諸葛亮であったのだろう。だからこそ,劉備をわかりすぎている関羽と張飛は,決して諸葛亮と親しくならなかったし,劉備自身も次第に徳を失っていく。最後には暗愚な息子への愛情をも捨てられず,これを指して「劉備の一生には創意も工夫もなかった。ただし,それをつらぬいたことで,凡庸さをも突き破ったのである。が,曹操の有為に対して劉備の無為は,秘めた徳というべき玄徳に達したか、どうか。」と来る,宮城谷三国志の冷酷なまでの人物評と文章の美しさに,ページをめくる手が止まるほどしびれた。

劉備の直接的な死因は夷陵の戦いといってよいと思うが,夷陵の戦いの原因は関羽の独断専行であった。呉が裏切らなければ,という話であるのはもちろんだが,同盟軍といえど南郡(江陵)の食糧を勝手に利用した時点で呉の憤慨は予想できたことであったし,呉の領土からの食糧略奪がなければ樊城(襄陽)を落とせなかったのであればやはりそれは無謀な計画だったと言わざるをえない。史実でもなぜに関羽が独断専行したのか大きな疑問点であったが,その理由として本書が挙げる「劉備が失った徳を,義兄弟が取り戻そうとした。そのために曹操と戦うという大義が必要であった」というのはそれなりに強い説得力があった。関羽は半ば死地に赴くつもりであった,とするのは踏み込みすぎであろうか。死して関羽は劉備への敬愛を示したのだ。

一方,曹操の死は淡々としたものであった。あくまで正統派な英雄だったということであろう。ちょっとおもしろいのは,本書の曹丕はほとんど暗君と言っていい状態であることだ。確かに彼にそういう要素はあるが,一般的なかかれ方よりもかなり悪しざまであるように思う。この理由はどうやら9巻にまわされるようなのでそちらに期待したい。ところで,本書は小説の三国志にしては珍しく九品官人法に触れており,曹操の実力主義から安定した家柄・貴族主義への転換点として評価(というよりも批判)している。この点は好感を持った。確かに,小説としての三国志の主流ではない事象だが,ある種の「三国志」の終わりの始まりであり,唐まで続く中国社会の基盤となった制度であるので,本来は触れない方がおかしい。

また,本書の孫権は一貫して胡散臭い人物として描かれている。確かに呉の外交的立ち回りを見るとその通りなのだが,これは呉の立ち回りであって孫権の立ち回りではないのでは,という気はする。この孫権の描かれ方の理由も,今後出てくるのだろうか。


三国志〈第7巻〉 (文春文庫)三国志〈第7巻〉 (文春文庫) [文庫]
著者:宮城谷 昌光
出版:文藝春秋
(2011-10-07)

三国志 第八巻 (文春文庫)三国志 第八巻 (文春文庫) [文庫]
著者:宮城谷 昌光
出版:文藝春秋
(2012-10-10)

  
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2013年02月23日

第219回『天地明察』冲方丁,角川文庫

タイ旅行の飛行機の行き帰りもたせる予定が,あまりのおもしろさに旅行中に読み終わってしまった小説。なお,帰りの飛行機では偶然にも『天地明察』映画版が視聴可能であったので,これを見て帰った。映画版については別記事を立てたいと思う。

というわけで,とてもおもしろい小説であった。歴史小説ではあるが,本質的な所では綺麗な「努力・友情・勝利」でとても少年漫画らしい作りになっている。いやらしさがなく非常にさわやかなのは主人公の性格自体がそうでありつつ,周囲の人間もまた気のいい人たちばかりであり,まさにそうした好漢たちの努力の結晶が,貞享暦の勝利として最終的に帰結する。痛快な物語である。この物語とキャラの明快さはライトノベル由来だとすれば,ラノベも他の小説ジャンルに新風を吹き入れているのだなと感覚を新たにするところである。(というのがラノベも歴史小説も中途半端にしか読まない身の正直な感想であるが,全く的外れかもしれぬ。)

一方で,暦の改訂という一制度上の変更にすぎないものを,政治体制の転換に結びつけて話を大きくしたところは歴史小説らしいところで,うまいこと融合しているとも言える。ついでに言えば,わかりやすい巨悪を設置せず,歴史の重みそのものを敵とすることで,さらにさわやかになっていると思う。その意味では,本作は歴史と科学の戦いでもあるのだが,科学の側に神道や朱子学を味方させることでそこもうまいこと和らげている。特に朱子学は比較的守旧派として描かれることが一般的に多いので,こうした使い方はとても珍しく思えた。この辺りも歴史小説らしい工夫と言えるのではないだろうか。(というところで,映画を見た方には,私にはあの映画が大いに不満だったことは察していただけるかもしれない。)

