2013年02月15日

書評『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』酒井健,ちくま学芸文庫

本書を読むきっかけとなったやり取りについて,先に書いておきたい。それはある日twitterでこのようなtweetを見かけたところから始まる。

「12世紀のドイツ、フランスじゃあ人口の9割が農民、そのうちのほとんどが非キリスト教徒、という記述を読んで、ほおーっと思う。4世紀末にローマ帝国国教化、と話したから、ヨーロッパ全体がそこですっかりキリスト教に染まると勘違いしている学生が多そうだな。」

え,いやそんなはずはないだろう,というのが初見での感想であった。後半の感想もおかしい。4世紀末での国教化時点でローマ系住民はかなりの割合で改宗しているはずで,ゲルマン人に対してもアリウス派の布教が広まっていたはずである。そしてカトリック教会もゲルマン人への布教は熱心に行なっており,だからこそクローヴィスのアタナシウス派改宗やグレゴリウス1世は重要人物として歴史に名を刻んでいる。

ではこの情報のソースは何かというところで,本書が紹介されていた。そして著者名を見てまた驚いた。酒井健氏はバタイユ研究で有名な方で,そうそういい加減なことは書かない人だからである。ただし,本職とは別の分野であることはやや気にかかった。この本は後日読むこととして,TLでとある方と話し合って出た結論としては,

「実際に聖職叙任権闘争が解決するまでは,まともな(カトリックの)聖職者が存在しない地域(教区)も多かった。いわゆる冠婚葬祭の形式統一が図られ,生活にカトリックが浸透するのは中世末のことであった。また,13世紀まではまだカタリ派などの異端も生き残っていた。これらのことを考慮すると,表面的・アイデンティティとしてクリスチャンであっても,実態として異教徒であった人の割合が12世紀時点で90%であったということを言いたかったのではないか

ということであった。で,本書を読んでみた結果としては,半分ほどはこの結論で推測として間違っていなかったようである。該当部分を引用する。

「大開墾運動の始まる十一世紀半ば,フランスの総人口の九十パーセントは農民だった。そして彼ら農民のほとんどは非キリスト教徒であった。たとえキリスト教に帰依していても,それは表面上で,生活の中で彼らは異教の信仰と風習をしっかり維持していた。」

元tweetが間違っている点を指摘するとすれば12世紀とは本書に書かれていない点で,実はこの100年の違いは大きい。1050年から1150年の間に中世ヨーロッパは大きな変化を遂げているからだ。大開墾が進み,商業が復活し,叙任権闘争が起き,十字軍が始まり,レコンキスタが激化し,12世紀ルネサンスが始まった。そしてまさにこれらを要因としてゴシック様式が生まれたのがこの期間であった。(中世ヨーロッパの社会変化については以前書いているので,そちらの記事参照のこと。→ 中世ヨーロッパの11世紀以前・以後)ところで,あえてリンクを張らなかったがこの元tweetをした人,どうも学者のようなのだが,この辺のことを知らなかったとするとすさまじく危ういような。中世ヨーロッパ史の根幹がすっぽ抜けているわけで。


閑話休題。ともあれ本書は決して怪しげな本ではなく,やはり信頼できる著者によるちゃんとした精神史の書物である。前半はゴシック様式の誕生した経緯について,精神史の観点から説明している。すなわち,「森林から抜け出た元農民たちは,都市でも母なる森林を必要とした」結果としての高層・過剰装飾・列柱のゴシック様式なのだということを語っており,様々な論拠を挙げていて強い説得力を持っている。特にバタイユを引いて聖性の二極面を説明し,死や自然への畏敬が教会へ入り込んでいったことを紹介したあたりは,とてもこの著者らしくて良い。

しかし1つだけケチをつけるなら,精神史を焦点としているといえど周辺的な事情についてはばっさり省いた説明になっている点を挙げておかねばなるまい。商業の復活と都市人口の増加により城壁の内側の面積が不足し,高層化の傾向が強まったこと。その延長線上にゴシック建築があることや,建築技術の発展はイスラーム文明の流入(12世紀ルネサンス)に負うこと等もほとんど記述が無い(12世紀ルネサンス自体は「スコラ学とゴシックの関連性」のところで触れているにもかかわらず)。完全に精神史に焦点を当てたはいいがそれで全て説明しようとしているところは,危うい。何より叙任権闘争に関連する事項は全くと言って記述が無かった。叙任権闘争があったからこそ教会は教義や儀式を西欧中に行き渡らせることができたのではなかったか。ずらずらと説明しろとは言わないが一言二言添えるだけでも違ったはずで,よく知らずに本書を手にとった読者が,(それこそ上記のtweetの類の)勘違いしないか心配である。

後半はルネサンス以後の精神史,ゴシックに対する毀誉褒貶を追う章となっている。こちらもおもしろいし,簡潔にまとまっている。こうして読むとルネサンスはゴシックの反発として全てをひっくり返しているなぁと。宗教改革はまだしも,ルネサンスがこれだけ残念系で語られる書物もなかなか無い。ゴシック=リヴァイヴァルの部分ではイギリスの庭園文化やピクチャレスク・廃墟・崇高などにも触れており,アレグザンダー・ポープやジョゼフ・アディソン,エドマンド・バーク,ホレス・ウォルポールといった,イギリス園芸について調べたことがあれば必ず知っている面々の名前も上がっている。この辺りの簡潔なまとめとしても優れている。一方,ところどころに著者のど直球な感想が入り込んでいるのも興味深い。特に宗教改革ではカルヴィニズムにはかなり手厳しい記述になっているが,著者は何か恨みでもあるのか。「エッフェル塔は崇高ではない」という著者のコメントも,これ自体意見の分かれるところだろう。


ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)
著者:酒井 健
販売元:筑摩書房
(2006-05)
販売元:Amazon.co.jp
  

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2012年12月15日

書評:『蝉丸Pのつれづれ仏教講座』蝉丸P,エンターブレイン

知っている人は知っている,ネット界のリア住こと蝉丸Pによる仏教講座。構成は大きく分けて4つ。現代日本の仏教・宗教に関する一般の方が疑問に考えていそうなことに対する解答あれこれ(第1章),現代日本の仏僧の生活の様子(第2章前半),海外の仏教事情(第2章後半),仏教史(第3章)。これを大きく2つに分けると第1章と第2章の前半が「現代僧侶FAQ」,第2章後半と第3章はそこから漏れた話という形になる。

本書執筆の動機が「ネット檀家から同じ質問を何度もされるため」ということなので,前半に関しては本当にその通りの問答集になっている。逆に言って,後半は蝉丸Pが積極的な理由で書きたかったところで,彼の問題意識が前面に出た文章である。とりわけ,”ピュアブッディズム(ロマン派仏教)”に対する懐疑は何度も提示されていた。約430ページという大著であり,内容はとてつもなく濃い。「わかりやすく解説」だし,「ネタっぽく見える」からと気軽に読み始めると挫折することが容易に想像できる本となっている。前半の「現代僧侶FAQ」はまだ気楽に読めるのだが,第2章後半あたりからとても掘り下げた話がざくざくと出てくる。無論のことながら考えてそういう構成にしたのだろう。

文章自体は読みやすく可読性は高いのだが,一方で,ネットスラングとオタク用語は躊躇なく使用されており,一応解説・捕捉は入るものの多分に”解説自体がネタ”になっているため,おおよそ機能していない。そもそも親ネット・親オタクでなければ本書を手に取ることはないと思うし,事実amazonなどのレビューを読んでもそこに苦言を呈しているものはあまり見かけない。が,可読性とは別方向に,たとえがやや強引だったり逆にわかりにくかったりして,そこまで無理してオタク性を出さなくてもいいのではと感じる箇所は多々あった。これは特に前半,FAQのパートで強く見られた。

前半はFAQなだけあって,動画の形でよりわかりやすく説明されているものが多い。既存のネット檀家の一同ならば「この説明ニコニコ動画で読んだ」ということが多かったであろう。一方,後半は目新しい話も多く,私自身後半のほうが楽しんで読めた。本書で一番おもしろいのは「海外の仏教事情」の部分ではないだろうか。新たに得られた知識もさることながら,ピュアブッディズムへの懐疑という著者の問題意識が強く伝わってきて,読み応えがあった。第3章の仏教史に関してもよくできているのだが,2箇所ほど誤りがあるので指摘しておく。私が持っているのは初版なので,今はもう直っているかもしれないが,ぐぐっても正誤表が見当たらなかったので。

p.267:「アーリア人がインダス文明を滅ぼし」と書いてあるが,現在この説はあまり支持されていない。アーリア人のインド進出は紀元前1500年頃から始まっているが,インダス文明は紀元前1800年頃までに自然現象(洪水や旱魃)を原因として滅亡済,というほうが有力。

p.336:「5世紀にイスラーム教の開祖ムハンマドが昇天してから……」とあるが,言うまでもなくムハンマドの昇天は630年頃,つまり7世紀のこと。まあ蝉丸Pが知らないはずがないので,指がキーボード2つ分ずれていて,校正も誰も気が付かなかったんだろう。


蝉丸Pのつれづれ仏教講座蝉丸Pのつれづれ仏教講座
著者:蝉丸P
販売元:エンターブレイン
(2012-06-15)
販売元:Amazon.co.jp
  
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2012年09月06日

書評『西洋美学史』小田部胤久著,東京大学出版会

約一ヶ月間,仲間内でtwitter読書会をやっていた本である。togetterにまとめられているので,それらと参加者のブックレビューのリンクを張っておく。

初回:はじめに,1章(プラトン),2章(アリストテレス),3章(プロティノス)
2回目:4章(アウグスティヌス),5章(トマス=アクィナス)
3回目:6章(ライプニッツ),7章(ヴィーコ),8章(ヤング)
4回目:9章(ヒューム),10章(レッシング)
5回目:ドイツ観念論回:11章(カント),12章(シラー),13章(シュレーゲル)
6回目:ドイツ観念論回2:14章(シェリング),15章(ヘーゲル)
7回目:最終回:16章(ハンスリック),17章(ハイデガー),18章(ダントー)

tieckPの感想(読書メーター)
シノハラユウキさんのブックレビュー(logical cypher scape)
ja_bra_af_cuさんの読書会の補足と余談(Sound, Language, and Human)

読書会を離れた全般的な感想として。ヘーゲルから最後までの4章以外は,章立てこそ主題に立てられた哲学者の登場時代順となっているものの,比較的全時代を通じて通用するトピックが挙げられており,そのテーマに言及した哲学者は時代を問わずその章で扱われている。つまり,時代順のように見えて実はテーマ別という,やや不思議な構成をとっているのが本書であった。各章のテーマ設定については,参加者の一人シノハラユウキ(@sakstyle)さんのブックレビューにまとまっているので,そちらをご参照いただきたい。実はこうした構成をとっているがゆえに,多様な言及を行った哲学者は章を飛び越えて何度も登場する。カントとシュレーゲル,シェリング,そして何より自分の章を持っていないのにもかかわらずガーダマーがやたらと何度も登場するのはそのためである。また,逆に言ってヘーゲルから後ろ4章は「西洋的な芸術概念の終焉」がテーマとして通底している章であり,時系列的にしかまとめようがなかったのであろう。

個人的な好みで言えばテーマ別よりも完全時代順のほうが好きではあるが,今回読んでみて,美学はテーマが非常に多岐に渡るので,このような構成にしなければ逆に煩雑になるのだろうということはよくわかった。逆に言って,過去に登場したトピックがかなり時代を隔てて再登場するというのは他の学問でなかなか見ない,美学のおもしろい点だと思う。また,そのトピックの内容の変更点が,その哲学者(美学者)本人の性向によるものか,時代に伴う変化によるものか,というのを考えるのはとてもおもしろかった。美学というよりは哲学全体に言えることではあるのだが,そこに普遍性を求められても現代の目線から言うと例外があるので成り立たない理屈というのは割りと多かったように思えた。世界の広がりは,哲学の理論に大きな影響がある。

一方で,「それは本当に同一テーマか?」という強引な話題転換が多く,ちょっとついていきづらいところは多かった。より多くの美学者(とその理論)を出すため,概説書としての使命を果たすために仕方がなかったのだろうなという著者の苦労が透けて見えるところである。同様の現象として,章題の人物よりも別の美学者のほうがより多く紙面がとられていた章がいくつかあり,本書の構成の困難さをうかがわせた。ライプニッツの章はバウムガルテンに,ハイデガーの章はメルロ=ポンティにのっとられている。


西洋美学史西洋美学史
著者:小田部 胤久
販売元:東京大学出版会
(2009-05-27)
販売元:Amazon.co.jp
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あとは,読書会を通じて得られた感想として。とりとめもなく。togetter見ながら読んでもらえるとよい。
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2012年07月07日

書評:『三国志 演義から正史へ、そして史実へ』渡邊義浩著,中公新書

三国志の研究者,渡邊義浩氏の新書。テーマはサブタイトルの通り。まず,いわゆる「正史」が史実のように扱われている現状を突き,正史もまた陳寿による偏向がある点を説く。その上で,(現代歴史学がわかっている)史実と正史,そして『演義』の違いを比較していく。その目的は『演義』の文学性の強調である。正史を史実と誤認するのと裏返しに,しばしば創作性が批判されている『演義』ではあるが,質の悪いものであれば現代まで生き残っていない。本書では『演義』成立の過程を説明し,最終的に出来上がった清代の毛宗崗本の特徴を述べている。

毛宗崗本の特徴は三人の人物に焦点を当てており,曹操・関羽・諸葛亮がその3人である。本書もこの3人+『演義』の被害者:呉+袁家を軸に章立てして,魏呉蜀の正史と史実,そして『演義』の違いを並び立てていく。曹操がいかに『演義』で批判され,逆に「正史」では称揚されているか,という知られた話もあれば,研究者らしくつっこんだ話もある。なくてもよいが,多少儒教や,その後の中国史に関する知識があると,より深く楽しめるかもしれない。関羽がなぜ神となったかとか,諸葛亮と劉備が実は「水魚の交わり」ではなかったのではないか,等の語りはなかなか特徴的。

本書の最後には,渡邊義浩氏の研究のメインテーマである「名士論」についての話と,それに関連して九品中正が中国史における豪族の貴族化を促したという話が出てくる。後者の話は,高校世界史で触れるが説明されない部分なので,高校世界史をやったことがある人ならさらにおもしろいかもしれない。前者の「名士論」は,著者がその著作で,論文から一般書に至るまで折にふれて語る概念だが,本書は新書で紙面も短いため,相当端折って書かれている。ややずれるが,私は割りと名士論に好意的な立場である。なんでもかんでも説明できるとは思わないし,氏の考えにはやりすぎの部分もあるものの,ああした地方豪族と君主のせめぎあい自体は世界史上ある程度普遍的な現象であるし,三国志の多くの事象をうまく説明できていると思うし,何よりその後の九品中正と貴族化の流れを綺麗に説明できる。

そういうわけで,物語としての三国志は好きだけど,研究としての三国志の入門ってどんなのかなーとか考えてる人は是非に。堅苦しくなく,入門から踏み込む気のない人でも,楽に読めると思う。


三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書)三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書)
著者:渡邉 義浩
販売元:中央公論新社
(2011-03)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年06月25日

書評『エロティシズムの歴史』ジョルジュ=バタイユ著,湯浅博雄・中地義和訳,ちくま学芸文庫

久しぶりに出たちくま学芸文庫のバタイユ著書(の文庫化)。タイトルは「エロティシズムの歴史」で,これを見ると割とストレートなテーマなのだろうかと思わなくもないのだが,実際のところ書いてあるものはいつもの断片集である。サブタイトルの通り,本書は「呪われた部分 第2巻」であり,『呪われた部分』同様の断片集は極めて読みづらい。一応タイトル通りと言えるのは,本書でバタイユはエロティシズムの起源を探し求めるという形で文章をつづっている点で,そこでは近親相姦と排泄行為,そして結婚を挙げている。これらが原初的なタブーであり,そこからエロティシズムの観念が発展していったという。理屈そのものはいつもの理性の誕生による禁止と,それを侵犯することによる快楽である。

では読む意味が全くないかというとそうでもなく,バタイユの思想を理解した上で読むと,1フレーズごとに区切ればなかなかしっくり来る言葉が多い。特にエロティシズムの定義については,『エロティシズム』の「エロティシズムとは死におけるまで生を讃えることだ」という名句よりも,本書の「エロティシズムとは動物の性活動と対比された人間の性活動である」のほうが,圧倒的にわかりやすい。要するに,理性の判断する,子供を生む”生産性”よりも,快楽が優先されて追求される。この活動の諸形態こそがエロティシズムである。動物性は,それそのものはエロティシズムと対置されるものである。(ただし,エロティシズムは一度人間性を肯定した上でのその破壊であるので,一周回って動物性の発露がエロティシズムとなることはあるだろう。バタイユが直接そう明言した文章は見たことがないが。)

他にも,バタイユの考えが端的に言い表されている表現がいくつかあり,その点では楽しめた本であった。「私の考えでは,思想の隷従性,つまり思想が有用な諸目的に屈服すること,一言でいえば思想の自己放棄は,ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまったように思われる。」には,バタイユが近現代にあってこのような思想体系を構築した危機感のようなものを感じる。「もし私の観点がなんらかの意味で護教論的であるとしても,その護教論の対象はエロティシズムではなく,全般的な意味での人間性なのである」も,エロティシズムの対義語が動物性ということを補強しつつ,理論構築の目的を説明している。とりあえず両方第一部から引っ張ってきたが,このような形で目を引く言葉は全体を通して出てくる。訳者あとがきも短いながらバタイユの良い説明になっていて読む価値がある。全体をひっくるめて,お勧めしていいものかどうかは,なんとも言えない。


エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻 (ちくま学芸文庫)エロティシズムの歴史: 呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻 (ちくま学芸文庫)
著者:ジョルジュ・バタイユ
販売元:筑摩書房
(2011-07-06)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年06月06日

書評『入門 世界システム分析』ウォーラーステイン著,山下範久訳,藤原書店

世界システム論(分析)について,ウォーラーステイン本人が書いた入門書の翻訳。翻訳したのも山下範久という第一人者である。ただし,決して基本的な知識の話をしているわけではなく,具体的な史実がどうこうという話をしているわけではない。ではどこらへんが入門編なのかというと,ウォーラーステインが何をどう考えた結果,世界システム分析という考えに至ったのかという点について,懇切丁寧に説明している。そこで,ウォーラーステインの出発点が,文系諸学問というと主語が大きいかもしれないが,社会科学の学問的行き詰まりへの関心から,世界システム分析に至ったことがわかる。ウォーラーステイン自身の経歴を見てもわかることだが,実は歴史学を基盤としているわけではないのだ。むしろ逆で,現代の学問の手法的行き詰まりからさかのぼっていって史的分析にたどり着いたのである。

だから話として続くのは史実の再検証ではなく,抽象的な,理論的に世界のシステムがどう変わっていったかという話であり,理論的にはこうなるという話や,ゆえに現実世界はこう分析できる,という総括的な話が多い。ややこしい・細かい話をばっさりと省いているという意味では,確かに入門書然としている。が,そうした事情により歴史畑の人間にはなかなかハードルが高い。むしろ政治学や経済学に明るい者のほうが,「この方面から歴史を切ってくとこうなるのか」という理解ができて読むのが早いかもしれないし,楽しめるように思う。

では,歴史畑の人間にとって入門書として機能してないか,というとそうではない。じっくりと読んでいけば,結果的に世界システム分析についてはきっちりと十全に説明がなされている。「世界経済」「世界帝国」「垂直的分業」「国債分業体制」「近代世界システム(=資本主義的世界経済)」あたりの基礎的な概念は,読み通せば理解できるようになっているだろう。

そういうわけで,とてもおもしろい良書ではあるのだけれど,誰に勧めてよいかはとても悩みどころである。しいて言えば自分のような,歴史畑から世界システム分析には興味を持っているのだけれど,そういえばウォーラーステイン本人の研究自体は詳しくないなーという人を対象とするのが一番勧めやすいのかもしれない。ブックガイド含めて250ページしか無い割に,読むのはけっこう根気が必要であった。今見たらamazonのレビューでも「誰に勧めて良いかわからない入門書」的なレビューが多かったので,やっぱりそうなんだろう。これも他の方のレビューにあったが,先に講談社選書メチエの『ウォーラーステイン』(リンク先amazon)を読んでおいたほうが,理解はしやすい。私からもこちらを推薦しておく。


入門・世界システム分析入門・世界システム分析
著者:イマニュエル ウォーラーステイン
販売元:藤原書店
(2006-10)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年06月04日

