2023年12月25日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(九州編)

97.阿蘇山
 いつもの歴史・文学語りは頼山陽から。頼山陽は1818年から1年間をかけて九州を周遊していて,阿蘇山も訪れたようだ。私事になるが,この間に長崎に旅行して訪れた料亭花月(当時は遊郭)に頼山陽は三ヶ月ほど滞在していたらしい。九州周遊の約四分の一をかけて滞在していたということになり,やはり長崎は学ぶものも遊ぶものも多かったのだろう。調べてみると大分(当時は豊後)の耶馬溪を命名したのも頼山陽と伝わっているそうで,豊後では広瀬淡窓とも会っており,わずか1年で吸収に残した足跡は多い。閑話休題,その他に『日本書紀』に早くも記述があることや,夏目漱石の『二百十日』の舞台であることが語られている。後者は存在自体を知らなかったのだが,夏目漱石は本作品に先立って阿蘇山に登っているらしい。作中の人物は登山に失敗しているのだが。
 実に深田はいざ阿蘇山に登ろうとしたが,「駅前に騒々しく群がる観光客を見ただけで,私はあやうく登山意欲を喪失しそうになった」となったのはいかにも彼らしい。観光客を避けて登ったのが大観峰だったとのことだが,面白いのは結局翌日「雑鬧に我慢して,観光バスで坦々とした舗装道路を登り,世界一と称するロープウェイに乗って労せずして噴火口の上縁へ到着した」と書いていることで,深田に雑踏を我慢しても見たいと思わせた阿蘇山の貫禄勝ちという趣がある。次に阿蘇山に行った際には「ここが深田に雑踏を我慢させた風景か」という感慨を持って眺望を確認したい。なお,そこからさらに山深くに入るとさすがに観光客が消え,中岳から見た稜線は霧氷に覆われていたそうだ(登ったのは早春)。なお,現在はロープウェイは運行を停止しており,バスが代行輸送を行っている。


98.霧島山
 1行目は,令和の御代からするとさすがに隔世の感がある「紀元節を復活するかどうか,二月十一日が近づく毎に問題になっている。」である。戦後直後の雰囲気が漂う。そこからしばらく高千穂峰の話題となり,「頂上には,有名な天の逆鉾が立っていた。」私はここにまだ登山を本格的に始めたばかりの頃に行ったが,装備が足りずに挫折した。いつか再挑戦したい。なお,深田は「もっともその逆鉾の史的価値についてはいろいろな論があった」「古代のものでないことだけは事実である」としているが,深田の執筆当時にはレプリカであることが確実ではなかったのだろうか。ついでに言うと坂本龍馬が引き抜いたという逸話を書いていないのは少し意外であった。深田が高千穂峰に登ったのは昭和14年,つまり皇紀2599年のことで,記念事業的に立派な登山道が整備されつつあったそうだ。1939年はまだ登山道を整備する余裕があった。
 深田は高千穂峰の前に韓国岳や獅子戸岳,中岳,新燃岳を登ってきたそうだが,現在では入山規制がかかっていてその半数は登れない。特に新燃岳は21世紀に入ってから断続的に噴火していて,向こう数十年は登れそうにない。興味深いことに,これら韓国岳などについての深田の記述は「それぞれの山頂から倦くほど高千穂の美しい峰を眺めた」の1行で終わっている。その後は再び高千穂峰の記述に戻り,なんとそのまま霧島山の章が終わるのだ。つまり,霧島山についての記述の9割は高千穂峰に費やされていると言ってよい。これは百名山としての大峰山の主峰が八経ヶ岳ではなく山上ヶ岳であるのと同じ理屈で,百名山としての霧島山の主峰は韓国岳ではなく高千穂峰ということになりそうだ。これに則るなら私はまだ霧島山を制覇していないことになる。困ったな……
 その高千穂峰についてだが,「日本の右傾時代には,不敬の心を抱いて高千穂峰に登ることも許されなかったが,今はそういう強制的な精神の束縛もなく」登れるようになったことを言祝いで山行記録を締めくくっていた。最後まで昭和の戦後直後の雰囲気が漂う章であった。


99.開聞岳
 日中戦争に出征していた深田が1946年に上海から復員した時,船から最初に見えた日本の風景が開聞岳だったそうだ。それは印象に残ったことだろう。開聞岳の名前の由来や歴史については,以前は「ひらきき」であったことや『延喜式』や『日本三代実録』に記録があること,9世紀の二度の噴火等,一通り触れている。
 深田は登ったのは戦前のことだったそうだが,すでに登山道は螺旋状に山を巻いていたようで,深田もこの工夫を褒めている。中腹ぐらいまでは密林で,上の方は灌木地帯で眺望がある点や,四周の風景に接することができる点も戦前と現在で変わらないようだ。山頂からの眺めは抜群であるが,南方の遠い島々だけは天候の加減で見えなかったことを嘆いている。奇しくも私が登ったのも12月で,やはり南方だけは見通しが悪かった。そういうものなのかもしれない。  

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2023年12月24日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(中国・四国編)

92.大山
 伯耆大山。「伝説的に言えば,大山はわが国で最も古い山の一つである」からいつもの歴史語りが始まり,大山寺が僧兵を擁して暴れていたことや,『暗夜行路』の最後の場面であることまできっちり言及している。山容について言及する部分では,「だいたい中国地方には目立った山が少ない。その中でひとり大山が図抜けて高く,秀麗な容を持っている」から始まり,けっこうな紙幅を費やして中国地方から選出した百名山がこの一座しかない理由を説明するかのごとく中国山地をけなしている。もっとも本人があとがきで氷ノ山が候補に入っていたことを書いているし,二百名山ではその氷ノ山・蒜山・三瓶山が入っているから,中国山地も惜しいところで一座だけになった。そう考えると,大山のページではちょっと中国山地をけなしすぎている印象である。
 大山の山容について言及するなら外せないのが,見る角度によって山容が大きく異なるという点である。深田もこれには驚いていて,西からは出雲富士と呼ばれるほどに整っているのに,別角度から見ると山頂が深く崩落していてむしろ鋭く切れ落ちている。深田も書いている通り,その壁面の美しさが伯耆大山の持ち味の一つだと思う。
  
93.剣山
 四国剣山。「わが国の山名で駒についで多いのは剣である」,そしてそのほとんどは山の形から来た名前であるが「四国の剣山だけは違う」。私もこれは以前から疑問であったし,登ったけど結局わからなかった。深田は調べて「安徳天皇の御剣を山頂に埋め,これを御神体としたから」という理由を挙げている。もちろん壇ノ浦で沈んだことと矛盾するが,地元の寺(円福寺)に残る言い伝えでは,平国盛(教経)が我が子と偽って壇ノ浦から安徳天皇を連れ出し,その際に草薙の剣も持ち出した。しかし平家再興ならぬまま安徳天皇が夭折したため,ご遺言に従って宝剣を奉納した……という矛盾を解消するための伝承が追加されているらしい。四国剣山は公式サイトの電波がかなり飛んでいるのだが,その原因の一端をここに見た気がした。深田も「日本歴史で平家没落ほどロマンティックな色彩を帯びたものはない」と書いているが,ついでに日ユ同祖論まで呼び寄せることはなかっただろうに。
 四国剣山は山容が丸みを帯びている上に現在ではリフトが運行しているから,百名山ではトップクラスに登りやすい山である。一方で麓までのアクセス性があまり良くないのだが,深田が登った当時は輪をかけてそうだったようで,祖谷川沿いを延々と歩かされて「あまりに長い」と愚痴をこぼしている。歴史と風格ある百名山としては珍しく,深田が「人里から剣山を仰ぐ事は出来ないのであろう。それほど奥深い山と言える」と書いている通り,標高もさしてあるわけでもないのに,よく古くからの信仰の山となったものだ。一歩間違えれば大台ケ原や美ヶ原のような扱いだったのではないか。そうならなかったのはやはり平家の落ち武者伝説の影響はありそうで,この際胡散臭いのは仕方がないと割り切らなければいけないのかもしれない。
 

94.石鎚山
 歴史・文学語りは,山部赤人や西行法師が「伊予の高嶺」と詠んでいて和歌の題材となっていたことや,『日本霊異記』には早くも名前が挙がっていること,役行者が登ったらしいことを語っている。なお,山部赤人は道後温泉でその歌を詠ったのだが,実際には松山から石鎚山が見えないので別の山の可能性もあるとのこと。
 石鎚山といえば長大な四本の鎖が有名であるが,深田の記述は意外にもあっさりしていて,ほぼ「上に行くほど鎖は長くなり,急峻さも増してくる」と書いているのみである。そういえば試しの鎖は言及がなかった。一の鎖以降の三本は少なくとも1779年に掛け替えた記録が残っており,江戸時代中期頃からあったようだ(現地の看板には江戸時代初期に最初に掛けられたと説明がある)。試しの鎖については調べてみたところ昭和7年に掛け替えた記録があるようなので,少なくともそれ以前からあったのだろう。深田が登った当時にはまだ存在していなかったわけではなさそうであるが,記述から漏れた理由はなぜか。
 深田は天狗岳まで登った後に下山してバスで帰ったそうで,バスの車中から石鎚山を仰ぎ見て「今日,あの頂上に立ったとは思えない,遥かな崇高な姿であった」と述懐している。これは登山が好きな人なら大いに同意できる感慨で,下山した後の帰路で山を仰ぎ見るたびに,さっきまであそこにいたとは信じられないと思ってしまう。人は半日で意外と歩けるものなのだとか,人類文明の領域である麓と自然の只中である山頂との対比等で感情が湧き出てくるのである。  
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2023年12月21日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(北陸・関西編)

88.荒島岳
 深田は石川県大聖寺(現在は加賀市)の出身だが,「母が福井市の出だった関係から,中学(旧制)は隣県の福井中学へ入った」。そのため,荒島岳は深田が中学生の頃から知っていた山だが,実は長らく登っておらず,初めて登ったのは『日本百名山』の執筆から数年前とのことであるから1950年代のことだろう。荒島岳は深田が故郷の山だから選出されたのだと言われがちだが,実は大して登っていない山だったりする。とはいえ,実は深田自身が「もし一つの県から一つの代表的な山を選ぶとしたら,という考えが前から私にあった」として,そこから荒島岳と能郷白山で悩み,荒島岳を県代表とした……と全く隠す気が無く書いている。直接明言した文ではないが,福井県から一つも百名山を選出しないわけにはいかなかったと解釈しうる。
 ちょっと面白いのは,中学の頃から麓から立派な山容だと眺めていたことが長々と述べられた後,しかしながら「千五百米程度の山へ登るために,わざわざ越前の奥まで出かける余裕はなかった」などと最近まで登らなかった言い訳を述べ,然る後に突然,上述の県代表論を語り始める。それで4ページ中のほぼ3ページを使っていて,いつもの山名や歴史・信仰についての語りが全くない。例によって山行記録は最後の半ページのみで,眺望では白山が神々しいほど美しかったと述べている。私が登った感想としてもその点には同意するが,深田がしきりに言う麓から見た山容の良さや品格はあまり感じられなかった。『日本百名山』の本項を読んだ結果,やはり故郷びいきで県代表として選出したという疑念は晴れなかったどころか,深まってしまった。


89.伊吹山
 伊吹山の章は東海道線の車窓から見えることから始まり,いつもの文学・歴史語りが始まる。当然ヤマトタケルの伝説に触れているが,「その伝えから頂上に日本武尊の石像が立っているが,尊にお気の毒なくらいみっともない作りなのは残念である」と書かれている。私もその石像を頂上で見ているが,確かにあれは残念なヤマトタケルの像で,深田が登った頃からいて直されていないことに少し驚いた。いつから立っているのか気になるが,1分で調べた範囲ではわからなかった。大体のことは褒める深田が「みっともない作り」と言うレベルの石像,さすがに作り直したほうがいいのではと思うが,少なくとも60年以上は経っているわけで,残念な姿のまま文化財になってしまった感もある。(追記)調べてくれた人がいた。大正元年11月21日に開眼供養が執り行われたとのこと。立って110年以上も立っているようだ。
 当然,スキー場にもセメント工場にも言及がある。もちろん伊吹山を騒がしくするものとして文句を言っている。深田は「頂上に密集しているたくさんの小屋を見ただけでも,夏期の繁盛ぶりが察しられる」と書いているが,現在の伊吹山山頂で経営している小屋は5軒で,当時はこれより多かったのか同じなのかが気になるところ。なお,伊吹山ドライブウェイが通って誰でも山頂まで行けるようになったのは1965年のこと,『日本百名山』発刊の翌年のことで,執筆当時にはまだ計画すら無かったか,全く触れていない。さらに騒がしくなってしまうので,深田には厭わしい出来事か。
 山頂からは「元亀天正の世」の古戦場として姉川・賤ヶ岳・関ケ原が見える他,鈴鹿山脈,琵琶湖と比叡山等も見えるが,深田が第一に見たのは白山だったようだ。伊吹山から白山はけっこう見えにくかったような覚えがあるが,それでも白山を探してしまう辺りに深田の白山への愛がある。ひょっとして荒島岳を選出したのは白山が一番綺麗に見えるという一点だけで他は後付なのでは……


90.大台ケ原
 大台ケ原は大峰山と違い,明治になってから開かれた山である。人が踏み入ってからの歴史が浅い山なので深田は何を書くのかと思ったら,享保六年に蘭学者の野呂元丈が薬草採取のために登った記録があるというのを引いていた。探してみれば登った人がいるものだ。
 大台ケ原の特徴といえば年間4,000mm超の降水量であるが,深田も「大台ケ原に登って雨に遇わなかったら,よほど精進のよい人と言われる。」と書いている。その後,深田自身は「素晴らしい天気に恵まれた」と書いているのだが,深田さんはそんなに精進のよい人でしたっけ……? 深田自身も自覚があって「精進がよかったからではなく,選んだ季節が雨期を外れていたからであろう」と書いている。私自身が登った時も快晴に恵まれたので,どうも精進がよいかどうかは関係がなさそうだ。なお,「精進の(が)よい」でググるとほぼ大台ケ原についてのページしか出てこなかった(いずれも『日本百名山』からの引用)。現在では「精進のよい」という語はほぼ大台ケ原の天気についてしか使われない言葉と言っていい。
 深田は大台ケ原の山頂について「秀ヶ岳」と書いているのだが,現在の呼び名は「日出ヶ岳」である。ググるとこれまた『日本百名山』からの引用記事ばかりが見つかり,旧名なのか別称なのか,深田の誤記なのか調べはつかなかった。あまり誤記には思えないので旧名のような気はする。
 大台ケ原の牛石ヶ原には神武天皇の銅像が立っていて,これが雰囲気に合わず異常に浮いているのだが,1928年設置と古く,当然深田も見ていて一応存在に触れているが,感想は特に書いていなかった。伊吹山のヤマトタケルもそうだが,少なくとも私は神話の由来があるからと言って雰囲気に合わない像を立てるべきではないと思う。しかもこの神武天皇は記紀で大台ケ原に登ったとされているわけではなく,伝説・神話としてさえも信憑性が薄い。まあ立てたのが神道系の新興宗教の開祖なので突拍子のなさについては仕方がないのかもしれない。
 深田は大台ケ原に二度登っていて,二度目は大台ヶ原ドライブウェイが通っていたから1961年以降の登山である。行きはこれを利用したそうだが,帰りは(おそらく喧騒を嫌って)大杉谷から下山したそうだ。美しい渓谷で知られる長い登山道であるが,深田に「渓谷の美しさは日本中で屈指といっていい」とまで言わせている。興味はあったが,やはり計画を立てるべきか。


91.大峰山
 私が深田久弥の『日本百名山』に本格的な興味を抱いたのは,大峰山に登った時である。下山後に宿泊した洞川温泉のあたらしや旅館で,廊下に深田久弥の色紙が飾ってあり,同行者と「何か縁があるのかな」と話していたところ,仲居さんに「深田さんはここに泊まって山上ヶ岳に登られたのですよ」と返された。その後,夕飯の牡丹鍋に舌鼓を打っていると,古株の従業員が話しかけてきて,深田久弥の思い出話を聞かせてもらい,なんと深田の宿帳まで見せてもらい,「深田は山上ヶ岳こそ大峰山だと考えていた。八経ヶ岳はただの最高峰でしかない」と熱弁を聞いた。これが非常に印象に残ったのであった。あたらしや旅館は深田が泊まった宿であることを全然アピールしていないのだが,もったいないのでもっと宣伝すべきだと思う。
 
 閑話休題。日本人の登山としては最古の山なだけあって書けることが多すぎるためか,歴史パートは役行者が開山したことから書き始めて存外すぐに終わる。その中で確かに「(山上ヶ岳が)大峰山の代表と見なしていいだろう」と書いている。ただし,修験道の道場としての大峰山は山脈全域であって,特定のピークではないことも強調していた。
 山行記録について,深田は「泉州山岳会の仲西政一郎さんの案内で大峰山を訪れた」と書き始める。あたらしや旅館の宿帳にはこの仲西政一郎氏の署名もあり,確かに二人で泊まっていたのが確認できる。私は宿帳を見てから『日本百名山』を読んだので順番が逆になってしまったが,『日本百名山』を読んでから宿帳を見た方が感動するだろうと思う。なお,この仲西政一郎氏は父親も当人も修験者(山伏)であった筋金入りの登山家であり,関西の登山ガイドを多数執筆したことでも知られる。
 そうして深田は洞川温泉を出発して山上ヶ岳に登り,「女人不許入」の石標から入って洞辻茶屋,「西の覗き」と見て山頂の宿坊に泊まった。翌日に山頂を踏んだ後に南下し,大普賢岳・行者還岳・弥山と縦走して,八経ヶ岳の山頂から下山している。確かに山上ヶ岳以外の記述は淡白であった。なお,修験道としての縦走路はまだ南に続いていたが,「私はその最高峰を踏んだことに満足して山を下った」そうなので,深田の本質は登山家であって修験者ではないのである。  
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2023年12月15日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(金峰・瑞牆・木曽駒・北岳)

68.金峰山
 荻生徂徠が金峰山に言及して「最も険しく」「天を刺すもの,金峰山なり」と述べていると引用しつつ,「漢文口調の誇張であって,甲府盆地から仰ぐ金峰山は決して嶮峻といった感じではなく,むしろ柔和で優美である」と評している。これは深田の意見に賛成で,金峰山は2599mの高峰ながら周囲の山も高く(『日本百名山』では2595m),山塊の中心にいるどっしりとした山である。荻生徂徠は誇張したというより,何を見てそう述べたのか,そちらの方が気になってしまう。著書の『峡中紀行』は一応甲斐国を巡って書かれたものらしいので,実地に踏み入れているはずである。
 荻生徂徠への指摘はまだ続く。彼は金峰山の名前の由来について「頂上はみな黄金の地であって」「登山者は下山に際してワラジを脱いではだしで帰らねばならない」としているそうなのだが,金峰山は大峰山の別称からとられた名前であって蔵王権現信仰に由来するというのが正しく,深田久弥も当然このことを指摘している。なんというか,荻生徂徠,『峡中紀行』については相当に雑なことしか書いておらず全く信憑性が無い。江戸中期の知識人なら金峰山の名前の由来くらいは日本仏教史の基礎知識として知っていて然るべきはずで,荻生徂徠の教養に疑問を持ってしまった。他の本でも適当こいてない? 大丈夫?
 例によって深田自身の山行記録は短いが,関東大震災の翌年に登ったというから1924年,一高の生徒だったとのことである。若くて経験が浅い上に一人旅であったから,長距離登山を散々迷いながらこなしたのがわかる記録になっている。それにしても当時は昇仙峡から登ったそうで(そもそも甲府から昇仙峡も歩いている),地図で確認してもらえばわかるが,尋常じゃなく遠い。当然,富士見平にも大弛峠にも言及はない。


69.瑞牆山
 特徴的な山名であるので,山名蘊蓄が長い。昔の人の命名は笊や槍などシンプルであるから「昔の人はこんな凝った名前をつけない」。そこで深田は瑞牆山の由来を熱心に調べたが,結局わからなかったため,深田にしては珍しく憶測で書いている。山が三つ連なっていることから三繋ぎ(みつなぎ),そこから転じて「みずがき」の音となり,最後に風流な漢字が当てられたのではないかという。それに対し北杜市のホームページは瑞牆山の岩峰群が神社の周囲の垣根(つまり玉垣)に見立てられ,そこから転じたものではないかとする説を唱えている。その他にも説がいくつかあり,真相はわからない。ともあれ深田は「由来はどうあれ,瑞牆という名は私は大へん好きである」と気に入っている。
 瑞牆山は金峰山に比べると記録に乏しいが,深田は金峰山を見つけた修験者が瑞牆山を見逃すはずがないとして,実際には瑞牆山も古くから知られていたのではないかとも推測している。これは私も同感で,深田や私でなくとも巨岩があったら大体修験者がいる印象は登山者なら誰しも持っているのではないだろうか。言われてみると記録に乏しい方が不思議である。また,深田は瑞牆山の美点として「岩峰が樹林帯と混合しているところ」を挙げており,これにも強く同意する。樹林帯から突き出るように岩峰が伸びているのが美しいのである。
 なお,瑞牆山の登山道は当時と現在でほぼ変わらない経路であったようだが,それでも富士見平の名前は出てこなかった。深田が書き落としているだけか,『日本百名山』出版後に命名された比較的新しい地名ということか,どちらか。


74.木曽駒ヶ岳
 とりあえず山名の由来から入るいつもの構成。駒ケ岳という単純な名前ではあるが,意外と様々な説があるらしい。深田が言う通り,「それらよりも,岩や残雪によって山肌に駒の形が現れるという説」が最もそれっぽい。深田はそれ以外に,日本は古来山脈を竜に見立ててきたが,「竜は駒に通じる」ので,それを由来とするのではないかという説も押している。木曽駒ヶ岳は雨乞い祈祷が盛んであった山であるから,あながち外れてもいないのかもしれない。
 木曽駒ヶ岳はロープウェーが無かった時代でも比較的登りやすい3000m級だったようで,江戸時代から高遠藩による調査登山の記録が残っており,庶民にも集団登山の文化が及んでいた。このため1913年には麓の小学校が教職員と小学生合わせて37名の集団登山を行い,暴風雨に遭って遭難し,8月であったにもかかわらず校長以下11名が凍死するという事件まで起きたことを紹介している。長野県の義務教育課程には学校行事で集団登山の風習があることは聞いていたが,1913年からあることにも,こんな事件があっても続いたことにも驚きである。いや,小学生に3000m級の山を麓から登らすな。例によって山行は短く,4ページ目の半ページも使っていないが,四方の眺望の絶景を褒め称えている。


80.北岳
 「日本で一番高い山は富士山であることは誰でも知っているが,第二の高峰はと訊くと,知らない人が多い」という書き出しで始まる。深田もこのネタが現在まで擦られ続け,むしろ北岳が有名になってしまったとは思うまい。なお,『日本百名山』では北岳が3192mとなっているが,現在では3193mである。北岳は現在でも隆起が続いていて,年間約4mmずつ標高が高くなっている。100年で40cmとするとなかなかのペースであり,西暦4000年頃には3200mの大台に乗っているかもしれない。
 深田は北岳も白峰三山として意外と歴史があることに触れた上で,にもかかわらず「あまり人に知られていないのは,一つにはこの山が謙虚だからである」と擬人化して説明している。確かに「奇矯な形態で,その存在を誇ろうとするところもない」。高潔な気品があるとして,「富士山の大通俗に対して,こちらは哲人的である」と褒めちぎっている。深田は本音では富士山よりも北岳の方が好きなのだろう。
 それだけに,夜叉神峠から広河原までの車道が完成し,難易度が大きく下がって簡単に登れるようになったことについて,「喜ぶべきか,悲しむべきか,私は後者である」と率直に述べている。その広河原から登った身として言えば,いや広河原からでも十分に険しかったし,北岳まで来てしまうような人はもう深田の言うところの大衆とは言えまい。富士山や天城山などに比べれば,まだまだ全然神秘性が剥ぎ取られていないのが北岳だと思うのだが,どうだろうか。  
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2023年12月14日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(雲取・大菩薩・富士山・天城)

66.雲取山
 深田久弥は都会の喧騒が嫌いすぎて,「煤煙とコンクリートの壁とネオンサインのみがいたずらにふえて行く東京都に,原生林に覆われた雲取山のあることは誇っていい」とよくわからない褒め方をしている。また「雲取山は東京から一番近く,一番深山らしい気分のある二千米峰だけあって,高尾山や箱根などのハイキング的登山では物足りなくなった一が,次に目ざす恰好な山になっている」とする。これは現代でも変わっていない。かく言う私も初めて山小屋に泊まったのはこの雲取山だった。一方で,「一番やさしい普通のコースは,三峰神社までケーブルカーであがって,それから尾根伝いに,白岩山を経て達するものであろう」としている。現在では鴨沢から登っていくのが一番楽だと思われるので,当時は鴨沢ルートが荒れていたものと思われる。奥多摩を手に入れた東京都が,過保護気味に登山道を整備するとは,深田も予想していなかっただろう。それでハイキング気分の登山客が増えるのは深田の望むところでは無かっただろうが,雲取山については難易度の問題で現代でも深山の雰囲気を保っているように思う。なにせ登山道でクトゥルフ神話が打ち捨てられている程度には深山である。
 ついでにどうでもいいことに気づいたが,深田久弥は竈門炭治郎とほぼ同時代人で,約4歳差で炭治郎が年上と推定される。炭治郎が鬼殺隊解散後に故郷に戻ったとしたら,学生時代の深田久弥とすれ違っているかもしれない。創作物と現実を混同するのはやめよう。
 深田は三条の湯に前泊し,そこから登り始めて「山の家」(後の雲取山荘)で一泊,それから富田新道(「山の家」の主人富田氏が開いた新道)で下山したとのこと。富田新道は知らなかったので調べてみたら,現在では登る人がほとんどいない道のようで,スタートから2時間も林道歩きが続く。それは絶えるわけだ……それが使われていたということは,前出の三峰からのルートが一番易しいと言われていることも合わせるに,当時はよほど鴨沢ルートが勧められない状態だったということか。非常に意外であるが,どの程度荒れていたのか気になる。


70.大菩薩嶺
 小説『大菩薩峠』は1913年から1941年にかけて連載された。大菩薩嶺もその影響で人気が高まっていくことになるが,深田曰く1923年に登った際には他の登山者に全く出会わなかったという。『大菩薩峠』で大菩薩峠が舞台だったのは最序盤のみであるが,1925年に作者の中里介山が大菩薩峠を訪れているそうなので,そこから人気が出たということだろうか。深田自身は喧騒が嫌いなので,この件はあまり紙幅を割いていない。比較的有名な話であるが,深田は今の大菩薩峠は『大菩薩峠』が舞台とする幕末当時の場所から少し南にずれていることにちゃんと触れている。一点補足すると,真の大菩薩峠は現在「賽の河原」と呼ばれていて,大菩薩峠から大菩薩嶺に向かうと自然と通る。また,樋口一葉が『ゆく雲』で大菩薩嶺の名を挙げていて,文学史上,中里介山よりもかなり早いことを指摘しているのは文人としての深田久弥の面目躍如だろう。
 大菩薩嶺は非常に難易度が低い山であるが,昭和の初期からそうだったようで,深田は「初心者にとってまことに恰好な山」「東京から日帰りができる」「安全なコースが開かれている」と記している。元は青梅街道が通っていたわけであるから,街道の中では難所だったとはいえ,ハイキングコースとして見れば自然と易しいという話になるか。
 深田は登山道入り口に雲峰寺という国宝の寺院があると記しているが,残念ながら現在はさらに近くに登山道入り口ができたため,わざわざ雲峰寺に寄る登山客は少なかろう。実は私は図らずも下山時に雲峰寺に立ち寄っているのだが,がんばって寄るほどの価値があるかと問われると微妙であると思う。また,雲峰寺の建物群は重要文化財である。国宝ではない。これには少し事情があり,戦前は国宝と重文の区別がなかったので全て国が指定する文化財は全て国宝だったのだが,戦後に文化財保護法が制定されて,旧国宝は改めて国宝と重文に分けて指定された。これは1949年のことなので,深田が『日本百名山』を執筆するよりも前の出来事なのだが……調べずに戦前の記憶に頼って書いたか。『日本百名山』では珍しい明らかなミスだ。


72.富士山
 饒舌で4ページに文章を収めるのに苦労していそうな深田にしては珍しく,冒頭「この日本一の山について今さら何を言う必要があるだろう」から始まっている。と言いつつも,役行者小角に都良香に山部赤人,松尾芭蕉に池大雅に葛飾北斎を引いて歴史を語り,紀行文『日本百名山』としての役割を果たしている。「一夏に数万の登山者のあることも世界一だろう」と書いているが,コロナ前は約20万人に達していた。まさに「これほど民衆的な山も稀である。というよりも国民的な山なのである」。
 深田は富士山の特殊性を「富士山ほど一国を代表し,国民の精神的資産となった山はほかにないだろう」「おそらくこれほど多く語られ,歌われ,描かれた山は,世界にもないだろう」として,もっぱら日本人の精神的土壌になったことについて紙幅を費やしている。実際に富士山はその価値が認められて文化遺産として世界遺産となったのだった。それだけ卑俗的な山ということになるが,深田は「結局その偉大な通俗姓に甲(かぶと)を脱がざるを得ない」と降伏している。俗世を嫌う深田にここまで言わせる富士山はやはり別格である。ただし,深田はとうとう富士山のページでは自らの山行について一言も言及がなかった。歴史や文学を語って紙幅を消費しきっただけかもしれないが,深読みするなら,実はやはり世俗にまみれすぎていて富士山のことはそれほど好きではないのかもしれない。


73.天城山
 深田は天城山について,戦前は要塞地帯だったために地図が無かったことや,信州や甲州の山に比べて惹かれなかったことから,長らく興味が持てなかったことを吐露している。しかも,終戦後に地図が出るや否や世俗に染まっていきそうなことを危惧している。それで最初の1ページが終わり,2ページ目で伊豆半島が活発な火山活動で形成されたことに触れ,3ページで早々に山行記録に入ってしまう。……あれ,『伊豆の踊り子』や『天城越え』(松本清張)は? 下田街道は? 歴史や文学にほとんど触れていない点で他の山と一線を画している。
 山行記録も山に入るまでが長く,3ページ目は概ね伊豆半島や大室山の感想であるから,実質的に4ページ目だけである。しかも深田が登ったのは12月下旬,ひたすら寒かったようで,早々に下山して温泉に入ったことで終わっている。また,「天城のいいことの一つは,見晴らしである」としているが,現在の天城山は樹林帯に埋没していて,万二郎岳や万三郎岳はあまり眺望が良くない。
 実は私自身も天城山を登って百名山にたる良さが無いという感想を持ったのだが,読んでみると深田もそこまで思い入れがあって百名山に入れたようには全く思われず,いわゆる当落線上の三十座の一つに違いなかろう。百名山からクビでいいのでは。  
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2023年12月12日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(長野県編)

43.浅間山
 浅間山が常に煙を吐いていることが強調されているが,現在では言うほど煙を吐いていない。とりわけ私が登った時には全く煙が出ていなかった。もっとも,だから噴火警戒レベルが下がっていて前掛山まで登れたのではあるが,深田が登った当時はどれだけ煙が出ていようがきっちり登頂できたのだろう。おおらかというか人命が軽い。なお,深田が浅間山に登ったのは高校1年生の時だったとのことで,案の定「絶頂の火口壁で噴煙に襲われて逃げまどった」と述懐している。挿絵の登山地図には前掛山の表記が無い。浅間山に直接登れた当時は,前掛山に登る人はいなかったということか。
 また当時は峰の茶屋(軽井沢側)から登るのが一般的だったところ,深田は小諸から登ったとのことである。現在では峰の茶屋からの登山道は封鎖されていて,小諸側か嬬恋村からしか登ることができない。私が登ったのも小諸側からであるが,天狗温泉浅間山荘で一泊してからの登山であった。深田が登った当時はまだそこに旅館がなく,小諸市街から「夜をかけて」登ったようなので大変である。調べてみると,あそこに浅間山荘が建ったのは1957年のことで,深田が高校1年生の時には存在していない。


60.御嶽
 他の霊山が一般登山に飲み込まれたのに対して,御嶽山だけは宗教登山の風俗を濃厚に保っていることを強調しているのは,いかにも深田らしい記述である。これは数十年後の現在では評価が難しい。御嶽も随分と一般登山者が増えていて,深田が言う一般登山者が「疎外感のような感じ」ということは完全に無くなっている。それでも他の山に比べると信仰篤く,宗教色が残っているようにも思われる。深田は御嶽の宗教的モニュメントの多さを指摘していて,これは2014年の噴火も乗り越えて,今なお残っている。というよりも石碑の多さが御嶽山をまだ信仰の山たらしめている最後の砦と言えるかもしれない。あるいは逆に,そうした膨大な石碑が生み出す一種異様な雰囲気自体か観光の対象と化していて,やはり信仰は観光に飲み込まれているとも言えよう。
 深田が登った当時と現在の最大の違いはやはり2014年の噴火である。浅間山や磐梯山など他の火山では噴火に言及があるが,御嶽山のページでは一切言及がない。どころか御嶽が火山であること自体に言及がない。なにせその頃の御嶽山は死火山と思われていて(死火山という概念自体が21世紀には滅んでいる),御嶽山の小規模な活動が見られたのは1979年のことであった。2014年の大噴火は当時の登山家にとって青天の霹靂であり,だからこそ大きな被害が出たのである。死後40年以上も経ってからの出来事であるから言及できるはずがないことはわかっていても,微妙な違和感がぬぐえない。もうこれほど牧歌的に御嶽を語ることができなくなったわけで,『日本百名山』で最も時の流れを感じるのはこの御嶽の部分かもしれない。


61.美ヶ原
 古来の日本で高原を愛する趣味はなく,もっぱら西洋趣味として導入されたが,それに最も適合するのが美ヶ原であるという。確かに修験にも向かず酪農の生業もなかった日本人は高原を扱いにくかったのかもしれない。深田はここで西洋趣味としての高原の事例としてセガンティーニの絵を引いており,ここは昭和の文人らしい。実際に美ヶ原は名前負けしない高原としての美しさを持ち,私も行ってみて驚いた。命名の勝利である。当然このような名前が古くからあったわけではなく,昭和になってからとのことで,深田が訪れたのは命名されてからさほど時間が経っていない時期であった。何しろ美しの塔が建つ(1954年)よりも前のことであり,それだけに深田は全く他の登山者と会わずに高原を独占したそうだ。その後すぐさま世俗化してしまったため,『日本百名山』執筆当時の美ヶ原の様子を嘆いている。私は深田と違って世俗化にこだわりはないが,人っ子一人いない美ヶ原を歩く気持ち良さについては羨ましくなった。


62.霧ヶ峰
 深田は戦前に一夏を霧ヶ峰の山小屋に逗留して過ごしており,隣の部屋に小林秀雄がいたことを述懐している。天気が良ければ二人で歩き回ったそうだ。小林秀雄の登場は谷川岳に続いて二度目である。深田は霧ヶ峰について,登る山ではないが「遊ぶ山」としては最高だと評している。それだけに霧ヶ峰は蘊蓄よりも山行記録が長い珍しいページになっている。車山や八島湿原はもちろんのこと,霧ヶ峰の山行記録は細かな地名にも触れていて詳細である。
 霧ヶ峰は美ヶ原と違って歴史が古く,旧御射山で源頼朝が狩猟を催した記録があることに触れている。深田はそこで「大昔の土器のかけらを拾うことができた」そうなのだが,実際に旧御射山は鎌倉時代の遺跡が発見された。発掘調査が進む前だったので簡単に拾うことができたのだろう。また旧御射山を散策中に諏訪明神を祀った小さな祠を見つけたと述べているが,その小さな祠は現存している。まさかあんな小さな社で深田の追体験をしていたとは思わなかった。


63.蓼科山
 『日本三代実録』にも登場する古い山であり,文人,特に『アララギ』の詩人に好まれ,斎藤茂吉らに詠まれていたことが紹介されている。立科,諏訪富士,飯盛山,高井山,女の神山と様々な呼び名があるが,富士山に似た円錐形の形に由来しているものが多いとのこと。深田は直接触れていないが,蓼科という名前自体,蓼(立)は切り立っていること,科は階段の意味でやはり円錐形に由来している。
 個人的には蓼科というとビジンサマの印象が強いのだが,何にでも言及する深田ながらこれには言及が無かった。怪異には興味が薄かったか。ついでに言うと蓼科や八ヶ岳の長野県側は縄文時代の遺跡が多数見つかっているが,八ヶ岳のページを含めてそれにも言及がない。調べてみると,戦前から発掘が進んでいたのは尖石遺跡のみで,他の遺跡は1950年代以降が多かった。とすると,深田には蓼科や八ヶ岳に縄文のイメージが無かったと思われる。
 例によって当人の山行記録は短く,最後の1ページのみ。北側斜面の蓼科牧場から登っている。現在の蓼科山登山は南側斜面が主流であるが,偶然にも私も北側から登った。やはり「頂上は一風変わっている」として,「大きな石がゴロゴロころがっているだけの円形の台地で,中央に石の祠が一つ有り」とのことなので,あの独特の景観は60年以上前から変わっていないようである。ここでも小さな祠は私が見たものと同一と思われ,ああいうタイプの小さな祠は意外と耐久力があり,数十年単位で残るものらしい。小さな祠に一々言及する深田のおかげで検証できている。  
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2023年12月11日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(北関東編)

30.谷川岳
 最初の話題は当然,遭難死者である。『日本百名山』が書かれた昭和30年代ではまだ二百数十人だったようだが,2023年現在は800人を優に超えている。調べみると,ちょうど昭和30〜40年代に最も死者が出ており,しかもその多くが一ノ倉沢の登攀と積雪期での凍死である。21世紀に入ってからは危機意識の高まり,装備の改良等により死者が大きく減っている(それでも年に2,3人ずつの死者が出ている)。百名山ブームが死者を増やしたとあっては深田もやりきれない。
 深田が紹介していて面白かったのは,山名に関するエピソードである。実は真の谷川岳はトマの耳でもオキの耳でもなく俎瑤噺討个譴觧海任△辰が,国土地理院の前身にあたる機関が5万分の1地図を作った際に,それまで谷川富士・薬師岳と呼ばれていた両耳を指して谷川岳と記載し,それが定着してしまったのだという。その俎瑤呂匹海砲△襪里とYAMAPの地図で調べてみると,トマの耳からかなり西に位置し,現在では登山道が点線(バリエーションルート扱い)になっていた。訪れる人もほとんどいないのだろう,山行記録を探して読んでみると藪こぎの痩せ尾根であった。なかなか後世への影響が大きいミスであるが,俎瑤鷲弦發1886mとオキの耳より約90m低く,天神峠から一ノ倉岳に続く谷川連峰からは少し外れた場所に位置しているから,こちらが主峰と言われても納得しがたい。国家機関が勘違いしたのもやむを得ないように思われた。仮にミスが無かったとしても将来的に両耳が主峰扱いされるようになっていったのではないか。
 自らの山行記録として,深田は1933年に小林秀雄を連れて谷川岳に登った思い出を書いている。二人の関係を全く知らなかったので調べてみると,東京帝大の一学年違いで深田は1926年に文学部哲学科,小林は1925年に仏文科に入学している。雑誌『文學界』を小林が立ち上げると深田は編集委員に誘われているし,谷川岳以外に八甲田山・霧ヶ峰・鳳凰三山・鹿島槍ヶ岳・八ヶ岳も二人で登っているから相当に親しい。なお,登山中の小林秀雄は深田の指示に従順だったそうで,小林秀雄は中学生時代に雲取山に登って遭難しており,それがトラウマになっているのが理由だろうと論じたブログも見つかった。まあそうでなくとも登山中に先達の指示に従わないと普通に死ぬから,小林も従順になるだろうが,従順な小林秀雄の姿はどうも想像できない。


36.男体山
 深田は男体山について,縁起に紙幅を割いている。胡乱なものが多い日本の山の開山記録において,「一番実証性のあるのは,日光の男体山である」という書き出しで始め,4ページ中の丸2ページを費やしている。782年,勝道という修行僧が登頂に成功したことが空海により『性霊集』に書かれており,その記述がかなり詳しいので,深田も紹介したくなったのだろう。日本に近代登山の概念が導入されたのは明治になってからであるが,空海によれば勝道は登頂に成功して「一たびは喜び,一たびは悲しみ,心魂持し難し。」と感じたようである。深田が指摘するように,これは近代登山的な精神だろう。
 元の名前は二荒山であり,補陀落が由来であろうことを紹介した後,短く自らの山行を書いているが,登ったのは1942年のことらしい。思い切り戦時中である。「非常に急峻で,湖畔から頂上までひたすら登りづくめ」との評である。確かに登りづくめなのだが,他の百名山と比べて相対的に急峻かというとそこまでではないと思われ,また当時と今で登山道が変わっていないとも思われるので,ここは深田久弥の感覚がわからない。


37.奥白根山(日光白根山)
 まず驚いたのは,深田が日光白根山について「注目する人は極めて少ない」と書いていることである。当時は人気が無かったのか。また「日光側から登る人が大部分であるが」と書いているのも現代とは異なる。深田は上野(群馬)側に史跡が多いことに注目して,こちらが表口だったのだろうが,現在では廃れてしまったと指摘している。それがスキー場ができてロープウェーができて,すっかり群馬側から登るのが主流になろうとは,深田も想像していなかった。
 深田自身は日光側から登っていて,珍しくも山行記録が4ページ中2ページと長い。山頂付近について「どこを最高点とすべきか判じ難い」とし,火口跡が多く,「岩石の小丘が複雑に錯綜している」。「その丘の一つに貧弱な小祠があって,白根権現が祀ってある」とあり,山頂の様相もこの小祠も,私も見覚えがある。下山は群馬側に進み,「七味平という気持ちのいい小草原まで下ると」という記述があるが,七味平は現在では七色平と呼ばれている。名前が変わったのか誤植か判断がつかないが,なんとなく誤植ではないかと思う。しかも現在は言うほど平でもなくほぼ樹林帯になっているから,日光白根山の群馬側は深田が登った時とは相当景色が違うのではないか。
 余談になるが,自分が初めて『日本百名山』を読んだのは日光白根山登山の際に泊まった丸沼高原のペンションの蔵書であった。ワインで酔った頭でも意外と気楽に読めたことで,日光白根山登山とともに印象に残った。


44.筑波山
 深田久弥が標高1500m以上という縛りを破って入れた山の一つ。しかも深田が嫌った世俗化した観光地の山である。それを押してでも百名山に入れたのは,深田曰く「歴史の古いこと」であるという。なにせ『常陸風土記』に記録がある。そこには富士山をディスりつつ筑波山は雪が降らないことを称揚するエピソードが書かれているらしいのがちょっと面白い。筑波山は登りやすすぎるためか,古くから宗教登山ではなく庶民による遊楽登山の対象であり,女性は筑波山で男性から結婚を申し込まれる風習まであったようだ。だから世俗的なのは当たり前……というのが深田の立てている理路である。なるほど,であれば現在の筑波山が格好のデートスポットになっているのは歴史的に正しい。
 また,深田は東京から筑波山が見えたことを挙げ,関東平野という単位で考えれば筑波山は案外高い独立峰であると指摘している。しかし,現在の東京から筑波山を見るのは難しい。深田が大学生だった頃とは何か条件が変わっているのだろうか。高層ビルは間違いなく増えているが,空気が汚れているかどうかは少し疑わしい。  
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2023年12月10日

自分が登った山の『日本百名山』を読む(東北地方編)

書籍全体の書評を書いたので,個別の山の記事についての感想はこちらに書いていく。主には勉強になったメモと,深田の感想と自分の感想の違い,時代の違いによる差分について。数字は深田自身によるナンバリングである。