言うまでもなく本作最大の特徴は主人公,渋川春海の性格である。才能があるのに(それも多才),生まれの事情から卑屈で,読んでいると「君はもうちょっといばってもいいのだよ」と声をかけたくなる。しかし卑屈すぎるというわけではなく,見る目のある人に大業を与えられればそれをきちんとやり遂げていく。挫折と挑戦を繰り返す中で卑屈さはなくなり,どっしりと構えられるようになっていく様子は,歴史小説であり,一人の人生という長いスパンを描けるからこそのゆったりとした成長物語であろう。自らの言をひっくり返すようであるが,少年漫画特有の不自然さといえば,急激な成長の早さだと思うのだ。ドラゴンボールもそこをうまいこと処理しているなと思うが(孫悟空がちゃんと年をとっているので),話がそれてきたのでこの辺でやめておく。


ちなみに,授時暦は元代の中国で,郭守敬という天文学者が作ったものだ。本作でも「正確無比」と評されているが,郭守敬が参考にしたのはイスラームの天文学であった。ユーラシアの大部分を統一したモンゴル帝国では人材の交流が活発であり,特に元朝では西方の人材が「色目人」として,モンゴル人に続く身分制度の二番目に置かれていたことは習った覚えのある方も多いのではないか。続く明朝では大統暦が採用されたことと,授時暦に比べて正確さに劣ることが本書で紹介されているが,実際大統暦はそれほど重要ではない。しかし,本作で紹介されない大統暦の次,清朝の暦は非常に重要である。これを「時憲暦」というが,その根本に使用された知見は西洋由来のもので,伝えたのはイエズス会宣教師の一行であった。成立は1644年で,実は貞享暦よりも早い。日本の改暦事業にも,以後は西洋の知見が取り入れられるようになっていく。世界の学問の最先端がイスラーム世界から西欧に移り変わったことを図らずも示しているのが,極東の暦事情であったりするところも,歴史のおもしろみと言えるかもしれない。


歴史小説であるので史実と異なるポイントがいくつかある。これらについては一通り参照しておくべきであろう。ということで,参考文献の著者(近世数学史)から入ったツッコミを張っておく。 
→ ここが違うよ『天地明察』:参考文献の著者から(satokenichilab's blog)
その他,天文学や囲碁の観点からも史実との相違や著者の誤解と思しきところに指摘が入っているので,気になる方はいろいろ調べてみるとよいだろう。


天地明察(上) (角川文庫)天地明察(上) (角川文庫)
著者:冲方 丁
販売元:角川書店(角川グループパブリッシング)
(2012-05-18)
販売元:Amazon.co.jp
  
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2013年02月15日

書評『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』酒井健,ちくま学芸文庫

本書を読むきっかけとなったやり取りについて,先に書いておきたい。それはある日twitterでこのようなtweetを見かけたところから始まる。

「12世紀のドイツ、フランスじゃあ人口の9割が農民、そのうちのほとんどが非キリスト教徒、という記述を読んで、ほおーっと思う。4世紀末にローマ帝国国教化、と話したから、ヨーロッパ全体がそこですっかりキリスト教に染まると勘違いしている学生が多そうだな。」

え,いやそんなはずはないだろう,というのが初見での感想であった。後半の感想もおかしい。4世紀末での国教化時点でローマ系住民はかなりの割合で改宗しているはずで,ゲルマン人に対してもアリウス派の布教が広まっていたはずである。そしてカトリック教会もゲルマン人への布教は熱心に行なっており,だからこそクローヴィスのアタナシウス派改宗やグレゴリウス1世は重要人物として歴史に名を刻んでいる。

ではこの情報のソースは何かというところで,本書が紹介されていた。そして著者名を見てまた驚いた。酒井健氏はバタイユ研究で有名な方で,そうそういい加減なことは書かない人だからである。ただし,本職とは別の分野であることはやや気にかかった。この本は後日読むこととして,TLでとある方と話し合って出た結論としては,

「実際に聖職叙任権闘争が解決するまでは,まともな(カトリックの)聖職者が存在しない地域(教区)も多かった。いわゆる冠婚葬祭の形式統一が図られ,生活にカトリックが浸透するのは中世末のことであった。また,13世紀まではまだカタリ派などの異端も生き残っていた。これらのことを考慮すると,表面的・アイデンティティとしてクリスチャンであっても,実態として異教徒であった人の割合が12世紀時点で90%であったということを言いたかったのではないか