書評『天使と悪魔』ダン・ブラウン著,越前敏弥訳,角川文庫

本作は『ダ・ヴィンチ・コード』同様,主人公はハーバード大学で美術史学(正確には宗教象徴学)を専門としているロバート・ラングドン教授で,宗教が引き起こした事件に巻き込まれるスペクタクル小説である。基本的に敵役がオプス・デイではなくイルミナティになっているだけで,話の本筋は大体同じである。実は『ダ・ヴィンチ・コード』よりも先に世に出ており,『ダ・ヴィンチ・コード』が売れたことでこちらも世界的に有名になった。ゆえに,本作がヒットしたので,同じ方式で書かれたのが『ダ・ヴィンチ・コード』と言ったほうが正しかろう。そして,後者のほうがキリスト本人を扱った分センセーショナルであり,より爆発的にヒットした,というわけだ。もっとも,本作も扱っている分野は相当に際どい。舞台はローマとヴァチカンで,サン・ピエトロ大聖堂が灰燼と化すか否かの瀬戸際で話が続く。

『ダ・ヴィンチ・コード』を楽しめた方なら間違い無く楽しめるだろうし,逆に言って,本作を先に読むことで『ダ・ヴィンチ・コード』の試金石にすることもできよう。本作の対立軸は信仰(狂信)と科学であるが,その落ちもなかなかおもしろい。科学は時として,その宗教が創始された頃には全く予期されていなかったことをなしてしまう。それは何も素粒子物理学だけがなせる技ではないのだ。どんでん返しではあるのだが,不自然さが少ない。そういえば本作も映画化されている。今度見ておこうと思う。


実はこのブログの第1回書評が『ダ・ヴィンチ・コード』だったりするのだが,当時と今では自分の美術史学的知識に大きな違いがある。で,時間が経ってて知識も違うからどうだったのかといえば,なんのことはない,やっぱりずば抜けておもしろかった。むしろ,美術史学的知識がある分,本作のほうが楽しめたところはあると思う。「サンティ」の罠や「聖女テレジアの法悦」などはまさにラングドンと同じ心境であった。もっとも,『ダ・ヴィンチ・コード』は読んだ直後にパリへ旅行して直接サン・シュルピス教会を訪れる機会を得たという幸運があったのだけれども,今回はローマ旅行が企画されているとかそんなことはなかった。と,私事はこれくらいにして。


天使と悪魔 (上) (角川文庫)天使と悪魔 (上) (角川文庫)
著者:ダン・ブラウン
販売元:角川書店
(2006-06-08)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年03月14日

第207回『十字軍物語3』塩野七生著,新潮社

2巻の感想に書いた通り,3巻では十字軍の残り全部,つまり第三次十字軍から最後の第八次十字軍まで扱っている。そのため,非常にせわしない構成になっている。しかも,第三次十字軍に大きく焦点が当たっているため,第四次以降はかなりの部分で事実の羅列に近いものがあり,塩野七生らしからぬ淡々とした描写と言える。

しばしば言われることだが,「塩野七生はリチャード獅子心王とサラディンを描き終わったところで満足したから残りは手抜き」というのは,半分正解で半分誤りであると思う。なぜなら,第四次十字軍・第六次十字軍については彼女が好きな人物が登場しているからだ(エンリコ・ダンドロとフリードリヒ2世)。にもかかわらず,これらの十字軍についての描写が簡素なのは,以前に著述が終わっているからである。第四次十字軍は『海の都の物語』で,第六次十字軍は『ルネサンスとは何であったのか』で十分に書いてしまっているので,今更言及する意味をあまり見いだせなかったのであろう。それでも第四次のほうが言及が多いのは,それだけエンリコ・ダンドロを愛しているというのもあるだろうが,『海の都』を書いたのが30年前で,まだしも振り返る気力が湧いたのだと思う。『ルネサンス』のほうは刊行が2001年で,文庫化に至っては2008年である。まだ『ローマ亡き後の地中海世界』を執筆中の時期であり,それだけ最近のことを再び書くのはそれなりに苦痛だったのではないか。

第五次十字軍については,そもそも書くことがそれほどない。高校世界史ではスルーされる,したがって以後番号が1つずつずれ,フリードリヒ2世のものが第五次,ルイ9世のものが第六・七次ということになる。ゆえに,彼女が本当に書く気がなかったのは,ルイ9世についてであろう。しかし,それにしても本書のフランス王に対する扱いがひどい。フィリップ2世もルイ9世も随分と辛辣に書かれている。まあ,彼女がキャラ萌えで歴史を描くのは周知のことで,我々もそれが好きだから塩野七生を読み続けているのであるから,それ自体をどうこう言うつもりはない。また,それで鵜呑みに仕切らない義務はある程度読者の側にあるものであろう。本書に対するカウンターとしては,新書ではあるが佐藤賢一の『カペー朝』を挙げておく。

とはいえ,本書の核がリチャード獅子心王にあることは間違いなく,極めて魅力的な人物として描かれていた。特に,お遊びで騎士に叙したサラディンの甥っ子が,後にフリードリヒ2世と第六次十字軍で相対するアル・カーミルというのは歴史の醍醐味の一つだと思うのだが,これに関する描写は秀逸であった。この人がもう少し長生きしたら,フィリップ2世が英雄となれたかどうかは疑わしい。


が,それでも私自身はフィリップ2世のほうが好きであるし,英雄的であると思う。本書には「フィリップ2世オーギュストと古代ローマのアウグストゥスが似ているのは,長命であったことと戦下手であったこと」とあるが,フィリップ2世はそこまで戦下手ではない。というよりも,ブーヴィーヌの戦いでは同数かそれ以上の兵数の神聖ローマ帝国軍に大勝している。ぶっちゃけて言えば,呂布や関羽と正面から戦ったら誰だって勝てないが,より英雄的なのは曹操であるというのと同じではないかと思う。また,フィリップ2世の業績のものの最大は,封建制を脱して国王の代官を派遣し,加えて中央政府にも改革を加えて官僚制を推進したことであり,これがその後のフランス王権強化を決定的とした。

ルイ9世についても,彼は単純な狂信だけで十字軍を起こしたわけではない点を擁護しておく必要があろう。彼とてカペー朝の君主として王権の伸長に興味がなかったわけではない。本書では内政は善政,外政はズタズタという書かれ方をしているが正確ではない。両シチリア王国をホーエンシュタウフェン朝から分捕ってシャルル・ダンジューに預け,第四次十字軍でフランス系封建諸侯が支配することになったビザンツ帝国やヴェネツィアとも連携してあわせて地中海に影響力を及ぼしている。さらにモンゴルへはウィリアム・ルブルックを派遣してイスラームへの挟撃を呼びかけるなど,ある種先代のフィリップ2世を継ぐような斬新さ・周到さを見せている。それでも彼の十字軍が失敗したのはひとえに彼の軍事的無能さとしか評価しようがないのではあるが,総合的に見れば決して無能とは言えない。

それにも関連するが,398ページにモンゴル帝国の勢力圏の地図が掲載されているが,これの時代と出典がわからない。最盛期だとしても,インドにも網掛けが入っているが,モンゴルのインド侵入はデリー・スルタン朝の激しい反撃にあって失敗しているから勢力圏とは言えない。同様にノヴゴロド攻撃にも失敗しているので北ロシアは塗れないはずである。逆に,短期間とはいえ侵攻に成功してパガン朝を崩壊させたビルマは塗られていない等,不可解な点の多い地図である。また,402ページでマムルーク朝について「日本では奴隷王朝と訳される」としているが,これは誤り。日本では普通,インドのデリー・スルタン朝の最初を奴隷王朝と訳し,エジプトの方は訳さずにマムルーク朝と呼ぶのが慣例である。このあたりの誤りからして,モンゴルに関してはあまり調べてないんじゃないかという雰囲気がする。


十字軍物語〈3〉十字軍物語〈3〉
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
(2011-12)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年03月12日

第206回『悪霊』(3)ドストエフスキー著,亀山郁夫訳,光文社古典新訳文庫

1・2巻についてはこちら。3巻も読み終えたので,その部分も含めた話をしたい。

1・2巻のところで書いた通り,2巻末から本書の雰囲気は「狂騒」としか言いようがない状態に陥っていく。これ自体がテロリズムを考える政治結社の企みであるのだが,この政治結社の内部では個人の思想の違いから結束力に欠け,今後の計画に支障をきたす恐れもあった。そこで指導者であるピョートルは,スタヴローギンのアドバイス通り「一人殺して秘密を共有し結束力を強化する=血の縛り」を実行に移す。この陰惨な殺人事件と,その発覚過程が3巻のハイライトになるわけだが,一方で町は狂騒状態を極めていく。一方で,殺人事件の描写はいやに冷めているのである。そしてこの殺人事件の発覚と犯人集団の逮捕が,町を襲って狂騒となしたいくつものスキャンダルの原因を暴くことになり,皮肉にも町の狂騒を鎮めていくという結果となった。

無論のことながら,ドストエフスキーの『悪霊』におけるテーマは政治的テロリズムの馬鹿らしさとその結社のおぞましさの描写にある。しかし,描写上の,文章技法上の焦点としては,この町の狂騒と,いやに冷めた殺人事件の二重の推移にあったのではないかと思う。この全く正反対の雰囲気が全くの同時並行で進んでいくのは見事である。かつ,この二つの雰囲気が違和感なく次第に混ざり合っていき,それが事件の解決という文章の内容にも影響していく感覚は,さすがはドストエフスキーとしか言えない文章の冴えである。


一方,私がいまひとつこの『悪霊』を手放しで褒め称えることができず,長編では『カラマーゾフ』・『罪と罰』の3番手としか評価できないのには別の理由がある。それは端的に言って,ドストエフスキーにしてはテーマの描写に引きずられすぎていて,登場人物の描写に深みが感じられなかったことだ。ドストエフスキーが実在の事件に範をとること自体は珍しくない,というよりもこの点は『カラマーゾフ』も全く同じはずである。しかし,今回は極左サークルの内ゲバ事件が着想であり,ほぼ全く同じ事件を作中で引き起こしている。それは前述の通り,こうした結社で起こる内ゲバのおぞましさの描写が,本書の第一の目的であったからだ。

また,実のところ,本書は町一つを舞台としているため,一家の事件である『カラマーゾフ』や,個人の殺人事件である『罪と罰』に比べれば舞台は広いはずなのだ。しかし,サークルのメンバーという閉じた集団と,ステパン・ヴェルホヴェンスキーからユーリヤ夫人まで含む町の上流階級の集まりの,大雑把に分ければ二箇所しか移動がない。しかも,思い返してみるとこの二箇所を移動するのはピョートルとスタヴローギンの二人しかいない(一応レビャートキンも両方の集団に顔を出すが)。だからこそ,この2つをお話の上で結びつけるべくピョートルが2巻で八面六臂の活躍をしたわけだ。これ自体は成功していたように思う。が,その結果ピョートルのキャラだけがやけに目立ち,他の面々の描写が少々薄かったのではないか。

特にスタヴローギンは今ひとつ何をやりたかったのか,終始わからなかった。何がやりたかったというと語弊があるが,行動の指針的なものが見えないまま,(ネタバレ)いつの間にかダーシャに振られて自殺していた,というのが正直な感想である。彼については,あとがきで訳者が「有能」「神の如き」としきりに書いているのだが,全くそんな感触がない。解説をしっかり読むと,彼が暗躍していたことはよくわかったのだが,「暗躍」すぎてわかりづらかった。読解力不足と言われればそこまでだが……読み落としも含め,結局どこまでが彼らの計画でどこからが偶然の事件だったのかいまひとつ判別がつかない。ぐぐってみたが,けっこう同じ感想の人がいて少し安心した。「スタヴローギンを悪の権化だと思って読むと間違う」という人もいて,割りと納得しないでもない。というよりも,私個人の倫理観で言えば,スタヴローギンの「暗躍」は特に罪があるとはあまり……「チーホンのもとで」の告白はおいておくとして。

他の登場人物では,それでも上流階級側については1巻で紙面が割かれていたから,それなりに掘り下げがあった。ユーリヤ夫人の功名心やレンプケーの情けなさ,ワルワーラ夫人とヴェルホヴェンスキー氏の不思議な友情関係など,見所は多い。つまり,問題は反対側,「五人組」の面々である。ピョートルは当然キャラが立っていたとして,残りの面々がどうも判別がつきづらいまま殺人事件の場に至ってしまった。むしろ,彼らの殺人事件に対するかかわり方・振る舞いで判別できるようになったくらいだ。実は,読了した今でもリプーチンとリャームシンあたりが混ざる。

私自身,強い政治的保守主義で反革命派なので,ドストエフスキーの土壌主義には必ずしも賛同しないまでも,本書で描かれた暴力革命を目指す政治結社のおぞましさには共感するところがある。が,わかりきっているからこそ別の所に注目して読んだのがまずかったのか,結果として登場人物の掘り下げにだけ注目しすぎて読んだのがまずかったのか。それとも,そもそもの話,教唆に関する倫理観の著者との違いが乗りきれなかった原因か。「敗因」はこのあたりかと自己分析しておく。そこらへんを気をつけて読めば,おもしろく読めると思う。あと,本当にどうでもいいけどまた足の悪い女と聖書出てきたので,長編全部に出てくるのか期待して,いつか『白痴』に挑みたい。


悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
(2011-12-08)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年02月22日

第205回『恋文の技術』森見登美彦著,ポプラ文庫

本作はタイトルで推測のつく通り,書簡体形式をとった小説である。主人公守田一郎は相変わらずうだつのあがらない京大の大学院生という設定で,自らは院入学と同時に能登の研究所に行くことになったのをきっかけに,研究室の面々を主とした様々な人間と文通することにした,というところから物語が始まる。しかし,そもそもの目的は卒業と同時に就職しつながりを失ってしまった片思いの女性と文通することであったのだが,なかなか一通目が送れずにずるずると物語が進行していくあたりが,実にいつも通りの森見登美彦の主人公である。

本作が書簡体小説である最大の意義は,日付が入っていることだ。実際にはもういくつか書簡体であることを生かしたギミックがあるのだが,やはり最大のメリットは日付であろう。本書の章立ては手紙を送った相手ごとで区切られており,その上で日付順になっている。そのため,章が変わるごとに日付が大きく戻ることが多い。そして,第一章・二章を読んでいる頃にはわからなかった研究室内の人間関係や,作中の時間経過で起きている諸事件の日付や内容が,複数人との手紙のやり取りを読んでいくうちに次第に明らかになっていく,という具合である。この物語展開自体がおもしろい。

また,主人公や登場人物たちには様々な事件が起きるのだが,それらの事件は明示的に描写されるわけではない。「◯◯があった」と簡潔に手紙の中で語られるだけである。また,本作は主人公が他の登場人物たちへ送った手紙しか収録されていないため,事実は一方的な視点から語られる一方である。にもかかわらず,本作の諸事件が立体的に映し出されるのは,同じ事件を違う相手への手紙でそれぞれ繰り返し説明されるためであり,主人公が手紙を送る相手により説明を少しずつ変えているためである。遠慮のない相手や当事者であれば隠し事なく説明するし,見栄を張りたい相手や隠しておきたい相手にはぼかしたり誇張したりして書いている。そうしていくうちに逆に,主人公と登場人物の関係や事件の概要が改めて見えてくるのである。やはりこの構成は上手であり,フィクションの書簡体小説だからこそできる芸当であろう。

まあ,内容そのものは本当にいつもの森見登美彦なので,そんなことを考えずに適当に読んでも別に問題ない。


恋文の技術 (ポプラ文庫)恋文の技術 (ポプラ文庫)
著者:森見 登美彦
販売元:ポプラ社
(2011-04-06)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年02月15日

第204回『猫と共に去りぬ』ジャンニ・ロダーリ著,関口英子訳,光文社古典新訳文庫

これも某エロゲーに影響されて読んだ本。なのだが,『シラノ』とは大きく毛色が異なる。

著者のジャンニ・ロダーリはイタリアの児童文学作家で,本書も児童文学の体裁をとった短篇集である。思わず「体裁をとった」と書いてしまったのだが,本作に収録された各短編はあまりにもシュールだったり不条理だったりで,純な児童文学として見るには吹っ飛んでいる。大人を笑わせようとしているとしか思えない。そもそもぶっ飛びすぎてて児童に理解できるのだろうか,という疑問もあるが,子供というものは大人が思っているよりも賢いので案外理解できるのかもしれない。落ちも単純な勧善懲悪や教訓が示されるようなことは決してなく,含意には富むものの含意がありすぎて表現しづらかったり,かなりひねくれた教訓が示されていたり,教訓を通りすぎて皮肉か風刺の領域であったりとこちらも一筋縄ではいかない。

いやしかし,徹底して自由と反暴力を訴えている点では一貫している。また,性善説をとっている点でも一貫しており,子供に悪い子はいないとする一方で大人は良い人も悪い人も出てくる,という点も特徴的であろう。これだけ堂々と悪い大人が,リアリティをもって描かれているからこそ,本作は(そのシュールさや不条理さを除いてもまだなお)児童文学らしくないのかもしれない。しかし,悪い大人が過度に俗悪に描かれている点については,大人にだっていろいろあるんだよと心のどこかで思ってしまう。児童文学なんだから,強調されているに過ぎないのではと言われればそれまでではあるが,やはりしっくり来ない。

読了後,twitterで思わず「僕にこれを語る語彙がない。」とつぶやいてしまったが,正直に言って児童文学も,こうしたシュール系短編小説も,いずれも読みなれておらず,評価しようがない。感想は端的に言って「困惑」である。おもしろくないことはなかったが,かと言って積極的に評価する気にもなれず,困惑している。もうちょっと自分が皮肉を愛する人ならなぁ,ということで,私の周囲には多そうな皮肉好きたちにお勧めしておく。


猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)猫とともに去りぬ (光文社古典新訳文庫)
著者:ジャンニ ロダーリ
販売元:光文社
(2006-09-07)
販売元:Amazon.co.jp
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以下は,割りとどうでもいい割に長くなってしまった付記。作中に登場する音楽・美術ネタについて。

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2012年02月09日

第203回『シラノ・ド・ベルジュラック』エドモン・ロスタン著,渡辺守章訳,光文社古典新訳文庫

読もうとした動機は某エロゲーではあるのだが,作中での紹介にあまりにも惹かれたために購入。そして実際におもしろかったのだから,これほど幸せな読書体験もあるまい。

本書のおもしろさは話の筋というよりは小気味良いテンポで刻まれた文章のおもしろさであるが,ここで本書が翻訳であるという問題点が浮上する。私は,本書の文章的おもしろさは,原文と訳文それぞれにあると思う。おそらく原文も天才的な文章なのだろう。しかし,読者にそう思わせるだけの訳文,というのはさらにすごい。その逆が起きて悲劇となることが珍しくないだけに。より正確に言えば,本書の訳文は原文の雰囲気を出そうという尽力が見られる。日本語訳で脚韻を踏むなどということは土台無理なのは踏まえられた上で,なんとかテンポだけはあわせようとしていたり,掛詞をも訳出しようとしている。

しかし,本書が真に素晴らしいのはその脚註である。本文が約370ページに対し脚註の量は80ページであり,比較的多い部類と言える。こうした脚註は固有名詞の説明で消費されるのが普通だが,本書の場合,脚註の多くは訳出の過程で削いでしまったもの,もしくは意訳になってしまった理由の説明に費やされている。場合によっては原文や先行する翻訳,さらに(本書は演劇が元であるので)近年演じられた演劇での使用例を紹介し,そこに自分の考えを盛り込んだ上で,本文の訳を説明している。訳者の「できれば原文を読者の脳に直接流し込んでしまいたい」とでも言うような執念を感じる註である。

もちろん,他の小説でもこうした作業はなされているのであろうから,その点本書が特別傑出しているとは言えまい。しかし,表に出してくれなければ,原文を知らない・専門知識のない読者にはそうした努力は見えてこない。下手をすると,先行する翻訳と読み比べて異なる部分を見つけてしまい,首を捻ったまま放置する羽目になる。本書はそうした努力をさらけ出している分,誠実であると思うし,誤訳に対する不安感が薄れる。普通これだけ脚註があると読みづらさを感じ,結局何がなんだかわからないまま読み終わることもしばしばあるが,それを感じさせなかったのは,やはり本文自身の力と言えるだろう。

(某エロゲーでも話題になったラストシーンもこの例に漏れず,翻訳者自身のこだわりもあり,なぜ「心意気」になったのかについて,丸々2ページ使って説明している。某エロゲーでは羽飾りとの掛詞であることは説明されたものの,由岐姉は微妙に納得が行っていない様子であった。しかし,この脚註においてなぜ本文で「羽根飾り」という言葉を使わなかったのかについてきちんと説明されているので,気になる人はこの脚註を読んでおくとよい。もっとも,ライター自身はそれでも納得行かなかったのであろうから,由岐姉にああいう説明をさせたのであろうが。)


物語の筋は至って簡潔で,いかにも文章・言葉で魅せるのだという心意気が感じられる。主人公シラノは天才的な詩人であり凄腕の剣客,博識な学者であるのだが豪放磊落な性格・歯に衣着せぬ物言いで敵が多く,なにより巨大な鼻を持つ醜男であった。一方,青年隊(軍隊)の同僚クリスチャンは美男子であり性格も良い貴公子ではあるのだが,詩文の才能はなく,また極度の上がり症で女性の前に出ると語彙が減るヘタレであった。この二人が同じ女性ロクサーヌに恋をして,協力してこの美女を落とそうとするのだが……前半はコメディタッチと言えなくもない軽いノリであり,ちょうど半分ほどのところで一挙に暗転,悲劇に向かって突き進んでいく。それでも終始明るい雰囲気がするのは,シラノの性格によるものだろう。


