2009年12月21日

第152回『海の都の物語(下)』塩野七生著、新潮社

下巻は大航海時代の到来とオスマン帝国の登場から、ヴェネツィアにとっては苦境の時代が続き、やがて最後はナポレオンによって滅ぼされるまでの歴史を描く。本来ならば、ヴェネツィアはオスマン帝国の登場と新大陸の発見が重なった時点で弱体化していてもおかしくはなかったはずで、実際に陸にせよ海にせよ小国は次々と歴史の表舞台から消えていった時代だったのだが、ヴェネツィアは政治面、経済面の大改革によって、その衰退の兆しを100年近く「引き伸ばした」。ヴェネツィアが本当に時代の流れについていけなくなったのは、15世紀や16世紀のことではなく、17世紀の後半に入ってからのことである。1571年のレパントの海戦では、その主戦力はいまだヴェネツィアの海軍であった。

しかし、それはさながら「ちょっとうまくいった軍人皇帝時代」のローマのようであり、結局ヴェネツィアも、自分の身のうちに気付かないような細かい傷を蓄積させ、緩やかに、しかし着実に衰退を始めていったのであった。引き伸ばした、という言葉がまさに適切であるというのは、ヴェネツィアが衰退した大きな要因というのは結局、大国の台頭と新大陸の発見という、15世紀の事象に過ぎないからだ。時代の流れそのものを変えた結果が、最盛期を長くしたというわけではないのである。

一つおもしろいのは、16世紀になされたその経済上の改革の一つが、それまでの交易特化から経営の多角化、とりわけ自国産業育成の強化であったということだ。普通覇権を握った国家というのは、生産力、軍事力、金融力の順番で成長し、同じ順番で衰退していくものである。これはヴェネツィア同様、交易が国家の主要産業であったオランダでさえもそうであった。しかし、ヴェネツィアの場合は、はなから生産力というのもはほとんど持たず、陸軍も干潟に守られるという利点からほとんど捨てられ、自慢の海軍は交易によってなされた。ゆえに、交易に国家が頼りきりになるのはリスキーであるという状況がオスマン帝国と新大陸によってもたらされて初めて、ヴェネツィアは生産力に注力し、そして実際に地中海では随一の工業国となり自国の最盛期を100年引き伸ばすことになる。これは非常に特徴的でおもしろい。もっとも、その生産力も、イギリスやフランスといった大国が本気を出し始めると次第に相対的な地位を低下させ、結果的に17世紀の緩やかな衰退の一部となっていくのだが。


著者自身「民族の魂の部分が変化していないのに、ゆえに気付かないうちに腐っていくという恐怖に勝るものはない」と書いているが、まったくもってその通りであると思う。『ローマ人』は最後、ローマ人でなくなったから滅んだが、ヴェネツィアは最後までヴェネツィア人であったのだ。しかし、時代の流れは残酷であった。最後の最後、ナポレオンがヴェネツィアに攻め入ったときも、ヴェネツィアっ子たちは、この干潟の上にある都市という利点を生かして、徹底抗戦をしようとした。しかし、抵抗の無意味と、いまだ生きていた諜報機関からの情報が、元老院に降伏を決断させたのだった。仮に徹底抗戦していたら、という架空戦記はおもしろいが、どう考えても悲劇に終わる公算が高いだろう。それほどまでに、時代の流れというものは、残酷なものなのだ。



海の都の物語〈4〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)海の都の物語〈4〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:2009-06-27
おすすめ度:4.5
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海の都の物語〈5〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)海の都の物語〈5〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:2009-06-27
おすすめ度:5.0
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海の都の物語〈6〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)海の都の物語〈6〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:2009-06-27
おすすめ度:5.0
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2009年12月19日

第151回『海の都の物語(上)』塩野七生著、新潮社

実は『ローマ亡き後』と並行して一気に読んだ。あちらに「地中海世界という色とりどりの寄木細工の、北を占める大ぶりの寄木」と言われているが、ぶっちゃけて言えば『ローマ亡き後』もかなりヴェネツィアが主人公として扱われていたということは全く否定できない。とは言いつつも、確かに『ローマ亡き後』はヴェネツィアと諸外国のかかわりという視点であったのに対し、こちらは完全に著者がヴェネツィア人になりきって内側から書かれている。

上巻は、ヴェネツィアが干潟の上に誕生してから第四次十字軍という機会を経て飛翔し、ジェノヴァを倒して最盛期を築き上げる15世紀後半までを描く。つまり、最初は蛮族から逃れるためにあえて「塩と魚しかない」土地に移住し、それしか生活の糧がなかったがために始まった交易と、少ない人的資源を生かすための寡頭制が、いつしかヴェネツィアを地中海随一の強国へと押し上げていく歴史である。ヴェネツィアは徹底的なアンチ・ヒーローの国であり、君主制でも民主制でもなく寡頭制だからこそ、1千年もの間生き延びることができ、しかもその半分以上の期間で地中海史の表舞台に立っていることができた、とする史観が、本書全体に貫かれている。

完全にヴェネツィアに焦点が当てられているだけあって書き込みは非常に細かく、政治システムや交易に使用された船の種類といった歴史の中心といえるようなものだけではなく、ヴェネツィアの家の設計方法や社会風俗、女性の暮らしの変遷などにも踏み込んでいる。本書が塩野七生作品においても特殊であるのはこの点で、確かにその性質から言っても『ローマ人』しか並び称せられるものが無い。

ところで、同じ上昇気流という点では『ローマ人』の1〜9巻と雰囲気は似ているはずなのだが、『ローマ人』では11〜15巻の下降期よりも上昇期のほうがおもしろかったのに、『海の都』では下巻のほうがおもしろかった。それは、ローマの場合はその全時代がかなり有名で、だったら上昇期のほうがおもしろく感じるのは当然である、という単純な話であるのに対し、ヴェネツィアの場合、上昇期は描かれることが多いが下降期は描かれることがあまりない、よってよく知らない時代のほうがおもしろく感じた、ということではないだろうか、と思っている。

これは同様に『ローマ亡き後』も上巻のほうがおもしろく感じたということの証明でもある。なぜなら、同じ日本ではあまり知られていない時代であっても、コンスタンティノープル陥落以後のほうがまだ知名度が高く、「奇跡の皇帝」フェデリーコ2世の頃のシチリア島なんて、私だってよく知らない時代であるからだ。これから彼女がどれだけ歴史物を書くかは知らないが、どんどん未知の時代に切り込んでいってほしいところである。


海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:2009-05-28
おすすめ度:4.5
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海の都の物語〈2〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)海の都の物語〈2〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:2009-05-28
おすすめ度:4.5
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海の都の物語〈3〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)海の都の物語〈3〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:2009-05-28
おすすめ度:4.5
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2009年12月04日

第150回『ローマ亡き後の地中海世界(下)』塩野七生著、新潮社

上巻がイスラーム海賊の進出とイタリア諸都市の反攻を描いたものならば、こちらはスペインとオスマン帝国の勃興とそれに挟まれて苦境に陥るイタリア半島、とりわけヴェネツィアとジェノヴァの苦悩を描いたものである。特に東の大国オスマントルコにはとりわけ焦点が当てられている。

「良識とは、受身に立たされた側が口にする言葉であり、行動の主導権を握った側は、常に非良識的に行動するものである」というヴェネツィアの一外交官の言葉の通り、この頃のヴェネツィアは地中海の力量バランスのキャスティングボートを握ってはいたにせよ、すでに主導権を握る立場からは外れていた。繁栄を謳歌するために指導者が全力を尽くす姿はオスマン帝国が地中海に登場する以前と変わるところはなかったが、それはより良くする方向へ動くものではなく、いかに苦境の連続を脱するかへの努力に変わっていた。フランスもスペインもそしてオスマン帝国も、その行動は非良識的であり、ヴェネツィアは信じては裏切られた。(もっとも、ヴェネツィアも第四回十字軍では相当に悪辣であったのだが)

本書はあくまで地中海にスポットライトを当てた歴史小説であるので陸地についてはあまり書かれていないが、当時のイタリア半島というのはフランスとスペイン・ドイツ(ハプスブルク)の熾烈な主導権争いの最中であって、結局ヴェネツィアとジェノヴァでなかろうともイタリア半島はどこも受身の立場であった。その中でヴェネツィアは主導権を保とうと必死にがんばったほうではある、海においても、陸においても。

だが、大国は大国で賢くはなかった。オスマン帝国は北アフリカの海賊たちを用いて、陸軍国にまともな海軍を創設することに成功はしたが、結局元海賊ではヴェネツィア覇権を崩せないまま終わってしまった。新大陸発見や西欧の科学技術進展にもついてこれず海賊ともども先細りとなった。一方でスペインは、ヴェネツィアを信用しなさすぎたし、北アフリカへの遠征も中途半端に終わった。結局何がしたかったのかよくわからないまま没落していく。確かにヴェネツィアはリアリスト過ぎて信用ならない国家だったかもしれないが、対オスマン帝国ということを踏まえるならばあまりにも近視眼的な政治センスであった、というのは塩野七生に同意せざるをえない。新大陸同様、地中海を闊歩し始めるのはフランス海軍と、バレアレス諸島のミノルカ島と後にマルタ島を手に入れるイギリスの海軍であった。

本書で唯一不満なのは、「レパント」でほとんど終わっていて、その後はちょっとしか書かれていないということだ。上下巻通してイスラーム海賊がメインテーマだったのはわかるが、いずれにせよ英仏の侵攻、特にロイヤルネイビーがとうとう地中海に登場することになるスペイン継承戦争や、ジェノヴァ最後の砦であるコルシカ島がフランス領になるコルシカ独立戦争は取り上げるべきだった。そして最後はナポレオン戦争とムハンマド・アリー朝の独立から七月革命前夜のフランスによるアルジェ侵攻で閉めれば、より完璧であった。レパントの次の話がいきなり1830年のアルジェ侵攻では、なんとなくすわりが悪い。

あと、仕方の無い話ではあるのだが、「○○については『××』で詳しく述べているのでそちらをお読みください」が非常に多い。とりあえず『海の都の物語』は必須として、『コンスタンティノープル陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』もほとんど必須の副読本、可能ならば他のイタリア関係の著作も全部読んでおけという感じがする。その意味で、本書は塩野地中海史の集大成で、いよいよ書くネタがだぶってきたのかなという気もする。


ローマ亡き後の地中海世界 下ローマ亡き後の地中海世界 下
著者:塩野 七生
販売元:新潮社
発売日:2009-01
おすすめ度:4.5
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2009年11月07日

『秘境駅』牛山隆信著、メディアファクトリー

世の中に無人駅というものは無数にある。しかし、その無人駅からもう一歩進んで、乗降客が少なく、周囲に人家もなく、駅舎は廃墟寸前もしくは廃墟となっていて、鈍行にすらすっとばされることがある、というレベルの駅となると、あまり存在しない。著者の牛山隆信氏はこれを「秘境駅」と名づけた。もちろん造語である。

秘境駅を紹介する本としては著者の他の本があるが、本書は秘境駅写真集として編集されたものである。ほぼ全ページがフルカラーで、秘境駅の秘境っぷりがよく表現されたものとなっている。私自身は廃墟好きではあるが、鉄道そのものには大して興味が無い。しかし、友人に乗り鉄がいるので、彼にプレゼントするかということで買って読んだ。なるほど、廃墟となった駅舎もなかなか趣深い。鉄道以外の交通手段がまるでない、ホームや駅舎が自然と一体化している、等は個人的にポイントが高いように思う。

秘境駅はその度合に応じてランキングされており、著者のHPで公開されている。何がすごいって、1位から100位くらいまではほとんど北海道と東北地方で独占されている状態であるにもかかわらず、2位及び4位に燦然と輝く我らが飯田線。実は豊橋市民でありながら、新城の某友人宅へ行く以外の用事ではほとんど乗ったことがない非常ににわかな自分だが、それでも噂に聞く飯田線の凄さを改めて実感することになった。

ちなみに、200位までに東京、大阪、愛知県は一つも無かった。東京都にも無人駅が無いわけではないはずで、なんか悔しかったのでぐぐってみたら、青梅線の白丸駅は秘境駅として認定されているようだ。この方のサイトに取り上げられているが、青梅線のほか、八高線も相当ありそうである。ランクインするほどではない、ということか。愛知だとどうかなぁ。我らが渥美線も良い線行ってる駅がありそうな。

ちなみに、東京都区内の秘境駅と言えばゆりかもめのほとんどの駅じゃないかという話。裏をついててなるほど、と思った。何度かサイクリングに行ったことがあるが、確かに臨海地区は場所を選ぶと本当に人がいない。ただ、最近豊洲は開発されてきたので、東雲と新豊洲は外してもいいだろう。市場前と有明テニヌの森は本気で存在価値を疑うので、気になる人は今度のコミケの時でもゆりかもめに乗ってみるといいだろう。


秘境駅秘境駅
著者:牛山隆信・栗原 景
販売元:メディアファクトリー
発売日:2008-07-02
おすすめ度:3.0
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2009年11月02日