ということであった。で,本書を読んでみた結果としては,半分ほどはこの結論で推測として間違っていなかったようである。該当部分を引用する。

「大開墾運動の始まる十一世紀半ば,フランスの総人口の九十パーセントは農民だった。そして彼ら農民のほとんどは非キリスト教徒であった。たとえキリスト教に帰依していても,それは表面上で,生活の中で彼らは異教の信仰と風習をしっかり維持していた。」

元tweetが間違っている点を指摘するとすれば12世紀とは本書に書かれていない点で,実はこの100年の違いは大きい。1050年から1150年の間に中世ヨーロッパは大きな変化を遂げているからだ。大開墾が進み,商業が復活し,叙任権闘争が起き,十字軍が始まり,レコンキスタが激化し,12世紀ルネサンスが始まった。そしてまさにこれらを要因としてゴシック様式が生まれたのがこの期間であった。(中世ヨーロッパの社会変化については以前書いているので,そちらの記事参照のこと。→ 中世ヨーロッパの11世紀以前・以後)ところで,あえてリンクを張らなかったがこの元tweetをした人,どうも学者のようなのだが,この辺のことを知らなかったとするとすさまじく危ういような。中世ヨーロッパ史の根幹がすっぽ抜けているわけで。


閑話休題。ともあれ本書は決して怪しげな本ではなく,やはり信頼できる著者によるちゃんとした精神史の書物である。前半はゴシック様式の誕生した経緯について,精神史の観点から説明している。すなわち,「森林から抜け出た元農民たちは,都市でも母なる森林を必要とした」結果としての高層・過剰装飾・列柱のゴシック様式なのだということを語っており,様々な論拠を挙げていて強い説得力を持っている。特にバタイユを引いて聖性の二極面を説明し,死や自然への畏敬が教会へ入り込んでいったことを紹介したあたりは,とてもこの著者らしくて良い。

しかし1つだけケチをつけるなら,精神史を焦点としているといえど周辺的な事情についてはばっさり省いた説明になっている点を挙げておかねばなるまい。商業の復活と都市人口の増加により城壁の内側の面積が不足し,高層化の傾向が強まったこと。その延長線上にゴシック建築があることや,建築技術の発展はイスラーム文明の流入(12世紀ルネサンス)に負うこと等もほとんど記述が無い(12世紀ルネサンス自体は「スコラ学とゴシックの関連性」のところで触れているにもかかわらず)。完全に精神史に焦点を当てたはいいがそれで全て説明しようとしているところは,危うい。何より叙任権闘争に関連する事項は全くと言って記述が無かった。叙任権闘争があったからこそ教会は教義や儀式を西欧中に行き渡らせることができたのではなかったか。ずらずらと説明しろとは言わないが一言二言添えるだけでも違ったはずで,よく知らずに本書を手にとった読者が,(それこそ上記のtweetの類の)勘違いしないか心配である。

後半はルネサンス以後の精神史,ゴシックに対する毀誉褒貶を追う章となっている。こちらもおもしろいし,簡潔にまとまっている。こうして読むとルネサンスはゴシックの反発として全てをひっくり返しているなぁと。宗教改革はまだしも,ルネサンスがこれだけ残念系で語られる書物もなかなか無い。ゴシック=リヴァイヴァルの部分ではイギリスの庭園文化やピクチャレスク・廃墟・崇高などにも触れており,アレグザンダー・ポープやジョゼフ・アディソン,エドマンド・バーク,ホレス・ウォルポールといった,イギリス園芸について調べたことがあれば必ず知っている面々の名前も上がっている。この辺りの簡潔なまとめとしても優れている。一方,ところどころに著者のど直球な感想が入り込んでいるのも興味深い。特に宗教改革ではカルヴィニズムにはかなり手厳しい記述になっているが,著者は何か恨みでもあるのか。「エッフェル塔は崇高ではない」という著者のコメントも,これ自体意見の分かれるところだろう。


ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)
著者:酒井 健
販売元:筑摩書房
(2006-05)
販売元:Amazon.co.jp
  
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2012年12月15日

書評:『蝉丸Pのつれづれ仏教講座』蝉丸P,エンターブレイン

知っている人は知っている,ネット界のリア住こと蝉丸Pによる仏教講座。構成は大きく分けて4つ。現代日本の仏教・宗教に関する一般の方が疑問に考えていそうなことに対する解答あれこれ(第1章),現代日本の仏僧の生活の様子(第2章前半),海外の仏教事情(第2章後半),仏教史(第3章)。これを大きく2つに分けると第1章と第2章の前半が「現代僧侶FAQ」,第2章後半と第3章はそこから漏れた話という形になる。