19世紀末のパリで本作が初演された時,当時の文壇や前衛的な芸術家は反動的だとして評価しなかった。一方,劇場に見に来た観客は熱狂的に歓迎し,『シラノ』はフランス演劇史上最大のヒット作となった。訳者による解題によれば,現在でもこのような評価はさほど変わっておらず,「できの良い商業演劇」と取られることも少なくないという。読んでみた感想としては,確かに本書は商業演劇・小説と受け取られても仕方がない面はあると思う。訳者自身「超絶技巧の台詞回し」と評しているように,はっきり言ってしまえば技巧主義的であり思想的な含意は薄く,当のフランス人にはわかりやすい方向での凄さだと言える。しかも非常にすかっとして気持ちのいい物語に仕上がっている。であれば,すでに印象派が受容された頃のフランス,パリであれば本作が支持された理由も理解できる。加えて,(さほど物語的な意味はないものの)史実の人物に一応の範をとっているように,本作の舞台は17世紀前半のフランスであり,また原文の文体は「定型韻文」という50年ほど前にロマン派が置いていったものであった。このように懐古主義や衒学趣味も端々に感じなくはない作品であり,そうした部分も,当時や現在の中・上流階級に対して通俗的に受ける理由であるだろう。

しかしまあ,私自身がそうした気取れない垢抜けない中流であるという自負と自虐を踏まえた上で,それでも本書はやはりおもしろかった。本書が芸術に値するか否かは私に知識も判断材料もないので明言できないが,それこそ印象派がありなら,本書の軽い方向に極められたおもしろさもありなのではないかと思う。様々な理由で,様々な人にお勧めする。


シラノ・ド・ベルジュラック (光文社古典新訳文庫)シラノ・ド・ベルジュラック (光文社古典新訳文庫)
著者:エドモン ロスタン
販売元:光文社
(2008-11-11)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年01月17日

第202回『ドラゴンクエスト25th アニバーサリー 冒険の歴史書』スクウェア・エニックス

ドラゴンクエスト25周年を記念して発売されたもの。基本的にはドラクエ展で販売されていた。一般販売されているのか非常に不安だったが,amazon先生におうかがいたてたところ,ちゃんと売っているらしい。ISBN番号ついてるし,じゃあいいかということでここに簡単な書評を書いておく。

本書はドラクエシリーズ作品の登場人物やストーリー,世界地図などを見て読者に作品を懐かしんでもらうことに主眼が置かれたものである。冒頭にはドラクエ25年の歩みが書かれた年表もついている。メインコンテンツなだけあって,これら自体もよくまとまっており,クリアした人間は目論見通り懐かしい気分に浸ることができる。私の場合,4から後ろは大体覚えているけど,3から前はキャラを見ても関連したエピソードをなかなか思い出せず,頭をひねってりしながら読ませてもらった。3でやまたのおろちにいきなり行って全滅とか,海底神殿のキラーマジンガで全滅とかあるあるネタもしっかりと押さえている。

しかし,本書の真髄は各作品の紹介の合間に挟まっている題して「ドラゴンクエストシリーズ研究」であり,これはシリーズ通してやっている読者にはむちゃくちゃおもしろい。ストーリー関係ではロトシリーズと天空シリーズの比較に始まり,歴代主人公の身分がだんだん一般人に近くなっていく様子や,乗り物の比較,共通して登場する人物の比較(ビビアンやカンダタ,ルイーダ),モンスターの比較等々。ビビアンがこんなにシリーズ通して出演していたとか,本書で初めて知った人も,私を含めて多いのではないだろうか。

バトル・システム関連では,便利コマンドの歴史はシステムの進化が如実に現れていておもしろかった。ほかに毒沼・ダメージ床の変化,預かり所の変遷,戦闘コマンドの変化,4以降の「さくせん」の変化,パラメータの変遷など。そこに公式が踏み込んでいいの?と思ったものでは,メタル狩りの歴史なんていうのもあった。7はレベルを上げて物理で殴る」が効くから楽だとか,アリーナさんマジ最高とか,3はドラゴラムとか。読後に誰かと語り合いたくなること請け合い。

アイテム編では呪い装備の比較がおもしろかった。そういえばあまり気にしたことなかったが,言われてみれば確かに呪いの解き方が作品ごとによってぜんぜん違うのだ。各ゲームで最強の攻撃力を誇る武器の比較もある。当然最強はメタル系が多いと思いきや,実は4と5だけだったりする。個人的にドラクエというと伝説の武器が全然最強じゃないというイメージがあったのだが,システムが特殊な9を除くと1・3・6・8では主人公固有武器が最強であった。自分のイメージは周回プレイしてた5と7の影響だろうか。他にふんの比較,ラーの鏡・鍵シリーズの比較,下着・水着シリーズの比較など。ゼシカたんはぁはぁ。

呪文編では登場呪文の比較や威力・効果の比較,習得方法やエフェクトの違いなど。5ではヒャドが敵しか使えないなど,ここでもマニアックな情報が多い。興味深いのはやはりルーラの違いで,どんどんと便利になっていく様子がよくわかる。正直5以前の消費MP6やら8やらはだるかった。だったらキメラのつばさ買うよ的な。そして私はこの本で6以前と7以降ではダンジョン・屋内の判定が微妙に違うということを知った。本当に今さらな知識がよく頭に入ってくる本である。無論のことながら,パルプンテの比較もある。別項には特技や職業のもある。

最後にちいさなメダルやカジノなどの寄り道の比較と,裏技の一覧。ちいさなメダルは4や5の交換方式が嫌だったので,リメイク3で積立方式になったときにとても嬉しかった覚えがある。6はマップ全体をとうぞくのはなとレミラーマしまくったが,7以降はネットで調べたという時代の変化を思い出す。毎作思うのは,きせきのつるぎが安売りされすぎだろうと。どの作品でも集め始めて割とすぐに手に入ってラスダンまで使えるアイテムだ。裏技の歴史もメタル狩り同様今だから(そして公式攻略本ではないから)載せられるネタなんだろう,ロンダルキアの洞窟の落とし穴ネタや,ドラクエ5のカジノ・スライムレース必勝法など。

ドラクエシリーズ好きなら,買って損はない。是非に。


ドラゴンクエスト25thアニバーサリー 冒険の歴史書 (SE-MOOK)ドラゴンクエスト25thアニバーサリー 冒険の歴史書 (SE-MOOK)
販売元:スクウェア・エニックス
(2011-11-10)
販売元:Amazon.co.jp
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2012年01月10日

第201回『きつねのはなし』森見登美彦著,新潮文庫

森見登美彦にしては珍しい,怪奇譚。珍しいとは言っても,時系列的には二作目にあたるので,当時としては「第一作の『太陽の塔』からがらりと作風を変えたな」という印象だったのだろう。

個人的にはあまり楽しめなかったのだが,amazon等の評判は高いので,単純に私だけ合わなかったのだろうと思う。その理由は,世間の評価が高いのを知ってから考えてみて気づいたのだが,端的に言って私はあまり怪奇譚を読み慣れていないというか,書物であまり怖がる性質ではないということが関係しているのではないかと思う。ホラー自体は割りと嫌いではないのだが,大概は映画やゲームで怖がったのであって,小説で怖がったことは振り返ってみるとない。『リング』シリーズは『ゼロ/バースデイ』まで含めて全部読んでいてかなり好きなのだが,実際のところあれも話の筋がおもしろかっただけで,怖かったわけではない。一方,映画の『リング』は絶望的に怖かった。話を筋を知ってても怖かったのだから相当なものだ。

本書も,誰もが書評でそう書いている通り,京都という場所の妖しさをうまく使い,暗い路地に魅入られてうっかり入り込むと出て来れなくなる雰囲気は巧みに表現されていると思う。その点では評価が高いのはわかる。しかし,私が小説で怖がらない点を考慮してもしっくりこなかったのは,描写がやや淡々としていて,また(森見作品ではいつものことだが)話が脇にそれて行ってから本筋になかなか戻ってこず,いつもならそれでもよいのだが,結果的に本作の「京都」に私が入り込みきれなかったのが原因だったのではないかと思う。情景描写が濃かったせいか,「水神」が一番入り込めた。特に「きつねのはなし」がそうだったのが,怖いとかおもしろいよりも,きつねの正体が気になりすぎて煙に巻かれたように感じられたのが,自分側の敗因ではないかと思う。

まあ,「いつもの」の正反対な森見が読めた,ということで。

きつねのはなしきつねのはなし
著者:森見 登美彦
販売元:新潮社
(2006-10-28)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年11月30日

第200回『絶頂美術館』西岡文彦著,新潮文庫

「神は細部に宿る」とは言われても,細部であるからこそ気づきにくい。実際細部とはどこなのだ?というのを,うまいこと解説した本であると思う。タイトルやサブタイトルの「名画に隠されたエロス」の通り,中でも本書が焦点を当てているのは女性のエクスタシーであり,西洋美術史がいかに男性の欲望を気付かれないよう細部に込めてきたかを解説している。

第一章からして「カバネルの《ヴィーナスの誕生》のヴィーナスは,なぜ足指がそりかえっているのか?」であり,そのほかの不自然な描写も含めて,ずばりこの絵は誕生のシーンに見せかけて実際にはエクスタシーのシーンを描いたものだからだと喝破する。その他,比較的メジャーな作品としてはアングルの《トルコ風呂》と《グランド・オダリスク》,ドラクロワの《サルダナパールの死》と《キオス島の虐殺》,クールベの《眠り》と《画家のアトリエ》,マネの《草上の昼食》と《オランピア》,ゴヤの両《マハ》。ややマイナーなところではアルマ=タデマ,ジェロームとブーグロー,ロセッティとミレイなどのラファエロ前派などである。

細部にこだわった解説だから敷居が高いかというとそうではなく,むしろ非常に平易な書き方をしているため,ある程度詳しい人から全くの初心者まで幅広く楽しめる作りになっている。あとがきで触れられているように,著者はNHKの「日曜美術館」やテレビ東京の「誰でもピカソ」などテレビ番組の企画・制作に長年携わってきた方であるため,そこらへんのさじ加減は心得たものであったのだろう。「西洋美術は男女ともにやたらめったら裸なのはなぜなのか」とか,「マネの《草上の昼食》はどこがスキャンダルになったのか」など,基礎の基礎から徹底的に説明されている。ジェロームの《剣闘士》が映画『グラディエーター』のイメージソースになったことなどの小ネタが挟まれている点も良い。

ちょっと大胆に言いすぎなところがなきにしもあらずだけど(ロセッティが現代ヒロイン像を作ったと言われると違和感がある),まあ誤差範囲だろう。エロというド直球に惹きつけられて,美術に全く興味なかった人が手にとってくれると嬉しい本である。本書一冊だけでも,入り口としては十分すぎる情報量だろうし。

ついでに書くと,あとがきの文章には全力で同意する。批評や感想文を詩作や随筆と勘違いしている方は残念ながら時代遅れだと思うし,嫌いである。ましてや,平均的知性で読解できないものには,首をかしげざるを得ない。いかに「美術作品のパズル化」と避難されようが,ストイックな絵解き解説のほうが良心的と言えるのではないか。批評はその先にあるのだから。なお,本書の多くは1990年代の連載のリライトであり,筆者の先見の明は卓越していたように思う。


絶頂美術館―名画に隠されたエロス (新潮文庫)絶頂美術館―名画に隠されたエロス (新潮文庫)
著者:西岡 文彦
販売元:新潮社
(2011-10-28)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年11月21日

第199回『有頂天家族』森見登美彦著,幻冬舎文庫

今度はいつもの森見節の小説だろ,と思っていたら,その要素もあるものの,けっこうしんみりする人情話であった。そのせいか,文庫で420ページといつもよりもちょっと厚い。

舞台はいつも通りの現代の京都。ただし,京都には人間以外に狸と天狗が住んでいるという設定である。主人公の狸・下鴨矢三郎は苗字の通り,下鴨神社奥の糺ノ森に居住する狸である。これも森見読者にはおなじみであろう,とりわけ『四畳半神話大系』の舞台もまさに下鴨であった。設定もいつも通り共通しており,金曜倶楽部や偽電気ブラン,京都大学詭弁論部が登場する。特に金曜倶楽部のメンバーはおおよそ『夜は短し』と共通しており(李白は寿老人と推定される=高利貸しである点や偽電気ブランの元締めである点が共通しているため),先にこれらを読んでおくとより楽しめるかもしれない。また,逆に偽電気ブランの工場を運営しているのは狸であることが本作であきらかになるため,他作品で登場したときにニヤリとできるかもしれない。

タイトルの通り,主人公の家族である下鴨家を巡る騒動が本作の本筋である。これも,森見作品としては珍しいことに余分な横道にそれることなく,おおよそまっすぐ本筋を進んでいく。無論,この一家は狸であり,森見作品の登場キャラなので,言うまでもなく阿呆の塊である。阿呆ではあるのだが,本作の大騒動の発端となった事件が主人公の父である下鴨総一郎の死であり,下鴨家の家族愛もかなりストレートに描かれている。結果として,同じ阿呆でもずいぶんと哀愁の漂う阿呆さとなっており,笑いながら読めるシーンもあればしんみりするシーンもあり,簡単に笑い飛ばして終わることができるものではなく,本作はなかなか複雑な様相を見せる。そして,そこに潜むストレートな家族愛が,とても温かい。

シリアスな場面にあたって,普段阿呆な連中の本気が見せる哀愁や滑稽さという点では,同じ狸を描いた傑作であるジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』に似たものがあるかもしれない。そういったものを描くのに,狸は向いているのだろう。森見登美彦はこういうのも書けたのか,とちょっと驚いた。いつもとちょっと違う,けど大きくは違わない森見節をご覧あれ。


有頂天家族 (幻冬舎文庫)有頂天家族 (幻冬舎文庫)
著者:森見 登美彦
販売元:幻冬舎
(2010-08-05)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年11月16日

第198回『美女と竹林』森見登美彦著,光文社

森見登美彦のエッセイ。タイトルを読んで「どうせ美女なんて出てこないんだろwwwww」と思い,前半半分読み終わったところで案の定だわざまぁって言ってたら突然登場してびびったでござるの巻。

エッセイではあるが,いつもの森見登美彦節はなんら変わらず健在である。一応,竹林の伐採を職場の同僚から請け負い,そこから話が展開していくはずだったのだが,実際のところ森見自身の多忙によりまるで竹林の伐採を行なっておらず,自然話も弁明中心になり,挙句の果てにはどんどん全く関係のない話にそれていき,(まるでイカ娘の侵略のごとき)適当極まりない扱いを受けるのが本作の竹林伐採の扱いである。伐採を除いた竹林自体の話はそれよりは話題に上るが,ここはまあそれなりにエッセイになっている。美女のほうは一瞬出てくるが,あとはまあ関係ない。取ってつけたように「美女と竹林は等価交換」とかいつもの調子で吹いているが,まあ平常営業である。

というように,基本的には竹林伐採に出かける余裕がないことに対する弁明からつながる妄想トークで,「それならお前,エッセイじゃなくても普段の小説と変わらんじゃないかい!」というツッコミが入ることは間違いない。「もしも、同作家の別の小説を知らずに最初にコレを手にしてしまったら、大変危険」ということを書いている書評があったが,全力で同意しておく。文章中で自ら『四畳半神話大系』のパロディをしているように,あらかじめ森見登美彦がどういった文章を書くかを知っている人向けのエッセイである。でなければ,どこまでがマジでどこからがギャグなのか判別がつくまい。

……しかし,多分本当は本当に,妄想エッセイにする予定はなくて,ちゃんと竹林伐採記をやりたかったんだろうなぁ。ちゃんと締切を守っている以上,本当はこの人スケジュール管理がしっかり出来てしまうんだろうけど,お人好しに仕事を請け負ううちに溜まっていって「この状況はそれはそれでおいしい」などと考えているうちに,半ば確信犯的にこういうエッセイになっていっただろうことは容易に想像できる。なお,80〜81ページの説明は,ある種の大学生の精神の描写としてこの上なく適切であるので必読である。これは,彼の小説読解にも役に立つだろう。

いやあ,いいよね竹林。私も大好きですよ。俺も週末遁世を流行させて,隣の庵のイケてる乙女と「世の捨て方」について議論したいわー。んで,かぐや姫発見したら結婚するわー。


美女と竹林 (光文社文庫)美女と竹林 (光文社文庫)
著者:森見 登美彦
販売元:光文社
(2010-12-09)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年11月05日

第197回『世界各国女傑列伝』山本昌弘著,社会評論社

本書は『ダメ人間の世界史』,及び『ダメ人間の日本史』の著者たちによる第四弾である。社会評論社の悪乗りはさらに続く。本書のコンセプトは明確で「全国家から一人ずつ女傑を挙げていく」というもの。全国家とは現代基準であるため,無論のことながら本来複数挙げられて然るべき国家もあり,逆にむりくり現代史の女性運動家・政治家からひねくり出さないとどうにもならない国家まで存在している。南スーダンまで含めて総勢194人,なかなかの大著である。

本書はまえがきにて,現代の国家という枠組が恣意的である点,しかしそこからひねりだされて作られた人為的な列伝であることは重々自覚していることが説明されており,そのようなミクロ国家や文字史料の希薄な国については,「その国の紙幣や切手になりそうな女傑は誰か」ということに重点を置いて楽しんで欲しいことが説明されている。結果的に,モナコはグレースケリーになっている。一方,もっと他に候補がたくさんいただろう中国は呂后だし,アメリカは吝嗇で有名な実業家ヘティ・グリーンが選ばれていて,メジャーな国家は逆に著者の趣味が出過ぎているとは言える。(アメリカならストウ夫人なりアメリア・イアハートなりのほうがよかったんじゃ。ヘティ・グリーンは奇をてらうにしても,正直インパクトに欠ける人選である。)

おもしろいのはコンセプトに則ったマイナー国家群で,アフリカや中南米,東欧となるとエヴァ・ペロンやハトシェプスト,ヤドヴィガのような例外を除くと多くの人物は全く知られていない。彼女らを大きく分けると,前近代の王朝においてなんらかの事情で活躍せざるを得ず,政治的に活躍させられた王族。もしくは,近現代において,民族運動や独立運動で活躍した政治家の2グループに分けられる。著者はどうも,探せる限り探して前者が見つからなかった場合,後者を紹介することにしているようだ。まあ,ジャンヌ・ダルクやエカチェリーナ2世のような存在がいる国のほうが少ない。なお,本邦を代表しているのは北条政子である。


世界各国女傑列伝―全独立国から代表的な女性を一人ずつ紹介世界各国女傑列伝―全独立国から代表的な女性を一人ずつ紹介
著者:山田 昌弘
販売元:社会評論社
(2011-09)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年08月10日

第196回『地下室の手記』ドストエフスキー著,安岡治子訳,光文社古典新訳文庫

本書はドストエフスキー作品ながらどこかつまらないと思いながら読み進め,しっくり来ないまま訳者あとがきに出てきたナボコフの評を読んでその疑問が氷解した。「ドストエフスキーの主題,方法,語り口を,もっともよく描き出した一枚の絵」である。ドストエフスキーの小説はしばしば思想小説と呼ばれ,分類されるが,それは彼の思想面と,小説の物語性がうまく接続しているがゆえである。つまり,ドストエフスキーの小説のおもしろさは

1.小説としてのおもしろさ。意外とサスペンス色,ミステリー色が強く,伏線処理が巧み。
2.思想としてのおもしろさ。キリスト教やロシア愛郷主義に基づく。
3.思想と小説をつなげる巧みさ。隠喩の多用と鋭い人間描写。


の複合技である。しかし,本書は2に偏っており,小説としての工夫は薄い。伏線も何もあったもんじゃない展開で,2章構成のうち,1章は主人公が思うところを語りつくしただけ,2章は主人公が行き当たりばったり行動し,前半はぼっちだったのに見栄を張って学生時代の旧友の集まりに出て顰蹙を買い,後半は娼婦にらしくもない説教してブーメランと要約できてしまうだけのストーリーである。主人公の行動原理の説明やそれを受けた友人たちや娼婦の反応など,人間描写は流石の一言で,これは文句のつけようがない。特に主人公の性格はねじけきっており,内的思考力は高いのにプライドと自意識と自己弁護力が高すぎて身動きが取れない端から見ると哀れな人間の姿を描写しきっている。これは現代的な問題でもあり,人によっては非常に身につまされる話ではあるだろう。

が,鋭いだけで,主人公の台詞や説教の内容自体は著者の思想の駄々漏れであり,特に工夫がされているわけではない。直なだけに毒気は強いが,それも他の著作でドストエフスキーに触れていれば衝撃を受けるようなものでもなく,さしたるおもしろみはない。他の短編のような,長編を圧縮したようなものを期待すると大きく肩透かしを食らうと思う。