『恋する西洋美術史』池上英洋著、光文社新書

『食べる西洋美術史』とは一応対になっているらしい本。だが、『食べる』に比べるとこちらのほうがとっつきやすいテーマだろう。西洋美術において、恋愛をテーマにしたものはものすごく多い。とりあえずヴィーナスを描いておけば間違いないという雰囲気さえある。

本書は、そのような数の多い恋愛に関する作品から、様々な視点で語っているものである。第一章は画家たち自身の恋ということで、「英雄色を好む」を地で行くピカソやモディリアーニ、そしてロダンにかかわったがために悲劇的な人生を送った女性彫刻家カミーユ・クローデルなどが扱われている。第二章は歴史画で恋愛を描くための最大の口実であるギリシア神話についての解説、第三章は中世や近世における理想的な女性像について、第四章は人生の墓場、結婚を描いた絵画について。

第五章は随分と直球なテーマで、いやしかし恋愛には重要な性交の場面を描いた絵画や、ヌードの扱いがどう変遷していったかについて。不倫もこの章で扱われている。第六章もその路線を継承して、娼婦や同性愛といった、タブーとされた行為についての話。前者では当然、マネの《草上の昼食》や《オランピア》も出てくる。後者においては、ゲイについては当然出てくるが、ページは少なくてもレズビアンについてもちゃんと書いているのは珍しいことで、良いことだと思う。

そして最後の第七章は「終わる愛」ということで、離婚や死別、悲恋についての絵画に焦点を当てている。当然、ミレイの《オフィーリア》は出てくる。以上のように、時代や登場する画家の順番は全くもってバラバラだが、そういうことは気にせず気楽に読むには非常に良い本で、ある程度詳しい人から全く知らない人まで全員にお勧めできる良書であると思う。それは恋愛というテーマのとっつきやすさもあるし、著者の文が上手で読みやすいというのもあるだろう。


恋する西洋美術史 (光文社新書 384)恋する西洋美術史 (光文社新書 384)
著者:池上英洋
販売元:光文社
発売日:2008-12-16
おすすめ度:4.5
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2009年10月29日

第147回『ローマ亡き後の地中海世界(上)』塩野七生著、新潮社

タイトルの通り、ローマ帝国の崩壊後、『ローマ人の物語』で取り扱わなかった時代における地中海世界について描いている。上巻では、イスラーム教の誕生からおおよそ1291年のアッコン陥落、十字軍の終結までを扱っている。下巻の冒頭はコンスタンティノープル陥落から始まるが、これはイスラーム圏の側がモンゴル襲来でそれどころではなく、ヨーロッパの側は逆に着々とルネサンスの準備を始めていた期間で、オスマン帝国の誕生まで特に書くことがなかったためではないかと思われる。

中世前半の地中海の主役と言えばイスラーム教徒の海賊だが、それについては本書の前半半分を使って存分に語ってある。陸ではゲルマン民族やらフン族やらで、北海ではノルマン人で、地中海ではこれなんだから、中世の前半はたまったもんじゃない。無理に現代を投影した読み方をする必要は無いものの、安全保障について何かしら考えさせられるところが各々あるのではないだろうか。

書かないはずが無いとは思っていたが、きちんとイスラーム支配〜ノルマン朝時代のシチリア島について多くのページが割かれていたのは嬉しいことである。現実的な思考と寛容の精神があれば、人間は案外と思想を超えて共生できるものなのだ。それはまた、各陣営の力関係が拮抗しているという条件も必要ではあるのだが。皮肉にも、シチリア発展の貢献もあって優性となったキリスト教の側が、その均衡を破ってしまった。12世紀のルネサンスはシチリア島のパレルモから始まったのに、本格的なルネサンスの到来は北イタリアであるという点に、歴史のおもしろみを感じざるをえない。

本書の後半は11世紀以降、陸での十字軍やレコンキスタの開始とともに、地中海においてもイタリア諸都市の反攻が始まっていった様子について書かれている。しかし、単に反攻が始まっただけではなく、北アフリカとイタリアの交易が同時に進展していたというのがおもしろい。これはつまり西欧全体で商工業が復活し、その物資がイタリアに流れ込んだことと、北アフリカのベルベル人の王朝がサハラ以南を征服し、ヨーロッパ商品輸入の糧としてのサハラ産の黄金を獲得したというところが大きい。単なる歴史的な経緯を追うだけではなく、そこら辺のことについても詳述されている。

最後に、現代ならばさしずめNPOにあたるような、宗教系の慈善団体の設立についても書かれている。歴史的にはあまり大きな出来事ではないものの、当時の社会情勢をミクロな視点で考えるにはなかなか興味深い部分であった。


イスラーム教徒による海賊行為はイタリア諸都市の反攻と商業の発展によりやや衰えはしたものの、終わったわけではない。19世紀が舞台の『モンテ・クリスト伯』でさえそのような描写があるように、地中海沿岸は常に危険にさらされていた。では、ルネサンス期以後の海賊はどう活動したのか、ということについては、下巻に譲られている。ただし、下巻の内容は基本的に地中海が世界の中心から外れていく歴史ではあるので、上巻のほうがおもしろく読めることだろう。


ローマ亡き後の地中海世界(上)ローマ亡き後の地中海世界(上)
著者:塩野七生
販売元:新潮社
発売日:2008-12-20
おすすめ度:4.5
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2009年10月17日

第146回『『こころ』は本当に名作か』小谷野敦著、新潮新書

美術史学や芸術学の世界では、「芸術的」という価値観は社会や当時の批評家の意識によって作られるものであって、所詮個人の感性の集合に過ぎないということは、近年の研究により認められているところである。にもかかわらず、文学の世界においてはいまだにカント的な感性の普遍性がまかり通り、なぜだか「文学性」と「おもしろさ」がいつまで経っても乖離しないという奇妙な状況が続いている。

これに疑問を感じ、特に夏目漱石やドストエフスキーをまったくおもしろいと思えない著者が、「おもしろさに普遍性はない」「おもしろいと感じるかどうかはその人の感性や人生経験に拠る」を掲げ、古典的名作と一般的に言われている小説に対し寸評を挙げていくのが本書である。批評というよりも著者の読書感想文に近く、好きか嫌いかは明確に書かれているものの、なぜ著者がそう思うのかはかかれていたり書かれていなかったりする。


私がこの新書を発見した瞬間読む義務があるように感じたのは、それはまさにこの著者のスタンスに同意したからであって、芸術作品といえども所詮は流行があったり政治的力学があったり、どこがおもしろいのかさっぱりわからない作品が混在しているという点では大衆娯楽となんら変わるところはない。ましてやおもしろいと感じるかどうかなんていうのはまさに個人個人によるのであって、その作品がわからないからといって即断して「(その人の)感性は鈍い」などという判断を下してはならない。(まあ、実際のところ感性の鋭さにも個人差はあると思うが。私なんかは、自分自身の感性はあまり信用していない。)

著者は「作家に関するゴシップ」や「その作品が書かれた時代背景」もまた作品のおもしろさとは切り離せない要素であるということも主張していて、これもまた私も同意できる。「樋口一葉は美人薄命だから売れた」というのはすごく同感であって、こうしたゴシップはいやがおうにも作品を盛り上げるだろう。文学研究としてのテキスト論は有効かもしれないが、あれは小説の楽しみ方としては下策である。

もう一つ、本書を読もうと思った強い動機として、スタンスは完全に共感するくせに、趣味が正反対だからだ。私は『こころ』を評価しているし、ドストエフスキーにいたっては『カラマーゾフ』のおもしろさを超える古典文学は将来出会わないのではないかと思っているほど、好きである。まあ実際読んでみて、著者が嫌いな理由はおおよそ予想通りで納得の行くものではあったのだけど。(たとえば、ドストがわからない理由については、「あんなウルトラ・クリスチャンにはつきあってられない」のほぼ一点張り。)


本書で取り上げられている作品は、著者の好きなものではホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』、シェイクスピア、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』、メルヴィルの『白鯨』、ユゴーの『レ・ミゼラブル』、馬琴の『八犬伝』etc。嫌いなものでは夏目漱石とドストエフスキーのほかに森鴎外、トーマス・マン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ダンテ、永井荷風、三島由紀夫etc。

また、作品ごとに評価が異なる作家も多く、ゲーテに関しては若い頃の作品、特に『ウェルテル』は認めるが『ファウスト』や『ヴィルヘルムマイスター』はつまらない。トルストイも『復活』と『戦争と平和』は全然ダメだが、『アンナ・カレーニナ』と『クロイツェル・ソナタ』はおもしろかった。中国の大衆文学では、『水滸伝』はおもしろいが『三国志』はそこまで評価できない、というように評している。具体的にどう言っているかは、本書をお読みいただきたい。


ただし、本書はそのスタンスゆえに自縄自縛、ないしブーメランとなっているところがあって、個人ごとにおもしろさが違うなら、日本人必読という括りもまた不可能なわけであって、本書の目的は一応読書案内という形式をとっており実際そのような文体で書かれているのだが、全く意味がないのではないだろうかと思う。おまけに、量を紹介することに主眼がおかれているため、一作一作に割かれている文章量が少なく、実のところ結局著者がなぜおもしろい、おもしろくないと感じているのかよくわからない作家も多かった。この点は大いなる失敗点であろう。

だが、古典小説を読むことに人生の少なくない時間を費やしてしまっている人ならば、読んで損はない新書ではあると思う。


『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)
著者:小谷野 敦
販売元:新潮社
発売日:2009-04
おすすめ度:3.5
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以下は、本書で取り上げられていた名作(?)のうち、私が読んだことあるもの、読もうとして放棄したものに関する雑感。基本的に著者とは意見が合わないので、合ってしまった数少ない作品は、比較的自信を持って勧められるのではないかと思う。

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2009年10月06日

第145回『フリードリヒ 崇高のアリア』新保祐司著、角川学芸出版

フリードリヒというタイトルはついていて、表紙はちゃんとC.D.フリードリヒの絵は使っているが、美術史の本ではなく、あくまで文芸評論の本である。

それは知ってて買ったからいいのだが、どうやら私はとことん文芸評論と肌が合わないらしい。本書における最大の違和感は、一々フリードリヒの代表作の一つである《海辺の修道士》を挙げて、一々著者が「私は《海辺の修道士》を見てると、○○を思い出す」とつなげ、そこから別の作品の批評に映っていくことである。はっきりと言ってしまえば、フリードリヒの作品は確かに深遠ではあるが、その要点はすなわち典型的なロマン主義の一つであって、世の中の文学や音楽を探していけば共通するロマン主義を掲げた作品なんて、この著者に挙げられなくとも多数存在しているだろう。私は文学、音楽にそこまで通じていないので知らないけども。興味も無いし。

たとえば、《海辺の修道士》から著者が連想したAという作品とBという作品は、Aという作品からBという作品を連想することも可能であろう。そのくらい、《海辺の修道士》と挙げられている作品群の間には、文章中の言葉を借りるところの「やせていくロマン主義」という一点以外の関連性が薄い。挙げられている作品群の中にはもちろん私の読んだことがあるもの、聞いたことがある曲もあったが、だからどうしたというのだろう……という感想しか湧いてこなかった。帯には「すぐれた批評とは、これほどまでに未知の聴覚を拓いてくれるものなのか。」とあるが、別に本書で未知の聴覚が拓かれた気はしない。

フリードリヒにかこつけて「やせていくロマン主義」を語ってみたかった雑文集である。やはり重要なのは要点の一点ではなく、周囲の肉付けであって、たとえばフリードリヒの場合には宇宙と人間の対峙にはキリスト教プロテスタント的な汎神論が深く結びついており、だからこそフリードリヒにとっては絵画こそが最大の思想的表現手段になりえたのではないだろうか。どうせ文学や音楽といった他ジャンルと比較するのなら、そこまで踏まえた上で語って欲しかった。本書の著者の専門は、代表作が『内村鑑三』であるように日本近代文学であるので、それほど専門的な研究に踏み込んだ上で書かれていないという点は仕方ないにしても、参考文献一覧がほぼ全て日本語の翻訳が出ているもので、そもそも数が15冊しかない上に、フリードリヒに直接関連しているものはその半分である。これなら、参考文献の1ページは必要なかった。



フリードリヒ 崇高のアリアフリードリヒ 崇高のアリア
著者:新保 祐司
販売元:角川学芸出版
発売日:2008-03
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2009年09月22日

第144回『伊勢神宮と出雲大社』新谷尚紀著、講談社選書メチエ

伊勢神宮と出雲大社の創立年代やその経緯、互いの関係性について、文献学(史学)、民俗学、考古学などの諸研究の成果を用いて真相に迫ってみたもの。著者自身は「民俗学は歴史学の一部」と主張しており、その意味で本書は民俗学の本ではなく、あくまで古代日本における神話と王権の構築に関する歴史学の本といえるだろう。

著者自身のセンスなのかポリシーなのか、はたまた編集者の指示なのかは知らないが、結論が序章に全部書かれていて、あとはそれを論証していくという方式は、とかく難解になりがちな本書においては成功していたように思う。