10.岩木山
 深田は1930年頃に,嶽温泉から登って岩木山神社の方向に下った。私が登った時は霧が出ていて山頂からの眺望が死んでいたのだが,深田が登った時も雨混じりの曇天で眺望は全く得られなかったとのこと。さらに,私も岩木山神社の方向に下ったのだが,大きめの石が転がる沢筋で,斜度の割には疲れる道であった。これは約95年前の深田も同様であったらしく,ほとんど弱音を書かない深田にしては珍しく「ガクンガクン膝こぶしの痛くなるような下りが続いて」と書いている。岩木山神社への下山路はほぼ100年間そのままらしい。山頂でも下山路でもほぼ同じ体験と感想で,読んでいて笑ってしまった。これもまた『日本百名山』を読む楽しみであろう。最後に深田は下山の最後の方を「スキーで飛ばしたらさぞいいだろうと思いながら」下りていったそうだが,さすがに先見の明がある。こうなると,私は旅行計画を立てるのがぎりぎりだったために嶽温泉に入りそびれたのだが,入って深田の追体験をしておくべきだったと後悔している。


11.八甲田山
 山の名前の由来は,八つの峰と多くの湿地(田)を有することからとのこと。続いて八甲田雪中行軍遭難事件について言及しているが,これは短く終わった。深田が訪れた当時はまだ国立公園に指定される前で,閑散としていたらしい。十和田八幡平国立公園の指定はかなり古く,1936年のことであるから,深田が登ったのは岩木山と同じタイミングか。眺望や湿原の素晴らしさについては同意しかない。この山も深田にしては珍しく登山の難易度に触れており,「酸ヶ湯から女子供でも楽に登ることができる」とある。私も八甲田山の大岳から酸ヶ湯に下ったが,意外と斜度があってそこまで楽な登山道ではなかったように思われた。というよりも落石防止を中心にかなり整備して歩きやすくしていたのが見てとれたので,深田が登った当時はもっと登りにくかったのではないかと思う。上記の岩木山の通りで,他の紀行文を見ても深田の難易度の感覚は現代人とそれほど違わないことが多いので,この八甲田山の評価はよくわからない。
 深田は登山中に偶然,八甲田の主と呼ぶべき登山者に遭遇していて,「この名物男は,いつも軍装をして……右肩にラッパ……頂上では陸軍のラッパ曲を吹く」とあるから,相当な面白じいさんだったらしい。1930年頃で八十歳とのことだから,1850年頃の生まれか。実は私も八甲田山に登った際,何百回と八甲田山に登っているという地元の方に話しかけられて,山頂で少し話を聞いた。八甲田山にはそういう名物男が存在する伝統でもあるのだろうか。
 深田は「大岳に登ったら,帰りはぜひ反対側の井戸岳を経て毛無岱に下ることをお勧めしたい。これほど美しい高原は滅多にない」と書いている。私はむしろ井戸岳を経て大岳に登り,その後は酸ヶ湯に下りたので毛無岱は経由しなかった。深田の時代は酸ヶ湯から登っていくから井戸岳や毛無岱はむしろ下山で寄る場所であったのだろうが,現代ではロープウェー山頂駅から井戸岳を経て大岳に向かうのが一般的であるから,向きが逆になっている影響はありそうだ。なお,深田はここでも「スキー場としての八甲田山は今後栄える一途であろう」と書いているが,スキー場のためにロープウェーができ,ロープウェーのために登山路が逆向きになることまでは想像がつかなかったか。


12.八幡平
 冒頭で「十和田湖へ行く人数に比べて,八幡平はずっと少ない」と書かれている。八幡平については先行する紀行文が少ない,とも。そこから八幡平は随分とメジャーな観光地になった。というよりも深田久弥レベルの人がその印象だったのに,八甲田山や十和田湖とくくられて突然1936年に国立公園になったのだから,そちらの方が不思議である。名称の伝承については,八幡太郎義家が由来であることに触れつつ「もちろん信ずるに足りない」とばっさりである(もちろん坂上田村麻呂説も否定している)。深田は割りとドライで,伝承を調べるのが好きな一方,割りと正直にばっさり行く傾向が強い。八幡平が開かれた理由として温泉が挙げられており,地図中には藤七温泉も記載されていた。私は泊まったことがあるが,あの温泉は昭和の初期からあったのか……調べてみると開業が昭和5年とのことで,深田が八幡平を訪れた当時は開業してすぐのことだったのだろう。もっとも深田自身は蒸ノ湯と後生掛に入っていったようだ。
 深田はこの山でもスキーについて触れていて,最初に八幡平を訪れた理由がスキーだったと述べている。このまま整備が続けば「今後スキーのパラダイスになりそうである」とまで述べており,深田はスキー百名山も書こうと思えば書けたのではないか。なお,当然ドラゴンアイについての言及はない。ドラゴンアイは10年ほど前に私が行った時にもまだ話題になっていなかったので,本当に極最近観光名所に変わったのではないか。


20.吾妻山
 吾妻山といえば山域が広く,かつ中心が存在しないであるが,深田も「これほど茫洋としてつかみどころがない山もあるまい」と冒頭で書いている。例によって早々にスキーの話を始めるが,ここではアクセスの良い東吾妻にばかりスキーヤーが集まって,広い山域に目が向けられていないことを批判的に取り上げている。深田にとってのスキーとはバックカントリーだったのだろう。ついでに磐梯吾妻スカイラインが通ってにわかが増え,「我々はいよいよ山奥深く逃げ込むよりほかはない」と嘆いている。
 山名の由来について,珍しくも深田をもってして調べがつかず,山域に家形山があるからそれが変じて「東屋」となり現在の字が当てられた……という自説を唱えている。それでは現代視点で答え合わせをするかとインターネットの力を借りたところ,山と溪谷オンラインに同じ説が載っていた。これとは別に『角川日本地名大辞典』も深田と同じ説を採っているというページも見つけたので,深田の説はかなり強そうである。なお,吾妻山という名前の山は日本全国に点在していて,広島・島根県境の吾妻山は「イザナギがイザナミを偲んで『我が妻』と呼びかけた」説を採っていた。さすがは島根県の山である。群馬県の四阿山もヤマトタケルがやはり妻を偲んだことを由来としていて,ここから類推するなら福島の吾妻山も誰かしらが妻を偲んでいても不思議ではない。深田自身は,少なくともヤマトタケル説について「それは附会であって,やはり東屋からきたと見る方が適切」と退けている。
 最後に,西吾妻山については「稜線というより広大な高原」としつつ,いたく感動していた。また「一人の登山者とも出会わなかった」「まだリフトなど全くなかった頃である」としているが,リフトができたところで,西吾妻山はメジャーにはならなかった。喧騒を嫌う深田にとっては良かったことかもしれない。

 
21.安達太良山
 当然引用される『智恵子抄』。引用と論評のため,この安達太良山は定形を破って6ページに渡っている。山行の記録もやや長い。岳温泉から登っているが,冬場は岳温泉がスキーで混雑することに言及している。隙あらばスキー。途中でくろがね小屋に言及があり,岳温泉の源泉であることが示される。私はくろがね小屋に寄らなかったのだが(老朽化による建替工事で休止中),深田久弥が言及するほど歴史の古い山小屋だったとは。しかし調べてみると開業が1953年とのことなので,深田が訪れたのはそれ以降ということになる。深田が東北の山々に頻繁に登っていたのは1930年代のことのようなので,安達太良山だけ新しいのは意外である。
 深田は山頂付近で「鉄梯子のかかった岩場を登ると」と書いているが,言うほど大きな梯子がかかっていた覚えがない。迂回可能な小さな梯子ならかかっていたと思うが……。あの岩場の登山道が当時と大きく変わっているのだろうか。事前に読んでから登っていたら写真を撮っていたのだが,惜しい。なお,この山頂の岩場について,平らな山頂付近からぽこっと飛び出ているように見えることから深田は「乳首山」と呼ぶとも紹介していた。ググると乳首山という通称が残っていることが確認できるものの(たとえばこのページで梯子も確認できる),自分が安達太良山に行ったときには現地でそういう呼称を全く見かけなかった。ちょっとセンシティブなこの呼び名は滅んでいっているのだろうと思う。


22.磐梯山
 1888年の大爆発から紀行文は始まっている。その上で磐梯山の山容は裏磐梯よりも表磐梯の方が美しいという。その山容の紹介が含まれていることから,磐梯山もまた例外的に6ページに渡っている。深田にとって磐梯山の山容はそれだけ重要であった。山名は「岩」と「梯(はし)」から,噴火口の岩壁に由来しているのではないかとしている。登山記録も表から登っていて,とすると当然のようにスキーにも言及がある。弘法清水で裏磐梯からの登山道と合流して人が増え,登山者のゴミが散らばっていることに苦言を呈していた。当時の登山者のマナーよ……。帰りはその裏磐梯に下っていているが,やはり観光客の多さが気に食わないらしい。最後は「シムメトリーよりもデフォルメを好む傾向を近代的とすれば,たしかに磐梯の(磐梯山と猪苗代湖しかない)表よりも(変化に富む)裏にそれがある」と詩的な表現で締めている。この評価は当たっていて,裏磐梯の方が栄えているのだから,現代人の好みは60年経っても変わっていない。  
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2023年12月09日

書評:深田久弥『日本百名山』

 『日本百名山』について,深田久弥自身はあくまで自分が登ったことがある山から選んだこと,深田久弥の選定であって日本の登山家の決定版的に選んだわけではないことを強調しているが,結果として日本百名山は神聖視されている。日本百名山の選定に対する不満としては,
・深田久弥が喧騒を嫌ったために過度に観光地化した山は外された(御在所岳など)
・深田久弥が登っていないために選ばれなかった(石狩岳など)
・標高が1500mよりも低い山は,筑波山・天城山・伊吹山・開聞岳の例外を除いて一律外された(比叡山など)
・選定が東日本,特に北アルプスと北関東に偏っていて西日本からの選出が少ない(蒜山・氷ノ山など)
辺りがよく聞かれるところで,これらの批判自体は当てはまっている。私自身,低山が外されたことについては疑問に思う。しかし,刊行から60年を経て,結局深田の百名山に代わる権威は出現しなかった。深田自身は神聖視を拒否し,困惑していたのだから皮肉なものだ。これらの批判はあっても,結局のところ選定が多くの登山好きにとって妥当性の高いものであったのだろう。

 私自身は元々散歩・散策は好きで,また寺社仏閣巡りも好きであったから,その延長線上で登山を始めた。なにせ登山の最初の大きな目標は投入堂であったし,二番目の目標は富士山の浅間大社奥宮であった。これらを達成してもなお登山を続けているのは,結局のところ登山自体の魅力に惚れ込んだからである。どこに登るかを決める上で日本百名山は指標として大きな役割を果たしていて,私と深田の好みは少しずれているが,それでも結果的に大当たりの山であることが多い。選定されるような山は多様な魅力を持っているということだろう。また,因果が逆転しているが,自治体や観光業者が日本百名山の選定に沿って整備を進めたため,選ばれた山の魅力が増したことも理由として挙げられよう。これもまた喧騒を嫌った深田には申し訳ない事態であるが。
 これらを踏まえて『日本百名山』を読んでみると,確かに本人はこれを神聖視されても困るだろうなと思う。元が雑誌での連載であったため,ほとんどの山は1座に4ページ(一部は6ページ)という紙幅であり,非常に短い。さらに山の名前の由来や信仰の歴史,麓までの紀行文がほとんどを占め,自らの山行記録は4ページのうちの最後の1ページまたは半ページに過ぎない。山の名前の由来や信仰の歴史はよく調べてあって勉強になるが,自らの山行記録は短すぎて物足りない。また,難易度への言及はほぼ全く無く,登山ガイドとしては片手落ちである。深田としては難易度を気にするような層が読むことを想定していなかったのであろう。代わって意外と紙幅を費やしているのがアクセス性や世俗さで,これは喧騒を嫌った深田の好みをよく示している。

 刊行から60年経った今,あえて原著を読む意味はどこにあるか。原著から離れて日本百名山の選定だけが独り歩きしがちな現状,その選定基準に疑問を持たれることも増えているのだから,疑問を解消するなら原著を読むのが最も適している。特に登ったことのある山について読むと,確かに深田の基準ならこれを百名山に入れるのだろうと納得することがほとんどである。深田は読者に自身の百名山を選んでみることを勧めているから,原著の記述はその参考にもなるだろう。また,刊行が60年も前であり,前述の通り百名山に選定されたことで開発が進んだ山も多いため,それぞれの山の状況は大きく変わっている。その差分を探しながら読むのも面白い。現代でも読まれるべき古典的名著である。
 なお,本書で一番面白いのは後書きである。まず,幕末の画家の谷文晁が日本の名山を選抜して『日本名山図会』を描いているが低山が多く,しかも日本アルプスから選ばれているのは立山・御嶽・木曽駒ヶ岳の三座だけであるが,これは時代の制約から言って無理もないと指摘している。その上で,昭和の自分にはその制約が無いというのを百名山執筆の最初の動機として挙げており,これは割りと意外であった。選定の基準として山の品格・山の歴史性・山の個性の3つを重視したことや,七十座くらいまではすぱっと決まったが残りは断腸の思いで選別したことが語られ,そのぎりぎり落選にした山々も挙げられている。どれが当落線上の三十座に当たるのか,考えながら読むのも面白いだろう。そしてこれだけ悩んで選定したにもかかわらず,あとがきの最後に「一番好きな山は最近に行ってきた山」とか書いてしまうあたりに,深田の本書に対する良い意味での適当さが読み取れよう。

日本百名山(新潮文庫)
深田 久弥
新潮社
2016-07-29

  
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2023年10月30日

登山記録15(四国剣山,石鎚山,飯能アルプス)

No.36 四国剣山
〔標高〕1,955m
〔標高差〕約530m(リフト利用で200m)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕未登場
〔県のグレーディング〕ー
〔私的な難易度と感想〕2A(1A)

No.37 石鎚山
〔標高〕1,982m
〔標高差〕約700m
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕17巻
〔県のグレーディング〕3B
〔私的な難易度と感想〕2B(鎖を登るなら2D)
四国剣山と石鎚山は別に旅行記を書いているのでそちらで。整理のためのナンバリングだけしておく。


No.38 飯能アルプス
〔標高〕640m
〔標高差〕約510m(累計は1160m)
〔百名山認定〕ー
〔ヤマノススメ〕7巻
〔県のグレーディング〕ー
〔私的な難易度と感想〕3A+
埼玉県飯能市の,西武秩父線沿い南側の山嶺をつないだトレイルルート。自治体がさほど気合を入れて整備していたわけではないところに,『ヤマノススメ』等で取り上げられたために知名度が上昇し,遭難者が多発する代表的な登山道の悪名を得てしまった。埼玉県は元々,登山道の整備の未熟さが際立つ県であったから急激な知名度の上昇についていけなかったことが原因と思われる。2022年,YAMAPから名指しで日本一道に迷いやすい登山道に認定されるに至り,その後,YAMAP協力の下でヤケクソ気味の整備がなされたと聞いたので,2023年1月に子の権現への初詣を兼ねて登ってみることにした。

登ってみた感想としてはまさに事前の噂通りで,見るからに近年直した跡だらけで笑ってしまった。と同時に,今までここにこの真新しい看板が無かったのだとしたら,それは遭難者が多発しただろうなという推測が立つ場所も多かった。典型的なところでこれ。こんなの標識がなければ誰だってまっすぐ行く。



ともあれ看板が激増した結果として,かえって埼玉県にありがちな迷路的登山道が解消されており、埼玉県の中では武甲山に次いで登りやすい山になったのではないかと思う。なお,登った後に実際に『ヤマノススメ』サードシーズン(2018年放送)を見ると,今と全く看板の場所や新しさが違って面白いので,これから登る人には勧めておきたい。

一方で,天覚山と子ノ権現山頂以外はほぼ眺望がなく,後は途中の石灰岩の鉱山があるくらいで,ずっと見どころもなく杉林を歩くことになるためメンタルを削られる。ただし,飯能アルプスはまだいたるところで木を切り倒すチェーンソーの音が聞こえ,鉱山からも重機の音が聞こえ,猟犬注意の看板も立っている。飯能アルプスはまだまだ経済的に観光以外が生きている山なのだ。観光的要素を求めるほうが間違っているのだろう。


登山道は小刻みなアップダウンが多く,最高標高が640mしかないのに獲得標高は1200m近いというアンバランスである。技術的な難易度は低く,岩場は栃屋ノ頭付近に多少ある程度で,A+にするかB-にするか迷うところ。西武秩父線沿いをずっと進むのでエスケープルートが多く,手軽に筋力を鍛える修行には良いと思われる。トレラン勢も多かった。総じて,ヤマノススメ聖地巡礼か,ヤケクソ整備を見に行くか,修行と割り切るなら登る価値があるというくらいで,強く勧める登山ではない。  
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2023年02月25日

登山記録14(蓼科山)

No.35 蓼科山
〔標高〕2,530m
〔標高差〕約620m
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕15巻
〔県のグレーディング〕2B
〔私的な難易度と感想〕2C
標高2,500m超のほぼ単独峰ながら七合目まで自動車道が通っているため,総歩行時間が4時間〜4時間半くらいで登れてしまう,比較的手軽な百名山。北側と南側の2つの登山道があり,コースタイムに大差は無いものの,スタート地点の標高で比べると北側は1905m,南側は1723mであるから獲得標高差はちょっと差がある。それでコースタイムにあまり差が無いということは南側の方がさくさく登れる道ということかもしれない。眺望はどちらのルートも良いようで,我々は北側から登ったが,女神湖が終始綺麗に見え,山頂が近くなると白樺湖や美ヶ原まで見通せる。我々が登った時は紅葉の時期であって,眼下に広がる紅色は見ごたえがあった。南側から登った場合は八ヶ岳が綺麗に見えるようなので,こちらの方が希少かもしれない。いずれにせよ山頂の眺望は素晴らしく,それこそ八ヶ岳も見えるし浅間山も見えた。やはりここまで2時間しかかからないというのは他の百名山と比べた時のアドバンテージである。眺望でなくとも,火山なのに立派な樹林帯を持っていて良い樹林歩きになり,森林限界を超える山頂付近になると一転して巨大な軽石しかない荒涼とした岩石地帯に切り替わる。ちょうど男体山が近いか。

また,北側の方が日陰になりやすく,夏場は良さそうだが,秋は積雪が早いので注意が必要。我々は11月頭に登ったがすでに完全に積雪していて,お守りで持っていった軽アイゼンを装着する羽目になった。難易度はそうでなくとも割と高く,県のグレーディングではBになっているから油断していたら,斜度がかなり急で途中からはずっと岩場と鎖場が続く。これは南側だともう少し楽だったのかはちょっと気になっている。少なくとも北側ルートの難易度はCレベルでBではない。



なお,この下山後には時間が微妙に余ったので白樺湖まで行って温泉に入り,北欧料理のガムラスタンという店に行ったが,ここが大変に美味であった。以下のTwitterに書いた通りではあるが,店主に「ラーションが飾ってありますけど、お好きなんですか?」と尋ねたところ,スウェーデン現地まで行っていたガチ勢で,店に飾ってある皿などを見ながらしばし談笑してしまった。私もラーションは好きなので,店主に同好の士との会話を提供できていたなら嬉しい。



また,このガムラスタンを探している間に中ッ原縄文公園を訪れていた。ここは貴重な土偶「仮面の女神」が発掘された場所で,それを記念して4本の御柱を建てちゃう辺りに茅野市民(というよりも諏訪文化圏の人々)に根付いた精神性を感じる。小さな公園にいきなり巨大な柱が4本建っているのだから異様である。おそらく税金で普通に建てようとしても理屈が立たずに通らなかったのであろう,「縄文時代からこの地の人々は御柱を建てていた可能性がある」と取ってつけたような学術的根拠が説明されていたのでさらに笑ってしまった。また,このGooglemap上の中ッ原縄文公園のクチコミによると,御柱を建てる際にテンションの上がりすぎた茅野市長が柱に登ってしまい,お付きの方に怒られていたというエピソードもあるらしい。周辺の話も含めて最高に面白いコンテンツなので,近くを通られたらぜひ立ち寄ってほしい。さらにその後,茅野駅で特急待ちをしている間に,茅野駅での工事中に何の変哲もないただの丸い大石が発掘されたので,ありがたがって飾ってしまったという大石が展示されていたのでこれも見に行った。この茅野市の姿勢,大好きだ。



最後に一応触れておくと,『ヤマノススメ』では15巻に登場する。あおいたちもやはり岩場の量に驚いていた。また強風に煽られていたが,私が登った時はそうでもなく。また,あおいたちは山頂が曇っていて眺望がゼロ,「自然相手だからこういうこともある」と言って下山する珍しい回であった。珍しいながらも,やはり眺望が描かれないと印象に残りにくく,東京の自宅に戻ってから「あれ,そういえば一応聖地巡礼で行ったんだよな?」と再確認する程度には作中での印象が薄い。蓼科山がかわいそうなのでもう一度登ってほしい気も。  
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2022年12月24日

登山記録13(谷川岳,木曽駒ヶ岳)

No.33 谷川岳
〔標高〕1,977m
〔標高差〕約670m
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕4巻
〔県のグレーディング〕2B
〔私的な難易度と感想〕2B
『ヤマノススメ』では言わずとしれた聖地オブ聖地。東京から電車で行くと最寄りの駅はモグラ駅として有名な土合駅に到着,長い長い階段を抜けて地上へ。さらに谷川岳ロープウェーの駅に向かって歩いていくと,滑落死した人の慰霊碑が。谷川岳はロッククライミングの聖地でもあるが,そのために日本で最も人が死んでいる山でもある。幸いにして登山道はそこまで険しくない。ロープウェーで一気に標高1300mまで登る。このロープウェー頂上の天神平の時点ですでに景色は絶景である。これだけ見て帰っても十分に面白いだろう。特に私が行った10月中旬は紅葉の盛りで人出も多かった。天神平からはさらにリフトを使って高度を稼ぐことができるが,ピークハントが目的の場合はやや遠回りになり,リフトは大して高度を稼げないので,よほど体力をケチりたい場合以外は普通に登るのを勧める。

難易度は群馬県のグレーディング通り2Bが妥当で,2B-でもいいかなと思う。意外と急登が多く,ザレている箇所もある。岩場もあるが四足にならない程度。ロープウェーで標高を稼げるのでコースタイム4時間半なので短く,Bの入門編として良さげ。標高はその雄大さに比して2000mを割っており,登山中の高度感も薄く,むしろこの標高でよくこの雄大さが出せるなと思うと不思議ですらある。谷川岳自身が格好良い山容である上に,眺望が良く周囲の山脈も見渡せる。風格があるとはこのことか。『ヤマノススメ』で最大の(あるいは飯能に次ぐ)聖地に選ばれたのは,登ると納得がいく。難点を述べると,よく整備されているが,降水(雪)量が多い山なので木材の補強は多くが腐敗して死んでいた。泥が多くて登山靴がかなり汚れる。また前述の通り人気の山なので,富士山ほどではないが渋滞が発生する。それも加味した登山計画が必要だろう。



No.34 木曽駒ヶ岳・宝剣岳
〔標高〕2,956m
〔標高差〕約400m
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕5・6巻
〔県のグレーディング〕2B
〔私的な難易度と感想〕2B(1C+)
お手軽に標高3,000m級に登れる山としては乗鞍岳と並んで名前が挙げられる。しかし,県のグレーディングでは2Bとなっているので何かあるのかなと思っていたら,標高の高さ自体が難易度の原因であった。いかに整備されていて足場が安定していても、3,000mはそれだけで空気が薄くて過酷である。ともあれロープウェーで一気に標高2,612mまで上がれるのはありがたく,到着した千畳敷カールだけでも十分に見応えがあり,眺望も良い。ここも千畳敷カールだけ見て帰るのでも十分に観光になるだろう。前述の通り,千畳敷カールはそこまでの険しさがなく,よく整備されていて歩きやすい。標高が低ければ難易度はA相当になるだろう。

多くの人が行くバリエーションルートの宝剣岳は,ハイシーズンだったこともあってか山岳救助隊の方が入り口でスタンバイしていて,登山者がヘルメットをかぶっているか確認していた(私はもちろんヘルメットをかぶっていた)。お手軽すぎてそれだけ挑戦者が多いということだろう。実際に私が登った時も,自分のことを棚に上げて言うなら,危なっかしい人が多くて見ていて怖かった。もちろん自分自身も怖かった。コースタイムが1時間未満でなければ確実に途中で棄権していた。足場はしっかりしているし,かなり太く持ちやすい鎖が張られているから,手を離さなければ死なないとわかっていても,手を離したらヘルメットがあろうが確実に死ぬだろうなという鎖場がけっこう長い。宝剣岳を切り離して評価するなら1C+というところだろう。山頂の眺望は抜群に良いが,木曽駒ヶ岳の山頂と大きく違うかと言われると……なので,腕試し目的以外で登る価値は大して無いと思う。

そういえば『ヤマノススメ』ではどうだったかなと思って確認してみたら,あおいたち4人ともノーヘルで宝剣岳に登っていた。あおいはこれが(富士山を除く)3,000m級初挑戦で本格的な鎖場も初挑戦であり,無謀というか,作者の埼玉県の女子高生に対する感覚が狂っていく契機がこの宝剣岳だったのだ。また,この5・6巻が書かれたのはもう10年近く前であり,当時はまだ牧歌的だったということも言えそう。今『ヤマノススメ』で宝剣岳に登っていたら,まず間違いなくヘルメットをしていただろう。

写真は同行者のブログに多く挙がっているので,そちらも参照してほしい。
  
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2022年12月17日

登山記録12(東京都最高峰シリーズ,東京タワー)

No.30 東京タワー
〔標高?〕150m
〔標高差?〕約125m(階段600段)
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕18巻
〔県のグレーディング〕ー
〔私的な難易度と感想〕
実は階段で登れることで有名な東京タワー。入り口で登り階段認定証がもらえる。階段は600段あり,屋外なので防風対策は必要。公式サイトには約12〜13分程度と書いてあるが,これはやや早いペースじゃないかと思う。『ヤマノススメ』では「20分もかからないくらい」とあり,普通に歩くと15分くらいの印象。道中は東京タワーに関するクイズと,なぜかポッキー&プリッツクイズが踊り場に設置されていて飽きさせない作り。私は去年の12月という時期外れのしかも夜に行ったが,登っている人がそれなりにいて,そこから推測すると良い季節の昼は人が多いのでは。



No.31 愛宕山(港区)
〔標高〕約25.7m
〔標高差〕約9m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕20巻
〔県のグレーディング〕ー
〔私的な難易度と感想〕1A
東京都23区の非人工物かつ山としての……といういろいろな条件付の最高峰。正面の階段は「出世の階段」と呼ばれ,出世のご利益があるとされている。『ヤマノススメ』では,ひなたがあっさり登っていたのに対してあおいは登るのに苦労していた……まあ,あおいちゃんは出世と無縁そうだからね……。おまけにひなたは大学受験が上手くいくようにお祈りしていたが,あおいは何も考えていなかった。私もこの階段で登ったがけっこう急で,登りよりも下りの方が怖かった。山頂は愛宕神社と居酒屋があり,登ったのが2021年の12月だったので居酒屋では忘年会が行われていた。スーツ姿だったので,涼みに出てきた人に「あ,お疲れ様です」と忘年会の参加者と間違われたのが印象に残っている。なお,急な階段を登りたくない人は別にもっと緩い坂があり,ついでに言うとエレベーターでも登れる。急な階段を登らないと出世できない人もいれば,エレベーターで出世をカットできる人もいるということで,人生を象徴している(と,この山について書いた人は全員同じことを書いていそう)。当然ながら山頂からの眺望はあまり無い。



No.32 箱根山(新宿区)
〔標高〕約44.6m
〔標高差〕約22m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕22巻
〔県のグレーディング〕ー
〔私的な難易度と感想〕1A
戸山公園の中にある築山。人工的に盛り土した山を含めた場合の山手線内側の最高峰になるのだが,23区内の最高”地点”ではない。最高地点は山でもなんでもない練馬区西端の路上らしい。戸山公園の中なだけあって樹木に囲まれており眺望は全く無い。非常に登りやすく,麓どころか最寄りの地下鉄の駅から10分弱で登頂できる。港区愛宕山の出世の階段の方が難易度が高いくらい。『ヤマノススメ』では22巻で,かえでと小春がナイトハイクで登っていた。私も同様に仕事の退勤後に寄ったので夜中であったのだが,暗いのもあってあまりにも何も見えなくて虚無感がすごかった。愛宕山と違って他の登山客(?)も見なかったし。なお,登頂後に公園内のサービスセンターに行くと登頂証明書がもらえるのだが,私が登ったのが夜中だったので当然閉まっていてもらえなかった(『ヤマノススメ』では小春がわざわざ二回目を登りに行ってもらっていた)。愛宕山に比べると登頂証明書以外の面白みに欠けるので,ネタで登るなら愛宕山かな……

  
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2022年11月04日

2022夏:香川・徳島旅行記

7月頃に香川・徳島に旅行に行っていたが,その報告を書いていなかった。しかも登山を伴わなかったためにTwitterにも書き残していなかったので(そういえば同行者も誰もつぶやいていなかった),簡潔にここにまとめておきたい。

最初に行ったのが屋島。今年の大河ドラマで登場したということと,招待してくれた香川県在住の友人がまだ行ったことがなかったからという理由で選定された。屋島は以前は名前の通りの島であったが,江戸時代に埋め立てられて四国の一部となったとのこと。そういうわけで陸路で行ける。電車とバスを乗り継いでまず到着したのが屋島寺。四国お遍路の八十四番目の札所である。

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正直に言って特に期待はしていなかったのだが,宝物館が意外と豪華であった。有料だが入った方がよい。西日本は適当なお寺に入ると,盛っていない文化財が出てくるから卑怯だ。これが関東だと「その由来本当? 文化財指定されてないじゃん」というものが多いので……。その後は歩いて屋島の山頂付近を散策した。お天気はあいにくの小雨模様であったので眺望は悪かったが,なんとか古戦場跡の一部は見えた。

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屋島は標高こそ300mくらいしかないが,讃岐平野があまりにも低平すぎ,島であるから海に囲まれているため見通しは抜群である。だからこそ平家はここに陣を構えていたということは悪天候でも察せられた。にもかかわらず源氏方は海側からしか来ないという予断があって麓の海側に陣を布いていた平家方も平家方ながら,「干潮なら馬で渡れるはず」と踏んで陸側から奇襲した義経も義経である。そうして古戦場を眺めながら歩いてたどり着いたのが屋嶋城である。

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屋嶋城は白村江の戦いの後に築かれたいわゆる「古代山城(朝鮮式山城)」の一つで,保存状態が非常に良い。しかし,発見が遅すぎた。通常の高校日本史で朝鮮式山城として習うのは大野城や基肄城であって,史書には記録があっても史跡として発掘が進んだのが21世紀に入ってからの屋嶋城はそのラインナップに入れなかった。つまり,「ここはテストに出ない」。入試問題として出たら『絶対に解けない受験日本史』に載ってしまう可能性がある(一応,浜島の資料集には屋嶋城も載っているのを確認した)。それでも香川県としては貴重な史跡であり,観光資源としてアピールしていく考えがあるようで,復元された石垣はよく整備されていた。往時を思わせるには十分である。屋島観光後は少し時間が余ったので約13年ぶりに栗林公園に行った。ところで「どうだ明るくなったろう」の絵を描いた画家である和田邦坊が香川県出身で,そのグッズが栗林公園で売られていた。面白いので香川県はもっと宣伝した方がいい。お夕飯を食べて,ビジネスホテル泊となった。お夕飯で鱧が異常に安い値段で出てきて驚いた。実は二日目の夜でも鱧が出てきたのだが,香川県は鱧が名産なのだろうか。そう思って調べてみたら,生産量トップは兵庫県でそのほとんどは淡路島,2位が大分で3位が徳島とのこと。香川県は1位と3位に挟まれている。


二日目は朝一で高松城(玉藻城)へ。ここも二度目といえば二度目なのだが,約13年前に来た時は素通りに近かったのに対し,今回はガイドのお爺さんに連れられてみっちりと観光した。ガイドさんの案内があったということもあるが,そもそも約13年前よりもよく整備されたように思う。約13年前はまだ「うどん県」とか言い出す前だから,まだ観光に目が向いていなかったのだろう。現在はさらなる整備を目指しているが,予算不足で進まないことをガイドさんが嘆いていた。

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高松城は海に面した城で,堀を満たしているのが海水という点が特徴的である。それゆえに公園内は潮の匂いが濃く,堀で泳いでいるのは鯉ではなく鯛で,「鯉の餌やり」ならぬ「鯛の餌やり」が名物となっている。遺構のいくつかは重要文化財指定されているが,大半が破却されているのが惜しい。城を離れた後は隣の県立博物館へ。香川県の歴史がよく説明されていたのと,空海への愛が強かったことが印象に残った。四国が誇る大スターなので仕方がない。昼飯は私のたっての希望で讃岐うどんとなった。というのも一昨年に四国剣山に登った時には讃岐うどんを食べそこねた(正確に言えば丸亀うどんは食べた)からである。Googlemapで適当に調べてそこそこ評価が高い店に入ったが,コシの強いちゃんとした讃岐うどんが食べられて良かった。ところで,そのお店の「讃岐うどん えん家」は店先に店主が描いたアニメキャラが展示してあって,それがなかなか上手くて良かった。待っている客を飽きさせないように描き始めたのが由来だそうだ。

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二日目の午後は五色台へ。五色台は名前の通り紅ノ峰・黄ノ峰・青峰・黒峰・白峰山という5つの峰を抱える山塊で,縄文時代に石器として用いられたことで有名なサヌカイトはこの五色台が産地であった。サヌカイトは五色台や奈良の二上山から産出されて広く流通し,縄文時代にも大規模な交易が存在していたことを示している。しかし,サヌカイトは観光資源と見なされていないためか,現在では全く宣伝されておらず,五色台の観光資源はもっぱら森と眺望である。かく言う我々も目的の一つは眺望であった。

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言うだけのことはあって瀬戸内海が美しい。奥に見えるのは瀬戸大橋か。さて,五色台に行ったもう一つの目的が,四国お遍路の八十一番目の札所,白峯寺である。白峯寺は保元の乱に敗れて讃岐流罪となり,現地で亡くなった崇徳上皇を祀った御陵がある寺院である。日本最大の怨霊の一人がどう祀られているか,参拝しに行こうという話になったのであった。白峯寺から少し離れた場所にあって10分少々ながらアップダウンの続く山道を歩く。白峯寺内に遥拝所もあったので,足に自信がない人はそちらで参拝を済ませるとよいだろう。

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行ってみるとまずまず立派であった。過去に行った藤原道長の墓と比べると大事に祀られている。これならば祟られることもあるまい。なお,白峯寺自体もかなり立派な寺院で,本堂等は重要文化財であった。さすがは四国,このレベルの寺院がゴロゴロしている。そうして御陵とお寺に参拝した後は一気に徳島に移動。この日は珍しくも予約しておいた和食のお店に行ったが,またしても鱧が登場した。場所が徳島であるので香川よりは納得できるものの,こうもぽんぽんと鱧が出てくると京都で食べてもありがたみがなくなる。鱧を食べるなら京都よりも四国かもしれない。

起床しての三日目は大塚国際美術館。ここも約13年ぶりの再訪だが,前回は半分くらいしか見られなかったので,良いリベンジの機会であった。今回はやや駆け足ながら完全踏破に成功したので満足である。一方で,そのために同行者たちに再三「そのペースで見ていたら丸2日要るで」と言って急かしてしまった感もある。まあ,物足りなかったら後は個別で2回目に行ってほしい。それでも感動はしてもらえたようで,「これからは登山の時にもっとポカリとカロリーメイト持っていくわ」と言ってもらえたのは嬉しかった。最後に約13年前に行ったときに撮り忘れた重要な絵画と,約13年前に行った時にはまだ存在していなかったものを貼っておこう。

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そうして三日目も終わり,あとは一路鳴門大橋から四国を脱出して東へ東へ向かい,なんとか日付が変わる前に東京にたどり着いた。いろいろと約13年前の忘れ物を取りに行った感がある旅行であったが,その意味で再訪したいと思っている高知と宇和島を取り逃している。四国は(今度は太平洋側を目的に)もう一度くらい上陸したいところ。  
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2022年06月17日

登山記録11(岩殿山,高水三山)

No.28 岩殿山
〔標高〕634m
〔標高差〕約280m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕15巻
〔県のグレーディング〕1A
〔私的な難易度と感想〕2C
大月駅を下車したら目の前に見える巨大な岩がある。それが岩殿山である。山梨県のグレーディングは1Aになっているが,これは東側から登って下りた場合であって参考にならない。普通は登りか下りのどちらかで西側のルートを通ってぐるっと一周するのだが,西側のルートがC程度の技術を要求されるので,なめてかかると普通に事故ると思う。西側ルートは例えて言うなら瑞牆山と同程度には厳しい。東側ルートも登山口が3つほどあるが,そのうち2つは崩落により通行禁止で,一番駅から遠い畑倉登山口からしか入れない。ただし,一番手前の丸山公園口は「ふれあいの館」という名のビジターセンターがあり(このふれあいの館までしか登れないのだが),ふれあいの館にそこそこ豪華な『ヤマノススメ』コーナーがあって,しろ先生直筆の色紙まで置いてあった。

そうそう,大月駅すぐの観光案内所で立派な『ヤマノススメ』聖地巡礼マップが配布されているので,聖地巡礼目的ならもらってくるべきだろう。また,登頂を確認できる写真を撮って下山後に観光案内所に行くと記念ポストカードももらえる。アニメ化していない割にやけにコラボが多いと思ったら,数年前に大規模に登山道が崩落した際,復旧のための寄付金集め等に『ヤマノススメ』がかかわっていたようだ。その名残もありコラボが続いていて,調べてみたら登頂記念グッズは復旧途中の2019年11月からやっているキャンペーンだった。なくなり次第終了なのに2年半経過してまだ続いているということは,それほど知られていないし登頂もされていないようである。もらっておいてなんだが,良いグッズなのにまだ終了していなかったことに悲しくなってしまったので,ぜひともアニメ4期には岩殿山を出してあげて集客に協力してほしい(原作が15巻で登場とかなり遠いので無理かな……)。なにせ,その『ヤマノススメ』であおいとその父親が通った登山道はまだ復旧していなくて登ることができないのだから。

岩殿山は一応,戦国時代の城址で,小山田信茂の居城であった。現在の山頂には何も残っていないが,西側ルートの痩せ尾根の名前「稚児落とし」が落城時のエピソードに由来する。城から逃げようとした女性が,子供を抱きかかえたままの逃亡は不可能だと判断して,この痩せ尾根で子供を投げ捨てていったらしい……しかし,崖の上から落とされた子供が実は生き延びていて麓の集落で育てられたという逸話も残っていて,悲劇としては中途半端である。現実の稚児落としを通ってみると,ここから落とされたら普通に死ぬだろうし,生きていた方がエピソードとしては強いので,そちらをクローズアップした命名をすべきだったようなという感想を抱いてしまった。ともあれ,険しいだけあって「稚児落とし」は非常に見応えがある絶景である。眺望は快晴なら富士山が見えるそうなのだが,我々が行ったときには見えず。それでも稚児落としの巨大な岩盤と眼下の大月市だけで十分な見ごたえがある。



あとは瑣事だが,大月市は海も無いのにここが桃太郎伝説の地であると無茶な観光売り込みを図っていて,曰く岩殿山には鬼が住んでいたのだとか。ただし,鬼自体は山賊と考えれば荒唐無稽ではなく,東側の中腹には多数の洞窟があり,小山田氏が築城する前なら確かに山賊の一団が潜んでいてもおかしくはなかったであろう。また,こうした洞窟はいかにも信仰の対象になりそうだなと思ったら,説明書きに懸造の寺院の跡があったということが書いてあって,この意味でも洞窟の多さが岩殿山の特徴の一つと言えそうである。

下山後には近くにあるということで猿橋を見に行った。日本三大奇橋の一つとされるが,日本三大〇〇にありがちなことで,3つが不安定らしい。この猿橋は幸いにも確定している2つのうちの1つである(もう1つは山口県岩国市の錦帯橋とのこと)。しかしながら我々がここに行った目的は,猿橋が東方風神録の3面道中の背景になっているからであった。実際に猿橋から見る桂川の渓流は恐ろしく綺麗で,紅葉の時期なら死ぬほどの絶景と言っても過言ではないと容易に想像できた。ここは必ずもう一度来よう。




No.29 高水三山
〔標高〕793m(岩茸石山)
〔標高差〕約550m(軍畑駅から)
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕16巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕2A
奥多摩入門編として名高い高水三山。序盤はすすきの野原,中盤以降はずっと杉林が続く典型的な奥多摩の山で,眺望も山頂以外はあまり無い。じゃあ何が楽しいのかというと,3つのピークをくくっているだけあって稜線歩きが長く,稜線歩きはまあまあ気持ちいい。整備が極めて行き届いていて,多少の急登と木の根道があって転倒するリスクはあるにせよ,命の危険は全くない。トイレや水場も多い。奥多摩の山としては比較的”手前”の立地で,御岳山と並んで行きやすい。ついでに奥多摩名物,突然出てくる鉄塔や小さな寺社仏閣が存在しているのも奥多摩入門編らしさがある。もろもろを考慮すると,確かに安全にトレッキングができて高尾山や筑波山よりは骨がある絶妙なチョイスになる。かく言う私も高尾山の次に登ったのがここだった。コースタイムは5時間弱で少し長く,本当に初心者だけで行く場合はそこだけ注意が必要か。あとは人気の山なのと他の山と縦走しやすい立地もあって,天気が良ければ常に混雑している印象。

『ヤマノススメ』では16巻に登場し,あおいとほのかが2人で登頂。双眼鏡を持ってきて山頂から東京方面を眺めていたが,次の話から富士山登頂が始まってしまうので非常に印象が薄い。なんというか,登らせるタイミングを見失って無理やりここに入れた雰囲気が漂う。人気の山なのに扱いがぞんざいであるが,実際に私自身も登った印象が薄い。繰り返しになるが,奥高尾縦走路以外の奥多摩に登ったことがないくらいの人なら入門編的に挑んでみてもいいだろうが,そうでないなら特にお勧めしない。  
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2022年06月05日

登山記録10(荒船山,浅間山)

No.26 荒船山
〔標高〕1422m(1356m)
〔標高差〕約360m(290m)
〔百名山認定〕二百名山
〔ヤマノススメ〕9巻
〔県のグレーディング〕2B
〔私的な難易度と感想〕2A+
長野県と群馬県の県境,名前の通りに遠景で見ると船の形をしている山。形の通りで前面に切り立った崖があって山頂は非常に広い平面になっている。では登るのが困難かというと2A+にした通り,背面側(北側)から,内山峠からの登山は緩く,ちょっとした岩場が一箇所ある以外は難点が無く,初心者でもまずまず普通に登れるだろう。県のグレーディングは2Bになっているが,あれはその一箇所の岩場を考慮してのものと思われる。Aに下げようとする群馬県と長野県の必死の努力が見える整備状況であった。標準コースタイムは5時間強。我々は4時間弱で踏破した。

山頂は平坦すぎて厳密にはどこが山頂なのか全くわからず,ピークどこだよと言いながら5分ほどさまよってしまった。山頂は森林に覆われていて小川も流れており,なかなか雰囲気が良い。一部に森林が切られた展望台があり,そこから見える浅間山が非常に美しく,翌日に登る予定であったこともあって満足感があった。なお,荒船山の山頂は1356mとなっているがこれはこの本体の標高であって,舳先からわずかに離れた別の山(経塚山)の方が1422mとわずかに高い。ピークハント気分はこちらに登って味わうとよいだろう。経塚山は眺望がないので,ピークハント目的でないなら登る必要はまったくない。その他,我々の登山行については,詳しくは同行者がブログで詳しく書いているのでそちらを参照してほしい。



なお,船の舳先に当たる南側,つまり崖側から登るルートも一応あるが,当然ながらに難易度が高い。なにせ県のグレーディングに載ってない(登る人が多いと想定されていない)。YAMAP等の写真を見ると垂直に登る鎖場等があり,普通にDかDに近いCはありそう。また,『ヤマノススメ』では9巻で登場した。あおい・ひなた・ほのかの3人で登る(ここながいない珍しいパターン)。ほのかの兄が初めて登場した回で,その意味で印象深い。