まあ,これも訳者あとがきに書かれているが,本書でドストエフスキーデビューする人は極稀だと思われるので,本書のせいでドストエフスキーを誤解する人はほとんどいないと思う。わかってて読むのであれば損はしない,が別にドストエフスキーに深入りする気がなければ特に読む必要もない,というのが本書の位置づけではないだろうか。


地下室の手記(光文社古典新訳文庫)地下室の手記(光文社古典新訳文庫)
著者:ドストエフスキー
販売元:光文社
(2007-05-10)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年07月28日

第195回『新・現代歴史学の名著』樺山紘一編著,中公新書

本書は近年重要視される,20世紀後半から21世紀初頭にかけて書かれた歴史学の名著を紹介することで,現代の歴史学の推移や特徴をも紹介しようとするものである。本書の説明はそれぞれの専門家が書いたものだが非常に簡潔でわかりやすく,前書を読んでいない,史学史には明るくない読者であっても十分に読めるものであると思う。史学史の流れを追いたいという方であれば,自信をもってお勧めできる一冊である。ということは先に述べておきたい。

その上で以下に述べたいのは,本書が22年前に出た『現代歴史学の名著』の続編であるということだ(ゆえに書名に『新』がついている)。リストは全て入れ替わっており,この入れ替わり自体が歴史学の流れを非常によく示している。ぐぐって見たところ,この一覧を掲載するのが本書のレビューの様式美であるようだが,冗長になるので私はリンクを張って済ませることにする。


双方のリストを見て感じられる歴史学の変化として第一に,やはり20世紀の歴史学の主体はアナール学派だったのだなということが感じられた。『現代』のほうではマルク・ブロック,フェルナン・ブローデル,心性史という点で選出されているエリクソン等がリストに入っており,『新・現代』のほうではそれを継ぐ形でラデュリ,ル・ゴフ,ピエール・ノラが選出されている。また直接的にアナール学派ではなくとも社会史・経済史・心性史に近い分野からの紹介が多い。特にピエール・ノラはアナール学派の一区切りとして意義深い。

もう2点違いから感じられたことを挙げるとすると,まず19世紀的な大きな物語に対し,20世紀後半は小さな物語を語らざるをえない状況になっているということ。これに対し積極的な価値を認める意味合いで掲載されたのがギンズブルグだと思うのだが,一方それでも大きな物語を語る意識は残っているという点で,アナール学派内側からの視点としてル・ゴフが,外側からではニーダムが挙げられていると思われる。もう1点は,一国史的な視点が明確に後退し,代わりに構造主義的な視点が主流になっていること。これについてはやはりウォーラーステインとオブライエンの違いが一つの軸になっているのではないかと思う。

気になる点を挙げるとすれば,前書に比べてメンバーのやや格落ち感が否めないかもしれない。前書があまりにもそうそうたるメンバーではあるにせよ,クールズ,ダワー,メドヴェージェフあたりが今後時間の洗礼に耐え切れるのかなと思うと少々疑問である。やや考古学的な範疇ではあるにせよ,2000年代の人文書で世界で最も読まれたとされる『銃・病原菌・鉄』が入っていないのにも首を傾げる(本書でもっとも新しい速水融の著作が2002年,『銃・病原菌・鉄』の刊行はアメリカで1997年,日本では2000年)。無論歴史学の書ではないという異論はあるだろうが,であれば梅澤忠夫あたりにも疑問を持たねばならず,切りがないので大枠で収録しても良かったのではないか。


新・現代歴史学の名著―普遍から多様へ (中公新書)新・現代歴史学の名著―普遍から多様へ (中公新書)
著者:樺山 紘一
販売元:中央公論新社
(2010-03)
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2011年07月14日

第194回『敗戦処理首脳列伝』麓直浩著,社会評論社

本書は『ダメ人間の世界史』,及び『ダメ人間の日本史』の著者による第三弾である。社会評論社の悪乗りは続く。が,本書は前二冊に比べるとかなり真面目じみたテーマを扱っている。タイトルの通り,敗戦が確定した状態で,前任者からその処理だけのために政権を移譲された人物,もしくは単純に敗戦処理を担当したため世界史に名が残ってしまった人物を紹介している。

400ページ近くあってかなり分厚い本だが,紹介している人物の数もかなり多いため,一人当たりの分量はそれほど多くない。また,マイナーな人物が含まれているとはいえ,扱われている戦争の説明にも大きく紙面を割いているが,これは余分であった。人物紹介と融合させてしまったほうが紙面がすっきりし,かつ一人当たりの説明も充実じたのではないか。一人当たりの説明が短かったせいか,文面が前二書と比べて非常に淡白で,どちらかというと事実の羅列が多い。amazonの書評にもある通り,『列伝』と名乗るのであれば,もっと筆者の人物評価を聞きたかったところである。

人物一覧を載せているブログがあったので,リンクを張らせてもらう。やや長く紹介されていたのはタレーランで,さすがに敗戦処理の英雄筆頭と言えるだろう。敗戦処理は一歩間違えると亡国となり,うまくいっても現状維持だから割りに合わない。やり方としても粛々と勝者にしたがって処理するか玉砕覚悟で最後の抵抗を見せるかくらいしかなく,中途半端な決断は本邦のWW2のごとく,ひどい結果しか生まない。結果的にタレーランやケマル・アタテュルクくらいしか,その筋で有名な人物が存在せず,本書もマイナーな人物だらけとなっている。それが本書の目的なのだから,それでいいのではあるが。第二次世界大戦の項目はさすがにそうそうたる面々で,マンネルヘイム,ペタン,バドリオ,デーニッツ,小磯国昭,鈴木貫太郎,東久邇宮稔彦と続く。彼らにも同情できたりできなかったり様々である。

発売してそれなりに経つのにぐぐってもあまり書評が出てこないというのは,売れてないということなんだろうか。


敗戦処理首脳列伝―祖国滅亡の危機に立ち向かった真の英雄たち敗戦処理首脳列伝―祖国滅亡の危機に立ち向かった真の英雄たち
著者:麓 直浩
販売元:社会評論社
(2011-05)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年07月13日

第193回『不朽の名画を読み解く』宮下規久朗編著,ナツメ社

久しぶりに入門書的なものでも読もうかと思いつつも,単なる入門書じゃつまらないなということで,偶然見つけた宮下規久朗編著のものを手にとってみた。その意味では,私の期待に応えてくれた本である。

編著という形になっているが,ご本人が書いたのは専門であるバロックのゾーンであろう。ここだけ極めて宮下規久朗色が強い。バロック章の冒頭の説明の「西洋美術の黄金時代」はまあいいとしても,ベラスケスを「西洋美術史上最高の天才」と評し,カラッチやボローニャ派,ティエポロにも極めて高評価を与えている。「フランスは圧倒的にイタリアの影響下にあり」というのはその通りだとしても,そのノリでそのまま「ロココは独立した様式というより,小規模なバロックというべきもの」と断じているのは,やはり入門書としては非常に独自性が高い。作品別の説明においても,カラッチの《バッカスとアリアドネ》を「世界三大壁画の一つ」とし(残り2つはラファエロのヴァティカン宮殿とミケランジェロのシスティーナ礼拝堂),《ラス・メニーナス》に至っては「世界最高の究極の名画」と持ち上げている。西洋美術飛び越えて世界最高言い出しちゃったよこの人……

そもそもバロック以外の部分でも独自性は高い。元々60しか選ばなかったら編集部に「せめてもう10足してくれ,日本人になじみのある作品で」と頼まれたらしいことがはしがきに書かれており,編集部の苦労が透けて見えるようである。実際には70しか紹介していないのではなくて,コラムという形でちまちまと増やしその倍くらいは紹介しているのだが,「これスルーしたのに,こっちは紹介するの?」ということがしばしば発生している。私はロレンツェッティの《善政の効果》を紹介した入門書を初めて見たし,ティエポロレベルでも入門書には載ってないことのほうが多い。一方,ミケランジェロの《最後の審判》やルノワールの《イレーヌ嬢》《ムーランドラギャレット》が載っていない(それぞれ《システィーナ礼拝堂天井画》,《舟遊びをする人々の昼食》)。ドガもバレエの作品じゃないし,クリムトも《接吻》ではない。

じゃあ印象派以降も気合が入ってるのかというとそうでもなく,前近代の画家は一人当たり4〜6ページとってあるのに対し,新古典主義以降はほとんどの画家が2ページで終わっている(モネ,セザンヌ,ゴッホ,ピカソの4人だけ例外)。20世紀は非常にすっきりしており,にもかかわらずウォーホルが《キャンベルスープ缶》じゃないという妙なこだわりは発揮されており,バーネット・ニューマンやフランク・ステラといったマイナーな画家も紹介されている。はっきり言って基準がまったくわからない。

総じて入門書としてではなく,宮下規久朗編著の概説書はこうなるのか,という気持ちで読むと吉である。


不朽の名画を読み解く不朽の名画を読み解く
著者:宮下 規久朗
販売元:ナツメ社
(2010-07-21)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年06月21日

第192.5回『悪霊(1)(2)』ドストエフスキー著,亀山郁夫訳,光文社古典新訳文庫

完結してないのにうっかり買ってしまい,読み通したはいいが物語があまりにも複雑で登場人物が多く,3巻が出るまでに内容を忘れそうであるため,半ば備忘録的に感想を残しておこうと思った。よって,ナンバリングは0.5回である。


論点は2つ。第一点。既読の『罪と罰』,『カラマーゾフの兄弟』でもそうだったが,ドストエフスキーは物語の雰囲気を作り出し,それをだれさせないまま維持することが巧みで,ストーリーテラーとしては(当たり前だが)超一流であるということを再確認した。ただし,物語の雰囲気はゆっくり創り上げていくタイプなので,どうしても冒頭は物語の方向性がつかめず,どこに連れていかれるのかわからない不安感がある。『カラマーゾフ』は遺作なだけあって,あれだけ長編であるにもかかわらず割とつかみはばっちりであったが,『罪と罰』はラスコーリニコフが実際に行動し始めるまでよくわからなかった。本作の場合はこの欠点がやや大きく,第1部の第1章は訳者が読書ガイドにも書いている通り,その後の展開の下地に過ぎず物語的には本筋とほとんど関係の無い描写が続く。真の主人公であるニコライ・スタヴローギンが登場するまでに100ページもかかるのは少々やり過ぎではないか。

その後も2章・3章は準備段階が続きどうしたものか,と戸惑うのが典型的な読者像ではないかと思うのだが,これだけじっくり雰囲気をつくってきただけあって,第1部のラスト,シャートフがスタヴローギンにグーパンチしたところから突然弾ける。第2部以降の『悪霊』の雰囲気は一言で言って狂騒以外何物でもないと思うが,第2部に入った途端,第1部の展開は全て嵐の前の静けさの演出に過ぎなかったのだということを悟らされ,かつ狂騒の雰囲気は収まるどころか次第に増していく。読んでいてこちらがはらはらさせられる,まだ何も事件が起きていないのに。無論狂騒の張本人はピョートル・ヴェルホヴェンスキーであり,第1部の時点ではスタヴローギンとともに「こういう悪目立ちする奴はいる」という程度の印象だったのに,第2部になって随分キャラが深くなった。こいつこそ紛れもなく悪霊だ。第3部はとうとういろいろ事件が起きていき,狂騒はクライマックスへと向かっていくわけだが,楽しみにしておく。と同時に,中短編ではこの方式で雰囲気作りができないわけで,どうしているのか気になった。次は『地下室の手記』でも読もうか。


もう一つは,ドストエフスキーは真っ当な恋愛描写ができないのではなかろうかと。これを某人には言ったら,「中二病的に女性を神格化させたらなかなかだけど,具体的な人として恋愛を書くのは苦手かも」という返答をもらった。これには完全に同意である。これはまあ美点というよりは欠点だと思うのだが,ドストエフスキーの場合,何を書かせても社会的になるか宗教的になってしまうところは多分あって,こと恋愛劇に限ればこれは相当余分な要素がくっついてしまっているのではないかと思う。おかげで本作でも足が悪く精神も病んでいるマリヤ・レビャートキナについては描写が豊富だが,ダーリヤやリーザについては特筆すべき動きがない。

前出の某人はついでに「そういうリアルな人の機微はチェーホフ先生に任せておきましょう」とも言っていた。まあチェーホフ読んだことがないので何とも言えないが,私が最近読んだものとしてはトルストイの描写の細かさとは大きな違いだなと思った。最後に。また足の悪い女のかよ。カラマーゾフとネタかぶってんよ(カラマーゾフのほうが後だけど)。


悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫)悪霊〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
(2010-09-09)
販売元:Amazon.co.jp
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悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
(2011-04-12)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年05月18日

第192回『マニ教』青木健著,講談社選書メチエ

著者は古代アーリア人の研究者であり,『ゾロアスター教』と同じ著者である。

私自身,マニ教はキリスト教とゾロアスター教と仏教の合体だと思っていのだが,本書によると,それは誤ったイメージである。開祖のマーニー・ハイイェーはパルティア貴族の出身で,しかも父親が洗礼系の(キリスト教から見れば異端に当たる)教団に属していたことから,ゾロアスター教知識は簡単に手に入るものであったものの,本人の信仰の大元は圧倒的にユダヤ教・キリスト教であり,若いうちに読みあさったのはマルキオンに代表されるグノーシス主義の書物である。仏教に触れたことがないわけではないものの,若い頃2〜3年ほどだけインドを旅行しただけで,本格的な勉強はしていない。事実,教義を詳しく見ていくと最も影響が大きいのはグノーシス主義,次にキリスト教で,ゾロアスター教は用語を借りているだけ,仏教の影響に至っては全体から見れば数%に満たない程度である。以上から鑑みるに,あえて言えばマニ教はグノーシス主義の一派で最も繁栄した宗教とするのが,簡潔な理解として一番正しかろう。もちろん,厳密に言えば本家本流であるキリスト教系グノーシス主義とは異なる部分もあるのだが。

ではなぜ,冒頭のような誤解的イメージが広まり,あまつさえ今でも世界史の教科書にさえ「キリスト教とゾロアスター教,仏教の融合宗教」と書かれてしまったのか。その理由として,マニ教の最大の特徴であるその人工性の高さが挙げられる。教義上は中核がグノーシス主義でかつ善悪二元論を根底においているが,一方その神話や用語・術語となるとキリスト教・ゾロアスター教に近い。しかも神話は非常に複雑で,しかし要所だけ残して細部や用語を換骨奪胎しても意味が通じてしまう構造になっている。この教義・神話の人工性は「他宗教の乗っ取り」に際し非常に強い効力を発揮した。しかし,浸透された先はたまったもんじゃないので当然弾圧に乗り出す。このようにしてマニ教が浸透して乗っ取ろうと画策し,対決した先がキリスト教,ゾロアスター教,そして大乗仏教の三宗教であった。

しかしマニ教はこのような事情から恐ろしく弾圧されたため,文献史料が灰燼に帰し,ほとんど残らなかった。一方で乏しいなりに発見される史料はユーラシア大陸の端から端まで分布しており,かつそれぞれの史料が「現地宗教に半融合してしまったマニ教」の史料であるため,本当に同一の宗教かと疑われるほど用語がバラバラであった。ゆえに研究が進んでない段階では三宗教の融合した新興宗教,としか表現できなかったのではないかと思われ,その段階でマニ教の名前が世界史の教科書に載るようになってしまったのではないか,と推測できる。マニ教の文献の発掘は20世紀初頭になってやっと本格化し,見方によっては現在進行形である。つい昨年に"半"仏教化した摩尼教の「宇宙図」が日本で発見されたことは,はてブで80users以上も集めた程度には世間的注目を浴びた。


しばしばマニ教はなぜ第四の世界宗教にならなかったのか?そのポテンシャルはあったのではないか?という語られ方をするが,私が本書を読み終えた感想としては,「そりゃ他宗教の乗っ取りでしか広まらん宗教じゃ,確かに浸透は早いかもしれないけど,世界宗教化するだけの地力が無いのは当然だわな」である。貴方もこの知られざる宗教について勉強してみないか?知的好奇心と歴史的ロマンは確実に刺激されるだろうが,信仰しようとはとても思えないことだろう。


マニ教 (講談社選書メチエ)
マニ教 (講談社選書メチエ)
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2011年05月04日

第191回『十字軍物語2』塩野七生著,新潮社

十字軍物語の2巻は,第一次十字軍で建国された十字軍国家群の守勢の様子を描く。第一次十字軍が成功した要因は前述の通り,十字軍自体が奇襲であったこと,西欧騎士がイスラームの想定よりも強かったこと,十字軍側は団結していたのに対しイスラーム側は仲間割れを繰り返していたことの三点に寄る。しかし,「奇襲」である点は時間が経てば長所ではなくなる。また,マルサス問題の解決方法としての十字軍は現地の勢力が十分に根付いていたという大きな欠点があり,少数の騎士と商人以外はほとんど移民できる余地が無かった。このため,物流のほとんどは自給できず,敵方から買い取るか本国から輸入するかのいずれかしかなかった。(そして本書は1巻でマルサス問題をすっ飛ばしたため,案の定人口不足の説明をうまい具合に出来ていない。)

それでも奪還に燃えるイスラームがその目標を達成できなかったのは,無論十字軍側の努力もあるが,イスラーム側の指揮系統不統一に負うところが大きい。そもそもスンナ派とシーア派という宗派対立,アラブ人とイラン人とトルコ人という民族対立に加え,アラブ人もトルコ人も部族制の根付いた民族であったため,土着しても(西欧とは別方向に)封建的国家となってしまい,大軍を動員できないどころか諸侯同士が相互に対立してしまっていた。この点,対立は大なり小なりありつつも十字軍国家の建設及び維持となればそれなりに統一的意志が働いたキリスト教側との大きな違いであった。

ではその点さえも解消されたらどうなるか。部族制の国家はチンギス・ハン然り有能な君主が登場すれば大同団結する傾向があるが,元が部族制なイスラーム諸民族も同様の傾向があったということだろうか。十字軍国家がじわじわと弱体化する中で颯爽と登場し,イスラーム世界の主要地域をまとめあげ,十字軍国家の再征服に乗り出したのが,アイユーブ朝始祖のサラディンであった。

本書は第三次十字軍の直前まで時代が進む。すなわち,直接描写された十字軍は第二次のみである。1巻で述べた通り,回数だけは多い十字軍後半の第三次以降第八次まで,全て3巻収録ということになる。はっきり言って第二次十字軍はぱっとしないので本書全体もあまり起伏のない構成になってしまっているが,その分『ローマ人の物語』や『海の都の物語』のように長編然とした雰囲気があるので,逆にとても塩野七生っぽい本とは言える。地味だが活躍した男達の描写も多く,約70年も扱っている割に進行はゆっくりに感じる。逆に3巻はイベントだけは多いため,おそらくすごくせわしないことになっているか尻切れトンボになっているんじゃないだろうか,という一つの危惧はあるが,刊行を待ちたい。


十字軍物語2
十字軍物語2
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2011年05月02日

第190回『絵で見る十字軍物語』塩野七生著,新潮社

本書は十字軍シリーズの序章にあたり,十字軍の全史をギュスターヴ・ドレの挿絵を用いて追っていくものである。ギュスターヴ・ドレの挿絵は元々19世紀前半の歴史作家フランソワ・ミショーの著書『十字軍の歴史』につけられていたものだが,塩野七生がこのミショーの著書を選んだ理由が非常に彼女らしいので,少し長いが引用したい。

「学問的ではないという理由で今では研究者たちから一顧もされないらしいが,二百年前のキリスト教徒の筆になった十字軍史と考えるならば,驚くほどバランスのとれた叙述で一貫している。啓蒙主義にフランス革命という,思想的にも社会上でも激動の時代に生きた人であるためか,宗教や民族に対する既成概念に捕われる度合いが少ない。(中略)これよりは二百年の後の現代に多い,イスラム教徒を刺激しないことばかりを配慮して書かれた十字軍の歴史書に比べれば,ミショーの執筆態度のほうがよほど正直である。

この態度の潔さは塩野七生の美点の一つであるように思うし,特にキリストとイスラームの宗教対立では『ローマ亡き後の地中海世界』から一貫している態度である。やや主語を大きくすることが許されるのであれば,十字軍とは直接の利害関係のない東洋の人間だからこそ許される物言いではないかと思う。学問はある程度,そのときの社会情勢の影響は受けるもので,それは過去のどの時代に比べても思想的に自由になった現代においても,有象無象の圧力はある。しかしそれでも,私は現代のムスリム無害論に寄りがちな風潮ははっきり言って好きではない。であれば,「自分なりの中立」を(あくまで自分なりであるにせよ)鮮明に打ち出し,執筆されることが許されるのは,やはり歴史作家ではないだろうか。

確かに十字軍は歴史的蛮行であった。しかし,かくのごとき蛮行を止める力がなく,あまつさえ同様の報復を行ったのはムスリムではなかったか。そもそも,十字軍直接の引き金になったのはセルジューク朝の侵攻であるということは,忘れ去られがちではないか(無論救援要請をねじまげて聖地奪回にしてしまった戦犯はローマ教皇ではあるにせよ)。この態度が維持される限り,私は塩野七生のファンを名乗ることにする。