なのでここでも本書の魅力がよりストレートに伝わるようにネタばれしてしまうが、伊勢神宮の創立年代はどれだけ早く見積もっても壬申の乱の以後であるということ、それに伴って、出雲大社が大国主命を祀る「八百万の神々のふるさと」となるのも、平安時代に入ってからであること。そして実際のところ、記紀神話についても遣隋使を始めるまで影も形も存在していなかった、ということは目から鱗の落ちる話であった。しかも、本書はそれを最大限の説得力をもって論証しえたように思う。(細部ではまだ論証途中であることが見受けられる、推測的な描写もなくはなかったが。)

ところで、本書では直接触れられていないものの、伊勢神宮や記紀神話の成立が仏教伝来よりも100年以上遅れたものであるという事実は、私にけっこう大きな衝撃を与えた。だから思想的にどうこうというわけではないのだが、古代日本はまだまだ謎に満ちていて、知的好奇心を刺激される。


伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生 (講談社選書メチエ)伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生 (講談社選書メチエ)
著者:新谷 尚紀
販売元:講談社
発売日:2009-03-11
おすすめ度:5.0
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2009年08月30日

『新入社員はなぜ「期待はずれ」なのか』樋口弘和著、光文社新書

『就活のバカヤロー』、『高学歴ワーキングプアー』とある意味三角形をなす本。新入社員の私が読んで評していいものかという気はするが、読了して腹に溜まったものがある以上は吐き出さざるをえない。

本書の前半を読んでいると、なんでこの人はこんなに自信満々に断定できるんだろうと思う節がいくつもあって、大変不安な気分になった。たとえば、ネットはコミュニケーションが片方向だからダメ」とか、「尊敬する人が両親なんて志が低い」とか(じゃあ一生中二だったらいいのか?)、「草食系(笑)はダメ」とか。「二浪、二留以上はリスキー」とか俺にケンカ売ってんのか。

なかでも「最近の若者は自分のキャリア構築について真剣で、だから早期の結果を求める」なんて書かれていて、これはもう、なおかつ私自身や周囲を観察した結果を見てもそんなことは全く無い。むしろ、全く正反対の主張をしている『就活のバカヤロー』にもある通り、「仕事を楽しまなければならない、自己実現しなければならないという、一見美しそうな概念自体が、学生や若手社員を苦しめているのではないでしょうか」というのが真相で、いつの間にか若者の側からの要求というように解釈されていたのでは本当にたまらないのである。

その他、書ききれないほどにつっこみどころ満載で、おまけに自己矛盾しているところも多々見受けられたが(直感は重要なのか信用できないのかはっきりして欲しい、著者使い分けを自身混乱してないか?)、ただし第五章の「雑談面接」については非常におもしろかった。確かに、こういう面接をすれば相手の思考海路をうまくトレースできると思うし、元就活生としても受けてみたいと思える。意味のわからないアイデンティティの発露ではなくて、事実や実績で評価すべき(できれば定量的に)というのも、納得の行く説明であった。

最後の六章まで読み終わって思ったことは、この著者は徹底的な実務家なんだろうなぁと。確かに実際の業務では、同程度に優先すべき理論が相互に矛盾をきたし、その都度柔軟な昇華が求められる。それを個々の論に分解して解説すれば、つっこみどころ満載の理論書が完成することは疑い得ないことだ。そして、それがまさに本書であろう。

しかし、人事のエキスパートとしては優秀であるがゆえに、「雑談面接」の具体的な説明の項目では光って見えた。そういうことではないか。


新入社員はなぜ「期待はずれ」なのか (光文社新書)新入社員はなぜ「期待はずれ」なのか (光文社新書)
著者:樋口弘和
販売元:光文社
発売日:2009-01-16
おすすめ度:4.0
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2009年08月01日

『聖遺物崇敬の心性史』秋山聰著、講談社選書メチエ

あまりにももろに著者を知っているため非常になんとも書きづらいが、要するにうちの先生の本である。読んでいて著者の声がリアルに再生されるという本も珍しい。某院生が「今年の授業はこの本読んでたら出なくてもいい」と言っていたが、内容もさながら、確かに著者の授業の語り口がそのまま文章になったような本であった。実際の口調と文体が一致する人というのは意外に少なく、かく言う私も全く一致しない。それだけに珍しいタイプの先生かもしれない。

さて、内容は中世の聖遺物崇敬についてである。誤解を恐れずにざっくり言えば聖遺物とはキリストや聖人たちの遺体や衣服などのことであり、中世のヨーロッパにおいてはそれらから「オーラのようなもの」が放出されていると信じられていた。ゆえに聖遺物はある種の偶像のように崇敬されてきたし(※)、教会にとってはうまい具合に飯の種となった。やがて聖遺物には金銀宝石を用いた容器が作られるようになり、ここで聖遺物崇敬は美術史と関連を持つのである。(※ 崇拝ではない。この違いについては本書を参照のこと。)

現代の感覚では信じがたいことに、中世の聖職者は聖人の遺体を切り刻んでその一部を譲渡、購入もしくは盗難することで自らの教会に持ち帰っていた(想像するにグロい話だが)。加えて、一見すればただの骨や襤褸切れにしか見えないこれらを権威付けるために、金銀宝石を用いた容器が用意された、その結果容器のほうも崇敬の対象となった、という本末転倒気味な展開もある。聖遺物崇敬について詳しい人は非常に限られるだろうが、本書では基礎的な部分から聖遺物容器の造形的な分類や展観(聖遺物公開)の様子なども詳しく説明している。まったくの無知からでも十分楽しめると思うし、ある意味、真っ当な美術史よりもよほど興味を持ってもらえると思う。

くだらない雑感をいくつか。秋山先生なら、前書きか後書きはさぞおもしろいこと(褒め言葉)になっているだろうと思って期待していたのだが、さほど横道にそれてはいなかった。ケルンの聖ウルズラ教会の話でも、もっと書けばよかったのに。本書のカバーに著者近影が掲載されているが、この写真がやや緊張気味に映っている上に、白黒にすると実物よりも人相が悪くなった。これはちょっとかわいそうである。


聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形 (講談社選書メチエ)聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形 (講談社選書メチエ)
著者:秋山 聰
販売元:講談社
発売日:2009-06-11
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2009年06月05日

第139回『白川静 漢字の世界観』松岡正剛著、平凡社新書

白川静というと、その昔大学入りたての頃に、『二重影』と『二重箱』を立て続けにクリアし、その足で駒場の図書館に行って『古事記』を借りて一週間かけて読み、その週末には東博に日本刀を見に行くというミーハーっぷりを発揮してしまったことがあるが(私の東博通いの起源である)、『古事記』の次にはこれを読もうと『字統』に手にかけたはいいがあまりの厚さと難解さに挫折したという半ば黒歴史になりかかっている記憶がある。

その後なんのかんので結構忘れることなくいろいろ読んでいたり、気が付いたら図書館で読んでたりしたので、大学にいる間比較的断続的に白川漢字学には触れていた。もっとも、卒論以後ここ2年ほどはさすがにノータッチだったが。だから私にとっては結構身近な存在だったので、今回のこの本が出るまで、他者による新書はおろか一般書も出たことが無いということを知ってとても驚いたと同時に、すごくもったいなことであると思った。

白川静は中卒から上京し、そこから長い時間をかけて夜間高校、大学に通い、立命館で研究職となった後も長く芽が出ず、地道に研究していたら退官する頃になっていつの間にか大家になっていたという、よく聞くようで実はあまりいないタイプの苦労人研究者である。言語学的な意味での国語学でも中国語学でもなく、かといってカリグラフィーに注目した考古学や美術史学でもなく、それらよりもさらに範囲の広い民俗学や東洋史学でもない。漢字を基点としながら、古代中国から東洋全体にいたる文明観を探ろうとした、まさに「漢字学」としか呼べない独自の学問を切り開いていった。その学問自体の独自性に加え、彼自身の主張の独創性もあり、大家でありながらいまだもって異端である。おそらく、彼の功績を全く認めていない学者も多いのではないだろうか。実のところ、私自身も、好きではあるのだけれど、どこかオカルトじみていて信用ならないと思っている部分もある。

白川漢字学における、最大の特徴は漢字圏の世界を、呪術的な世界としてまとめあげているところだろう。漢字の起源である甲骨文字は占いの結果を記録した文字ではあるが、実のところは神意による権威付けをしているだけであって、君主の意に沿った結果が出るまでやり直していたという、考古学的な研究成果が白川静の出発点だったと言えるかもしれない。すなわち漢字とは(努力)目標であり命令でもあり、まさに「未来に向けて実行される呪い」であった。本書では(というよりも漢字学のタームなのだろうが)これを「呪能」という言葉でまとめ、かなり言葉を砕いて表現している。若干首をかしげるところもあるが、それは『字統』を読んでもかしげるポイントなのでしょうがない。

ちなみに、白川漢字学の解説で一番印象的だったのは、『二重影』に直接出てきたこともあってか、「首」という言葉についてであった。極端に移動の少ない古代社会において、ムラから大きく外れるような行為は危険を伴うものであった、(特にこの場合は戦争を指すため)、そこで生贄、とりわけ進出方向に住む異民族(夷荻)の「首」を掲げて「行」くことにより安全を確保した(「しんにょう」は「行」を部首化したもので甲骨や金文においては区別されない)。実用的でありながら非常にオカルティックな行為である。つまり、漢字はこのように呪術的・儀式的でありながら、ある程度現実に即してもいる行為もしくはその予言を表現した文字である。漢字とは、その予言を行為に変える宣言(=「呪能」)でもある。また、白川静はそこから『万葉集』にも同じような呪能が伝わっていることを検証し、現代日本の漢字文化や、漢字が表意文字としてなぜこれだけ生き残ったかなどについても考えていたことを、本書ではしっかりと解説している。


今の説明で納得できた人、納得はできなかったがだからこそ興味が湧いた人は、ぜひこの新書を読んだ後、『字統』を手にとってみてほしい。なお、『二重影』しかり『月姫』しかり『アオイシロ』しかり、白川漢字学は非常に創作の助けになる一方で、非常に引きずられやすい呪いもかかっているので、要注意である。



白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)
著者:松岡 正剛
販売元:平凡社
発売日:2008-11-15
おすすめ度:4.5
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2009年05月17日

第138回『ライト【空気ポンプの実験】』ヴェルナー・ブッシュ著、神林恒道訳、三元社

半年振りくらいに美術系の本を。本書はジョゼフ・ライト・オブ・ダービーの名画《空気ポンプの実験》について書かれたものの翻訳である(この絵)。ヴェルナー・ブッシュも神林恒道氏もドイツ・ロマン主義の大家であるが、ライトは名前の通りイギリスの画家で時期的にも50年はずれている。にもかかわらずこの二人がライトという画家に取り組んだことに関して何の違和も感じなかった。なぜなら訳者あとがきにもある通り、ライトが本作品で行ったことは、ドイツ・ロマン主義の先駆的な試みとなっているからだ。

タイトルの通り、この作品は空気ポンプの実験をしている光景が描かれている。ど真ん中でそびえ立っているのが空気ポンプとそれによって空気を抜かれるガラス球、その中には窒息死しかかっている鳥が描かれている。そして絶妙なタイミングでバルブを緩め、その生命を復活させようとしているのは、いかにも胡散臭げな科学者であり、その脇では弟子とおぼしき若者が鑑賞者に気づかれないようこっそりと鳥かごの入口を開けている。胡散臭いのはまさに魔術師を思わせるためだろう。考えようによっては科学者が擬似的に神にとってかわろうとして見える非常に冒涜的な内容だが、ヴェルナー・ブッシュは本作品について「科学と宗教の神聖同盟」と見なした。その真意はどこにあるのだろうか。彼は本作品をどう読解したのだろうか。

周囲を見渡してみると鑑賞者の様子も実に様々である。画面左側には好奇心旺盛なのであろう、若者が二人食い入るように実験を見つめている。それぞれの若者には一人ずつ女性が寄り添っているが、上方の女性についてはもはや実験などどうでもよく、実験に熱中しているかっこいい彼のほうが気になっているようである。右側には怯えつつも目は話せない様子の妹と、既に悲劇的な結末を予想して顔を伏せている姉、それをなぐさめている父親。そして実験を眺めず物思いにふけっている老人。彼らは何を示しているのだろうか。

この作品についての説明はこの辺りにしておき残りは本書に譲るとして、本書自体はドイツのタッシェン「作品とコンテクスト」シリーズの一冊であり、過去に二冊紹介している(『フリードリヒ【氷海】』と『ベックリーン【死の島】』)。そして毎回言っている気はするのだが、内容はすごく良いものの薄くて高いのがネックである。今回なんてものの一時間強で読めてしまった。



ライト“空気ポンプの実験”―科学と宗教の神聖同盟 (作品とコンテクスト)ライト“空気ポンプの実験”―科学と宗教の神聖同盟 (作品とコンテクスト)
著者:ヴェルナー ブッシュ
販売元:三元社
発売日:2007-01
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2009年03月09日

第134回『『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する』亀山郁夫著、光文社新書

非常に長い時間がかかったが、本編ともに読破した。ただ、なんとなくブックレビューが書きづらくて放置していた。そしたら本編読破から年単位で、本書自体からでも半年以上経過していた。それでも備忘録を兼ねてなんとか形にしておきたい。以下、ネタバレ注意。