本書執筆の動機が「ネット檀家から同じ質問を何度もされるため」ということなので,前半に関しては本当にその通りの問答集になっている。逆に言って,後半は蝉丸Pが積極的な理由で書きたかったところで,彼の問題意識が前面に出た文章である。とりわけ,”ピュアブッディズム(ロマン派仏教)”に対する懐疑は何度も提示されていた。約430ページという大著であり,内容はとてつもなく濃い。「わかりやすく解説」だし,「ネタっぽく見える」からと気軽に読み始めると挫折することが容易に想像できる本となっている。前半の「現代僧侶FAQ」はまだ気楽に読めるのだが,第2章後半あたりからとても掘り下げた話がざくざくと出てくる。無論のことながら考えてそういう構成にしたのだろう。

文章自体は読みやすく可読性は高いのだが,一方で,ネットスラングとオタク用語は躊躇なく使用されており,一応解説・捕捉は入るものの多分に”解説自体がネタ”になっているため,おおよそ機能していない。そもそも親ネット・親オタクでなければ本書を手に取ることはないと思うし,事実amazonなどのレビューを読んでもそこに苦言を呈しているものはあまり見かけない。が,可読性とは別方向に,たとえがやや強引だったり逆にわかりにくかったりして,そこまで無理してオタク性を出さなくてもいいのではと感じる箇所は多々あった。これは特に前半,FAQのパートで強く見られた。

前半はFAQなだけあって,動画の形でよりわかりやすく説明されているものが多い。既存のネット檀家の一同ならば「この説明ニコニコ動画で読んだ」ということが多かったであろう。一方,後半は目新しい話も多く,私自身後半のほうが楽しんで読めた。本書で一番おもしろいのは「海外の仏教事情」の部分ではないだろうか。新たに得られた知識もさることながら,ピュアブッディズムへの懐疑という著者の問題意識が強く伝わってきて,読み応えがあった。第3章の仏教史に関してもよくできているのだが,2箇所ほど誤りがあるので指摘しておく。私が持っているのは初版なので,今はもう直っているかもしれないが,ぐぐっても正誤表が見当たらなかったので。

p.267:「アーリア人がインダス文明を滅ぼし」と書いてあるが,現在この説はあまり支持されていない。アーリア人のインド進出は紀元前1500年頃から始まっているが,インダス文明は紀元前1800年頃までに自然現象(洪水や旱魃)を原因として滅亡済,というほうが有力。

p.336:「5世紀にイスラーム教の開祖ムハンマドが昇天してから……」とあるが,言うまでもなくムハンマドの昇天は630年頃,つまり7世紀のこと。まあ蝉丸Pが知らないはずがないので,指がキーボード2つ分ずれていて,校正も誰も気が付かなかったんだろう。


蝉丸Pのつれづれ仏教講座蝉丸Pのつれづれ仏教講座
著者:蝉丸P
販売元:エンターブレイン
(2012-06-15)
販売元:Amazon.co.jp
  
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2012年09月06日

書評『西洋美学史』小田部胤久著,東京大学出版会

約一ヶ月間,仲間内でtwitter読書会をやっていた本である。togetterにまとめられているので,それらと参加者のブックレビューのリンクを張っておく。

初回:はじめに,1章(プラトン),2章(アリストテレス),3章(プロティノス)
2回目:4章(アウグスティヌス),5章(トマス=アクィナス)
3回目:6章(ライプニッツ),7章(ヴィーコ),8章(ヤング)
4回目:9章(ヒューム),10章(レッシング)
5回目:ドイツ観念論回:11章(カント),12章(シラー),13章(シュレーゲル)
6回目:ドイツ観念論回2:14章(シェリング),15章(ヘーゲル)
7回目:最終回:16章(ハンスリック),17章(ハイデガー),18章(ダントー)

tieckPの感想(読書メーター)
シノハラユウキさんのブックレビュー(logical cypher scape)
ja_bra_af_cuさんの読書会の補足と余談(Sound, Language, and Human)

読書会を離れた全般的な感想として。ヘーゲルから最後までの4章以外は,章立てこそ主題に立てられた哲学者の登場時代順となっているものの,比較的全時代を通じて通用するトピックが挙げられており,そのテーマに言及した哲学者は時代を問わずその章で扱われている。つまり,時代順のように見えて実はテーマ別という,やや不思議な構成をとっているのが本書であった。各章のテーマ設定については,参加者の一人シノハラユウキ(@sakstyle)さんのブックレビューにまとまっているので,そちらをご参照いただきたい。実はこうした構成をとっているがゆえに,多様な言及を行った哲学者は章を飛び越えて何度も登場する。カントとシュレーゲル,シェリング,そして何より自分の章を持っていないのにもかかわらずガーダマーがやたらと何度も登場するのはそのためである。また,逆に言ってヘーゲルから後ろ4章は「西洋的な芸術概念の終焉」がテーマとして通底している章であり,時系列的にしかまとめようがなかったのであろう。