本の内容自体はタイトルの通り,ものすごく簡略な十字軍の全史である。読もうと思えば1時間程度で読めてしまうと思う。多少本編を読んでいること,もしくは将来読む予定があることを前提としている作りではあるものの,これ単体で読んでも十字軍の流れがよくわかる,優れた入門書になっている。全巻買うかどうか決めるのは,とりあえずこの1冊だけ読んでみてから考えても遅くはないだろう。


絵で見る十字軍物語
絵で見る十字軍物語
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2011年05月01日

第189回『十字軍物語1』塩野七生著,新潮社

ようやく手のつけられた塩野七生の新刊。全3巻の第1巻は十字軍の始まりから第一次十字軍の成功までを描く。第2巻は第三次十字軍開始直前までで,第3巻が第三次から第八次まで残り全部のようだ。数字にしてみるとバランスが悪く思えるが,年数にしてみるとそれぞれ約100年ずつでちょうどよくなっている。また,十字軍らしい十字軍をしているのは1次と3次で,4次と5次は興味深い現象ではあるものの十字軍の本筋からは外れる。また,4次は『海の都の物語』で,5次は『ローマ亡き後の地中海』でそれぞれ描写済みであるため,このような構成をとったのであろう。

十字軍が生じた原因として主として挙げられるのは,おおよそ次の3つ。農業技術革新による人口増大で生じたマルサス問題の解決のため,叙任権闘争で優位に立とうとした教皇の戦略,そしてセルジューク朝の侵略によるビザンツ帝国からの救援要請である。本書は抜け落ちがちな二つ目,ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立から十字軍は提唱されたという視点を強調していたのが良かった。十字軍とは西欧が一丸となって行った軍事行動のように思われるが,その実まさに西欧の主導権争いの最中であった。その状況で,ビザンツ皇帝から飛んできた救援要請から「神の導く十字軍」というフレーズを思いつき,神の代理人たる自分がその旗頭に就任することで主導権争いにも決着をつけたウルバヌス2世の政治的センスは,確かに天才的であった。

本書は次に参加した諸侯と彼らの性格を紹介する。その後の推移も彼ら個人の動きに焦点を当てる形で進んでいくが,ここら辺は『ローマ人の物語』の著述方法と非常によく似ている。単純な英雄伝ではないにせよ,キャラ萌え的想像力で補われている部分が多いのは至極いつも通りで,特に物語的な主人公格にもあたる第一次十字軍の事実上の総大将ロレーヌ公ゴドフロアとプーリア公ボエモンドは,それぞれ別の方向性で塩野七生が好きそうな人物ではあった。彼らに加えて,おそらくリチャード獅子心王とサラディンが書きたかったから,この企画が立ち上がったのではないかと思わなくもない。

第一次十字軍が成功したのはイスラーム側にとって奇襲に当たった点と,半鎖国状態で相互に戦争していた西欧は,文化的には世界のど田舎もいいところだったが軍事的には相当強い部類に入っていたというギャップにイスラーム側が全く気付いていなかった点が大きい(この辺りから,同時代の西欧の騎士と鎌倉武士は様々な点で類似があるように思う)。また,イスラーム側の諸侯は西欧のように団結しておらず,各個撃破されてしまった。結果,この先の十字軍はじわじわと守勢に回っていかざるをえなくなるのだが,それは2巻に続く。

十字軍物語〈1〉
十字軍物語〈1〉
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2011年04月25日

第188回『ゾロアスター教』青木健著,講談社選書メチエ

本書はゾロアスター教を中心とする,古代のアーリア人の宗教についての本である。「古代アーリア人」とは紀元前二千年紀の世界において中央アジアにいた原始的な遊牧生活を営んでいた印欧語系の集団である。この一部が紀元前1500年頃にインド北部に侵入し,また一部がイラン高原へ移住してイラン人となった。この時点ではいずれも世界全体から見れば辺境の諸地域に広がった少数派に過ぎないのだが,インドの一派はドラヴィダ人を征服,混血しながらガンジス川流域へ進出し,カースト制をインドに根付かせ,やがてヒンドゥー教へと発展する。一方,イラン人となった一派もアケメネス朝ペルシア帝国がオリエントを征服して,一躍歴史の最先端地域の表舞台に立った。

さて,この移住前後の中央アジアにおける古代アーリア人の宗教とはいかなるものであったのか。文献史料が存在しないため研究は困難だが,アケメネス朝以後のゾロアスター教やヒンドゥー教の共通点から類推は可能である,というのが20世紀のアーリア人研究の手法らしい。そもそも伝説に従えば,ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ・スピターマの出身地自体がソグディアナ地方(現在のウズベキスタン)にあたり,活動時期も紀元前12〜9世紀頃とされるから,まだ移住の途上の段階である。

そしてこのゾロアスター教は現在こそイスラーム教に染まる前のイラン人の代表的宗教のように扱われているが,実はその浸透に長い時間がかかっており,混在の状況が千年近く続いた。完全に他の古代アーリア人の宗教を駆逐しきったのはササン朝の国教に採用されてからだが,これも偶然によるところが大きい。ササン朝の開祖が,ゾロアスター教系の神官の家系でなければ,これほどの大繁栄を遂げることはできなかった。したがって聖典『アヴェスター』が国家主導で編纂されたのも,ササン朝の初期,3世紀後半頃である。これはその成立にゾロアスター教の影響が見られるユダヤ教と逆転して,『旧約』よりもかなり遅い成立になる。改めて言えば,本書はゾロアスター教の成立過程を追いながら,古代アーリア人の原初的宗教風景を描き出そうとするものである。

それでも,ザラスシュトラが天才的な宗教家であったことは疑い得ない。善悪二元論により,宗教が倫理性を持ったこと。救世主思想,終末思想と最後の審判(もっとも救世主思想と最後の審判は,正確には弟子の発想らしいが)。このあたりのエッセンスだけが抜き出されて,ユダヤ教に影響を与えた。一方,ゾロアスター教は乾燥地帯の遊牧民的な土着の色彩も濃く,有名な鳥葬,やたらと聖水として牛の尿を用いること,犬も聖獣の一種であること等々。この民族色を薄く出来なかったところがゾロアスター教の限界であり,世界宗教になれないどころかユダヤ教未満の脆弱さを露呈し,ほとんど滅んでしまった。なんと,『アヴェスター』の約70%は現存していない。

本書はその後のイラン人がたどった歴史も扱っている。イラン高原に残ったイラン人はイスラーム教に改宗しゾロアスター教は捨てたが,そこは世界宗教イスラーム教なので,教義に反しない範囲での生活習慣として,ゾロアスター教的要素は暗に生き残った。逆にインドに亡命したゾロアスター教徒は(いわゆるパールスィー),アフラ・マズダに対する信仰としてはぶれなかったが,それまでの理知的なゾロアスター教から儀式・祈祷中心のヒンドゥー教的色彩の強いものに変質してしまい,農耕民族になったため生活習慣としても「イラン人」ではなくなってしまった。こうして,別々の部分だけが残り,完全なゾロアスター教徒が現存していないところに,この宗教の悲劇がある。


総じて,非常に綺麗にまとまったゾロアスター教の紹介本と言える。著者はこの次に『マニ教』も刊行しているのであわせて読みたい。


ゾロアスター教 (講談社選書メチエ)
ゾロアスター教 (講談社選書メチエ)
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2011年04月18日

第187回『アーティスト症候群』大野左紀子著,明治書院

ネット上とはいえ知っている人が著者だとブックレビューすごく書きづらいという感覚を久々に思い出した。過去に指導教官の本をレビューしていて何を今更って話ですが。

本書はアーティストをやめた著者が,アーティストという言葉の拡散や世間での扱われ方について述べたものである。アーティストとは訳せば「芸術家」だが,カタカナになることで幾分軽くなり,純粋芸術以外にも使える言葉になった。結果として,アーティストという言葉の指す範囲が拡散し,何を指す言葉か判然としなくなってしまった。その原因としてまず本来の純粋芸術筆頭である美術の側が解体され,「絵描き」じゃない美術(作)家が誕生し始めたところにある。そして1980年代頃から「アーティスト」という言葉が使われ始め,そこに日本美術業界の様々な仕掛けがあってゆっくりと広がっていたことを本書は描写している。どちらかといえば次章のJ-POPの項目で触れられているが,これはオリジナリティ偏重でもあり,芸術とは個性の発露というやはり現代的な視線も含まれている。


芸能人のアーティストについても触れており,例として何人が大きく取り上げられている。ついでだから著者にならって私も一言ずつコメントしておくと,まず私のセンスも保守的なのでジュディ・オングの作品は嫌いではない。ただし,八代亜紀ともども死ぬほど古臭いことは認めざるをえないし,芸能人という肩書きがなければ特に注目を浴びるものでもないだろう。一方,芸能人の片手間にこれだけ描けたら,確かに日曜画家の領域は脱してるなという擁護(?)はしておく。

工藤静香の絵は,そもそも私が二科展系の作品は胡散臭くて嫌いだというのを置いとくとしても著者の「中学生にしては早熟で上手いかもしれない」に同意しておく。片岡鶴太郎は一番うまくやってるなという印象はあるが,うまくやりすぎて芸能人の中でも例外的な人になってしまったような気はする。なお,本書では「個人美術館を3つ持ち」とあるが,出てからできたのか現在は4つの模様。片岡鶴太郎とジミー大西の違いは本書の分析の通りだろう。ジミー大西は天然だから嫌われにくい。アーティスト系分類の二人に関しては何も言うことがない。

テレビ番組も二つ取り上げられている。『誰でもピカソ』と『なんでも鑑定団』である。両方,中学高校の頃は毎週かかさず見ていたが,大学に入って実家を離れるとともにテレビ離れし,見なくなってしまった。『誰ピカ』は確かにアートバトルをやっていた頃が一番おもしろかった。アートバトルが終わってしまった頃に同時に本編のほうもネタが切れてしまい,それこそ「アートの領域」を無理やり拡大して番組を続けている感がある。それに比べると『鑑定団』は良い長寿番組だと思う。見なくなってしまったのは単純にテレビ離れしてしまったがためである。(ちなみに,うちのO教授は「あんないい加減な番組」と授業中にボコボコに叩いてた。専門の中国絵画がさぞ適当な鑑定をされたに違いない。)


以下は職人やクリエイターという言葉の扱われ方。フローラル・アーティストに代表されるアーティストという言葉の拡散例。さらになぜ自分がアーティストになったか,そしてやめたかについてが著述され,最後に現代のアーティスト志向はなぜ生まれたのか考察している。まあこの辺は実際に読んでもらったほうが良いだろう。一応現代の若者の片隅に生きている人間としては,自分自身は真逆であるにもかかわらず,周囲の「アーティスト志向」な友人・知人たちをふりかえるに,げんなりしつつも納得できる内容が書かれていた。(私の周囲では「別格症候群」に集中しているような気がする。)


アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人
著者:大野 左紀子
明治書院(2008-02)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年04月13日

書評『フェルメール全点踏破の旅』朽木ゆり子著,集英社新書

お前これ読んでなかったのかよとか言われてしまいそうな。2006年出版当時ちょっと話題になった本。正式には集英社新書ヴィジュアル版に分類され,全ページフルカラーである。

内容はタイトルの通りフェルメール作品の全点踏破を目指した旅の旅行記である。本書の目的は固い学術書ではなく,ミーハー的な視線からのフェルメール鑑賞であり,また専門書ではない西回り鑑賞順の鑑賞記録である。それぞれの美術館の紹介や,それぞれの作品の来歴にも注目して触れている点が興味深い。なお,全点踏破とは書いてあるが実際には本書の旅行では37点中34点までしか見れず,残り3点のうち2点は別の仕事で行った旅行で見たそうで,この著者が見ていないフェルメール最後の1点は《合奏》のみだが,これは1990年に盗まれて以来所在不明,どころか安否も不明であるため,事実上現在一般人が鑑賞できる作品は全て鑑賞済みということになる。

この37点という数字にも説明がいるだろう。通常フェルメールは作品数が確定しておらず,三十数点という言い方がされる。それは本書の冒頭でも説明がされていることだが,帰属がフェルメールと確定していない作品が4つあり,うち2つは特に信憑性が低い。さらに《ヴァージナルの前に座る若い女》は2004年に認定された新しい作品であるため,古い本だとフェルメール扱いされていない。よって,最も疑い深く判断すれば現存するフェルメールの作品は32点になり,これに"新作"を加えれば33点,比較的信憑性のある帰属を信用して35点,全面的に信用すればフルで37点になる。本書は最も「広義」のフェルメールを採用している。


日本人はこの著者に限らずフェルメール好きで,この点について筆者は「宗教画ではないので寓意の勉強がいらず,他のオランダ風俗画のようにプロテスタント的(カルヴァン的)教訓の押し付けがましさもなく,理解しやすい。透徹だが親しみのある画面」が日本人に人気の理由ではないかとしている。その通りであろう。もっともフェルメール自体が世界的人気だが,日本人にはさらに魅力的に見える理由の説明としては極めて的を射ている。

私自身フェルメールは大好きで,一点釣りだとわかりつつも行った展覧会も含めて足しげく通ったおかげで,国外ではフェルメールを1点しか見ていないにもかかわらず(ルーヴルの《天文学者》),ここまでで合計11点も見ている(2011.4.13時点,最新のデータは後述)。約1/3と考えると,そのうち日本にいるだけで半分は見れそうである。

本書はamazonでも極めて評価が高いが,確かに非常におもしろい本であった。単なる旅行記になりすぎないよう著者がかなり調べてから旅行しているし(前書もフェルメール関連というのもある),しかし研究に寄り過ぎないよう,あえて言うなら塩野七生的な想像力がふんだんに盛り込まれていた。ミーハーな美術好きなら間違いなくおすすめできる一冊である。


フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)
著者:朽木 ゆり子
集英社(2006-09-15)
販売元:Amazon.co.jp
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ついでに,ここを自分のフェルメール制覇歴のポータルにしてしまう。現在24/37(23/35)点。

1.《天文学者》@ルーヴル美術館所蔵:ルーヴルにて直接。外国で見たものでは唯一。以下は全て日本国内で観賞。
2.《窓辺で手紙を読む女》@ドレスデン国立美術館:西美のドレスデン美術館展にて観賞。
3.《牛乳を注ぐ女》@アムステルダム国立美術館:新美のフェルメール展にて観賞。
4.《窓辺でリュートを弾く女》@メトロポリタン美術館:都美のフェルメール展にて観賞。
5.《手紙を書く婦人と召使い》@アイルランド国立美術館:同上の都美のフェルメール展にて観賞。以下省略。
6.《小路》@アムステルダム国立美術館:同上。
7.《二人の紳士と女》@アントン・ウルリッヒ公美術館:同上。
8.《マルタとマリアの家のキリスト》@スコットランド国立美術館:同上。
9.《ダイアナとニンフたち》@マウリッツハイス美術館:同上。
10.《ヴァージナルの前に座る若い女》(個人蔵):同上。
11.《レースを編む女》@ルーヴル美術館:西美のルーヴル展にて観賞。
12.《地理学者》@シュテーデル美術館:文化村のシュテーデル美術館展にて観賞。
13.《青衣の女》@アムステルダム国立美術館:文化村のフェルメール展にて観賞。
14.《手紙を書く女》@ワシントン・ナショナル・ギャラリー:同上。
15.《真珠の耳飾りの少女》@マウリッツハイス美術館:都美のマウリッツハイス展にて観賞。
16.《真珠の首飾りの女》@ベルリン国立美術館:西美のベルリン国立美術館展にて観賞。
17.《聖プラクセディス》@国立西洋美術館:国立西洋美術館の常設展にて鑑賞。
18.《水差しを持つ女》@メトロポリタン美術館:森美術館のオランダ絵画展にて鑑賞。
19.《赤い帽子の女》@ワシントン・ナショナル・ギャラリー:上野の森美術館のフェルメール展にて鑑賞。
20.《取り持ち女》@ドレスデン国立美術館:同上。
21.《ワイングラス(紳士とワインを飲む女)》@ベルリン国立美術館:同上。
22.《恋文》@アムステルダム国立美術館:同上(大阪会場)
23.《ヴァージナルの前に座る女》@ロンドン・ナショナル・ギャラリー:国立西洋美術館のロンドン・ナショナル・ギャラリー展で鑑賞。
24.《信仰の寓意》@メトロポリタン美術館:国立新美術館のメトロポリタン美術館展で鑑賞。  
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2011年04月06日

第185回『「三国志」漢詩紀行』八木章好著,集英社新書

タイトルの通り,三国志にまつわる漢詩を鑑賞する本。あとがきを読むとわかるのだが,元々は三国志を題材とした漢文の教材を制作する予定で,3人の学者で故事・人物・詩歌と分担していたところ,諸事情で計画が頓挫し,詩歌の部分だけ原稿が完成してしまったため,どうしようかというところで集英社に拾ってもらい詩歌の部分だけ出版された,という経緯で誕生した本である。非常に偶然に恵まれた本であると言える。

冒頭は「三国志」誕生の歴史で,正史が誕生してから説話となり『演義』が生まれた経緯をたどっている。次に三国志の内容に軽く触れてから本編に入り,巻末に漢文・漢詩の基本的な説明がなされている(押韻や平仄についての説明)。紹介されている漢詩はおおよそ有名なもので,知っているものがある人もかなり多いのではないだろうか。無論,だからダメというわけではなく,だからこそ入門的にしっかりと仕上がっている印象を受けた。

具体的に言うとまず建安七子の王粲より「七哀詩」。タイトルを聞いてわからずとも「白骨平原を蔽う」と聞くとピンとくるかもしれない(私はこのフレーズで昔読んだことを思い出した)。曹操の「短歌行」も入っている。これもタイトルよりも「何を以て憂いを解かん。唯だ杜康あるのみ」の句と,『演義』では赤壁の戦場で詠んでいるシーンが比較的有名である。さらに曹植の「七歩の詩」,これは教科書に載っていたような記憶もある。曹植はもういくつか収録されている。

そこから時代が飛び,後世での三国志を題材とした漢詩が紹介される。特に大きく取り上げられているのが,諸葛亮を敬慕していた唐の杜甫と,「赤壁の賦」であまりにも風名な蘇軾である。杜甫にひっかけて諸葛亮の「出師の表」が説明され,また李白と杜牧の詩も短いが紹介されている。最後に漢詩ではないものの土井晩翠の「星落秋風五丈原」が引用されて本編が終わる。


以上の登場した文献を見て胸がときめく人種ならば,本書を読んで全く損はない。漢詩の知識はあるに越したことはないが,なくてもあまり困らないかと思われる。巻末に説明がついているので先に読めばよいし,登場する漢詩は全文書き下し文と和訳がついている。

「三国志」漢詩紀行 (集英社新書)「三国志」漢詩紀行 (集英社新書)
著者:八木 章好
集英社(2009-02-17)
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2011年04月05日

第184回『ワインが語るフランスの歴史』山本博著,白水社UBooks

タイトルの通り,本書はワインに絡めてフランスの歴史をつづったものである。時代は新石器時代から始まり現代まで。フランス人は先史時代からワインを飲んでいた。ただしその本格化はやはりギリシア人による南仏入植と,カエサルの征服以降となる。キリスト教の布教もワインの普及に大きな影響を当てた。

基本的におもしろい本ではあるのだが,2点不満がある。一点目は,本書に必要なのは歴史知識やワイン知識というよりもフランス地理の知識であり,ワインの産地としてフランスの非常に細かい地名が出てくる。これが有名なワインの産地や大都市であればさすがにわかるのだが,AC(原産地名規制呼称)を全部覚えているわけでもなし,知らない地名のほうが多かった。そしてそれに対するフォローがなく,一々メモして調べなければ読み進められなかった。せめて現代フランスの地図を付録でつけるべきであったのではないか。

もう一点は,筆者がなんとか歴史的事件とワインを結びつけようとしているのはわかるが,やはりそのような事例のほうが少なく,結局は「その事件が起きた場所で,現在生産されているワインの話」になってしまい,歴史的事象の説明とワインの説明が乖離した章のほうが多かった。まあ本のコンセプト上仕方のないことだとは思うが。逆にきちんと結びついてる話はおもしろかった。さすがに近世以降はそれなりに数がある。ルイ14世とドン・ペリニョン,ルイ15世とロマネ・コンティ,地主貴族としてのモンテスキュー,ワイン好きアメリカ人のジェファソンの収集譚,ナポレオンとシャンベルタン,ナポレオン3世とボルドー,アルザスワインと普仏戦争・WW1,パストゥールの低温殺菌法発見,そしてフィロキセラの流行とアメリカからの移植。


概して,あらゆる意味で初心者お断りの一冊である。私のようなにわかが触れていい本ではなかった。


ワインが語るフランスの歴史 (白水uブックス)ワインが語るフランスの歴史 (白水uブックス)
著者:山本 博
白水社(2009-05)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年03月11日