『カラマーゾフ』の特徴、というよりもドストエフスキーの特徴なのだろうが、『罪と罰』同様哲学的な内容を裏に敷きつつ、表のサスペンス自体がおもしろい。結局真犯人誰だよと思いながら最後まで読んでしまった。意外と特異なのかもしれないが、私が一番怖かったのはアリョーシャだった。本書でも言及されている通り、アリョーシャの中身のなさ、鸚鵡返しには本編の第一部で早々に気づいてしまい、こんな人間が主人公の小説だなんて、と戦々恐々としながら読み進める羽目になった。本書の結論には大幅に反するが、個人的にはこいつならテロを起こしても仕方が無いと思う。

そして『カラマーゾフ』は未完であり、できる限りの精度でその続編を空想してみようというのが本書である。まず、こういった二次創作的なことが許されるということ自体に驚くと同時に画期的な新書であったと思う。もちろん探せば他の小説でもあるのだろうが、これだけ話題になって売れた、世の中に受け入れられたというのも特筆すべきである。

言うまでもなく私は二次創作が隙であり、その醍醐味は「世界観を崩さず、かつシナリオを拡張する」という縛りにあると思う。逆に言えば、そんなのは別の作品の二次創作やオリジナルでも出来るんじゃないかというのはあまり好まない。だからこそこの筆者の態度には好感が持てた。精度を保つための条件設定に相当心を砕いたのではないかと思われる。二次創作も研究の領域に入ればこれだけ厳密になるものなのだ。

ただ、一方でこの筆者は政治状況の抑圧、特に「アリョーシャが直接的なテロの犯人になる小説が書けるわけがない」という点にこだわりすぎたと思う。そのこと自体は完全に納得できるのだが、この主張が何度も同じフレーズで登場するのには若干辟易した。第二章か第三章の末項に集中させてしまえば、同じページ数でより多くのことに言及できたのではないかと思う。



『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)
著者:亀山 郁夫
販売元:光文社
発売日:2007-09
おすすめ度:4.5
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2009年02月13日

第133回『戦争概論』ジョミニ著、佐藤徳太郎訳、中公文庫

クラウゼヴィッツと並び称された軍事学の基本書。しかし、いつの間にか歴史に埋没してしまった。

その理由は、読んでみて改めて理解した。確かに極めてわかりやすくまとめられており、クラウゼヴィッツのあの難解な文章を思い起こせば、当時もてはやされたのも納得が行く。しばしばクラウゼヴィッツの『戦争論』は哲学書で、ジョミニの『戦争概論』は科学書だという比較がなされるが、それはその通りだと言える。ただし、ジョミニは自分の理論に関して「戦争は理論通り行われるものではないが、ある程度の法則性があるのも事実という前提でのみ成り立つもの」ということは認めているので、ジョミニを頭でっかちを批判するのは間違っている。ジョミニ自身が立てた戦功も実際に多い。

ではジョミニの何がまずかったのかといえば、この本は近代戦の端緒とされていながらナポレオン戦争の分析にしかなっておらず、その先を予見していない、もしくは予見していながら対策を論じていない。たとえば、今後は兵器の火力が増していくことは予見しているのに、撃滅戦争に関してははっきりと否定している。「国際法で規制するべき」程度しか書いていない。これをもって核戦争を予見した、と解釈するのは、あまりにも突飛であろう。

ジョミニは「戦争の法則性は兵器の性質や部隊の編成が変わっても、変わるものではない」と述べているが、実際にはそんなことはなく、彼が思っていた以上に火力の進化は激しかった。彼はゲリラ戦に関してもその困難さは詳述しているがただ撤退しろと首を振るばかりで、具体策は講じていない。また、訳者は二次大戦におけるドイツの電撃戦やアメリカの火力優勢理論をもってジョミニの理論復活を指しているが、それも「内線の原理」と「決戦迂回思想」が部分的に用いられているだけであって、ジョミニの理論全般が持ち上げられているとは言いがたい。

ジョミニは非常に長生きで、ナポレオン戦争時まではフランス軍にいたがその後はロシア軍に身を置き、クリミア戦争までは見届け、普仏戦争の直前に没した。その普仏戦争こそジョミニがクラウゼヴィッツの理論に屈した瞬間だったわけで、良いタイミングで亡くなったと言えるのかもしれない。いや、内線の原理自体はすでに普墺戦争で、プロイセンの鉄道と電信を使った外線作戦打ち破られてしまっているのだけれど。

そうそう、訳者に一つ言いたい。固有名詞の言語は統一してほしい。一見現地語で統一されているかと思ったら、ファルツはプァルツになってるし、ニコライ一世はニコラス一世になってるし(一方でアレクサンドル一世という表記)、ところどころおかしい。というよりも、日本語がおかしいところも散見された。訳者(自衛隊の偉い人だったようだがそれでこの日本語は……)は亡くなっているうえにこれは文庫版なので、もう直ることはないと思うが……


戦争概論 (中公文庫―BIBLIO20世紀)戦争概論 (中公文庫―BIBLIO20世紀)
著者:アントワーヌ・アンリ ジョミニ
販売元:中央公論新社
発売日:2001-12
おすすめ度:3.5
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2009年01月13日

第132回『崇高の美学』桑島秀樹著、講談社選書メチエ

相変わらず講談社メチエは良い仕事すると思う。自分くらいの層が欲しいと思う知識のレベルとジャンルを、よく把握している。ちょっと気合入れてブックレビューを書く。

本書はタイトルの通り、崇高概念に関する雑多な議論をすっきりとまとめたものである。序論は本論での方向性の提示。第一章で美学における崇高概念の歴史を概観し、第二章でその中からカントとバークを取り出し、第三章でその後の崇高に関する美学と近代登山について論じ、第四章では現代的な「アメリカ的崇高」と関連する諸問題を具体的に論じている。

本書でもっとも有用だった部分は第二章で、バークとカントの崇高論の違いを非常に簡潔に書かれている。そこら辺だけなら美学をかなり詳しくやった自信のある自分から見ても、「専門家がしっかりと書けばこれだけ簡潔に書けるものなんだ」と深く感じ入った。哲学はわかるけど美学はさっぱり、という人にさえ勧めることができる。哲学の分家ながら、哲学とは若干毛色の違った学問であることを感じていただけるんじゃないかと思う。

私的なハイライトとしても、やはり二章末尾である。以前ブックレビューで紹介した『美と崇高の彼方へ』でも同じことを書いているが、やはり桑島さんもカント哲学に暗示される「理性信仰」や性善説に基づく「倫理的抜け道」が本論で不自然に顔を見せてくることを提示していた。加えてその結果、自律的な美学としてのカント美学は逆に使いづらいのではないか、バークの崇高論や、それを引き継いだリオタールの理論こそ今見直されるべきではないかということを提唱し、新しい概念へと話を進めていく。この理論展開が本書で最もおもしろかった。特にバークは読んでてもリオタールには全くの無知に近い自分にとっては、かなり新鮮だった。「表象不可能性」「歴史的崇高」(こちらはベレル・ラングの言葉)というタームは興味深い。あとで個別の記事に何か書くかもしれない。ベレル・ラングは翻訳が出ていないようだが、誰か出してくれないものか。

第三章の副題「カントの人倫的崇高を迂回する道」が、本書の示す道を最もよく表している。その第三章では議論を深めるためにジンメルとラスキンという二人の巨大な美学者(美術史家)紹介されている。ラスキンの『近代画家論』はターナーを「ロマン主義」(それも古典主義から抽象主義へ向かう進歩史観としての「主義」)に位置づけた、という評価が主流であるが、本書はそれを単純すぎた理解として批判して、別の要素を抽出し崇高論に生かしている。(ただし、ラスキンの近代主義的な態度自体は否定していないようだ。)

第四章で気になった点は、アメリカ的崇高の原点としてハドソン・リヴァー派がきちんと出てきたこと。これを落として現代のテクノロジーを基盤とするアメリカだけを論じていたら、それは片手落ちで、失礼な言い方になるが正直幻滅するところだった。その後のアメリカ的崇高への批判とヒロシマ原爆の話は、義務的な内容が三章までで終わっているので、やりたい内容を書いた、という印象。原爆ドームを美学的に切る話は、そのまま記念碑を美学的にどう評価するべきかという議題にも通じる。やはり、「歴史的崇高」という言葉はおもしろい。


ケチをつけるとすれば、両方とも内容がどうこうというものではないにせよ、二点。まず序論で「石ころへのオマージュ」として、一つの石ころから導入したのはよかったが、そこから思想家の文章をぽんぽんと引用しまくるのは少々突飛な印象を受けた。場合によっては第一章から読んでいって第三章まで読み終えて、おおよそ第四章での展開が見えたところで序章を読み直すとわかりやすいかもしれない。

次に、どうせ第一章冒頭で中国の山岳観を簡潔に提示しているのなら、第三章辺りでそれをもう一度深めに再提示しておいたほうが議論は深くなった。正直に言って、近代西欧美学だけを持ち出して日本の近代登山、森林逍遥の話をされても少々不自然に聞こえた。感覚で言わさせてもらえば、第三章の後半が一番筆の乗りが悪かったように思えた。


崇高の美学 (講談社選書メチエ)崇高の美学 (講談社選書メチエ)
著者:桑島 秀樹
販売元:講談社
発売日:2008-05-09
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2008年11月11日

第131回 『食べる西洋美術史』宮下規久朗著、光文社新書

宮下先生の新書と聞いて買ったはいいものの随分と積んでいた次第。タイトルの通り、食を巡る西洋美術史の諸作品を総覧していくのが本書である。

ただし、どういう食べ物が描かれてきたかや食べ物の描かれ方が語られているのではなく、描かれた食べ物や食事風景に込められた意味、とりわけキリスト教とのかかわりについてに重点が当てられている。そのため、西洋美術史における「食べる」こと、というよりは「食べる」を主題とした作品を通した西洋美術史、というほうがより本書を表現するのに近い。あまり趣味に走った話や深い話をしているわけではない、という意味では新書向きにまとまっている。

新書の分量で西洋美術史全体を総覧するために、一つ一つの作品や時代に対する文章はかなり短く、ものすごく端折ったらしきところは散見され、特に後半半分はそう感じられた。特にボデコンの周囲はばっさり削ったのであろう。ただ、内容に関して一点。メンツェルを19世紀最大のドイツの画家扱いするのだけは納得ができない。C.D.フリードリヒはまあ当然としても、ベックリーンがいて、シュトゥックがいるし、ルードヴィヒ・リヒターもいる。メンツェルが彼らに劣るとは思わないが、飛びぬけて有名だとは思えない。

宮下先生と掲げられたテーマにしては随分とおとなしい文章だなーと思って最後まで読み、あとがきの文章を読んで全て納得した。身体を壊されていたなら仕方が無い。ただ、どちらかといえば「おいしそうな料理と美術を愛でる気楽な食卓漫談」を期待していたし、今でもやはり読んでみたい気がする。


食べる西洋美術史  「最後の晩餐」から読む (光文社新書)
食べる西洋美術史 「最後の晩餐」から読む (光文社新書)
  
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2008年10月18日

第130回 『レパントの海戦』塩野七生著、新潮文庫

『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』に続く、戦記物三部作三作目。1571年、スペインとヴェネツィアを中心としたヨーロッパ連合軍と、オスマン・トルコ海軍の間で起きた戦闘であり、ヨーロッパ連合軍がほぼ初めてまともにオスマン・トルコを押した戦闘でもあった。

前二作は文明の転換点という非常に大きなテーマを抱えていたが、今回はどちらかと言えばヴェネツィアという一つの国家が国家の舵取りにおいて迷走期に入る、その端緒を描いたものと言える。ヴェネツィアは勝ったには勝ったしそれは圧倒的な大勝でもあったが、前夜を見ればそれは薄氷の勝利と言えたし、何よりその勝利を全く生かすことができなかった。この本のレビューを書く人は誰でもこの部分を引用するだろうが、

やはり「国家の安定と永続は、軍事力によるものばかりではない。他国がわれわれをどう思っているかの評価と、他国に対する毅然とした態度によるものが多いものである。」

という、ヴェネツィアのとある外交官の演説は、今の我々日本人には非常に耳に痛い。この言葉を本書の最後に持ってくるところに、塩野七生の良い意味でのわかりやすさがあると思う。丁寧さ、親切さ、と言ってもいい。

『コンスタンティノープル』では複数主人公制であったが、本作はあくまでヴェネツィア人に主眼がおかれているため、思わず感情移入しすぎてスペインの大国らしい横暴っぷりに腹が立ってきた。しかし冷静に考えればスペインとしては別にこの戦争に参加する意義は教皇命令以外にほとんど無く、逆によくぞこれだけの大艦隊を貸し出したものだと思う。あの横暴っぷりも仕方が無いものか。それにしても、困難な連携の上での勝利の瞬間というのは、なんというカタルシスの解放であろうか。久しぶりに小説上で喝采を浴びせたくなった瞬間であった。


しかし実際のところ、この戦争以後ヴェネツィアは没落したとか、ことはそう単純に行かない。本書の末尾に書いてあるようにヴェネツィアはこの戦争によって勝ち得た70年間の平和を享受し、経済的な繁栄は以前と変わることが無かった。その70年の平和を打ち破ったのはまたしてもオスマン・トルコではあったのだが。逆にもう二つの参加国もその後の経緯は複雑である。スペインはアフリカへの野心からこの戦争に参加したが、実際には新大陸経営でにっちもさっちもいかず、100年とたたないうちに西欧の大国から転がり落ちていくのは周知の事実である。