No.27 浅間山(前掛山)
〔標高〕2524m(2568m)
〔標高差〕約1110m(浅間山荘登山口から)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕13巻
〔県のグレーディング〕4B
〔私的な難易度と感想〕3B
荒船山の翌日に登山。前日は浅間山荘温泉に宿泊。上掲の同行者のブログの通り,『レッド』の山本直樹の色紙が飾ってあって笑った。なお,実際のあさま山荘事件が起きたあさま山荘は全く別の場所である。閑話休題,浅間山は外輪山が二重にあって,浅間山の本体は噴火警戒のため直接登ることができず,内側の外輪山の山頂の前掛山が実質的なピークとなっている。その前掛山に登る登山道は大きく分けて2つある。2つの外輪山の間の谷間から登っていくのが浅間山荘登山口ルート。外側の外輪山(黒斑山)を乗り越えていく車坂峠(高峰高原)ルートである。今回の我々は宿泊地からわかる通り,前者のルートを使った。登りの前半は左側に黒斑山,右側に前掛山が見え,荒涼とした火山に挟まれる珍しい風景で面白かった。また,並走する沢の水が赤く,前日に入った浅間山荘の温泉の色そのままで,匂いが温泉地らしい強い硫黄臭なのも含めて面白かった。

前半はそこまで斜度のない普通の登山道でここまでならA+でもいいくらいだったが,前掛山は火山らしい小石が転がるザレた道で斜度もあり,ここに来て難易度Bを実感した。しかし,前掛山の中腹からは北側の,つまり嬬恋村の方向に開けていて眺望が楽しめる。前掛山山頂からは浅間山本体の山頂が見えるが,まあ見える以上の意味は無い。コースタイムは7時間半。我々は6時間で下山。4Bにあるような長さではないと思う。



『ヤマノススメ』では13巻で登場。本巻が発売された2017年頃では現在よりも入山規制が強く,前掛山すら登れなかったために黒斑山が事実上のピーク扱いだった模様で,あおいとほのかの2人で黒斑山に登っている。……今気づいたのだが,我々の登ったルートと全く重なっていない。まあでも,そのために改めて黒斑山に登りにいかなくてもいいかな……

なお,同行者の旅行記にある通り,下山後に行った布引観音(「牛に引かれて善光寺参り」で有名な寺院)の懸造建築が非常に良かった。またそこで飼われている名物猫が極めて人に慣れていて,ちょっと撫でるとすぐに喉がゴロゴロなりだしたので気分が良かった。お勧め。  
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2022年04月28日

登山記録9(鋸山,丹沢大山,大持山)

No.23 鋸山
〔標高〕329m
〔標高差〕325m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕13巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕2A+
石切場として長期間開発されていたため,人工的な奇観が生まれたことで有名な山。千葉県は最高標高が沖縄県よりも低い(408m)県であるため,329mでも千葉県内ではそれなりに標高が高い部類に入る。登山道は浜金谷駅側からと保田駅側からに大きく分かれているが,浜金谷駅側から登るのが主流。保田駅側からは鋸山中腹に建てられた大規模寺院の日本寺がある。なお,保田駅近隣の寿司屋で「保田駅側が本来の日本寺の表参道なのだから,こちらから登るべき」と主張された。しかし,登山としては保田駅側よりも浜金谷駅側から登った方が面白いので,日本寺自体が目的というわけでもなければ浜金谷駅側から登るべきだろう。

浜金谷駅から登るとさらに道が2つに分かれ,比較的緩い車力道と関東ふれあいの道に分かれる。ついでにロープウェーも通っている。私は関東ふれあいの道から登ったが,車力道の方が観光名所が豊富なのでこちらから登った方がよさそう。関東ふれあいの道は道中の眺望が良いが,それは合流後にも見られるのであまりメリットがない。ロープウェーも山頂駅からの登山道が険しいのであまり意味がなさげ。ちょうど合流地点(標高180m)くらいからは石切場跡になっていて,非常に見応えがある。

コースタイムは3時間半くらいで難所も特に無く,石切場付近はすべて階段で舗装されている。しかし,階段の傾斜が急でアップダウンもかなり激しいため,獲得標高は標高差の倍の600mくらいになるから,それほど楽な登山ではない。スニーカーで十分登れるが,運動不足なら太ももの筋肉の心配はした方がいい。なお,標高300m地点に展望台があって,東京湾が一望できる(上掲Twitterの3枚目)。そこから奥に山頂があるが,登山道が特に面白みがないし眺望も無いので,ピークハント目的でなければ行く意味がない。展望台で引き返して問題ない。なお,下山してから気づいたのだが『ヤマノススメ』でのひなたとここなはこの展望台で引き返しており,しろ先生が「山頂はむっちゃ地味」と補足していた。聖地巡礼の意味でも山頂は行かなくてよさそう。

展望台から保田駅側に下山すると日本寺に入る。拝観料をとられるが,回避しようとすると大きく迂回することになるので注意が必要(関東ふれあいの道の正規ルートがこの迂回路で,おそらく関東ふれあいの道の事実上の通行料が発生するのを避けるためにこの迂回路が設定されたものと思われる)。日本寺は大規模な石窟寺院で見応えがあるから,よほど拝観料をとられたくない場合以外は迂回しなくてよい。ただし,この日本寺は創建が18世紀末で,しかもそこから長く放置され,戦後の高度経済成長期になってから大規模な造営が進んだため歴史が浅く,権威付けのために胡散臭いエピソードを山ほど盛っているのが一周回って面白い。開山からして聖武天皇の勅詔と実際の18世紀末から1000年以上盛っていて,空海や良弁が修行に来たことになっている。一番笑ったのは源頼朝が植えたとされるソテツ(樹齢800年)。当時は実際には開山してないのだから寄った可能性は極めて低いだろう。

下山後は漁港が近いだけあって美味しい寿司屋があるから探してみてほしい。アジが名産らしい。鋸山の数少ない欠点は東京からちょっと遠いことで,内房線の本数がそれほど多くないので旅行は計画的に。『ヤマノススメ』では飯能から行っているわけだけど,よく日帰りしたな。


No.24 丹沢大山
〔標高〕1252m
〔標高差〕850m(ケーブルカー麓駅から)
〔百名山認定〕三百名山
〔ヤマノススメ〕14巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕2A
丹沢の入門編,気軽に行ける観光地。コースタイムはケーブルカーを使わなかった場合で4時間半ほど,ケーブルカーを使うと1時間くらい減る。整備は極めて行き届いていて高尾山並だが,標高差の大きさを見ればわかる通りに階段や登山道はそれなりに急で体力は必要。眺望はケーブルカーだけで行ける中腹の阿夫利神社が一番良いので,眺望を楽しむだけなら登山不要。麓は信仰の山らしく豆腐屋と,猪鍋屋が多い。私が行った時は豆腐屋に寄ったが,次に丹沢に行った時は猪鍋を食べたい。




No.25 大持山(ウノタワ)
〔標高〕1294m
〔標高差〕930m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕10巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕3B-
天気が曇りそうだったので眺望を期待しなくていい山ということでここをチョイス。しかし,実際にはこの日は快晴でもったいないことをした。『ヤマノススメ』の聖地ということでもなければまず選ばない山であるが,実際に登山として面白かったかと言われると微妙である。足元だけで言えばスニーカーでも登れるレベルだが,道の整備がひどくて完全に野に帰っていた箇所もあり,急坂や突発通行止めも多くて登山慣れは必要と感じた。完全に封鎖されている登山道も多くて,2022年春現在で言えば名郷バス停から鳥首峠を通るルートか,武甲山側から下ってくるルートの2つ以外は通行禁止である(したがってリンクを貼ったサイトのルートはそのまま通れない)。その鳥首峠を通るルートもボロボロで,これだけひどいのは関八州見晴台以来であったから,やはり原因は埼玉県の整備にありそう。武甲山は整っていたのでやる気がないわけではないと思いたい。なお,『ヤマノススメ』ではあおいとひなたが積雪期にチェーンスパイクを履いてあっさり登っていたが,あおいの体力でチェーンスパイクであの急坂は無理だと思う。原作の不自然ポイントを発見できたのは,残念聖地巡礼の数少ない収穫であった。

目的のウノタワは「鵜の田沼」とも書くように山中に突然沼の跡地らしき広場が出現する。観光名所になりうるかと言われるとそこまで広いわけではなく,単に広場という以外に特徴も無いから厳しい。そこから50分登ったところに大持山のピークがある。眺望がそれほどあるわけではないのでピークハント目的か,武甲山まで縦走する目的以外で立ち寄る意味は無いだろう。……そもそも大持山を登る人はアニメ未登場の聖地に登ってしまうような奇特な『ヤマノススメ』原作オタクか,埼玉県の山を全部制覇しようとしている極まったハイカーのいずれかだけだろうから無用な助言だろうが。



なお,名郷バス停から行くルートでは,リンクを貼ったサイトにもある通り,白岩集落という廃村を通り抜ける形になる。私は本物の廃村を間近で見るのは初めてであったので,けっこう印象深かった。また,武甲山との競争に負けたらしき石灰岩の露天掘りの廃鉱と廃工場もあって,こちらも面白かった。むしろこれらを見に行く目的で大持山登山を計画すべきかもしれない。  
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2022年03月23日

登山記録8(雲取山,大菩薩嶺)

No.21 雲取山
〔標高〕2017m
〔標高差〕1480m(鴨沢から)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕12巻
〔県のグレーディング〕5B
〔私的な難易度と感想〕6B
2018年の夏,富士山の前哨戦として登頂……したら富士山よりも辛かったという。東京都の最高峰にして東京都・埼玉県・山梨県の県境。山頂には三県の標識があるが,東京都の標柱だけ非常に豪華で,東京都最高峰たる威厳と東京都の資金力を誇っている。対して富士山などを擁する山梨県の標柱はやる気がない。

コースタイムは鴨沢から登って6時間半,三条の湯経由でお祭に下って7時間ちょうど。合わせて13時間ほどになるので,富士山とほぼ同じである。しかし,岩場の量がそこそこ多いことや補給ポイントの少なさ等を加味すると,富士山よりも厳しいのではないかと思う。『ヤマノススメ』でも二度目の富士山の前哨戦としてあおいたちが挑戦しているが,登りは雨が振っている上にテント泊をしているので,尚更富士山より厳しかったのではないか(実際にひなたは「富士山より全然きついよねこのルート」と言っている)。滑落して死ぬような場面はほぼ無いが,ただただ長くてしんどい。山梨県によるグレーディング5Bだが,少なくとも富士山と同じ6Bが妥当だろう。

なお,私と頬付は夏場に登ったため麓の鴨沢は早朝の時点ですでに35度,ちょっと登っても全然気温が下がっていかず,大量に持ってきた水をすごい勢いで消費した。おまけに15時過ぎにはあまりに早い夕立に遭い,登山で初めてゴアテックスのアウターのお世話になった。しかし,その夕立の直前にかわりばえのしない杉林を歩いていた途中,落ちていたビニール袋を調べたら『ラヴクラフト全集』を見つけてしまったのがこの時の登山のハイライトである。山中で頬付と二人で爆笑していた。この経験はまず間違いなく一生忘れない。雲取山は魔界。そりゃ炭治郎くんも鬼舞辻無惨に襲われることくらいあるよね。



登山道の8割は奥多摩にありがちな杉林で眺望が死んでいるが,七ツ石山を過ぎた辺りからは樹木が減って多少は開けてくる。山頂付近は良い眺望で楽しい。が,同時にその辺りから道が険しくなり,岩場も出現する。残りの体力には注意が必要。



あとは雲取山と言えば平将門の迷走ルートとして話題になったことがある。鴨沢から七ツ石山に寄る登山道で登ると,これらの看板は全て確認できる。むちゃくちゃなストーリー展開がけっこう面白い。
・登山中にこんな立て看板を読まされたらこれはもう登らざるを得ないよ、というお話「楽しそう(笑)」「考えたな」(Togetter)

我々の登頂の際は富士山に先立って山小屋を経験しておくという目的があったので雲取山荘に宿泊。その日は酷暑だったためか人が少なく部屋は頬付と2人であったが,普通は他のグループと合わせて4・5人で一部屋らしい。環境は良かった。下山路では三条の湯に寄った。濃いアルカリ性の鉱泉で面白かった。



総合すると,あまりに長い登山道だが,その長さを楽しむ登山ではあろうか。『鬼滅の刃』の竈門炭治郎の出身地として聖地巡礼するには,初心者には厳しい山だが,体力に自身があるなら挑戦してみてほしい。


No.22 大菩薩嶺
〔標高〕2056m
〔標高差〕470m(上日川峠から),1160m(裂石登山口から)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕13巻
〔県のグレーディング〕2A
〔私的な難易度と感想〕2A(裂石登山口からなら3A+)
小説『大菩薩峠』で有名な山……なのだが,私は未読である。また,現在の(また小説内で)大菩薩峠とされている場所は歴史的な大菩薩峠ではないらしい。ともあれ,バスで標高1500m超まで行けてしまうので,非常に楽な登山ができる。大菩薩峠はバス停からすぐ,1時間20分ほどで着き,かなり眺望が良い。



山頂は峠から30分ほど歩くと着くが,こちらは逆に眺望が無い。ピークハントに興味が無ければ峠から少し進んだ賽の河原を観光してすぐに帰ってもいいだろう。上日川峠ルートの欠点はバスが土日にしか走っていないことと,バスが混んでいることくらいしかない。



私が行った時は上日川峠に戻ると早くなりすぎてつまらないということで,逆側の裂石登山口から下山することにした。こちらは楽すぎず,普通の登山道であった。コースタイムは3時間ほど。眺望は無いが,森林浴はまずまず気持ちいい。特に面白みは無いが,後述するような事情からこちらから降りるのも良いだろう。裂石登山口から下りると,すぐそこに雲峰寺という寺があり,武田氏縁の宝物殿がなかなか面白かった。また,裂石登山口からJR塩山駅に向かってバスに乗ると途中に塩山温泉があり,ここの宏池荘が強アルカリ性の温泉で非常に良かった。源泉が約25度でちょうどよく,40度ほどに加温された浴槽と源泉かけ流しの浴槽があるので,交互に入ることを勧められるが,確かにそれが気持ちいい。建物の外観が古く風貌がちょっと怪しいが,気にせずに入るべし。温泉を出たら最後に塩山駅か甲府駅でほうとうを食べて帰れば,綺麗に一日が終わるのでお勧め。  
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2022年03月06日

登山記録7(美ヶ原,武甲山)

No.19 美ヶ原
〔標高〕2034m
〔標高差〕620m(三城いこいの広場から),100m(道の駅から)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕11巻(のおまけ)
〔県のグレーディング〕2B
〔私的な難易度と感想〕3A+(道の駅からなら1A)
「美ヶ原」とは大仰なネーミングだと思いきや,全く名前負けしていない。山域がだだっ広く,東半分は名前の通りの美しい草原が広がっている。見よ,この圧倒的な光景。

この草原の最東端が道の駅になっているので,まじめに登山するのが億劫なら高低差100mのここまで自家用車で行くことができる。また,そこからは山頂すぐそこまでバスも出ているので,極端に言えばほとんど歩かずに山頂の「王ヶ頭」まで行ける(したがって難易度は1A)。もちろん,草原の真ん中を割るように通してあるトレッキングコースを歩くのはとても気持ちいい。コースの分岐に「塩くれ場」,すなわち牛が塩をなめに来る岩場があるように,草原には時期が良ければ牧場の牛が闊歩している。私が行ったのが晩秋なのですでに寒く,牛は牛舎から出てきてくれなかった。山頂の王ヶ頭には電波塔が並び立っていて,人によっては自然破壊に見えるだろうが,私を含めた多数派の感想は偉容を誇っていて面白いというものだろう。



王ヶ頭から西に進むと,美ヶ原の最西端「王ヶ鼻」にたどり着く。ここは王ヶ頭よりも草原から突き出ているために270度の大パノラマで眺望はこちらの方が良いが,王ヶ頭でも十分な眺望ではあるので,体力と相談してここまで行くか決めるとよい。また王ヶ鼻は謎の石像群が並んでいて,ここも昔は修験道の場だったことを忍ばせる。

登山道はいずれも王ヶ頭・王ヶ鼻に向かって西南方向から伸びている。難易度は長野県の公式グレーディングだと2Bになっていたが,実際に登った感覚としてはBにするほどの難易度が無い。多摩の低山にありそうな感じの,よく整備された登りやすい登山道で,登り慣れている人ならさして苦労せずに登頂できるだろう。ただし,登山道はそこそこ長く,美ヶ原高原が広大であるので,ちゃんと登って高原もそこそこ回ると6時間前後のコースタイムになる。今度は逆に公式グレーディングが"2"になっていたのだが,これは"3"相当だろう。公式グレーディングがこれだけ当てにならない山は珍しい。魅力的で離れがたい光景が続くからこそ時間の余裕を持って回りたい山である。なお,あまり宣伝されていないが,美ヶ原の南面麓,登山道付近の森林が「長野県民の森」に指定されていて,森林の多い長野県の中でもそう指定されているだけのことはあり,見事な森だった。美ヶ原を登ったなら,ぜひここも訪れてほしい(下のツイートの4枚目が県民の森)。



ところで,『ヤマノススメ』で美ヶ原って出てきたっけ? と思った方がいたら鋭い。11巻の単行本のおまけで,黒崎家が訪れていて,王ヶ頭ホテルに泊まったという描写が出てくるだけである。この際に,ほのかが夜にホテルを抜け出して夜景を眺めているのだが,行ったのが真冬で-20度とのこと。これは作者の実体験らしく,その時の写真がたまにTwitterに上がっている。




No.20 武甲山
〔標高〕1304m
〔標高差〕1000m(横瀬駅から),780m(登山口から)
〔百名山認定〕二百名山
〔ヤマノススメ〕12巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕3A+(登山口からなら2A+)
埼玉県の誇るピラミッド。登山道は西武秩父線の横瀬駅から登る道と秩父鉄道の浦山口駅から登る道があるが,2021年11月時点で崩落していて通行止めとなっていた。復旧するまでは横瀬駅側から登るしかないが,横瀬駅から登山口までがかなり遠く,1時間半はかかる。登山口の駐車場はそれなりに広いので,自家用車で行けるならそれに越したことはない。私が行った時は横瀬駅から歩いたが,これはこれで面白かったので一度なら歩いてもいいだろう。武甲山がピラミッド,人工物らしい形状になっているのは古くからの石灰の石切場となっているためで,横瀬駅から登山道までの道の両側はびっしりとセメント工場が立ち並んでいる。『ヤマノススメ』でもこの工場群が推されていて,「眺めながら登山道に向かうのも一興」と評されていた。大人の社会科見学だなーと思っていたら,登山口にあるカフェで地元の人に話しを聞いたところ,実際に工場見学はよく開かれているらしい。道に石灰が厚く積もっていて真っ白だったのにも笑ったが,石灰等を吸った処理水が火山や温泉でよく見る色に染まっていたのが一番笑った。



しかしまあ,歩かないに越したことはないので,浦山口駅からのルートが早々に復旧されないならバスを引くのを西武鉄道さんにお願いしたい。登山口にあるカフェのLOGMOGは良い店で,そこそこ長い登山道のため,ここで最後の腹ごしらえをしておきたい。看板ヤギがかわいい。さて,登山道はさして面白みがなく極普通で,道に迷うこともない。埼玉県にしてはよく整備されているのは,登る人が多いためか,県外でも知られているためか。他の山とのあまりの整備具合のギャップに少し驚いた(その気合を少し関八州見晴台なり棒ノ嶺なりに分けてほしい)。道中の眺望は奥多摩・秩父にありがちな杉林が続き,ほぼ死んでいる。同じ石灰の山でも伊吹山は森林が死んでいたのに,こちらはよく育つものだ。この違いは伊吹山と違い,武甲山は北側斜面のみが石灰岩質で,南側斜面は普通の玄武岩だからとのこと。登山道は南側から伸びている。北側斜面は見ればわかる通り,ダイナマイトで発破しまくっているので普通に危険だから登山道がない。コースタイムは自家用車使用の登山口から4時間,横瀬駅から全部歩いて7時間弱。浦山口駅からのルートも7時間ほどかかるようなので,労力はさほど変わらなそう。

山頂からの眺望は絶景の一言で,このために登る価値あり。山容一発ネタの山じゃなかった。眼下に採石場・麓のセメント工場群がよく見え,中景には秩父市街,奥の方に本庄市,前橋市が見える。



下山後の温泉は武甲温泉がある。総合してコンテンツ力がそこそこ高く,『あの花』聖地巡礼,秩父市観光等と合わせて一度は登る価値がある山だろう(なお当方『あの花』未視聴)。  
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2022年02月14日

登山記録6(御岳山/日の出山,鎌倉アルプス)

No.16・17 御岳山/日の出山
〔標高〕929m(御岳山)/902m(日の出山)
〔標高差〕(御岳山山頂まで)御嶽駅から約700m,ケーブルカー麓の滝本駅から約530m,ケーブルカー終点の御岳山駅から約90m/(日の出山)御岳山駅から約60m,二俣尾駅から約670m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕10巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕ケーブルカー使用で1A,ロックガーデン回って2A+,麓から歩いて3A,日の出山を縦走して4A+
難易度を細かく分けたが,バリエーションルートが極めて多いためである。御嶽駅からケーブルカーまでは普通の車道で,歩道が狭い場所があって通りがかかる車がけっこう怖いので,大人しくバスに乗った方が良い。登山道も,道中に歴史を語るキャプションがあったりケーブルカーの真下をくぐれたりで楽しみが無いわけではないが,最後まで完全舗装路で登山道としての面白みはゼロに近い。ケーブルカー自体が観光名所になっているので,これも普通にケーブルカーに乗るのを勧める。山頂にいる騎馬武者像は通り掛かる人皆に「誰この人?」と言われていたので笑ってしまったが,この人は畠山重忠である。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で大活躍するはずなので,ぜひともこれを機会に名前を覚えていってほしい。神社はかなり立派で,古い宿坊が並ぶ門前町が生きているのも良く,またここからでもそれなりに眺望が良い。



それでは全く登山ではないのではないかと思われるかもしれないが,御岳山は山頂の奥にロックガーデンという観光名所があり,これをぐるっと一周回ると2時間程度かかる。また,こちらは舗装されておらず,決して難度は高くないが登山している感じは十分にする。このロックガーデンは開発開始されたのがなんと昭和10年と,都内の登山道としては極めて古いもので,バブルの資金に任せて開発した感のある三頭山の都民の森とは好対照な,自然の地形をそのまま活かした登山道であった。名前の通りで大小様々な岩石が川沿いにゴロゴロしており,二本の滝も立派である。なお,道中に天狗岩という巨岩があって鎖場をつたって登れるが,登っても特に大したことはないので登らなくていい。



御岳山は他の山への中継地でもあって,『ヤマノススメ』ルートをなぞって日の出山に行くもよし,二百名山の大岳山に行くもよしで,むしろバス・ケーブルカーを使わないと時間が足りない。たとえば御岳山をケーブルカーを使わず登り,ロックガーデンを回った上で日の出山を縦走して二俣尾駅に下山すると,YAMAPのコースタイムで8時間かかる。ケーブルカーを使えば1時間減らせる。その日の出山であるが,名前の通り奥多摩山塊の最も東方に位置していて,東方に完全に開けている。そのため絶景も絶景で,日の出山の山頂からはスカイツリーまでくっきり見えた。位置関係がわかる人なら驚くだろう。標高はわずかに900mで低いのだが,位置が良いと,低平な関東平野はここまで見渡せるのだなと感動した。



スマホのカメラの写真では全くわからないので,一眼レフのデジカメを持った友人を連れていきたいところ。日の出山からの下山路もバリエーションに富んでいて,今回私は青梅線の御嶽駅から3つ手前の二俣尾駅に降りていくルートをとったが,通っている人が全然いないのか,東京都の登山道にしては少し荒れていて枯葉も積もっていた。おそらく一番メジャーなのはつるつる温泉に降りていくルートで,つるつる温泉からは武蔵五日市駅行のバスが出ている。急激に下るのでコースタイムが短い上に,つるつる温泉がアルカリ性の温泉でここに浸かって帰れるのがすばらしい。私も次回はそうしたい。もう一つ,武蔵五日市駅に直行する金毘羅尾根ルートで,がっつり歩きたい人が多そうなYAMAPだとこのルートの記録も多かった。総じて,手軽さもあってもう二度三度と登りたい山である。



No.18 鎌倉アルプス
〔標高〕195m(太平山)
〔標高差〕鎌倉駅から約185m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕11巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕1A+
ご存じの通り山に囲まれている鎌倉の,その山をめぐるコース。北鎌倉駅から出発して明月院または建長寺の脇を通って山の中に入り,最高峰の太平山を目指す。下山路は海に向かって歩いて瑞泉寺の境内に出る。その後は町中に出て永福寺跡,鎌倉宮,法華堂跡,鶴岡八幡宮を通って鎌倉駅でゴール。『ヤマノススメ』ではその後に海まで歩いたようだ。コースタイムは登山道が2時間ほどで町中も含めると3時間弱。登山道は基本的に楽だが,わずかに鎖場・岩場があるので注意したい。登山道として挑むというよりも,鎌倉の普通の観光を一通りしたことがあって行くべき場所が少なくなってきたら歩いてみてもよいだろう。私が歩いた時は鎌倉の史跡に詳しいKousyouさんに連れて行ってもらったので,道中で細かい史跡を紹介してもらえて非常に楽しかった。「鎌倉やぐら群」と呼ばれる小規模墳墓について少し調べてから行くとより楽しめるかもしれない。  
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2022年01月19日

登山記録5(関八州見晴台,伊吹山)

No.14 関八州見晴台
〔標高〕771m
〔標高差〕530m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕8巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕2B-
『ヤマノススメ』聖地巡礼以外の目的がほぼ無い,自分としては珍しい登山。結論から言えば『ヤマノススメ』聖地巡礼目的以外なら登らなくていい。登山道は極普通で,樹林帯歩きや稜線歩きはぼちぼち楽しいが,それなら別の山でいい。肝心の眺望は,立地と名前からすると360度の絶景が広がっていそうなものだが,実際には山頂には樹林が生い茂っていて,せいぜい120度というところで関八州は全く見渡せない看板倒れになっている。また整備がひどく,YAMAPと方位磁針を頼りにしないと普通に迷っていた。YAMAPや「山と高原地図」では通行可能になっていた道が通行止めになっていたり(それも更新が間に合っていないだけと言えるような様子でもなく),何よりも下記のつぶやきの通り看板の案内が普通に間違っているのは大問題であろう。山頂でシルバーツアーの方々が「めちゃくちゃ道に迷って薮漕いできた」と話していたのも印象的で,そういうことも起きるよなと。

難易度は単純な技術だけで言えばA+でもいいくらいに易しいが,上述のような無駄に高く求められるルートファインディング能力やそれに伴うスケジュール管理能力,最悪の場合の藪漕ぎへの対応力から言ってB-とした。なお,本山は高山不動という不動明王を祀った寺院と不動三滝なる三つの滝が名物であるが,滝は枯れていたり小規模だったりで見どころにはなりえず,見に行くにはかなりの遠回りを強いられるので行かなくていい。高山不動の建物はまずまず立派で寄る価値があるが,キャプションがかすれていて読めないなど,ここでも不整備が目立った。いろいろな意味で残念な山である。そう思って『ヤマノススメ』8巻を読んでみると,この山はあおいが山頂でコーヒーを淹れる回であって山はメインではなく,滝に寄っていなかった。さもありなん。


No.15 伊吹山
〔標高〕1377m
〔標高差〕1160m
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕9巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕3B
高山ばかりという批判もある日本百名山だが,1500m以下で入っているものは4座しかなく,伊吹山はそのうちの1座である……ということが登山口の簡易ビジターセンターで熱心に説明されていた。確かに標高は1500mに満たないが,琵琶湖の湖岸から少し内陸に入っただけの場所からスタートするので登山口の標高は220mしかなく,獲得標高は1200m近いから普通にけっこうな長丁場になる。登山道における最大の敵は日射で,土壌が石灰岩質であるために火山かと思うほどに樹林が発達しておらず,山の南西方向から登っていくため登山中は常に日光に照らされる。日焼け止めを入念に塗っておかないと,まさかの日焼けでリタイアということになりかねないだろう。また,石灰岩の小石・浮き石が散らばっていて転びやすく,八合目以降は岩場もある。コースタイムも6〜7時間とそこそこ長い。この辺りの注意点を勘案すると3Bでよいだろう。『ヤマノススメ』ではあおいが楽に登っているが,いつもの詐欺である。あおいが富士山に苦労する程度の体力という設定,常にどっかに飛んでくだよなこの漫画……

眺望は道中からしてずっと良く,正面には山頂が,振り向けば琵琶湖が常に見える。登山道の両側は斜面に色とりどりの草花の合間に石灰石の白石が転がっていて,これがよく映えている。花の百名山にも認定されているのは伊達ではない。鳶が飛んでいるのも趣深く,山頂の山小屋には「鳶と鷹は身体のサイズ以外に違いがない」という説明があるほど鳶の数が多い。個人的には山頂まで続く登山道がけっこう好き。1枚目が4合目からの山頂,2枚目は中腹からの琵琶湖,3枚目は8合目付近の登山道で,石灰岩の様子がよくわかるだろう。
伊吹山登山道伊吹山中腹伊吹山8合目

山頂の眺望は絶景で,登山道の方向を見れば琵琶湖の対岸まで見え,90度ほど東に目を向ければ関ヶ原である。日本史が好きなら東西両軍の配置が目に浮かんで感動することだろう。なお,その関が原方向から山頂に向かって伊吹山ドライブウェイが伸びていて,九合目まで自家用車またはバスで来ることができるので,登山をする体力・時間が無ければこちらで山頂まで来るのもよいだろう。また,山頂には大きな山小屋があって,昼食や土産物が豊富に準備されている。観光としては記紀神話に登場し,ヤマトタケルが白猪と戦っている(しかも白猪が勝っている)ことがアピールされている。ヤマトタケルの巨大な像もあれば白猪の像もあった。その辺りの面白さも含めてさすがは日本百名山であり,難易度のちょうど良さも含めて私は大好きな山である。  
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2021年12月20日

登山記録4(奥高尾縦走路)

初回はこちら。各項目の説明は初回を参照のこと。


No.11・12・13 奥高尾縦走路(陣馬山・景信山・小仏城山)
〔標高〕855m(陣馬山)・727m(景信山)・670m(小仏城山)
〔標高差〕640m(陣馬山,栃谷尾根ルート),530m(陣馬山,陣馬高原ルート)
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕8巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕全部合わせて4A
陣場山から明王峠・景信山・小仏峠・小仏城山と抜けて高尾山から下山する縦走路。山を4つ登頂する割には難易度が低く,お手軽に日帰り縦走を体験できる。いずれの山も極めてよく整備されていて,まず迷うことも躓いて転ぶこともない。最初の陣馬山がやや険しく,特に栃谷尾根ルートは難易度に似合わない急登であるので少しだけ気をつけた方がいいかもしれない。なお,栃谷尾根ルートは出発地点がJR藤野駅でバスが不要である代わりに登頂まで3時間15分かかり,陣馬高原ルートは駅からのバスがけっこう長い代わりに1時間50分と登山時間を大きく圧縮できる。栃谷尾根ルートは登山道入り口がややわかりづらいので,こちらから登る場合は注意されたい。陣馬山の山頂といえば巨大な白馬像で,これは1960年代後半に京王電鉄が建てたもので特に深い意味は無いようだ。眺望は「天気が良ければ富士山が見える」という触れ込みで,私が登った時にも確かに見えたが……これは誇大広告気味なような。あとは『ヤマノススメ』でも食べられている通り,陣馬山山頂の山小屋で売られているきのこ汁はけっこう美味しい。聖地巡礼目的でなくても食べるとよい。

陣馬山眺望陣馬山の白い馬像陣馬山きのこ汁



陣馬山から40分で明王峠,そこから30分で堂所山,そこからさらに1時間歩くと景信山に着く。陣馬山とは逆の関東平野側に開けているので,樹林帯の切れ目から東京方面の市街地が見える。ここもきのこ汁が名物なのだが,私が行ったタイミングでは売店が閉まっていた。オフシーズンなので仕方がない。陣馬山に比べると正直魅力に欠ける。

景信山眺望


景信山から40分で小仏峠。ここは古来利用されていた甲斐路の交通の要衝で,武田信玄が北条氏と戦ったときにここを越えている(これが滝山城から八王子城に防衛拠点を移す契機となった)。江戸時代には甲州道中が通り,明治時代には天皇が行幸し,現在ではJR中央線と高速道路(中央自動車道)が付近を通っている。そのため,小仏峠からは中央自動車道がよく見え,その音もする。これはこれで1つの景観だろう。「明治天皇小佛峠御小休所阯」なる,小休止しただけにしては仰々しい石碑も立っている。

明治天皇小休止の碑


最後に小仏峠から25分で小仏城山,そこから1時間ほどで高尾山に着く。小仏城山以降は木道になり,整備が極まっている。逆に言って高尾山登山口から小仏城山までは革靴でも登山可能。栃谷尾根登山口から登って高尾山6号路で下山したとして,総行程9時間,距離にして18km超,5つのピークを越えるの長丁場になるが,まともな登りは最初の陣馬山のみで残りは小刻みなアップダウンに過ぎないから膝への負担は少なく,それに比して達成感はある。
  
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2021年12月11日

登山記録3(瑞牆山・金峰山),あと『ヤマノススメサードシーズン』について

初回はこちら。各項目の説明は初回を参照のこと。長くなったので今回は2座だけ。YAMAPのヤマノススメ巡礼マップ(瑞牆山・金峰山)も参照のこと。

No.9 瑞牆山
〔標高〕2230m
〔標高差〕750m(瑞牆山荘から)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕7巻・アニメ3期
〔県のグレーディング〕2C
〔私的な難易度と感想〕2C ※ 下記を参照のこと
自分が初めて本格的に挑んだ難易度Cの山。ただし,岩が頑丈でしっかりしているし,切り立った痩せ尾根があるわけでもない。コースタイムは瑞牆山荘からで4時間50分。富士見平でテント泊するなら3時間20分になるから,旅程も短くてあっという間に山頂に着いてしまうから,体力もそれほど必要としない。と削っていくと残ったものから推測がつく通り,この山の難易度は純粋にアスレチック的・ロッククライミング的テクニックに偏っている。コースタイムのうち最後の1時間は岩場と鎖場とハシゴしかない。要するにこういう感じの道が延々と続く。ボルダリング完全未経験で,当時はまだ三点支持? なにそれおいしいの? というレベルだった私は2・3箇所足をかける場所がわからなくて途中で帰ろうかと思った。今ならもう少し楽に登れるかもしれない。ともあれ,テクニック理由で登頂未達になりかけたのは登山を始めて5年ほどの現在でも瑞牆山が最初で最後である。逆に言えば,その辺の経験やセンスがある人にとっては軽い山で,難易度Bの山よりも簡単に感じるかもしれない。同様の理由で,ロッククライミングのつもりで行くと逆に物足りないだろう。

瑞牆山道中


麓から見上げた山容も威容なら山頂からの眺望も威容で,切り立った奇岩による山水画の世界を楽しむことができる。次の写真は麓からのものだが,この光景だけでも瑞牆山は価値が高い。

瑞牆山の山容


その他の注意点としては,人気の山で登山者が多い割に山頂が狭い。山頂で昼食休憩を考えているなら早めの時間帯に行った方がいいだろう。あと岩壁をよじ登っていく関係で道が非常に狭いので,難易度が高い箇所で詰まると自分が原因で渋滞が発生するのも注意が必要。発生させた張本人が言うのだから間違いない。なお,YAMAPにはヤマノススメ聖地巡礼用MAPが用意されていて,我々もこれを利用して登った。それにしても,これを「きつい登りだけど何とか平気」と言いつつあっさり登ったあおいはアスレチック能力はかなり高い。少なくとも私より高い。そうそう,原作通りに富士見平でキャンプするのも悪くないだろうが,瑞牆山荘は山小屋とは思えないほど設備が良い。なにせ風呂までついている。夕飯もローストビーフが出てきて驚いた。お勧め。


No.10 金峰山
〔標高〕2599m
〔標高差〕1120m(瑞牆山荘から)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕7巻・アニメ3期
〔県のグレーディング〕4C(瑞牆山荘から)・2B(大弛峠から)
〔私的な難易度と感想〕4C ※ 下記を参照のこと
瑞牆山のお隣の山にして,奥秩父の盟主,第二の高峰。山梨県民は「きんぷさん」,長野県民は「きんぽうさん」と読むらしい。自分が2021年までに登った山の中では最高難易度。コースタイム7時間30分(行きが4時間)で標高差1120m,1時間に300m上がらないということからわかる通り,急登は多くない。特に行きの前半2時間ほど,「大日岩」という名所の少し手前まではただの樹林帯が続く。ところが後半が難易度のCたる所以で,鎖場からの鎖場,特に「砂払いの頭」「千代の吹上」という名所以降は基本的に痩せ尾根と崖が続く。ちょうどこの辺りで森林限界を超えるので,視界に岩と空しかない世界になることもあって異世界感が強い。ただし,岩場・鎖場は瑞牆山ほどには厳しくなくて私でも詰まった場所はなかったし,また合間に普通の山道が入る。どちらかというと痩せ尾根の方が危険度が高い。『ヤマノススメ』作中で楓さんが「森林限界を超えたら気持ちのいい稜線歩きが続くから,そこまでがんばりましょう!」と言うのだが,それ自体は正しいのだけども,むしろ稜線歩きの方が緊張するので気持ちは休まらない。

金峰山道中


確かこれが千代の吹上付近だったと思うが……改めて見ても画面の右側おかしいやろ。技術的に登れない箇所は出てこないけど滑落して死ぬ可能性があるのはこちらという点で瑞牆山とは好対照であると思う。私的には体力は割りと余裕があったが,この気の抜けない難所が断続的に続くために精神が削られた。山頂は,本来なら富士山も見える絶景なのだが我々が登った時は完全に霧の中であった。それで痩せ尾根が余計に怖かったところもあるかもしれない。後でこの時の同行者に後に「トラウマになっていて過大に怖がっているのでは」と言われたことがあり,それはなくもないと自分でも思う。ただ,それはそれとして,『ヤマノススメ』聖地巡礼勢のサイトや同人誌を読むに割りと皆苦戦しており,あおいとひなた同様に山頂未達の人も見かける。少なくとも現状のアニメ版『ヤマノススメ』聖地巡礼では最難関なのは間違いないと言える(原作だと石鎚山に負けるが,あそこはあおいとひなたが登っていないので例外とすると,原作でも最難関か)。

そんな金峰山であるので,原作7巻でひなたが膝が痛むと言いだして,あおいが付き添って途中で下山に切り替えたのは判断として正しい。描写を見るに,上述の通りに難易度が上がり始める頃の大日岩付近で引き返したのだろう。ところが,アニメ版ではひなたが膝が痛いことを打ち明けるのがもうかなり山頂に近い「砂払いの頭」に変わっているので,実はかなり不自然なことになっている。上述の通りの難易度であるので,あおいがひなたの分のザックも背負いながらここから下山できてしまうのは,それまでのあおいの登山能力との乖離が激しくなってしまうのだ。しかしながら,これが愛のなせる技なんだなと脳内補完しながら,あのカップルはこんな危険箇所で仲直りしていちゃついてたんだなという思いを馳せながら登ると,聖地巡礼としては極めて楽しめるのではないかと思う。我々も「12話のあのシーン,この岩の上だったのかよwwwww」と爆笑しながら下山していたので,疲労の割には非常に楽しかった良い印象の方が強い。これは登って現地で見ないと実感として理解できないと思われるので,正しく聖地巡礼の意味があり,最も巡礼の価値がある山でもある。この意味で原作信者は3期アニメの改変に対して切れていい。『ヤマノススメ』に存在しているのかは知らないが。あと,息を切らしていないどころか楓さんよりも体力残ってそうな感じで完走したここなちゃんは一体。

『ヤマノススメ』ではあおいとひなたが登頂していないためか描写されていなかったが,金峰山の山頂から少しだけ下りたところにある金峰山小屋の名物が鍋焼きうどんである。これが恐ろしい登山道で疲弊した体力と精神を回復させるから,ぜひとも昼飯はここで。あとこの山小屋の犬がかわいい。

金峰山小屋の鍋焼きうどん金峰山小屋の犬


ところでこの金峰山は登山道が大きく分けて2ルートあり,1つは『ヤマノススメ』と同様に1泊2日で瑞牆山と縦走する,瑞牆山荘を拠点として西側から登るもの。もう1つは正反対の東側,大弛峠から登るものである。前者は既述の通り4Cと高難度だが,後者は地方自治体グレーディングで2Bとなっているから,おそらくさして苦労せず登れてしまうのだと思われる。個人的にはトラウマの払拭と眺望のリベンジを兼ねて,今度は大弛峠から登ってみたい。  
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2021年12月04日

登山記録2(霧ヶ峰・棒ノ嶺・地蔵岳・筑波山)

初回はこちら。各項目の説明は初回を参照のこと。

霧ヶ峰高原No.5 霧ヶ峰(車山)
〔標高〕1,925m
〔標高差〕車山の麓からで125m,八島ヶ原湿原からで約300m
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕4巻・アニメ2期
〔県のグレーディング〕3A(一番長いコースの場合)
〔私的な難易度と感想〕3A
旅行記をすでに書いているので,詳しくはそちらで……と思ったら当時に登山的なことは何も書いていなかった。霧ヶ峰は高原であるので登山可能な領域はかなり広く,東西に長い。最西端は八島ヶ原湿原,最東端が最高地点の車山山頂である。八島ヶ原湿原から出発して車山の方向へ歩いていくか,車山の麓の車山肩駐車場から出発して先に山頂を制覇し,その後八島ヶ原湿原に向かって歩いていくか,どちらかが一般的なコースになるだろう。どちらのスタート地点へも豊富にバスが出ている。道はよく整備されていて難易度は高尾山以下だが,八島ヶ原湿原から車山山頂まで全部歩くと5時間超になり,かなり長いのでルート取りは注意が必要。景観は,ある年齢層以上の人なら思わずWindowsXPと言ってしまうこと請け合いの草原が広がっている。なお,景色を楽しむだけならヴィーナスラインで外周を車で走る方が良いというのは禁句である。


(『ヤマノススメ』順で行くと本来なら次は谷川岳になるが,雪山登山であったため難易度が測れないので省略。2022年の夏秋で登ると思う。)


PIC000137No.6 棒ノ嶺(棒ノ折山)
〔標高〕969m
〔標高差〕白谷沢登山口からで640m,さわらびの湯からで700m
〔百名山認定〕無し
〔ヤマノススメ〕5巻
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕2B
初めて他人を誘って登った山として,私的には印象深い。飯能駅からバスに乗って名栗湖まで,そこからが登山。名栗湖自体がなかなか景観が良い。登りは手軽に沢登りできるのが特徴で,登山道は涼やかである。白谷沢登山道の前半は沢登りになっていて,それほど滑って転ぶ危険無く沢登りが楽しめる。高尾山6号路の次はここだろう。一方,沢以外の登山道はけっこう荒れていてやや登りにくい。道中けっこう「ここは本当に道なのか?」というような場所があって困惑した。同行の埼玉県出身者に聞いたところ「埼玉県民は山梨県民や長野県民とはまた違った山の民なので,登山道が荒れていても大して気にしないところがある。『ヤマノススメ』見てればわかるでしょ?」という非常に説得力のある説明をされて納得するしかなかった。山頂からの眺望はそこまで良くない。棒ノ嶺で画像検索をすると道中の沢登りの写真ばかりで山頂からの眺望が少ないところからも察してほしい。ここはあくまで沢登りとちょっと荒れた登山道を楽しむ山なのであって,眺望を期待する山ではないのだろう。難易度はそこら辺を考慮してB,コースタイムは4時間40分。下山後は登山口付近にあるさわらびの湯で汗を流すのが鉄板。地元の特産品と『ヤマノススメ』グッズが売っている。