書評:『チョコレートの世界史』武田尚子著,中公新書

世界システム論において取り上げられやすいものといえばまず砂糖。次に茶かコーヒーであろう。してみると,ココアやチョコレートは果たした役割としては茶やコーヒーに近似するにもかかわらず,陰が薄い。これは単純にココアが茶やコーヒーに比べてややマイナーな飲み物であり,チョコレートに至っては砂糖が先に無いと成立しない菓子だからではないかと思う。しかし,ココア・チョコレート好きとしては,やはりこれも世界史の中で扱って欲しいのである。本書はそのような甘党の欲求に答えたものだ。

序章はカカオからチョコレートとココアが作られるまでの工程や,現在のカカオ豆生産地の分布など,基本的な情報の提示。1章はカカオの原産地,中央アメリカでカカオがいかに利用されてきたか,アステカを征服したスペイン人がカカオをいかに扱ったかについて書かれている。スペイン人のプランテーションのもと,カカオ豆は一気に増産された。カリブ海のスペイン独占が崩れ,西欧各国が植民地を形成すると,カカオの流通経路も一つではなくなった。世界史的には大西洋三角貿易の話も出てくる。サトウキビやコーヒーと同様に,カカオもプランテーション経営された。

2章ではココアとチョコレートがヨーロッパに受容されていった過程が述べられている。最初はカカオ豆を粉砕してできるカカオマスを固形のまま調理する技術が無かったため,ココアのみが生産された。そのココアも飲料というよりは薬品として消費された。これも砂糖やコーヒーなどと同じ道をたどっていると思うが,カトリック圏では宗教上の事情によりココアは飲料か薬品かという区別が重要であり,その論争がなされた。また,コーヒーに比べても高級なココアは顕示的消費の対象となり,富裕層に好まれた。一方,苦くて油っこく飲みにくいココアを,脱脂とアルカリ化によって飲みやすく改良したのはプロテスタントのオランダ人,ヴァン・ホーテンであった。19世紀前半のことである。

3章の舞台はイギリスである。19世紀前半,イギリスが覇権国家として自由貿易体制を整えていくにつれ,カカオも砂糖も価格が暴落し,中産階級や労働者にも手が届くものになりつつあった。19世紀半ば,とうとうココアを脱脂するのではなく逆に油脂を加えることで,固形に成形する技術が生まれた。チョコレートの誕生である。19世紀後半,さらに,これに砂糖を加えて甘くし,牛乳を加えることでまろやかすると,非常に食べやすくおいしいお菓子となった。この改良を行ったのはスイス人のネスレである。ベルギーでもチョコレート生産が始まるが,ゴディバの創業は1926年のことであり,他に比べると案外遅い。おりしも時代は帝国主義であり,アフリカでもカカオの生産が始まった。おもしろいのは,この段階においてもいまだココアは薬品の扱いであり,その普及にはホメオパシーがかかわっている。

4章では舞台をイギリスに戻し,その代表的なココア・チョコレートメーカーの発展の過程を見る。宣伝戦略によりココア・チョコレートは次第に客層を広げていった。特にココアが子供の飲み物としてピックアップされるようになったのは19世紀末のことである。4章後半から5章にかけては,やや話を脱線して,イギリスのココア・チョコレートメーカー経営者にはクエーカー教徒が多かったことに注目し,クエーカー教徒たちの社会正義を目指す活動に焦点を当てる。教育や貧困問題を通じて,彼らは社会の改良に取り組んだ。脱線と書いてしまったが,この部分が著者の本来の専門らしい。

6章は戦争とチョコレートのかかわりが述べられる。チョコレートは民間への配給品,軍需物資として二度の大戦を生き延び,潜水艦向けに溶けにくいチョコレートの開発が進められた。1935年,キットカットが発売になり,大ヒット商品となる。ウェハースをコーティングするという発想も,割りやすい溝も画期的な発明であった。

7章ではWW2の戦後復興とともに,チョコレートマーケットがヨーロッパだけでなく,世界に広まっていく様子が描写される。日本人としては,どうしてもギブミーチョコレートを連想するところである。チョコレートの普及に伴い商品としてのオリジナリティも求められるようになり,キットカットは今に続く「Have a Break」路線を突き進むことになる。なんとこの謳い文句は1962年から変わっていない。一方,国際的な市場の拡大は競争の激化を生み,大企業同士による兼併が増加した。1988年にネスレがキットカットのメーカーを合併したため,ネスレ所有のブランドとなっている(日本では不二家がライセンスを借りている)。ゴディバにいたっては,なぜか全く関係ないキャンベル・スープ社が買収した。もっとも,ゴディバの宣伝に成功したのはこのアメリカ企業の功績ではあるのだが。


これでも必要最低限の情報だけでまとめた感じなのだが,新書にもかかわらずご覧のように内容充実である。お勧め。超キットカット食べたくなること請け合い。

チョコレートの世界史―近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石 (中公新書 2088)チョコレートの世界史―近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石 (中公新書 2088)
著者:武田 尚子
中公新書(2010-12)
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2011年02月11日

第181回『サイコバブル社会』林公一著,技術評論社

ネット上で林先生と言えば,探偵ナイトスクープ顧問料理人の林先生か,精神科医で「まさかとは思いますが、この「弟」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。」で有名な林先生の二人であると思う。ちなみに,ぐぐると1・2番目に後者が出てきて,3番目に前者が出てくる。本書の著者は言うまでもなく,後者の精神科医のほうの林先生である。本書は現在の精神病を取り巻く状況を描く。具体例として鬱病(うつ病),アスペルガー障害,アルコール依存症,PTSDが挙げられているが,それぞれ挙げられていることに違う意味を持つ。

たとえば,うつ病は近年知名度が上昇し,「うつ病患者をむやみに励ましたらダメ」という程度は誰でも知っているレベルにまで到達した。一方,精神病としての「うつ病」と,巷で言われるうつ病には乖離が存在する。精神病とは脳の機能不全・異常による精神の変調であるから,明確に病気である。しかし,特にうつ病の場合,表面上は正常の落ち込みと見分けがつかないところが困難であるため,正常な落ち込みまでもうつ病と素人判断される風潮が広まってしまった。

なぜ林先生がこれだけばっさり行ったのかについての説明がなされている。何かはっきりした原因で気分が落ち込んでいる状態で,かつその原因をとりのぞけば復調するものは,「正常な気分の落ち込み」であり,うつ病ではない。この方の場合,原因は失恋で明白であり,脳の機能に異常が見られないのだから,精神病ではない,というのが林先生の判断である。

加えて,あまりにもうつ病が特権的地位を得てしまったため,擬態うつ病などという現象まで登場した。うつ病と診断されれば,周囲の人がいたわってくれる。だから皆,気分が落ち込んだ時にはうつ病と診断されたがる。しかし,擬態うつ病患者に薬を投与しても,治らないどころか悪化する可能性がある。林先生はこれを大きく危惧している……といった具合である。


共通して言えることは,精神病の場合「正常」と「異常」の境界があいまいで専門家にも判断が難しく,患者本人や社会の要請により境界はしばしばゆらめく。ではグレーゾーンをひとまずすべて異常と判断し,治療するほうが良いのではないか?とする意見も多い。しかしそのためには膨大な精神科医が必要で医療費も膨れ上がる。実際,近年の精神科医の開業数や,抗うつ剤の売上は完全に右肩上がりである。ゆえに,サイコバブルは製薬会社の仕業という陰謀論まで存在する。

一方,前述のうつ病のように,必ずしもなんでもかんでも異常と判断することが良いとは限らない。うつ病と擬態うつ病の関係に限らず,それぞれの精神病にはそれぞれ特有の問題がつきまとう。そもそも,誰かしら人生のどこかのタイミングで大きく落ち込んだり,何かに依存することや,たまたまその集団の空気をまったく読めなかったりすることはある。それらを含めて,なんでもかんでも異常として診断いたら,冗談抜きで,むしろ健常者が消滅してしまう。これがサイコバブル社会の正体である。その根底にあるのは,精神病の生半可な知識の流布と急激に成長する精神病世界に社会が追いついていないことだ。安易な診断をしてしまうことを,林先生は精神科医にも世間にも警鐘を鳴らしている。

だが,本書はその予測を立てているだけで,解決策は提示していない。まあ問題が巨大すぎて簡単に解決策を提示できるようなものでもないが,何かしら言ってほしかったとは思う。また,段落変えが多く,「だ・である」調と「です・ます」調が統一されていない部分があるため,ちょっと読みづらかった。しかし,誰しもが言いづらい内容をずばっと言い切った本書の挑戦心は大きく買いたいと思う。本書の内容を主張しにくい風潮そのものが,サイコバブルを生んでいる原因であり,本書が出版されたこと自体に意義があるのではないか。


サイコバブル社会 ―膨張し融解する心の病― (tanQブックス)サイコバブル社会 ―膨張し融解する心の病― (tanQブックス)
著者:林 公一
技術評論社(2010-06-25)
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2011年02月06日

『三国志 5・6巻』宮城谷昌光著,文春文庫

ある方のブックレビューに,「宮城谷氏の曹操は平凡だったけど,劉備の描写は非凡だった」というのがあった(ちなみにこれ)。8巻読了時点でのものだが,5・6巻まで来て,その言葉を実感しつつある。このかたが挙げている3つの特徴はすべて当たっていて,極めて的確な書評であると言わざるをえない。

5巻は官渡の戦い,6巻は赤壁の戦いで,三国志の二大イベントを両方終えてしまった。官渡の戦いまで来た時点で,曹操という人物はすでに完成されてしまっている。それに対して,劉備が諸葛亮に会うのは5巻末の時点だから,劉備という人格が形成されていくのは,むしろこれからである。もちろん,ここまでの描写でも十分劉備の描写は特異であった。過去になかったわけではなく,全く新しい斬新な物というわけでもない。ああした,無頓着で義侠の人だけれども,決して仁徳の人ではなく,将軍としては大概勝つけど曹操・呂布レベルには全く勝てない中途半端さ,というような劉備像自体は,比較的正史より『三国志』ならば,割とよく見る。『蒼天航路』の劉備も,広い意味ではこの範疇に入る。

宮城谷三国志の劉備が本当にすごいのは,そのうちの無頓着さが序盤からとことん追及されている点で,これは何の伏線なのかと読んでいけば,三顧の礼であった。なるほど,劉備はやるかやらないか,選ばされたのだ。頓着しなければ覇を競えない。領土を持たない群雄など聞いたことがない。しかし,劉備は土地にも物にも他人にも頓着しないからこそ強かった。圧倒的な生存本能が働いた。その生き様は奇跡であろう。そこで諸葛亮が言うのだ。「覇者になりたければ,私の戦略を採用しなさい,荊州と揚州に頓着しなさい」と。


三国志〈第5巻〉 (文春文庫)三国志〈第5巻〉 (文春文庫)
著者:宮城谷 昌光
文藝春秋(2010-10-08)
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三国志〈第6巻〉 (文春文庫)三国志〈第6巻〉 (文春文庫)
著者:宮城谷 昌光
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2011年01月17日

第178回『印象派はこうして世界を征服した』フィリップ・フック著,中山ゆかり訳,白水社

原題は"THE ULTIMATE TROPHY How the Impressionist Painting Conquered the World"で,直訳すれば『究極のトロフィー 印象派絵画はいかにして世界を征服したか』である(本書の訳者あとがきより)。現代の美術市場において,印象派がなぜ特権的な地位を得たかについて,画商・競売人の立場から考察する。筆者自身がクリスティーズ及びサザビーズに勤めていた競売人であり,画商でもある(そして小説作家でもある,多才である)。

ざっくりと切ってしまえば,印象派が特権的な地位を得た理由はまず「古典主義からは脱していたが前衛すぎない絶妙な位置にあったこと」。この点は自然主義も同じであり,確かにミレーやコローといったバルビゾン派も印象派と同様に現代において非常に高値をつけている。しかし,自然主義の絵画は中途半端にサロンに認められてしまったため,新興ブルジョワからすればあっち側の存在であった。そこへ行くと印象派はまさに「わしが育てた」の状態であり,それでいてこれまでの規範から外れすぎてもいなかった。ただしその評価は極めて相対的なものであり,印象派の評価はポスト印象派や次の前衛が登場した頃に,急激に上昇した(1880〜90年代)ことは注視しなければならない出来事であろう。

新興ブルジョワとはわがままなのだ。片方では既存の上流社会に立ち入りたいと思いながら,もう片方で貴族社会などカビの生えたものだと感じているのだから。印象派の絵画はうまくそこにマッチしていた。初期の印象派の多くは中産階級出身でどちらかと言えばおぼっちゃまが多く,絵が売れなかった生活苦は「若い時の苦労は買ってでもしろ」的なものであったということは,これらのことと全くの無関係ではない。


また本書で特に注目しているのは,印象派は各国によって受容のされ方,経緯が全く違うということである。これはフランスとその国の歴史的関係や,その国の持つ芸術観と密接にかかわっている。ある意味フランス本国よりも早く印象派を受容したアメリカは,まさに上記に挙げた条件にぴたりと当てはまる国であったがゆえに印象派の絵画を熱望した。歴史が浅いという劣等感と優越感の入り交じった矛盾は「歴史ある国フランス」への羨望をたぎらせ,そのフランスで生まれた新しい絵画を,彼らは熱狂的に買いあさった。

一方で統一が遅れ,同時に社会基盤の整備も遅れていたドイツは,アメリカと同じような羨望をフランスに対して抱きながらも,歴史の古さでは劣っていないという葛藤となり,遅れたドイツを自覚してフランスから印象派を積極的に輸入しようとする層と,反フランスの立場から印象派を排斥する層にくっきり分かれた。その葛藤は近代の鬼子であるファシストにも受け継がれ,ナチスは一方で印象派を退廃芸術の走りとして批判しながら,押収したものを私物化する高級幹部もいた。結果的に先進国では最も受容の遅れた国はイギリスだが,これは本書に挙がっている反フランスというナショナリズム的な問題以外に,同じようなポジションの集団としてラファエロ前派がいたことは影響しているのではないか。

やがて印象派はその経済的な価値が遊離し,投機の対象となっていく。1990年代前半になってようやく崩れたアートバブルは1950年頃から長く続き,その間絵画の値段は上がり続けた。それを牽引したのは印象派の作品であった。またこれは,絵画の売り手が作家と直接つながりがあり,己の審美眼にかけて作品を売る画商から,ともかく高値で売って手数料を稼ぐ競売人に,印象派の売り手が移り変わった時期でもあった。とりわけサザビーズが興隆したのは1950年代であった。この流れにはバブル崩壊前の日本もかかわっている。斉藤了英の名前は,日本のなした悪しき歴史として美術史上に刻まれ続ける。


本書は当時の人々の記録や手紙を用いて,意外なほどストイックに書かれている。受容史というのは難しく学者でもあまりやりたがらないのだが,筆者は学者ではないがゆえに,逆にやりやすかったのだろうか。小説家であるだけに文章もおもしろく,これは翻訳の力もあるように思われる。原文はまったく参照していない立場ではあるが,日本語だけ読んだ感じでは名訳のように思われる。美術史に関心のある人には何の問題もなくお勧めできる本。


印象派はこうして世界を征服した印象派はこうして世界を征服した
著者:フィリップ フック
白水社(2009-07)
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2011年01月14日

第177回『赤と黒』スタンダール著,野崎歓訳,光文社古典新訳文庫

冒頭と最後はおもしろかったが,中盤はやや中だるみしているという印象。

で,レビューを書こうとして,その前に世間の評判はどうなのかというのを調べたら出てきたのが,誤訳問題である。事前に知っていたら避けたと思うのだが,恥ずかしながらレビューを書く段になって気づいた。これに関しては書評の中身ともかかわってくるので,後から述べる。

物語の筋としては,理想に燃え才気にもあふれる主人公の道を誤った出世ストーリーで悪くはないのだが,まず出世の方法が「お前は島耕作か!」というほどいざという場面で女性頼りであり,その才気にあふれるという設定はどこに飛んでったんだと思わせられる(島耕作も,語学が天才的にできて雑務も得意だが,危機的状況は他人の手で助かることが多い)。というか,島耕作もこうであることを考えると,意外とこういった「才気あふれる」描写というのは難しく,ある種の作家にとっては鬼門なのではないだろうか,などと余分な発想にさえ至った。まあ,ジュリヤン・ソレルの場合は,島耕作と比べて脇が甘いので,女性に裏切られて身を滅ぼすわけだが。

そのジュリヤン・ソレルの心情描写は割とおもしろかったし,納得のいくものも多かった。しかし,スタンダールの文章の肝は「心理描写の詳しさ」にあるらしいのだが,それはすなわちライトノベルにありがちな「心情描写を一から十二まで説明してしまうせいで,字数を稼いで物語のテンポを悪くしている」という欠点にまんま当てはまる。これでテンポが悪くならなかったら感嘆するところなのだが,残念ながら眠くなるレベルである。特に,本書はジュリヤン・ソレルの出世物語であるので,彼の出世にあわせて場面が変遷していくわけだが,最後にたどり着いたラ・モール侯爵邸の場面からが冗長である。その心理描写何回目だよ,心情変わってないんだったらわざわざ繰り返しで説明しなくていいよ,と何度心のなかでつぶやいたことか。その割にラノベほど物語が軽くないので,別に読み易くもない。

そして,これに誤訳問題がひっかかるのである。なぜなら,誤訳・訳文の欠落があまりにも多く,丁寧なはずの心理描写が中途半端に欠け,その美点さえも失われているように感じるからだ。以下は誤訳を記したスタンダール研究会の会報である。

http://www.geocities.jp/info_sjes/kaihou/kaihou18.pdf
http://www.geocities.jp/info_sjes/kaihou/appendice18surRNdeSIMOKAWA.pdf

ただし,翻訳論に詳しい某友人に聞いたところ「誤訳はどんなにプロでも起こりうる物」だから,翻訳者本人よりもチェック体制の問題かもしれない。その意味で責任を追うべきは野崎歓ではなく光文社であろう。これは似たような仕事をしている私自身もひしひしと感じることで,文章は世に出す前に必ず他人の目を入れるべきであり,かつそれでも最後の最後で見つかるのは極単純ながら重大なミスである。「なんでこれ誰も気づかなかったんだよ」って言いながらそこを直すのは日常茶飯事であり,校正とはそんなものだ。加えてその友人は「そもそも野崎歓の脳内で完成している『赤と黒』だから,思い込みでやっちゃった部分も多いんじゃないか」とも言っていた。実は同様の"思い込み問題"は亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』でも起きており,だとすればもはや光文社は確信犯であろう。また「野崎歓は多忙すぎるので"ちぎっては投げ"方式で仕事してしまった可能性」及び「学者仕事として請け負ったわけではないので,そもそも緻密な翻訳は最初から捨てていた可能性」を指摘していた。というところで,誤訳問題を深く追求するのは差し控えておく。いずれにせよ,本書に感じられる文章の悪い意味での軽さは,原文によるものかそれとも訳のせいかは,判然としない。

実はその某友人が『パルムの僧院』を褒めていたので,『赤と黒』次第では読もうかなと思っていたのだが,すっかり気力が萎えてしまった。積み本も多いので,おそらく当分の間読まないと思われる。


赤と黒 (上) (光文社古典新訳文庫 Aス 1-1)赤と黒 (上) (光文社古典新訳文庫 Aス 1-1)
著者:スタンダール
光文社(2007-09-06)
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赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫)赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫)
著者:スタンダール
光文社(2007-12-06)
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2010年12月05日

第174回『バタイユ 消尽』湯浅博雄著,講談社学術文庫

著者がバタイユの思想を整理しながら,様々な概念について思索する本。こうした哲学書にはありがちなことだが,筆者の思考なのかバタイユの解説なのか,筆が乗りすぎてて判然としない部分が多々あるが,一応バタイユの思想の解説本ということでいいのだろう。

大雑把に本書の思考範囲を紹介する。序章はバタイユの人生・経歴を改めて確認している。そして非知や否定神学,有用性,禁止と侵犯など基礎的な概念を並べている。内的経験とは時間から解き放たれて自分を見つめなおすことだ。その無我の境地では,動物性も神秘体験も同様である。案の定サルトルからは非難されていたらしい。そりゃ理性尊重主義で実存主義のサルトルと,非合理主義で非実存主義のバタイユじゃ対極だろう。内的経験が達成するのは忘我であり,主体の外のことだ。バタイユはさらに共同体について思考を進め,王権とファシズムの関連について考える。ファシズムとはまがい物の王権なのだ。民族は「想像の共同体」である見なしたのは社会学であったが,バタイユから見ても民族とは宗教と同様であり,強引な同質性の保存であった。

第一章は動物性と人間性について論じている。人類は死の概念を発見し,生と死の区別をつけ,限られた生を活かすために有用性の概念を生み出した。聖なるものと俗なるものの違いが生まれた瞬間である。だからこそ動物性とは聖なるものの片方なのだ。ネアンデルタール人は埋葬し,クロマニヨン人はラスコーに狩猟の壁画を描いた。有用性とは正反対の方向にある宗教と芸術の誕生であり,聖なるものの発露である。ハイデガーのいうDaseinもバタイユに言わせれば,その最も本質的な有り様は単なる「死に向かっていく存在」でしかない。