オスマン・トルコはこの戦争でキプロスを得たものの、有効活用することはできなかった。以後国力が増えも減りもせず、やがて西欧諸国に追いつかれ追い抜かれてしまう。最後に西欧から獲得した土地は、レパントの70年後に同じくヴェネツィアから獲得したクレタ島である。オスマン帝国が停滞した理由は、いかにも専制独裁国家らしい内紛からであった。

この戦争以後、地中海そのものが歴史の表舞台ではなくなっていく。まさにそのことそのものがヴェネツィアにとっては致命傷であった。小国の悲哀である。同じくシーパワーであるわが国には、またしても耳の痛い話である。


レパントの海戦 (新潮文庫)
レパントの海戦 (新潮文庫)
  
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2008年09月18日

第129回 『PSYCHE(プシュケ)』唐辺葉介著、スクウェア・エニックスノベルス

瀬戸口何とかさんのラノベデビュー作……でいいのかな。ラノベというにはラノベ然とはしていない。今のラノベはものすごく範囲が広くて、ほんとにくだらないものからエンタメ志向のもの、純文学にかなり近いものまである、と言われているわけだが、それでもなおこの『プシュケ』はラノベでありながらラノベという感じがしなかった。物語の性質上、主人公以外のキャラが全く立っていないのがその原因であろう。萌えも燃えも無く、あるのは一編の短いストーリーだけだ。

内容に関してはこれ以上書くとネタばれになるので差し控えるが、確かに瀬戸口さんらしいテキストであった。相変わらず「ねえ○○」は多いし会話文の一つ一つが長い。地の文は極めて淡々としている。ストーリーは割と意外な流れだった。まあ自分は『CARNIVAL』だけ未プレイなので、氏のエロゲでのシナリオ作りを全部知っているわけではないものの、『SWAN SONG』や『キラ☆キラ』に比べると随分とあっさりした話を作ったなと思った。

主人公の趣味が絵を描くことなので、マティスだとかルオーだとか後期印象派だとか。光の話もそうで、光の色と物の色は全然別物という話もちらっとしていた。絵とは関係無いけど、哲学的ゾンビとクオリアの話も割りと好きな話題で、思考訓練の好きな人にはたまらないネタだと思う。タイトルのプシュケは知ってる人は知っての通り、ギリシア語で「蝶」。蝶は東西を問わず魂の運び手という位置づけであった。この小説では当然、キーアイテムとして蝶が登場する。

で、これらの要素をどうストーリーに絡めてくるのかと思っていたらラストで綺麗にまとまった。あーなるほどね、と。これだけ短い話でこれだけ詰められるのは、さすがの構成力である。エロゲのときはだらだら長引かせるところもあったけど、あれは絵や音楽のことも考えて、ということだったんだろうか。逆に、本作ではあっさりしすぎて心配ですらある。

そんなわけで、瀬戸口何とかさんのファン以外でも、試しに読んでみるといいと思う。



PSYCHE (プシュケ) (SQUARE ENIX NOVELS)
  
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2008年09月12日

第128回 『コンスタンティノープルの陥落』塩野七生著、新潮文庫

複数の主人公を用いてコンスタンティノープル陥落の様子を克明に描いた小説。複数の主人公でしつこく視点が切り替わるが群像劇というわけではなく、あくまで多くの立場・視点から描くことで情景を豊かに、立体的に切り出すことを追求している。ゆえに、主人公たちはほとんど全ての場面で交流することは無い。

実のところ、私がこの本で一番おもしろいと思ったのはこの部分である。主人公が複数ならそれは群像劇だろう、というある種の固定観念があったことは否めない。だが、二、三人主人公ならばまだしも六、七人も出しておいてほとんど全く交わらないというのは逆にすごい。まあ余計なお世話をすると、序章でしっかり登場人物の名前とその立場を覚えておかないと、視点の切り替わりの激しさのせいでしょっちゅうこいつ誰だっけになるので、注意されたし。なお、トルコ皇帝マホメッド二世以外の主人公たちには一見して無作為に選ばれたように見えるが、実はある共通点があり、そのことはエピローグで明かされる。これもまたおもしろい仕掛けであった。

『ロードス島攻防記』と『レパントの海戦』と本書は戦記物三部作と言われているが、『ロードス島攻防記』は宗教戦争からバランスオブパワーへの転換と、それによる各国家の巨大化及びそのための中央集権化、それにヨハネ騎士団が全く対抗できず時代の流れに取り残されていたこと、に焦点が置かれて描かれていた。『レパントの海戦』はまだ読んでいないが、文明の交代に焦点が置かれているだろうことは容易に想像が付く。それに対し本書『コンスタンティノープルの陥落』は、主人公が多数であることに重ねて掲げられたテーマも実に多く、単に一つの文明の終焉として片付けられないものがこの戦争にはあった。特にヴェネツィアとジェノヴァの立場はかなり興味深いものであった。


しかし、作中の通りコンスタンティノープル包囲のためにトルコが本当に15万人も動員したとするなら、それはかなり根こそぎ動員したことになるんじゃないだろうか。当時のトルコはまだ小アジアの西半分とバルカン半島の南半分しか領有しておらず、土地面積はほぼ同等でもそれよりは豊かな土地であったであろう当時のフランス王国とて10万人を動員することは到底不可能であった(本作から50年ほど経ったイタリア戦争時のフランスや神聖ローマで10万に達するかどうかであり、そのことは各戦争史の書物や、同じ著者の『チェーザレ・ボルジア』でも確認できる)。コンスタンティノープル攻め時のオスマン軍総勢は諸説あるようだが、50日かかっているということから考えても(それはヨーロッパ諸国にとっては驚きの短さであったようだが、仮に十万人以上動員しているならもっと早くてもおかしくはないだろう)、想定される最低人数の8万人程度が正解ではないだろうか、と思う。


コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)
  
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2008年06月03日

第127回 『愛の年代記』塩野七生著、新潮文庫

基本的には、いつもの塩野七生である。彼女の好きな時代の、時代風景をよく反映した「小さな物語」を著述したもので、別段何かがあるわけではないが、普通に話がおもしろい短編集である。この単行本ではタイトルの通り、数ある彼女の短編の中でも女性が主人公であるか、恋愛がテーマである話が収録されている。

結局のところ「愛憎劇はいつの時代も変わらない」ということしか言えないのだが、それでも身分違いの恋が成立したり、政略結婚が普通であったり、女性蔑視の風潮が現在よりも圧倒的に強い中での愛憎劇だから、単なる歴史的ロマンと愛憎劇の抱き合わせという以上のものがある。

今回ありがたかったのは、『サイレントマイノリティ』の項目でも書かれていたように、どこが真史料でどこが偽史料で、はてはどこが捏造なのか巻末に一覧で載っていたことである。まあ本編読んでいる間はさっぱり見分けがつかなかったわけだが、あーなるほどと思うものもあれば驚いたものもあった。何やってんのイタリア人。

一番おもしろかったのは、大概の人がこれを挙げる気はするが「女法王ジョバンナ」。やはり、こういうしゃれっ気の効いたそれっぽい話はおもしろい。真相はまさに神のみぞ知る。


愛の年代記 (新潮文庫)
  
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2008年06月02日

第126回 『サイレントマイノリティ』塩野七生著、新潮文庫

三ヶ月にブックレビューでも。

昔、著者が『新潮45+』という壮年向けの雑誌に連載していたエッセイ集。なお、現在は+がとれて『新潮45』という名前になっている模様。理由はよくわからない。対象年齢を下げたつもりなんだろうか。

中身はエッセイと見せかけて、舞台が古代や中世、近世から近現代に変わっただけで小説と何ら変わりわない。ときどき自分自身や現代日本の話になることはあるものの、やはりいつもの塩野節である。その意味では同じくエッセイ集である『イタリアからの手紙』や『イタリア遺聞』とは大きく異なっている。雑誌に連載されていたものであるということと、「Silent Minority」たちの紹介というテーマ設定による影響であろう。

読了しておもしろかったことを二つ。一つはSilent Minorityの定義について。うちのブログ仲間にもSilent Minorityはいるが、彼自身が「語感のよさでつけたところがある」と言っているように、実際のところ命名者の塩野七生の意図するところとDiL本人はあまり当てはまらない。Silent Minorityは言い換えれば本の背表紙にもある通り「行動的ペシミスト」である。DiLは皮肉屋のペシミストではあるが行動することは無い。

まあDiLとの重ね合わせはどうでもいいことなのだが(本とは全く関係無いが、先日彼が自分以外の貴重な某読者に対し「更新頻度を上げる」と宣言していたので注視しておこう)、実際こんな大人になってみたいとは思う。厭世的に凝り固まって社会と隔絶するわけでもなく、かと言って積極的に社会を変えようとしているわけでもなく。群集に染まっているわけでもなければ孤高というわけでもない。いろいろと中途半端ではあるが、だからこその居心地のよさはあると思う。

もう一つは、塩野女史の本の作り方についてである。この本で釈明していた通り、塩野女史は都合の良い史料が無い場合それっぽい史料を捏造する「癖」がある。この偽史料の作り方についても彼女なりのルールがあったりそれっぽく見せるためのテクニックがあったりしておもしろいのだが、問題は「実は偽史料でした」と公表するのが『Silent Mionrity』や『イタリア遺聞』のようなエッセイ集の場か、はたまた『愛の年代記』のように単行本の巻末であるので、どこまでが史料でどこからが創作なのか、その道の専門家でなければ全くわからない。この釈明の下りの文章が妙におもしろくて心に残った。そしてこれを踏まえた上で、どこまでが史料でどこからが捏造かを考えながら読むと、今までの作品もまた違って見える。




サイレント・マイノリティ (新潮文庫)
  
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2008年02月14日

第125回「知性の眼 イタリア美術史七講」小佐野重利著、中央公論美術出版

前回同様、直接の師の著書を紹介してみんとす。『知性の眼』は小佐野重利先生の最新の著書であるが、過去に出版された『記憶の中の古代』『修復の理論』(翻訳)『旅を糧とする芸術家』の補論という感触の強い本である。すなわち、ルネサンスにおける古代・中世受容の様子や、芸術家伝説に関する論考が収録されている。言うまでも無いことだが、やっている時代はルネサンスという花形だがその作業自体は大変地道なものであり、美術史の学生ならばおもしろいが、そうでなければ何をやっているのかさっぱりかもしれない。

非常にどうでもいいことだが、本書はですます調で書かれている。普段先生方の論文というと語尾は常に「である」「であろう」なので、非常に違和感がある。しかし授業中はいつもですます調で話しているので、直接授業を受けている身としては、文章がそのまま声で再生されるので何とも妙な気分にならないでもない。本書自体が筆者の講演録なので、それもそのはずなのだが。(ゆえに前書きのみ論文調の文章となっている)

そして、その内容はそのまま普段の授業に使われているため、私としては授業の再録のような感覚がする。非常に細かくつけられた註以外は、レジュメと自分のとったノートと全く同じ内容が並んでいる。逆に言えば、この非常に詳しい註がこの本を本たらしめているのかもしれない。また、試験や院試の元ネタにもなっているため、悲しいことにあまり良い気分では読めなかったこともある。そういう意味でも思い入れの強い一冊かもしれない。

それにしても『知性の眼』とはストレートなタイトルだ。美術史とは端的に言えば知性の眼を養う学問と言ってしまうこともできると思うのだが、それゆえにサブタイトルと著者名を隠されるといつの時代を扱った本かわからなくなる。それだけキャッチーなタイトルだと思うのだが、内容の濃さ(≒人を選ぶ)とは釣りあっていないような気はしないでもない。しかし、『記憶の中の古代』や『旅を糧とする芸術家』に比べれば値段としても厚さとしても入りやすい本ではあるし、補論であるがゆえに様々な分野に触れているので、教授・小佐野重利の業績を垣間見るのには良い本であろう。


知性の眼―イタリア美術史七講
  
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2008年02月11日

第124回「ドイツの国民記念碑1813年ー1913年」大原まゆみ著、世界美術双書(東信堂)

あまりにも近い人が著者の場合はレビューじゃなくてイントロダクション(というよりもヨイショ)になってしまうのでどうかと思ったけども、考えてみるとそれでもいいやという気がしてきたので、書くことにする。というか、イントロダクションのほうが重要かもしれない。

私の大先輩にあたる大原まゆみ先生の書かれた異色の本。近代ドイツというと、統一という大事業とそれに付随するナショナリズムに触れずには何も語れないところがあるわけだが、美術の中でも最もその影響を受けざるを得なかったのは、モニュメントの類であろう。ドイツ語ではDenkmalという、これは語源的に訳せば「記憶に刻まれるべき印」辺りになる。

ドイツ帝国の成立は様々な人々の思惑が絡んでいた。1813年時点では、まさかプロイセンが武力によって統一するとは思いもよらなかっただろうし、1871年の時点では、まさか50年以内に帝国が崩壊するとは思っても無かったことだろう。1813年から1913年の間に人々の思想はころころと変化し、その変化は記念碑に直接現れた。