個人的な好みで言えばテーマ別よりも完全時代順のほうが好きではあるが,今回読んでみて,美学はテーマが非常に多岐に渡るので,このような構成にしなければ逆に煩雑になるのだろうということはよくわかった。逆に言って,過去に登場したトピックがかなり時代を隔てて再登場するというのは他の学問でなかなか見ない,美学のおもしろい点だと思う。また,そのトピックの内容の変更点が,その哲学者(美学者)本人の性向によるものか,時代に伴う変化によるものか,というのを考えるのはとてもおもしろかった。美学というよりは哲学全体に言えることではあるのだが,そこに普遍性を求められても現代の目線から言うと例外があるので成り立たない理屈というのは割りと多かったように思えた。世界の広がりは,哲学の理論に大きな影響がある。

一方で,「それは本当に同一テーマか?」という強引な話題転換が多く,ちょっとついていきづらいところは多かった。より多くの美学者(とその理論)を出すため,概説書としての使命を果たすために仕方がなかったのだろうなという著者の苦労が透けて見えるところである。同様の現象として,章題の人物よりも別の美学者のほうがより多く紙面がとられていた章がいくつかあり,本書の構成の困難さをうかがわせた。ライプニッツの章はバウムガルテンに,ハイデガーの章はメルロ=ポンティにのっとられている。


西洋美学史西洋美学史
著者:小田部 胤久
販売元:東京大学出版会
(2009-05-27)
販売元:Amazon.co.jp
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あとは,読書会を通じて得られた感想として。とりとめもなく。togetter見ながら読んでもらえるとよい。
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2012年07月07日

書評:『三国志 演義から正史へ、そして史実へ』渡邊義浩著,中公新書

三国志の研究者,渡邊義浩氏の新書。テーマはサブタイトルの通り。まず,いわゆる「正史」が史実のように扱われている現状を突き,正史もまた陳寿による偏向がある点を説く。その上で,(現代歴史学がわかっている)史実と正史,そして『演義』の違いを比較していく。その目的は『演義』の文学性の強調である。正史を史実と誤認するのと裏返しに,しばしば創作性が批判されている『演義』ではあるが,質の悪いものであれば現代まで生き残っていない。本書では『演義』成立の過程を説明し,最終的に出来上がった清代の毛宗崗本の特徴を述べている。

毛宗崗本の特徴は三人の人物に焦点を当てており,曹操・関羽・諸葛亮がその3人である。本書もこの3人+『演義』の被害者:呉+袁家を軸に章立てして,魏呉蜀の正史と史実,そして『演義』の違いを並び立てていく。曹操がいかに『演義』で批判され,逆に「正史」では称揚されているか,という知られた話もあれば,研究者らしくつっこんだ話もある。なくてもよいが,多少儒教や,その後の中国史に関する知識があると,より深く楽しめるかもしれない。関羽がなぜ神となったかとか,諸葛亮と劉備が実は「水魚の交わり」ではなかったのではないか,等の語りはなかなか特徴的。

本書の最後には,渡邊義浩氏の研究のメインテーマである「名士論」についての話と,それに関連して九品中正が中国史における豪族の貴族化を促したという話が出てくる。後者の話は,高校世界史で触れるが説明されない部分なので,高校世界史をやったことがある人ならさらにおもしろいかもしれない。前者の「名士論」は,著者がその著作で,論文から一般書に至るまで折にふれて語る概念だが,本書は新書で紙面も短いため,相当端折って書かれている。ややずれるが,私は割りと名士論に好意的な立場である。なんでもかんでも説明できるとは思わないし,氏の考えにはやりすぎの部分もあるものの,ああした地方豪族と君主のせめぎあい自体は世界史上ある程度普遍的な現象であるし,三国志の多くの事象をうまく説明できていると思うし,何よりその後の九品中正と貴族化の流れを綺麗に説明できる。

そういうわけで,物語としての三国志は好きだけど,研究としての三国志の入門ってどんなのかなーとか考えてる人は是非に。堅苦しくなく,入門から踏み込む気のない人でも,楽に読めると思う。


三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書)三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書)
著者:渡邉 義浩
販売元:中央公論新社
(2011-03)
販売元:Amazon.co.jp
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Posted by dg_law at 12:00Comments(0)