第二章は俗なるものについての考察である。理性は直接的な行動を制止し,道具を製作するという回り道を通ったほうが結果的に有用であるということを明らかにした。そうして主体と外界を明確に区別し(対象化ともいえる),道具化し,自らを死から遠ざけるための行動,理性のつかさどる行動。これが俗なるものの世界である。農耕も牧畜もこうして生まれた。してみると,冠婚葬祭を司る宗教家が集団において特権的な地位を得,原始的な社会では政治も司っていたのは自然なことである。剰余を搾取することは,聖なるものの領域であるからだ。

第三章は続けざまに聖なるものとその宗教性,エロティシズムについて論じる。性のタブー化,特に近親相姦のタブー化も生と死に大きくかかわることを考えれば不思議ではない。聖なるものの反対は俗なるものではなく呪われたものであり,それは聖なるものの対極でありながら,俗なるものとの対比では聖なるもののの側にいる。人間には侵犯を超える欲望があり,とりわけ「性」という特殊な領域においてその欲望が発揮された場合,これをエロティシズムと呼ぶ。生殖は生産だが,エロティシズムは非生産的であり,聖なるものの領域にいる。生殖器官と排泄機関が(物理的な意味で)近いことは,バタイユはアウグスティヌスを引きつつ語ったこともあれば,自らの小説『眼球譚』で表したところでもある。しかしそこに羞恥心を抱くのは文化的な嫌悪である。

第四章はさらに祝祭と供儀について述べる。祝祭の乱痴気騒ぎは,それそのものが宗教性を帯びる。第五章はその宗教さえも制度化されたものに変わっていく様子を叙述する。第六章はその一例としてキリスト教を挙げ,キリストはイエス自身による供儀であったところから急速に制度化していったことを示し,バタイユの否定神学について考察する。第七章はいよいよ宗教とは別の聖なるものである,芸術・文学について論じる。第八章で再び共同体への問いかけを行い,終わる。最後に略年表と主要文献解題,キーワード解説。


あくまでバタイユに関心があれば,という本。


バタイユ (学術文庫)バタイユ (学術文庫)
著者:湯浅 博雄
講談社(2006-05-11)
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2010年11月02日

第171回『アンナ・カレーニナ』トルストイ著,望月哲男訳,光文社古典新訳文庫

タイトルを『コンスタンティン・リョーヴィン』に変更すべき。と,おそらくすでに言われまくっているであろうことを,あえて冒頭に掲げておく。

本書を読んだのは二回目だが,一回目は大学1年の頃で,(某人の推薦で)義務感に駆られて読んだのもあり,旧約の読みづらさもあり,当時の自分の読解力もあり,ほとんど今回が初めてのような感覚で読んだ。感想が当時と大きく違うので,そこら辺を各登場人物に対する評価としてつらつらと語っていく。既読者はぜひ,コメントの程を。

アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:レフ・ニコラエヴィチ トルストイ
光文社(2008-07-10)
販売元:Amazon.co.jp
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以下,全編ネタバレ。  続きを読む
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2010年10月06日

第170回『十二世紀ルネサンス』伊東俊太郎著,講談社学術文庫

古典的名著。しかし世界史履修者であっても「12世紀ルネサンスってなんだっけ?」って人も多いと思われるので説明しておく。

古代ローマ帝国が崩壊し,異民族の侵入が相次いだ西欧は,その価値を知らぬ異民族と,その価値を忌避したキリスト教徒により,古代ギリシア・ローマの優れた文明が徹底的に破壊された。なぜこのようなことが起こってしまったのか。破壊ももちろんだが,それ以前の問題として,古代ローマの共通語はラテン語であった。これはあくまで今の英語のような立ち位置での共通語であって,ガリアの人はフランス語の原型を話してただろうし,ゲルマン人は古ゲルマン語を話していただろう(イタリア半島の人間にとってはもちろん「現地語」でもあっただろうが)。その中で古代ギリシア語の占めていた立場といえば,もちろんギリシア人にとっては現地語であったが,それ以外の人間にとっては学術用語か,上流階級の趣味でしかなかった。ゆえに,古代ギリシア・ヘレニズムの文献はほとんどラテン語に訳されず,ギリシア語のまま読まれた。ゆえに,4〜7世紀にわたる中世初期の大破壊の後,西欧からはギリシア語文献が消え去り,誰もがギリシア語をろくに読めないという状況が出来上がった。

結果としてそれらを保存したのは中東の地域であった。少し後にイスラーム教が勃興し,彼らが中東を支配するようになると,これらの文明の成果は発掘され,再評価が始まった。アラブ人やイラン人はビザンツ帝国からの亡命者を積極的に取り入れ,彼らの一部はイスラームに改宗した。そしてギリシア語の知識や文献がイスラーム圏に大量に流入し,それらが一斉に翻訳され,さらなる学問の発展が見られた。

その間に西欧でも多少なりとも文明が復活し,イスラーム圏との交渉,つまり商業取引(香辛料貿易)であったり,戦争(十字軍)が行われるようになる。こうして,西欧にも,イスラームによる翻訳・再編集を介して,再び古代ギリシア・ローマの文明が入り込み,再評価の光が当てられるようになった。この西欧における古代文明の再評価が起こったのは12世紀であったため,「12世紀ルネサンス」と呼ぶ。14世紀以降に開始される本番のルネサンスの前哨である。「12世紀ルネサンス」がなければ,西欧にはプラトンもアリストテレスも,ユークリッドもプトレマイオスもなかった。実のところ,西欧が直線的に受け継いできたと思われていたもののほとんどは,イスラームを経由したものであり,それも古代文明をそのまま輸入したわけではない。つまりイスラームは単なる媒介だったわけではなく,イスラーム学問の成果の土台の上に本番のルネサンス以後の西欧学問の発展があった。

前述の通り,本書は日本に「12世紀ルネサンス」を広めるのに決定的な役割を果たした古典的名著である。元は伊東俊太郎先生の講演を再録したもので,それが文庫化されるにあたり再編集されたものである。第1講から第5講は12世紀ルネサンスとは何か,という丁寧な説明で,いかにそのインパクトがすごかったか,その具体的な翻訳経路はどういったものか,についても説明されている。

ただし,本書の精髄は第6講と第7講である。第6講は伊東俊太郎氏の博士論文から現在の研究の最前線の歩みを説明した章で,実証的な文献学とはかくあるべきものなのか,という点で非常に感心させられる。文学部の学者はどれもこれも根性の要る仕事だと思うが,中でもやはり文献学者の根性は半端ない。でもけっこうこういう作業好きな自分もいる。うなるほど金と時間があったらこういう研究の手伝いとかしてみたい。

第7講は打って変わって恋愛についての議論である。すなわち,ロマンティックな恋愛劇の起源は本当に西欧だけのものか,イスラームから輸入されたものとの融合で誕生したものではなかったか。12世紀ルネサンスの文明交流を,古代文明の還流とだけ見るのは過小評価ではないか。これは親しみやすい話題である上に,新たな視点を与えてくれる話であろう。

古典的名著だが,それ以上に読む価値のある本である。


十二世紀ルネサンス (講談社学術文庫)十二世紀ルネサンス (講談社学術文庫)
著者:伊東 俊太郎
講談社(2006-09-08)
おすすめ度:4.5
販売元:Amazon.co.jp
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2010年09月18日

第169回『ハプスブルクの文化革命』山之内克子著,講談社選書メチエ

オーストリア帝国,そしてその首都ウィーンというと,保守反動の権化のようなイメージがある。または,こちらは現在まで続くウィーンのイメージとして「芸術の都」,特に音楽と演劇の都というイメージが強いことだろう。少し歴史に詳しい人なら,カトリックの都というイメージを持つ人もいるかもしれない。はたしてそのイメージはどのようにして形成されたのか。また,そのイメージには偏見があるのではないだろうか。


18世紀後半,東欧には世界史上特異な政治形態が誕生した。啓蒙専制君主制である。すなわち,啓蒙主義に則り,君主自らが国家社会の合理化・自由化を図るというものだ。その合理化や自由化は自国の富国強兵に役立つかたわら,一方で絶対的な君主制そのものを揺るがしかねない危険性を秘めている,矛盾した統治体制であった。オーストリアの啓蒙専制君主といえば,ヨーゼフ2世と,広義ではその母親,マリア・テレジアが含まれるだろう。

この母子2代の君主は,啓蒙専制君主として,ウィーンという都市とその都市民に対して様々な改革を推進した。にもかかわらず,ウィーンという都市そのものが保守的で享楽的であるというイメージは,当時からすでに染み付いており,覆ることはなかったのである。それは彼ら2代の改革がうまく行かなかったからではなく,彼らの改革がウィーンの都市民の実情にあった形でなされ,そのオーストリア啓蒙専制特有の改革こそが,まさに現在の都市ウィーンを形成したのである。

具体的に言えば,マリア・テレジアもヨーゼフ2世も「人民の統治には娯楽が必要である」ということを強く認識していた。一方で粗野で下卑で暴力的な娯楽は追放し,その代わりに美食や散歩,演劇や行列といった視覚的な娯楽=「スペクタクル」が,啓蒙に則った人間の娯楽としてふさわしい行動だと考えた。ゆえに彼らは積極的に世俗の娯楽に介入し,都市民に新たな娯楽を植えつけた。結果としてこの「上からの新たな娯楽の提供」は,余暇と労働時間の分化を促し,カトリック教会の世俗化をも促したのである。

つまり,この君主母子は,「享楽の都」から娯楽を奪い去ろうとしたのではなく,娯楽そのものを啓蒙して,「芸術の都」へと進化させたのである。このラディカルではない変質が,他地域の啓蒙主義者にとって改革は失敗したかのように見え,彼らの喧伝がやや偏ったウィーンのイメージを歴史学に植えつけていたのである。特にプロテスタントの文化人にとっては,娯楽そのものが啓蒙主義的理性・禁欲とは相容れなかったがゆえに,このような喧伝・悪評を撒き散らしたのであった。しかし,ウィーンが実現した穏健な娯楽と市民の行動規範は,確かにドイツやフランスの場合とは経路が違ったが,しかし間違いなく近代的な市民像の萌芽であった。

本書はこの君主母子による「ウィーンの社会・文化改革」の進展とその受容,また啓蒙の先進地域であった他地域(特にドイツ)からの旅行者にはこの改革がどのような目で映ったのかを分析し,改革の実情とイメージ形成の過程を明晰に解き明かしている。その研究手法は,当時出版されていた旅行記や日記などの膨大な史料から読み解いていくという社会文化史研究の王道を行っており,その点でも非常に好感が持てる。2005年初版なので,ちょっと古めの本である。ただし,最近読んだ本では最もおもしろい本であった。ここ半年ほどで読んだ数十冊の中では最も興味深く読めた。


ついでに,自分用のメモも兼ねて,そもそもなぜウィーンが享楽の都となっていたのかということについて本書の内容を踏まえて記しておく。ある種地政学的な説明になるのだが,18世紀のハプスブルク家は東欧に広い領土を持ち,国土全体から見るとウィーンというのはひどく西端に位置していた。しかし,オーストリア帝国を西欧の国家として考える場合,やはり東欧に位置する国土の大半は後背地に過ぎず,その富は(収奪というとニュアンスが強すぎるが)国土の西側へ集められた。特にハンガリーとボヘミアという沃土は,ウィーンの都市民に食の娯楽を植えつけるのに十分であった。

その上さらに,ハプスブルク家というのは旧家であり,長い歴史の中で自らの宮廷を肥大化させてきた。実のところウィーンの18世紀初頭当時の人口は約13万人程度で,同時期のパリやロンドンが50万人都市,アムステルダム・ナポリ・ヴェネツィアで20万人都市であったことを考えるとまだ都市としては小さく,にもかかわらずその1/4以上は宮廷の直接の関係者であった。上記の他の大都市がすでに商工業者による都市人口増加が始まっていたいたこととは対照的に,ウィーンはほぼ完全に政治的都市でしかなかったことはうかがえる。ウィーンはヨーゼフ2世の頃にようやく20万人に到達するが,それでもこの割合は変化がなかったと思われる。であるからこそ,絶対的な宮廷の君主が,啓蒙専制を敷く事ができた。しかし,ヨーゼフ2世は宮廷の合理化に際し宮廷儀礼を大量に廃止し,「スペクタクルの民営化」を推進したため,宮廷はスリムになったが,これもまたウィーンの経済的近代化の基盤となったのではないか。なお,ウィーンが急激に都市化したのは,普墺戦争後のことである。


ハプスブルクの文化革命 (講談社選書メチエ)ハプスブルクの文化革命 (講談社選書メチエ)
著者:山之内 克子
講談社(2005-09-10)
おすすめ度:5.0
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2010年05月29日

書評『東大合格高校盛衰史』小林哲夫著、光文社新書

戦後、東京帝国大学から東京大学に名前を変えた大学は、1949年から入試が始まった。すなわち、2009年でちょうど60年、60回に及ぶ入学試験を行ってきたことになる(61回でないところがミソ)。この間、間断なく熾烈な争いが繰り広げられてきた。とともに、各名門校には意外なほど大きな浮きひずみが存在し、名門であり続けることは並大抵の努力と幸運では達成できないことである。本書はそのような観点から、時代や地域の違いなどを考慮しつつ東大合格を出してきた高校について徹底的に分析したものである。


ざっくりと言えば、東大合格者の歴史は4つほどの時期に分かれる。まず戦後直後の1949年から1968年までの約20年。この時期は圧倒的に日比谷を中心とする都立高校が強く、他でも湘南や県立千葉・浦和などが強く、あまり地方色がない。この頃の東大は関東の地方校といった様相がある。本書によれば一応この頃が最も多様性に富んでいたそうだが、それは1〜2人合格校が多く統計上そういう結果が出ていただけであって、合格者上位100校を見るとすでに寡占が始まっていたことがわかる。この頃の日比谷や西高校の合格者は100人を超え、今の開成や灘と何ら変わらない。私立や国立はそれほど強くない。

この状況が次第に変わり始めるのが60年代後半〜70年代前半にかけてである。69年度入試が東大闘争で中止になったように、公立高校の多くは学生闘争に巻き込まれた。加えて、都立高校で悪名高き学校群制度が始まったのを皮切りに全国でこれが導入され、公立高校の大失墜が始まる。学校群制度や小学区制度とは反エリート主義者の誤解によって生じたものだ。確かに一つの高校に多種多様な知性を持った人間が集まるようになったかもしれないが、それは多様性の上昇という結果をもたらしたわけではない。所詮人間の多様性など偏差値で区切った程度で減少するものではなく、結局彼らは人間というものを信用できなかったのだ。

学校群制度・小学区制度は公立の名門校を破壊して「貧乏人でも東大に入れる」という公教育の理念をつぶし、私立高校を育てるという目的とはある種正反対の結果を生んだ。68年に早くも灘が1位をとると、以後公立高校がこの座を奪還することは現在に至るまで一度も無い(国立を含めれば71年に筑附が、73年に筑駒が1位を獲得)。さらに言えば、1位に話を限るならば82年以降2010年現在にいたるまで、開成が1位を譲ったことがない。

70年代はまだしも、80年代前半は公立暗黒時代であった。この時期にあって意地を見せていたのは、やはり関東圏であった。80年代の場合、都立のうち西・戸山の2校、そして湘南・千葉・浦和の3校でほとんど20位以内の公立高校は終わってしまう。都立に話を絞れば、60年代最強を誇った日比谷は早々に脱落。校風が自由であった伝統に低い成績層が混ざったという悪影響。逆に、西と戸山が生き残ったのはスパルタ式の教育方針による。しかし、その西と戸山もじりじりと下がり、77年を最後にトップ10から消える。

第三の時期は80年代後半〜90年代前半である。87年に東大・京大のダブル受験が可能になった。第二期の影響で本当に頭の良い生徒は私立・国立に行って東大入試も楽々合格し、公立に行った生徒は最低点ギリギリを狙うという風潮が生まれた。この風潮は現在までもなんら変わっていないわけだが、この風潮の中でダブル受験を認めればどうなるだろうか。すなわち、関西の有力な高校が一気に東大に流れ込み、地方公立の「合格最低点狙い」東大受験生は、さらに押し出されることになった。これほどの公教育つぶしも無い。87年の開始年ですでにトップ20に公立は湘南・千葉・浦和しかいない。翌88年には湘南が沈み、89年には制度が元に戻って東大専願になったにもかかわらず、この流れは変わらず、やはり千葉と浦和のみがトップ20に顔を見せた。最も割りを食ったのは都立高校で、80年代後半にはトップ20から完全に姿を消した。90年代前半が最もひどく、トップ100に至るまでずらっと私立が並ぶ。ランキングの半分は私立である。

そして第四の時期が90年代後半〜2010年の現在までである。特徴としては、地方も含めた公立高校の巻き返しである。これは時代の流れであった。日教組加入率が下がり、また私立偏重の難関大学合格は悪しき反知性主義の結果であるという自己批判に、公立高校側がようやく至ったのである。一斉に学校群・小学区制度が廃止になり、大学区制度や県内一学区体制がとられるようになる。この間に公教育の失ったものはあまりにも多かった。この頃から10〜20人の合格者をコンスタントに出す「県内トップ校」の顔ぶれが登場、もしくは復活し始める。日比谷でさえ見事な復活成長を描き始めた。これは二つの意味を持つ。すなわち、トップ30の私立の牙城はついに崩せない状態となり固定化した。2005年度など、20位までに1校もなく、22位に岡崎、23位に、浦和、24位に土浦第一と3校あるのみである。ちなみに、私の入学年である04年も、トップ30に入った公立高校は岡崎、土浦第一、旭丘、一宮の4校のみであった。我が母校も含めて、なぜか愛知県の強かった年でもあった。その一方で、私立が強いまま公立高校にもエリート主義が復活したため、公立高校同士でも二極化が進み、東大合格のさらなる寡占化が進んだということだ。さて、第四の時期はいつまで続くであろうか。なお、60年間トップ10から漏れなかった高校が一つだけある。麻布高校である。


この他、県ごとのデータや60年分の累積データ。女子校や男子校、宗教系といった区切りではどういった結果が出ているかという分析が掲載されている。データ中毒にはたまらない一冊となっている。ただし、一つだけ言わせて欲しい。校正はもっとしっかりやろう。本文中には誤字脱字が見当たらないものの、データ部分がひどい。量があまりにも多かったので苦労のほどは理解できるが、多分あまり校正を通していない。記号の抜け、インデントのズレ、表記の揺らぎが当たり前のように存在し、普通に読む分には問題ないが精読しようとするとちょっと辛い。あと、誰か早く京大版・慶応版・早稲田版・阪大版・名大版を執筆するべき。無論、この著者でもかまわないので。


東大合格高校盛衰史 60年間のランキングを分析する (光文社新書)東大合格高校盛衰史 60年間のランキングを分析する (光文社新書)
著者:小林哲夫
販売元:光文社
発売日:2009-09-17
おすすめ度:4.5
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2010年05月07日

書評:『四畳半神話大系』『新釈 走れメロス』『夜は短し歩けよ乙女』森見登美彦著、角川・祥伝社・角川文庫

ツイッターで散々「明石さんかわいいよ明石さん」とかつぶやいてしまったので、今更ながらまとめておく。森見登美彦の作品は決まって共通点がある。京都が舞台だとか、主人公は必ず京都大学生でうだつの上がらない風采をしているだとか、しかも高確率で農学部生であるだとか、なぜかどれを読んでも城ヶ崎先輩と樋口さんと羽貫さんは登場するだとか、そんなんである。

しかし、逆にヒロインの場合、必ず黒髪の乙女であるという点しか共通点がない。なんというか、この「黒髪の乙女」という発想がとても童貞くさくてよろしい。しかし、その彼女らの性格は、意外と小説ごとに異なっていたりする。水尾さんも明石さんも、夜は短しの「乙女」も、それぞれ異なった個性を持つ。一番ドライなのは『太陽の塔』の水尾さんだろうし、実は一番とっつきやすいのは、間違いなく『夜は短し』の「乙女」だろう。

それでも何より、一番(私が)萌えるのは『四畳半』の明石さんである。森見作品最大の萌えキャラと言ってもいいし、今期のアニメ最高の萌えキャラと言っても過言ではあるまい。これまた森見登美彦らしい造形のキャラではあるのだが、彼女はいかにも我々「非モテ」にとって都合がいい。彼女自身がモテ男の思考では理解できない思考回路を持ち、かとって電波すぎない。それでいて、非モテの捻じ曲がった発想を理解するだけの柔軟性を持ち、そして我々の突飛な行動を「珍獣扱い」ではなく、真意を理解した上で楽しんでくれる。「黒髪の乙女」という外見は、美女でありながらモテとビッチがもてはやされる世の中の風潮には染まらないという意思表示であり、表象なのだ。これで我々が惚れないわけがなかろう。(そしてまた彼女は,「表象」とか言っちゃうプチインテリ層に受けがいいのである。ここに,主人公が京大生である意義がある。)