本書においては、特徴的な7つの記念碑を取り上げてドイツのナショナリズムの変質とその表象を追っている(紹介には8点と書いてあるがどう読んでも7点だと思う)。モニュメントは、様式の変化を追う現代の美術史において決して本流ではない。建造に時間がかかる上に大多数の人々の思惑が絡む公共建築であるため、美術としてはおもしろみに欠けるものが多い。しかし、だからといって捨てておくにはもったいない対象ではある。そんなことを主張した本である。

正直に言って、カスパー・ダーフィト・フリードリヒを扱っていなければ手に取らなかった本ではある。そのくらいニッチな分野の本ではあるが(あとがきに著者もそう書いていた)、近代ドイツやナショナリズムの表象といった言葉にピンと来るならば探して読んでみる価値は確実にある。あと、創作の助けになる本でもあるだろう。特にケルン大聖堂の歴史や、ニーダーヴァルト記念碑、キフホイザー記念碑設立の経緯はとても何かに使えそうである。行ってみたくなったのは言うまでもないか。


ドイツの国民記念碑 1813年‐1913年―解放戦争からドイツ帝国の終焉まで (世界美術双書)
  
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2008年01月08日

第123回「カスパー・ダーヴィド・フリードリヒ」ノルベルト・ヴォルフ著、タッシェン

フリードリヒに関する普通の概説書。ただし編年体にはなっておらず、しかも若干研究者目線で書かれているためわかりにくいかもしれない。装丁はかっこつけてていかにも入門書という感じだし、シリーズの他の書もそんな感じなのだが。(ちなみに、これまたタッシェンの出している、「作品とコンテクスト」とは別の画家シリーズの一冊。)

書かれている内容自体は他のフリードリヒの本を2、3冊読んでいたら、ああいつものことと言えるようなものが多い。ただしところどころ独自色のある意見があって油断はできない。でも参考文献一覧も無ければ脚注もついてないので、とてもじゃないが研究書とはいえない(とは言いつつも卒論に使ってしまったが)。

しかも脱字が多く明らかな固有名詞の誤訳も多いので、いかにもフリードリヒ研究者じゃない人が訳したという感じがする。実際、本書のどこにも訳者名が記載されていない。研究者が訳したなら載せているだろう。図版がカラーでしかも大きくかなり数が多いのはすばらしい。むしろ画集として見たほうがいいかもしれない。1500円という値段も、タッシェンからの出版ということを考えれば安いほうか。なんというか、いろいろ惜しい一冊である。


カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ―1774-1840
  
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2008年01月07日

第122回「ベックリーン【死の島】」フランツ・ツェルガー著、高阪一治訳、三元社

アーノルド・ベックリーンの代表連作《死の島》について考察した本。といってもベックリーン自体の知名度がそこまで高くないので、むしろベックリーンの入門書として勧めるのが正解だと思われる。ベックリーンの作品を見たことがあるとすれば、ベルリンの至宝展に来ていた《死神のいる自画像》であろう。あれも相当にメランコリックな作品だが、《死の島》も負けじ劣らず見るものを陰鬱にさせる作品である。入るものを拒む絶壁の島。そこに掘られた廃墟。不気味な糸杉に、真っ暗な空。

私がベックリーンに大変な興味を覚えるのは、彼は基本的な部分ですごくフリードリヒに似ているのにもかかわらず、結果として表現したものが全く違うからだ。確かにフリードリヒの絵も一見して暗いが、フリードリヒの作品には必ず希望がある。ベックリーンにはない。圧倒的絶望がこの《死の島》には表現されている。また両者はフランス嫌いで共通し理性を倦んだが、フリードリヒは北方を志向したのに対し、ベックリーンは南方を志向した。その違いを生んでしまったものは何か。多くを占めるのはもちろん歴史的な事情であろう。19世紀の最初と最後では、一体何がどれだけ違ったのか。逆に変わらなかったものは何か。そういったものがこの比較から見えてくるはずだ。

ところでこれは『フリードリヒ【氷海】』と同シリーズの、ドイツのタッシェンが出している「作品とコンテクスト」シリーズの一冊である。このシリーズはおもしろい作品を取り上げるので好きなのだが、なぜだか薄い割に高い。もう少し安ければ、揃えてみようという気も起きるのだが。もしくは大判にするとか。


ベックリーン「死の島」―自己の英雄視と西洋文化の最後の調べ (作品とコンテクスト)
  
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2007年12月06日

第121回「人間の美的関心考 シラーによるカント批判の帰趨」長倉誠一著、未知谷

シラーの崇高論を中心に、その思想の独自性についてまとめた本。図書館の返却期限や、(卒論のテーマから比較的離れていたので)より重要な資料を読む必要性に怯え睡魔と闘いながら読破したため、自分の読書史の中では割と不幸な部類に入るかもしれない。著者の独自の解釈はあまり示されていないとは思うが、そもそもシラーの思想自体がマイナーなので、まとめること自体に意義があったのではないかと思う。

シラーの思想はカントを基盤にはしているものの、そこら辺はゲーテに似ているというか、良い意味でも悪い意味でも哲学者ではなく思想家なのだ。厳密で論理的な議論をあえて避け、直観的な領域で自らの思想を体系立てていっている。やたらめったら独自の用語を定義する一方で、それらを自らが大雑把に運用してしまう。ゆえにある意味カントよりはわかりやすく、ある意味ではカントよりも難解である。シラーの思想そのものに対する雑感は別の記事に任せることにしてここでは避けたい。

本書にもそのシラーの「思想家」っぷりに振り回されつつも食らいついた、という感じが出ている。国内では小説家としてのイメージばかりが先行し、その小説も大して有名ではなく、ましては思想家としてはほとんどスポットライトの当たっていないシラーの基礎的な研究書となれば良いと思う。だが、厚い上に、それにもかかわらずカント哲学の説明を相当端折っているので読むには前提知識と根性が必要だ。にもかかわらず、相当眠い頭で取り掛かってしまった自分は愚かすぎるわけだが。


人間の美的関心考―シラーによるカント批判の帰趨
  
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2007年12月02日

第120回「美と崇高の彼方へ −カント『判断力批判』をめぐって−」甲田純生著、晃洋書房

カントの三大批判は当初二大批判の予定であり、『判断力批判』は副産物とも言えるものであった。なぜなら、カントの目指していたところは超感性的な道徳規範を、感性的な領域まで引き摺り下ろすという、現代学問で言えば倫理学の領域に当たる作業であり、それは『実践理性批判』ですでに達成されたかのように見えるからだ。にもかかわらずカントが『判断力批判』を上梓したのは、彼が「美とは道徳の象徴である」という、プラトン的な考えを持っていたからであり、『実践理性批判』を認識論の面から補足する必要性を感じたからだ。ゆえに、後世『判断力批判』が哲学や倫理学とは独立した「美学」という一大学問の基礎になるとは、カント自身は全く考えてもいなかったことだろう。

本書はカントの認識論的美学を、このようなカントの倫理学的な批判体系から切り離し、「自律的な美学」として語ることは可能だろうか、という目標を掲げながら『判断力批判』を詳細に分析していくものである。裏を返せば、カント美学を自律化させていく過程で、カント哲学に巧妙に隠された(カントに隠した意図は無かっただろうが)倫理学的な抜け道がクロスワードパズルの正解のごとく見え隠れしている。これを指摘していくのが本書の第二の目的である。

自分はカント哲学に妙な違和感を覚えていた。その違和感はこの「倫理学的な抜け道」だったのだろう、この本を通してすごく頭の中を整理できたのが自覚できる。著者の甲田純生氏の文章が非常に流麗な上に、上記のような内容のため、自分のようなカント哲学かじりかけの人間にはむちゃくちゃおもしろいはずだ。

ただし、本書は著者の博士論文をベースにしているため、内容的にはとてつもなく難解で、実際に自分は一度挫折している(大学3年の夏のこと、再度読み始めたのは今年の11月)。とりあえず、上記の紹介文を読んで意味がちんぷんかんぷんだったら手を出さないほうが無難な気がする。しかし、それとは別に序文、及び第一部の序章は名文なので、そこだけ読んでみるのもいいと思う。また、上記のようなカント哲学に対する解釈、アプローチが納得行かない人にとっては、最初から最後まで反りが合わない本であることもまた確かである。




美と崇高の彼方へ―カント『判断力批判』をめぐって
  
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2007年11月18日

第119回「暗い山と栄光の山」M・H・ニコルソン著、小黒和子訳、国書刊行会

今我々が山を見ると美しいと感じるのはほぼ当然の感動のように思われているが、そのような観念が定着したのは18世紀の頃であり、17世紀の後半から18世紀の初頭にかけてのわずかな期間に美学、文学上の大変革がイギリスで起きた結果であった。それまでの山というものは「地球のいぼ、こぶ、火ぶくれ、腫れ物」という散々な評価であり、単なる通行の邪魔者に過ぎなかったのだ。新しく誕生した美学は瞬く間にヨーロッパを席巻し、均整な地球に生えた邪魔な「暗い山」は神々の住む「栄光の山」へと生まれ変わっていった。

では、まずなぜ17世紀以前の人々はそう考えていたのか。なぜその大変革は起きたのか。その二点の論点に対して深く切り込んだのがこの古典的名著である。興味と多少のイギリス文学知識があれば(シェイクスピアとか)かなりおもしろく読める本だと思う。自分の場合は卒論の資料として読まざるを得なかったが、そうでなくても遅かれ早かれこのブックレビューの俎上に上げていただろうと思う。

研究書なので様々な具体例(文学)を列挙して説得力を増しているため、単なる読み物としては若干くどいかもしれない。ただし章立てがわかりやすく、飛ばし読みしても全然問題なく読み勧められる親切設計なのも好印象だ。科学と宗教、そして文学、哲学が絡み合って、爆発的な変革を起こした様子がありありと浮かんでくる.時間旅行をしているような感覚、とも言えるかもしれない。最後、ワーズワースにたどり着き彼の詩文がいかにして形成されたかを読み解けたときには、なかなか感動することができるだろう。


暗い山と栄光の山 クラテール叢書 13
  
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2007年10月23日

第118回「文学を旅する地質学」蟹澤聰史著、古今書院

文学作品の中に地質学的な要素を見出し、それを分析しようという本。知っている人は知っている通り、ゲーテが地質学に詳しく地質学の勃興に貢献しているのだが、そのことも詳しく書かれていた。そこで自分の研究分野ともつながるなと思い購入。

著者が地質学の偉い人のようなので当然地質学よりの話が多く、どちらかといえば「この文学の舞台の地層は」という話が多かった。それはそれでかまわないのだが、地質学者に「文学も読もう」という意識で書かれているために私が読むには地質学の専門用語がさっぱりわからず、とてもハードルの高い本であった。というわけで、文学部の人間よりは理学部の人間に、「俺たちの研究はこんな風に全然遠い場所でフィーチャーされてるんだ」というのを確認する目的で読むことを勧めてみたい。

ゲーテの部分と宮沢賢治の部分が一番おもしろかった。それ以外の部分は、さすがに地質学と文学はかけ離れた分野すぎたか、という感じ。まあ地質学側の人間から見れば、もう少し感想が違うのかもしれないが。あと、出典元の文学はかなりあっちこっちに飛ぶので、網羅しようと思うのなら相当広範に読んでいる必要があることを付記しておく。まあ、各々の原作を知らなくても読める本ではあるが。


文学を旅する地質学
  
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2007年10月14日

第117回「風景画家フリードリヒ」ヘルベルト・フォン・アイネム著、藤縄千艸訳、高科書店

これも日本語版の初版は91年だが、ドイツ語版は1950年初版、執筆はなんと1938年のすごく古い本。フリードリヒの知識を得るためというよりは研究史を抑えるために読んだ。日本語版の本の紹介にもそう書かれているが、よくナチス政権下でこれだけの本を書けたものだ。戦後の執筆と言われてもまったく違和感が無い。

こういう古い研究書を読むとおもしろいのは、現在の基本的な解釈との違いが見えてくることだ。具体的にはこの本だと、現在では《氷海》と判断されている絵がこの本だと《難破した希望号》という、《氷海》の準備段階の絵画と判断されている。これは後に《希望号》のほうらしきものが発見されたからなのだが、いかに美術史が物に依存した学問かよくわかる事例だと思う。

それでも、歴史的状況やフリードリヒの伝記的な記録、作品の基本的な解釈などきれいにまとめられており、大変読みやすかった。ロイスダールやルンゲとの比較はおもしろい。案外、研究の時系列にそって、これを一冊目に読んでみるのも損ではないかもしれない。上記の《氷海》のように大幅に現在と解釈が違う場合は訳注がついているので、勘違いする心配はあまり無いだろう(とは言っても、現在カールス作疑惑がかけられている作品も、普通にフリードリヒ作として紹介されていたりはするが)。



……amazonに該当書なし。117回目にして初めて。まあ、今までけっこうマニアックな本も含めて全部あったことのほうがおかしいんだけどね。  
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2007年10月12日