赤城山地蔵岳No.7 地蔵岳(赤城山)
〔標高〕1674m
〔標高差〕約310m
〔百名山認定〕無し(赤城山は百名山)
〔ヤマノススメ〕5巻・アニメ3期
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕1A+
『ヤマノススメ』が表紙のMAPが限定配布されていたので,こういう機会でも無いと登らない山だと思って急遽登山に行った。取り立てて特徴は無い登山道で,登りやすくも登りづらくもなく。コースタイムは1時間45分ほど。本来は大沼が一望できて眺望が良いのだが,私が登った時は霧が出ていてあまり見えなかった。『ヤマノススメ』でも雨が降っていて眺望が死んでいたので,聖地巡礼としては正しかったのかもしれないが……。写真の通り,山頂には複数の電波塔が建っていて,これが特徴になっている。霧中の電波塔が意外と映えていたのが救いか。しかし,『ヤマノススメ』聖地巡礼目的ではないなら特にお勧めするような山ではなく,やはり普通に赤城山最高峰の黒檜山に登るべきだろう。そんなことよりも麓の駐車場のドリフト痕がとんでもないことになっていて,そちらの記憶の方が強い。まだまだそういう文化が残っていて,その聖地なのだなぁ。黒檜山もそのうち登りに行きたい。下山後,アニメ版でここながぐんまちゃんに出会う赤城神社にも行ったが,アニメ放映当時と異なり,名物らしき朱塗りの長い橋は通行禁止になっていたので少し残念である(2019年6月時点)。『ヤマノススメ』で同時にあおいとほのかが行っていた伊香保温泉については別記事参照。


(5巻登場の木曽駒ヶ岳は未踏)


筑波山夜景No.8 筑波山(ナイトハイク)
〔標高〕877m
〔標高差〕約350m(おたつ石コース,ロープウェー不使用)
〔百名山認定〕百名山
〔ヤマノススメ〕6巻・アニメ3期
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕1A
『ヤマノススメ』での登場があおいとひなたのナイトデート……もといナイトハイクであったので,私も友人たちとナイトハイクを決行した。ライトは富士山の時に使用したかなり強いやつを持っていったので,暗くて困ることは特に無かった。登山道はよく整備されている上に,観光スポットが多く,コースタイムは女体山山頂までで70分。そこから男体山まで足を伸ばしても25分増えるだけとかなり短いため飽きずに登山を楽しむことができる。男体山よりも女体山の方が標高が高いのはあまり見ないと思われる。女体山山頂からの眺望は良く,ナイトハイクだったために関東平野の夜景が綺麗であった。スマホのカメラなので多分全然伝わっていないのが惜しい。これは確かにデートスポットになりますわ。ケーブルカーやロープウェーを使えば全く登山せずに済むという点でも勧めやすい。普通に登るにしても下山はケーブルカーかロープウェーでよいと思う。なお,我々もケーブルカーで下山したのだが,その後の時間調整をミスして長時間バス停で待ちぼうけを食らう羽目になるはずだったところ,ケーブルカー付近のお店にお勤めの方に声をかけていただいて駅に近いバス停まで送ってもらったということがあった。茨城県民の心は温かい。それはそれとして,ケーブルカーとバスの乗り換え時間がシビアなのは間違いなく,観光地の割りには注意して計画を立てた方が良さそう。乗り放題パスを作っているのだから,公共交通機関同士で少し調整してほしい。  
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2021年11月20日

登山記録(高尾山・天覧山・三ツ峠山・富士山)

5・6年前から趣味の1つに加わったはいいが大してブログに書いてなかったために溜まりこんだ登山系の旅行記と,好きなのに全く感想を書いていない『ヤマノススメ』の漫画&アニメの感想,そして既存の登山難度グレーディングに対する注文をどう処理しようか迷った挙げ句,まとめて処理すべく,登山記録をつけていくことにした。記録の順番に迷ったが,『ヤマノススメ』の聖地巡礼として行ったところをまず原作登場順に記録し,次に未登場の山を北から順に書き,尽きたところからは時系列とすることにした。また,1記事につき4・5座程度として,ストックのある35座程度が消化し終わるまでは2・3週間ごとに投稿し,尽きてからは1シーズンごとに投稿することにした。

紹介形式であるが,まず山のステータスを書いて,後ろに登山の感想などを付していくことにする。山の名前には何かしらの情報サイトへのリンクを張っておいた。

〔標高と標高差〕
文字通りの標高と,自分が登った際のスタート地点とのおおまかな標高差。
〔百名山認定〕
日本百名山・二百名山・三百名山・花の百名山・新百名山に入っている場合はそれをここに記載。重複しているものは左に書いたものを優先。
〔ヤマノススメ〕
『ヤマノススメ』の原作またはアニメに登場している場合はここに話数を記載。なお,私が登山を始めた契機は寺社仏閣巡りの延長線上で,投入堂と浅間大社奥宮が当初の目的であり,『ヤマノススメ』は後付だったりする。天覧山・富士山・谷川岳・金峰山以外はそれ目的というよりも偶然重なっていたという意味合いの方が強い。ヤマノススメの聖地巡礼については次のサイトが参考になる。
・ヤマノススメ聖地巡礼 全山行一覧(クレコ)
〔県のグレーディング〕
都道府県が認定している難易度グレーディングがある場合はここに記載。これには少し補足説明が要るだろう。登山ブームによる無謀登山が増えたことを受けて,近年は長野県や山梨県が中心となって地方自治体が難易度の目安を発表している。たとえば長野県はこれ。他の都道府県にもリンクが張られている通り,参加している県は年々増えており,5年前くらいは8つだったと思うのだが,現在は11まで増えた。非常に有用なのでできれば全県で実施してほしい(埼玉県のお前のことだぞ)。なにせ百名山でさえまだ67座しかカバーされていない。このグレーディングの基準は2つあり,数字とアルファベットで表示される。数字の1〜10は体力度で,実際には細かな計算があるが,大雑把に言えば数字が1増えると2.0〜2.5時間くらい歩行時間が増える。アルファベットは技術などの難易度で,
A:初心者向け。ほぼ階段か土の斜面しかなく,ほとんどがスニーカーで登れる。
B:多少の岩場・鎖場・痩せ尾根・沢登り等の危険箇所が登場。登山装備が必要になるが,滑落しても死ぬ危険性は低い。
C:中級者向け。危険箇所がBよりも増え,滑落したら明らかに死ぬ箇所が出てくる。
D・E:上級者向け。
となっている。
〔私的な難易度と感想〕(写真がある場合は写真)
実は上述のグレーディングはA〜Eの5段階でつけている関係で,特にA・Bはそれぞれの中での幅が広く,比較すると同グレーディングとは思えない事例が散見される。また,アスレチック的な技術・ルートファインディング能力・日照や補給への対策等の難度を一本化して評価したものであるため,特にA〜CはこのうちのどれのせいでAではなくてB・Cなのかがわかりにくいという欠点がある。そこで本記録では私自身の経験とネット上の他者の登山記録等から,A・B・CをさらにA・A+・B-・B・B+・Cの6段階に分け,その上でB-以上はA+以下ではない理由を付すことにした。なお,D以上の山は私自身が登れる気が全くしないため,本記事にはそもそも登場しない。というよりもD以上を登れる人はB以下の細かい難易度の差なんて大して気にせんでしょ(偏見)。以下は一例。


No.1 高尾山
〔標高〕599m
〔標高差〕約400m
〔百名山認定〕花の百名山
〔ヤマノススメ〕1巻・アニメ1期
〔県のグレーディング〕2A
〔私的な難易度と感想〕2A(1号路)・2A+(6号路,稲荷山)
皆大好き高尾山。スニーカーでも,何なら革靴でも登れる山として有名。私も1号路・6号路・稲荷山ルートで4回くらい登った。1号路は寺院沿いということもあって整備されているというよりも石段が続くが,1号路は石段がかえってきつい。純粋な膝への負担だけで言えば6号路よりもきついと思う。ただ,観光地としては優れているので,6号路で登って1号路で下るのがよい。『ヤマノススメ』は正反対に1号路から登って6号路から下りているのだが,その6号路の途中であおい・ひなたがここなと出会っている。6号路と稲荷山ルートはどちらも1号路に比べるとちゃんとした登山路であるが,私は6号路を進める。6号路は樹林歩きが気持ちよく,簡単な沢登りがあって,これが結構楽しいからだ。沢登りがあるのでA+とした。滑って転ばないように気をつけよう。これに比べると稲荷山ルートはちょっと見どころに欠けるかなと思う。ただし眺望は稲荷山ルートの方が良い。



天覧山No.2 天覧山・多峯主山
〔標高〕197m・291m
〔標高差〕天覧山で約80m
〔百名山認定〕認定なし
〔ヤマノススメ〕1巻・アニメ1期,3巻・アニメ2期
〔県のグレーディング〕無し
〔私的な難易度と感想〕1A
完全に『ヤマノススメ』の聖地巡礼のためだけに登った珍しい山。天覧山は1883年に天皇がここから練兵を視察したことからこの名前がついた。その天覧山は1Aというか,完全に散歩である。15分もあれば重文に登頂可能。景色は写真の通りなかなか良く,飯能の市街地が一望できる。飯能市が誇るのも,『ヤマノススメ』の作品最初の山に選ばれるのもよくわかるところ。1つ奥の多峯主山(とうのすやま)になると少しちゃんとした登山になるが,それでも高尾山6号路よりは楽で,天覧山からは30分弱で着く。樹林歩きとしてはまずまず楽しいし,山頂からの眺望もあるが,聖地巡礼が目的でないならしいて行かなくていいかなと。なお,天覧山麓にある飯能市博物館が無料の割にコンテンツが充実していて,飯能市の歴史や自然がよくわかるのでお勧め。また,多峯主山からの下山はピストンで天覧山に戻った方がいい。そのまま反対側に下山すると市街地から大きく外れることになり,正直に言って見どころが薄い。


こんな感じで続きます。
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2020年12月30日

四国百名山登山記(四国剣山・石鎚山)

11月末に四国に行ってきた。2020年は西日本に行ってばかりである。メンバーは頬付としいかあ。初日は車で大阪・神戸を素通りし,明石海峡大橋・大鳴門橋を通って四国に上陸,徳島県を横断して一気に四国剣山まで。徳島県の内陸部は吉野川から少し外れると途端に道が狭くなった。山道の自動車道が狭いのは特に驚くことではないが,徳島県の場合はまだ集落が残っていて生活道路に分類できそうな段階からすでに1車線になり,行政区分でいうと「つるぎ町」のエリアは道がひどかった。運転手の頬付が(慣れた感じではあったが)困惑していた。四国剣山は登山道入り口までの難度が全行程で一番高い気がする。

ともあれ四国剣山は長い長い山道が続くだけあって,自動車で標高1420mまで登ることができる。しかも本来ならそこからリフトで1750mまで上ってしまえるのだが,リフトは雪がちらついたら停止してしまうそうで,2020年は11/23に休業となった。これは事前に調べがついていたのだが,リフトに頼らなくても登山時間が50分しか増えないので大してきつくなさそう,むしろ観光客が減って登山しやすそうだから良いのではということで今回の登山先が四国剣山になったという経緯がある。

駐車場に着いた時点ですでに雪がちらついていて,かなり寒かったのでいそいそと着込み,出発地点の剣神社に参拝して出発。ここも神仏分離・廃仏毀釈でダメージを受けたようだが,現在でもなんとか寺と神社が並立していた。四国剣山は登山道入り口で専用アプリのインストールを勧められるが,このアプリはけっこう使い勝手が良かった。二度と起動することがなさそうだが,記念に入れっぱなしにしている。また予測通り,リフトが止まっているため他の登山客は非常に少なく,我々と同じようにそれをねらって来た人たちか,リフトが止まっているのを知らずに来てしまってなんとなく登り始めたらしき軽装の人たちと大きく二分されていた。前者にはテントをかついで登っている人たちもいたのだが,ご来光ねらいだろうか。逆に後者は我々の下山中,もう16時になろうかというタイミングで登り始めている人がいたので,「登頂までには真っ暗になるので,絶対に途中で引き返してね」と声をかけておいた。ちょうどリフトが止まった直後の時期だとこういうこともあるのだな,と登山道管理者の心配が少しわかった気がした。

さて四国剣山の登山道であるが,名前に反して,そしてよく似た名前の剱岳とは違って,非常になだらかで登りやすく,しかも登りの大半は本来ならリフトがあった区間であったので,登山としては非常に楽な分類に入る。特に山頂付近がなだらかというのは四国山地に共通する特徴ということが説明書きの看板に書いてあったのだが,地質学的な理由はあるのだろうか。メディアンラインが通っている影響か。グレーディングは例によって西日本なので公式のものがないが,自分でつけるならリフトありで1A,なしで2Aというところだろう。

景色は,雪がちらついていたくらいなので眺望は無きに等しかったものの,霧氷によって樹木が粉砂糖をかけたようになっており,遠目で見ると完全に桜が咲いているようにしか見えず,これが感動的に美しかった。「これを予測していたわけではないが,この時期に来たのは完全に正解だった」というのは3人の共通見解である。多くの人には四国に雪が降るイメージが全然無いと思われるので,これが11月末の四国というには信じがたい光景であろう。




ところで,四国剣山はソロモンの秘宝が隠されているという日ユ同祖論的な伝説があり,どんな電波がとんでいるのかという期待は少なからずあったのだが,実際の剣神社や登山道ではそれに関する説明やパワースポット的な展示は一切なく,拍子抜けであった。こんな感じでネットではパワースポット押しであるのでギャップが大きい。どっちに寄せていくのか,もっとはっきりしてほしい。

下山後は琴平温泉で宿泊。帰路に満濃池を見かけたが寄っている時間は無かった。これは次回への宿題だろう。夕飯はどうせなら讃岐うどんにしようという話になって店を探したものの,讃岐うどんはファストフードでありお昼ごはんであるので,基本的に夕食営業はしていないという事実にぶち当たることになった。結局,讃岐うどんでもなんでもない普通のうどんを食して就寝。

二日目。早朝出発して一気に移動し,愛媛県に入って今度は石鎚山の麓へ。愛媛県に入った途端に産業が変わったのがちょっと面白かった。四国中央市から新居浜市にかけての工業地帯はなかなか見応えがある。石鎚山はロープウェーが必須で,こちらは年中動いている。ロープウェーで標高455mから1300mまで一気に稼ぐことになるし,明らかに登山道が整備されていないので,乗らない場合は一泊二日を覚悟したほうがいいくらいコースタイムが変わってくると思われる。眺望はロープウェーで上った地点ですでにかなり良い。Twitterの写真だとわかりにくいが,遠景に新居浜の工業地帯や瀬戸内海まで見えるので,山脈から田園風景へ,そして工業地帯から海へ……というグラデーションが楽しめる。また,この日も山頂付近は霧氷ができていて,とても美しかった。



さて石鎚山といえば4本の長大な鎖が待ち構えているのだが,実は迂回路がある。今回はボルダリング経験のある頬付と,鎖場が好きなしいかあさんがチャレンジして,私は全て迂回路という算段だった……のだが,しいかあさんは降雪に備えてアイゼンを履ける登山靴で来てしまったために上手く登れず,試しの鎖の途中で撤退となった。頬付は最後の三の鎖まで完登した。頬付三の鎖完登の様子は実は動画で撮影しているので,今度本人に送っておこう。




先に迂回路で登った感想を言うと,鎖で登らなくても登山として十分に楽しい。急登が途中で何箇所があるのと,崖に無理やり敷設した金属製階段の不安定な足場があるので,四国剣山に比べると段違いに難度が高いものの,それでも2Bというところだろう。ついでに鎖場を完全制覇した頬付にグレーディングを求めたところ,「ニノ鎖まではDかなと思っていたけど,三の鎖はEに入れていいかもしれない」「三の鎖は剱岳ぶりに死ぬかと思った」「ただし,鎖に取り掛かるまでの道程で体力を浪費しないから総合的に言うとCまで下げていい」とのことであった。ただし,三の鎖が厳しかったのは11月末であるので足場が多少凍っていた影響もあるかもしれない。それぞれ参考にしてほしい。

下山後は松山に向かう。これまたzaikabouさんのブログから見つけたお店の五志喜へ。



五志喜は完全に大当たり。zaikabouさんありがとう。郷土料理をうたうだけあって,じゃこと鯛とみかんの使い方が巧みすぎる。この店でふくめんは糸こんにゃくってこんなに味がしみるんだと衝撃を受けたので,絶対に食べてほしい。あとは鯛そうめんと伊予牛ポン酢がお勧め。なお,Googlemapのレビューだと3.9と微妙に振るわないが,理由もわかった気がした。これは多分コース料理で食べると過剰な量になるので,単品で適当に頼んだ方がよいだろう。また,看板メニューの鯛めしに限ると極普通で,他のメニューほどの美味さは無い。鯛めしが食べたいなら別の店だろう。食後は道後温泉観光をして就寝。

三日目。「松山っぽいお土産がほしい」ということで一六タルトとみかん大福を購入。みかん大福が思っていたよりも上手かった。その後は一路帰路へ。当初の計画ではしまなみ海道から本州上陸の予定だったが,改めてGooglemapに計算させたところ,往路と同じように香川県を横断して淡路島を経由したほうが早いということがわかって,そちらへ。だったら讃岐うどんにリベンジしようという話になって,丸亀で一度高速道路を下りて,昼飯は無事に讃岐うどんとなった。初めて丸亀うどんを食べたのだが,高松うどんと全く違って面白かった。個人的には高松うどんの方が好きかな。あとはひたすら東に向かって帰宅。2020年の旅行はこれにて打ち止めとなった。  
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2020年12月29日

京都旅行記2020(萬福寺・愛宕山・モロッコ料理・渉成園)

頬付が京都に用事があるというので,10月末に便乗して京都に行ってきた。初日はしいかあさんと二人で宇治・伏見に行き,二日目に合流。二日目の夜にしいかあさんと別れて,三日目は頬付と行動し,頬付とは京都で解散して一人で帰宅した。

初日の行動は黄檗宗総本山の萬福寺に行った以外はほぼ過去に二度行った宇治・伏見旅行(2017年2019年)と同じなので旅程を大幅に省略する。伏見稲荷は2017年の時は夜間で,しかもタイムリミットがあっために四の辻の手前までだったため,今回はきっちりと登頂した。忘れ物を回収した気分である。千本鳥居は木製なので30年もすると朽ちてしまう。それがゆえに新陳代謝が激しく,あれだけにょきにょき生えているのに土地不足にならないのだ,というのは今回鳥居の制作年を観察しながら登っていて発見した。それでも現在のように麓から山頂まで隙間なく立っているのは少なくとも近代になってからのようで,土産物として売っていた江戸時代の境内地図を見ると文字通りの「千本」程度の鳥居で,鳥居ごとの隙間がかなり広い。現在は真面目に数えた人の調査によると約3400本ほどであるようだ。三連休ではない普通の土日とはいえ気候の良い秋の週末だから混んでいるかと思いきや,それほどでもなかった。やはり新型コロナウィルスの影響は強いようだ。特に外国人観光客は全く見なかった。宇治は三度目なのでさすがにスムーズに聖地巡礼案内を出来たと思う。

今回初めて行ったのは黄檗宗大本山の萬福寺。黄檗宗は日本仏教13宗派の中で最後に成立したもので,一つ手前が鎌倉新仏教群であるのに対し,黄檗宗は江戸前期の17世紀半ば成立であるから400年近く遅い。開祖は隠元隆,いんげん豆を日本に持ち込んだという説で有名であるが,実際のところ語源になったのは確かながら最初かどうかは不明らしい。黄檗宗は禅宗の一つで明末清初の中国から最新の臨済宗を隠元隆が日本に持ち込んだ。したがって黄檗宗はしばらくの間「臨済正宗」を名乗っていたが,結局のところ日本では独自の進化を遂げた臨済宗とはむしろ混同される危険の方が高く,最終的に黄檗宗となった。黄檗は唐代の臨済宗禅僧の名前であり,現在では萬福寺のある場所の地名にもなっている。『響け!ユーフォニアム』で黄檗の駅名をナレーションで聞いた人は多かろう。宗派としての特徴は念仏を唱えながら坐禅を行う念仏禅であることと,儀式が中国風・念仏の読みが中国語であるなど中国的であることである。入場チケットにかかれている文言も確かに念仏で,しかも中国語読みのふりがなが入っていた。

萬福寺はそう言えば宇治にあるのに行ってないな,普茶料理(中国風の精進料理)も食ったことないなということで訪問先に加えた。訪れたファーストインプレッションは「観光客の姿が見えない」で,日本仏教13宗派の総本山を訪れた中では時宗総本山の清浄光寺の印象に限りなく近い。寺の外れでお坊さんがバスケに興じていた程度には牧歌的で,ここは本当に観光地なのか,総本山なのかという疑問がわく。にもかかわらず普茶料理はどこも予約のみ対応または完売で,しかしまあこの状況を見ると観光客が少数しか来ないし,その少数の客は確実に普茶料理を食べていくだろうから数が極めて予想しやすく,こういうことになるのは納得が行った。普茶料理はどこかでリベンジしたい。

さて萬福寺そのものであるが,こちらは流石に巨大で立派な建物が立ち並んでいて,大本山としての格を備えている。建物が中国風で,宗派としての特徴が中国風なだけはある。しかしそれだけ建物が立派な割には前述の通り牧歌的な雰囲気なので,ギャップが面白かった。次の写真からは,この近くにバスケットゴールがあって僧侶がバスケをしている様子は想像できまい。ここは本当に宇治か。

萬福寺三門


普茶料理に振られた我々は宇治に戻って抹茶パフェで飢えをしのぎ,聖地巡礼の続きをした後は一路京都に向かう。お夕飯はzaikabouさんのブログで学習して遊亀とばんからにチャレンジするも,遊亀は2時間待ち,ばんからは予約で満席でこれらも振られる。京都は予約しないとろくに飯が食えない。覚えた。結局,先斗町でGooglemapに頼って評価の高いところ,といういつもの戦法に出て,よく味のしみたおでんを食らう。あとは「猫がいる」という理由だけで選んだ祇園の外れの,限りなく民泊に近い感じの旅館に泊まった。ところで京都の町中,やたらと「風呂入れよ,銭湯行けよ」という京都市当局の啓蒙ポスターを見かけたのだが,京都市民は平安の昔にならって風呂嫌いなのだろうか。大いなる疑問が湧いた。


翌朝,しいかあさんと電車に乗って保津峡駅へ行き,現地で頬付と合流。


私的にはそんなもんだろうと思っていたのでそれほど驚きはなかったのだが,残りの二人は嵐山からわずか1駅で,都会から突然とんでもない秘境に変貌したことについてかなり驚いていた。確かに保津峡の景色が良すぎて登る前から満足してしまった。以下,愛宕山登山の様子はしいかあさんのブログに詳しいので,そちらに譲りたい。
・京都の愛宕山へ行ってきた(c_shiikaのブログ)

これを踏まえてぼちぼち書いていくと,行程自体は2時間ほどで長くないが,その2時間で獲得標高が約900mもある上に,急登と平坦な道を繰り返すので,急登が本当に急登であった。京都府なので公的なグレーディングが存在しないが,自分でつけるとして,岩場や鎖場があるわけではなく技術は不要であるし,道に迷うこともまずないものの,機械的に2Aとしてしまうのはためらわれる。高尾山のつもりで挑むとめげて撤退しそう。登山客はそこそこ多かったが,今まで登ってきた他の山とは大きく違って,明らかに地元の人が多かった。

山頂にある愛宕神社は,昔『咲-Saki-』で知った知識から火伏せの神のイメージが強かったのでてっきり主催はカグツチかと思っていたのだが,しいかあさんのブログにもある通り主祭神はイザナミという。残りの祭神がカグツチ他のイザナミファミリーで,そこに埴安神もいたので個人的にはちょっと嬉しかった。思わぬところで東方ネタに会った感じ。しかしここは愛宕神社ということは当然こうなる。



このやみこたさんの絵馬は何枚かあり,かなり継続して登山&奉納をしているようだ。諏訪大社のT20さんを彷彿とさせる。聖地になった各神社に一人ずつはこういう人がいそう。



眺望は非常に良く,京都市が一望できる。画面手前から右奥に向かって流れているのが桂川。左側にある大きな池は広沢池か。その奥の山が清水寺等の東山の南部にあたると思われる。京都の町並みを一望するのは場所の当てはめが楽しい。下山は嵐山まで戻ってハイキャンパスさん(@highcampus)と会う。全然伝えていなかったのに,前日と当日のツイートを見て京都にいるのを察して会いに来てくれた。嵐山でお勧めのわらび餅を食した後,解散。ハイキャンさんは自宅へ,しいかあさんは京都駅に向かっていった。私と頬付はこの日のホテルへ。GoToあるしな,と言って以前の加賀屋ほどではないにせよ,そこそこ奮発して良いホテルに泊まった。高いだけあって部屋も料理の満足度が高かった。お夕飯は板長の遊び心満載で,「牛スネ肉の煮凝り」「鯛すり流し」「秋茄子ポタージュ」と出てきたときには,ここの板長はなんでもすりつぶしたくなる人なのかな? と思ったりした。給仕してくれた仲居さんに聞いてみたところ,「良い意味で変な人ですね」「常に奇抜な新メニュー考えてますね」という返事が返ってきたので実際に変人らしい。


三日目。登山・観光の必要から言えば二日目までで帰宅してもよかったところ,三日目まで居残ったのは京都赤十字が行っていた赤月ゆにコラボキャンペーンのクリアファイルを得るべく,献血するためであった……のだが,



今回のこの旅行,取り逃しが多すぎる。この後は京都市街に戻ってお昼御飯。河原町で例によってGooglemapに頼って探して,見つけたのが大当たりだった。モロッコ料理のラ・バラカこの店は京都の河原町に行ったら絶対に行くべき。個人的には2020年に見つけた店の中では,蒜山高原のグリーンゲイブルスに次ぐ。



タジン鍋が思っていたよりも辛くなくて食べやすかった。入っているスパイスの種類が多く,口の中に多様な辛みが広がるが,それをフルーツの甘みが包み込んでくれる。惜しむらくは量が多く,頬付と二人でタジン鍋とクスクスを一人前ずつ頼んだが,二人でぎりぎり完食した。もう少し量を減らして値段を下げてもいいように思う。経営しているご夫婦(夫がモロッコ人)が気さくな人たちで,けっこう話し込んでしまった。「お前ら,登山やってるんだったらアトラス山脈においでよ。」と熱心に勧誘されたので「富士山より標高が高いところはちょっと(震え声)」と反応しておいた。


店を出た後,まだ京都に用事が残っていた頬付と解散し,歩いて京都駅に向かった。途中で巨大な日本庭園を見つけ,何度も京都には来ているがこんなところにこんな場所あったっけ? と気になって寄り道。この寄り道も正解だった。日本庭園の正体は渉成園



入場料500円だが,明らかに500円以上する感じの詳細なパンフレットが配られており,こんな一等地にしては異様にサービスが良い。内容は本当に品の良い池泉回遊式庭園でかなり気に入った。惜しむらくは建物の中に入れなかったことで,建物からの景色も楽しみたかったところ。上掲のツイートの通り,私が行ったタイミングでは池の水抜き工事中で,池に水が無い池泉式回遊庭園も意外と面白いものだった。水が無いことでかえって水の満ちた状態が想像され,枯山水と同じ楽しみができたと言えるのかもしれない。奥に見えるマンションもあいまって不思議な詩情がある。渉成園を出た後はさすがに素直に新幹線に乗って帰宅。


目的の場所に行けなかったり目的の物を得られなかったりした一方で,リカバリーが非常に上手くいった旅行であった。とはいえ遊亀とばんからは早いうちにリベンジしたいところ。  
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2020年12月25日

鳥取旅行記(伯耆大山),主に大山寺参道の魅力について

今年の旅行の旅行記は今年のうちに片付けたい,ということでいそいそと書いていく。9月の連休で鳥取県の伯耆大山に行ってきた。この9月の連休は東日本が曇り空と予報されていたため,晴れを求めて西に行こうという話になり,百名山から候補地を探してここになったという形である。同行者はいつもの頬付(@hoozuki37)としいかあ(@c_shiika)。以下に説明するように,登山としても楽しかったが,それ以上に伯耆大山と大山寺参道は総合的なコンテンツにあふれる山だった。以下,順に説明していく。


伯耆大山は伯耆富士の異名もある通り,見る角度によっては単独峰になって非常に形が美しい。見る角度によっては,というのがミソで,実は地図で確認すると南東90度くらいで蒜山高原の方向に山脈が連なっていて,純粋な単独峰というわけではなかったりする。しかも富士山のような綺麗なお椀型というわけでもなく,北側はU字型に大きくえぐれているので,地図で見ると形が全く美しくない。これが西側の麓から見ると綺麗な単独峰に見えるのだから,この山はむしろそこが面白いと言うべきだろう。高速道路から下りて大山寺参道に向かうとちょうどこの西側の麓を通ることになるのは,偶然のことながら素晴らしい。

伯耆大山も歴史の古い山として当然のように修験道のある信仰の山であり,登山道入り口は大山寺という寺院である。寺院の参道がかなり整備されていて,綺麗な石畳が敷き詰められ,モンベルとその姉妹店の土産物屋,温泉施設,レストラン&宿泊施設,ビジターセンターと一通りそろっていた。しかしながら整備具合が不自然に綺麗すぎるので不思議に思い,下山後に旅館で調べてわかったことだが,この大山寺の参道はすでに大量の観光客・登山客がいたにもかかわらず,21世紀初頭までかなり寂れていたそうだ。これを立て直した要因は二つ,一つは創建718年とされる大山寺開山1300年祭を2018年に盛大に祝うことが決まり,その10年前の2008年頃から大山寺と地元住民が急に観光振興にやる気を出したこと。ビジターセンターの充実度合いを考えると行政もかなり力を入れてくれたのだと思う。もう一つはそれをモンベルがバックアップする体制となって,その2008年にモンベル大山店が出店したことである。

モンベルが山の麓に出店することは珍しいことではないが,モンベル大山店は山の麓というには標高が高すぎ,また集客上の好立地とはいえ物流上の立地は最悪に近い。その割に他のモンベルと比べても店の規模がかなり大きく,見るからに熱意を感じる作りだった。それもそのはずで,次の記事を読めばわかる通り,このモンベル出店は地方自治体と提携した過疎地の復興そのものを目的にしたものであった。
・「アウトドア用品を使う地域」に出店、過疎地を元気に|新・公民連携最前線|PPPまちづくり
実際のあの賑わい,おそらく登山客の大部分は寄っていっているし,登頂目的ではなく参道観光目的の観光客も引きつけているという状況を見ると,モンベルはその社会的意義のある出店をしたと思う。あまりに感動したので,半ばお布施のつもりで大山店限定の大山開山1300年記念Tシャツを買ってしまった。隣接するモンベルフレンドショップ「大山参道市場」の品揃えもよく,鳥取県のお土産がここで揃うのはけっこうありがたかった。

モンベル以外の店舗も面白い。温泉は「豪円湯院」というのだが,ここも2013年オープンだから,まさに2008年の再生以降に建てられたものだ。そのせいか入浴料がかなり迷走していて,1000円→600円→380円→消費税増税で390円と7年で値下がりを続けた。泉質から言えば別に面白くは無かったのだが,建物や設備が豪華で,寺院の参道らしく名物の豆乳ソフトクリームもなかなかに美味しかった。390円はちょっと値下げしすぎたかなと思う。なお,施設名の「豪円」も再生への気概を感じる良い命名で,後で説明するのでお楽しみに。

また,参道途中にあるレストラン&宿泊施設の「オーベルジュ・エスプリ・ド・ラ・フォレ」も注目に値する。ここは2018年オープンで,新興の参道街の中でも一際新しい。我々は宿泊予約が埋まっていたので昼食で寄っただけだが,1,800円の値段と辺鄙な立地を考えると十分に美味しい洋食だった。このレストランはNPO法人「結」が障害者雇用を目的に設立・運営しているもので,言われてみるとウェイターさんの言動がややたどたどしいところがあったが,逆に言えば先にそう知っていないと気づかない程度の違和感の,丁寧で良い接客だった。こちらの記事によると食器も鳥取県立米子養護学校で作られたものだそうで,徹底している。これまた社会的に意義深い出店で,大山参道は本当に好きな観光名所になった。大山参道街はこの再生のストーリーをもっと全面的に打ち出して観光の宣伝をすべきで,都会の人間が過疎地の復興や障害者雇用自体に魅力を感じないと思っているのなら,それはもったいない勘違いだろう。この社会的意義の塊のような観光地は必ず人を惹きつける。


これでやっと大山寺そのものに入るのだが,この寺院の歴史も非常に面白い。まず718年の創建は,こういう古刹にありがちな歴史の嵩増しで正確には平安初期くらいがせいぜいだろうなんて思っていたのだが,大山寺宝物館には普通に白鳳時代の仏像(重要文化財)が展示されていて,むしろ718年はけっこう遠慮した年号なのでは……と反省した。そんな東博や京博の常設展示でも良い位置に置かれそうなものをしれっと展示しないでほしい。日本神話(出雲国風土記)にも登場するくらいの山だから仏教の方が遅いくらいで,よく考えたら立地としても出雲と畿内の間ではあるので,開山が早くても不自然ではない。9世紀に慈覚大師円仁に帰依して天台宗となり,修験道も発展し,神仏習合も盛んになった。中世には武装化して僧兵による内部抗争が激化したそうで,それが釈迦如来・大日如来・阿弥陀如来の信仰の対立と結びついた。ただし,天台宗と密教が来る前の根本的な信仰は地蔵菩薩であり,最終的な勝利者もその地蔵菩薩だったらしいというのがまた面白い。こうした内部抗争のため,大山寺の宝物殿や各建物の仏像は実に多種多様なものが展示されていて,また境内には数十体の地蔵菩薩の石像がある。なお,この内部抗争中に大規模な土砂崩れが起きてその一角が押し流されているそうで,自分らで登山した感想も加味すると,むしろよくこんな崩れかかった崖の真下で内部抗争してたよね君たち……という思いが去来する。

これが戦国時代に入ると内部抗争どころではなくなり,より大きな勢力である尼子氏・毛利氏等の戦国大名に睨まれて衰退の一途をたどるかに見えたが,ここで颯爽と登場したのが中興の祖,豪円僧正である。豪円は稀有な豪腕の政治家で,時代を見る目を持ち,織豊政権・江戸幕府に接近して,最終的には寺領三千石を確保,近世の繁栄の基礎を作った。一時期は天台宗の本元の延暦寺にも呼ばれていてその辣腕を奮っている。豪円僧正,信長の野望シリーズに武将として登場していないのは何かの間違いでは。政治力75は固い。18世紀初頭からは山の麓で大規模な牛馬市を主催することになり,新たな収益源と信仰を得た。その後,神仏分離と廃仏毀釈で大きなダメージを受けるも(明治政府許すまじ),そのパターンでは比較的珍しくも仏教主体で20世紀初頭に復活する。牛馬市が続いていたことの影響が大きかったようだが,その牛馬市も1937年に戦争を理由に廃止となり(日中戦争許すまじ),以後は21世紀初頭まではそれほど栄えず……という激動の歴史をたどっている。この歴史はビジターセンター(大山自然歴史館)の展示が充実していて,無料なので是非立ち寄って見学していってほしい。


最後に本題の大山登山に入るのだが,登山道入り口の参道と同様に登山道も極めてよく整備されていて,寺社の境内のうちは完全に石段,本格的な登山道に入ってもほぼ全面的に木製の階段または木道である。地方自治体グレーディングで言えば2Aか3Aかというところで,コースタイムは『山と高原地図』基準で6時間となっているが,実際には休憩時間込で5時間くらいだろう。登山コースは夏山登山コースと行者コースに分かれているが,行者コースの方が眺望の点で面白いと思う。次に貼ったツイートの通り,眺望は抜群で,日本海まで見えるのが本当に良い。山頂付近は風が強くて冬には雪が多く降るというのがよくわかる感じで,とても1,700mしかないとは思われない風景が広がっている。この辺はまさに「四分の三単独峰」であるがゆえだろう。しかも山脈になっている部分が内陸側なので,日本海からの風の影響は受けやすい。




一方で,これだけ整備しないと観光地にはなりえなかったのだろうなと思える程度には崩れやすい様子も見て取れた。当時にツイートしそびれていたのだが,登山道の中腹に非常に巨大な砂利の川「元谷」があって,これも見応えがあった。そしてこの砂利の川の下流に大山寺があるので,中世の内部抗争に水を差した土砂崩れが起きたのは必然だったのだろうと思う。この砂利の川,こんな写真では全く伝わらない程度に迫力があるので,是非実物を見てほしい。

伯耆大山_元谷



あとは周辺の観光地について,二箇所だけ。一つ目はメジャーなスポットとして,大山まきばみるくの里。めちゃくちゃ濃厚なことで有名な白バラ牛乳・白バラコーヒーを生産する大山乳業農業協同組合が直営する牧場・観光施設で,白バラ牛乳が好きなら必ず行くべき。ソフトクリーム売り場は長蛇の列ができているので注意が必要である。

もう一つは,蒜山高原の麓にあるフレンチのグリーンゲイブルス。これは同行者のしいかあさんが紹介記事を書いているのでそれを紹介しておきたい。
・グリーンゲイブルスというお店のごはんがおいしかった話(c_shiikaのブログ)
夕飯を食べるところが見つからず困っていたところ,Googlemapで異様に高評価なフレンチレストランを見つけたので行ってみたら大当たりだったという。しいかあさんも書いている通り,ディナーのコースで3,000円は完全に破格の味で,東京で同じクオリティのフレンチのディナーを求めたら軽く倍はとられると思う。これまたしいかあさんも書いているところだが,我々以外にいた客が倉敷から来たという品のいい中年のカップルで(店の前に止まっていたベンツは彼らのものだろう),倉敷からここまで運転してきたと思われるおじさんの方がワインを飲めなかったことを非常に悔しがっており「なんとかここまでタクシーを配送できないか」とお店の人に交渉していた。あまりにも遠いのでやめといたほうがいいと説得されると残念そうに店から出ていったが,ベンツのおじさんは3分後くらいに店に戻ってきて最寄りのタクシー営業所の場所を聞いていったのには,我々3人も笑いをこらえきれなかった。コントかよ。あのおじさん,次は自分のベンツじゃなくてタクシーで何万円もかけて来るのだろうなぁ。倉敷の金持ち仲間にお勧めされてこの店まで来たのだろうが,今度は自分で布教するのだろう。その気持ちもわかってしまうというか,私ももう一度鳥取県まで行く用事があったらまたこの店に行くだろうし,むしろグリーンゲイブルスに行くために山陰に行く用事を作りたいと思っているくらいである。なお,多分グリーンゲイブルスで飲酒するための最適解は,店から徒歩10分くらいの場所にあるキャンプ場でキャンプである(頬付発案)。


以上,2泊3日でやっと消化しきった程度には大山エリアはコンテンツ盛りだくさんで,これに三徳山投入堂もあるし,蒜山高原もグリーンゲイブルスに行っただけだし,実は鳥取県の登山は非常に魅力的なのではないかと思う。せっかくあれだけ大山寺参道を整備したことだし,もっとその魅力をアピールしてほしい,と遠く離れた東京の地から主張しておく。  
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2020年11月27日

第二次奥鬼怒旅行記(2019年12月)

※ 本記事はまるっと1年前,2019年11月末・12月頭に行った旅行記を,帰宅直後に書いてから存在を忘れ,最近になって発掘したものです。


前に行った時。奥鬼怒温泉郷は4つの温泉宿があり,一般車両通行禁止である。うち2つの宿は自前でシャトルバスを運行させているが,残り2つの宿に泊まるには徒歩,すなわち登山道を登っていく以外に道が無い。前回は加仁湯に泊まって往復シャトルバスを利用したのだが,その時に「今度は登山道で行こう」という話をしていて,それが実現した形である。そういわけで2泊3日の旅程とし,初日はシャトルバスの無い手白沢温泉に,二日目は保険として最悪シャトルバスで帰れるように加仁湯に泊まるという布陣にした。真ん中の日は絶景という噂の鬼怒沼に登ることにした。どうせなら多少雪が降っていた方が面白いよな,という話になって11月末に日程を設定したところ,後から「思ってたよりも豪雪地帯らしい」ということが発覚して,急いでスノーシューと軽アイゼンを買いに行った。同行者はしいかあさんと頬付で3人旅である。

頬付カーで東京を出発。途中,日光で明治の館に行き昼飯。14時半頃に一般車両が通行止めになる夫婦淵に到着,15時頃に奥鬼怒遊歩道に入り,登山開始。


登山と言っても斜度は無く,2時間半の行程で標高が200mほど上がるだけである。奥鬼怒遊歩道は鬼怒川沿いを進んでいく遊歩道であるが,車道の方が前行った時の記事の如く落石でガードレールがボロボロになっていたところから察しがつく通り,こちらの遊歩道も「自然との熾烈な戦い」の様子が見られた。徒歩でしか行けない温泉宿があるからなのか,車道よりも遊歩道の方が明らかにマメに整備されていて,ガードレールが破れたまま諦めて放置されているのに比べると,こちらの遊歩道は荒ぶる大自然に継続的に果敢に挑み続けている形跡があり,何度も土砂崩れや落石を避けて道を引き直したり倒木を切ったりして「道」を作っていた。

鬼怒沼遊歩道


ご覧の通りの状況で,いかにも土砂崩れ多発地帯なのが見て取れよう。しいかあさんが「賽の河原で石を積むような治山工事」と表現していたが,言い得て妙である。道中には土砂や倒木により放棄された旧歩道を何本も見ることになるだけに,ありがたいことである。特に今回の我々が通った遊歩道は2019年10月12日の巨大台風で長らく封鎖されていて,その封鎖が開けたのがこの11月末のことであったから,なおさら新道という様子が強かった。今回の道がほぼ旧河道だったことや,明らかに元の歩道らしきものが山側にあってロープが張られていたことから,あれは台風で死んだのだろうと推測された。おそらく鬼怒川の治水を兼ねているので,遊歩道の整備としては採算度返しなのだろう。傾斜が無いこともあって歩きやすく,これなら普通に2時間半歩ける人で軽登山靴があれば特に問題なく踏破可能だろう。

17時頃に日没し,あと30分で着こうかというところで道が真っ暗になってしまったが,3人とも富士山登山時に使ったヘッドライトを持ってきていたので特に何も問題なくそのまま続行。さらに雪まで降ってきて,翌日の積雪を予感させた。今回泊まったのは手白澤温泉



最近は自分の温泉ツモ運が良いというか,ねらって良い温泉に泊まりに行けているというか,ここもすばらしい温泉宿だった。「ヒュッテ」を名乗るだけあって入り口の設備は完全に山小屋ながら,小屋の中の性能は旅館・ホテル級である。温泉は中性の単純硫黄泉でなかなか硫黄が強い。お夕飯が恐ろしく豪華で,鹿刺しが絶品。登山客しか来れないはずなのに常に週末は予約で満室になる理由がよくわかった。この日も全室埋まっていて,夕食時に見渡すと「この人たちも登ってきたのだなぁ,物好きだなぁ」という謎の戦友感を味わえる。ここも再訪したい宿リストに追加しておこう。(2020年11月末に追記:このコロナ禍の,前述の通りの行程が必要であるにもかかわらず,手白澤温泉は1月上旬まで予約で埋まっていた。感染対策で部屋数を減らしているのも影響している模様。)


雪は一晩降り続けていて,翌朝に起きたら外は一面銀世界に変わっていた。軽アイゼンとスノーシューを持っていってなかったら完全に死んでいた。ともあれ,夕食に引き続いて豪華だった朝飯を食べて出発,この日は鬼怒沼へ。日光沢温泉で登山届を提出して登っていく。積雪は奥鬼怒温泉郷の時点では10cmというところだったが,山中ですぐに20〜30cmほどに。滑って足場をとられるということはさしてなかったが,足の踏み場を間違えると雪の下が不安定な足場で転びかけるということは何度かあった。途中で初めてアイゼンを装着。スパイクすらろくに履いたことがない人間だったので,足に刃が着いている感覚はすぐには慣れなかった。あと単純に足に重しが着いている同然なので疲労感が違った。着けてからしばらくは「本当にこれ着けたままあと1・2時間歩くんか……」と思ってしまったが,人間慣れるものである。確かに鉄の爪が雪やその下の土や木を噛んでくれると,とりあえず滑って転ぶということはなくなる。