一応作品評も書いておく。実は女性があまり絡まない分、そして二次創作であるがゆえか、一番ケタケタ笑いながら読んだのは『新釈 走れメロス』である。このパロディっぷりはひどい。特に表題となっているだけあって、『走れメロス』は渾身の力作であった。怒涛のギャグの嵐である。森見登美彦入門編としても優れているので、まずはここから入るとよかろう。

『夜は短し歩けよ乙女』はやや冗長なところがある気はする。また、これは個人の趣味なのだが、森美作品では最も自分の好みから外れた「黒髪の乙女」ではあった。ただし、五作目ということもあり、李白さんや樋口さんが最も生き生きとしているのはこの小説であり、森見作品の中核といった雰囲気もあった。もっとも、私もまだ全作品読んでいるわけではないが。

総合すると最高傑作なのはやはり『四畳半神話大系』であろう。『太陽の塔』でもいいが、やはりあちらはデビュー作というだけあってまだ荒削りと言った感じがする。『四畳半』は二作目にあたるが、随分と読みやすくなっていた。話の筋はよくあるループ物ではあるのだが、叙述が巧みでループ物という使い古された題材をうまく用いているところに好感を持った。トドメが明石さんのキャラクターである。最後に一言言わせてほしい。明石さんに坂本真綾をあてた人、天才。



四畳半神話大系 (角川文庫)四畳半神話大系 (角川文庫)
著者:森見 登美彦
販売元:角川書店
発売日:2008-03-25
おすすめ度:4.5
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夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
著者:森見 登美彦
販売元:角川グループパブリッシング
発売日:2008-12-25
おすすめ度:4.5
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新釈 走れメロス 他四篇新釈 走れメロス 他四篇
著者:森見 登美彦
販売元:祥伝社
発売日:2007-03-13
おすすめ度:4.5
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2010年05月04日

書評『ハチはなぜ大量死したのか(Fruitless Fall)』ローワン・ジェイコブセン著,中里京子訳、文藝春秋

本書は『Fruitless Fall The Collapse of the Honey Bee and the Coming Agricultural Crisis』(『実りなき秋 ミツバチの崩壊と農業危機の到来』)の全訳である。先に書いておくが,本書は超良書であった。ぜひ読んでみてもらいたい。


皆さんは蜂蜜がお好きだろうか。私は大好きである。北米やヨーロッパにおいて,大した危機もなく比較的楽に稼げる事業であったのが養蜂業であった。しかし,1990年頃から天敵のダニの大流行を初めとして,安価な中国産・偽装製品の進出などが重なり,厳しい状況に置かれていった。そして2007〜08年にかけて、謎の奇病が流行し、北半球の1/4のハチが突如として「失踪」した。

ポイントはいくつかある。まず、北半球で1/4と推定されていることだ。日本ではこの事件がほとんど話題にならなかったように,養蜂が盛んな地域として日本や中国,ロシアでは影響が少なかった。ということは逆に,ヨーロッパミツバチを用いているヨーロッパや北米ではどれだけのミツバチが消えたのかということは想像にかたくない。と同時に,なぜヨーロッパミツバチ特有の現象であったのか(もしくは特有に見えるような事態が起きてしまったのか)ということは当然浮上する疑問点となる。加えて,ハチたちは死亡したのではなく,死体もなく,跡形なく失踪してしまったという点も非常に奇妙である。蜂蜜と蜂児・女王蜂・雄蜂を残して,働き蜂だけが失踪・大量死した。この点もまた過去にない現象であった。

本書の前半部分はこの現象を解決しようと努力する人たちを追ったルポルタージュである。多くの人はまずダニのせいにしたが,解決しなかった。次に病原菌・ウイルスのせいではないかと疑い,様々な研究がされたが,むしろ「現在のミツバチは多様な病原菌に侵されている」ということが判明した。農薬や遺伝子組み換え作物も犯人扱いされたが,どれも容疑者どまりで終わり起訴されるに至らなかった。

ややネタバレになるが,結論から言えば,ハチたちの大量死の原因を特定の犯人に押し付けることはできなかった。では何が原因でどうすればよいのか? というのが本書の後半部分である。前半部分の犯人探しも迫真的な描写でおもしろかったが,この後半部分が本書の肝であり,非常に示唆に富んだ文章となっている。そして本書の末尾を読むと,楽観的な気分よりは暗澹たる気分にさせられる。

以前,私が『不都合な真実』を読んだときに「環境保全なんて近代文明に反する行為だということは自己認識した上で行うべき」と言ったことを書いたらひどく反響があり,各所からDGさんらしくないネガティブ思考と言われてしまったものだが,本書の示唆するところは私の意見に割と近いながら,より恐ろしい予言となっている。つまり,近代文明はすでに行き詰っており,危うい均衡の上に立っている。そのため,特に現代農業の抱える諸問題は喫緊の課題であるということ。このハチの示唆することに地球温暖化等に比べて我々の生活に相当直接的であり,「近い」。現代農業の崩壊はハチから始まった,などと書かれる日もありうるだろう。


訳者後書きにも書かれていたが,ニホンミツバチは生産性においてヨーロッパミツバチに劣るが,独自の行動様式を持ち,今回の現象にはあまり影響を受けなかった。願わくばニホンミツバチが蜂蜜の救世主とならんことを。


ハチはなぜ大量死したのかハチはなぜ大量死したのか
著者:ローワン・ジェイコブセン
販売元:文藝春秋
発売日:2009-01-27
おすすめ度:4.5
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2010年04月18日

書評『ダメ人間の日本史』山田昌弘&麓直浩著,社会評論社

前回紹介したものの日本史版。64人の日本史に登場するダメ人間偉人を解説,仁徳天皇に始まり,三島由紀夫で終わっている。こちらもかなりブログの内容と重なっている部分が多く,というよりも書籍化の弊害でブログ版のほうが書かれている内容が濃い人物も何人かいる。世界史よりも身近で有名な人物が多いので,こちらのほうがとっつきやすく,読みやすくもあるだろう。

知っていておもしろかった人としては,やはり在原業平と小野篁のシスコン。特に小野篁は日本屈指のシスコンであると思う。後白河の好色っぷりは文化として歴史に残ってしまった。兼好法師,やはり彼は生まれる時代を700年ほど間違えた。足利尊氏は本当に謎の多い人間である。大杉栄さん,貴方は革命の前に,自分の身辺を整理してください。知らなかったところでおもしろかったものも挙げておく。まず,大伴旅人。世捨て人すぎて泣いた。酒は魔物である。次に,藤原定家。お前その小説無いわ……魔法中二バトルラブコメの作家だったとは驚きである。北里柴三郎,学生運動なんてしてたとは,人はわからないものである。柳田国男先生,のぞきは犯罪です。たとえ野外でも。


だが,日本史版のほうが評価は低くなると思う。理由は単純で,今回も人選に若干の難がある。いかに変態大国日本といえども,世界と対抗するべく同じだけの人数をそろえようとするとどうしてもインパクトの薄い人間まで引っ張り出してこざるをえなくなっているためである。世界史版のほうでも書いた通り,ダメ人間のバリエーションが少なく,日本史は単なる放蕩息子,金銭感覚の欠如者が多い。そして強引にこじつけられ,史実としての可能性が低い逸話によってダメ人間にされている人も何人かいて,本全体の信憑性を下げてしまっている。一条兼良や後水尾天皇は完全な「被害者」だ。前述の被害者の他,大久保利通や柳亭種彦,福沢諭吉,加藤友三郎は偉人ではあるが「ダメ」の内容のインパクトが弱い。黒田清隆は単なる短気のような気がする。

しかし,バリエーションを増やすのは世界史に比べると幾分か難易度が高いので,人数を減らして一人あたりの文章量を増やせばよかったのではないか。上記の知らなかったで挙げた面々や,またブログから大幅に省略されている兼好法師や国学者の連中には,一人10ページ以上割いても良かったのではないか。そのほうが本全体がおもしろくなったことだろう。



ダメ人間の日本史―引きこもり・ニート・オタク・マニア・ロリコン・シスコン・ストーカー・フェチ・ヘタレ・電波 (ダメ人間の歴史)ダメ人間の日本史―引きこもり・ニート・オタク・マニア・ロリコン・シスコン・ストーカー・フェチ・ヘタレ・電波 (ダメ人間の歴史)
著者:山田 昌弘
販売元:社会評論社
発売日:2010-03
おすすめ度:2.5
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2010年04月10日

書評『ダメ人間の世界史』山田昌弘&麓直浩著、社会評論社

タイトル通りの本。著者は以前センター試験に潜む変態で使わせていただいたブログの中の人で,京大のサークル歴史研究会のOBである。詳しい経歴は本書に掲載されている。ブログのほうも大変おもしろいので,ぜひ読んでいただきたい。

さて,本書も大変おもしろい本で,63人ものダメ人間が収録されている。おおよそブログとネタが同じではあるので,愛読者にとっては半分くらい読んだことがある話だったりするが,別にそこはケチをつけるところではないだろう。著者たちのブログでも本人たちが書いていることだが,社会評論社などというお堅いところが,思いっきりな萌え絵表紙の本書を出版し,しかも多くの書店がサブカルコーナーではなく歴史コーナーに置くという奇っ怪な事態が発生している。これは『もえたん』が受験参考書コーナーに置かれていたことよりも驚きである。しかし,これも現代版スエトニウスだと思えば,ぎりぎり歴史書の範疇だろう(ということにしておきたい)。カバーイラストの人選も正解。しかもメイドにマルクスだからインパクトがある。売れるかどうかは別にして。

私も知っているところからまったく知らないところまで様々であった。王安石の不潔やルターのうんこ好き,デカルトの人形好き,そしてヘーゲルのラノベヲタはまったく知らなかった。でもヘーゲル,ルターあたりはなんか納得できる。あの人らそういう人種だしなぁ。挙げられた面々を見て思ったのだが,やはりドイツ人は日本人と並ぶ変態である。


ただしまあ,ケチも一応つけておく。まず,書籍の体裁はとられているものの,文体がブログのままで違和感がある。また,おそらく素でヲタ用語,2ch用語を使用していると思うのだが,それ自体はこういう本であるし,なんら問題ない。著者たちもガチでヲタなのだろうから。しかし,どうも吹っ切れてないというか,素人の演劇のような気恥ずかしさが感じられ,使い方としては正しいのだけれど妙な堅さが感じられた。いっそ全く使用しないか,もっとやっちゃった方向に振り切れてもよかったのではないかと思う。あと、ビスマルクを出したなら、鉄血演説は実は本人による後の創作である可能性が高く、自伝にしか根拠がないことも触れておいてほしかった。

もう一つだけ。人物の選出で,8割方は異論がない。ただし,「ダメ人間」の方向性が今ひとつ曖昧と言おうか,載せないでもよかったのではないかと思う偉人もいる。たとえば,リチャード獅子心王やイーデンは単なる人格破綻者や被害者ではなかったかと思う。また,ネタが恐妻家と女装癖に偏っており、若干バリエーションに欠ける。ベガルハやジャハンギールあたりは割とありふれた話で,ダメなネタとしては弱く感じた。代案としては,あとがきにあるキケロとルソーはやはり突出したへたれと変態だったと思う。陶淵明,李白があるなら杜甫もいいだろう。モーツァルトのような芸術家を挙げて良いのなら,やはりカラヴァッジョを推挙せざるをえない。あとはポンパドゥール夫人とか,もういっそルーデルとか。意外とまだまだ変態・ダメ人間はいる。ただし,地域的・時代的な偏りを少なく書いたということなので(しかもその選定でかなり苦労したとのこと),あまり意味のない指摘ではあるかもしれない。



ダメ人間の世界史―引きこもり・ニート・オタク・マニア・ロリコン・シスコン・ストーカー・フェチ・ヘタレ・電波 (ダメ人間の歴史)ダメ人間の世界史―引きこもり・ニート・オタク・マニア・ロリコン・シスコン・ストーカー・フェチ・ヘタレ・電波 (ダメ人間の歴史)
著者:山田 昌弘
販売元:社会評論社
発売日:2010-03
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2010年03月06日

第156回『ルネサンスとは何であったのか』塩野七生著、新潮文庫

また塩婆かと思われるかもしれないが、実際には何冊か間挟んでいて、レビューしてないだけである。

本書は01年に出たものの復刻版で、ルネサンスとは何であったのかについて、対話編で語っているように見せかけて実は塩野七生が一人で話している本。イタリア・ルネサンスをフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアで、それぞれのルネサンスについて語っている。

本書は非常にざっくり切りすぎているのが美点でもあり欠点でもあると思う。まず、そもそもなぜイタリアでルネサンスが真っ先に発祥したのか、なかでもフィレンツェが先駆けたのはなぜなのか、について非常に熱く語っているわけだが、「同時期のネーデルラントについてはどうお考えで?北方ルネサンスも同時期ですよね」という疑問は当然わいてくるわけで、彼女はそこを当然のようにスルーしてフィレンツェ人について語っている。まあイタリアについての本なのだからスルーして当然と言われればそれまでなのだけど、一言くらい触れてもよかったんじゃないかとか、一旦惚れるとその人(民族・団体)しか見ないのは悪い癖だなとか、読者としてもどうしても考えてしまう。その他、細かいところで「そこばっさり切っちゃうのは立体的な歴史像としてまずくね?」というのは、実は多数ある。

それでもやはり本書はおもしろい。たとえば、ルネサンスの走りとしてノルマン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と、聖フランチェスコを挙げていた。前者は比較的見る名前だが、後者を挙げている人は見ない。しかし、理由がしっかりとしていて、なるほどと思わせられる。フィレンツェにしろローマにしろヴェネツィアにしろ、興亡の歴史に民族の特質をしっかり織り込んでおり、いつもの塩野節を聞くことができるだろう。(amazonのレビューに「気質に逃げられても」というものがあって、それはそれで納得できる話だが、そういう人は塩野七生の本と徹底的にあわないので、今後一切避けるべき。)

塩野入門書のように見えて、しっかりと他のものを読んだ人向けの本だと思う。ちなみに、塩野七生が絶賛しているティツィアーノの《アンドレア・グリッティの肖像》は、これである。なお、『海の都の物語』にも載っている。



ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:2008-03
おすすめ度:4.5
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2010年01月26日

第155回『マキアヴェッリ語録』塩野七生著、新潮文庫

本書はマキャベリの著作の要約でも解説でもない。あくまで「抜粋」である。この形態をとった理由に関しては、著者が序文で比較的長めに説明している。その理由について、本書の要約となるとどうしてもマキャベリの文章を改変することになるが、できる限り生の文章を提供したかったから。また、本書に列挙されている具体例の解説をしだすとどうしても16世紀のイタリア史の細かな知識が必要になり、煩雑になること。古典が敬遠されがちなのは膨大な「註」がついているからではないか、ということ。なお、『君主論』については森鴎外も「文章紆曲にして証例冗漫」と評していることが紹介されている。そして、研究史や評価史を省いたのもマキャベリと直接対話をしてほしかったから、だそうだ。

正直な話をすると、まあ今までの塩野七生の著作やその他の歴史関係の本でマキャベリの思想自体は大体知っていたが、この序文は価値があった。塩野七生はしばしば序文にこういった「読者に」というものをつけるが、これ自体がうまい具合に文章全体における前菜となっており、どういった意図をもって読んでほしいのかを明確に示されるため、自然とこちらも読書態度を構えやすくなる。だが、本書の場合は極端なことを言えば塩野七生本人の文章はここだけなのだ。自然、アンティパストが最も予測のつかない味であり、滋味となるだろう。

しかし、抜粋という形式がそこまで正解だったとは思えない。「普遍化できるからこその思想」とは言うが、マキャベリの箴言には決して普遍化しえず、冷徹・現実主義的というよりは性悪説の立場にたったに過ぎないものも多い。臨機応変と書くか、そんな逃げが嫌なら場合わけするしかないだろうというような状況を設定した場合、常に彼は極端でかつ高圧的な態度の一択を勧めがちである。だが、それがより悪い状況を招くなんて例はいくらでもある。

しかしそれはマキャベリにもわかっていることで、だからこそマキャベリは自分の説を補強ないし擁護するための説明や例示を尽くしたのだ。ゆえに、何も知らない人、特に塩野七生著作に慣れてない人、マキャベリ入門書のつもりで読んだ人には、思わぬ誤解を与えてしまっている可能性がある。その意味で、抜粋はどうだったのかなぁと、読み終わってから思った。


マキアヴェッリ語録 (新潮文庫)マキアヴェッリ語録 (新潮文庫)
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:1992-11
おすすめ度:4.5
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2010年01月14日

第154回『カペー朝 フランス王朝史1』佐藤賢一著、講談社現代新書

最初発見したときなんというマニアックなタイトルをつけたもんだ、と思った新書。フランスの王朝といえばブルボン朝であり、ヴァロワ朝や、ましてやカペー朝なんて一般には全く知られていない。

カペー朝とは、フランス最初の王朝であり、350年にわたりフランス王家を継いだ一族である。「フランス王国を支配した一族」と書かなかったのは、書けなかったからである。中世ヨーロッパとは封建制の世界であり、封建制とは言ってみれば極端な地方分権の状態であるから、各国の王とは名ばかりの王で、とてもその支配が行き届いたとは言えない状況であった。

そこから時代が進むにつれ、各王家は中世の長きに渡って様々な方法で自国の統一を図り、結果的に一早く成功したフランスとイギリスが近世以後ヨーロッパの、ひいては世界の覇権を握っていくことになる。ただし、この二国のその過程はまったく異なる。イギリスの場合、ジョン欠地王のマグナ・カルタ是認を始めとして議会権力の伸張がそのまま国家の統一へとつながっていく、という特殊な道筋をたどった。それに比べると、名ばかりの王が次第にそれ相応の実力を蓄えていく、という随分わかりやすい「王道」を辿ったのがフランスであり、その主人公こそがカペー朝歴代の王であった。

初代のユーグ・カペーという男は名ばかりの王を体現したような凡人で、その実質的な領土もパリ周辺に過ぎなかった。しかし、彼はカペー朝の「長生きし、子を残し、生前のうちに後継者を定めることで内紛を避ける」という家訓のようなものを残した。歴代の凡庸な王たちはこれに従った。その結果がたった14人で約340年、断絶の原因となった最後3人の怪死を除けば、たった11人で約330年王朝が続いたという珍記録達成となった。江戸幕府が15人で260年ということを考えれば、一人当たりの在位年数の長さと、にもかかわらず極めて内紛が少なかったという二点は非常に特徴的である。

そして歴代の王の宿願は引き継がれ、ついにフィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世という三人の名君を輩出し、名実の伴った王家を誕生させることができた。本書は、その歴代の王たちの足跡を追ったものである。かくのごとく、すこぶるマイナーな歴史を追ったものであるが、おもしろい。凡人は凡人なりにどう動いたか。傑物はいかにフランスを導いたか、とくとご覧あれ。


カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)カペー朝―フランス王朝史1 (講談社現代新書)
著者:佐藤賢一
販売元:講談社
発売日:2009-07-17
おすすめ度:4.5
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2010年01月11日

第153回『フリードリヒへの旅』小笠原洋子著、角川叢書

著者がC.D.フリードリヒの足跡を求めてヨーロッパを旅行した、その旅行記。とかくフリードリヒというと美術史学の研究書になるか、ロマン主義を扱った芸術論になるか、そうでなければ政治的色彩の強い何かになるかなので、こういった旅行記が出るということ自体、日本におけるフリードリヒ研究の広がりを感じる。別のもっと有名な画家でもこういった旅行記はあり、最近(と言っても2・3年前だったと思うが)だと『フェルメール全点踏破の旅』なんて新書があって、けっこうおもしろかった。しかし、ことフリードリヒの場合、ドレスデンとコペンハーゲンという都会もある一方で、彼の縁の土地は西ポンメルンのド田舎に集中しているため、旅行記を出すにもけっこう大変だったんじゃないだろうか。

中身は普通の旅行記ではある。ただし、けっこうしっかりフリードリヒの来歴を説明してあって、通が行きそうな場所を抑えて訪れているので、おもしろく読める。むしろ現地のドイツ人が、グライフスヴァルト(フリードリヒの生地)だったりすると、けっこうしっかり「フリードリヒの生地」という観光地をやっていて、意外と無関心じゃないんだと思わせられた。生家以外にも、当時使われていた蝋燭(フリードリヒの父親が蝋燭製造業だったので)なんかが売り物になっていたりして、なかなかおもしろい。

知ってる人は知っての通り、自分はけっこうミーハーなので、こういう紹介をされると「俺も蝋燭買いに行きてぇ」となってしまう。しかし、おそらく自分よりはよほどドイツ語が堪能であるだろう著者でも、リューゲン島なんかのド田舎に行くとけっこう苦労していたようで、そう言われるとそれはそれでひるんでしまう。まずは先立つ物を貯めないとな、とか妙なことを考えた読後であった。


フリードリヒへの旅 (角川叢書)フリードリヒへの旅 (角川叢書)
著者:小笠原 洋子
販売元:角川学芸出版
発売日:2009-09-10
おすすめ度:5.0
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