第116回「ドイツ・ロマン主義絵画 −フリードリヒとその周辺」ハンス・ヨアヒム・ナイトハルト著、相良憲一訳、講談社

84年初版の若干古い本ではあるが、サブタイトルの通り、フリードリヒを中心として、その前後の画家たちの略歴、画風、フリードリヒとの関連について、ほぼ時系列的に書かれている。こうして読んでいけば、フリードリヒやルンゲが登場する下地はそれなりに準備されていたのだなあということは確認できる。と同時に、フリードリヒとダールやカールスの違い、フリードリヒ以後の画家へはフリードリヒ的画風がいかに「廃れていったのか」も確認できるだろう。

フリードリヒは旧弊したバロック的風景画の駆逐には成功したが、その強すぎる近代性ゆえに自分も駆逐してしまった。その結果フリードリヒの跡を継いだ風景画家たちが描いたのは、フリードリヒの香りをほんの少し残しながらも、基本的には古典主義や自然主義であり、感傷趣味の強い絵画だった。

しかし、これらがまったくロマン主義じゃないかと言われるとそれは違うと思う。むしろフリードリヒの絵画はロマン主義の中でも「象徴主義」すぎるのであって、彼のみを真正なるロマン主義に据えるのも何か間違った話ではないだろうか。と同時に、センチメンタリズムの強いポスト・フリードリヒ絵画も、十分ロマン主義の範疇に入れてしまっても、大枠の分類としては間違っていないのではないだろうかと思うのである。


ドイツ・ロマン主義絵画―フリードリヒとその周辺
  
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2007年10月10日

第115回「C.D.フリードリヒ 《画家のアトリエからの眺め》 −視覚と思考の近代」仲間裕子著、三元社

割と長めのサブタイトル通り、フリードリヒの近代性について論証している。すなわちそれは断片と全体の問題であったり、幾何学的な構図による視覚性や抽象性の問題であったりした。フリードリヒの絵画はどうしても(カタログレゾネを制作したBörsch-Supanの方針以来)象徴性ばかりが強調される中、近代性に着目する新しい流れはおもしろいと思う。しかし、通常の画家というのは逆に、「美術史とは抽象絵画へ向かう発展史観」であるという思想の下で近代性ばかり注目され、ほかの部分はおざなりにされることが多いのに、その逆を行くフリードリヒ研究は、さすが埋もれていた画家とでも言うべきところだろうか。

私的にこの本で一番おもしろかったのは、その関連もあってか第二部のフリードリヒ再発見と受容の歴史をまとめたものだ。現在仲間裕子教授のもっとも関心のある分野だったと思うが(そして確か大原まゆみ先生の最近の関心もそうだったと思うのだが)、国家の表象としての美術館をどうとらえていくべきかという問題は、自分も大変興味がある。美術と社会の関連が今後の美術史の研究分野として広がっていくものと思うが、その際もまたフリードリヒのような特殊な変遷をたどった画家はおもしろい一例として挙げられていくことだろう。

とまあ書けばわかるとおり、専門性の高い本なので、『フリードリヒ【氷海】』と比べて一冊目としてはお勧めできない。


C.D.フリードリヒ―〈画家のアトリエからの眺め〉-視覚と思考の近代
  
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2007年10月08日

第114回「カラー版 西洋建築様式史」美術出版社

西洋美術史をやる上でどうしても避けて通れなかった本だと思う。近代以降は職業の専門化、視覚芸術の抽象化が進んだ結果、画家と建築家のスキルが分離し兼業するものも減ったように思われるが(もちろんル・コルビジェのような例外はいる)、前近代では兼業はまったくおかしなことではなかった。C.D.フリードリヒも建築の覚えがあり、そういったスケッチが何枚か残っている。兼業の画家としてはほとんど最後の世代だろう。

建築の様式の変遷も、絵画の様式変遷とさして大きな流れはない。しかしやはり建築特有の問題や革新というものが細部にはあり、それらを確認する上でなかなかおもしろい本だった。カラー版と銘打ってるだけあって、図版が多く、様式の違いがページをめくれば簡単に確認できたのは褒められるべきだろう。

どの建築史の本でもそうなのだが、やはりこういうものは実物の質感、引いたアングルで見た視点が無ければ本当には味わえないものだ。この「実物を見なければわからない」度は絵画や彫刻よりもよほど高いと思われる。初めてヴェルサイユを見たときは、その仰々しさにやはり圧倒されたものだ。この本に載っている建築を全部見るくらいの旅行を、いつかしてみたい。



西洋建築様式史
  
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2007年09月13日

第113回「フリードリヒ【氷海】」ペーター・ラウトマン著、長谷川美子訳、三元社

あまり専門書をこのリストに載せることはしないつもりだったが、何かの間違いでフリードリヒに興味を持った人のためにこれは載せておく。卒論を書くならまずはモノグラフを3冊ほど読め、と言われ手を着けた一冊目の本。と言ってもモノグラフと言えるほど伝記の体裁はとっておらず、C・D・フリードリヒの代表作の一つ《氷海》について、美術史の基本的な作業の結果が書かれている。

《氷海》をどう分析しているかというと、ある特定の分野による攻め方ではなくて、非常に多岐に渡る戦い方をしている。単純に氷の図像が持つ意味から迫ってみたり、フリードリヒの持っている政治的状況に触れてみたり、フリードリヒの触れていた自然科学の知識から切り込んでみたり、といった感じだ。ゆえに、一冊目に読んだものとしては次へのステップになりやすくておもしろかった。

訳者解説も詳しく、最初の一冊としてはかなり良いものを読んだように思う。参考文献や画像も充実していた。そもそもフリードリヒを扱った本は日本語では少ないので、今後も紹介していく所存。



フリードリヒ『氷海』―死を通過して、新しい生命へ
  
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2007年08月30日

第112回「廃墟の美学」谷川渥著 集英社新書

廃墟の美学の系譜に関してざっくばらんに書いてみた本、というのが本書の紹介としてはもっとも正しいだろう。文章は軽快だし表面をなめらかに滑っていくように話が進むが、実はかなり濃い内容である。「美学」ではあるものの美学史といったほうが正しいだろう、ルネサンスをスタートとして各時代の廃墟に関する美学やその表象を追っていく。

抑えるべきところは抑えてある印象で、美学関係者ならば「サルヴァトール・ローザ!」の名言を残したウォルポール、ディドロ、ヴィンケルマン、バークにカント、画家ならばモンス・デジデリオやユベール・ロベール、ピラネージ、フリードリヒといった面々が登場する。ただしあくまでも表面を滑っていくだけであり、各々の分野のさわりと入り方だけを示していくにすぎず、あとは自分で調べてくださいという感じか。

そんな作りなだけに、中身のおもしろさもさることながら、巻末の文献一覧が親切すぎてむしろそっちに感謝をしたい。一冊一冊に対して内容の概略と著者の感想が載っていて、一々本を取り寄せては「おもしろいんだけど欲しい情報とは違う」と嘆く作業を省いてくれる。この一冊でどれだけ卒論が進んだのかは計り知れない。


廃墟の美学 (集英社新書)
  
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2007年07月31日

第111回「人造美女は可能か」巽孝之・荻野アンナ編、慶應義塾大学出版会

本書は2005年12月慶応大学文学部で行われた立仙順朗教授の退任記念シンポジウムの結果を一冊の本にまとめあげたものである。何をやりたいのかぱっと見さっぱりわからないタイトルだが中身はしっかりとした文学的研究書だ、ただ扱っているものがマラルメやジュール・ヴェルヌ、ポオにナボコフといったガチガチの面々から綾波レイに攻殻機動隊、ローゼンメイデンともうめちゃくちゃ範囲が広いということだけ、一般的な文学書とはかなり体裁を異にしている。

そんな本なので読む側に求められる予備知識もかなり幅広く、相当に読者層は狭いと思う。その分、自分のようなその狭い層に当てはまる人種にはたまらなくおもしろい本だ。ロマン主義芸術に登場する倒錯的な女性美と現代ヲタク文化の共通点を探っていったらおもしろいだろうな、とは思っていたが、まさかそれがこんなにも早く、こんなにも豪華メンバーで実現されるとは思いもよらなかった。

退任なさる立仙順朗教授はこの本を書くためにわざわざアリプロを聞き、攻殻を見、アキバにも踏み込んだとか。マラルメ研究者にそこまでされると、我々ヲタクの側がありがたすぎて恐縮してしまいそうだ。そしてきちんとそれを分析し本にしてしまったことに対しては、もう敬意を表するしかない。

このシンポジウムの、そしてこの本の最大の目玉は、アリプロの宝野アリカ女史が参加していることだろう。彼女のゴスロリ少女論はほとんど自分の思っているところと共通していてなんだか安心した。あれだけ情報の濃い歌詞を書いているんだから相当博識に違いないと思っていたが、さすがだ。まあそれでも、彼女の文章がこの本ではやや浮いていたというか、全く研究論文らしくないことは否めないが。

なんと言うか、慶応大学を見直した。うちでもこういうぶっ飛んだことやらないかなあ。私信としては、同じく狭い分野に生きているだろう人たちに是非手にとって貰いたい品である。



人造美女は可能か?
  
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2007年07月01日

第108回「風景画論」ケネス・クラーク著

美術史学上の大著。風景画を卒論に考えている以上避けられない道だったが、いかんせん厚いのと、自分の研究分野であるドイツロマン主義がたった数行で終わっているという事実からなかなか部分的にしか読んでなかった。美術史の大家の著作だが、風景画を象徴・事実・幻想・理想の四つに分類するところから始まるなど、どちらかといえば美学的な色彩の強い本であった。そのせいではないのだが(美学の本だって読みやすいものはある)、語り口がまどろっこしく読み手への意識があまり感じられない。

大家らしい書き方というのか、断定するところが多く、自分の知識不足なのかクラーク氏の大胆な提言なのかは区別がつかないが、首をかしげることが多かった気がする。さすがにターナーとコンスタブルを語る部分は意気揚々としていてその辺りはさすがにおもしろかった。まあ風景画を研究しようと考えている人は読んだほうがいいとは思うが、それ以外の人が手に取る必要は無いのではないだろうか。同じ著者の本なら、もっとおもしろいものがあるはずだと思いたい。特に『ロマン主義の反逆』はこれから読む予定である。

なお自分が読んだのは改訂版で、改訂版の前書きで著者が「各章数行足したのみ」と述べているが、その数行が重要だったりするらしいので、ぜひとも改訂前のものを一度手にとって見たいものだ。


風景画論
  
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2007年06月22日

第107回「罪と罰」ドストエフスキー著 新潮文庫

もっとわかりにくくてがちがちな哲学系小説だというイメージを持っていたが、やはりイメージで語ってはいけないなと思った。あらすじとオチだけは読む前から知っていたが、まさかこんなに早々に(ネタばれ)金貸しの婆さんが殺されるとは思っていなかった。

そこからやや冗長かなと思わないでもなかったが、なんだかんだでポリフォーリィ(検事)と主人公ラスコーリニコフの知的心理戦はおもしろくてさくさく読めてしまった。ある意味デスノートとか(同じ世界文学なら『モンテ・クリスト伯』に近いか)と同じ路線かもしれない。そういう観点で見るとあの長ったらしい法律論や正義論も相手に打ち勝つための単なるディベートに過ぎないように見えるから不思議だ。

なんというか、純文学として持ち上げられすぎたのではないだろうか。この小説のおもしろみは、もちろんそういった深い人生哲学にもあるのだが、もっと簡単なところにもあるように思う。まあ一つ文句を言わせてもらうと、ロシア人の名前、覚えにくすぎである。

あと、妹ドゥーニャに萌え。スヴィドリガイロフは一回死ね。氏ねじゃなくて死ね。

罪と罰 (上巻)
  
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2007年06月15日

第106回「明るい窓:風景表現の近代」横浜美術館学芸員著 大修館書店

近代以降の風景画の美術史というよりは、風景という概念についての、もっとメタ的な歴史をたどった本。そういう意味では自分の買った目的とはかなり齟齬があったが、自分の勘違いという非も認めるけども、正直あの序文では誤解されてもおかしくはない。買った目的と違うとはいえ試み自体は好きだしまあまあおもしろかったと思う。特に「近代」とタイトルに冠するだけあって風景表現おとナショナリズムの関連性や、そこに写真が登場した影響と植民地主義に関する考察など、研究の食指が動きそうなものが多かった。

しかし、いくつか不満点もある。まず、あえてこういう構成にしたのか知らないが、日本と西洋を行ったり来たりするわそれに伴って時代は飛ぶわで、すごく読みづらい。それに伴った事情もあり、そもそもテーマが大風呂敷だったというのもあり、全体的に文章が端折り気味でわかりにくいことはないものの読みづらい。何度か眠くなったことは確かだ。あと、オチが唐突。研究としてはそれでいいのかもしれないが、本としてはもう一箇所くらい山があるべきではないか。

そのオチのせいか単に本が売れたせいかは知らないが、続編が出ているようなので機会を見て読んでみたいと思う。


明るい窓:風景表現の近代
  
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2007年06月07日

第105回「つっこみ力」パオロ・マッツァリーノ著 ちくま新書

パオロ氏の著書、三冊目。ただ、だんだん何をしたいのかわからなくなりつつある印象がある。言ってることは正しいのだろうし、まあまあおもしろくもあるのだが、おもしろければいいという思想と正しさの重視は両立する場合もあるが両立しない場合もあると思う。