これ,11月の栃木県って言って信じられます? 栃木県にも豪雪地帯ってあるんやな……一つ勉強になった。あまりに雪が深いせいか,我々3人以外に登山客は皆無に近い状況で,まだ午前中なのに会う人は下山者ばかりであった。自分も愛知県育ちで東京での生活が長くなり,旅行も雪を避ける形になっていて,思えばこれほど一面銀世界という光景となると十数年ぶりであった。しかも同行者の2人以外はほぼ完全に無人という状況となるとおそらく人生で初めてで,冬の凛とした空気と動物の姿を見ない樹林帯に人間が3人だけというのはこれほどまでに自然な静寂になるのか,と静かに感動していた。非常に得難い体験をしたと思う。

それはそれとして体力的にはちょっと厳しかった登山で,3時間以上歩き続け,3人で「そろそろ時間的にも厳しいし,まじめに撤退の見切り時間を決めるか」と話し合っていたところで,到着。夏場の標準タイムは2時間15分ほどらしいので,さすがは雪道,4割増しである。それだけに到着してこの絶景には,

DSC_0518


恐ろしく感動させられた。元が沼沢地であるから積雪すれば当然フラットな雪原になり,沼も草原も覆い隠す。遠景には鬼怒沼山等の山々がそびえ立つが,それだけ。あとは本当に何もない,ただの雪原である。しかも前述の通り登山客がほぼ我々のみで,まだ誰も踏み荒らしていない未開の雪原が我々を待っていた。我々はここでこそスノーシューの出番だろうということで装着。すり足で歩くと浮力が生じて勝手につま先が浮くスノーシューは,スキーとも違った新鮮な感覚で,そのふわふわした浮き方がとても楽しかった。しかも浮力が推進力にもなるので,スノーシューの重さがかせにならずにスイスイ前進できる。これは勧めてくれた頬付に感謝したい。結果として3人とも疲れが完全に吹き飛んで,結局昼飯休憩を含めて鬼怒沼に1時間ほど滞在し,どかどかと歩き回って新雪を荒らし回った。その結果がこの惨状である。

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この後に来る人も当分いなかっただろうし,それまでには再度積雪しているだろうから許してほしい。なお,浮力があると言ってもスキーではないので限度があり,しいかあさんが沼に突っ込んで危うく片足を持っていかれるところだったというちょっとしたアクシデントもあったことを書き添えておく。浮力を過信するのはやめよう(自戒込)。この日はこの後は下山しただけなのだが,スノーシューの推進力で下山したら早いこと早いこと。これなら登山の段階で着けておけばよかったかもしれない。ただし,スノーシューもかんじきの一種には違いなく,浮力が生じるということはそれだけ接地面積が増えるということで,当然ながら岩場には全く向かない。特に自分のような運動神経が焼き切れているような人間だと容易に何かに引っかかって転ぶということも発見した。すっ転んだ際にストックをピッケル的に使って耐えようとしたら芯が歪んで一本廃棄になった。スノーシューも万能ではない。

そういうわけで下山は標準タイム1時間20分でその時間通りに下山完了。行きが3割増しだったことを考えるに,いかにスノーシューで”滑って”下りてきたかがわかる。暗くならないうちに下山しようとは言っていたが,まだ15時台であった。鬼怒沼登山についてまとめておくと,登りが2時間15分で標高1400mから2000mまで上がるのだからなかなかの斜度だが,よく整備されていて目立った鎖場や岩場は無く,技術レベルはAの上の方かBの下の方くらい。体力レベルも合わせれば夏場なら2Aか2Bといったところではないだろうか。なお冬場。

二日目は前述の通り加仁湯へ行って宿泊。決して悪い宿ではない(そもそもこの立地でバス送迎がある時点で素晴らしい)のだが,どうしても手白澤温泉と比較すると見劣りする点はあった。この日はさすがに疲労困憊で早々に爆睡。なお,加仁湯では宿泊者にスノーシューを貸し出しているので,持ってこずに普通の登山靴で来て,ここで借りて鬼怒沼にアタックするのも良いプランだと思う。


三日目。この日はほとんど帰るだけ。起きて朝食を食べたら,結局バスに乗らずに奥鬼怒遊歩道を使って下山した。雪で埋もれていたので行きとは違う風景になっていて飽きず。夫婦淵に着いたら荷物をまとめて頬付の車に乗り込……もうとしたら,降雪の中丸二日放置されていた車が雪に埋もれていて,凍った雪を屋根から避ける作業などをしてから出発した。帰りがてらでいくつかのダムによってダムカードをゲット。北関東の山地はダム銀座を言われるが,車で鬼怒川沿いを走っていると頻繁に見かけるので納得が行く。この日の昼飯はフライングガーデンとなった。



この感想は頬付も同じだった。我々はちゃんと食べ比べをしたので,本ブログの読者にもいるであろう北関東民の皆様にあたっては是非とも静岡県に行き,さわやかとの食べ比べをしてほしいところ。感想が気になる。この後は高速道路に乗って一路東京へ向かい,私としいかあさんが下車。頬付はそのまま静岡に帰っていった。実に良い旅行であった。
  
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2020年08月01日

「アニメ・マンガ・ゲーム舞台百選 2020 結果発表」に対する感想

・#アニメ・マンガ・ゲーム舞台百選 2020 結果発表(博物士)
2年おきに行われている投票。主催の大石玄氏はコンテンツ・ツーリズムの専門家……いや,主専門は労働法のようだけど。舞台探訪アーカイブもこの方の運営。1月に投票が行われ,結果が出ていたのであれこれ感想を述べておく。

1位の鎌倉・江ノ島は,そもそもが一流の観光地であって町並みが綺麗&多数の作品の聖地になっているので合算すると大量得票になるから,納得の結果ではあるのだが,個人的に好きな作品が1つも無かったので自分に対して驚いた。鎌倉に聖地巡礼として行ったのは,『ヤマノススメ』に登場していたという理由で行った鎌倉アルプスだけですね……

2018年1位の宇治は2位に,大洗は5位に。3位の長崎はアニメやゲームの聖地のイメージが無かったので意外だった。4位の豊郷は一度行ってみたいのだが機会に恵まれていない(頬付といつか行こうという話はしている)。『ゆるキャン△』の身延はもっと上位に来るかと思ったら7位と振るわなかった。同じく『ゾンビランドサガ』もかなり上位に来そうなイメージだったが17位とトップ10圏外(ただし『ゾンビランドサガ』は佐賀・唐津・嬉野温泉で分けてカウントされているので,足せば12票で11位まで上がる)。これらは聖地巡礼のハードルが微妙に高いせいかもしれない。逆にハードルが高い海外では唯一ヴェネツィアがトップ10に入っている。

11位以下では,沼津がトップ10から漏れたのが意外。2年前は5位だったのだが,『サンシャイン』もコンテンツとして長寿になってきた影響かな。同様に『ヤマノススメ』の飯能も,話が進むにつれて遠征が多くなってきて,作品の主要舞台が飯能じゃなくなっている影響はありそう。『言の葉の庭』『天気の子』の新宿が低いのは,新宿が日常の場になっていて聖地巡礼という雰囲気にならない人が多いから,知名度と聖地巡礼者の数とは比例せず低い得票でとどまっていると思われる。わずか2票の秋葉原もそうだろう。

私自身の投票は以下の通り。

全部自分で行った場所から選出した。諏訪が自分しか入れていないのは悲しい。おそらく,上位に来ている作品群からして,東方好きは客層が違って自分くらいしか投票に来ていないのではないか。聖地としてはかなり人気が高いはずだが……。2018年でも1票,2016年でも3票であった。逆に和倉温泉とストラスブールは自分しか投票してないだろうと思っていてその通りだったので,納得の結果であった。和倉温泉は一応作品を『痕』にしておいたのだが,『りゅうおうのおしごと!』でも良かったかも。というよりも,投票時は完全に忘れていたのだが和倉温泉をやめて「雲取山(鬼滅の刃)」にしておくべきであった。こうしていたとしても結局自分の1票だけだったようだが。他に惜しくも選外としたのは「パリ(乙女理論とその周辺)」。あまりエロゲの聖地巡礼ばっかりでもなと思って外したのだが,集計者が笑ってくれそうなネタとしては京都(有頂天家族)を外してこちらでも良かったかも。

なお,これに続くTweetで「飯能(ヤマノススメ),高尾山(ヤマノススメ),三つ峠(ヤマノススメ)……以下省略,というネタも考えたが,普通に集計妨害なのでやめました。」とつぶやいたのだが,このネタ通りに書くなら残り7つは富士山・金峰山&瑞牆山・谷川岳・雲取山・赤城山・筑波山・棒ノ嶺にする。というか,普通に『ヤマノススメ』限定で巡礼地の人気投票をしても面白そう。やっぱり富士山と天覧山と谷川岳の三つ巴の戦いになるのかな。  
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2020年07月13日

伊香保温泉旅行記

6月最後の週末に,渋川市・伊香保温泉を旅行してきた。東京の新型コロナウイルスの感染者数が再び増加する傾向が見られたので,7月はまた県外への移動の自粛が勧告されそうだということを見越して,急遽旅行の計画を立てた。当初の予定では行き先に妙義山を含んでいたが,石門巡りが落石により封鎖されていたのでこれを外し,榛名山をロープウェーで登るというぬるい旅行になった。以下,観光地別に。


《渋川駅》
北陸新幹線で高崎へ,そこから在来線の上越線に乗り換えて渋川駅へ。ここで自動車で来る頬付・隙間坊主待ち。



渋川駅,名前の通り渋くてかっこいい。渋川駅の駅構内にある観光案内所のおっちゃんが異様に話好き&渋川愛にあふれる人で,公式やらご本人手作りやらのパンフレットをどっさりもらい,観光案内を聞いていたら20分くらい軽く経過していた。足元はスニーカーだったのだがリュックサックがモンベルの小さいやつ(15Lだったか20Lだったか)だったので,「どこか登るの?」と聞かれた。よく見ている。「今回は登らないんですけどね。また今度,榛名山の外輪山には登る予定です」と返事したら『ヤマノススメ』の聖地巡礼パンフレットをくれた(※ 榛名山の外輪山は『ヤマノススメ11巻』聖地です)。しかし,強烈にお勧めされたあじさい園は旅程の都合上どうしても入り切らなかった。申し訳ない。


《伊香保温泉街》
渋川駅の観光案内所のおっちゃんに「最奥の露天風呂の横にある無料駐車場,無料の割に僻地すぎて止める人が少ないから,まず間違いなく空いている。それ以外の駐車場は全部有料」という有益情報を聞いていたので,真っ先に止めに行ったら確かに空いていた。露天風呂の近くに飲泉所があったので飲んでみると,血と同じ味がした。成分表示を見ると,主要成分は鉄とマグネシウム。なるほど。有馬温泉の金の湯ほどではないが,かなり赤く濁っている。それで意識して街歩きしながら見渡すと,道の脇の側溝も,街の中心を流れる風流な川も,水が流れているところ全て川底が赤茶けており,鉄分の強さがうかがい知れる情景となっている。これは伊香保温泉特有の光景で面白かった。

伊香保温泉街の川


駐車場から坂道を下ってまずは伊香保神社に。神社自体はどうってことなかったが,「高山彦九郎腰掛の石」なる珍妙な石碑があり,周囲の観光客に全く見向きもされない中,一人で「三条大橋の土下座だよ土下座!」と騒いでいた(※ 土下座ではありません)。

高山彦九郎腰掛けの石


なんで高山彦九郎なのか疑問だったが,彼が上州出身だからのようだ。とは言っても現太田市の生まれ・育ちだそうなので伊香保からはかなり遠く離れているのだが,まあ箱推しならぬ国推ししてほしいということか。なお,後で京大出身の知人に聞いたところ「確かに京大生は『今日は土下座集合な!』みたいに使いますよ」とのことであったので,高山彦九郎は実質ハチ公ということでよいか。

また,伊香保温泉街がやたら武田押しであった。確かに真田の領土ではあったけど,と思っていたら長篠の合戦敗戦後に武田勝頼が兵士に湯治に行かせたのが伊香保温泉発展の契機だったらしく,疑問が氷解した。上州でこれだけ武田押しをしている場所も珍しかろうと思う。それで16世紀末に現在の位置に石段が整備されて温泉街となったが,十数度にわたる大火事があって,実は原型が残っていないのだとか。大火になりやすい土地柄というのは史跡の説明の随所で自嘲気味に語られていた。現在の石段は昭和55年製だそうだ。とはいえ,江戸時代にもなっていない時代に観光地のアイデンティティを持って温泉街を形成した点は先見の明がある。その後,1631年に関所が設置されて交通の要衝となった……わけではなく,本来の三国街道は伊香保を全く通らず,現在の渋川市の中心地あたりを通っていく。実は三国街道の渋川宿付近は吾妻川や利根川が暴れて通行不能になることがあったので,伊香保はサブルートとして設定されていたそうだ。石段の下部の脇に関所跡が残っている。

石段の中腹で昼食にうどんを食う。厳密に言えば水沢うどんを名乗ってはいなかったが,要するに水沢うどんとはこういうものなのだろうと解釈。コシが強くて透明感があるという前評判は納得したが,讃岐や稲庭のようなパンチがあるかというとやっぱり無い気がする。下っていって,前述の関所の跡があり,向かいには旧ハワイ王国公使別邸があった。



これがなかなか感じの良い明治期の和風建築であった。使っていたのは当然ながら駐日ハワイ公使であったのだが,そのロバート・アーウィン(アルウィン)なる人物,意外にも日本語版Wikipediaの情報がかなり充実している。ここにある通り,そして現地の説明でも確認できる通り,ハワイの先住民ではなく普通にアメリカ人である。明治の初期に来日し,井上馨と知り合って三井物産に立ち上げから参加……とビジネスマンとしては成功者であるが,ここまでの経歴がハワイと全く関係ない。にもかかわらず1880年ハワイ王国総領事代理に就任したのは,ビジネスに通じた親日のアメリカ人であったからか。1885年から1894年にかけて官約移民の送り出しに尽力するようになり,約3万人を送り込んでハワイのサトウキビ・プランテーション開拓に貢献した……と書けば聞こえはいいが,これ実質的なクーリー貿易の仲介人ですよね。その仲介料で巨万の富を築いたのなら,これは安易に誇ってはいけない人では……しかもその後台湾製糖の立ち上げにもかかわっていて,清々しく植民地ビジネスの王道を行っている。にもかかわらず渋川市とハワイ郡(ハワイ島)は姉妹都市になっていて,双方細かいことは気にしていないのかもしれない。いや,細かくないだろ……



1枚めの自販機の通り,群馬県は温泉が多いせいか割と温泉むすめ押し。2枚めは,石段を折りきったところで,アニメを模しての写真撮影。実は階段中央には水路があり,滞留した鉄分でひどく淀んでいてぶっちゃけ汚いのだが,アニメでは写真撮影の角度により隠れているのが現地で判明する(私のTwitter上の写真ではその淀んだ水路を『ヤマノススメ』パンフレットで隠している)。汚点は写真撮影技術により消せるのだ。その後は折り返して石段365段を登り(365日に合わせたとのこと),駐車場まで戻って露天風呂へ。川底の色でわかっていた通りの赤茶色。いいお湯に浸かって『ヤマノススメ』聖地巡礼完了。露天風呂の休憩所にちゃんと『ヤマノススメ』のポスターが貼られていたので(3枚めの写真),現地でも聖地として認識されているようだった。再び駐車場に行って車に乗り込み,今度は榛名山へ。


《榛名山》

途中,運転中の隙間坊主が「あ,ここから例のコースですね」とちょっと嬉しそうに言い出したので何のことかと思ったら,そう言えばここ”秋名山”コースか。彼が「ゲームでなら何度も走ったなー」と大変楽しそうだったので良かった。あまり知らない作品の聖地でも,他人が2.5次元に旅立っているとこちらも楽しくなってくる。笑ったのが連続ヘアピンカーブの場所,めちゃくちゃ波打つように舗装されていて,完全に走り屋対策されていた。往時にはここもタイヤの痕がすごかったのだろう,というのを忍ばせる工夫で,これはこれで趣深い。なお,このコースの手前はメロディーロードになっていて,静かな湖畔が流れた。ここからして速度対策である。そして榛名山の麓に到着。えらい人が「ロープウェーのある山では,ロープウェーに乗っていい」って言ってた。あっという間に山頂へ。



ガスってて何も見えなかった。山頂の場所が曖昧で,山頂の標識すら無い体たらくである。ニ百名山としてそれでいいのか。一応,帰りのロープウェーが来るまで時間が空いて暇だったので,ちょっとだけ登山道を散歩してみたが,かなりよく整備されているようだった。ロープウェーで下山後は再び伊香保温泉に戻る。

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帰路に秋名山コースのスタート地点では見覚えのある感じのAE86が大量に駐車されていて,まだまだ巡礼は盛んな様子をうかがわせた。伊香保温泉では予約していた旅館に泊まる。冷房が無いと聞いていたが,まだ6月の下旬であったし,一応標高が700mくらいあるので十分に涼しく,寝苦しいということはなかった。夕飯はニジマスが大変に美味であった。群馬のニジマスはブランド化されていてギンヒカリと言うらしいので,また見つけたら食べたい。群馬県はもっとギンヒカリを押していくべき。


《おもちゃと人形自動車博物館》
二日目はここだけで終わってしまった。ものすごくボリューミーな博物館である。公式サイトを見てもわかる通り,ものすごく雑多な収集物が陳列されているが,大きく分けると順路順に言ってまず大量のテディベア。次に昭和30〜平成中期のおもちゃ・人形・アイドルグッズ・プロレスグッズ・ゲーム。ゲームはファミコン以降PS3までのテレビゲームソフトも含まれる。その次がメインの自動車博物館で,2000GTやフェアレディ Z432等のレアな自動車や古い自動車が陳列されている。最後に謎にティーガー気M4シャーマンの実物大再現ジオラマが設置されていた。

これだけ手広く収集・陳列されているのでどんなメンバーで行ってもどれかは刺さると思われるのだが,やはり最大の目玉は自動車博物館で,さらに絞れば『イニシャルD』の藤原豆腐店が完全再現されていること。

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これはモデルになった藤野屋豆腐店が,区画整理で閉店になった際に店のパーツを引き取って博物館内に再現したもので,店の前に置かれているAE86の中にちゃんと紙コップが置かれているのはもはや当然の再現と言えよう。「YOUは何しに日本へ!」でこれを見に来日した外国人が出演していたそうだが,それも納得の再現クオリティである。

結局3時間ほど滞在して,あとは昼飯を食って帰路へ。高崎駅で降ろしてもらって新幹線で帰宅。これでまた当分は県外移動ができないのだろうか……  
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2020年03月27日

『岳人』「戦国の山」特集(2017年12月号・2019年12月号)

登山雑誌はたまに買って読んでいるのだけど,面白かったので紹介しておく。モンベルが出している『岳人』の2017年12月号の特集が「戦国の山」で,好評だったがために2019年12月号の特集「続・戦国の山」であった。

まず2017年12月号の方から。取り上げられているのは丹沢・犬越路,小谷城,千草越,岩村城,天目山,天王山,賤ヶ岳,長谷堂城,越前大野城&戌山城,備中松山城,竹田城,坂戸城,岩櫃城,高根城,城井ノ上城,最後に佐々成政のさらさら越え。この他に縄張り図や用語解説,戦国時代の兵糧(干飯・芋茎の縄・兵糧丸等)レシピと実食感想レポートがついている。

賤ヶ岳は『ヤマノススメ』9巻でも登場していた。戦国の山の代表例と言えるかも。中川清秀の墓もあるので,『へうげもの』の聖地でもある。小谷城は麓に名物旅館があって,それも込みで去年に友人と行ってもいいかもという話をしていたが,どうせなら日本百名山にしようという話が出て伊吹山になった。あれはあれで関ヶ原の合戦場が一望できるので戦国時代を感じることができる山であったが,読んでいるとやはり賤ヶ岳や小谷城も行ってみたくなる。安土城とセットで旅程を組んでみるか。本企画を読んだ感じだと,登山として一番面白そうなのは賤ヶ岳だった。よくまあこんなところで戦ったなと思うが,当時は伐採されきった禿山だったらしい。「兵どもが夢の跡」という言葉そのものであった。

高根城はマイナーでは,と思ったらそういえば当時は「おんな城主直虎」が最終盤なのであった。城井ノ上城(きいのこうじょう)も私は全く知らなかったのだが,豊前国の城井氏が所持していた城で,秀吉の九州征伐の後に転封を明示されるも拒否,黒田長政に攻め滅ぼされたとのこと。見るからに堅城で,標高475mにして長大な鎖場があるっぽい。『岳人』編集部としては是非とも紹介したかったのだろう。

最後に一番面白かったのが佐々成政のさらさら越え特集。やはり三国志の登山家といえば馬謖,戦国時代の登山家といえば佐々成政だろう。富山県民の戦国時代のヒーローといえば佐々成政であって,神保氏ではないのだ(それはそれとして『信長の野望』シリーズを入手したらまず神保氏でやって生き残りを図るプレーは富山県民ならやったことがあるはず)。改めて考えても厳冬期の飛騨山脈,標高2500mを超える現在の黒部湖を突っ切るルートはあまりにもストロングスタイルで現実的ではない。やはり信憑性が高いのは飛騨まで南下してから信濃に入る旧安房峠ルートだろうと思う。しかし,伝説ルートはあまりにも夢があるので,腕……もとい脚と装備に自信がある人はチャレンジしてみてください。私は責任を取らない。ちなみに,このコラムを書いた人は「私自身,11月末,年末年始,3月,5月と近隣のエリアで登山したことがある」とあり,さすが『岳人』編集部。

ただし,『岳人』なだけあって実際の登山記録は参考になるものの,歴史家へのインタビューを除けば歴史関係の記述はちょっと心もとない。たとえば,p.29の地図は1582年の勢力図なのに加賀・能登・越中・丹後・丹波(とそれ以西)が信長の勢力圏に入っていないという割と致命的なミスがある。本能寺の変の秀吉犯人説という俗説はありきたりにもほどがあるだろう。せっかくの面白い特集であるので,そこはちゃんと詰めてほしかったところ。


次に2019年12月の「続・戦国の山」。前回が好評であったのでリバイバルしたとのこと。今回取り上げられているのは京都愛宕山(明智越),千草越,安土城,黒井城&八上城,信貴山,尼厳山(川中島),要害山,春日山城,岩櫃城,岩殿城,大和高取城,岩村城,八王子城,松倉城,基肄城。千草越・岩櫃城・岩村城は二回目。後述する千田先生の起用も含め,前回の反省があったのか無かったのかは知らないが,歴史の記述は「続」の方が全般的に堅牢になっていたように思う。それはそれとして,しれっと混じっていたが,基肄城は違くない? これが入るなら鬼ノ城も入れてほしかった気も。

2020年の大河ドラマを意識してか,明智光秀ゆかりの山が多い。八上城では地元の登山者から「来山者の増加を見越して,曲輪の周囲の林を切り倒した」という話を聞いたというエピソードも出てくるが,いや……マイナーすぎて増えないんじゃないですかね……。京都愛宕山は明智光秀が本能寺の変の前日に山頂の白雲寺で開催された連歌会に参加するために登っており,例の「ときは今」の歌を詠んでいる。亀岡駅が光秀の居城だった亀山城の目の前であるから,光秀の通った通りの明智越にアタックしやすいが,この明智越の標準タイムは片道4時間55分であるため,なかなか山が深い。眼前が保津峡であるが,掲載された写真を見る限り樹林帯で概ね眺望が死んでるっぽいのはちょっともったいない。なお,白雲寺は廃仏毀釈で滅び,現在は愛宕神社となっている。許すまじ明治政府。

信貴山のページでは『岳人』のライターに千田嘉博先生が同行していた。そう,『真田丸』の考証に参加していた歴史家の一人である。千田嘉博先生が参加していたせいで信貴山だけ明らかに濃く,読み応えがあった。松永久秀悪人説にも千田先生がきっちり掣肘を入れているし,空堀の説明をしている先生の写真がとても楽しそうだ。個人的には「そう,こういうのでいいんだよこういうので」というドンピシャなページであったので,次に「続々」をやるなら毎回学者を連れて行ってほしいところ(学者が登れるかは別問題)。信貴山は朝護孫子寺があるので,東方星蓮船の聖地でもあり,行きたい山リストに元から入っていたのだが,本稿を読んでその思いは強くなった。廃業したケーブルカーの跡がそのまま登山道になっていて,登山としても楽しそう。

岩櫃城は改めて見ると,ここに築城したのは完全に頭がおかしい。ハシゴと鎖場が多く,にもかかわらず堀切(※あえて尾根を切り崩して通りにくくすること)まである。実際に群馬県によるグレーディングでは2Cになっていた。一方,岩櫃城の観光案内のホームページには「鎖やハシゴはあるがビギナー向き」とあった。真田氏の家来,末裔まで含めて基準が狂ってそう。

岩殿山の方はまだマシそうだが,記事中の「山頂付近には厩跡があるが,こんなところに馬を連れてきたとして,何の役に立つのか」「難所に集中力を要し,ずいぶん疲れる山」「私にはとても攻略する気が起きない」という評価の数々がその厳しさを物語っている。しかし,山梨県のグレーディングは1Aになっていた。真相は自分で登って確かめるしかなさそう。岩殿山は『ヤマノススメ』15巻に登場しているので,その聖地でもあり,麓の川にかかっている猿橋が『東方風神録』の3面道中の背景であるので,これまた私的には縁が深く,絶対にいつか登る山リストに入れている。


概ね主要な山城は2回で扱われたような気はするが,まだ七尾城,月山富田城,観音寺城辺りが出てきていないし,そういえば神君伊賀越えもまだ扱われていないので,3回目もできそう。『岳人』スタッフに期待しよう。

岳人 2019年 12 月号 [雑誌]
ネイチュアエンタープライズ
2019-11-15



2017年12月号は好評だったせいか,Amazonでは売り切れだった。モンベルの店舗だと普通にバックナンバーが売っているので,店舗で直接買うのがよいだろう。
  
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2020年02月02日

諏訪・霧ヶ峰旅行記(2019年8月)

またの名を第四次諏訪巡礼記。「百名山を1つ踏破したい」「東京の夏が暑すぎるので避暑に行きたい」「なにかの聖地巡礼が良い」という理由が複合してこうなった。諏訪は『東方風神録』・『ヤマノススメ』・『ゆるキャン△』・『咲-Saki-』の4つをまとめて聖地巡礼できる素晴らしい土地である。珍しく頬付を欠き,メンバーはしいかあ,涼風の3人。ちなみにこの時の私は7月末から富士山登山→出張→コミケ東北旅行→この旅行と5週間くらい連続で出かけていた。何がそんなに私を旅行に掻き立てていたのだろうか。


新宿駅から特急あずさに乗って茅野で下車。東京から3時間というのは距離を考えると交通の便が良いと思う。この日はレンタサイクルを借りて諏訪大社上社に向けて出発。レンタサイクルが電動アシスト付に進化していてちょっと驚くと同時に,体力温存につながってありがたかった。自転車で移動して上社本宮→神長官守矢史料館→上社前宮と巡回。私は全部2回目なので案内役。上社本宮で明神湯(お手水が温泉になっている)を紹介できたり,諏訪の神社はどこでも四隅に御柱が立っているという話をしたり,「あれがリアル早苗さんのおうちです」ができたりしたのが良かった。



絵馬の様子は8年前と変わらず。『東方風神録』はさすがに息が長い。なお,ここに映したT20さんは定期的に4つ全てを回っているようで,全社に絵馬が飾ってあった。神長官守矢史料館は近隣の案内看板や展示が豪華になっていて,明らかに金回りがよくなっていた(東方厨が社会に役に立ってたぞ)。史料館の解説のおじさんに「洩矢神社には昔行きました」と言ったら「藤島神社にも行かないと片手落ちだぞ」とたしなめられてしまった。八坂神奈子には興味がなくてすまんな。

前宮参拝の際には過去に行きそびれていた茶処山里へ。『東方風神録』の聖地巡礼の拠点はここである。中は大洗駅の駅内にあるガルパンコーナーのような感じの一角があった。ただし,公式がグッズ展開をしていない東方projectなだけあって,同人誌が圧倒的に多い。また,ゲストブックに描かれた絵がどれも上手い。同行3人は誰も絵が描けないので「ひょっとして日本人は誰でも絵が描けるのでは。我々は日本人として重要な遺伝子が欠落しているのでは」等という話をしていた。昼飯はここで信州そば。



茶処山里を出たら茅野駅に戻ってレンタサイクルを返却し,電車で1駅ずれて上諏訪へ。同行者に例の足湯を紹介できてこれまた満足。駅を出て酒蔵街に歩いていって飲み歩き。諏訪の日本酒飲み歩きは,飲み歩きに屋台などの出店も含めたイベントが例年3月と10月の年に2回開催されていたが,これは一旦中止となり(2020年3月に復活する見込み),代わりに酒蔵五蔵を順に飲んでいく飲み歩き,改め「酒蔵めぐり」そのものは常設となった。今回はその常設になった酒蔵めぐりである。私としいかあさんは実のところ日本酒がそこまで好きというわけではないのだが,涼風さんが日本酒好きで大変満足そうであった……というよりも彼は満足しすぎて最後の真澄が終わった頃には完全にへべれけ&千鳥足になっていて,結局しいかあさんがほとんど肩を貸す形で以後は移動した。

そんな涼風さんを引きずって上諏訪駅に戻り,時間が余っていれば諏訪湖湖畔に行って『咲-Saki-』の聖地巡礼でもしようかと思っていたが,タイムアップでカット。また1駅だけ動いて下諏訪駅下車。徒歩40分かけて坂を登り,住宅街の家々がかなり薄くなってきたところでこの日のお宿の毒沢鉱泉 宮乃湯へ。この温泉旅館は秘湯としては完璧だった。部屋は純和風で,空いているなら離れの部屋の予約をとるのをお勧めする。設備は意外と新しく,wi-fiも完備。バリアフリーにこだわりがあり,敷居に段差が無いのも車椅子の方にはありがたいポイントだろう。夕食の桜肉鍋も美味しかった。とはいえ,やはりph2.4の極端な酸性の鉱泉が最大の魅力で,毒沢鉱泉を名乗るだけはあった。


翌日は坂を下って下社秋宮・万治の石仏・下社春宮と観光して下諏訪駅へ。バスで移動して霧ヶ峰へ。朝が早かったので霧ヶ峰到着時点で11時半頃,標高は1,500mを超えているはずだが,日が照っていて大して涼しくなかった。地表が36度とか37度だと,標高が1,500m程度で9度下がった分ではまだ暑い,と考えると別に不思議でもなんでもないのだが,こういうのは理屈ではなく,霧ヶ峰の名前に反して暑いという状況がちょっと面白かった。うろうろと散策しながら車山高原の方向へ向かい,『ゆるキャン△』でリンちゃんがボルシチを食べていた「ころぼっくるひゅって」に行ってみるも,ボルシチ完売。どころかケーキ以外の食べ物完売という状況であった。これは聖地巡礼とは関係なく,ころぼっくるひゅってが人気の山小屋であり,天気が良く人出があったということであった。悔しいのでケーキだけ食べて写真撮影。



リンちゃんが行ったときには空いてたじゃん,と思うかもしれないが,実はころぼっくるひゅっては12月に入ると冬季休業になってしまい,リンが行ったのはかなり閉店ぎりぎりの時期で店としては来客の少ない時期だったと思われる。繁忙期にボルシチが食べたいなら朝8時の開店直後に行って朝飯として食べるのが正解かもしれない。仕方がないので近くのベンチで適当に昼飯を食べた後は車山に登って無事登頂。



爆笑したのが2枚目の写真,わかります? こんなところの神社でも4本御柱が立っている。しかも案内板の説明によれば,なんとちゃんと御柱祭までやっているらしい。諏訪人のナショナリズムはすごい。これを見ながら同行者と「神社に御柱が立っている範囲によって,”概念上の諏訪”の範囲を測ることができるのでは?」という話をしていた。そういう研究はすでにありそう,とも。知っている方がいたら是非教えてください。あるいはこのブログを見ている民俗学者の人がいたら是非調べてみてください。私も気になっています。

この後は下山してバスに乗って上諏訪駅へ。そこから特急あずさに乗って帰宅。これだけ過密スケジュールだったのに一泊二日でこなせて翌日にも全然疲れが残らなかった。やはり諏訪はアクセスが良い。まだ美ヶ原高原に行っていないし,ころぼっくるひゅってのボルシチを取り逃しているし,宮乃湯は再訪したいので,多分遠からず(最速で今年)諏訪旅行はもう一度企画すると思う。  
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2020年01月22日

東北旅行記(仙台・山形,2019年8月)

昨年8月に旅行した東北旅行の記事を書いておく。

〈初日:移動のみ〉
夏コミ終了と同時に出発。コミケ不参加だったパレさんが合流して頬付カーに乗り込み北上。今回の旅行のコンセプトが「いつも旅程を詰め詰めにしてしまうので,今回は戦利品(同人誌)を車に積み込んで,旅館でだらだらしながら読む」とした。つまり,合計3人分の同人誌(200冊くらいある?)を車に積んでいたことになる。初日は移動のみで福島県某所のビジネスホテルに宿泊。同人誌を読む気力もなく爆睡。


〈二日目:仙台・かみのやま温泉〉
ビジホの朝飯を適当に食べて出発。昼飯は牛タンを食べたいということで,仙台駅前の某名店へ。美味なり。午後は青葉城へ。スタンプラリーのつもりで行ったのだが,観光に力がかなり入っていて意外と面白かった。特に仙台城VRゴーは傑作である。

ただでさえCV:種崎敦美なのに(代表作3つの妥当性が高い),映像のクオリティが非常に高い。青葉城址を歩き回って特定のスポットでゴーグルをかぶると,そのスポットでの伊達政宗当時の城内や城下町の映像が流れ,種崎敦美のキャラが説明してくれる。これは確かに現在と過去の往復が容易で,当時の風景を肌で感じるような感覚を味わった。特に城内の狩野派の襖絵のリアリティが(多分)高く,あれはちゃんとした史料に基づいて再現したのだろうと思う。ただし,青葉城を建てた伊達政宗の意図が徹底して「平和への願い」とされていたのには笑ってしまった。さらに,このゴーグルを貸し出している青葉城資料展示館の展示もなかなか良かった。こちらの館内でもムービー上映があったのだが,こちらのCVは若本規夫他。結果的に青葉城は適当に30分くらいで済ませるつもりが,ここでがっつり2時間ほど使ってしまった。

結局これ以外はあまり仙台観光せず,山形県に移動して旅館へ行き,当初のコンセプト通り早めにチェックイン。夏場で日が高いこともあり明るいうちに旅館の部屋に入るという,このメンバーの旅にしては珍しいことが起きた。この日に泊まったのは,かみのやま温泉の古窯。この旅館の開業6年目(1957年)に,敷地内で奈良時代の須恵器の窯跡が発見されたために改名したとのこと。須恵器というと当時の日本にあってはそこそこ高度な陶器であり,まだ蝦夷討伐事業も途中な辺境の出羽南部に,小規模とはいえ生産地があったというのはちょっとした驚きである。この地方の官人や郡司が使っていたのだろうか。この遺跡は旅館の地下1階に展示されているので,宿泊客は見ることができる。
古窯

また素焼き陶器の手作り体験コーナーがあり,宿泊した有名人の制作物が陳列されていた。一番上手かったのは原哲夫の絵付けした皿。あとは好角家として日馬富士の見事な山(多分蔵王山?)の絵付け皿を挙げておく。他に千代の富士・貴乃花・瀬戸内寂聴・上野千鶴子と挙げておけばかなりジャンルがバラバラなことが察せられるだろう。
古窯・力士の絵皿

この古窯はこうした遺跡や手作りコーナーに陳列コーナーが1階・地下1階にあるところからも想像がつく通り,建物自体がかなり巨大で,部屋もそれぞれがかなり広いようだった。少なくとも我々4人が泊まった部屋は,過去の我々の旅行では加賀屋に次いで豪華な部屋であった(持ち込んだ同人誌が悠々に置けるほどに)。だからこそ,

こんなことになって普通にけっこう焦ったのだが。その他,仲居さんのサービスも親切で良かった。部屋からの眺望も抜群だったが,温泉が建物の高い位置にあり,そこからの眺望は尚の事良かった。お夕飯は米沢牛のすき焼きで味は言うまでもなし。温泉の泉質は正直あまり記憶に残らなかったが(弱アルカリ性でちょっとぬるっとしていた),それ以外の要素のインパクトがあまりにも強烈で,この旅行の一番の思い出を一つだけ挙げろと言われたら,青葉城のVRかこの古窯の宿泊体験のいずれかを挙げると思う。そういうわけで夕飯を食べた後はゆったりとだらだらしながら同人誌を読むのに没頭。適当に眠くなったところで就寝。


〈三〜四日目:かみのやま温泉・立石寺・会津東山温泉〉
古窯の朝食を食べたらチェックアウトせずに一旦外出,旅館の目の前に「1日限定20食の生プリン」なる気になるものが売っていたため。しかし出遅れていて見事に完売していた。これを食べるなら旅館の朝食を食べていてはダメということなのだろう。旅館に戻ってチェックアウトし,出発。この日は立石寺へ。「山寺」の別名がある通り,山肌に張り付くように建っていて,境内は階段だらけであった。奥の院まで八百段ちょっと。しかし,登ってみると特に大したことはなく,登山慣れしていない同行者でも別に苦労せず(疲れてはいたが)最後まで登りきっていた。奥の院からの眺望はなかなか良い。

こうして見ると,眺望が良いというよりも境内が山水画的で良いと言った方がいいかもしれない。境内の雰囲気は確かに寺院というよりも「よく整備されていて,建物が多い登山道」という感じで,建物の無理やり気味な建て方といい,投入堂をちょっと思い出した。難度は段違いに投入堂の方が難しいが。なお,蝉はそんなに鳴いてなかったような。8月のど真ん中なのに。下山後は麓の食堂で昼食。ここで食べたずんだ餅が美味かった。

この日の観光も立石寺のみで,さっさと宿に移動してチェックイン。この日の宿は会津東山温泉のくつろぎ宿千代滝。かなりの山奥で,よくこんなところにこれだけ大きく典型的な温泉街ができたなと思う。竹久夢二と土方歳三が湯治に来ていたそうで,それを宣伝していた。特に土方を大きく押していたが,やはりそこは会津という土地柄が出ているのだろうか。お盆中なだけあって夜中はお祭りがやっていて,直接出向かなかったが,旅館から見えるぼんぼりの列がなかなか綺麗だった。こうして田舎の夏祭りを見ると,夏も終わっていくのだなという寂しさがある。この日も夕飯・温泉後はのんびりと同人誌を読んでだらだらと過ごし,読み終わったら就寝した。それにしても二晩かかるとはやはり膨大な量であった。

四日目は急き立てられるものがなかったのでゆっくり起きて,旅館の朝食を食べた後は会津東山温泉観光。その後は一路帰路についた。コンセプト通りののんびり温泉旅で,それほど語るべきトピックが無かったのだが,これはこれで面白かったし,実は買った後読む時間がまとまって取れずに困るコミケの戦利品を,他人のものも含めてまとめて読む時間がとれたのは大きく,夏コミの後にこういう旅行をするのは正解かもしれない。

実は私はこれで未踏県が1つ埋まり,あとは本当に秋田県と青森県だけになった(厳密に言えば秋田県は過去に八幡平に行ったときにちょっと入っているが)。ということで,2020年の旅行はなにかのタイミングで秋田県か青森県のどちらかには行くと思う。今回は山形だったからなんとか自動車で行けたが,秋田・青森だとさすがに電車かな……  
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2020年01月20日

佐賀旅行記(2019年5月,『ゾンビランドサガ』聖地巡礼)

さすがに1年経過したり新展開が起きたりする前に書いておかねばなるまいと思われるので,旅行の記事を消化していく。しかし,それこそ放置しすぎて時間が経っているので,当時の情景を忘れている部分もあるので簡潔に。まずは昨年のゴールデンウィークに行った『ゾンビランドサガ』の聖地巡礼から。


〈初日:佐賀到着・かつみ屋・ガタリンピック会場〉
新幹線で佐賀到着からレンタカーを借り,急いで移動して,昼飯は『グルメランドサガ』漫画版『ゾンビランドサガ』でお勧めされていたかつみ屋へ。

なお,このクイズ正解者がいた。すごい。店はやや狭く少し待った。ただし,うどんであるので回転率は良い。名物の鶏の皮を使った「すどりかま玉うどん」は絶品と言ってよく,濃いめの味のかま玉うどんに鶏皮の食感が実によくマッチしていた。もう一回佐賀に行くことがあればまた行きたい。

昼食後はさっさと移動してガタリンピック会場こと七浦海浜スポーツ公園へ。

この日は快晴,5月上旬にしては随分暑く,夏の気候と言っていい状況であったので,着替えをちゃんと持ってきていれば泥まみれになって遊びたかったところ。残念ながら長期旅行で身軽な格好をすべく下着以外の着替えが無かったのでそれはできなかった。そのような気候であったからすでに家族連れやカップルがざぶざぶとやっていて楽しそうだった。周辺施設を散策したが,ゾンビィたちが水浴びをしたと思しきそのままの場所は見つからず。それっぽい場所はあったので,配置は作品都合でちょっとずらしたということなのだろう。なお,こういう聖地巡礼ねらいの作品では後発であることもあり,佐賀県自体がこういうところでノリが良い気風であるのもあり,このスポーツ公園をはじめとした至るところで,

こんな感じのパンフレットが配布されていた。地元住民の理解度も高く,これだけの浸透度はガルパンの大洗に近いものを感じた。しかも大洗よりも広範囲な県単位なので尚更すごい。あれからさらに半年経った今もまだ熱気は続いているのだろうか。

この日の観光はこれで終わりで,宿は嬉野温泉へ。一泊目は入船荘。施設や食事は普通だったが,謎の忍者押し(肥前夢街道忍者村という近隣のテーマパークと提携しているのが理由らしいがそもそも佐賀に忍者のイメージが無い)だったり,風呂の洗い場がなぜか一面畳だったりというユニークさはあった。温泉は美人の湯として有名なだけあってぬるぬるしている感じ。長距離移動の疲れと翌朝の朝が早いことから早々に就寝。


<二日目:ドライブイン鳥・唐津駅前・アルピノ・鏡山展望台・唐津市歴史民俗資料館・華翠苑>
この日の移動はかなり激しい。朝食を軽く済ませて早々に出発。

「ドライブイン鳥・伊万里本店の混み方はさやわか御殿場店並」と事前に聞いていたので,開店前から並んでおくべきだろうということになった。実際,ツイートを見ての通り,10時半の時点で明らかに一周目にはなれない人の量の列があった。しかし店が広かったので回転は良く,11時開店で12時には席に座れたからまずまず良いタイミングだったと言えよう。もっとも,我々が座れた時点で外はとんでもないことになっていたが……

味よし,値段は安く量は多く,三拍子そろっている。聖地巡礼としてはやき鳥と鳥めし両方食べねばならず,一番定食を4人分頼んだらやっぱりちょっと多かったよね。仲間4人の中に健啖家がいるので完食できた。なお,店内には『ユーリ on ICE』のポスターも貼られていた。これはここに限ったことではなく,佐賀県基本的にどこも『ゾンビ』と『ユーリ』は並べて押しているという印象。特に唐津市はこの傾向が強かった。


次は唐津駅前に移動して,例の広場とアルピノ見学。アルピノ隣接のお土産コーナーは概ね大洗まいわい市場のような感じで,ゾンビランドサガグッズコーナーが一角を占めていた。例の「ライブイベント中に発生した建物倒壊に関するお詫びとお知らせ」の嘘告知も,ここに貼られていた。「原因:積雪荷重にイベントホールが耐えきれずに,倒壊」は何度見ても笑う。そのアルピノでは,
・思ってたよりも狭い
・思ってたよりも駅から近い
という二点でギャップを修正できた。なるほど,これだけ近ければあんな悪天候でも見に来る人いるわ。逆に狭すぎて,よく人気絶頂期のアイアンフリルがあそこでライブやってくれたな,とは思った。こうした認識の修正も聖地巡礼の醍醐味の一つと言える。なお,この日は唐津焼市をやっていた。

今回の旅行は『ゾンビランドサガ』の聖地巡礼に徹したので有田にも伊万里にも行かなかったので,まともに陶器を見たのはここだけかも。

そのまま唐津市内を移動,虹の松原と唐津城を通り過ぎて(唐津城は宿題になってしまった),鏡山展望台へ。サキがチキンレースをやった駐車場と,巽がさくらを説得した「絶対に見捨ててやらん」展望台がある場所である。行ってみてわかったことが2つ。
・駐車場の下は実際には崖ではなく,池。落ちても多分死なない。
・展望台からの光景は絶景ながら,概ね畑でありアニメのように民家の光であふれるという夜景にはなりえない。
前者はともかく,後者はけっこう面白い改変だと思った。

アニメだと手前に民家からの光,後景に虹の松原と海の闇という感じだったが,多分これ,実際にはけっこう一面闇になると思う。これは唐津市に住宅街や繁華街が無いというわけではなく,この画像の左側,方角で言えば鏡山展望台から西側の方向はけっこう良い夜景になると思う。あくまで鏡山展望台の正面側は一面畑と松林というだけである。確かに,眼前にそんなに民家がないと巽の檄が映えない。この展望台の近くにある商店で「ゾンビランドサガ聖地巡礼証明書(非公式)」が配布されているので,巡礼者は受け取るとよいだろう。

最後に唐津市歴史民俗資料館へ。ゾンビィたちの住処である。

良い建物なので中に入れないのは残念。上手く補修して長く残してほしい。建てられたのは1908年,設計は曽禰達蔵。それで知ったのだが,曽禰達蔵も辰野金吾も唐津市出身であった。さりげなく明治日本の大偉人を輩出しとるやんけ……もっとも,その割に唐津に(というか佐賀に)全然彼らの作品が無いのだが。帰宅後に調べたら曽禰はこの資料館(旧三菱合資会社唐津支店本館)くらい,辰野金吾も旧唐津銀行と武雄温泉の楼門くらいだった。事前に知っていれば旧唐津銀行も行き先に入れていたのだが。佐賀県,佐賀の七賢人以外の偉人もちゃんと宣伝しよう。

それはそれとして,閉館していることもあってこんなに人が集まる場所になることを想定していなかったのだろうが,明らかに巡礼熱に対して近隣の駐車場がキャパオーバーしており,近隣住民がちょっと迷惑そうだった(親切にも駐車を誘導していただいた)。巡礼者はちょっと遠くに止めて徒歩で行くべきかもしれない。なお,地元住民とこんな会話があった。

なんかこれがバズってしまい,彼の携帯はこの後の通知がすごかった。通知で電池が死ぬって本当にあるんやな。俺が,俺達がゾンビィだ!