学問のおもしろみはユーモアだというが、それ以上にインタレスティングな部分だと思う。しかしそこには触れていない。さらにユーモアだとは言うが、相手をこけおろすタイプの笑いの取り方が多くて下品である。少なくとも前作や前々作ではもっと少なかったはずだ。愛と勇気とお笑いの結果がつっこみ力だとは言うが、はっきり言って相手に対する愛を感じない。

しかしそれでも「反社会学」としては優れた本だと思うし、文章の構成をミスっただけという気もする。まあ氏は最近活発に活動しているので、今後に期待。



つっこみ力 ちくま新書 645
  
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2007年05月19日

第103回「ドイツ人とドイツ美術 やっかいな遺産 」ハンス・ベルティング著、仲間裕子訳、晃洋書房

ドイツには醜い形象に対する耐性、言い変えるならば受け入れる土壌があった。醜い形象と言っても二通りに分けることができる。一つは醜い作品、つまり下手だったりわざと汚く描いてあったりする作品で、もう一つは醜いものを表現した作品である。ここでの「醜い形象」とは、後者を指す。その理由について、延々と弁解してみたりフォローしてみたりしているのがこの本である。

加えて、サブタイトルにあるように、「ドイツ特有」という属性は政治的に複雑な状況が数百年前からほんの15年ほど前までずっと続いてきたドイツにとって、極めてめんどくさいものであった。具体的に言ってしまえば中世から1871年ドイツ帝国成立に至るまでの諸侯分裂。第一次世界大戦後のファシズムに、冷戦の東西分裂と、ほんとろくな目に遭っていない。

こうしたドイツ人の政治的、芸術的コンプレックスはデューラーの頃からすでにあったようで、デューラーはイタリア的な審美観とドイツ的な審美観の狭間で悩んでいる。この本ではデューラーはほとんど扱っておらずゲーテから始まっているが、ドイツ人のコンプレックスを実感するには十分であろう。


ドイツ人とドイツ美術―やっかいな遺産
  
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2007年05月11日

第102回「博物館学入門 地域博物館学の提唱」金山嘉昭著 慶友社

博物館学の教科書として購入したもの。中身は博物館学の入門と、サブタイトル通り地域博物館についての主張である。教科書然としていて語るところはあまりないのだが、あえて言うなら博物館学の部分と地域博物館についての部分を切り離して、二冊にすればよかったのではないかと思う。内容が乖離しているとは言わないが、そのせいで博物館学の部分が地域博物館にひきずられていて、むしろそれ以外の博物館についての記述が弱い。

あと、総合的な学習時間についてだとか指定管理者制度についてだとか、授業で補足してくれたからよかったが、本だけだとすでに時代遅れになりつつある。むしろ時代のほうが早すぎるわけだが、けっこう致命的な内容のズレではないかと思う。ともに地域博物館を考える上では重要なことだろう。

つまり、いろんな意味で教科書の域は脱していない。それでもamazonの博物館学系の本では売れているほうである。


博物館学入門―地域博物館学の提唱
  
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2007年05月03日

第101回「酔って候」司馬遼太郎著 文春文庫

司馬遼太郎の好きな幕末の話である。幕末の騒乱の中活躍した、四人の雄藩藩主を取り上げ、見事に語り上げている。その四人とは土佐藩の山内蓉堂、薩摩藩の島津久光、伊予宇和島藩の伊達宗城、肥前藩の鍋島閑叟である。

残りの三人は当然の選択としても、島津家が斉彬ではなく久光なところがおもしろい。実際他の三藩主についてはべた褒めと言っても過言では無いのに対し、久光に関してはむしろ貶めていると言ってもよい内容だった。

基本的には四つの短編集なのだが、彼ら四人はかなり結びつきが強いためにたびたび同じ事件が起こる。そのつながりが非常におもしろい。視点が変わって描写されると、更なる真相がわかるものである。ゆえに立て続けに読むのをお勧めする。さて、次はいよいよ『坂の上の雲』でも読もうか。



酔って候<新装版>
  
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2007年04月15日

第99回「ローマ人の物語15 ローマ世界の終焉」塩野七生著 新潮社

『ローマ人の物語』もとうとう最後の巻である。しかし不思議と13巻や14巻で感じた寂しさは無い。やはり自分にとってここに描かれている国家は感覚的にローマではないのだろう。なんというか、全然見知らぬ国が愚策に愚策を重ねて勝手に滅びていくのをただ眺めているだけ、という感じだった。

どこまでを「ローマ人」と塩野女史が設定するのかが読む前の最大の関心事だったのだが、それはユスティニアヌスまでであったらしい。ユスティニアヌスの死をもって、この本の終わりとなっている。とは言っても読んでみると実際には彼女が最後のローマ人と設定したのはこの本の1/3を過ぎたところですでに死ぬ、スティリコという将軍であった。つまりそこから先は彼女にとって、エンディングスタッフロール後のおまけのようなものであり、描く気はあまりないけど尻切れトンボなのも気持ちが悪い、という程度で書いたものだったのだろう。ずいぶん駆け足な上に「ローマ人らしからぬ」という言葉ばかりである。

『ローマ人の物語』がすごいのは、何より完結したということである。それもいくつかの信条を保ちながら。けして研究書ではないながら長大でかつ含蓄があるという点では、彼女が参照にした古代の歴史家の著作によく似ているのではないだろうか。プリニウスもタキトゥスも、きっと満足なことだろう。



ローマ人の物語〈15〉ローマ世界の終焉
  
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2007年04月02日

弟98回「ランスの大聖堂」ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳 ちくま学芸文庫

ジョルジュ・バタイユの短編著作集。短編だからわかりやすいかというとそうでもなく、どっちかというとわかりにくかった印象がある。ただでさえ支離滅裂なところがあるバタイユの文章を短編で読むことに無理があるのだと思う。

そんな中注目すべきはやはり表題にもなっている『ランスの大聖堂』である。これはこの短編集の中でも飛びぬけて若いときに書かれた文章で、第一次世界大戦でランスの大聖堂がドイツ軍の砲撃にあって半廃墟と化したのを見て衝撃を受けた、という一見すればなんとでもない文章である。

しかしそこには後のバタイユの思想通り廃墟への魅惑されていて思想の端緒が見える。その一方でドイツ軍に激しい怒りを燃やしており、後のバタイユとの違いも垣間見られておもしろい。第二次世界大戦時のバタイユも確かに反ファシズムで動いてはいるのだがそれは彼の政治信条から来るものであって、フランスへのナショナリズムから来るものではなかった。若い頃は誰しもかぶれる道、ということか。

他にも知っている人ならにやりとできる短編もあるが、入門編としてはお勧めしない。というかこれを読んでバタイユは難しいなんて誤解されるのも、ファンからすれば嫌な話だ。


ランスの大聖堂
  
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2007年03月09日

第96回「戦争論」クラウゼヴィッツ著 岩波文庫

戦争を変えた本、と言っても過言ではない大著。一応軍事科学の先駆者として位置づけられるこの本だが、実際には科学技術的というよりも文系的な、哲学的な分析が多い。ドイツ哲学特有の専門用語の定義づけ、すなわちここでは「戦争」という言葉の定義から始めている辺りがそれを顕著に表している。

『戦争論』の有名なフレーズは多い。中でも有名なのは「戦争は政治の道具であり、あくまで政治の延長である」や「防御こそ最大の攻撃である」だろう。言っていることが孫子の兵法と同じだったり全く違ってたりするところがおもしろい。東洋と西洋の違いや時代の違いなのだろう。どちらも人生にも応用できるほど含蓄のある書物であることは疑いない。

とは言っても所詮専門書であり、中は具体的な戦争の分析とその考察で埋まっているので、実際に人生の教訓を読み取るのは難しいだろうが。自分はナポレオン戦争からWW1までの戦争に興味があるので、非常に興味をもって読めた。難しかったときのために解説本も図書館から借りてきていたが、全くの不要だった。このまま自分のバイブルになりそうだ。

なお、岩波の訳は『判断力批判』の人と同じで、『判断力批判』のときはあまりの酷さにめまいがしたが、今回はかなり正確に訳してある模様。不満なく読める上に、岩波文庫以外で買うと高いかみつからないかなので、特にこだわりが無い限り岩波でどうぞ。ちなみに、初めて戦争論を和訳した人は、意外にも森鴎外である。



戦争論〈上〉
  
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2007年02月25日

第95回「クトゥルフ神話ガイドブック」朱鷺田祐介著 新紀元社

クトゥルフ神話と言っても、自分の親しいほうから100人にアンケートしてみたとして、まず名前を聞いたことがある人が100人中5人くらいで、そのうち読んだことあるのは2人くらいなもんだろう。こんなものを知っているのは80年代以降のサブカルに詳しい人か、マニアックな英文学者だけだ。

だが、クトゥルフ神話はその知名度以上に影響力を持っている。この本にも書いてあるが、クトゥルフ神話は非常にサブカルやエロスと相性がいいのだ。設定好きが喜びそうなかっこいい単語羅列に、触手やグロの連発。「コズミックホラー」という言葉には、想像力をかきたてられる。まさに制作者のための神話と言っても過言では無いだろう。グノーシスに追いつく日も、遠くはないだろう。「大人のための中学生的妄想小説」と言い換えてもいいかもしれない。

この本の売り文句は「実際にはクトゥルフ神話の原典に読んだことがなくても、読んだかのような知識がつく」であり、優れたガイドブックである。よくぞこれだけ広範囲にわたるクトゥルフ神話の世界をまとめあげたものだ。デモンベインを載せている辺りには感動を覚えた。難点を挙げるならば想像力が重要なクトゥルフ神話のガイドブックで挿絵が少ないというのはあまり良くないことであり、その点で類書「図解クトゥルフ神話」に負けているかもしれない。まあ、どちらかを読めばガイドブックとしては十分だろう。


クトゥルフ神話ガイドブック―20世紀の恐怖神話
  
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2007年02月14日

第94回「絵画の発明 ジョルジョーネ「嵐」解読」サルヴァトーレ・セッティス著 小佐野重利監修 晶文社

謎の絵画、ジョルジョーネの《嵐》解読本。手がかりがさっぱり無く画家もダヴィンチほどには有名でない分、《モナ・リザ》よりも謎が多いと言えるかもしれない。タイトルの《嵐》からして謎であり、見た目通りのタイトルをつけるならどっちか言うと「嵐の前の静けさ」なんじゃなかろうかと思う。雷雲は遠い。

本書ではまず著者のスタンスを述べ、その次に研究史(解釈史)を説明した後、独自の解釈を書いている。その研究史もいろいろあるもので、ジョルジョーネの家族に始まり、ギリシア神話は当然にしてもゲルマン神話だの聖家族だの、ヨーロッパの象徴表現で一組の男女が登場するものなら何でも良しという状態になっている。しかしどの解釈もどこかしら無理があって、ばっちり決まらない。

20世紀にはX線照射の結果、下絵の時点ではもう一人女性がいたことが発覚。これにも何かしらの意味を付与すべきことからさらに混沌としてきているようだ。別の有名な美術史家アンドレ・シャステル曰く「《嵐》の新しい解釈が出ない年は無い」。

著者は結局(ネタばれにつき伏字)アダムとイヴではないかと言っているが、監修者あとがきで巻末に小佐野先生自身が「《嵐》の主題解釈史に決定打が出され、決着を見たとは、残念ながら到底言えない」と述べているように今一説得力には欠けた。しかしこの本で重要なのはもちろん《嵐》の研究史もそうだが、著者のスタンスである「図像解釈はジグソーパズルのように」ではないだろうか。整合性のある図像解釈を目指して、本書は重要な指針となるだろう。


絵画の発明―ジョルジョーネ「嵐」解読
  
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2007年01月25日

第92回「エロティシズム」渋澤龍彦著 中公文庫

日本人のエロティシズム権威といえば渋澤龍彦、この人だろう。バタイユのようなガチガチの哲学書ではなく、非常に平易でわかりやすい文章となっている。論文調ではないので、文献表もなければ注釈も無く、そういう意味では少々心もとなかった。そう思うようになったのは、自分が成長したと言っていいのだろうか。

内容は様々な方面について論考していて、ストリップショーについてだとか、同性愛についてだとか、ある意味予想通りの品揃えといえる。いかんせん昭和42年の文章なので、事実誤認だったり女性配慮が足りてなかったりと上野千鶴子が読んだら激怒しそうなことになってる。筆者自身後書きで「17年前の自分の文章の辛辣さに驚いた」と書いており(出版は昭和59年)、そもそもジェンダーという考え方の無い時代だった。これはこれでなかなかいい味を出している。

もちろん論考の中身もおもしろい。論考というか、自由な性の啓蒙書と言ったほうが、本人は喜ぶだろう。バタイユではとっつきにくい、難易度的に読めないなら、こっちを読んでみるといいかもしれない。ただ、論証の詰めが甘いので、マジメに読むものではないかもしれない。それも学術書ではないということで、勘弁してやって欲しい。


エロティシズム
  
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