最後に嬉野温泉に戻ってきて華翠苑へ。

ちょっと良いホテルなだけあってさすがに施設も食事も大変にすばらしかった。いろいろブランド牛を食べてきたが,佐賀牛も他のブランドに全く負けず美味である。


〈三日目:嬉野温泉観光・呼子・帰宅〉
詰め込んだ旅程の最終日は,午前中に嬉野温泉観光。ゴールデンウィークのど真ん中だっただけあって,さすがに巡礼者多数,同業者だらけであった。シーボルトの湯や足湯何かの写真を撮りつつ散策。Twitterにアップする許可を取り忘れたので掲載できないのが大変に惜しいのだが,例の足湯に巽幸太郎のコスプレイヤーがなんでもない風に座っていたので,写真を撮らせてもらった。特にイベントがあるわけでもなく,撮影目的というわけでもなく,単にコスプレして風景に馴染んでいる人がいたのはけっこう面白かった。豊玉姫神社では例のなまずにタッチ。

この白いナマズの像以外には特に何も見所がないが(絵馬はご想像の通りです),そのためにかえって住宅街から隔絶された閑静な雰囲気をまとった神社で,私はけっこう好きになった。また,『ゾンビランドサガ』の聖地巡礼とは全く関係ないが,この神社の近くにある瑞光寺もなかなか立派なお寺で良いところなので,ついでに寄ると良いだろう。

旅の最後に,『ゾンビランドサガ』とはさして関係ないが,呼子へ。これまたゴールデンウィークのど真ん中だったために,呼子までの道路がとんでもない渋滞になっていて,全く動けないに近い状態にまで陥った。新幹線が予約してあったので離脱時間が決めてあったためかなり焦っていたが,主要なルートを外れてみると案外すんなり到着した。迂回してみるものである。また,渋滞で止まっていた時に,気晴らしと様子見を兼ねてトイレに出かけてみたが見つからず,警察署に入って「公衆トイレって近隣にあります?」と聞いてみたところ,そのまま警察署のトイレを貸してもらえた。さすがに警察署の中でトイレに行ったのは人生で初めてであった。「渋滞大変でしょ?」と話しかけてくるなど,佐賀の警察はフレンドリーであった。

そういうわけで呼子には着いたものの当然ながらどの店も満席の2時間待ち。店で食うのは諦めて市場を眺めていたら,いけすのイカをその場でさばいて刺し身にしてくれる売り方をしていたのでこれを1匹購入,近くの休憩所のテーブルにはこれ用の醤油まで備え付けられているサービスの良さ。完全にこれで正解だった。このイカは刺し身だけ,醤油だけで十分美味。



これにて全旅程が終了。佐賀駅まで戻ってレンタカーを返し,新幹線で東京まで帰還した。前述の通り,『ゾンビランドサガ』の聖地巡礼に徹した結果,それ以外は呼子くらいしか行っていないので,陶磁器巡りの旅は行ってないし,旧唐津銀行は存在自体を帰ってから知った。この辺はまた,二度目の聖地巡礼か,また何かの用事で北九州に行った時に回収したい。  
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2019年10月26日

曜変天目茶碗コンプリート

曜変天目茶碗(大徳寺龍光院)ゴールデンウィークの翌週に,関西まで足を伸ばして曜変天目茶碗を2つ見てきた(ついでにフェルメール展にもこの時に行った)。1つは奈良国立博物館で,藤田美術館展。藤田美術館の2022年のリニューアルに備えての大展覧会である。ただし,私自身はすでに藤田美術館の曜変天目茶碗を見たことがあったので,今回はどちらかというと見たことがなかったという同行頬付の付添に近い。藤田美術館の所蔵品自体も,今回ほど豪華ではなかったが以前にサントリー美術館の企画展で東京に来ていた折に見ているので,そう新鮮味は無かった。曜変天目茶碗の感想はこの時と変わらず,すごいにはすごいのだが稲葉天目ほどの神秘性は感じない。他の展示物では,彩色が残っている快慶作の地蔵菩薩立像や,13〜14世紀の中国の作品と見られるマニ像の掛け軸あたり。確かに地蔵菩薩には見えないが,その時期の中国にこれを制作できるほどのマニ教の集団がいたのかという辺りで,研究を待ちたいところ。


なお,本展はゴールデンウィーク翌週とはいえとんでもない混み具合だった。旅程に伊吹山登山を組み込んでいたため大きめのザックを抱えていた我々はロッカーに入れようとするも入らず,奈良博の受付にクロークという存在が無かったために,結局ザックは警備員室に預かってもらったという稀有な体験をしたということもここに記録しておきたい。奈良博の警備室でもなかなか無いことだろう。常設展は後ろの予定が詰まっていたのと,何度も見ているのでカット。ここを出た後は急いで宇治に移動して,天ヶ瀬ダムに行き,天皇陛下在位30周年ダムカードを受け取り,宇治上神社に参拝した後,「特別になりたい山」こと大吉山にスピード登山した。登下山と山頂滞在あわせて30分くらいだったか。登りやすい山ではあるが,パンプス履いて楽器を担いで登れるほどヤワでもないことがわかった。麗奈さんは超人。


それからさらに滋賀県まで移動してMIHO MUSEUMへ。本当になんでこんなところに。確かに森林の中に突如として現れる巨大建築,宗教施設感が強くて面白くはあったが。すでに閉館まで2時間くらいというタイミングではあったがここもかなり混雑していて,曜変天目茶碗のコンテンツ力に脱帽する。そしてやっと見ることができた,大徳寺龍光院の曜変天目茶碗は,藤田美術館とは逆の感想を抱いた。藤田美術館のものは写真で見ると稲葉天目に近いように見えたが,実物はそこまで光っているように見えなかった。それに対し大徳寺のものは写真では3点で一番鈍く感じたが(今回の画像),実物の大徳寺物はなかなかどうして神々しい。稲葉天目の不気味とも言える美しさは無いが,静謐な光をたたえていた。斑紋の一つ一つが小さいのが良いのかもしれない。また他の2つが青と黒の印象が強いのに対し,こちらは白いという印象が残った。これも写真ではわかりづらい。やはり,実物を見てみるものである。これにて私と頬付は曜変天目茶碗3点の実物を全て鑑賞することに成功した。人生でやり遂げないといけないことリストが,やっと一つ片付いた。

この後は結果的に閉館までそこそこ時間ができて,駆け足ながら他の企画展展示とMIHO MUSEUMの常設展まで見ることができた。他の大徳寺の展示物は,藤田美術館展を見てしまっているのでもったいなくも見飽きてしまったが,大徳寺の歴史を感じさせるものはさすがに感動した。春屋宗園墨蹟,津田宗及の日記,松花堂昭乗の扁額,狩野探幽筆の頂相(描かれるは龍光院の事実上の開山の江月宗玩)と戦国〜寛永期の錚々たる面々の作品に,紫衣事件の関係者,後水尾天皇の宸翰と沢庵宗彭の書状が最後を飾る(厳密に言えば沢庵は龍光院ではないのだが)。その意味で,日本史ガチ勢が行くべき展覧会だったと言えるだろう。  
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2019年08月03日

富士山登山記2019

去年のリベンジである。


<昨年の反省と準備>
昨年に異常に苦戦した原因は,準備の出遅れにより登山が9月上旬になったこと,つまり天候が荒れやすい時期になったこと。また,土日の富士吉田ルートを選んだために異様な渋滞にはまったことである。そこで今年はまず登山日程を7/20-8/7の間に限定して日程を選定した。加えて登山日程を平日二日間か,日・月曜日のいずれかのみとし,参加メンバーの予定で日程を絞った結果,7/28-29の日・月に確定することができた。登山ルートも,登山に不慣れなメンバーがいたので富士吉田ルートにすべきだったかもしれないと思いつつ,須走ルートとしつつ,富士吉田ルートで登ってもそれほど手間なく泊まれる山小屋として下江戸屋で予約を取った。7/26になって突然台風が出現したのには驚いたが,結果的にかえって台風一過となって快晴に恵まれたのは僥倖であった。装備は昨年とほぼ同じ。

メンバーは昨年は頬付と2人であったが,本年は頬付(@hoozuki37),しいかあ(@c_shiika),本ブログでは新キャラとなる涼風(Twitter無し)の4人となった。頬付は剱岳登山経験ありで突出した経験を持っている,しいかあさんは体幹が異様に強い,涼風さんは最近になって『ヤマノススメ』にはまってこの登山前日にモンベルで装備を揃えた初心者であるので,概ね頬付:かえでさん,しいかあ:ここなちゃん,涼風:あおい,不肖ながら私:ひなたというほぼ原作通りの構図になった。涼風さんが高山病で倒れるという原作再現にならないことを祈るばかりであった。


<初日:7/28>
ということで日曜日にスタート。頬付は「去年のせいで富士山の八合目付近の山小屋がトラウマなので,富士吉田ルートのスバルライン五合目の休憩所で寝て,早めに起きて深夜に合流する」と言い出したので,彼だけ別行動になった。残りの3人は新宿に集合して御殿場行きのバスに乗車。この時点で富士吉田五合目直通のバスは満席だった。土曜日や祝日ではなく日曜日なのにこれである。吉田ルートは今日も渋滞しそうという予感がした。日・月なら吉田ルートでも渋滞しないだろうと思っていたが甘かった。慎重に慎重を期して須走ルートという選択をして正解であった。

御殿場駅に着き,須走五合目行きのバスに乗り換え。この乗り換え,非常にわかりづらく案内が不親切なので,乗り過ごさないように気をつけよう。我々は迷いに迷って御殿場駅をさまよい,軽くエクストリーム乗り換えになりかけた。バス自体は快適な運転で,須走五合目着。この時点で11時半。そこからゆっくり昼ご飯を食べて(きのこパスタorきのこクリームパスタお勧め),12時半頃に五合目を出発した。登山客が少ない分,富士吉田よりも圧倒的に山小屋の方々がフレンドリーで,サービスが良かった。もっとも,登山客一人一人に「今日はどこ泊まるの?」と聞いていたのは弾丸登山防止の安全確認の意味合いもあろう。

須走ルートは,率直に言って普通の登山道である。富士山感がない。吉田ルートは六合目からすぐに樹林帯が消滅し,見渡す限り草原か土塊の斜面という様相を呈したが,須走ルートは七合目すぎまで樹林帯が続く。道も吉田ルートに比べると広くて整備も行き届いていて,登山客もまばらなこともあって極めて登りやすい。斜度も緩すぎずきつすぎず,ちょっと岩場が少なすぎて平凡,面白みに欠けるところがあるかなという程度で(同行のしいかあは「岩場がないと登山って感じしなくないですか?」と不満げであった),初心者が富士山に登るなら吉田ルートより圧倒的に須走ルートではと思う。しいて言えば五合目までの交通の便が悪いのと,山小屋が一合に一つというところで,吉田ルートに比べると休憩場所の確保やエスケープが難しいくらいか。眺望は樹林帯が長いからダメかと思いきや意外と開けていて,特にこの日は概ね快晴であったので,ほぼずっと振り向けば山中湖が見えたので大変良かった。

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そんな須走ルートも本七合目付近からは荒涼とした,粗い石の転がる火山らしい風景に変わった。空気の薄さも如実に感じられるようになり,ああ,昨年苦しめられたものがまたやってきたなと少し感慨深くなった。そうして,初心者の涼風さんのペースに合わせて,彼を励ましながら,休憩多め登っていったので結果的に標準タイムから20分ほど遅いくらいの,17時50分頃に下江戸屋に到着した。本当はもっと遅いペースにしてあげた方がよかったのだが,18時までには山小屋に到着しておきたかったので多少急かしたところがあり,やや申し訳なかった。一方,スローペースだったおかげで私としいかあさんは体力が温存され,翌日にほとんど疲労感が残らなかったので,あのスローペースの恩恵がこの二人にも無かったわけではない。ゆっくり登れば思っていた以上に疲弊しないというのは発見だった。

そして今回泊まる下江戸屋だが,昨年よりも遥かに眠れた。一人あたりのスペースがやや広かったとか,いびきが異様にうるさい人が近接していなかったとかはあるが,何よりも最大の理由として,寝所を一晩中換気してくれていたおかげで暑くならず空気も悪くならなかったというのが挙げられよう。やっぱり去年の山小屋,寝所が密閉されていたのだけはどう考えてもおかしい。山小屋のスタッフも丁寧で,終始好印象だった。そんな感じで19時頃に横になり,さすがに他の客の物音等ですぐには寝られなかったが,21時頃には意識が落ちていた。


<2日目:7/29>
午前1時半頃に起床。睡眠時間4時間半ではあるが,快眠であった。実は先制して寝る直前に頭痛薬を軽く飲んでいて,それが効いているのか,単に快眠だったからなのかの区別はつかないが,高山病の症状は一切なかった。しいかあ・涼風の二人も問題無さそうであった。起きがけに早速朝飯を食っていたら,富士吉田五合目を22時に出発したという頬付が合流した。思ってたよりも早かったが,さすがの吉田ルートも深夜は空いていたらしい。こちら3人も急いで身支度をして午前2時過ぎに出発。

去年はここからソロになってしまったので明かりが自分一人分しかなく,360度の闇の中で大変な恐怖を覚えたが,今年はヘッドライトが4人,しかも頬付が異常に強力なライトを持ってきていたので,全く暗さに恐怖を覚えなかった。仲間がいるって素晴らしい。下江戸屋から少し登ると吉田ルートとの合流地点になるが,ここから先はさすがにやや渋滞していた。それでも昨年ほどではなく,完全に動きが止まったのは数えるほどで,ゆっくりではあれ,進みがあった。九合目辺りからは岩場となり,私は見慣れたルートなので思い出しながら登っていたのだが,しいかあさんは「やっぱり岩場があってこその登山ですよね! 楽しい!」と言いながら岩場を駆け上っていた。あの人,前世は山羊か何かでは。涼風さんはやはりつらそうであったが,頬付が上手くサポートしていた様子。私は必死にしいかあさんに付いていった。

午前4時20分頃,出発から2時間20分ほどで先発二人があっさりと登頂達成。5分ほど遅れて後続二人も無事登頂。午前4時40分頃に日の出ということだったので,かなり余裕をもって到着することができ,上手く見えるポジションに陣取って。



私は手軽にスマホのカメラで撮ったが,残り3人はデジカメ持参,特に頬付は一眼レフでしっかり撮影していた。この後,頬付はドローンも持参していて,



こういう撮影もしていた。tweetにある通り,富士山は禁止されてはいないものの,強風が多いので推奨されない区域だったところ,この日の山頂は無風と言っていいほど風が無かったのは幸運であった。日差しもあってそれほど寒くなく,しいかあさんに「聞いていた過酷さと違う」と言われてしまった。そしてお鉢巡りを続けて,



やっと悲願達成。御来光にそれほど興味が無かったので,私はこちらの方が達成感があった。このときに思わず「去年の天気なんだっただよ……去年の半分くらいしか体力が減ってない……」とつぶやいてしまったが,いやほんと去年との疲労感が全く違う。この1年で多少なりとも体力が増進されたというのもあろうが,それ以上に天候と山小屋の違いが圧倒的に効いていた。ただ,薬が切れてきたのか,お鉢巡りの後半くらいから,軽い頭痛が始まった。残りの3人も多かれ少なかれ何かしらの症状を訴えていたので,誰しも高山病にはなるのだなというのもこの日の発見だった。また,特に症状が重そうだったのが頬付で,ドローンを飛ばしていたくらいから体調が悪くなりだした。五合目で寝て身体を慣らしていたから完全な弾丸登山ではないものの,八合目で寝ていた残り3人よりは急激な気圧の変化であったのは間違いなく,やはり弾丸登山は高山病リスクが強いのだなというのも今回わかったところ。ちゃんと七〜八合目くらいで泊まった方がよさそうだ。

そういうわけで,高山病の最大の薬は下山であるから,頭痛の重い頬付と,連絡係の私の二人が先発隊,高山病は軽そうながら「すでに足が重い」と言っていた涼風さんと,そのサポート役のしいかあさんを後発隊と分かれて下山した。下山開始で午前7時40分頃だったから,お鉢巡りはちょうど3時間かけたことになる。標準タイムでは100分となっていたが,九合目以降と同様に渋滞があるのと,観光・写真撮影スポットが多いので,実際には100分で回るのは無理だろう。我々の場合,ドローンを飛ばしていた時間が20分程度あったというのもある。

下山路は頬付の都合で吉田ルートとなった。下山していくと七合目頃には私の方は高山病の症状がストンと消えた。一方,頬付はなかなか完全回復せず。五合目到着時刻は10時ちょうどで,下山タイムは約2時間半。結局五合目まで下りて昼飯を食べてもまだ若干不調そうだったので,後発隊には悪いが,先にバスで麓まで下りさせてもらった。麓についた途端に頬付が元気になったので,近隣の喫茶店で時間をつぶして,後発隊を待った。

合流後,ひとっ風呂浴びたいという満場一致の意見により葭之池温泉へ。富士急の駅名に使われているということはそれなりにメジャーなのだろうと思っていってみると,駅前にはあれど非常にひっそりとした佇まいで,外観も中身も古びた和風建築,客は当然我々4人だけ,ロビーに入っても受付不在で,大声で呼ぶと奥からご老人が出てくる……というある種のテンプレを一通り体験した。お風呂も脱衣所と洗い場が一続きで壁がないという衝撃の設計。泉質は正直良いとは言いがたかったが,休憩室の畳の間の居心地は良く,めちゃくちゃ気を抜いてくつろいでいると,近隣住民らしき人々が続々と入ってきた。ここの温泉は観光客向けなのではなく,地域密着なのだ。近隣住民の方々に話しかけられ,富士山下山直後であることを告げると非常に喜ばれた。総合的に言ってこのホスピタリティは良い。隠れた秘湯を楽しんだ後は,目の前の富士急の駅から電車に乗って帰宅,解散。参加者の方々はお疲れさまでした。


<感想>
さて完走した感想ですが(お約束),今年は事前に計画を練りに練っただけあって,台風一過という点で天候にも完全に恵まれ,完璧な富士登山を達成した。達成してしまったので達成感が非常に強く,かえってもう三度目はいいかな,という気分はある。しばらく空いて気力が湧いたら御殿場ルートなり富士宮ルートなり,ルート3776なりをやってみてもよいかなとは思うけど。それよりは普通に,他の山に登りたいという気持ちの方が強い。富士山はその渋滞・高山病・山小屋ガチャも含めて非常に特殊なコンテンツであり,苦労も含めて十分に楽しんだのではあるが,やはり登山としては特殊性が高すぎる。何より社会人が4人も,それも全員で平日を空けて集まるのはなかなか厳しく,それなら普通に土日に他の百名山を登った方が楽しいのでは,と思ってしまうのである。

これで『ヤマノススメ』の聖地巡礼もまた一歩進んだ。次は谷川岳か,筑波山かな。  
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2019年01月26日

加賀屋宿泊記

昨年の12月半ば,石川県を旅行した。同行者はいつもの頬付,隙間坊主に,新たなメンバーでパレさん。いろいろと訪れたが有名観光地が多くてあまり紹介しがいが無いので,和倉温泉に絞って短く書いておく。私が仲間内との旅行で行き先を決める要素は,「未踏県」「良い温泉(または変な温泉)」「聖地巡礼」「ブログのネタになるか」辺りが基準になるが,今回は後ろ3つが該当した。そして和倉温泉の聖地巡礼と言えば……と聞いて,『痕』の鶴来屋を思いついた人は歴戦のエロゲーマー,『りゅうおうのおしごと!』のひな鶴を思いついた人は最近のアニメ・ラノベを追っている人だろうか。我々はもちろん両方である。とはいえ,到着直後の私の発言は「完全に鶴来屋だコレ」だったので,魂が90年代に引きずられている。



さすがに『痕』本体を持ち込む勇気は無かった……のだが,後述のドール撮影会を鑑みるに持っていってもよかったかもしれない。『りゅうおうのおしごと!』はきっちりと5巻をチョイス。さてその加賀屋であるが,「単純に日本最高の旅館」と言われるように,なんかもういろいろすごかった。建物が4棟に渡っており,1〜3階で連結しているため,外から見ても(上掲tweetの2枚目)中から見ても(3枚め)全容を把握しきれないほど広い。その1〜3階は通路に5mおきに九谷焼が置いてある。2つに1つくらいは人間国宝。このうち催し物を行うホール部分は12階ぶち抜きになっていて,エレベーターのある壁面には超巨大な加賀友禅が貼り付けてある。そしてホールの空中にも超巨大な加賀友禅が張ってある(3枚目)。総じてアトラクションが多く,館外に出られたら負けという意地すら感じた。美術骨董品が好きなら館内探検だけで相当に時間が潰せてしまう。この点,ちょっとゆったり過ごしすぎて(あるいはチェックイン時間が遅くて),消灯されていたりで全部は見きれなかったのはちょっとした反省点である。

部屋も4人で3部屋(メインの部屋に離れと掘りごたつ付の居間が付属)だったのでゆったり使えた。メンバーのうちパレさんがドール趣味なので自慢の娘を持ち込んで,床の間にセットして撮影会を開催。カメラが趣味の頬付と上手く連携が取れていた。



なお,ドールのセッティング中に仲居さんが入ってきて慌てて隠したという事件もあったが,多分加賀屋レベルの仲居さんなら多様な客を見慣れているので,別に隠さなくてもよかったと思うw。ちなみに,2018年の竜王戦は第五局が12/4-5で和倉温泉・加賀屋であり,我々が泊まったのはその直後であったので,我々は表向きその残り香を嗅ぎに来たにわか将棋ファンということにしていた。


当然,お食事も豪華。



とにかくメニューの圧が強いのだが,それぞれが石川県の名物であるという側面と,豪華な和食定番のものという側面の両面があり,意外にも前者の要素が割と強いのが面白かった。カニとのどぐろと大トロとアワビと黒毛和牛が出てきたから満足というような(和牛以外全部出てきたけど),単純なメニューではないのが超一流たる証なのだろうか。なお,治部煮は石川県名物の煮物であるが,治部は当て字で某石田治部は無関係らしい。彼は加賀にゆかりが無いから疑問に思って質問したら即答してくれた仲居さんはいい仕事をした。それはそれとして,メニューの見た目には先附にしかカニが無いように見えるが,「メインで入っていないものは書くまでもない」という方針らしく,それぞれの皿にちらちらと載っていて,気づくとトータルでかなり味わっているというのもポイントが高い。宿泊費のうちの少なからずがこの料理であるとして,お値段を考えると妥当という評価にはどうしてもなるにせよ,日本全国津々浦々いろいろと食べてきた中でも,この夜の食事はさすがに記憶に残るレベルであった。食器もまあ,比較的安物ではあろうが九谷焼と輪島塗。これについて前述の仲居さんに「館内の九谷焼も後で見に行きますね」と言ったら「全部見ようと思ったら日が暮れますね」と返事をされて戦慄した。実際,上述の通りスタートが出遅れたこともあって全く見終わらなかった。

続いて温泉について。脱衣所を抜けて目の前にエレベーターがあるという時点でスケール感が狂っている。3階構造で湯船がまた広いのだが,これは4棟の宿泊客数を考えるとかえって妥当かもしれない。12月の半ばというタイミングであったので比較的空いていたが,ハイシーズンだとこれは埋まってしまうかも。また,意味不明な広さというと我々は霧島温泉の霧島ホテルを経験してしまっているので,あれに比べれば……というのはどうしてもあった。泉質は海のそばというだけあって塩とマグネシウムが主体。要するに,舐めるとすごくしょっぱい&苦い。


最後に,気になるお値段について。4棟ある建物で結構値段が異なる。高い方から雪月花・渚亭・客殿・本陣。名前のイメージと異なり本陣が一番安い。将棋の竜王戦が開催されていた雪月花の最上階の浜離宮はさすがに目の玉が飛び出るようなお値段だが,オフシーズンの雪月花の一般客室(今回我々が泊まったところ)なら3万5千〜4万円ほど。本陣だと2万〜2万5千円ほど。雪月花でも手が出ない値段ではないし,建物・温泉・食事と総じてコンテンツ力が異様に高く,人生経験として一度は体験して全く損にならない。特に『りゅうおうのおしごと!』勢には,「ここで育ったあいちゃんが家出するというのは並々ならぬ決意が必要だよな……」というのをリアルな感触として味わえるので,それも込で強くお勧めしておく。  
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2018年09月11日

富士山登山記2018

『ヤマノススメ』聖地巡礼を兼ねて,富士山登山に行ってきた。他の登山記事はもうちょっと数が多くなってから(少なくとも飯能市街と谷川岳に行ってから)書こうと思っているが,富士山は『ヤマノススメ』以外の文脈の方が大きいので,先行して書くことにする。弾丸登山は避けて1泊2日であったが,これについては後で触れる。


富士山の麓への到着は10時半頃。ややもたついてスバルライン五合目の到着が12時の少し手前。五合目は人でごった返していたものの,思っていたよりは少なかった印象。非常に外国人が多く,白人と中国人が中心だが,訪日外国人の割合から考えるとやや白人が多めか。というよりも白人は多くの人が軽装で,登っていくと八合目くらいからあからさまに中国人の割合が高くなっていったから,目的が異なる。中国語は登山中,山小屋内を含めて終始聞こえてきて途切れるタイミングが無かったというところで,中国人の数を想像してもらいたい。国内の景勝地を訪ねるよりも,かえって富士山の方が近いという感覚なのか,それとも登山人口自体が大きいのかはわからない。

スバルライン五合目で昼飯を食べて13時頃に出発。登るのは当然吉田口登山道になる。六合目までは馬に乗って移動できるというサービスがあるが,料金が1万円ということもあって止めておいた。かなりの数の馬が五合目で飼われていたので少し驚いた。六合目まではすいすいと進み,特に混雑もなく13時40分頃に到着。そして六合目から七合目に進んだはよいが,七合目到着目前の辺りから猛烈な渋滞に襲われた。富士山はそもそも登山道が渋滞するものであり,高山病と並んで他の山と全く異なる様相を示す特徴の一つとなっている。が,登ってみてわかった。はっきり言わせてもらうとこの渋滞,人が多すぎるからではなく,道が狭すぎるからである。

間違いなく道を広げれば解決する。五合目・六合目あたりの方が人が多く,意外と六合目まで登って戻っていく人も多い(前述のように軽装の白人は大体ここまで来て楽しそうに写真を撮って戻っていく)。にもかかわらず全く渋滞していないのは道が広いからで,5人くらいが横になっても人が通れる。しかし,七合目付近から途端に道が狭くなり,ひどいと一人しか通れない階段になる。これで渋滞しないほうがおかしい。登ったのが9/1-2であるのでこれでもまだマシだそうで,お盆の頃はさらに重い渋滞になるそうであるから,もう全く身動きがとれないのではないか。道が広げられそうにないかというとそうでもなく,登山道が山小屋に沿うように,一本道になるように引いてあるから強制的に狭くなるという様相で,既存の道を拡張するなり,山小屋を回避して別の道を引くなりというのはそれほど苦労せずにできそうに思えた。渋滞のせいで明らかに登山道の環境が悪くなっており,登山に時間がかかって登山客の危険性も高まっているのであるから,安全性を考えても改善の余地が大きいと思う。「渋滞は富士山名物」なんてのはコミケのコミケ雲並に誇るべきものではない。

七合目五勺付近から道がやや広くなったこともあって空き始めた。3000mに近づき,このくらいからさすがに涼しさを感じるようになり,空気の薄さも感じるようになり,加えてこの辺りから岩場が目立つようになった。なるほど,『ヤマノススメ』であおいちゃんが挫折したわけだ。それでも渋滞地帯よりは快適で,激しい運動をしているので涼しさはありがたかったし,岩場の存在もかえって本格的な登山をしている雰囲気が出ていて,単純な登山の楽しさとしてはこの辺が一番であった。七合目付近では標準タイムから20分ほど遅れていて山小屋の夕飯に間に合わないのではという不安もあったが,特に急ぐ意識もなくスピードアップし,結果的に17時40分頃,目標タイム通りかやや早めに八合目着となった。標高3200m。すっかり火山らしい荒涼とした風景となり,五合目等と比較すると完全な別世界である。

そして山小屋に泊まった。管理人のサービスやトイレの設備,夕飯の質等は文句なかったが,睡眠環境が極悪であった。すし詰め状態は渋滞から予測できたことではあるし,我々は出遅れて予約したので仕方がないところはあるが,それにしても詰め込みすぎていたと言わざるをえない。あれなら「人数過多なんで無理です」と断ってくれたほうが,出遅れた我々としてはかえって助かった。締め切られた狭い空間に人が詰め込まれているので気温が上昇し,電力に余裕が無いからクーラー等なく地上と変わらぬ熱帯夜,そして空気が非常に悪く息苦しい。さりとて環境に文句を言っても詮無いとして,より悪かったのは隣のおじさんで,いびきが爆音だったのは仕方がないとして,異常なまでに寝相が悪く,両側を蹴り倒して3人分占拠して寝ていた。しかも寝相の方向によってはおじさんの顔がこちらの顔に近接し,耳元でいびきをかかれためにいびきが耳栓を貫通したのには本当に閉口した。あまりにもひどかったので寝返りで蹴られるたびに蹴り返していたが,向こうは終始爆睡状態だったのが余計に腹が立った。人生30年余り生きてきて,山小屋の経験は少なくともそれなりに劣悪な環境の雑魚寝は大小経験してきたが,この夜ほどひどかった環境は無かった。頬付が「奴隷船を彷彿とさせる」と言っていて,最初は私は「さすがに言い過ぎではw」と言っていたが,終わって振り返るに確かに奴隷船レベルだったと思う。

結果的にほぼ一睡もできないまま,形の上では寝転がってから7時間経って午前2時。「御来光を見るなら今起きるとよい」と管理人が宿泊者全員を起こしにかかるが,誰も彼もが同じような状況だったせいか,ほとんどの人は起き出さずに,むしろうめき声が漏れていた。それでも2,3割の人が出発していった。私は高山病というよりは睡眠不足で身体が非常にだるかったが,「このままここで横になっていてもどうせ一睡もできない」と見切りをつけて,一念発起して起き上がった。結果から言えばこれは正解で,むしろもっと早く見切りをつけて起きるべきであった。その際に例のおじさんとは逆の側で寝ていた頬付に声をかけると「同じく一睡もしていない。非常に頭が痛いので高山病ではないかと思う。薬を飲んで様子を見る。もう少し人が減って部屋の気温が下がれば寝られると思うから,もう2・3時間寝てみてその時の体調でこのまま下山するかそちらに追いつくか検討する」と言って解熱鎮痛剤を服用して丸まってしまったので,ここからは単独行動となった。『ヤマノススメ』聖地巡礼を兼ねているので吉田ルートで登ってきたが,まさか展開まで『ヤマノススメ』と同じになるとは思っていなかったし,高山病になるなら3000m級初挑戦の自分だろうと思っていた。

準備を整えてロビーに降りて外をうかがうと雨が降っており,天候まで敵で踏んだり蹴ったりである。しかしロビーは涼しく空気もよく,とりあえずここで寝っ転がってみると存外すんなり寝入ることができた。1時間弱寝るとなぜだか一気に回復し,朝飯を食べて外に出ると雨も止んでいて,午前3時半頃に気分良く出発した。なお,後で聞いた話だが,その後私という壁がなくなったことでおじさんの寝相の蹴りは頬付に襲いかかったそうで,再会後に私と全く同じ苦情を彼が述べていたのが少し面白かった。

八合目の山小屋を出発してヘッドライトを点灯させ,少し進んでまず感じたのは完全な暗闇の恐怖である。見渡して360度,自分のヘッドライトとはるかに遠くなった山小屋の明かり以外に一切の明かりないと人間は根源的な恐怖を感じるというのを実感した。実は私はナイトハイクが初めてで,これ自体はよく聞く話であり,自分もそういう恐怖を感じてみたいなとすら思っていたところだったから,真に経験できたのは僥倖でさえあった。確かにあれは意味不明に怖い。とはいえこの状況では登山に支障があり,進みが非常に悪かったので,勇気を出してある程度がむしゃらに進み,先行する何人かの集団に追いついた。この時の安心感と言ったらない。

そうして進んでいって午前4時半頃に八合七勺といったところか,集団が何十人,いや何百人という列になり,ヘッドライトの連なりで登山道がくっきり見える状況になり,「これ『ヤマノススメ』で見たやつだ」となり妙に嬉しくなった。この頃には雨が再び振り出して小雨,やがて激しくなって風も出てきて暴風雨の様相を呈していった。事前の天気予報では午前6時に近づくにつれて天候は回復するとなっていたが,正反対である。一応午前5時10分に日の出ということになっていたが,もはや御来光は望むべくもない。山の天気は読めないとはまさにこのことだ。さらに九合目からは道が再び狭くなって渋滞し,九合目を過ぎた時点で午前5時10分を過ぎてしまった。明けない夜は無いが,見えない日の出はあるのである。それだけにかえってこの集団に団結力が湧いていった。もはや御来光などはどうでもよい。暴風雨などに負けてたまるか。そこに頂上があるから登るのだ。そういうような気持ちを場の全員が共有していた。そうして午前6時頃,とうとう登頂に成功した。 標準タイムの2時間から遅れること30分の2時間半。しかし時間以上に渋滞と暴風雨に苦しんだだけに,喜びもひとしおであり,着いた瞬間誰しもが歓声を上げた。私も九合目からずっと一緒だった見知らぬ人と思わず歓喜の握手をかわし,互いのスマホで写真を撮り合って喜びを分かち合った。異様なまでの達成感であった。なお,この人たちに聞いたところ,何度も登っているがこれほどの荒天は初めてだそうで,「初の富士山がこれとは」と同情されてしまった。

さて,本来であればこの後にお鉢巡りであるが,諸所の事情により今回は断念した。理由はまず,あまりにも風が強かったこと。登頂した頃には雨は小雨に戻っていたが,風は強さを増していた。強くなったというよりは頂上では遮るものがなにもないために人体に直撃するからということだろう。とりあえず剣ヶ峰の方向に歩き出したものの,風速が軽く20mは超えていようかという風に真っ向吹かれて,全く一歩も進めなかった。気づくと自分以外に剣ヶ峰に向かって歩いている人がいなくなっており,最終的に自分も断念した。そしてこのことで気づいたのだが,やはり自分も相当に疲弊していた。服はさすがのゴアテックスで全く水没しておらず,その下にセーターを着込んでいたため気温0度の頂上であっても全く寒さは感じなかった。膝も特に痛みがなく体力的には快調そのもの,高山病の症状もなかった。が,登頂したことで一度気が緩んだか,睡眠不足によるだるさがぶり返してきていて,ちょっと無理が効きそうになかった。3つ目の事情として,山小屋に放置してきた頬付の様子がさすがに心配になり,早めに合流したほうが良さそうに思えたことである。

そうして午前6時半頃,下山を始めつつ頬付に連絡をとってみると,なんと実は5時頃には体調が回復していて,遅ればせながら登り始めていて,もうすでに九合目というではないか。そこで彼に「自分は下山を始めてしまった」と言うと,「じゃあ下山路で合流します」という返事が来たので,申し訳ない気持ちになりつつ,そのまま下り続けて吉田口下山路の八合目過ぎ(須走ルートとの分岐点過ぎ)で合流した。なお,下っていくと風は弱まっていったが雨はぶり返し,結局この日は終始雨か風かのどちらかには苦しめられた。スバルライン五合目には午前9時頃,標準タイムを30分縮めて到着。五合目で買う気もなくお土産を物色していたら,『ヤマノススメ』グッズは全く無かったが『ゆるキャン△』のグッズは売っていたのがちょっとおもしろかった。後はバスと電車を乗り継いで帰宅した。帰宅して寝て起きたら12時間経っていたので,やはり睡眠不足ではあったのだろうと思う。



下山してしばらく経って思うのは,反省点の多さである。まず,山小屋の混み方は想像を遥かに絶していた。耳栓はもちろんのこと,アイマスクも必須であるし,何なら睡眠薬も持っていったほうがよいだろう。そもそも根本的に有休をとって平日に登った方がよい。渋滞も避けられる。ただしその場合,少人数でのナイトハイクは本気で危ないという副作用が生じるので,3人以上のパーティーを組んだほうがよいだろうが,勤め先がバラバラな社会人が決め打ちして有休を取得できるかという壁はあるかもしれない。これに関連する話として,弾丸登山(=日帰り)は高山病リスクが高いとして近年強く戒められているが,正直あの睡眠環境なら弾丸登山の方がマシであると思う。

悪天候対策も甘かった。前述の通り,服装はゴアテックスで固めたので申し分無かったが,そもそも悪天候を避ける日程を組むという努力については足りていなかった。後から調べてわかったところ,8月下旬から9月頭になると頂上付近の天候は荒れやすくなり,9月になったらいつ雪が降ってもおかしくないそうだ。確かに今回も頂上の気温は0度であり,小雨も降っていたので,あれは雪でもおかしくなかったのだろう。7月も中旬までは梅雨の影響で荒れやすいそうなので,御来光を目指すなら7月下旬か8月上旬〜中旬がよいとのこと。今回は7月に雲取山に登る日程を組み込んで延期し,8月上旬はコミケとぶつかると言って延期し,中旬はお盆の混雑を避けるべく延期し,結局選択肢が8/25-26か9/1-2しか無くなってしまった。これが最大の敗因であったと思う。一方で体力と技術は問題が無かった。どちらも雲取山の方がきついと感じた。寒さは言われているほどのものとは感じず,装備が十分なら問題なかろう。睡眠不足と荒天が無ければかなり余裕な登山だったのではないかと思う。

結果的に私は登頂したが御来光を見逃してお鉢巡りをしておらず,頬付は九合目で撤退となった。来年は準備を万端にして絶対にもう一度登頂すると宣言して(だから記事名に2018と入れている),今回の記録を締めておくことにしよう。そういうわけで時期が近くなったら同行者を募集すると思うので,希望者は頭の片隅に置いておいてもらえるとありがたい。
  
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2017年12月23日

京阪神旅行記(後編):『有頂天家族2』・『Fate/stay night』聖地巡礼

二日目:狸谷山不動院・京都市街
この日は主に『有頂天家族2』の聖地巡礼に当てた。まず行ったのが狸谷山不動院。矢三郎の祖母が住んでおり,両親が結婚式を挙げた寺院でもある。これが下鴨神社から大きく東に外れた山の中で,Googlemap上で見ると近く見えることから「登れそうだけど,時間ももったいないし,タクシーで行こうぜ」と軽い気持ちでタクシーに乗ったら大正解だった。まだ住宅地が続いている麓から急激に登ること激しく,しかも山道としてつづら折りになっているというわけでもなく,急激な斜面にそれほど曲がらない車道が続いた。Google先生は全てを平面で考えるので上り坂を考慮しない。標高から言えば200mかそこらだし,舗装されていて自動車が通れる道ではあるが,仮に歩いて行くなら登山のような気持ちになるだろう。というよりも,行けるところまで車で行くのが正解としか言いようがない。



そういうわけで到着,車でこれるのはここまで。この入口からは石段が250段続くだけで,そこまで苦労はしない。この寺院の開山は18世紀初頭で,江戸時代のある僧がこの地で修行に励み,不動明王像をここに安置したのが起源であるが,しばらくの間は野ざらし状態であった。そしてお堂を建てる計画が立ったのが1944年,実際に建ったのは戦後直後のことであるから,京都の寺院としては極めて新しい部類に入る。本堂は清水寺や投入堂等と共通する懸造りで,ぱっと見は「保存状態の良い平安時代の作例」に見えるが,どっこい昭和の作例である。20世紀半ばの土木建築技術なら楽勝に作れたのだろうと思われるかもしれないが,よくよく考えてみると大都会京都から近いとはいえ重機の入らない山奥,それも物資不足の戦中から建て始めたのだから,平安時代とそれほど変わらぬ労力がかかったのではないか。たぬきから転じて「他を抜く」ということから勝負の願掛けをする寺院となっており,入り口と本堂の周辺には「1985年」やら「2003年」やらに建てられた特定の球団の「戦勝記念碑」が大量に据えられていた。京都人は大阪人ほど野球を見ていない印象はあるが。



本堂の隣の寺務所では,かなり大きく『有頂天家族2』が取り上げられていた。写真に写っている矢三郎祖母のぬいぐるみで,これ以外に桃仙の大きなポップが立っていた。

なお,本堂の近くに「宮本武蔵が修行した滝」なる史跡があるが,前述のようにここの開山は18世紀初頭であり,加えて修行が(創作が疑われている)吉岡一門との決闘に向けてという伝承であることから,極めて胡散臭い。しかもこの滝,2017年秋の台風で周辺の大木がなぎ倒された影響で碑やお堂が崩れ去っており,おそらく滝自体の形も変わってしまったのだろう,非常に軟弱な滝がちょろちょろと流れているだけであった。極めて残念感しかないスポットである。やはり胡散臭い伝説を商売道具にしてはだめだと思う(右の方を向きながら)。

狸谷山不動院を見た後は一気に坂を下りて大きな通りに出て,再びタクシーを捕まえて南禅寺へ。山門を見上げながら「玉蘭さん将棋打ちましょう」と言うミッションをこなし,ついでに琵琶湖疏水も見た。20年ぶりぐらいに見たけど,南禅寺はよくこれを境内に通すのを許したと思う。今となってはこの疎水もまたノスタルジーを誘うものになってしまい,かえって南禅寺の日本庭園にマッチするようになってしまった。時間の流れは早い。さらにその後は六道珍皇寺へ。井戸を覗き込んで「兄さん会いに来たぞ」と言うミッションをこなす予定であったが,井戸まで近接できない残念仕様であった。道中に同行者が「牛丼を買っていかないと」と言っていたが,買っていかなくてよかった。間違いなく持て余していた。この辺で日が落ちたのでホテルに撤収。日が暮れてから南座を外から眺めた。ちょうど改修中であり,「まあ,天狗に壊されたんでしょうね」と多分ここに聖地巡礼に来たオタクの100人中98人くらいが言ってそうなジョークを言うミッションをこなした。この日は先斗町へ行って料亭で懐石料理を食す。金をかけずに美味いものを探すのは好きなのだが,金をかけて味が保証されているものを食べるのはそれはそれで趣深いのだな,という経験が積めたので,対価を支払っただけの価値はあったように思う。これ1食でガチャ◯回分か……と考えると世の中のことが何もわからなくなる気分になれる。人生は難しい。その後,ホテルに帰って就寝。


三日目:神戸
朝は辻利の直営喫茶店(都路里)へ。一服後は京都から阪急を使って一気に神戸(三宮)へ。少し時間帯が早かったが,さっさとホテルに向かった。何しろ,このホテルが今回の旅の最大の目的地なのだ。





ホテルモントレ神戸は1階のロビー,中庭と地下1階チャペルが『Fate/stay night』の言峰教会のモデルとなっている。中庭が一番わかりやすい。ホテルに入って中庭を見た瞬間の「あ,ここだ」感は非常に強い。“愉悦部部室”も同じく。ここを落ち着いて巡礼できるのは宿泊者の特権であり,まさしく愉悦の気分である。思わずソファーに寝っ転がってギル様と同じポーズをしてしまった。ところで,間違いなく同じ目的であろう宿泊客が全く同じルートでホテル館内をうろつき同じ角度で写真を撮っていたが,この御一行様,男性イケメン1人に女性3人という異色の組み合わせであった。奇しくも士郎くん+各ルートの女性でこの組み合わせになり,『Fate/stay night』の巡礼としてはこれが完璧なのかもしれない。女性陣がチャペルの長椅子に腰をかけながら「ここでガチャ回す?」という会話をしていたのが印象的であった。対抗してその場で侘び石を使ってガチャを引いた頬付は見事に星5のエレシュキガルを引き当てており,「愉悦……」と恍惚の表情であった。聖地で引くとご利益があるのだろうか。

なお,我々が急いでここの聖地巡礼をしたのには理由があり,このホテルモントレ神戸は2017年12月31日をもって改装工事に入り,休館してしまう。“言峰教会”の聖地巡礼ができるのは,年内が最後の機会なのである。みなさんも駆け込みで見に行ってはいかがか。その後は神戸中華街へ。ここで激辛麻婆豆腐を食っていたら,上掲の同行者の「言峰教会にきた」というtweetに対して「どうした、食べていかないのか」ってリプライがとんで来たのが,間違いなくこの旅行のハイライト。まさに今食べてるんだよなぁ……仕込みかというくらいにタイミングが完璧であった。

神戸中華街で腹を満たした後は,生田神社を通って,北野異人街へ。遠坂凛の家は2つの実在の屋敷をモチーフにしており,外観は最も有名な異人館の「風見鶏の館」。内装は「うろこの家」からとられている。そんなわけで風見鶏の館へ。




『Fate/stay night』とは関係なくそもそも超有名な観光地であるが,改めてじっくり眺めてみると確かにどう見ても遠坂邸の赤い屋敷である。なお,中を見学しているとFateの主要キャラを折った折り紙が飾ってあって,これだけ有名な観光地でも聖地になったという自覚はあるのだなとちょっと驚いた。



続いて,うろこの館の内装。こちらも見るとすぐにわかる遠坂凛の私室。ただ,アニメ等での描写に比べると実物は少し狭い。この広さではアーチャーが落下してきた時に,部分損壊ではすまず完全崩壊しそうである。あとはこの近くに,教会へ続く坂道の元になった坂道もあるので,必見。こうして北野を見終わったら,次は一転して海沿いに出て,モノレールに乗って神戸大橋へ。





これまたFateファンなら一発でわかる,新都へつながる橋。『Zero』でアイオニオン・ヘタイロイが展開されたり,『hollow』ではアーチャーの矢が飛んできたりしたあの橋である。ついでに言うと我々が写真を撮っていたのは北公園で,ここはセイバールート(Fateルート)で士郎とセイバーがデートの最後に来た場所であり,ギルガメッシュの襲撃を受けた場所でもある。さて,橋到着時点で17時頃で,ライトアップが18時半頃であったから,1時間半ほど時間を潰す必要に迫られた。いくらなんでも徒歩20分圏内に喫茶店くらいあるだろうと高をくくっていたが,このポートアイランド内はそうした施設が一切ない。結局モノレールの駅の待合室の暖房がよく聞いた部屋で待機することになった。あの辺,喫茶店もコンビニも他の観光名所も含めて本当に何もないので,後続の聖地巡礼者は気をつけよう。しかし,待ったかいはあって,

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見事な夜景の写真。「エクスカリバーが4本生えた」とは同行者の弁である。非常に満足した気分でモノレールに乗って撤収し,ホテルを経由してお夕飯へ。神戸牛を食した。最近「まあこれも言ってしまえばガチャ◯回分に満たないからな」という理屈のせいで,うまい飯のために高額を支払う心理的障壁が下がっている。怖い。その後はすぐにホテルに戻って就寝。


4日目:有馬温泉
起床後,ホテルのバイキングの朝飯を食べて出発。三宮駅からバスに乗って有馬温泉へ。到着したらとりあえず「余裕有馬温泉」をつぶやくミッションをこなす。いや,ここに来たのは『ゆるゆり』の聖地巡礼ではなく,『有頂天家族2』の聖地巡礼である。なにはなくとも金の湯へ。



ご存じの方も多かろうとは思うが,有馬温泉には金の湯と銀の湯がある。金の湯の温泉は薄めれば確かに金色に見えなくもないが,実際に入ってみると見事なまでに真っ赤で,「あ,これ別府でも見たわ」というのが第一印象。別府の場合,入れる温泉の色は割りと普通なので,その意味では有馬温泉の方が稀少である。いろいろと温泉に入ってきたが,これだけ真っ赤なのは初めてだった。その場で買った金の湯タオルも真っ赤に染色されてしまった。浸かり心地は大変良く,なるほど,都からこの距離でこんなに良い温泉があったら,権力者の連中は古代から通いつめますわなぁと体で納得した。そして聖地巡礼の続き。




例のポストと例の喫茶店のシュガーポット。この他の場面も密集していて巡礼しやすかった。一通り有馬温泉を観光したら新神戸に移動して,帰宅。今回もいい旅であった。

  
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2017年12月20日

京阪神旅行記(前編):『響け!ユーフォニアム』聖地巡礼・宇治陵

京阪神に諸々の聖地巡礼の旅に出たので,要点だけまとめて報告。今回は旅行中に撮った写真のほとんどは事前に自分または同行者がTwitterにあげていたので,それを転用する。

初日:宇治(・木幡)
言うまでもなく『響け!ユーフォニアム』の聖地巡礼。というわけで何はなくとも



通称“上手くなりたい橋”。ここから「上手くなりたい」と叫んでから練習すると,楽器やスポーツの上達が早まるという(嘘)。ところでこの時川辺で重機が工事をしていたのだが,何か新しく作るのだろうか。次に向かったのが平等院鳳凰堂。塗り直した後のものを見たかったのもあり,訪ねた。塗り直しにより新品同然になったことについて世論は賛否両論であったが,個人的には賛成で,別に侘びを売りにしている建物ではないのだから,当時のままの方がよいだろう。というよりも,外面だけ塗り直しても中途半端で,どうせなら内側も完全復元して雲中菩薩52体も全部再配置して,藤原頼通が見たままのものを見せてほしいと思う。平等院鳳凰堂から出たら門前の商店街は抹茶一色で,歩いているだけで抹茶の匂いが充満しているのがわかるのだからすごい。抹茶ソフトを食べながら移動して向かった次の目的地は,



橋姫神社。今回の旅行の写真で一番反応が悪かったのがこのtweetなのだが,おそらく東方ファンすら何のことだかわからなかったのだと思う。ググってもらうのも何なので東方ファン以外にもわかるように解説しておくと,ここは『東方地霊殿』の聖地の1つである。『東方地霊殿』の2面ボスの名前を水橋パルスィといい,嫉妬心を操る程度の能力を持った妖怪である。元ネタの宇治の橋姫伝説は,夫の浮気に嫉妬した女が生きながらに鬼と化し,復讐を果たしたというもの。「パルスィ」はパールシー,すなわちペルシア人の意味であるが,これを唐代の中国ではペルシアを「波斯」と書いた。さらにこれを日本語で読めば「はし」となる,つまりダジャレである。水橋パルスィの立ち絵を見ると「緑眼」になっており,彼女のテーマ曲も「緑眼のジェラシー」だが,英語でGreen-eyedは「嫉妬深い」の意味である。出典はシェイクスピアの『オセロ』だそうだ。なお,現地の橋姫神社は宇治の橋姫伝説の知名度から考えれば極めて寂れており,後述するように,それ以外の観光地を見ても,宇治の方々は平等院鳳凰堂と『源氏物語』宇治十帖という二大観光資源が大きすぎて,他の観光名所を持て余している印象を受けた。少なくとも橋姫神社くらいは,橋姫の嫉妬を受けて大変なことにならないうちに整備してあげてほしい。ついでに言うと,橋姫も一応「橋姫ちゃん」というゆるキャラ化・グッズ化されており,この子は赤眼であった。

続いて宇治から北に2駅,木幡に移動。真っ先に行ったのは京アニショップだったが,16時閉店で入れなかった。平日だから仕方がない。これをスルーしてもう3分ほど歩くと,見えてくるのは許波多神社である。藤原基経の墓があると聞いていたし,なにせ木幡駅から歩いて5分,京アニショップから歩いて3分の立地であるから,小さくはあれどそれなりに整った神社なのだろうと思っていったら,ここもこの上なく寂れていた。行った時には地元の小学生がダンスの練習をしており,神社に入ってきた我々は明らかに不審者であった。これはこれで神社のあり方としては正しいとは思うものの。おかげで藤原基経の墓を探すのにも一苦労であった。鳥居をくぐれば全景が見渡せてしまうような規模であるにもかかわらず,5分は探した。というわけで,



これが,かの日本史上初の関白に就任した藤原基経の墓である。橋姫神社以上に,知名度に比して何もない。今から『応天の門』が大ヒットして歴女の皆さんが聖地巡礼してここが整備されるという未来はあるのだろうか……。

さて,あえてここまで説明せずに書いてきたのだが,この極小規模の墳丘,正確には「宇治陵36号」と呼ぶ。そう,36号なのである。実は宇治には「藤原北家一族の墳丘墓が無数にある」ということだけわかっていて,宮内庁により一応番号付けがされて管理されているが,今ひとつどれが誰の墓なのか確定していない墓が多い。あまりにも被葬者が確定できないがために,最も大規模で被葬者も確定している1号が代表とされ,総遥拝所(ここに参拝したら全部回ったことにしてよい)となった。ただし,その1号の被葬者は嬉子や威子等の皇女等であり,摂関を継いだ人物は一人として埋まっていない。つまり,藤原基経は36号と推定がついていてしかも神社の境内で静かに眠れているだけマシ,というよりも大いに恵まれている。

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これがその1号墳。確かにここはそれなりに大きかったが,それでも全く観光地化されておらず,管理所っぽいものもない。それでも他に比べると整っている。



そしてこれらが,どちらかが藤原道長の墓とされている32号・33号墳。こんなにも無常を感じる光景はそうそうない。完全に住宅地に埋もれていた。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだあの藤原道長の墓が,現在こうなっていようとは,日本人の99.9%は思っていまい。今回の旅行で最も感情が揺れ動いたのは間違いなくこの場所で,自分で予期していた以上に,自分の中の無常観に訴えかけてくるものがあった。探すのはかなりの困難を伴うが,皆も探そう32号・33号墳。なお,3枚目の画像は,往時にはこれらの墳墓を管理していた藤原北家の菩提寺,浄妙寺の跡地であったことを示す看板である。浄妙寺跡は現在小学校となっており,この小学校建設の際の発掘調査で実在が確認された。1970年頃のことだそうなので今から40年以上前のことではあるが,それまであの藤原北家の菩提寺の所在地も正確にはわかっていなかったというのも,また無常の極みである。後世の摂関家はどうしていたのかと思い調べてみると,平安末に五摂家に分裂した段階で宇治の墳丘墓は放置されるようになり,浄妙寺も鎌倉時代に衰退して15世紀後半に焼失したとのこと。


初日はこの後,完全に日がとっぷり暮れてしまった後ながら伏見稲荷を訪れ,千本鳥居を四の辻まで登山。夜の伏見稲荷は,夏場は肝試しスポットとして賑わうそうだが,この冬場では閑散としており,これはこれで趣深い。途中,やたらと人間に慣れた野良猫と,空を自由に闊歩するムササビを見かけるという僥倖も得た。さらにその後は大阪に移動し,すっかりミナミの人間になっていた友人と旧交を温めて就寝。翌日,午前中に軽く大阪観光(真田丸と心斎橋・なんば)をした後,午後から京都の洛中に移動して,再びアニメと歴史の聖地巡礼の旅に戻った。(続く)
  
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2017年08月29日

岩手旅行記(後編)

15日:遠野〜焼走り熔岩流〜八幡平
この日も早めに起きて朝食後,早めに出発して遠野へ。遠野行きに関しては同行者二人に「あそこ行って何するの?」と言われていて,私自身「様々(『咲-Saki-』『東方』etc.)な作品の元ネタ巡礼的なチェックポイントやから(震え声)」と返事していたわけだけれども,着いてみるとなかなかコンテンツ力が高かった。まず単なる妖怪押しというよりは「妖怪が出てもおかしくないような昭和前期頃の日本の田舎」押しに切り替えているのが正解。そしてそのイメージの塗り重ねは成功している。たとえば以下のような。




どこを回ったらいいのか今ひとつわかりづらいという欠点も自覚していて,とりあえず遠野ふるさと村(上の画像の民家はここ)か,伝承園に行けば観光スタートの拠点になる仕様。私としては,遠野ふるさと村は他の観光施設からやや遠いので,伝承園スタートを勧めたい。伝承園からは必然,昔は河童が住んでいたというカッパ淵に行くことになるが,その道中が見事な

遠野・ホップ畑


ホップ畑だった。昭和前期頃の日本の田舎雰囲気押しをしていていきなりこれが出てくるのはインパクトがあり,かつ意外にも雰囲気は崩れていない。もちろん地ビールもある。遠野でホップ畑・地ビールなんて東方的にはなんて奇遇な。着いたカッパ淵は見事なまでに何の変哲もないただの沢で(しいて言えば水はかなり綺麗),しかしそこにカッパという文脈ときゅうりを餌にしてカッパ釣りができるというお遊びを加えることでここは強い観光名所に変貌した。

カッパ淵・カッパ釣り


このシュールな光景,バカバカしさが一周まわっておもしろいのである。到着した観光客,特にご家族一行はきゅうりを釣り竿にかけていた。子供たちは決して何も釣れない釣りなのに楽しそうである。なるほど,無から有を生み出す観光の工夫とはこういうことかと変な感心をしてしまった。なお,きゅうり専用釣り竿の貸出は1本200円で,伝承園でカッパ釣り許可証を兼ねて貸し出されている。きっちりと金をとっていて,かつぼったくり料金でもないのもポイント高い。カッパ淵観光で謎の感動を得た3人は伝承園で昼飯を食う。岩手県名物「ひっつみ」はぶっちゃけて言えば「ほうとう」であって,まあどこにでもあるものではあるのだが,美味いことには違いなかった。結果的に,最初は2時間も滞在するかどうかと言っていた遠野観光は4時間以上滞在し,強い満足感を得たのであった。

次に向かったのが岩手山の麓,焼走り熔岩流。ここは岩手山から流れ出た溶岩が冷えて固まった跡地であり,一面黒々とした岩石が転がる荒野が見られる。これがすばらしく壮観で,たとえばこんな感じ。

焼走り熔岩流

焼走り熔岩流2


実はこの日は天気が悪く霧が出ていたのだが,そのおかげで視界が狭まり,かえってより強く一面の荒野を感じることができた。霧に浮かぶ島状の樹木も幻想的で良い。焼走り熔岩流が特殊なのは噴火からすでに約300年が経過しているのにほとんど植生が変化していないという点だ。普通200年もたてば,新たに噴火でもない限りすでに森林に戻っているはずである。しかし,地衣類が繁殖し始めたところで遷移が止まってしまっていて,わずかに島状に点在する孤立した樹木が存在するのみである。これだけ遷移が遅い・止まっている,しかも風雨が強くきっちりと風化するはずの環境であるにもかかわらず遷移が遅いというのは世界的に見ても珍しい地形だそうだ。現地には一般人が通行可能な散策路が用意されていて,歩くと片道1時間ほど。これはお勧め観光スポットである。


この日はここでタイムアップで,ここから八幡平へ。この日の宿は八幡平の山奥,標高1400m地点にある藤七旅館。事前の調査・噂の段階で「温泉はすばらしいがその他は……」「山小屋だと思って泊まった方がいい」ということを聞きつつ,温泉目当てで予約した。またそんなエクストリームな宿を……。なお噂の真相はだいたいあってた。建物全体が大きく歪んでいて明らかに傾斜があるし,普通に歩いているだけで床がデコボコしている。夕飯の味も微妙で,素材は悪くなさそうなのでこれは調理の問題ではないか。一番美味かったのがごまどうふってあたりで察していただきたい。確かにこれは「旅館っぽい飯が出てくるだけ,山小屋よりはいい」と考えた方がいい。立地が立地なので,この辺は不満を言うだけ無駄である。

一方,温泉は良い意味での噂通りで,旅館から露天風呂までのけっこうな距離を,素っ裸のまま・真っ暗闇の中で歩いて移動してから入浴するというワイルドさあふれる温泉であった。温泉の底も一応木の板が敷いてあるが,湯の花と地面の泥が混ざった白い粘土が堆積していてドロっとしていたりする。このワイルドさはこの旅館の売りであり,旅館のアンケートにまで「ワイルドさはいかがでしたか」という項目があって笑ってしまった。旅館から発せられる電灯と申し訳程度の湯船付属の弱い電灯以外に一切の光がないため,晴れていれば満点の星空の下での入浴であったはずだが,残念ながら前述の通り今日は曇りであった。それでも真っ暗闇の中,無駄に高まったハイテンションの状態で入る温泉は非常に楽しかった。


16日:八幡平〜小岩井農場〜帰宅
最終日。この日も早めに起きて,例によって微妙な味の朝食を食べて出発。まずは八幡平を登る。登ると言っても名前の通り頂上付近が平らなことが特徴の山であり,非常にゆるい勾配の登山道を登って,標高約1600mの頂上に到達。展望台からは,確かに頂上付近がほとんど平らになっていて,森林限界も超えていないことから比較的高めの森林がかなり遠方まで続いているのが見えて絶景であった。そしてドローンとかいう大人のおもちゃを持っている我々はここで飛ばして遊んだ。今回も桜島同様,気になって寄ってくる他の観光客が多数であった。まだまだ普及しておらず,そういう存在よなぁ。今回は隙間坊主Pが編集した動画があるので,紹介はそちらで。彼はいつの間にこんな技術を。八幡平の絶景は,ドローンから見るとこう見える。ぽつぽつ見える池は旧噴火口に水が溜まった物とのこと。



最後に小岩井農場へ。昼飯を食べて,産地直送の牛乳を飲んで,今回の旅最後のミッションをこなす。小岩井農場は日本の最初期の畜産技術を培った建造物として,園内建物のいくつかが重要文化財に指定されており,これらを見学することができる。一応現在でも使用している「生きた重要文化財」ということであったが,さすがに施設が古くて不衛生であった。飼っている頭数から言っても,ここの牛はほとんど純粋に観光用であろう。

小岩井農場観光を終えて午後3時頃,そこからは一直線に東京に戻った。途中で渋滞に捕まったことあり苦難の帰り道となったが,なんとか日付が変わる前に帰宅した。概ね上手くいった旅行で思わぬおもしろさも多数あった旅行と言え,満足度は高い。やり残しとしては,まず仙台の青葉城。次に平泉の厳美渓&猊鼻渓。岩手は今回山沿いを攻めたので,浄土ヶ浜をスルーしている。わんこそばも本家の盛岡or花巻で食べる必要があるだろう。まあこの辺は急いでいないので10年後くらいに。

これで経県値は173点となり,残る空白は山形県と青森県だけになった。山形県はひなた荘の残る聖地の銀山温泉があり,青森県は恐山に行きたいので,この2つはなるべく早めに,遅くとも2・3年中には行くと思う。経県値を気にせずに次の旅行先を考えるなら,『ユーフォニアム』の聖地巡礼で宇治か,『有頂天家族』の聖地巡礼と湯治を兼ねて有馬温泉かな。
  
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2017年08月28日

岩手旅行記(前編)

コミケ後に岩手旅行に行ってきたので,その報告を。メンバーはいつもの頬付・隙間坊主。


13日:仙台
コミケ終了後,即座に首都高へ。21時仙台を目標にそこから運転手たちがなるべくがんばっていたけど,残念ながら着いた時点で21時は過ぎていた。一応事前にはてな村的美味しい店探し手段「zaikabou 仙台」で検索する等してリサーチはしていったが,全体的に店は閉まり気味であった。結局「Google mapのレビューはまだ汚染されていない理論」を用いて適当なお店に入ったが,十分に美味かった。牛タンの味噌焼きなるものがあり,「(元)愛知県民相手にいい度胸だな」からの「あ,これ味噌の味が牛タンの食感によくあってめちゃくちゃ美味しい」という即落ち2コマシリーズのようなことをした。コミケの疲れもあり,ホテルに戻って即爆睡。


14日:松島〜平泉〜花巻温泉郷
仙台は「青葉城くらい見ていくか」という案もあったのだが,「どうやら松島は早朝に行かないと死ぬほど混むらしい」という情報をつかんだので,仙台観光は前日夜の牛タンだけで終わりになった。青葉城はまた今度の機会ということで。仙台はどうもめぐり合わせが悪いのか,仕事の出張を含めて3度は行っているのだけれど,一度もきちんと観光していない。ただし,今回の判断は完全に正解で,松島は午前10時を過ぎたあたりから異様な混み方をし始めた。観光名所間の歩道を歩く人が目に見えて急増していたし,仙台から松島に向かう道からして駐車場待ちの渋滞を起こしていて一歩も動かない状態だったのが帰り道に見えた。さすがは日本三景。天橋立はアクセスが悪く,宮島は広いからこういうことにはなっていないのだろうと思う。松島は仙台からすぐそこである上に,湾が狭く名所が密集している。

その松島であるが,良くも悪くも整備された観光名所である。周りやすく施設が充実している分,いたるところで金をとられる印象。行ったところで一番良かったのは,景色ではなく瑞巌寺。庭も建物も所蔵する美術品も見事で,ここはむしろ入館料700円は安いくらいの価値がある。特に本堂は長谷川等伯の高弟,長谷川等胤の筆による障壁画で飾られており,美術史上の一級品ではないにせよ,桃山文化の地方伝播を象徴する遺産としては完璧と評する他ない。庭は震災の被害が抜けきっておらず復旧中で,今年9月に全面公開予定となっていたが,見た感じ間に合いそうにない。というよりも樹齢何百年かの松並木の三分の一が塩害で枯れたため,それらを伐採して若木を植えている状態であるから,完全な復旧は何十年後になるだろう。気の遠くなる話であるが,残っている松並木だけでも十分に見応えがあった。松島は沖合の島々に守られたおかげで立地の割には震災被害が少なかったとのことだが,こうしたところで残っている。松島脱出前にずんだ餅を食し,今旅のミッションをまた一つクリアした。


そこから平泉に移動。わんこそばを食すというミッションをこなす。

平泉わんこそば


しかし,後から知ったのだが,わんこそばは平泉と盛岡・花巻で流派が違う上に,盛岡・花巻が本家らしい。なんだか中途半端にミッションをこなしてしまった感がある。それはそれとするなら,わんこそばは予想していたよりも美味かった。ただ,「美味かったのはわんこそばではなく,その店」説があり,わんこそば自体に味の特徴があるイメージは無い。この辺の真相を解くためにも,やはり盛岡か花巻で再度わんこそばを食す必要があるだろう。

平泉ではそのまま中尊寺と毛越寺を拝観。金色堂を見たのは初めてだったので,さすがに感動した。毛越寺は,後世の枯山水や回遊式庭園ではない,平安末〜鎌倉時代の浄土庭園がよく残っており,かつ曲水の宴の跡も見つかっている貴重な寺院である。当然だが,発掘された曲水の宴跡としては日本で最北端とのこと。

毛越寺・曲水の宴


同行者に曲水の宴とはなんぞやと聞かれたので一通り説明したところ,隙間坊主が「夏草や兵どもが夢の跡」を本歌取りして「平泉 滅びすぎてて 草生える」という見事な現代語訳を詠んでくれた(詩情から言えば「草も生えない」にしたいところだが字余りである)。彼は酒を飲まされずに済むだろう(なお彼は下戸であり実際に一滴も飲めない)。一方で本堂以外の建物はだいたい全部焼け落ちているのだが,これは実は奥州藤原氏が滅んだ時ではなく1573年の戦乱だそうで,なんだかもったいない。なお,ここの宝物館はキャプションがやたらとポエティックで鎌倉幕府を敵視しており,我々は他人事なので静かに大爆笑しながら見ていたのだが,あれ,鎌倉市民の観光客で怒る人が出てきそう。

こうして1日で瑞巌寺・中尊寺・毛越寺と周り,さりげなく『奥の細道』巡礼になっていたのだが,ここで我々は山形県立石寺には行かず,そのまま北上。花巻温泉郷へ行き,やってきました。




『ラブひな』の聖地巡礼地,藤三旅館。同行の頬付に「五体投地あくしろよ」と煽られたが,普通に旅館に迷惑なのでお断りした。藤三旅館側も『ラブひな』を知っていて売りにしているのが少し驚きだが,この旅館はそれ以外にも宮沢賢治ゆかりの旅館でもあり,温泉も後述するようにユニークで,付加価値がすごい。なお,ひなた荘はここ藤三旅館と,山形県銀山温泉の小関館を組み合わせて作られたものなので,聖地巡礼的にはまだ半分といったところ。ただし,小関館はすでに旅館業をやめていて日帰りのみになっているので,「ひなた荘に泊まった」と言えるのはすでに藤三旅館だけである。

さて,藤三旅館の温泉は合計4つあり,その中に露天風呂があるのだが,同行頬付がアブにたかられまくるという珍事が発生した。以後頬付は温泉に入るたびに「ここはアブがいないから良い」というようになってしまったのだが,実際とんでもない量のアブが飛んでいた。夏場の山奥の露天だから温泉側にそれほど否は無いというか,私や隙間坊主はあまりたかられずそれほど不快でもなかったので,頬付くんは多分アブに好かれる異種族間系ラブコメ体質なんだと思う。それ以外の温泉で,藤三旅館の最大の特色となっているのが白猿温泉(こっちは屋内)。これは深さが約1.25mある立って入れる珍しい温泉で,いい経験になった。

お夕飯を食べて就寝。後編に続く。

  
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2017年05月14日

九州縦断旅行記

博多から鹿児島まで,レンタカーで九州を縦断する旅行に出かけたので,印象に残ったもの等を。

初日:東京〜博多〜太宰府〜阿蘇〜別府
自宅を出て地下鉄に乗ると,いきなり北朝鮮がミサイルを射ってメトロが10分ほど止まるという事態に。その後急いで羽田空港に向かうと,手荷物検査場が大混乱であった。自分が手荷物検査を抜けた時点ですでにちょうど出発時間だったのだが,振り返ると後ろにまだ30人以上いるという大惨事。結局出発したのは当初予定時刻の10分過ぎというエクストリーム離陸をかましたが,それでもほぼ定刻に到着したのだからANAさん偉い。

そして博多に現地集合し,レンタカーを借りて出発。博多は見るものがさしてなく早々に脱出。博多は大都市であったが郊外はすぐに「典型的な日本の地方都市」感あふれる風景になり,本当にどこも変わらんなと。少し南下して太宰府天満宮へ。北野にはお参りしたことがあるので,これで2箇所とも制覇である。飛梅を見て参拝し,「来年こそは世界史の悪問が減りますように」とお願いしておいた。名物「梅ヶ枝持ち」を食すも,梅要素のなさに驚く。ただのあんこの入った餅やんけ……飛梅は思っていたよりも小さく,思わず見逃すところであった。飛梅とは別に樹齢1000年を超えるとされるクスノキがあり,こちらの方がご神木っぽいので,行った際はご覧あれ。なでると頭がよくなるという牛の銅像は,太宰府では行列ができていた。同じものが北野天満宮にもあり,あちらはなでている人はいても混雑しているというほどのものでもなかったが,この違いは一体。あと気になった点といえば,場所柄か中国人・韓国人の方が多かった。向こうも受験戦争が激しいからな……そういうわけでいろいろなものが4(5)ヶ国語表記で好感が持てる。たとえば御手水。

太宰府天満宮御手水


時間が無かったので,隣接する九州国立博物館がスルーした。今回はそのまま南下し,一瞬だけ佐賀県に入って鳥栖,福岡県に戻って久留米・八女を通って熊本県に入り,熊本市で東に曲がって阿蘇へ。いきなり団子を食す。芋とあんこのハーモニーがよく,これは美味。東京で売ってたら買おう。阿蘇はミルキーロードをぐるっと回りつつ火口へ接近。阿蘇の風景は非常によく,カルデラ地形ってすばらしいなって。

IMG_5903


道中,持参した『けものフレンズ』1・2巻のBDを車内で流そうとするも,レンタカーがBD未対応で挫折。ジャパリパークで『けものフレンズ』を見るという野望が潰えた瞬間であった。さらに火口では無慈悲な進入禁止。博士の許可が得られなかったのなら仕方がない。しかし,進入禁止期間が長くなっているのか,火口付近の施設はどれも寂れており,ロープウェーはロープ自体がなくなっていたし,売店・レストランは廃墟と化していて「窓割れてね?」状態でお前それ別のアニメやんけ,とは同行者の弁である。火山に頼った観光業,相手が自然なだけにままならず,難しい。

阿蘇を抜けたら大分で,そのまま別府に直行。本当は由布院にも行きたかったがやはり時間不足であった。これ,九博+阿蘇火口+由布院で1泊分の観光時間くらいの価値があったと思われ,1泊足せなかったのが今からでも悔やまれるが,サラリーマン時間とれない。初日は別府で宿泊。夕飯は地獄蒸しと関サバを中心に。別府の湯けむりはすごかった。私も同行者もけっこういろいろと温泉街に行っているが,ここまで街中もくもくしているとなると他に無い。写真を載せたいところだがホテルの位置が割られる危険があるので割愛。


二日目:別府〜霧島
午前中は別府市内観光。地獄巡りに行った。ここから,これから別府観光をする予定がある人のために,重要なことを書く。地獄と称される温泉噴出口は別府市内に多数あるが,そのうち代表的な物8つが主な地獄巡りの名所になっている。そのうち7箇所は別府地獄組合に加盟していて,1箇所ごとに500円,7箇所共通の共通観覧券なら2000円となっているなら,全部見るなら共通券を買ったほうが安い。唯一組合からも共通観覧券からも外れている「山地獄」は1500円かかる。つまり,8箇所全部回るなら合計で3500円かかるということになる。また,8箇所のうち2箇所(「血の池地獄」と「龍巻地獄」)は場所が大きく離れていて,徒歩で行くのはあまりお勧めしない。現地に徒歩で行けるようなことが書いてあるが,騙されてはいけない。

我々は今回2000円払って7箇所は回ったのだが,その感想を言うと,スタンプラリー的に7箇所全てを回っても時間の無駄にはならないが,純観光的に言えば「鬼山」と「かまど」だけ行けば十分である。一般的に別府の地獄巡りで一番有名なのは「血の池」だと思うが,実は血の池っぽい赤い池も,「海」や「白池」っぽい青い池も,「鬼石坊主」っぽい泥の池も,全部「かまど」に同じような池があり,あそこだけ行けば地獄巡りで見たい奇観は大体全部見れる。

かまど地獄


この写真は血の池地獄っぽく見えるが,かまど地獄で撮ったもの。ただし,かまど地獄のものはどれも比較的小さめで,不思議な色に染まった巨大な池がみたいのなら,やはり7箇所全て回るべきだろう。

鬼山地獄


もう一つ挙げた「鬼山」はご覧のように大量のワニを飼育していて,見るべきは温泉噴出口というよりはその熱水を利用したワニ園という状況になっているが,あまりにも大量のワニが壮観なので,あれはあれで見る価値がある。同じような形で「白池」には熱帯魚館があるが,あれなら水族館に行った方が多種多様な熱帯魚を観賞できるレベル。また「白池」には二豊南画堂なるミニ美術館があって,江戸後期の南画のコレクションがあるが,これも大したものではない。しいて3つめを挙げるなら「龍巻」で,これは他の6つと違って池にはなっておらず,間欠泉である。噴出感覚が短い(30分以内)上に一定であるという稀有な特徴を持っているので,「行ったのに見れない」という間欠泉観光特有の欠点がなく,確実に噴出しているところが見られる。ただし,前述したようにこの龍巻と血の池だけやけに場所が離れていて,正直地獄巡りという同一コンテンツで括るのにはかなり無理がある立地であるので,その点注意されたい。

地獄巡りで午前中を全て使ってしまったので,午後は一気に移動。その際に,てっきり宮崎県を縦断して鹿児島に入るものと思っていたが,カーナビが示したルートもグーグルマップが示したルートも熊本に戻って熊本県を縦断せよ,というものであった。調べてみると,たしかに直線距離は宮崎県を縦断したほうが短いのだが,宮崎県は極端に交通の便が悪く,何より高速道路が途中で寸断されている。ゆえに大回り気味になるものの熊本経由でずっと高速に乗っていた方が結果的に早い,ということだった。宮崎県,ただでさえ観光名所があまり無くて今回の旅でも素通り予定だったところ,とうとうほぼ全く通らないことに。他人事ながら,観光で死にたくないなら早めに手を打ったほうが良いと思いますよ,マジで。鵜戸神宮と高千穂峡だけだと,ちょっと弱い。

そういうわけで初日のルートを逆流して熊本市へ,そこから南下し,えびのJCTで一瞬だけ宮崎県に入り,鹿児島県の霧島温泉郷へ。二日目はここで1泊。その際に泊まったのが霧島ホテルなのだが,霧島ホテルの温泉がすごかったので紹介しておく。何よりめちゃくちゃ広い大浴場が特徴で,最大水深が1.4mもあり,温泉プールといった様相。広いだけでなく温泉の種類も多く,塩類・明礬・鉄・硫黄とある。成分量もかなり濃く,湯の花の量もすさまじく,付着しきれずに粉のまま漂っているのはなかなか見られない光景。これでも加水しているそうなので恐ろしい。加水しなかったら別府の地獄状態なのでは。館内にある説明を読むと,ここの温泉は湯量が豊富であったものの,温度が約60度とそれほど高くないので立地のいい場所まで流す間に冷めてしまう&前述の通りとんでもなく濃いのですぐに管が詰まってしまうために,無駄に全部近隣の硫黄谷に流し捨てられている状況であった。そこでこのホテルの創設者が「だったら源泉の真上にホテル建てればいいじゃん」と考え,時は幕末の約150年前に巨額の資金をつぎ込んでこのホテルを創設した,ということが語られている。慧眼と言わざるをえない。温泉は一部を除くと基本的に混浴で,ここが少し難点。混浴自体が悪いわけではないが,19:30〜22:00はほぼ全面的に男性入浴禁止となるので,日帰りの場合は女性が入りづらく,泊まりの場合は絶好の時間帯で男性が入れないという状態になっている。我々は夕飯の時間帯を遅らせてもらって,18時頃から19時まで入ることにした。泊まりの男性客は,どうしても夕飯前か22時以降ということになると思う。お夕飯も美味かったし,混浴と立地以外は何も言うことがない。お勧め。


三日目:霧島〜桜島
三日目の朝は霧島神宮へ。

霧島神宮


何度も補修しているだろうとはいえ,創建300年とは思えない保存状態の社殿が非常に美しく,一見の価値あり。それはそれとすると,観光名所としてはコンテンツが少なすぎた。商売っ気がなさすぎるのも悩みどころで,社殿以外には特に見どころがなく,社殿に関心がない場合は滞在時間10分で終わってしまうだろう。神社はあくまで信仰の場であると考えるのならそれも正しいのだが,特に『咲-Saki-』の聖地巡礼を兼ねて見に来た身としては「九面どこだよ」という話であり,実は祭事に使う日を除くと霧島神宮では見ることができない。売店で九面キーホルダーが売っているのが唯一である。九面は神宮からはそれなりに離れた霧島歴史民俗資料館に展示されているというのを旅から帰ってきてから知った。自分の調べが足りていなかったのも悪いのだが,九面の展示場所くらい案内が欲しい。

さて,霧島神宮が思っていたよりもすぐに終わってしまったので,天の逆鉾を見に,高千穂峰をうかがってみることにした。麓の高千穂ビジターセンターで見ると,標高1574m・目標時間:100分と書いてあったので,「標高差600mほど,往復3時間なら楽勝では」と気軽に登り始めた。実際,3分の1地点までは楽勝そのものであったものの,そこら辺で突如として風景ががらっと変わり,岩がゴツゴツし始め,見上げた風景が

高千穂峰中腹


これで,「あ,これガチ装備がないとマジで滑落するやつだ」と悟って断念した。知っていれば登山靴を持ってきたのだが,当初の予定ではそもそも登る時間があるかどうかもわかっていなかったので,仕方があるまい。どうせ九面も見そびれているし,10年単位で将来になるだろうが,リベンジ対象として残しておこうと思う。結局,同行者で唯一ストックとグローブという完璧な登山装備をなぜか持ってきていた頬付が,一人で登頂。無事,天の逆鉾を写真に収めて帰ってきた。えらい。

高千穂峰頂上:天の逆鉾


のだが,実は宮崎県側からの登山道もあり,こちらは斜面が緩く時間がかかる(往復4時間半)ものの,別に装備がないと死ぬような斜面がないということを,これも帰宅後に調べ直して知った。しかも山頂に刺さっている天の逆鉾は実はレプリカで,本物は江戸時代に噴火の際にぽっきり折れてしまいしかも行方不明であるという。そして全く同じレプリカはビジターセンターにも展示されていたりする。




これ。なんかもう,一周回っておもしろすぎないですかね。本物がないということは,二度と国産みできないんですがそれは。

下山後は再び車に乗って移動し,旅の最終目的地,桜島へ。今回も頬付持参のドローンを飛ばして遊んでいた。現在観光客が入っていい最高地点が標高470m付近で,火口が約1100mなので,高度500mのドローンでは微妙に火口が見られず残念であった。さすがにまだまだドローンは物珍しいようで,飛ばしていると周囲の観光客が興味津々で見に来るのがおもしろい。余談ではあるが,タイムリーにもこんなニュースがあった。この日のホテルは桜島内で,オーシャンビューが非常に綺麗な温泉に入って満足。夕飯の豚も美味しかった。


四日目:桜島〜帰宅
三日目の深夜に桜島が噴火するというミラクル。朝起きてホテルを出発するとレンタカーの走った道は噴煙巻き上がってるし,歩こうとすると一面灰色でジャリジャリ音がするしで,おまけに

桜島


葉っぱにまで灰が積もっているという。さすがは桜島聞いていただけのことはあった。この日は桜島ビジターセンターに行って火山のお勉強をした後,フェリーで鹿児島市内に入り,ちょっとだけ仙巌園を見学して,ほぼ終わり。レンタカーを返した後は鹿児島中央駅から新幹線で帰宅した。一番面白かったのは霧島ホテル,次点が別府の地獄巡り,三番目が高千穂峰(登頂失敗)だろうか。急に計画を立てたので調べが足りなかったところが多く,とりわけ登山装備を持っていかなかったのは悔やまれるところだが,十分に満足はしている。

ちなみに,次の国内旅行の予定であるが,
・あとは北東北に行けば47都道府県踏破が完成するので,東方と『咲-Saki-』の巡礼(遠野)を兼ねた北東北旅行
・ユーフォニアムと真田丸の聖地巡礼を兼ねた京都・大阪旅行
くらいかなぁと。海外は当分考えていないが,行くとするとUSAの東海岸か,ドイツのベルリン近辺かな。  
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2016年12月27日

栃木県旅行記(鬼怒・日光周辺)

うだうだ書かずにいたら一ヶ月経ってしまったが,先月の中旬に二泊三日で栃木県の方に旅行に行ったので,報告を簡潔に。


・龍王峡
ご覧の通り,典型的な美しい峡谷である。龍王峡の場合は火山から噴出した火成岩が水流によって削られてできた峡谷だが,厳密に言うと岩の種類によって岩肌の色や削られ方が異なり,3つのゾーンで少しずつ異なった景観を見せている。おそらくほとんどの人がイメージする龍王峡は最も手前にある「白竜峡」で,いわゆる「主な見どころ」的なスポットも大多数がここにある。

龍王峡3
龍王峡1


名前の通り,そしてご覧の通り,岩肌は真っ白に近く,岩はかなり柔らかいようで水流によってゴリゴリに削られており,奇岩,あるいは「山水画によくあるやつ」と言っていいような形の岩がゴロゴロしていた。岩がもろいせいか亀裂が多数入っていて皴法にしか見えず,松の木も無理やり生えるのに成功しており,これらがまた山水画っぽさを助長している。岩肌の白さと,透明度の高い緑色のコントラストがすばらしく,その意味では水墨画というよりも青緑山水画,端的に言って真っ先に思い出したのは川合玉堂の絵であった。まあ,あれは多摩川上流なのだが。自分の感想はそんな感じだったのだが,同行者が「どう見ても少年漫画で修行する場所」とか言い出し,そう言われるともうそうとしか見えなくなった。あー間違いないわー,ここで飛天御剣流の修行してそうだわー。岩の亀裂も必殺技の修行の跡ですね間違いない。

白竜峡のゾーンを過ぎると次に来るのが「青龍峡」で,看板を超えるとすぐに岩肌の色ががらっと変わるのでおもしろい。そして確かに青い。またこの辺の岩は水に触れた部分は赤茶けていた。明らかに岩の成分ごと違う。

龍王峡2


また,岩が若干硬いのか,こちらは剣撃で割れたような亀裂が岩に入っておらず,切り立った崖になっていることもあって,これはこれで「ザ・渓谷」という様相に。この白竜峡と青龍峡の境目までがスタート地点から大体30分ちょっとで,ここで折り返すとジャスト1時間ほどで帰ってこれるちょうどいいハイキングコースになる。個人的には青龍峡も越えて次の「紫龍峡」まで見てみたかったのだが,諸事情により行程が遅れ気味だったのと,同行者が歩く気なさそうだったので,ここで引き返した。ついでに言うと,狭義の龍王峡はその紫龍峡までになるが,ハイキングコースとしてはまだ先が存在していて,最後まで歩くと片道3時間コースになる。ゴール地点はちょうど川治湯元になるので,温泉もあるし東武鉄道も通っている。がっつりハイキングしたい人はフルで歩いて温泉に入って帰るとちょうど良さそうである……というよりも,思っていたよりも良い場所だったので,ここはそのフルコースで歩くべく,来年の夏か秋の早々にリベンジしたい。


・加仁湯
今回の旅行が栃木県になった決定打。ここは鬼怒川温泉ではなく,奥日光でもなく,奥鬼怒温泉である。ここ以外にも奥鬼怒温泉の宿はいくつかあるが,数は4つと多くない。その中では加仁湯は有名な部類らしく,若干矛盾のある表現になるが「有名な秘湯」である。ということで奥鬼怒温泉まで行ったわけだが,驚くべきことに,途中で公道が無くなる。つまり一般車では途中までしかたどり着けない。もっともこの公道もかなりすごかった。しっかり舗装されていたのでその意味ではまともな道だったが,むしろよくこんなところを舗装したなと思うようなうねりの効いた山道である。で,舗装が途切れたと思ったら「一般車通行禁止」の看板と大きな駐車場が見えてくる。ここで降りろということだ。

そこから先は温泉宿が出しているバスに乗るか,ハイキングで行けということになる。逆に言ってバスが無かったら強制的に歩いて行くしかない。幸いにも17時頃に「これが最後」というバスに滑り込みで乗れたので歩きは避けられた。実のところ距離はそんなになく,楽勝で歩ける距離(加仁湯のHPには1時間半ほどと書いてある)だが,歩くとしたら日中昼間しかダメだろう。日没しかけの17時からここを登山したくない。
1.車道と歩道の区別がない上に狭く,公道ではないので交通量は極めて少ないものの,夜中にすれ違ったらまず避けられない
2.落石がむちゃくちゃ多いらしく,ガードレールが全てひん曲がっていて全く機能していない
3.滑落したら間違いなく死ぬ

加仁湯帰路


画像は帰路に撮ったものだが,ガードレールはマジで大体ずっとこんな感じ。そういう意味ではバスでも割りとスリルがあって楽しかったです(震え声)。バスの運転は安全運転で問題なかったけども,そういう問題じゃない。これは龍王峡をガチハイキングしてバスを逃していたら我々は大変なことになっていたのでは。日本で東京から半日で来れる場所にまだこんな場所があったんやな……という新たな発見であった。一応,加仁湯や八丁の湯で検索してみると,やはり午前中に上って温泉宿で温泉につかり,昼飯を食べて下山というハイキングと温泉を複合した楽しみ方をしている人が多かった。良い休日の過ごし方だと思う。

温泉は濁り湯で,泉質は大変良い。ただし,温泉の温度は一切湯もみせず垂れ流し状態であり,湯船によって全く温度が違うので要注意。いくつかの湯船は明らかに人間の入っていい温度ではなかった。お夕飯は一般的な旅館の夕食という感じで可も不可もない。山奥らしさはイワナに,栃木県らしさはかんぴょうに現れていたかな,というくらい。まあ,ご飯で売っている旅館ではないので。施設は超絶ボロいことを想定していったが,思っていたよりも新しくて快適だった。ネットのレビューを見ると中にはやはり「ひどい」としているものもあり,部屋によるのかもしれない。


・日光湯元〜戦場ヶ原〜中禅寺湖〜華厳の滝〜いろは坂〜日光
二日目はこれらを一気に観光したのだけれど,意外とそんなに見どころがなかった。日光湯元はよく知らなかったのだけれど,ここは完全に「登山の前日にひとっ風呂」というベースである。男体山や白根山に登らないなら用事は無いと思われる。戦場ヶ原は地質学的にはおもしろいらしいのだが,全く知らないで見るとただの湿原であった。雨が降っててとんでもなく寒かったのでさっさと撤退した。中禅寺湖も一応湖畔をドライブして旧イタリア大使館別荘記念館だけ寄った。悪くない建物ではあるが,このくらいの洋館なら日本全国にあると思う。華厳の滝はさすがにすごかったが,最寄りまで行けるエレベーターのお値段が異様に高くて萎えた(乗らなかった)。

そうそう,高いと言えば,日光東照宮も建て替えで資金不足という事情はわかるのだけれど,一般1300円はさすがに高すぎると思う。それも建て替え中で,三猿・眠り猫・陽明門が全部見られなかったのに値下げなく1300円とられたので,正直印象は悪い。あまりに腹が立ったので一銭も賽銭を入れなかった。「これもう真田丸は豊臣方を応援するしかねーわ」とは同行者の弁である。

唯一楽しかったのはいろは坂で,同行者の一人が『イニシャルD』のファンで,前日に皆で該当回を鑑賞していたので,聖地巡礼に否応にもテンションは上がる。特に“仕掛けるのはこの先の”で有名な33コーナー。サントラを聞きながら駆け抜けた(法定速度は守っていました)。実際ここでジャンプはできないよな。でも真似しようとしたバカはやっぱりいたようで,明らかにガードレールにぶつかった跡とかタイヤ痕が。聖地巡礼以外の話もしておくと,秋のいろは坂といえば紅葉と渋滞が名物だが,ピークから時期が1・2週間ほどずれていたせいか,むしろ我々以外の車をあまり見かけなかった。じゃあ完全に散っていたかというと,半分ほどは残っていて,かえってゆったりと楽しめた。意外とピーク明けなら穴場なのかもしれない。

いろは坂


写真は明智平から撮ったもの。こうして見るとやっぱりすごいヘアピンカーブ。

あとは霧降高原に行って,同行者が持ってきたドローンを飛ばして遊んでいた。高原とドローンは相性が良いかも。まず間違いなく飛行禁止区域になっていないので(一応事前に調べましょう),自由に飛ばせるし,ドローンは上空500mくらいまで飛べるので,最大まで飛ばせばかなりいい風景を見ることができる。バッテリーが重く,持って登るのがしんどいのだけが難点。本体は軽いのだが。



雲海が非常に綺麗でした。この動画だと1分過ぎから。


・明治の館
今回最大の掘り出し物。日光市内でお夕飯を探していて発見したのが明治の館。日本コロムビアの前身となった会社を創設し,日本に初めて蓄音機を紹介したアメリカの貿易商F.W.ホーンが建てた建物で,格調高いクラシカルなジョージアン様式。日本の明治・大正時代の洋館というとどうしてもお雇い外国人コンドルの血が入っていることが多いが,全く別の様式であるのでかえって珍しい。コンドルの建築に見慣れた人からすると,全く明治時代の建築物がそのまま残っているとは思えないだろう。さすがにレストランとして再活用する上で多少直したようだが,それを加味しても保存状態は極めて良く,こんなに知名度が低いのは驚きである。もっと建物を宣伝しよう(提案)。

明治の館


歴史好きからすると最大の衝撃だったのは,東京大空襲の後(1945年4月)に外相・重光葵が疎開したのがこの建物で,その約5ヶ月後に,この建物からミズーリ号に向かったということ。普通に史跡なんですが,むしろなんでレストランなんですかね。お料理の方は普通に美味いというくらい。ワインの種類はけっこう豊富。お値段はワインを入れても4・5千円というくらいだが,栃木牛のステーキだけは別格に値段が高いので,注文の際は注意すること。19時30分と閉店が意外と早いのが最大の注意点かも。
  
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2016年02月10日

第四次大洗巡礼記

Q.また行ってきたの?
A.またです。



今回の旅の目的は4つ。
1.劇場版登場キャラや,マイナーなキャラのパネルが増えたので,これを撮影に行く。(アンツィオまでの101体は制覇しているので,ここで未達成になるのは寂しい)
2.既存キャラのパネルも,老朽化が進んだため,新しいものが設置されたとのことを聞いたので,これを確認し,主要なキャラは撮影に行く。
3.一昨年食べて絶品だった,あんこう鍋を再度食べに行く。
(4.初めて大洗に行くという友人二人の案内。)

以下,ミッション別に。写真多め注意。言うまでもなく,劇場版ネタバレ有。

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2015年11月22日

山陰旅行記(後編):出雲大社・美保関・境港・松江市内・玉造温泉

11/8 PM
〔出雲大社〕

特急まつかぜに乗って,鳥取から一路出雲市へ。出雲そばは全然知らなかったのだが,試しに食べてみたら非常に美味であった。

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麺の色が濃く,味も濃い。つゆも非常に濃く,小量かけて食べる。麺をつゆにドボンとつけて食べる信州そばとの最大の違いはここだろう。麺がつゆを吸う力が強く,小量しかかけないためにすぐに吸いきってしまい,麺の濃い味につゆの濃い味があわさって,これでもかというほどそばの味を主張してくる。そばの味が好きな人にはたまらない。なお,日本三大そばというと信州そば(戸隠そば)・出雲そば・わんこそばでほぼ異論がないようだ。三大○○としては珍しい。うどんの方は讃岐・稲庭まで確定で三つ目が定まらないらしく,水沢・五島・氷見・きしめんと意見が割れているようだが,全部食べたことがある経験から言うと,味だけで言うなら五島うどんを推薦する。元愛知県民なのできしめんは大好きだが,お前はうどんじゃない。


腹を満たして出雲大社へ。半年前に参拝して最近彼女が出来た友人が「ここはマジで御利益あるって!」としきりに言ってきたが,別に御利益を求めて参拝に来たわけではないんだよなぁ……むしろ東方と『咲-Saki-』の聖地巡礼という不純な目的の方が強いんだよなぁ……

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左(上)が拝殿で右(下)が本殿である。本殿の特徴的な屋根は大社造りと呼ばれ,日本最古の建築様式の一つ。伊勢神宮の神明造り,住吉大社の住吉造りと並び称されるが,共通点として屋根の上に千木(ちぎ)と呼ばれるX字の装飾が載っている。それ以外は比較的単純な造りをしている。

さて,出雲大社は日本最古の神社の一つでもあり,7世紀の創建とされるが,10世紀頃に大造営を行った。その時の記録が正しければ高さ48mの高層建築で,東大寺の46.8mを上回る日本最“高”の建築物であったという。この記録は長らく誇張とされてきたが,15年前の発掘調査によりその最盛期の頃の列柱の跡が見つかり,そこから計測された柱の太さ(約3m)や列柱の間隔からすると,高さ48mもあながち誇張ではないということが判明した。48m説で確定したわけではないが,与太話から真っ当な説に格上げになったということである。00年代前半というと私は中高生であり,すごい勢いで日本史の資料集が書き換わっていったのを覚えている。また,やはり当時の建築技術でこの高さは無理があったらしく,11〜12世紀に幾度となく倒壊しており,13世紀の再建時にあきらめてかなり縮んだらしい。現在の本殿の高さは,最盛期の半分の24mに過ぎない。

その48m説を採用した1/10復元模型や(1/10でも高さ5mなので相当デカい),荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡発掘の青銅器類を大量に展示した博物館が,出雲大社隣接の古代出雲歴史博物館である。古代日本史が好きなら何時間でもつぶせるレベルで展示が充実した博物館だが,もったいないことに今回の旅行ではスケジュールが厳しかったので,2時間ほどで脱出せざるをえなくなった。ハイライトはなんと言っても荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の青銅器群の一斉展示だろう。



この壮観さはなかなか大したもんですよ。出雲の特殊性は大量の銅鐸と銅剣が同時に発見されたことで,通常銅鐸は近畿周辺,銅剣は北九州と四国で発掘されることが多い。その中間地点の出雲で,そのいずれもが大量に発見されたということ,また出雲からは鋳型が発見されていないこともあり,近畿と北九州に交流があったかどうかという点や,荒神谷遺跡も加茂岩倉遺跡も出雲大社から非常に近い距離であるため,日本神話誕生との関係性など,日本古代史研究の材料になっている。


閉館ぎりぎりまで粘って18時過ぎに出雲市を脱出。そこから特急まつかぜの復路に乗って松江まで戻り,そこからバスを乗り継いで美保関へ。

11/8 夜 〜 11/9 AM
[美保関・境港]

泊まった旅館を福間館というのだが,ここがまたすごい。創業300年,泊まった著名人一覧がこれ。

DSC_0190


個人的には徳川家達と井上準之助に感動した。しかし,加藤寛治ってひょっとして美保関事件の時の滞在なのでは……昭和4年だから違うか。逆に言ってよく泊まりに来たな。(追記)本件についてshigak19さんが調べてくれたのでリンクを張っておく。
・加藤寛治日記と1929年の美保関滞在について(書房日記)

さて,部屋は非常にボロかったが,旅館全体の雰囲気はよく,眼下に漁港と美保神社という眺望,夕飯には山のような松葉ガニ,値段も普通くらいで,十分満足である。

起床後,すぐに美保神社へ。ここも大社造である。神楽を見学。美保神社の祭神は事代主神,いわゆるえびす様である。えびす様は音楽を好むということで,美保神社は拝殿が神楽殿を兼ねていて,しかも音響効果を期待して梁が向きだしになっているのが特徴だそうだ。音楽奉納と称したライブも,かなりの頻度で拝殿でやっているらしい。こうして見るとずいぶんとロックな神社である。名物と言われる醤油アイスを食して,バスで境港に移動。醤油アイスは,バニラアイスに醤油かけたらまあこういう味になるよね,という。ここでしかない食べ物と思っていたが,今ググってみたらけっこうメジャーな食べ物だった。なんということだ……

正午頃に境港に到着。境港は極端な水木しげる押しで,至る所に水木しげるの妖怪たちが描かれていた。しかし,逆に言って水木しげる以外の観光資源が無く,寂れ具合がひどかった。水木しげるしかないならないで,もうちょっと何とかならなかったのか,という。特にJRの駅前はひどく,「閑散」以外の言葉が見当たらない。あれでは本番の水木しげるロードに辿り着く前に観光客が帰ってしまうと思う。

境港から米子までは鈍行,米子からは再び特急まつかぜに乗って松江へ。


11/9 PM
[松江市内散策]

松江はさすがに栄えていて,観光施設もサービスも整っていた。松江城周辺散策というと,
「松江城」
「松江歴史館」
「武家屋敷」
「小泉八雲記念館」
「小泉八雲旧居」
の5点セットだが,注意点がある。まず,共通チケットが販売されているが,なぜか松江歴史館を除いた4カ所の共通チケットである。そして「武家屋敷」は「小泉八雲旧居」の方が優れた屋敷であるために見所がなく,「武家屋敷」を回避するなら,残りの4カ所をバラで買った方が共通チケット+歴史館のチケットよりも安い。しかも松江城はさらに他の施設とのセット割引券が売ってたりするので,観光ルートによってはますます共通チケットの意味が無くなる。結論を言えば,共通チケットは買わない方がよい。

この5つ中では「小泉八雲旧居」が本当にすばらしいお屋敷でお勧め。こじんまりとしたお庭を眺めて,しばし小泉八雲に思いをはせたくなる。「小泉八雲記念館」は小泉八雲の足跡がかなり細かく紹介されており,小泉八雲に興味があるなら,という感じ。興味がないなら無理に行く必要はないと思う。私はまあ,その,東方信者・秘封倶楽部一派なので行く義務が。実際,ギリシア人とアイルランド人のハーフがどういう経緯で日本に来て,妖怪伝承にはまりこんだのか,よくわかっておもしろかった。「松江歴史館」は近世史中心の内容。

松江城はつい先日国宝になったばかりであり,お祭り騒ぎであった。戦国時代の出雲の城というとなんと言っても月山富田城であるが,戦国時代が終わると山城は用済となり,1611年に松江城が築城されて,出雲の中心がこちらに移ってきた。そういうわけで松江城は江戸初期の建築であり,一応防衛施設としての機能は完備で建てられたものの,一度も戦乱を経験することなく現在に至った。国宝指定運動が長期的になされていたが,1611年築城を決定づける史料がなく却下されていたところ,3年前に「慶長拾六年」(1611年)を示した祈禱札が松江神社で発見され,見事国宝指定となったそうだ。

その後,東方風神録1面の聖地巡礼(稲田姫)という理由だけで八重垣神社を訪れて参拝。滞在時間20分で松江市街に戻り,再び山陰本線に乗って玉造温泉へ。


11/9 夜 〜 11/10 AM
[玉造温泉]

この日はかなり奮発して白石家に宿泊。高いだけあってめちゃくちゃ良い旅館であった。で,日本海側に来たからには



新潟旅行に続き,またのどぐろを食してしまった。本当に美味いよこの魚。さらにこの日の夕飯は島根牛と松茸も出てきた。前日のカニと合わせてもう今年の秋の味覚は完璧に満喫しましたわ。

翌日の午前中に,玉作湯神社に参拝し,『咲-Saki-』(『シノハユ』)の聖地巡礼。いろいろ写真は撮ったけど,先人たちには勝てないので,ここでは特に掲載しない。会社へのお土産を買って帰還。


この4日間は非常に濃密な旅行であったが,まとめて振り返ってみると,ハイライトはやはり投入堂登山であったなと。次点で小泉八雲旧居。都市の印象で言うと,島根県は松江にしろ出雲市にしろ整備されていて活気もあったが,鳥取県は鳥取も米子も境港も寂れていて,同じ山陰でもこんなに違うのかと。鳥取県はもうちょっとがんばろう。ご飯で印象に残ったのは出雲そば。のどぐろと島根牛も美味しかったが,こいつらが美味しいのは当然すぎる話であり,新鮮な美味という点では出雲そばの印象が強い。  
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2015年11月21日

山陰旅行記(前編):鳥取編(投入堂・砂丘)

今月の上旬に山陰地方を旅行してきた。かなり詰め込んで観光したため,報告することが多岐にわたるのだが,目玉は投入堂の参拝である。以下,時系列・観光地別に。


11/7
[投入堂]

正確には三徳山三佛寺投入堂。「(物理的な意味で)日本一参拝の難しい国宝」と言われ,入山時に僧侶から登山靴のチェックがある,雨天・降雪時は入山禁止,15時以降も入山禁止になる等,参拝には厳しい条件がある。最後の条件が遠方からの旅行者には案外と厳しく,後述するように往復に2時間ほどはかかるので,昼前には麓に着いている必要がある。しかも我々の旅程の場合,11/8以降が雨天という天気予報であったため,初日の11/7に登山するしかなく,旅程を組むのにかなり難儀させられた。これから挑まれる方はお気をつけを。

鳥取市から行くなら,山陰本線で倉吉まで35分(特急)だが,特急は本数が少ない。さらに,倉吉からはバスが出ているが,このバスは1時間に1本くらいしかない&不定期なので要注意である。バスで40分ほど乗ると到着する。よって上手く接続すれば1時間強で着くが,特急待ち・バス待ち次第では2時間以上かかる。そこで,資金的に余裕があるなら,三朝温泉への宿泊を勧めたい。三朝温泉から三佛寺山門前まではバスで20分かからない。

さて投入堂登山の実際の難易度は,何とも評価しがたい。
・行程自体は短く,90分で往復できると言われている。実際我々も100分くらいで往復した。紅葉の綺麗なハイシーズンであったので団体客で相当混み合っており,にもかかわらず道が極端に狭いため,待ち合わせで強制的な休憩時間を取らされた。かつ,ゴールの投入堂以外も見どころが多かったので,その意味でも休憩は多かった。にもかかわらず100分であったので,90分という評価は妥当である。空いている時期にハイペースで登山すれば60分くらいで行けてしまうのはないだろうか。
・登山というよりもロッククライミングの感覚で挑んだ方がよい。斜度から言えばかなり厳しい道が続く。写真だとわかりにくいが,こんな感じ。そもそも審査があって登山靴じゃないと登れないわけだが,そうでなくとも登山靴は必須である。

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・「雨天・降雪時の入山禁止」規定は正解。足元の土が滑りやすい。つかみやすいところにある木の枝・根と岩が生命線で,滑りそうになったらつかむようの枝・根・岩は常に目算をつけておこう。
・そういう難易度であるので,やはりリタイアする人はそれなりにいた。一方で,50-60代の参拝者も多く,要するにそれくらいの体力であっても,休憩を多めに取れば普通に登れてしまう程度の難易度とも言える。筋肉を使うのは1時間ほどであり,スタミナよりも瞬発力の問題ではあるので,年齢はあまり関係ないのかもしれない。己の筋力と重々相談してチャレンジするかどうか決めて欲しい。
・行きよりも帰りの方が圧倒的に楽。往路は延々とロッククライミングだが,復路は割りと安定した足場でスタスタ降りるだけであり,それで膝が笑うということもおそらくない。100分の内訳は往路が60分,投入堂付近で10分,復路で30分という感じ。無責任なことは言えないが,往路で体力を使い果たしても割りとなんとかなると思う。

紅葉のハイシーズンに偶然重なった関係で,素晴らしい眺望を見ることが出来た。投入堂本体の写真とともにおすそ分けしよう。なお,一つ目の写真は投入堂ではないお堂(進入可)から撮られたもの。

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投入堂の創建は平安末と言われる。つまり約900年前だが,伝説上のいわれとしては1300年前に役行者小角が呼び名の通り投げ入れて建てたと言われている。実は長らく創建年代がわかっていなかったのだが,1980年代の補修で得られた古い柱の年代調査から,平安末と確定した。そうした説明が宝物館の方で読めるので,是非こちらも。また,三佛寺の山門にある食堂の山菜定食が絶品だったので,あわせて勧めておく。写真を撮りそびれたので,食べログにリンクしておく。

投入堂の創建が平安末というのは,実のところ文化史上イレギュラーである。浄土教が地方に伝播していく時代であり,浄土教の大寺院が地方でどんどん建てられていた。その代表例が平泉の中尊寺と,いわき市白水の願成寺,大分の富貴寺である。また一方で,武家政権が自らの地元に守護神を祀る神社を建てていた時期でもあり,こちらの代表例は広島の厳島神社,鎌倉の鶴岡八幡宮がある。しかし,投入堂は密教系の天台宗であり(修験道としての祭神は蔵王権現),武家の所縁も無い。つまり,どちらの流れにも属さないのである。また,この時代の三佛寺は僧兵が多く居住し,大山と争っていたという記録は残っているようだが,では僧兵が修験道を極めていたかというと,その関連性も薄い。そのせいで,高校日本史の資料集には必ず載っている寺院の一つである一方で,教えるのが難しい寺院でもある。まだまだ謎の多い寺院なので,誰か研究してください。

なお,純粋な建築史の観点で言えば,特別珍しくもなければ新しくもない。懸造りと呼ばれる様式で,平安の初期からある。懸造りの代表例は京都の清水寺,と言えば大多数の人がピンと来るのではないか。


この日は投入堂に登山してほとんど1日が終わった感じ。鳥取市内のホテルで宿泊。


11/8 AM
[鳥取砂丘]

元々旅程で重視されておらず,行くか行かまいか自体迷っていたが,「鳥取に行って砂丘に行かないというのも」ということから,スタンプラリーの感覚で行った。「見どころがわからないけど,下手したら1時間かからないのでは」という話を同行者としていたのだが,実際の滞在時間はわずか30分であった。感想としては,行くだけ損なので行かなくていい。鳥取県はなんでこれプッシュしてんの? 他の観光資源が皆無ならわかるが,大山もあるし投入堂もあるでしょ? なにせこの砂丘は狭い。長さ16km,幅2kmと説明されているが,幅はともかく長さは完全に詐欺で,森林が貫入していて途切れている。見渡す限り砂しかない情景をそれなりに期待していたが,どうがんばっても視界に海が入ってしまうどころか,視界に森林が入ってしまうのは砂丘として失格だろう。



砂丘に草生えてて草生える。悪意ある角度からの写真と思われるかもしれないが,実際のところ海を映さないような角度で写真を撮るとどうしてもこういうことになる。もう20度くらい右を向くともう海である。逆に海を入れると単なる砂浜にしか見えない(丘にならない)。ちゃんと「砂丘」に見える写真には,写真家の強い努力があるのだなぁというのが,砂丘の最大の成果かもしれない。

なお,鳥取砂丘は“一般人が入れる”日本最大の砂丘であり,真の日本一は青森の猿ヶ森砂丘(面積が鳥取砂丘の3倍)である。こちらは防衛省(防衛装備庁)の弾道試験場になっているので一般人は立ち入ることができない。もっとも,公開されたところでアクセスが悪すぎて鳥取砂丘の優位は揺るがないと思われる。なにせ鳥取砂丘,アクセスは抜群に良い。鳥取市内からバスで20分で,しかもかなりの本数のバスが出ている。天気が良ければ十分自転車圏内だし,最悪タクシーでも行ける。

その鳥取砂丘も近年緑化が進んでおり,平成3年以降は緑化防止対策が取られている。これは単純に観光資源がなくなるからということもあるが,砂漠性ではない雑草が生えてしまうと,砂丘独特の植物が生存競争に負けて絶滅してしまうという事情がある。一方で,そうした砂丘独特の植物を使った砂漠の緑化に関する研究も行われているそうだ。世界の緑化のために鳥取砂丘は犠牲にしたほうがいいんじゃないかな。世界の環境問題のために研究に全面的に活かそうぜ。


というわけで,残念な気分に苛まれつつ,早々に特急まつかぜに乗って出雲市へ。後編に続く。  
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2015年08月17日

新潟・草津旅行記

11〜13日に新潟・草津に旅行したので,記録を残しておく。

11日:東京→新潟
旅行の準備を持ったまま出社して午前中は仕事。午後を有休にして,同行者(頬付隙間坊主)の車に職場近くから拾ってもらう。関越自動車道に乗って一路新潟へ。11日はほぼ移動しただけであった。なお,初日の旅行先が新潟になった理由は「ちょうどいい距離のドライブ先」であり「旧斉藤家別邸が話題になっていたから」の二点しかなく,深い理由はない。

関越自動車道で思ったのは,埼玉県の西半分は本当にど田舎であること。群馬県の山々の風景は意外と富山県や石川県あたりの風景を思い起こさせてやや感動したこと(私の心の原風景)。反面,新潟県は妙高を抜けると早々に360度一面水田になってしまい,これはこれで趣深かったものの若干意外であったこと。関越トンネルは本当に長かったこと,あたりであろうか。

あとは,川越の芋納豆が大変に美味かった(高坂SA)。しかし,甘納豆の時点で納豆とは無関係なところ,材料が豆ですらない芋納豆が納豆を名乗るのは経緯を知らないと意味不明ではという疑問が拭えない。元は「甘納糖」であったが語感の近さと原材料の共通から「甘納豆」になり,原材料が大豆以外の豆(えんどう豆や小豆)が使われるようになったことから「甘納豆」が製法名に転化,その製法を芋に適用されて「芋納豆」になったらしい。ググると川越の老舗には「芋納糖」を名乗る店もあるようだが,字面の問題から言えばそちらのほうが正しい。

長岡JCTで北陸道に変わり,新潟中央ICで降りて,17時頃に新潟市着。この日の観光は無理ということで早々に旅館にチェックインして,夕飯を探しに。事前の調査で古町の辺りに飲み屋が固まっているとわかっていたので,そこら辺に。知らなかったのだが,こういう中核都市で駅前と繁華街が別個に存在しているというのは珍しいと思う。また,歩いてみて思ったのだが,人口が80万人もある都市にしては全体的に平べったく,贅沢な土地の使い方をしている印象を受けた。他のこういう都市はもうちょっと雑然としていると思う。富山や金沢もそうだから,雪のせいというわけでもないだろう。しいて言えば越後平野がかなり広いので,都市機能を密集させる必要がなかったということなのかもしれない。翌日の観光で,そもそも新潟市は他の日本海側の都市と比べて雪が降らず20cmくらいまでしか積もらないと聞いた(佐渡ヶ島が盾になっているため)。

結局,とある居酒屋でのどぐろ,のっぺい等を食した。



のどぐろはめちゃくちゃ美味しかった。また日本海側に行った際には必ず食したい。あとわっぱ飯も良かった。日本酒は言うまでもなし。適度に酔って就寝。


12日:新潟→草津
午前中は新潟市内観光。まずは目的の旧斉藤家別邸。ここの建物と日本庭園は本当に良かった。あまり深い動機もなく行ってみたが,ここは行く価値がある庭園だと思う。建物や庭園は解説員の人が常駐していて,かなり丁寧に説明してくれる。その意味で,特に日本庭園に慣れてない人は行く価値が高いと思う。



「庭園と建物の一体化」をテーマにした建築物であり,その一点に創意工夫がふんだんに込められている。建物の側はどの部屋であってもいかに鑑賞者を邪魔しないかに注意が払われ,逆に庭園の側は建物の中から見られることを最優先に構成されていた。たとえばこの写真は入ってすぐの大広間から撮られたものだが,不安になるくらい柱が少ない。典型的な数寄屋造り・書院造りの建物ではあるが,建てられたのはほぼちょうど100年前の1918年であり,直接目に見えないところではかなり近代的な造りになっている。つぶやいた人も書いているが,だからこういう無茶が出来たのだろう。

逆に庭園の側は建物すぐそばの大池を超えるとすぐに丘が迫っており,建物の屋根もあって眼前すべてが樹木で埋まるように設計されている。この丘は築山ではなく新潟砂丘の一部だそうで,かなり驚いた。実際に登ってみると,確かに樹木が生えていないところはあからさまに海岸の砂浜になっていておもしろかった。これは作庭するの苦労しただろうと思われるが,建物内に展示されていたこの地域の歴史を読むと,海岸に向かって急激に盛り上がる砂丘を利用し,松を植えて防砂林にしつつ鑑賞用にもする作庭は江戸時代後期からすでに行われていたそうだ。考えることは昔の人も同じであった。自然風景を見立てるための築山を見立てて自然の砂丘を用いたのだから相当なねじれである。枯山水よりひどい。

なお,旧斉藤家別邸は文字通り斉藤家の所有であり,別荘・来賓用として用いていた。しかし斉藤家は戦後の農地開放と当主の死亡による相続税に耐え切れず売却,加賀田家という建設会社が購入。この加賀田家も維持に苦しんだ末2005年に売却,購入者が取り壊そうとしたところ反対運動が盛り上がり,2009年に市が買い取って補修,2012年に観光名所としてオープンした。つまりオープンしたのはかなり最近である。これについては新潟市の英断に感謝するしかない。上手く宣伝していけば本当に新潟市随一の観光名所にできると思う。

もう一箇所行ったのが,旧斉藤家別邸のお向かいの北方文化博物館新潟分館。建物を建てた人は油田で一発当てた人だそうで,大変に新潟らしい話である。こちらも同じような明治末・大正時代頃の建物だが,一言で言えば「センスの良い田舎のおばあちゃんち」で,昭和の中期まではこういう豪邸が地方のどこでもあったんだろうなと思う。風通しの良い畳敷きの広い部屋から板葺きの縁側に続き,そこから直接庭に出られる。庭で小うるさく鳴くセミを聞きながら,スイカでもかじりたくなる(売ってないのが残念)。たまに野良猫が縁側で寝ているそうだが,それって完璧なのでは(建物の保存上はまずいが)。



受付の方曰く「雰囲気を出すためにわざとというわけではなく,壊れるまで使っているだけ」とのことだが,調度品もいい感じに昭和中期・後期で,この写真にあるような扇風機に,20年は経ってそうな冷蔵庫やコンロとこうした邸宅系観光地としては珍しいほど生活感にあふれた状態であった。あまりにノスタルジーあふれる雰囲気に思ったよりも長居してしまった。

この二つを見て,昼飯。へぎそばを食べたかったが上手く見つからず。これも次に来た時の宿題にとっておこう。そうして新潟を離脱して草津温泉へ。途中志賀高原に立ち寄る。ここのドライブは非常に良かった。

志賀高原

全然知らなかったが,国道最高地点(2172m)だったらしい。白根山を通るルートを予定していたが,警戒レベルの都合上午後17時以降は閉鎖されていて,通りがかったのがちょうど17時5分であったがために通れず,迂回。これはちょっと残念。18時半頃に草津温泉に到着。硫黄の匂いが立ち込めているのを嗅ぐと,温泉地に来た感覚が強くなってよい。標高1200m付近なだけあって,半袖Tシャツだとかなり涼しかった,というか寒かった。そういえば典型的な避暑地に泊まるのは人生で初めてになるような気がするが,避暑地なめてました。ペンションブルーベルというところに泊まったが,経営者のおじさんのジョークがユーモアあっておもしろく,夕飯はおいしかったし,風呂は当然温泉,2匹いる猫はモフり放題で欠点が見当たらない(しいて言うと壁は薄い,隣の部屋のいびきが聞こえた)。ここはお勧め。


13日:草津→東京
午前中は草津観光。湯畑を見学。



湯畑に「草津に歩みし100人」と題して,草津温泉を訪れた有名人100人が挙げられた表札があったのだが,

草津温泉

この絵面はちょっとシュール過ぎるのでは。大和武尊は実在が怪しいし,入りに来たのかも怪しい。その意味でルシウス・モデストゥスがいるのはいい緩衝材なのかもしれない。言うまでもないが,草津温泉は『テルマエ・ロマエ2』の舞台となった。その他の人物は歴代の首相や種田山頭火などの詩人,岡本太郎などの芸術家など。その後は西の河原温泉に入って,温泉まんじゅうを買う。12時頃に離脱し,東京へ。榛名山を通って「榛名さんは本当に大丈夫なんですか?」と言うお約束,イニシャルDの聖地巡礼をこなして(ドリフトはしてません),17時頃に帰宅。翌日からのコミケに備えてのんびり過ごした。
  
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2014年12月03日

ドイツ・フランス・ベルギー旅行記(項目別雑感)

後編から。以下,パリをdisり続ける記事。


○パリメトロについてのアレコレ
パリについての印象を考えた際,悪い部分が凝縮されているのがパリ・メトロだということに気がついた。というわけで,パリ・メトロのダメな点について列挙し,パリへの悪口の代わりとしておく。
・旅行者にはスリと詐欺師が寄ってくる
→ まあ何よりこれ。治安が悪すぎる。結果的に被害は4人全員ゼロだったが,あまりにも怪しく寄ってくる奴の多さに終始警戒心MAXであった。朝方と日中はマシ,というか一般市民も多く利用しているわけで,さすがにそうした視線がある場では犯行も難しいらしい。この辺は大多数の善良なパリ市民の皆様に感謝と言ったところか。一方,夕方と夜は正直駅自体に近寄りたくない。
→ やはり自国のぬるま湯っぷりに浸かっている日本人の被害者は突出して多いらしく,わざわざ日本語でスリ注意のアナウンスがあった。
→ 特に詐欺師は大変に印象的なエピソードがあるので紹介しておく。我々が切符を買おうとしていたところ,突然中東系のカップル二人が近づいてきて「私はボランティアだ。フランス語の読めないお前らに代わって便利な切符を買ってやろう」と英語で言い,自分のクレカで高額な切符を勝手に人数分購入。その上で「これは私がポケットマネーで買ってやったんだ,お前ら買い取れ」と迫ってくる。が,どう考えても怪しい以前に,仮に正当なボランティアだとしても我々の行動範囲から言ってそんなチケット不要で,とどめに彼がクレカをかざした時に券売機がinvalidと表示されたのをメンバーの二人ほどが見逃しておらず,「申し訳ないが,一切信用できない。信用してくれというなら,そこにあるインフォメーションカウンターまで一緒に来てくれないか」と言うと,あっさり全力で逃亡した。そもそもinvalidなクレカなのに発券される券売機自体が完全におかしいわけで,パリ・メトロ自体が詐欺の片棒をかついでいる印象しかない。あ,インフォメーションカウンターの職員はめちゃくちゃ親切だったのが唯一好感を持てたポイントだったが,いや機械の方を直せよ。あれ,買い取って自動改札を通ろうとしたらどうなってたんかな。

・構内が狭くて暗い
→ 治安の悪さに確実に拍車をかけているのがこれ。なんであんなに照明を落としているのか。無駄に地球環境に配慮しているのか,よほど金がないのか。構内でカメラ出すのが怖く,スマホを出すのも必要最小限にしていたため写真がないが,どこの駅もびっくりするほど暗くて狭い。というか,地下鉄の入り口の階段からして暗い。治安以前に単純に怖いですあれ。
→ なお,照明の暗さに関しては地上でも大差なく,夜になるとこれまたびっくりするくらい暗くなる。誰も通ってなかろうと全力で街灯を照らし続ける日本の行政は防犯上間違ってなかったんだなと認識できるので良い経験だった。

・いくつかの大きい駅はダンジョンと化している&アンチバリアフリー
→ 狭くて暗いのに加えて,大きな規模の駅は完全に迷路と化している。新宿駅や渋谷駅のようにいくつかの私鉄が乗り入れているというわけではないので,ああいった複雑さは無い。が,大手町や赤坂見附と比べるなら,明らかにシャトレ駅やモンパルナス駅の方が広くてわかりづらい。特にシャトレ駅は一回壊してく作りなおした方がいいレベルの設計ミス。看板はホームの場所と出口を示す看板だけはそれなりにあるものの,トイレの位置やインフォメーションカウンターの位置は極めてわかりづらく,構内全域の地図はほとんど無い。ホームとホームの間がかなり歩かされ,乗り換えは不便。ちなみに,構内が狭く感じられる原因にもなっていると思うが,壁や天井が舗装されておらず岩がむき出しなのもダンジョン感を増している。なんというか,迷宮だとかダンジョンだとかdisりまくってごめんなさい。東京メトロさん,あんたはマシだった。
→ もうひとつ書いておくべきことととして,徹底したバリアの数々。エレベーターは? 傾斜の緩い坂道は? せめてエスカレーターは? という。全部階段で容赦がない。構内で全く車椅子を見かけなかったが,そりゃそうだよな。車椅子は地下鉄に乗るなと。各種完備な上に,車椅子の人が頼めば職員がやってきて乗車補助を行うメトロさんはやっぱり神なのでは。

値段が高い
→ 運賃はどれだけ長く乗っても1.7ユーロ。150円で計算すると大体250円くらいになる。メトロなら都区内の端から端まで移動できる最高額に相当するが,パリ・メトロはたとえ1駅移動でも1.7ユーロである。しかも,パリ・メトロは駅間距離が非常に短く,ものの1分で次の駅に着く。東京メトロの1駅分がパリ・メトロの2・3駅分に相当する。それを前提にパリ・メトロの路線図を見るとわかるのだが,パリという都市は案外コンパクトで,観光地もモンマルトルの丘を除けば中心部に密集しているので,究極全部歩いてもそんなに時間がかからないと思う。地下よりも地上のほうが確実に安全だし。


○治安
体感上の治安を行った都市の中で並べてみると
良 ストラスブール=ハイデルベルク>ケルン>>フランクフルト>>ブリュッセル>パリ 悪
という感じ。パリはダメですほんと。言うまでもないことかもしれないが,パリやブリュッセルでも朝方・日中は安全。ただし,夕方・夜とのギャップは東京感覚でいるとかなり驚くと思われる。一気に変貌する。街灯は少なく,都心部でもかなり暗い。


○物価
基本的に東京よりも高い。何が東京が世界で一番物価が高いんだか。欧米の調査会社が行っている物価調査は全くあてにならない。さらに言えば,ここ2,3ヶ月の円安は関係ない。なぜなら,脳内で1ユーロを120円くらいで計算してもまだなお高いからである。ただ,値段が高い原因は値段の付け方が超絶アバウトだからではないか,という疑念も。パリのある商店で水を買おうとしたところ,500mlでも750mlでも1Lでも全部「1.6ユーロ」だった。いくらなんでもそれは。あと,田舎ほど安い説があり,ストラスブールの物価はやや安かった。

ああ,そういえばドイツはデポジット税がある。表示価格から0.25ユーロほど上乗せで取られる。


○食事・水
日本人が忘れがちなのが水。かく言う私も着いてから「そういえば水道水飲めないわ」ということに気づいた。で,ペットボトルの水代がけっこうばかにならない金額でかかるので注意しよう。多少荷物になろうとも,安く買えるところがあればどさっと買ってしまった方が良い。どうせ1日500ml〜1Lくらいは消費するわけだから。炭酸が苦手な人はさらに注意を要する。普通に買うと炭酸になるし,炭酸の方が安い。表記をよく見て買おう。ドイツ語なら「ohne Kohlensaure」とか書いてあるのがあるはずで,これなら炭酸抜き(ohneがwithoutということだけ覚えておけば,この買物のみならずいろいろ役に立つはず)。

食事は,ドイツなら量に気をつけるべし。大体日本人換算すると1人前は1.5〜2人前になる。特に,どこに行っても尋常じゃないザワークラウトが出ることだけはドイツで閉口した。よほど大食いに自信がある人がいない限り,ドイツ人のウェイターさんに怪訝な顔をされようとも,人数分注文することはない。「東洋人は胃が小さいだよ。お前らが食い過ぎなんだよ」と堂々としていればよい。味については,通説と異なりドイツ料理は美味しい。決してまずくない。おそらくあの風評は,ひとえに膨大なザワークラウトとソーセージに責められた経験から出てくるものだと思われる。ドイツ人と同じペースでその2つだけ食わせられ続ければ,そりゃ「単調でまずい」という印象にもなろう。

フランスはそれに比べると常識的な量で出てくる。しかし,今度は物価の高さが我々を阻む。パリで安くて美味いものを食べようと思うなら,フランス語がある程度読めるか,きっちり綿密に調べてからいったほうがよい。ここは我々の旅行の誤算で,「パリだしどこでも英語が通じるだろう」「フランス料理の本場だし,どこ入ってもある程度美味いだろう」という感覚で行ったら,全く通用しなかった。結果的にハズレをつかまされたり,パリでイタリアンを食う羽目になったりし,ちょっと調べてから行っても英語メニューがなくて挫折するなど,割と散々であった。そうでなければ中途半端にケチってはダメで,昼飯で20ユーロ,夕飯で35ユーロラインを割ったら割と博打になる,というのを今回の三日間で学んだ。

旅行を通してのうまかったものランキングベスト3。
1位:ケルンのライニッシャーザワーブラーテン
2位:ストラスブールの夕食で出た,鶏肉の白ワイン煮込み
3位:パリ,オルセー美術館で食べた魚介のシチュー
この3つは本気で美味かった。番外編としてはハイデルベルクで食べたカリーヴルストを挙げておく。まあカリーヴルストはドイツのどこでも食べられると思うけど。


○言語
ドイツ・フランス・ベルギーの3つにいる分には英語だけで大して困らない……と言いたいところだが,やっぱりちょっと困る気がする。単語が少し分かるだけでも利便性が大きく違ったのもまた事実だった。空港や駅は英語が併記されているし,レストランでは英語メニューがある店もそれなりにあるものの,やはり原語の方が情報量が圧倒的に多い。大学卒業してからほとんど触れていなかった私の超にわかドイツ語でさえ,フランクフルトやハイデルベルクで電車移動する際に役に立ったのだから,ちゃんと読めれば相当違うと思う。

意外と重要なのが発音で,当たり前だが固有名詞は英語読みすると全く通じない。駅名や施設名ならググるとカタカナで出てくることがあるし,究極グーグル先生に発音していただくという手段も取れなくはないものの,それらは時間が掛かり過ぎるし,解決しないこともある。全く勉強したことのない言語でも,なんとなくの発音だけ頭に入れていくと割とスムーズに旅行できると思う。

総合するに,覚えていくべきは現地の言語の「単語」であって挨拶や定型句等ではないというのが今回の経験である。よくよく考えたらEnglish menu available?やWhere is the Paris'Ost station? レベルの英語なら向こうの一般市民も理解できるわけで,わざわざドイツ語やフランス語で頑張る必要はどこにも無いのである。それよりも,上記で出したようなohne KohlensaureであったりTischであったり,AusgangであったりAbfahrtであったりといった単語の意味とカタカナ発音をしっかり覚えていった方がよほど役に立つ。


○お金
払えるところはクレジットカードで支払うのがおそらく一番賢い。が,私と同じような現金主義という方へ。改めて書くが,空港のレートは良くないというのが一般的な評価だが,実は街中の両替でも全然変わらない。ぶっちゃけて言えば,おそらく成田空港が最も楽かつそれなりのレートで,次点が現地の空港ではないかと思う。パリやフランクフルトレベルの都市なら両替自体はすぐに見つかるが,すぐに見つかるような場所は大体レートが悪い。ぱっと見よく見えてもごそっと手数料で持っていかれる。探せばレートの良い店もあるのかもしれないが,私がパリの街中で見かけた十数軒だと,どこも大して変わらなかった。そして,元々そういう店を知っているなら話は別だが,知らないなり今からググって探すなりというと手間でしかない。どこの誰だよ,両替するなら現地の街中とかいう俗説を広めた奴は。次から私も成田空港で両替してから行きます。あと極力クレカ使います。現金主義はやめよう。


○Wi-Fi
今回4人旅行で2つWi-Fiをレンタルして導入した。かなり役に立ったものの,はっきり言うとあまりつながらない。文字情報はいいが,画像が入った瞬間にダウンロードが止まる。今時文字だけで構成されているページなんてほとんどないので,レンタルWi-Fiだけでなんとかしようというのは,万全にネットをしたいなら難しいかも。おとなしく現地でSIMカードを買いましょう。実際,一人耐えかねてストラスブールのOrange(フランスの最大手携帯電話キャリア)で買ってた。そして彼のスマホで使ったGoogle mapが我々の旅を何度か救うことになったので,ネット環境は重要。

なお,ホテルには今時どこでもフリーのWi-Fiがあって,日本から持っていったレンタルWi-Fiでなくともつなげた。が,通信速度は同じで重い。

  
Posted by dg_law at 07:00Comments(0)TrackBack(0)